新潟アンギオ画像研究会
折笠康宏(厚生連三条総合病院)
私は新潟県長岡市在住の一放射線技師です。今回の新潟中越地震には本当にまいりました。10月23日最初の大きな地震のあった時、私は大阪の放射線技術学会からの帰りの飛行機の中にいました。もうすぐ新潟空港に着陸という時に機内放送で中越を中心とした震度6強の地震があり着陸ができないと案内があり、新潟市上空を1時間ほど旋回を繰り返し、待たされました。機内でのラジオ放送で大変なことになっていると知り、家族のことが心配で気が気ではありませんでした。それでもようやく着陸でき、何とか新潟駅までは行くことができましたが、そこから先、住居のある長岡市まで、新幹線、在来線、高速道路、あげくは一般国道まですべて遮断され、なすすべがありませんでした。家族に連絡をとりたくても携帯電話、公衆電話もパンク状態で何十回いや何百回かけたでしょうか。全くつながりません。いらだたしさとせつなさ、そしてわびしさがつのるばかりでした。二度とあんな思いはしたくありません。駅前で2、3時間したころ幸運にも県内にいる身内から携帯に連絡が入り、車で迎えにきてもらえることになりました。その車で長岡に向かいましたが、一般国道は通行止めということで、通れそうな裏道をさがしながら普段の道のりなら1時間のところ3時間以上もかかりました。長岡に近づくにつれて道は陥没や亀裂がひどくなっていき、停電で街灯や信号機もすべてストップしており、自分の家の付近まできたころは、電柱はたおれているは、マンホールは飛び出しているはで、大変なことがおきたことを実感しました。それでも夜中にようやく自宅に辿り着き家族が避難所に行っていることを知り、ようやく避難所で家族に会うことができました。全身から力が抜けるくらい安堵したのを鮮明に覚えています。翌日、夜明けと同時に自宅いってみましたが、それはもう言葉には言い表せないほど、酷いものでした。部屋の中はズタズタ・メチャメチャで割れたガラスと家具などで足の踏み場もないありさまでした。しかし、幸いにも家族が全員無事で怪我もなかったことを良しとして、必死に後片付けをしました。
長岡市や小千谷市を中心とした中越地区の被害状況が徐々に明らかになってくると、私の家はまだ被害の少ない良いほうなんだということがわかりました。周辺をみても倒壊した家や半壊の家がいくつもありました。 ライフラインがダメだったことと、強い余震のため私たち家族は5日間ほど避難所で過ごしざるをえませんでした。これも二度と体験したくないほど悲惨な経験でした。食べ物の配給は極くわずかでしたし、風呂にも入れない、そしてなによりも寒かったです。本当につらい毎日でした。私たち家族は5日間ほどでしたが、2週間以上経った今でも避難所でつらい生活を強いられている人がまだまだ沢山います。その方々の身体と精神的な面が非常に心配です。
しかし、今回の地震というつらい試練の中で一つだけすばらしいと感激したことがあります。それは全国各地からの支援してくださる方々です。地震のあった翌日か翌々日には兵庫ナンバーや茨城、福島ナンバーなど数多くの他県の災害支援車がかけつけてくれて、ライフラインの復旧に全力をあげて取り組んでくれていました。石川県からの看護師さんも見かけました。全国各地からの多くのボランティアの方々が「がんばろう新潟」のワッペンを胸に一生懸命支援してくださる姿をあちこちで見ました。励ましの電話やメールもたくさんいただきました。本当に心が熱くなる思いでした。我々がどれだけ救われたことか…。でも、私たちの本当の戦いはこれからです。全国のみなさんからのあたたかい支援を励みとしてがんばっていきたいと思います。 (2004.11.07)