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2009年09月 アーカイブ

2009年09月12日

赤か黒か

先日、小児科で性別をどちらともいいがたい児が生まれ、この記事は私にとって非常にタイムリーな話題だった。


時事ドットコム:セメンヤ、性別疑惑−豪紙


今度12月に私の兄の第二子が生まれる。母は男の子なのか、女の子なのか、そわそわして落ち着かない。超音波でおちんちんが見えれば男の子、見えなければ女の子。生まれてからも性別を決める基本は同じである。


でも世の中には、外見上男だけれど、遺伝子上は女だったり、その逆だったりする人がいる。なかには遺伝子上どちらの性か決めにくかったり、男女両方の性質を持つ人もいる。
たとえば遺伝子では男なのだけれど、遺伝子が誤作動を起こして外見を女にしてしまうことがある。(性同一性障害では、脳の認識と外見が異なるが、そういった人々は外見と遺伝子の性は基本的には同一である。)
 
こういった人たちは社会的に男として育てられるのか、女として育てられるのか。
 
たとえば薬を飲むなどの介入で遺伝子上の性別として成長していくことができる場合があり、そのときは遺伝子上の性別に従うことになる。ただし生まれた時点で生殖器が別の性になっており、手術で治すことになる。多くは本人が性を意識する前に。


しかし遺伝子で男だからといって、男性として生活するには不都合が生じる場合もある。なぜなら他人が性別を判断するのは外見であり、一生を暮らしていくなかで男か女かということが問題となるのは、生殖器の働きであり、夫婦生活であり、プロスポーツのような肉体的な性差が関わる場所であり、そして自身の脳みそが認識する性別である。うまれた時点で生きていく性別の生殖器が十分に備わっていない場合、手術で治しきれず、夫婦生活が難しくなる。子供を作る問題も生じてくる。胎児期の脳形成時点で男女の別が少しでもあるとしたら、性同一性障害を発症するリスクもあるのかもしれない。


こういった点を考えた上で、社会的な性別をどちらにするのか、医学的に大まかな決まりがあり、それにそって判断していくこととなる。

 

・・・性別を誰かが「考えて決める」という事実があるということ、それが私にとってはとても衝撃であった。でもどちらかに入らなければならない「仕組み」がある以上、決めなくてはならないのだ。枠組みにあわせるということだ。

 

セメンヤ選手が800mを1分55秒で走るという偉業を18歳にして達成した事実。彼女が精巣を持っている事実。それらたくさんの事実を偏りなく知った上で、私たちは感情を抱く必要がある。
 
スポーツの世界で、男性も女性も活躍できるよう男女の別をつけることを、私は女性の立場としてそうあってほしいと思うが、ケースによっては難しいのかもしれない。

フェアプレーを保つために、そういった人たちの参加を制限するという手段をとったとき、傷付くのは他ならぬ本人であり、この方法が解決策とは思えない。
社会的性で分ける?ホルモン値で分ける?それともそもそも男女の別を取っ払う?男女区別する以上、どこかで線引きをする必要があり、それに絶対的な正解はないと思う。できることなら「参加制限」以外の方法で決め、決まった以上はそれを「フェアプレー」として受け入れる。その覚悟を参加する本人にも、それ以外の選手にも要求するという立場が貫かれればよいと思う。

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