新潟県中越地震の被災地(小千谷市)より

                     




 
                  新潟アンギオ画像研究会
                                  陣内 正昭 (厚生連刈羽郡総合病院)

 私の住まいは、今や地震で全国的に有名になった、かの小千谷市である。それまでこの“小千谷”を“おぢや”と読んでくれる人は少なかったと思う。新潟県のほぼ中央に位置している小千谷市は稀に錦鯉でマスコミに載る事はあっても、それ以外は皆無に等しい。それでも新潟県内では蕎麦所として、また闘牛や小千谷縮で知られている程度でメジャーな所とは程遠い。そのせいか、人情深い平和で素朴な人々が住む人口5万前後の小さな田舎街である。そんな街に何の予告も無く、十月二十三日(土曜日)夕飯時の六時少し前、突然大きな地震が襲い、人々を恐怖と不安のどん底に陥れてしまった。

 当然ながら過去に経験したことの無い震度7近い縦揺れが3回、その後大きな横揺れが次々と起こりギブアップを要求するかの如く激震が襲ってきた。一瞬あまりの揺れのすごさに何事が起こったのか分からず不覚にも頭の中が真っ白になり、地震だと解かるのにどれくらいかかっただろうか。                           

 家の柱という柱は不気味な音を立て、床が大きく動き、ガラスや食器が落ちて割れる音がする。壁が異様な音をたててひび割れる。そんな中、“大丈夫か”と声を掛け合い、家の中でも比較的頑丈な場所に集まった。その時女房は2階で洗濯物の手入れ中、三歳になる孫は今までに無い奇声で泣き、恐怖を伝えようと必死である。しかし、直ぐに外に避難するのは、危険と判断し(過去に高校二年の時に新潟地震を経験しての教訓上)しばらく経って地震が遠のくのを待ち、外に非難した。隣の瓦屋根の瓦が無残な姿で地面に落ちて散在している。地揺れの中慌てて動いていたら瓦が頭に当たり死んだかも知れないと思うと今でもゾッとして恐ろしくなる。

 家の前の道路は波打ち、陥没していき、アスファルトが揺れの摩擦で、煙を上げながら火を噴いている。ブロック塀や石垣は道路に倒れ大きな庭石が転がり落ちている。直ぐに停電し、楽しいはずの家族団欒と週末が地獄絵巻のような修羅場と化し、真っ暗な不安な夜となった。

 薄気味悪い暗闇の中、皮肉にも星だけはスポットライトを浴びせるが如く光り、澄み切って降り注いでいた。

すぐに家の裏の空地を思い出し、周囲に何もない安全な所に車を移動して家族全員、着の身着のままで、車の中での生活となった。その間にも大きな余震頻発、真っ暗になった街は恐怖さえ漂う。唯一のラジオからの情報を耳にしながら夜を過ごした。外がぼんやり明るくなるにつれて初めて周囲の状況・状態が解かった時、それは想像を絶するすさまじいものであり、生まれ育った私の故郷がそこにあった。山陰は変わり地肌が出ている。そのサマは、それは言葉に表せないほどの大惨事で絶句するしかなかった。

マンホールが一メートルも盛り上がり、到る所で道路に亀裂や陥没を生じ、また平坦な土地も段差が生じている。電柱は倒れ、家が倒壊している地域も多く、様子を見るために出かけようとしても道路という道路、道という道はアスファルトで固めた舗装道路の面影は微塵も無い。

情報が皆無に等しい中、頭の中では、山が崩れる、ヤマガ動いている。車ごとの生き埋めもあるらしい。そして毎年山菜取りに出かける山古志村は…、棚田の写真をいつも撮りに行く東山は…現実と想像が入り乱れる。電気の無い生活では想像のみである。なにもかも無事で居て欲しいそれだけを祈るだけである。

 そして、直ぐに当地に対しても全国から支援の手が差し伸べられた。消防隊、救急車、工作車、自衛隊、給水車、警察隊などが応援に来て頂き、道路はその救援車を最優先、救急車とレスキュー隊のサイレンの音が朝から夜まで鳴り響き、緊急時の赤いランプがあちこちで点滅し異様な光景をかもしだしている。空でも無数のヘリコプターが衝突するかの如く唸りを上げて飛んでいた。救援隊の皆様方、夜・昼寝ずに支援頂き本当に有難う御座いました。任務を終えて赤ランプを点灯し、サイレンを鳴らしながら地元(秋田、茨城そして神奈川等々)に帰る支援隊を見送りつつ、余りの嬉しさと感謝の念で胸がいっぱいに成った。

 その後、余震の続く中、車中での生活を止め、指定された町内の避難場所である保育所へ移りそこで一週間過ごさせて頂いた。避難所生活もストレスの連続であったが、それなりに仲間意識と協力の中での共同生活は有意義でもあり、人間の本来持っている性格、人生観等はこの様な時ほど出るもので、人生の勉強もさせて頂いた。私個人としても町内会の役員をしており、自らの家や家族の面倒よりもまず町内・近所の人達の世話を優先しての復興であり、家族一丸となってさらに絆を増したような気がする。

 避難所での生活は、次々と来る救援物資等で食する事に関しては、充分であり、有り難かった。只、ライフラインが全く無い状態での生活は言葉を絶する。特にトイレは悲惨であった。(女性にとってはなおさらで…。)皆、不平不満はあるものの、励まし合いながらお互いに協力をして、炊き出しをしながら良く頑張った。皆な表彰ものである。逆に町内の協調と結束力はさらに深まった。

 私は勤務している病院(自宅より約25km離れているだろうか、地震による大きな打撃もなく一応は日常診療が可能)には交通事情も重なり行くことができず一週間ほど休ませて頂いた。当院のスタッフは理解してくれて少ない人数ながら良く頑張ってくれた。有難うの感謝の気持ちでいっぱいです。

原稿依頼されて記している今は、地震後3週間が経過しているが、我が家の方はライフラインがすべて元に戻り、ひび割れのため風呂に入れないなど不自由ながらも少しずつ前の生活に戻りつつある。いまだに家に帰れずテント生活を強いられている人達を見るとき、心が痛む。そして頑張れ、頑張れ、負けるんじゃないぞ! と心ではいつも叫び続けている。

被災後、悪友の吉村君(新潟大学病院)から毎日の様に電話をもらって励まされた。早く来たいと言ってはいるものの、当地への交通手段がままならずこちらから拒否していた。(帰れなくなる可能性があるため)

先日(被災3週間目)、吉村君、小林君(厚生連上越病院)牛木君(糸魚川姫川病院)今井さん(吉村君の友人)が後片付けや、冬囲い(豪雪地帯である中越地方は、来る冬に向け、庭の木が倒れないように周りを木や板で囲う)など彼等は遠方にも関わらず色々と手伝いに来てくれて炊き出しまでして頂き、本当に有り難かった。家族はもちろん近所の人々も喜んでくれた。特にガレージで作ってくれた、熱いおしること豚汁そしておでんは格別の味であった。良き友を持ち幸せをつくづく感じた一時でもあった。

 孫はまだ少しの揺れに敏感となり、“トラウマ”に成らなければ良いがと思っている。

天災はいつ襲って来るのか見当もつかないが、“備えあれば憂い無し”と昔から言われている通り、身をもって体験すると全くその通りで避難場所、非常持出し物そして連絡方法などの地震対策をして置く事も大切かと思う。

 家族全員無事で居たことを感謝し、救援頂いた全国の皆様、ボランテアに来て頂いた全国の方々、復興に力を注いで頂き、市民にパワーを与えて頂いた救援隊、工事関係者、災害に携わった全ての方々にこの紙面を借りて熱く、熱く感謝致します。本当に、本当に有難う御座いました

 小千谷の市民は、そうした皆様の行動力、優しさ、慈悲の心を一生涯忘れない事と思います。復興の力を与えて頂き有難う。被災に負けず一歩ずつ復興して行こうと思います。

 

頑張う小千谷!

そして、友よ、遠方より駆けつけてくれて有難う。 (2004.11.23)