こんな夢を見た。
ぼくは小学校の教室にいて、生徒用の席に座っている。自分以外には誰もいないようだ。ああ、懐かしいなあ、という気持ちで心が一杯になった。
ふと教室の後ろを見ると、冬休みの宿題だったらしい書き初めが壁一面に貼り出されている。すでに先生の朱墨、つまりあのオレンジ色の墨による添削も済んでいる。大体の作品には大きなぐるぐるマルが施されていた。
さて、そこまでは良い。これは日本全国の小学校の、冬休み明けのありふれた風景であろう。
しかしよく見ると、生徒たちが書いている文章、というか熟語というか、半紙に書き連ねている文字列というか、とにかくその内容が異様なのである。
一番多いのが「実存」。
えええ、しょ、小学生がそんな言葉使うようになったんかいなっ。
「この頃さとしくん元気ないね」
「うん、さとしちゃん最近あんまり実存してないみたい」
とかいう、意味不明な会話をしているんだろうか。
ほかにも「物自体」だとか「超越論的還元」だとかドイツ観念論哲学用語のオンパレード。全体の3分の2はこの手の漢字が書かれている。そうか、日本もついにここまで来たか、と思わず変な感心をしてしまう。先生もドイツ哲学びいきらしく、こういった言葉を書いてさえ入れば無条件でぐるぐるマルがなされている。
また、「われ思う、故にわれあり」とか「神は死んだ」とか「万国の労働者よ、団結せよ」とかいう文句も、ちらほら見られる。しかしこれらはあまり歓迎されないらしく、先生はおざなりな一重マルを付けている。きっとこの先生は、宗教心の篤い・アカ嫌いのドイツ観念論主義者なのであろう。
しかし、ここまでもまだ良い。きっとここは京大文学部哲学科付属小学校の一クラスなのであろう、と考えれば納得がいく。
が、さらによく見ると、これらのまじめな書き初めの中に一部変なものが混じっているのである。
まず、すぐに目につくのが「正義と所有」と書いてある作品。何の変哲もない熟語の組み合わせであり、全く問題がないようであるが、半紙の左下隅に哲学者の似顔絵が小さく書いてある。これが冗談を解さないドイツ観念論主義者の逆鱗に触れたらしく、先生は「ふざけるな」と朱筆で書いた後、さらに、半紙いっぱいに大きな「ばってん」をしている。朱墨でばってんがなされた書き初めなんてものを見るのはこれが初めてではなかろうか。
その右隣に、「汝の格率が、普遍的な立法の原理となるように行為せよ」というやや長めの文を、バランス良く上手に書いた作品がある。これも全く問題なさそうであるが、自分の名前を書くべきところに、名前の代わりに小さな文字で「関倫はもうカンリンして」などというわけのわからないことが書いてある。これに激怒したであろう先生は、「甘えるな」と書いた後に、やはり大きく「ばってん」をしている。
さらに教室の後ろの壁の左下隅っこの方に仲良く「ばってん」されている二枚の書き初めがある。一方は「ざ・べ」と書かれていて、他方は「火鬼那愚理」などと書かれている。先生は両方の作品に、「宣伝禁止。そもそもそんなことしてる暇があったら論文を一本でも多く書け」と強い調子で書き込んでいる。いったい何のことであろうか、ぼくにはちっともわからない。
…ぼくは夢のなかで考えた。それにしてもなんちゅう生徒たちだ。彼らはきっとこのクラスの落ちこぼれ組であるに違いない。そしておそらく、こういうことを書く生徒たちが大きくなると、純哲や西哲史に入れてもらえず、泣く泣く倫理学などというものを専攻するはめになる大学生に育つのであろう、と。
さてこのように、話がだんだんやばい展開になってきたところで残念ながら目が覚めてしまった。あまりにも奇妙な夢だったので、起きてすぐにコンピュータに向かってこうして書き始めたわけである。まだ他にもおかしな作品がいくつかあった気がしたのだが、何せ夢の中のことなので完全には思い出せない。仕方あるまい。
*なお、この夢には特に深い意味はない。誓ってありません。勝手に夢判断して、「児玉はだれそれに対して性的欲望を持っている」とかなんとか邪推したりしないようにお願いしたい。