厚生省脳死判定基準の再検討

倉持 武(松本歯科大学)

 

199710月「臓器の移植に関する法律」が施行され,200110月で4年の歳月が過ぎた。この間に17例の法的脳死判定が行われ,16名の提供者から心臓、肺、肝臓、膵腎、腎臓、小腸、角膜の移植が合わせて62件行われた。提供者たちの救命治療、脳死判定について様々な疑惑が報道されてきたが、日本移植学会理事長、日本臓器移植ネットワーク副理事長野本亀久雄氏は,2001212日のNHKラジオで、これらの疑惑が「医療ミス」ではなく「手順ミス」であるかのように話している。しかし、これらの「ミス」は、実際は医療ミスなのであり、その95%くらいのものが、厚生省脳死判定基準が特にセキュリティー・マージンの点で極めて曖昧であるため、判定医が、自分たちは患者の蘇生不能であることを判定しているのか、臓器摘出合法基準を確認しているのか、死亡を判定しているのか、わけが分からなくなってしまっていることによるのではないかと考える。報道されてきたミスといわれている事柄を検討し、厚生省脳死判定基準の構造を再検討してみたい。

ドナーについては、救命治療が尽くされたか否かが重要である。現行法は

1997617日に成立したが、参議院特別委員会はその前日附帯決議を行い、この点について特に「・・・判定については、脳低体温療法を含めあらゆる医療を施した後に行われるものであって、判定が臓器確保のために安易に行われるとの不信を生じないよう、医療不信の解消及び医療倫理の確立に努めること」と述べている。1999228日現行法施行後第一例、高知赤十字病院からのドナーとなった女性は自宅で頭痛と吐き気を訴え、同月22日、同病院に入院し、脳の左側に4×6×5cm大の血腫のある最重症のクモ膜下出血、脳内出血と診断された。脳死判定までの患者への主な処置は人工呼吸、脳圧降下剤、止血剤、高浸透圧利尿剤、昇圧剤であり、手術は行われなかった。

 

1) 手術・脳低温療法非適応 手術非適応との判断に対していくつか疑問が投げかけられた。第二例のドナーとなった慶応大学病院の患者の場合、原疾患は脳皮質下出血、クモ膜下出血であり、血腫の大きさは8×4×7pと高知の例より大きかったが、左側頭葉開頭術が施された。この手術との比較を通して、高知のドナーに関する疑念はいっそう強化されることになった。しかし、「厚生省公衆衛生審議会疾病対策部会臓器移植専門委員会」(以下、専門委員会という)「医学的評価」作業班は621日に提出した最終報告書において、明確な根拠を示すことなく、専門家にしかわからない問題であるとしたうえで、高知赤十字病院の手術非適応との判断をそのまま肯定した。同病院側はこの点について、315日の記者会見で、「われわれの施設ではこういうやり方をとっている」、「今後他の施設が臨床例を重ね、絶対有効であると判断されれば、われわれもそれにつづきたい」と述べるに止まっている。

脳低温療法については、同病院救急部長西山勤吾氏は同じ記者会見で、「脳低体温療法は現在

20例を経験している。脳挫傷への有効性は私自身経験し、いろいろな成績を収めているが、クモ膜下出血への有効性はいまひとつ確立されていないのではないかと考える。有効だったとの報告があるのも知っているが」と述べている。また、専門委員会の検証会議では、適用時間を48時間に限定しているアメリカの事例に基づいて重症患者に対する有効性が否定された。検証会議記録からは、厚生省脳死判定基準の前提条件にいう「あらゆる可能な治療法」、参議院附帯決議にいう「脳低体温療法を含めあらゆる医療」とは、「専門家」にとっては、つまるところ結果的に搬入された病院の通常の医療ということなのであることが分かる。専門委員会「医学的評価」作業班によるこのような肯定的「医学的評価」は、1968年の和田移植に対して札幌地検が発表した業務上過失致死罪に関する不起訴理由のひとつ、ドナーとなった山口義政氏への胸部外科の処置は「非合理とも非合目的的とも言い切り難い」から一歩も前進していない。明確に「非合理」かつ「非合目的」的な処置と言い切れるものでなければ、それがいかに独善的なものであっても、医師の裁量権の内とされ、専門家でなければ分からない問題として、検証会議でも問題とはされないのである。

 ちなみに、ここまで「低体温療法」と「脳低温療法」とを区別しないで用いてきた。しかし、実は、この両者は厳密な区別を必要とする術語なのである。低体温療法は、「あらかじめ、正常な脳機能の患者に対して外科手術中の低酸素や脳虚血の侵襲に対して予防的に脳の代謝を抑えることにより、低酸素供給の事態が起きても脳を守れるようにするという概念で発達した治療であり、その後、脳損傷を起こしてしまった患者にこの概念を持ち込む臨床応用が試みられたが充分成果が上げられないでいる」治療法である。これに対して、「脳低温療法は、重症脳障害を起こした患者の脳保護治療というよりも、死にかけている神経細胞の回復をはかる脳蘇生を優先させる治療である。低体温療法のように代謝を抑える治療は、死にかけている神経細胞に対してはエネルギーの欠乏によって回復を可能にするどころか、かえって死を早めてしまうため、重症脳損傷患者にとっては誤った治療法であり、

GCS(グラスゴー・コーマ・スケール)評点5以下の重症患者に対するアメリカでの試みは成果が得られていない」治療法なのである

2)

 脳波測定 脳波は7度測定された。いずれも脳死判定の準備もしくは脳死判定として行われたものである。入院翌日の23日朝、家族は「あと2時間くらいしかもたないかもしれません」と告げられ、ドナーカードとアイバンクカードを医師に示したが、この時点ではまだ脳波は一度も測定されていない。第1回測定は23日午後2,2回目が24日午前9時、いずれも脳波が検出された。3回目が25日午前9時、11時頃西山部長は平坦脳波と判断し、「臨床的脳死判定」が正午から開始された。この判定の時には脳波は側定されていない。同日午後813分、「法的脳死判定」が始まるが、脳波は「平坦でない」と判断された。これについて、専門委員会作業班は「脳波記録は高感度(32マイクロボルト/ミリ)で、左中心から頭頂、左前頭極から左側頭前部に45ヘルツ、5マイクロボルト前後で、波形が脳波に類似した波が比較的規則的に反復して出現している。これはおそらく心電図の遅い成分に由来するアーチファクトと考えられるが、この45ヘルツの波の中に本来の脳波が混在している可能性を完全には排除できない。したがって、平坦であるとは断言できない」との見解を5月に公表した。この時には、無呼吸テストが2番目に行われ、脳波測定はその後に行われた。仕切りなおしの「臨床的脳死判定」での脳波測定が26日午後1時、「法的脳死判定」が27日午前11時からと28日午前1時からであった。7度も測定されたのは3回目の測定が規定の感度に上げられていなかったことが理由の一つである。しかし、ドナーカードが示された後、主治医が西山氏に代わってからなぜこんなに頻繁に脳波を測定しなければならなかったのか、一刻も早い脳死判定をということでなかったとしたら、まったく理解に苦しむところである。

3)

無呼吸テスト 無呼吸テストは5回行われた。1回目が25日の14,2回目が午後8,3回目が26日午後2,4回目が同日午後8時そして5回目が27日午前2時である。無呼吸テストの危険性については意見が分かれている。脳死判定ということを支持する者は、マニュアル通りに行えば安全だという。これに対し、生死の境目にいる患者にとって非常に危険なもので、患者の死を決定的にしてしまう恐れがあるため、無呼吸テストは行えない、と国会で証言した林 成之氏は、「脳死診断の現場と無呼吸テスト」において「無呼吸テストはどんどんできるかというとそう簡単ではない。理由は、無呼吸テストを行ってから自発呼吸がもし出現した場合、無呼吸テストの侵襲によって蘇生の可能性をなくしてしまったのではないかという恐怖感が脳死判定者に起きる点と、それにも増して、安全な無呼吸テスト法がどれくらい保証されているのか明解な科学的な解説がなされていないことを上げることができる」と述べている。

 マニュアルどおりに行えば安全だと主張する医師たちも、無呼吸テスト中の動脈血炭酸ガス濃度の上昇による体液、血液の酸性化が患者に与える影響を懸念し、テストは判定の最後に行うものとし、テストが低血圧、不整脈、一過性心停止などを誘発する可能性のあることを認めている。このため低血圧や不整脈などの異常が現れた場合には無呼吸テストを中止すべきことが判定基準に定められているのである。さらに、高知の患者の場合、

5回の無呼吸テストはすべての回において、動脈血炭酸ガス濃度が、厚生省基準がこれを越えることは望ましくないとした上限(80mmHg)を超えており、3回目のテストの時には93.2mmHgという高さにあった。動脈血炭酸ガス濃度の上昇にともないPHは進行性に低下し、「PH<7.2になると赤血球のヘモグロビンと酸素を切り離す補因子であるジホスホグリセリン酸(DPG)が産生されなくなり、酸素吸入の効果が低下して脳の神経細胞に例え動脈血酸素分圧が高い値を示していても実際の神経細胞には充分酸素が行かなくなる(masking brain hypoxiaの)危険性が生じる」ため上限が定められているのである。5回の無呼吸テストが患者をより早い脳死へと追い込んだ可能性を否定することは難しい。

脳波検査ミスと過剰無呼吸テストが第二例以降でも繰り返されているので、この点について簡単にふれておこう。第四例に当たる千里救命救急センターのケースでも最初の法的脳死判定の際に脳波測定にまつわるミスがあった。「検査技師が脳波計の感度を通常の四倍に設定するボタンと思い込んで二倍のボタンを押していたのが原因」と説明されたが、このミスのため法的脳死判定が三回行われ、当センターでは臨床的脳死判定の際にも無呼吸テストを行うことになっているため、ここでも合計五回の無呼吸テストが行われた。第五例の駿河台日大病院のケースでも脳波測定にミスが生じた。この時にはすでに「法的脳死判定マニュアル」がそれぞれの提供指定施設に配布済みであったのだが、第一回の法的脳死判定脳波検査の際に「マニュアル」に反して「基準電極導出及び双極導出の両方で行うべきところを基準電極導出のみ」で行ってしまったのである。

4

) 薬物の影響 厚生省基準は脳死を疑われる者のうち、薬物中毒によるものを判定から除外し、また、薬物の影響下にある者に判定を行うことのないよう留意をうながし、臓器の移植に関する法律施行規則24項には、「法第64項に規定する判断に係わる判定に当たっては、中枢神経抑制薬、筋弛緩薬その他の薬物が判定に影響していないことおよび収縮期血圧が90mmHg以上であることを確認するものとする」と記されている。しかし、ここで問題になる薬物は筋弛緩剤や中枢神経抑制薬であるから、脳疾患治療に必要不可欠なものばかりである。重症の場合には大量に投与されることもある。治療と脳死判定のジレンマの解決は並大抵のことではない。高知の例ではどのようであったのだろうか。

高知赤十字病院は

3月、大阪での記者会見において患者に対する救命治療・脳死判定に関する経過表を公表した。この中で、222日午後1115分に中枢神経抑制薬ジアゼパム10ミリグラムを静注と記されている。また、524日の作業班報告書において、同日1140分に中枢神経抑制薬フェノバルビタールが100ミリグラム筋肉注射されていたことが明らかにされた。さらに621日の記者会見場でのやり取りの中で竹内作業班長は、フェノバルビタールは23日、24日の両日にも100ミリグラムずつ、午前10時頃筋肉注射されていたことを明らかにした。

唐沢秀治船橋市立医療センター脳神経外科部長によれば、筋弛緩剤、中枢神経抑制薬、瞳孔を散大させる薬、脳幹反射を抑制する薬、これらの薬と併用するとその代謝を遅らせたり、作用を強めたりするものなど、脳死判定に影響する治療薬は

30種類あるという。これに対し、1999101日発行の「法的脳死判定マニュアル」及び「臓器提供施設マニュアル」には、「可能ならば薬物の血中濃度の測定を行う」よう記されている。また、2000128日発行の「脳死下での臓器提供手続きに係わる質疑応答集」には「大量の投与(服用)ではなく通常の投与量の場合であれば、投与後24時間あけておけば問題ない事例が多いと思われる」と記されている。脳死判定に対する薬物の影響は血中濃度の測定によってすべて解決可能であるかのようだ。

しかし、確かに「脳死判定において薬物の血中濃度を測定する体制をできるかぎり整備しておくことは非常に重要である」が、これは問題解決への第一歩にすぎない。まず、(

1 通常の臨床では薬物濃度測定の必要性がなく、また測定費が非常に高額であり、商業的方法が開発・普及していないため、多くの医療機関では抗不整脈薬や抗けいれん薬以外の薬物の血中濃度測定がほとんどできない。(2)薬物の有効域についてインタビューフォームなどでの記載がないため、血中濃度と薬効との相関について十分に検証されていない薬物が数多く存在する。(3)薬物の血中濃度が測定できたとしても、有効域が分かっていなければ薬物の影響の有無に関する判断は難しい。そして脳死判定に影響する治療薬30種類のうち、有効域の分かっているものは13種類、43.3%だけ、作用持続時間が分かっているもの21種類、21%、半減期が分かっているもの29種類、96.7%である。また、活性代謝物の存在する薬物が16種類あり、その内、活性代謝物の作用持続時間が分かっているもの1種類、半減期が分かっているもの8種類である。薬物は体内で特定の臓器に集中したり受容体に結合したりすることがあり、こうなるとその薬効と血中濃度は相関しなくなる。要するに、脳死判定においては薬物の影響の問題を血中濃度測定に頼りきることはできないのである。

それでは、「通常の投与量の場合であれば、投与後

24時間あけておけば問題ない事例が多い」ということはできるのだろうか。この疑問に答えるため、また、「臨床医学的には、最小有効血中濃度の1/2以下になれば脳死判定に決定的影響はないと思われる。しかし、脳死状態では正常者のデータをそのまま適用することはできない。薬物代謝が変化している可能性が十分にある」と考えて、船橋市立医療センターでは、薬物の影響消失を総合的に判断するために役立つ薬物リストを作成することとした。それぞれの薬物について、(1 薬物投与から最小血中濃度の1/2になるまでの時間つまり作用時間+半減時間(これをH時間とする)、 (2)薬物投与から最小有効血中濃度の1/10になるまでの時間つまり作用時間+デシ減時間(1/10濃度になる時間−薬物の有効域が最大血中濃度になる時間)(これをD時間とする)、 (3)半減期の4倍の時間(これをF時間とする)を求めたのである。フェノバルビタールの作用時間は12時間、半減期は50140時間、ジアゼパムの半減期は70.4時間(ただし、ジアゼパム原薬と同様の作用をするジアゼパム活性代謝物の半減期は5日)であることはすでに分かっている。計算の結果、フェノバルビタールのH時間は152時間、D時間は478時間、F時間は560時間であり、特に半減期が長く、また半減期に幅がある(およそ25日)ことに注意すべきであることが分かった。ジアゼパムの作用持続時間については個人差が著しいので未定とせざるを得ないため、H時間とD時間は算定できなかった。ジアゼパムのF時間は282時間であり、原薬そのものの半減期も、活性代謝物の半減期も長く要注意であることが分かった(ただし、いずれも単独単回投与の場合)。このため同センターではジアゼパムを使用した場合、脳死判定までに17日以上あけることとしている。

 高知の患者についてこれまでに明らかになっていることと船橋市立医療センターで得られたデータとを重ねて合わせてみよう。ジアゼパム

10ミリグラムが投与されたのは22日午後1115分であるから、F時間は36日午後515分になる(高知新聞社社会部の調査によれば、ジアゼパムの血中濃度半減期は最大およそ72時間で、25日午後1115)。血中濃度半減期でみれば、25日の最初の法的脳死判定に影響を与え、F時間でみれば28日未明の最後の法的脳死判定にも影響が残っていたことが分かる。しかし、ジアゼパム活性代謝物の半減期は120時間、F時間は480時間(H時間、D時間はともに算定不能)であるから、半減期でみても、22日のジアゼパム投与は全ての脳死判定に影響を与えた可能性が高いといえよう。

 フェノバルビタールは

3回投与されているので船橋市立医療センターのデータをそのまま当てはめることはできないが、ここでは24日午前10時の単独単回投与として考えて見よう。フェノバルビタールの半減期は50140時間であるから、26日正午ないし31日午前6時までは最大有効血中濃度の1/2濃度のフェノバルビタールが患者の体内で作用し続けていたことになる。26日正午とすれば2度目の臨床的脳死判定に影響した可能性が高い。1日とすれば全ての脳死判定が終了してしまっている。臓器摘出開始時刻は28日午後3時7分だから、心臓、肝臓、腎臓などの摘出もすでに済んでいる。フェノバルビタールのH時間、D時間、F時間はそれぞれ152時間、478時間、560時間であるから、いずれの時間を基準にとっても脳死判定も臓器摘出も全て終了していることになる。

 「医学的理由」によって臓器提供にいたらなかった藤田保健衛生大学

(脳死判定第八例)のケースについて一言しておきたい。200065日朝、法的脳死判定に入った段階で筋弛緩剤の影響が残っていることが分かり、一旦判定が中断された。数時間後判定が再開されたが、この段階でも影響が残っていることが分かり、判定は再び中断された。その後薬の影響が無くなっているのを確認してから、6日午後11時から改めて脳死判定に入り、7日午後3時に判定が終了という経過をたどったものである。最初の法的脳死判定開始から判定終了までに50時間以上がかかっていることになる。これをどう評価するかだが、確かに筋弛緩剤の影響を臨床的脳死判定に入る段階で確認すべきであったことに疑いはないが、一旦、薬物の影響を認識してからの慎重さは正しかったというべきである。

 重症脳疾患の治療に必要な中枢神経抑制薬フェノバルビタールやジアゼパムを投与した場合、最大限慎重にその影響を排除したうえで脳死判定を行おうとすれば、単独単回投与の場合でさえ、前者では

820日、後者では17日という時間をあけなければならないのである。従って、治療の過程で意図的に影響時間の短い薬品が選択されていない限り、厳密に薬物の影響を排除したうえでの臓器提供のための脳死判定ということはおよそ不可能なのである。薬品の意図的な選択がなされるとすれば、それは治療の過程ですでに患者がドナーカードを所持していることが分かっており、「患者の提供の意思を尊重するために」という場合以外にはありえないことである。

5)

 血圧急上昇問題 228日午後に臓器の摘出手術が始まると、ドナーの血圧が120から150へと急上昇した。脳死の人にラザロ徴候群が現れたり、摘出のメスが入るにつれてドナーの血圧が急上昇したり、額から汗が玉のように吹きだしたり、あるいはメスを避けるかのように体を動かしたりすることがしばしば報告されており、これに対して筋弛緩剤や麻酔という対処法が取られている。例えば、提供第3例の古川市立病院の場合筋弛緩剤ベクロニウムが(日本麻酔学会第47回報告)、第8例の福岡徳州会病院の場合ベクロニウム、血管拡張剤ニトロプルシド3、ガス麻酔イソフルラン(九州麻酔学会第38大会報告)が、第10例の昭和大学病院の場合「術前、術中のドナー管理に2名づつの麻酔科医が担当し、麻酔管理」(日本臨床麻酔学会第21回報告)が、第11例の川崎市立川崎病院の場合「臓器摘出手術の麻酔を実施」(同上)し、第14例の聖路加国際病院の場合ベクロニウムが、使用されている。199161日、フロリダ州オカラ市民病院での臓器摘出の様子がNHKテレビで放映されたが、この時、摘出のメスが入るや否やドナーの額から玉のような汗が吹きだし、心臓が切り離されると同時に汗がすぅーとひいてゆき、顔色も蒼白に変わるのを見て驚愕したことを覚えている。

こうした問題はイギリスでも起こっている。脳死下のドナーは臓器を摘出されるとき痛みを感じているのではないかということが議論されているのである。

telegraph.co.uk2000年8月20日付けのアルダーソン&ブース両名の署名記事"Can_brain dead_donors respond?"によれば、イギリス集中治療学会は1999年に移植のための臓器摘出ガイドラインを定め、そのなかで「ドナーに麻酔をかける必要はない」と規定した。これに対し、ノーフォーク・ノリッジ病院顧問麻酔専門医フィリップ・キープ博士は「ブレインデッドのドナーでも臓器摘出の最中に痛みを感じている可能性が高」く、ガイドラインを改定してドナーに麻酔をかけることを義務づけない限りドナーカードは持たない、多くの専門医もこの問題に不安を感じている、という趣旨の投書を王立麻酔科医協会誌"Anaesthesia"に送ったのである。彼はインタビューに答えて「看護婦たちはもう心底動転している。何しろ体にメスを入れたとたん、患者の心拍と血圧が急上昇するのだから・・・この状態で放っておけば、患者はやがて動き出し、のた打ち回りだす。臓器摘出手術などできない状況になってしまう」と話している。

ドナーの「福祉」を重要視する集中治療学会会長ジャイルズ・モーガン博士はキープ博士に与している。なぜ麻酔をかけるのかと問われて、「それは私が人間だからだ。人間ならば不快なことはしたくない。麻酔なしで臓器摘出をするなんて、心にトラウマが残ってしまう」と答えている。他方、"Anaesthesia"の編集者マイケル・ハーマー教授はキープ博士に反対で、麻酔をかけなくても「まったく問題はない」、知人の中でキープ博士が言っているような光景に出会った人は一人もいない、「麻酔専門医の99.9%は私と同じ意見だろう」と話している。

この脳死の人の感覚の有無をめぐる論争にはイギリスの特殊事情も働いている。提供臓器の数が減少しつつあり、また、脳幹死説が採られているため、脳波が出ている状態のまま臓器が摘出されることが多いという事情である。それゆえ、この論争は「脳死は人の死か」とか、「脳死と判定された人も感覚があるのだから生きており、臓器を摘出することは許されない」とか、「それでも、特別な状態なのだから、違法性は阻却される」といった議論ではない。とにかくなんとしても提供臓器の数を増やさなければならないという前提に立った上での論争である。一方は、脳死と判定された人が生きているのか死んでいるのかは分からないし、感覚があるのかないのかハッキリとは分からないのだから、麻酔を施して痛みのないことを保証できさえするならば提供臓器数は確実に増えると主張し、他方は、脳死と判定された者は死者なのであり、死者に感覚なんかあるはずがない、だから麻酔なんてバカバカしいことは止めよう、提供臓器増加の道はほかの方法を探そう、と主張しているのである。

しかし、翻って考えると、血圧の上昇や体動といった問題は脳幹死説か全脳死説かということとは関わりがない。イギリスが脳幹死説を採っていることは、イギリスでの論争がとっている形式だけを規定しているのであって、イギリスの特殊事情がドナーの血圧上昇や体動を生み出しているのではない。血圧上昇、発汗、心拍上昇、体動という問題は、本来、脳死は人の死であるのかという問題と切り離すことができないのである。体動の問題の背後には感覚そして意識の問題が潜んでいる。個体死としての脳死という概念に絡んでは、さらに、脳死と視床下部(ホルモン調節)、脳死と妊娠、脳死とラザロ徴候といった問題が控えている。これらの問題はどれ一つとっても「脳死は人の死」という主張に対する重大な疑義を提出するものだ。エンゲルハートらが人格論に立っているのもこれらの問題があるからである。これらの現象は「脳死の人は生きている」と考えるなら、何の説明も必要が無い。生きているなら、人は神や仏に祈るし、その時の腕の動きはラザロ徴候と同じになる。逆に、「脳死の人は死んでいる」と考える場合には、この現象を明快に説明するという非常に困難な課題を背負うことになる。

いわゆる「ミス」についてのまとめ

ドナー患者の救命に関して手術適応・非適応、脳低温療法適応・非適応、脳波検査、無呼吸テスト、薬物の影響、血圧の急上昇問題を高知赤十字病院のドナー患者に即して検討してきた。第二例からは公表情報にしろマスコミ情報にしろ格段に減少し、最近の数例は脳死移植があったことだけでさえよほど注意していないと見落としてしまうという有り様だが、第三例と「幻の(正式には法的脳死判定に数えられていない)判定第五例」で生じた前庭反射検査について簡単にふれておきたい。両例ともに鼓膜損傷のため片耳しかマニュアルどおりの前庭反射検査ができなかった。前者の場合、「脳死判定基準の補遺」(1991年)に定める「氷水50ml以上」(「厚生省脳死判定基準」(1985年)では、温度指定なしの「冷水50ml以上」)のかわりに「24℃の冷風」を用いたが、そのまま臓器摘出にいたった。他方、後者の場合、ドナー候補患者の左耳の鼓膜が破れている可能性があり、最初の法的脳死判定の際、前庭反射検査が右耳でしか行われなかった。この件について厚生省に問い合わせたところ、竹内一夫氏ら「脳死判定の専門家」との協議のうえでの「鼓膜に損傷がある場合は脳死判定はできない」との回答があったため、脳死判定が中止されたのである。

鼓膜損傷時の対応について、「判定基準」では「鼓膜損傷のある場合は本検査を行わない」、「補遺」でも「検査の前に必ず鼓膜損傷のないことを確かめ、もし損傷があればこの検査を行わない」と記され,「法的脳死判定マニュアル」で「両側の鼓膜に損傷のないことを確認すること」と明記された。しかし、他方、当の「補遺」では「脳幹反射のすべてが検査できないときは、厚生省基準による脳死判定は不可能となる。たとえば、顔面神経麻痺や鼓膜の損傷があって検査できないときなどである。もしこのような場合でも、脳死を判定する必要があれば、それに代わるものとして、たとえば誘発電位などの補助検査は有意義で、補助検査を加えて総合的に脳死を判定することも可能であろう」と記され、「脳死判定基準(いわゆる竹内基準)覚書」(1997年9月)では「脳幹反射検査で、ある特定の検査が行えないとき、たとえば頚椎損傷で眼球頭反射を検査できない場合は、補助検査として脳幹誘発電位を検査するなどして総合的に判断することも考えられる」とされていた。「判定基準」、「補遺」及び「覚書」はいずれも厚生省「脳死に関する研究班」あるいはそのメンバーによるもので、特に竹内一夫、武下浩の両氏はそのすべてに著者署名が入っている。臓器移植法がそれに基づいて施行されている脳死判定基準の作成者たちが一方で「鼓膜損傷があれば検査を行わない」と記し、他方で、「特定の検査が行えないとき」でも「総合的に判断することも考えられる」と記しているのである。従って、第三例及び第五例の前庭反射検査がミスであるというのなら、そのミスの責任は古河市立病院や保健衛生大学病院の脳死判定医にあるのではない。厚生省脳死判定基準作成者つまり、厚生省脳死研究班の責任である。

それでは「法的脳死判定マニュアル」によってこの矛盾は解消されることになったのだろうか。99年9月の専門委員会における古川市立病院のケースに対する医学的評価作業班報告書を見てみよう。報告書は、「前庭反射の消失は24℃の冷風刺激によるエアー・カロリック・テストで確認されていることから、低温刺激が十分ではない可能性がある」と指摘したが、それに続けて、「他の脳幹反射の消失及びその他の項目についてはいわゆる竹内基準と同様の方法で実施されていること、また、前庭反射の消失の確認自体についても、それが前庭反射の試験としても全く無効であるとも断言できないことから、竹内基準の基本的な考え方と基準の各項目に対する科学的評価に照らし、総合的に判断し脳死と判定できる」と記している。

ところで、竹内氏は「我が国で行われた臓器提供のための脳死判定に対するコメント」の3)「前庭反射」において、「第3例の脳死判定では前庭反射の検査がエアー・カロリック・テストによったため、新たな問題が起こった。この方法は意識障害のない一般の被験者に対してはより負担も少なく、また鼓膜穿孔のある場合にも実施できるなどの利点がある。しかし現在使用できる装置ではせいぜい20℃程度の冷風しか使うことができず、前庭反射の消失を証明するに足る充分な低温刺激は不可能である。そのため脳死判定のための温度試験は「補遺」に記載されているとおり、氷水50ml以上を外耳道に注入しなければない。…鼓膜損傷や錐体骨折などで温度試験や聴覚脳幹誘発電位の検査が不可能な場合もあるので、将来医学的にも、また法律的にも何らかの代替手段を検討する必要がある」と記している。つまり、矛盾は少しも解消していないのである。そもそも混乱の源は、「補遺」において「顔面神経麻痺や鼓膜に損傷があって検査できない」ような場合でも、「補助検査として脳幹誘発電位を検査するなどして総合的に判断することも考えられる」と記したことにある。鼓膜が損傷しているために氷水が使えないのである。どのようにしたらその耳で脳幹誘発電位の検査ができるというのだろうか。竹内氏自身が「コメント」で「鼓膜損傷・・・で温度試験や聴覚脳幹誘発電位の検査が不可能な場合もある」と記しているではないか。さらに竹内氏は、作業班報告書では「前庭反射の消失は24℃の冷風刺激によるエアー・カロリック・テストで確認されていることから、低温刺激が十分ではない可能性がある」と指摘はしたが、それに続けて、「他の脳幹反射の消失及びその他の項目についてはいわゆる竹内基準と同様の方法で実施されていること、また、前庭反射の消失の確認自体についても、それが前庭反射の試験としても全く無効であるとも断言できないことから、竹内基準の基本的な考え方と基準の各項目に対する科学的評価に照らし、総合的に判断し脳死と判定できる」と記して、エアー・カロリック・テストが「全く無効である」とは断言できないとし、また、「総合的に判断し脳死と判定できる」と述べている。他方「コメント」では、エアー・カロリック・テストでは「前庭反射の消失を証明するに足る充分な低温刺激は不可能である」と断言し、「将来」何らかの代替手段を検討する必要があるとして、現在すでに代替手段が存在しているとは言っていない。「作業班報告書」が99年8月、「コメント」所収の著書出版が2001年4月、我が国には厚生省の相談にのるほどの「脳死判定の専門家」竹内一夫なる人物が二人存在するというのだろうか。

2 

総合的脳死判定はいかにして可能か

 脳波検査、無呼吸テスト、前庭反射検査に関わるミスの疑いが出てくるたびに、「作業班報告書」には「総合的に脳死と考えられる」あるいは「総合的に脳死と判定できる」と言う文言が現れる。「検査で一項目でも否定されるなら、脳死と判定してはならない」という基本構造をもつ「厚生省脳死判定基準」をもってしても「総合的脳死判定」なるものが存立し得るのだろうか。ありうる、いや、「作業班」のように、例えば、第三例や第五例の駿河台日大病院についての報告書で「総合的に判断し脳死と判定できる」と記し、その現実存在を受け入れるとするなら、その理由はただ一つ、武谷三男氏の言葉を借りれば、厚生省脳死研究班のメンバー、そして作業班のメンバーは脳死という病態を全く現象論的にしか捕らえていないということである。彼らの脳死論議には、脳死に関する実体論的研究も本質論的考察も欠けているのである。

これまでの脳死論議が現象論に限られていたのは、厚生省脳死研究班だけのことではない。世界中のほとんどの議論がそうだといってよい。1902年のハーベイ・クッシングの報告に始まる脳死論議は、当初、解剖学、生理学、病理学的方向性を持つかに見えた。しかし移植医療との連関が見出され、特にクリスチャン・バーナードによって1967年末世界で初めての心臓移植が行われ、68年8月日本で最初の心臓移植、和田移植が行われるまでの8ヶ月弱の間に世界全体で100例を越える心臓移植が行われるという事態が生じてからは、脳死論議の方向性は一変してしまった。この方向転換は、たしかに、和田移植の前日に採択された世界医師会の「シドニー宣言」や一週間前に発表されたハーバード大学ad hoc委員会の「不可逆性昏睡判定基準」が狙ったような、心臓移植ドナーに対する、和田移植に典型的に示される、曖昧な死亡判定の防止・是正という意味があった。承認するにせよ拒否するにせよ、欧米ではdead donor principleが強く働いている。ドナーの死亡は正確に診断されなければならない。こうして,生きている心臓、生きている肝臓、生きている肺を持つ死体を求めて、世界中で脳死判定基準策定の動きが強くなるのである。このように脳死判定基準の策定は最初から実践的・臨床的目的の下に行われたために、脳死の理論的・実体論的研究は影を薄くしていってしまったのである。

厚生省基準の作成過程を簡単に振り返り、この基準が現象論的段階に止まっている理由を探してみよう。厚生省基準を策定した「厚生省 脳死に関する研究班」の活動は、「(旧)日本脳波学界の脳死委員会による脳死の定義にもとづく、同委員会の判定基準の信頼度を確認し、あわせてわが国における脳死判定の実態を調査する」ために、昭和59年(1984年)3月1日より8月31日までの期間に脳死判定が行われた症例を研究することから始まった。脳波学会基準は、1968年10月に植木幸明,時実利彦両氏をリーダーとして発足した脳波学会「脳死と脳波に関する委員会」が発表した「脳死とは回復不可能な脳機能の喪失をいう。脳機能には大脳半球のみでなく脳幹の機能も含まれる。大脳半球の機能喪失の判定には脳波が有用であるが、その方法と回復不可能性の決定については今後の検討を要する。現時点では脳波だけから脳幹の機能をうかがうことは困難であり今後の検討を要する」という、脳死を全脳機能死と定義する基本的見解「新潟宣言」に基づいて、1974年に発表された基準である。本基準は「脳の急性一次粗大病変における脳死の判定基準」と呼ばれ、判定対象を脳血管障害、頭部外傷など原疾患が脳内の急性疾患で、しかも病変部の大きなもの、そして「急激な血圧降下とそれにひきつづく低血圧」を伴うものに限定していた。

 「脳死研究班」は研究の目的として、(1)「脳波学会判定基準の信頼度の確認」、(2)「我が国の脳死判定の実態調査」を挙げていたが、研究班が配布した調査用紙には調査項目として経過観察時間は挙げられておらず、調査対象からは「一次性」も「急性粗大病変」も「急激な血圧降下とそれに引きつづく低血圧」も削られてしまった。このため研究目的の(1)は消失し、結果として、対象期間に、心停止や窒息などによる二次性脳障害によるものも含めて、とにもかくにも、脳死と判定された症例、脳死を疑われた症例の全てをかき集めることとなった。これらの症例には、脳死と判定されたが、瞳孔径が4ミリに満たないもの、意識状態がV-3方式で300でないもの、グラスゴー・コーマ・スケールで3でないもの、脳幹反射が残っているもの、平坦脳波でないもの、心停止までに83日あったものも含まれていた。そして研究班がたどりついた結論は、これらの中に「蘇生例は1例もなかった」というものである。

 1)

現象論的脳死判定基準 ところが、昭和60年度研究報告書(翌1986年1月発表)によると、研究班の自己評価は「今回行われた研究班の調査では脳波学会の判定基準を一部改変して用いたが、多くの施設から寄せられた症例を解析した結果、脳波学会基準の信頼性が評価できた」というものである。これは、自分たちの調査は脳波学会基準よりも緩やかな基準を用いたものである。この緩やかな基準によって脳死と判定された者のうち、誰一人として蘇生した者はいなかった。従って、それより厳しい脳波学会基準によって脳死と判定された者は蘇生するはずがない、ということなのだろう。これは脳死判定基準の信頼性を蘇生者の有無によって定義するという思想である。この思想が、厚生省基準を現象論的脳死判定基準たらしめている第一の理由である。その基準によって判定された者から一名も蘇生者が出ないということだけでその基準の信頼性が確認されるのであるならば、その「信頼すべき」基準は全脳死概念に基づく必要も、それどころか脳幹死概念にさえ基づく必要も全くない。重症脳疾患患者の治療に当たる医師が自分の技術と経験に基づいて「もうお手上げだ」と判断しそれ以上の治療を差し控えれば、患者はもう蘇生しない。それゆえ、純現象論的脳死判定基準なら主治医の「お手上げ判断」、厚生省基準に即して言うなら、その前提条件1)器質的脳障害により深昏睡および無呼吸を来たしている症例、2)脳死になりうる原疾患が確実に診断されており、それに対し現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても、回復の可能性が全くないと判断される症例、だけで十分である。除外例規定でさえ必要がない。ここで「純」現象論的という言葉を用いたのは、厚生省基準は現象論的基準ではあるのだが、純現象論的なものではないからである。厚生省基準は純現象論的基準にセキュリティ−・マージンをプラスしたもので、このセキュリテイ−・マージンもまた当時の「世界の大勢」や研究班メンバーである臨床医たちの「経験的蓄積」に基づいて算定された現象論的なものである。厚生省脳死研究班は脳死という病態について、判定基準、判定基準の信頼性及び信頼性調査法の三点において、現象論的にしか考えることができていない。

脳幹死概念に基づく英国規約あるいは全脳死概念に基づく厚生省基準といった現象論的脳死判定基準といえども、それが不可逆性診断基準、ポイント・オブ・ノーリターン判定基準、つまり当該時代の医療技術をもってしてはもう患者を回復させる方法が無いということの判断基準、「お手上げ判定基準」であるなら問題がない。そして、蘇生可能性喪失=死亡で、死亡者からなら移植のための臓器・組織を摘出することができる、と考える者にとっては、脳死判定基準が現象論的であろうとなかろうと何ら問題はなかろう。しかし、dead donor principleは承認するとしても、蘇生不可能であることを直ちに死亡であるとは考えない者、つまり蘇生可能性喪失と死亡とは全く別の事態であると考える者、あるいは、脳死臨調少数意見のごとく、脳障害からの蘇生可能性喪失者はあくまでも生きているのだが、「特別な状態」だから一定の要件を満たせば違法性阻却論をもって臓器を摘出することができると考える者にとっても、現象論的脳死判定基準をそのまま死亡判定基準としたり、臓器摘出基準としたりすることはできない。蘇生可能性喪失=死亡とは考えないが、脳死移植には賛成だと考える者には、死亡判定基準としての脳死判定基準を提示する義務がある。違法性阻却論者には、脳及び全身状態との関連において、当の状態がなにゆえにそこから臓器を摘出することのできる「特別な状態」であるといえるのか、を説明するに足る脳死判定基準を提示する義務がある。そして現象論的脳死判定基準がこの義務を果たすことは不可能である。それは実体論的脳死判定基準でなければならない。

2)

実体論的脳死判定基準 死亡判定基準あるいは臓器・組織摘出許可基準として働く脳死判定基準は実体論的判定基準でなければならぬと述べた。実体論的脳死判定基準とは何か。厚生省基準に、視床下部の孤立化・機能低下を調べるためのアトロピン・テストや感覚入力系の残存を調べるための聴性、体性あるいは視覚性の脳幹誘発反応検査を必須検査として加えればよいのか。それは統計項目、経験判断の根拠を増やしはするが、それだけで実体論的基準ができあがるわけではない。脳死判定基準が実体論的基準であるための条件は、それによって判定される蘇生不可能性が当該時点の技術水準に基づいて統計的にあるいは経験的に証明されるのではなく、生理学的、病理学的、解剖学的そして生化学的に証明されることである。それゆえ、ポジトロン・エミッションCTもしくはシングルフォトン・エミッションCTを用いた脳死判定ならばこの条件を満たすといえる。この両者なら脳内酸素供給停止かつ/あるいは脳内酸素代謝停止かつ/あるいは脳内糖代謝停止を証明し、当状態の一定時間の継続をもって、脳神経細胞の蘇生不可能性を原理的に証明することができるからである。しかし、臓器提供のための脳死判定にいちいちPETや SPECTを使うわけにはいかない。脳死判定はベッド・サイドで出来なければならないだろう。他の方法を探さなければならない。

 ベッド・サイドで可能な実体論的脳死判定基準は、先ず、竹内氏が自著『脳死とは何か』 で引いているA.E.ウォーカーが挙げる条件、(1) 簡単で、すべての原因による脳死に対応でき、すべての医師に理解できること、(2)判定に迷うことがなく、判定の確実さに差がないこと、(3) 従来の慣習となっている死の判定法(三徴候による判定)に見合うこと、(4) 一般社会に容易に受け入れられること、を満たさなければならない。さて、厚生省基準に従って行われたこれまでの脳死判定に、「医療ミス」にせよ「手順ミス」にせよ先述した数々のミスが出ているのだから、厚生省基準は(1)の条件を満たすものではない。第三例と「幻の」判定第五例における結論の違いを見るならば、(2)の条件も満たされていない。条件(3)及び(4)については竹内氏自身の見解を聴こう。

  ハーバード基準以来各国から脳死判定基準が発表されている。しかし残念ながら1970年にInstitute of Society,Ethics and Life SciencesのTask Force on Death and Dyingによって示された理想的条件(ウォーカーの4条件に、(5)仮死のような可逆性の状態を除外できること、(6)誤診の機会を最小限にするための対策を講ずること、を加えたもの)をクリアするような基準は作られていない。我が国で現在広く使われているいわゆる竹内基準を含めてすべての基準が、死の三徴候による心停止・死亡、つまりいわゆる心臓死の判定ほど簡単・明瞭というわけには行かない。この心臓死でさえ“生者埋葬”のおそれがないとはいえず、一般社会からは“見えない死”といわれる脳死の判定に対する疑念は、我が国では約30年前の和田移植以来、今なお根強くのこっていることを、われわれ関係の医師は常に念頭に置くべきである。

つまり、厚生省基準は竹内氏自身が引いているウォーカーの示す条件を一つとして満たしていないということなのである。実体論的脳死判定基準は、厚生省基準の手直しでというわけには行かないようだ。脳死概念からはじめて根本的に考え直さなければならない。

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脳死概念 脳死の概念は全脳死説を採りたい。全脳死説とは「脳の全ての部分が死んだ状態」(竹内一夫)、「全脳髄(大脳のみでなく小脳・脳幹を含む)の不可逆的な機能喪失状態」(日本脳波学会脳死委員会、1968)あるいは「大脳・小脳・脳幹・第一頚髄まで含めた全脳機能の不可逆的な停止状態」(第八回国際脳波学会、1973)を脳死とする立場である。厚生省脳死研究班は全脳死説を採用したが、本音は別のところにあるようだ。「基準」における「脳幹が死ねばその人は必ず心停止に至るが、現時点では高次神経機能を司る大脳の不可逆的機能喪失があってはじめて脳全体の死とするのが、混乱と間違いを防ぐ立場といえよう。脳幹死と比較し全脳死の考えを保守的とする意見もあるが、世界の大方の傾向は、今日でもなお全脳死の立場が支配的である」という文言、「補遺」における「このようにみてくると、脳死の概念における解剖的範囲が、脳・脊髄からなる中枢神経系から全脳、次いで脳幹へと次第に局限しているのが分かる。しかも、その局限方向は大脳でなく脳幹部であることは注目に値する」という文言が示すように、研究班は「医学的には」脳幹死説が正しいのだが、「世界の大方の傾向」が全脳死説にあるし、「脳波が大脳の活動の客観的記録であり、しかも脳波計が広く普及し、比較的たやすく安定した記録が得られること」そして「被験者に与える影響もなく、病室でも随時しかも連続して記録でき」、「そもそも重症の脳障害例を加療していれば、脳死の判定とは無関係でも当然、脳波などは繰返し検査すべき項目に含まれる」から、「現時点では」全脳死説を採っておこうか、と考えているようである。厚生省脳死判定基準は、表現上は全脳死説の体裁を採っているが、その実質は脳幹死説プラス頭皮上「平坦」脳波という鵺的折中説である。

単に折中説とせず鵺的としたのは、厚生省基準がとうてい全脳死説と脳幹死説の長所の総合的統一といえるものではなく、全脳の概念をなし崩し的に矮小化することを通して出来上がったものにすぎないからである。厚生省基準は先ず国際脳波学会の定義した「全脳」から第一頚髄を削除した。それは「全脳死でも脳幹死でも、脳(延髄)・脊髄移行部の障害の範囲や程度にはかなり症例差があると思われる。・・・特に脳ヘルニアに伴う脳幹の循環障害には、神経症状や脳幹誘発電位の所見から見ても、症例によりかなりのばらつきがあると思われる。したがって、脳死を定義する場合に、全脳髄の不可逆的機能喪失とすることはできても、下部延髄―第一頚髄レベルまでを含むというような表現は必ずしも適当でないと考える」(「補遺」脳死の概念の整理)という理由による。この理由がもう一つ分からないのだが、脳幹死概念に基づく判定基準によって脳死と判定された者にも、全脳死概念に基づく判定基準によって脳死と判定された者にも、第一頚髄部の機能が健全な者と機能を喪失した者との両者がおり、第一頚髄までを全脳の範囲とするなら統一的な脳死の判定が不可能になる、従って、脳死を判定しようとするなら、全脳の範囲に第一頚髄をいれてはならない、ということなのだろうか。

次いで、「全脳」機能が「臨床的に検査可能な範囲の」機能に矮小化される。「脳死をあらかじめ定義することは、状態を明確にするために必要であったが、それをどう理解するかが問題である。全脳機能の不可逆的消失とは、前回報告でも強調したように、すべての細胞がその時点で同時に死ぬということではなく、脳全体としての機能が不可逆的に消失した状態である。脳幹死の立場をとるPallisの考えも、その解剖学的領域こそ異なるものの、やはり同様である。ここでいう脳機能とは臨床的に検査可能な範囲の機能を指している」(「補遺」臨床診断)。

ところで、頭皮上脳波(scalp EEG)は大脳皮質の活動を5mmの深さまで記録できるといわれている。すると、厚生省基準のいう「全脳髄の全機能」とは深さ5mmまでの大脳皮質及び脳幹(中脳,橋、延髄)の機能ということになる。大脳ではより深いところの大脳皮質、辺縁系及び基底核の、小脳の、そして視床下部を含めて間脳の諸機能は全て無視される。「臨床的な検査」も神経学的検査と電気生理学的検査に限定されているから、脳の内分泌機能は最初から問題にもされていない。脳死と妊娠、脳死と視床下部ホルモン、脳死と体動・感覚・意識といった問題はこれらの厚生省基準で無視された諸機能との関連で現れてきているのだが、研究班がこれらの諸機能を無視した理由は何であろうか。一つには、深部皮質、辺縁系、基底核、小脳そして間脳の神経学的検査はできないということがある。また、内分泌機能が無視されるのは、この機能が意識と自発呼吸能力とは関係がないと考えられていることによる。つまり、研究班のいう「全脳髄の全機能」とは意識と自発呼吸能力のことなのであり、「全脳髄の全機能の不可逆的機能停止」とは意識と自発呼吸能力がもう回復しないということなのである。

それでは厚生省基準は意識と自発呼吸能力の不可逆的喪失をどのように証明しているのであろうか。ここでは、レスピレーターを外すことのできない小児麻痺の患者やALSの患者のことを考えれば自ずと明らかになるように、自発呼吸能力の不可逆的喪失のみで脳死を判定することはできないことを確認して、議論の的を意識の問題に絞ろうと思う。

(2)

意識 意識消失を証明するのは深昏睡やいわゆる平坦脳波(flat EEG,正確には脳電気的無活動ECIもしくはECS)という現象自体ではない。大脳がいかに健全であっても、上部脳幹網様体が機能を喪失すれば意識は二度と出現しないとする、マグウンとモルッツィによる脳機能論に基づくそうした現象の解釈である。この理論は脳幹死説の論客C.Pallisが自己の脳幹死説を展開する際に基礎理論として用いた脳機能論である。厚生省研究班もこの理論を引き継いでいる。この理論に基づく現象解釈は二つの事柄を前提している。一つは、意識覚醒に関わる上部脳幹網様体には間脳網様体は含まれないということである。二つ目は、意識覚醒検査は刺激応答検査で充分である、つまり臨床的意識覚醒検査は外的意識検査のみで足りるということである。具体的検査項目としては、グラスゴー・コーマ・スケール及びジャパン・コーマ・スケールを尺度とする深昏睡検査そして上部脳幹反応検査ということになる。マグウンとモルッツィの脳機能論が正しく、厚生省基準の検査項目がこの理論を正確に反映したものであるならば、意識の問題については、厚生省基準は単なる現象論的基準ではなく、実体論的基準だということができるわけである。

先ず、上部脳幹反応検査について検討しよう。厚生省基準が採用するこの検査項目には(1)瞳孔固定,(2)対光反射,(3)角膜反射,(4)毛様脊髄反射,(5)眼球頭反射,(6)前庭反射,(7)咽頭反射,(8)咳反射がある。これについて国立台湾大学医学院名誉教授洪 祖培氏による次のような批判がある。

   そもそも竹内基準は、脳幹反射テストに関して、医学的にみて検査項目の順序が秩序だっていなく、重複が多くあり、やたらに項目を増やすことによって世界的に高く評価できる厳格なものと自賛しているが、実際は脳死判定作業現場の立場を考えず、判定作業の束縛と混乱を起こしている。・・・竹内基準では瞳孔反射消失の確認を3回することになっている。まず、脳幹反射テスト前に別立ての項目で瞳孔散大(両側とも4mm以上)と瞳孔固定の確認を要求しているが・・・脳死判定の手順としては次の対光反射消失確認と重複している。瞳孔散大と固定の定義と確認法は多くの誤解と混乱を招く。・・・覚書では「従来の竹内基準で用いられてきた“瞳孔固定”の意味は、刺激に対する反応の欠如であり、対光反射、毛様脊髄反射消失と同じであり、重複している」ことを認めており、補遺では「散瞳は脳死の判定上必須の検査ではない」と述べているのに、なぜか新しく編集された平成11年の手引書では全く改善されていない。

竹内基準は深昏睡の確認法を指定して「疼痛刺激は顔面に加えることを原則とする。虫ピンで顔面を刺激するか、あるいは眼窩切痕部を指で強く圧迫し、顔をしかめるか否かをチェックする。脳死では全く反応がない。なお、頸部以下の刺激では、脊髄反射・逃避反射による反応を示すことがあるので、刺激部位は顔面に限る」としている。この点についても洪 

祖培氏は次のように批判している。

 日本国内では指摘されていないようであるが、竹内基準にはさらにいくつかの誤りがある。深昏睡の確認のために疼痛刺激を顔面だけに虫ピンで加えることは神経学的検査の常識では考えられないことである。全脳死の立場をとる日本の脳死判定基準でこのような臨床検査をするよう指示しているのは理解できない。刺激として不充分であり、顔面を傷つけ、刺激部位の広さも不足であり、位置も不適切である。傷痕を作ることを避けるためには、顔面では眼窩切痕部や顎筋部を指で強く圧迫し、四肢では手指および足指の爪の根部を検者の親指の爪を垂直に立てて強く押さえ込むか、または鉛筆を横に倒して患者の爪の上に置き験者の親指で強く圧迫するのが理想的で有効な方法である。脊髄反応との混乱を避けるために顔面だけを刺激することは不完全であり、昏睡スケールの判定、除脳硬直、除皮質硬直の有無、または脊髄反射との鑑別のためにも不充分である。昏睡患者の顔面や四肢に疼痛刺激を加え反射的に体動が起こるかどうかをみるのは与えた刺激が大脳半球や視床に達して、それに対して反応するかどうかを確かめるのが目的であるが、このほかに脳幹反射テストとしても必要な検査である。前者の目的で行う場合は、深昏睡に至るまでの臨床過程で繰り返し行うべきであり、脳死診断のみならず日常使用される神経学的検査に不可欠なテストである。これに対し、脳死判定では脳幹反射の確認のために再び厳密に施行するものであり、いかなる身体部位に加えた充分強い疼痛刺激が、脳幹部の脳神経の運動反射に関与する部位に達して顔をしかめるような反応を起こすか、または起こさないかを査定するのが目的である。三叉神経領域もしくは四肢に加えられた疼痛刺激に対して反応がみられない場合は、脳幹にある反射弓や運動核の障害または損傷によって運動反射が消失していることを意味する。なぜか、この重要な検査は竹内基準では必須項目に含まれていない。脊髄反射と混同されては困るために故意に除外されたものと思われるが、瞳孔反射検査として重複する毛様脊髄反射を必須項目から除外し、その代わりに、疼痛に対する脳幹性運動反射を必ず施行すべきである。

洪氏の指摘するところは、厚生省基準の上部脳幹反射検査には一方で不必要な重複が多く、他方で必要不可欠な検査が欠けており、このままでは昏睡スケール、除脳硬直、除皮質硬直の有無の判定、または脊髄反射との鑑別を的確に行うことはできないし、現場に無用の混乱を引き起こす、ということである。「神経学的検査の常識」である疼痛に対する脳幹性運動反射検査を欠く厚生省基準によっては上部脳幹機能喪失を証明することができない、ということであるから、たとえマグウンとモルッツィの脳機能論が正しいとしても、厚生省基準によっては意識の不可逆的消失を証明することはできないのである。

しかし厚生省基準の脳幹反射検査項目を整えて、疼痛に対する脳幹性運動反射テストを加えたとしても、それだけで厚生省基準が意識に関する実体論的基準となるわけではない。

そのためにはマグウンとモルッツィの脳機能論の正しさが示されなければならない。Pallisの脳幹死説の基礎理論となっているマグウンの脳機能理論を簡単に振り返ってみよう。マグウンらによれば、思考、意志、感情、記憶等の高次脳機能、つまりいわゆる「意識の座」は大脳にあるが、大脳は自己覚醒能力を持たないとされている。橋中央部より上部の上部脳幹網様体(上向性網様賦活系)からの神経活動電位の投射が、大脳機能に活力を与えることによって意識が保持されるのである。従って、たとえ大脳がいかに健全であっても、上部脳幹網様体が機能を喪失してしまえば意識は覚醒しない、つまり昏睡に陥るのである。さらに、上部脳幹網様体が機能を喪失すると、脳幹最上部に中枢を持つ対光反射、眼球頭反射、前庭反射が消失する。このため、脳幹死説の下では、脳幹反射が検査項目すべてにわたって消失した後にもなお残存する脳波は死後の残生現象とみなされ、無意味なものと判断されるのである。

 マグウンらの脳機能論、いわば「脳幹目覚し時計説」といえるもの、については二つの観点からの反論を検討しなければならない。一つは意識覚醒に対する間脳網様体の関わりという観点である。フェルドマン、ワラー、時実利彦、大村 裕らは意識覚醒について間脳網様体から大脳への投射をも重視する、いわば脳幹と間脳の「二重目覚し時計説」を採る。「脳波の覚醒あるいは意識水準の上昇には、上向性網様賦活系からの非特殊投射核を経た大脳皮質への投射という系のみならず、後視床下野からの連合野や辺縁系へ投射する覚醒系」も関与する、と考えるのである。W.ペンフィールドは意識を可能にする中枢神経系の統合機能は大脳にあるのではなく間脳にあると考え、実際に大脳と間脳の間に神経インパルスの流れを確認したという。

 間脳は厚生省基準では検査対象となっていない。しかし、間脳の一部と見られる視床下部は厚生省基準によって脳死と判定された者においてもほぼ正常な機能を保っていることが、生田氏らによって解剖学的に、そして魚住氏らによって生理学的に、証明されている。それゆえ、フェルドマンらの「二重目覚し時計説」が正しいのなら、脳幹反射検査、深昏睡検査及び脳電気無活動(ECI)検査によっては意識の不可逆的消失は証明できないことになる。

 もう一つの観点は意識理解に関わる。厚生省研究班に限らず、脳死を現象論的に考える者は、意識を「臨床的」意識として、つまり外からの刺激に応答する意識としてのみ考える。この点は「脳幹目覚し時計説」を採る者も、「二重目覚し時計説」を採る者も同じである。問題は、こうした意識理解によっては植物状態にある患者等の意識状態を説明できないことにある。植物状態にある者には、睡眠と覚醒を繰り返し、また眼前の動きを目で追跡するが、眼前にあるものが何であるのか全く理解できていないという意識状態にある者が多い。患者は自発的に開眼し、刺激応答の点からみた意識レベルは相当に高い。しかし理解・思考の点からみた意識レベルは最低水準といってよいのである。高次意識を、刺激応答のレベルと理解・思考のレベルを区別せず、外的・臨床的に、つまり刺激に反応する意識として単層的に理解しては、こうした「覚醒」意識状態を的確に説明できないように思われる。

 これと反対に、外的刺激に対する反応が完全に消失しているのに周囲の状況を理解しているという意識状態のあることも報告されている。意識を単層的に理解する者はこうした「昏睡」意識状態をどう説明するのだろうか。こうした意識状態を説明するための有力な作業仮説として林 成之氏の高次意識複層説をとりあげよう。林氏は高次脳機能を「外への意識」(外発的意識・受容性)と「内への意識」(内発的意識・能動性)に分けて考える。高次意識複層説、外発的意識・受容性、内発的意識・能動性といった表現は筆者が付け加えたものだが、意識を哲学的に考えるものにとっては、この表現によって受動知性・能動知性あるいは感性・悟性といった概念を想起し、林氏の高次意識論がより理解しやすいものとなるだろうと思う。林氏自身はこの作業仮説を「二構成の意識障害機構」とよんでいる。

  人間の意識には、五感(視・聴・臭・味・触の5つの感覚の総称)の刺激に対応する脳幹網様体―視床網様体―大脳神経系の機能による意識とは別に、外からの刺激を必ずしも必要としない意欲、感情、記憶、思考、愛情などの意識活動がある。前者は、言葉や痛みの刺激を与えた時の反応性を観察することによって、どれだけ障害が起きているかを判断することができる。グラスゴー・コーマ・スケール(GCS)や3-3-9度方式のジャパン・コーマ・スケール(JCS)もこの原理にもとづいて意識障害の程度を評価している。これに対して、後者は外からの刺激を必ずしも必要としないためその評価は難しく、実際の臨床において客観的な障害度を決める方法がみあたらない。

   多くの場合、これらの意識は同時に障害を受けるが、なかには、五感の刺激に対してほとんど反応がみられないのに、周囲のことを理解している患者を経験することがある。逆に、五感の刺激に反応して開眼しているのに意欲、感情、記憶、思考、愛情などの反応が全くみられないこともあり、この状態は外観からはっきりと識別できるため植物症という概念で理解されている。それでは、五感の刺激を必ずしも必要としない脳の機能部位はどこにあるのだろうか?

   ここで脳の機能のある場所をすこぶる単純化してみると、記憶は海馬、意欲の中枢は視床下部、感情表出中枢は尾状核、思考は前頭連合野、愛情は側坐核、不安・怒りは扁桃体(免疫は下垂体)となり、これらはいずれもドーパミンA10神経群としてまとめることができる。

   五感の刺激を必要とする意識を〔外への意識〕、五感の刺激を必要としない意識を〔内への意識〕とすると、急性期の意識障害判定に非常に有効なグラスゴー・コーマ・スケールやジャパン・コーマ・スケールがなぜ慢性期の意識障害の評価に使えないのか、非常に理解しやすい。それと同時に、内への意識障害を主体とする植物症の防止に、明らかな治療目標を立てることが可能となる。無論、これらの作業仮説は、意識の内容を非常に単純化しているため、この概念で全ての人間の意識を正確に言い当てていないが、大きな視点に立った分類として、重症脳損傷患者の意識障害を理解しやすい。重要なことは内への意識を構成するA10神経群は一つ一つ知能獲得作業にも関係が深く、その障害は知能障害の発生にもつながってくることを示唆しているといえる。

 

林氏と比較すれば、川村 浩氏によるPallisの脳幹死説批判は明解だ。川村氏によれば、人間の意識には人間と動物とに共通の意識である外的刺激に応答する意識だけでなく、人間に特有の自我意識がある。前者の活動レベルは、完全な覚醒状態から昏睡状態までをいくつかの段階に分けた行動のレベルとなって現れるので、外からの観察や脳波検査によってその活動水準を調べることができる。しかし後者は主観的体験であるからこうした方法によっては活動水準を調べることができない。にもかかわらず、神経生理学者や神経内科の医師の中には「動物の意識と人間の意識とをゴチャまぜにする傾向」の者が多い。最近30年ほどの間にスペリーや和田 淳のテンカンや言語中枢の研究によって、「いまとなっては主観的体験としての意識、つまり自我意識の研究は、自然科学の対象ではないといって逃げることはできなくなった。これまででも精神科のお医者さんはいろいろな質問にたいする患者の答えをきき、またその行動を観察しながら、患者の自我意識の内面を組立てていった。脳のはたらきを研究する脳生理学も、これからはそのような側面を頭に入れておかねばならない」ことが明らかにされてきた。

一方、外的意識の覚醒・睡眠のメカニズム、脳幹網様体、脳波の関連もブレーメル、マグウン、モルッツィ、エコノモ、ナウタ、ゲルホーン、クレメンティ、スターマン、デル、アゼリンスキー、クライトマン、デメント、ジュベー等の研究を通して次第に明らかになってきた。この点に関しては、ベーツェル、花田安弘、中田琴子の研究、特に時実利彦の視床下部賦活系の考えが重要である。これによって、「昏睡のため意識が回復しないということは、脳の覚醒の仕組みが働かなくなってしまったということである。だから中脳より下の脳の部分が働かなくなっても、覚醒や睡眠の交代が脳波でみて十分におこるとすれば、それは重要なことである。こんな状態でも自我意識の回復がおこる可能性があることを示しているからである」ということ、そして「本来の意味の脳幹のうち、視床下部を含んだ間脳と大脳があれば、脳波からみて睡眠と覚醒の交代が回復する可能性がある。したがって意識が回復する可能性も否定はできない。このことは忘れられてはならない脳生理学のうえの事実である」ことが明らかにされた。それゆえ「中脳以下のはたらきが破壊されていても間脳と大脳が健全で睡眠と覚醒の交代があるならば、自我意識もひょっとして残っているかもしれないのである。わが国のこれまでの議論ではこのことが無視されているために、脳死の問題に必要以上の不安」がつきまとっているのである。Pallisは「中脳以下の網様体が不可逆的、つまり二度と回復しないほど侵された場合に、脳幹は死んでしまったのだから意識も回復しない。したがってこのような患者は事実上、ヒトとして死んでしまったという。この結論は脳幹の定義から見ても、脳生理学の立場からみてもまちがっているといわなければならない」のである。

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脳波 意識の問題を正しく理解するには、意識論、意識脳機能論、上部脳幹網様体論だけではなく、脳波の問題も検討しなければならない。厚生省基準は脳波検査を加えることによって自らを、脳幹死判定基準から区別し、全脳死判定基準と規定している。課されている検査は頭皮上脳波だけのテストであるが、この検査は当の区別を確立するに十分な条件といえるものなのだろうか。頭皮上脳波は大脳皮質5mmまでの深さの電気的活動を波のかたちで捉えたもので、波の種類と大きさを解析することによって、おおまかにだが、その部位の活動レベルを覚醒から昏睡まで段階的につかまえるることができる。しかし、臓器移植法施行以来の脳死判定に関わるミスが脳波検査に集中していることから、移植法の規定する脳波検査法には重大な欠陥があるのではないかという疑いが生じている。この点について「臓器移植法における脳波検査方法の最大の欠点は、表現があいまいですべて過去にさかのぼる記載のみで最終的に統一されていないことであった。そのために脳死判定における脳波検査は、他の検査と比べて最もミスやエラーが生じやすいという運命を背負っていた。臓器移植法における脳波検査はミスが生じやすいという認識が絶対に必要である」という指摘がすでになされていることを確認しておきたい。

「表現があいまい」という指摘はなによりも先ず「平坦脳波」という概念に関わる。厚生省基準には「脳死判定には脳波活動が完全に消失していること(平胆脳波)を確認しなければならない」との記載があり、「補遺」には「全脳死の概念を守る以上は、平坦脳波の記録はあくまでも必須条件とすべきである」との記載がある。しかし、現実には「脳死状態の脳波は決して平坦にはならない」のである。「脳死状態の脳は壊死に陥っており電気的に良導体」になっており、心電図の波は良導体となった壊死脳を伝播し,R波,P波,T波、症例によってはQ波,S波も記録されてしまう。それゆえ「平胆脳波」とは「脳波が平らなこと」ではなく、「内部雑音以上の脳波が全く認められないこと」と理解されなければならず,1974年の国際脳波・臨床神経生理学会連合用語委員会案脳波用語集ではflat EEG及びrecord of electrocerebral silence(脳電気的記録の静止)と言う用語の使用が禁止された。現時点ではECI:electrocerebral inactivityあるいはECS:electro cerebral silence(脳電気的無活動)という用語が適切と考えられている。脳波検査に関してはさらに、脳波計の種類が病院によって異なること、「法的脳死判定マニュアルにはアースに関する表現の混用があり、電撃事故発生が危惧される」こと、「脳波検査の感度と記録時間に関して極めてあいまいな表現になっている」こと、アーチファクト対策指示が不明確であること等の問題の存在が認識されなければならない。これらの問題を解決するために研究・配布されたはずの「脳死判定マニュアル」にも依然として数々の問題がある。特に、いわゆる「平胆脳波」が,1965年の通常感度で平坦脳波の診断を行っているHockadayらの分類Vbによって定義されていることは見過ごせない問題である。Hockadayらの分類Vbという表現はECI,ECSの定義に該当せず,1988年の臨床脳波検査基準よりも後退してしまっているのである。

脳波に関しては、さらに、「従来、国際脳波学会において、脳波・皮質電図・皮質下電図については定義がなされていた。しかし脳室電図に関してはその存在および意義が知られておらず、定義されていなかった。また、日本語で言う「脳波」とは正確には「頭皮上脳波」であり、名称が不正確であった」と言う問題がある。これに伴い(1) 頭皮上脳波でとらえられないけいれん波が頭蓋内脳波で認められることがある、(2) 頭皮上脳波が描出されなくても頭蓋内脳波で波形が認められることがある、(3) 頭蓋内脳波には、深度により脳波活動の優位性が存在する、(4) 頭蓋内脳波は脳波活動の復活をとらえることができる、(5) これらのことは、全て「頭蓋内脳波は振幅が大きく波形も明瞭」であることによるが、direct brain monitoringで深部の脳波活動が存在した場合はどう判定したらよいのか、という重要な問題を生みだす。

さらにまた、林氏は鼻腔脳波の問題を指摘している。「脳死判定5日目に頭皮上脳波と鼻腔脳波を検索したところ、頭皮上脳波には全く脳波活動を認めないが、鼻腔脳波には脳波活動が見られ、周波数解析をおこなってみるとα波まで混在していることが確認された。鼻腔脳波はどの部位の脳波活動を見ているか検討する余地があるが、現在行われているように頭蓋骨の上から脳波を記録することによってたとえ反応が見られなくても、全脳の神経細胞の反応が消失していることを意味しないことを示唆している。この様なことは手術によって頭蓋骨が欠損している所からの脳波では、骨を介さないため記録の感度が上がるため同様なことが記録されうる。これらの現象は脳蘇生限界をさらに解明していく上で今後の研究テーマとなる」と記しているのである。

厚生省脳死判定基準は脳波検査に関して致命的な欠陥のあることが分かった。脳波の問題を頭皮上脳波の問題に限り、さらに、現象論的にだけ考えたとしても、厚生省基準は「平胆脳波」の定義からして問題を抱えているために、的確な感度を規定することができておらず、検査可能な範囲にある脳神経細胞の反応消失さえ判定できないのである。また、脳波概念が現象論的であるために、コーマ・スケールを用いた検査で深昏睡と診断された者になお認められる頭皮上脳波の意味を解明することができない。問題を鼻腔脳波、皮質電図、皮質下電図、脳室電図といった深部脳波(depth EEG)にまで広げて考えれば、その意義についても判定法についても何も語れない。厚生省基準は全脳死概念を採っているのだから大脳の検査も必要だ、だから、脳波検査も必要だとしているだけであり、脳波検査が意識の問題との関わりにおいていかなる意義をもつのか何の説明もない。厚生省基準の掲げる深昏睡検査、脳幹反射検査そして脳波検査をどう組み合わせてみても、これらの検査によっては、脳死を疑われている患者の、当該時点での、意識消失を証明することは不可能である。さらに、A.E.ウオーカーは「脳死決定のため、米国脳波学会の指針に従って厳格に記録された頭皮電位検査は、脳の活動について重要な情報を提供してくれる。一過性に大脳活動を抑制する病的状態のあることを認識している限り、脳電位消失は不可逆的損傷の信頼すべき証拠と考えられよう」と述べている。ウオーカーのように考えるならば、頭皮上脳波の消失さえ証明できない厚生省基準によっては、患者の回復不可能性つまり全脳機能消失の不可逆性を証明できないことになる。厚生省基準に規定された脳波検査は「純」現象論的脳死判定基準に対するセキュリティ・マージンとさえなり得ていないのである。

ところで、脳幹死説を採るにせよ全脳死説説を採るにせよ、脳死を判定しようとする者は必ず脳幹機能に注目する。これは「脳幹が死ねばその人は必ず心停止に至る」(判定基準)あるいは「脳幹が意識保持(脳幹上半分の網様体)に決定的役割を演じ、呼吸、循環を調節(脳幹の下半分の網様体)しており、脳幹が死ねば大脳も死ぬこと、このような状態ではやがて確実に心停止が起こる」(補遺)ことによるとされている。しかし、これまでの議論から明らかになったように、厚生省基準はコーマ・スケールを用いた深昏睡検査の点でも、脳幹反応検査の点でも、脳波検査の点でも、意識の不可逆的消失の証明に失敗している。それゆえ、厚生省基準によって脳死と判定された者について、統計的・経験的にいって、もう脳機能は回復しないということはできるが、その時点で意識が不可逆的に消失しているとか、大脳が死んでいるとかはいうことができない。さらに、「急激な血圧低下とそれに引き続く低血圧」条項を除外し、血管運動中枢に対する検査を欠く厚生省基準によっては、脳幹が死んでいるとさえいうことはできない。このことはPallisの脳幹死説にも当てはまる。中脳上端と延髄下端の不可逆的機能消失だけから脳幹全体の死が推定可能といえるのは、脳障害が「不可逆的に進行性でかつ連続的な器質的病変」である場合だけである

(4) 

経過観察時間 法的脳死判定について一回目の判定、二回目の判定ということが言われている。先ずこのことについて考えてみたい。元来、脳死をいかに疑われようとも、患者は脳死と判定されるまでは最善の治療を受け続けるはずである。このことについて竹内一夫氏は次のように説明している。「“脳死判定の五つの基準のすべてが満たされたあと、六時間、経過を観察してみて、変化がないことを確認すること”。これが今度の基準での“時間”についての具体的な内容である。もちろんこのような死線期の患者に対してはこの六時間を放置するのではなく、当然のことであるがなお多くの集中治療の対象として継続的に観察されるはずである。五項目の判定基準を完全に満足し、その後六時間、観察を続け、もし仮にこの観察期間中に何らかの変化、たとえば脳波の復活があってそれが10分間でまた消えてしまったとすると、その時点からさらに六時間の観察を行うというわけである。この観察期間中、医師は対象の患者を観察しつづけ、継続的あるいは断続的に行える検査は繰り返し実施することになる。つまり、脳死の判定に要する時間は、点ではなく長さのある線なのである」。

 経過観察時間について、厚生省基準は「検査を反復する目的は絶対に過誤をおかさないためと、状態が変化せず不可逆性であることを確認するためである。本判定基準で示した時間(6時間)は絶対に必要な観察時間である」と記しており、経過観察が、竹内氏の自著での説明と同様に、判定開始時点から6時間以上あとの判定終了時点まで、絶えることなく継続するものであること示している。これに対し、「臓器の移植に関する法律の運用に関する指針(ガイドライン)」(1997年10月8日付け厚生省保健医療局長通知,1998年6月26日一部改正)においては「第2回目の検査は、第1回目の検査終了時から6時間を経過した時点において行うこと」とされ、経過観察が連続的ではなく、6時間以上の間隔をあけてなされるものとの表現に変えられている。「法的脳死判定マニュアル」ではこの点に関する訂正はなく、これまでの臓器の提供のための脳死判定は全てこのガイドラインに則って行われてきている。それゆえこれまでの法的脳死判定は観察時間に関しては全て合法である。しかし合法の基準となるガイドラインは判定基準に示された経過観察時間の意味合いを勝手に変えてしまっている疑いが濃い。この問題を解決するには経過観察時間の医学的意味を明らかにしなければならない。

 ところで、判定基準に経過観察時間が設けられているのは「絶対に過誤をおかさないため」とされているが、6時間以上経過観察を行えば判定の過誤をおかさずにすむ理由の記述は見当たらない。この理由があまりにも明瞭であり、その解釈に関して誤る者など誰もいないからということも考えられるが、実際はそうではない。経過観察時間の解釈をめぐって法学者たちのあいだには依然として論争が続いているのである。

 厚生省基準は経過観察時間を判定基準に組み込んでいるし、ガイドラインは死亡時刻に関する事項として「法の規定に基づき脳死判定を行った場合の脳死した者の死亡時刻については、脳死判定の観察時間経過後の不可逆性確認時(第2回目の検査終了時)とすること」と規定している。しかし、「確かに、6時間以上という経過観察時間の間に死のプロセスが進行していてその時間が経つと完全に死となるのであれば、判定終了時が死亡時刻となろう。しかし判定基準によっては、経過観察時間として12時間あるいは24時間以上を要求するものもある。死のプロセスが十分科学的に解明されているのであれば、こうした見解の相違は生じるはずがない。従って、経過観察時間は、その間に打つ手はないが万一のことを考えて慎重に配慮するという意味での時間設定ではないのだろうか。このように理解すれば、時間設定に関する見解の相違も慎重度の違いとして納得することができる。そして一定時間の経過が死の判定についての慎重度の問題であるならば、死亡時刻はやはり判定開始時にさかのぼって認定されるべきである」と主張する法学者も少なくないのである。三徴候による死亡判定の場合にも、万一の蘇りを考えて慎重に、埋葬・火葬を死亡宣告から24時間以降としている(「墓地・埋葬等に関する法律」)。この間は死者としてではなく病人と考え、香典の前にわざわざお見舞いを持参する習慣もあるし、一種の経過観察とも見ることのできる通夜の時間が設けられている。しかしそれでも死亡時刻が臨終宣告の24時間後になるわけではない。このように考えるならば、死亡時刻は判定開始時刻とすべきだとする法学者たちの見解にも一理あるとせざるを得ない。この問題に決着をつけるためにも経過観察時間の医学的な意味の再検討が必要だろう。

しかし、経過観察時間の医学的意味など簡単なことである。脳死判定はもちろん、三徴候による死亡判定においても、そこで観察された諸機能の停止が不可逆的なものであることを、判定の時点で証明することが出来る臨床的な技術は存在しないということである。そこで判定された不可逆性は時間経過によってしか確認する方法がないのである。このことを脳死に即して考えてみよう。竹内一夫氏によると「脳死の基本的な道すじ」は次のように説明される。「頭蓋内圧が急に高まると、やわらかい脳の一部がその圧力でわずかな隙間におし出される。これを「脳ヘルニア」あるいは「脳嵌入」という。・・・この脳ヘルニアがおこって、そのままの状態が長く続くと、脳の一部、血管、神経、あるいは脳室や髄液腔が強く圧迫される。さらには脳幹にある生命維持に欠かせない意識、呼吸、循環などを支配する中枢の働きが障害を受け、昏睡に陥り自発呼吸がストップする。この脳圧亢進や脳ヘルニアによって脳循環不全、脳アノキシアが促進されるという悪循環がおこることも重要である。そして、結局、脳循環も完全に停止し、脳死状態になる」。脳血流停止と脳神経の関連について高須俊明氏は「脳血流が全体的に停止すると、脳内の細胞は機能を停止(機能死)し、細胞は壊死する。機能死と器質死を区別できる臨床的方法はない。脳血流がないため脳組織に生活反応が起こらず、血流停止後、時間の経過とともに、次第に脳は自己融解していく」と説明している。竹内氏や高須氏の「脳死の基本的道すじ」の説明はいずれも脳機能停止、脳細胞死を脳循環停止によって説明するものである。脳循環が停止すれば、脳内酸素供給が絶たれ、酸素代謝も糖代謝も停止し、脳内の細胞が生き続ける条件が失われ、細胞は必ず死ぬ。従って、脳循環停止と生理学的に基礎付けられた一定の停止時間とに基づく脳機能停止の証明であるならば、そこで証明された機能停止の不可逆性は原理的であり、実体論的なものである。この場合には、経過観察時間は必要がない。

ところで、厚生省脳死判定基準は竹内氏の「脳死の基本的道すじ」という実体論的脳死把握を的確に反映した現象論になっているだろうか。前者の判定する機能停止の不可逆性は統計的・経験的不可逆性であり、「基本的道すじ」での不可逆性は理論的・原理的不可逆性である。前者は、現在の技術ではこれを回復させることは不可能だということを意味し、後者は医学がどのように発展してもこれを回復させることは不可能だということを意味している。この両者における不可逆性の違いは、実体論的脳死把握とこれに基づく現象論的判定の違いには還元できない相違である。還元可能であるためには、脳血流停止に関し、まずその理論値が明らかにされ、ついで臨床的・実践的測定値との許容誤差が示されなければならない。この許容誤差を媒介にして始めて、実体論的把握とその現象論的判定の対応が可能となる。しかし、厚生省基準の判定検査項目には脳血流検査項目がない。厚生省研究班の「脳死」把握には、その概念と判定検査項目とを統一的に捉える観点が欠けているのである。脳死の概念は病理学的機序に基づく「全脳髄の全機能の不可逆的消失」だが、判定基準の実質はこれとの関連性を欠いた、「臨床的に検査可能な機能」の「統計的・経験的」な不可逆的停止となっている。概念と判定基準では「全脳」の範囲が全く異なり、この違いを説明する根拠が示されていない。さらに、後者では不可逆性のラインが細胞の活性代謝レベルと基礎代謝レベルの間に引かれているが、前者では基礎代謝と細胞死の間に引かれているのである。それゆえ、厚生省基準は脳死判定の基本として「(1)全脳死をもって脳死とする、(2)ひとたび脳死に陥れば、いかに他臓器への保護手段をとろうとも心停止に至り、決して回復することはない」を掲げているが、この概念との対応性を欠く厚生省基準によって脳死と判定された者が病理学的にも回復不可能というわけではない。

 現象論的な回復不可能判断といえども、それが実体論的理論に基づいているならばこうした二枚舌的混同は生まれない。さらに実体論的理論が脳細胞の生存条件の生化学的研究に基づくものであるなら、その現象論的判定基準は正確性を増すだろう。脳死判定基準は少なくともこのレベルには達したものであるべきだ。そのための第一歩は不可逆性概念を神経細胞レベルで考察し、そこに含まれる経過観察時間という時間的因子の意味を明確に把握することに始まる。林 成之氏の考えを聞こう。

  脳蘇生の限界は、神経細胞のレベルと脳組織レベルの二面性から考える必要がある。まず、神経細胞レベルで考えると、神経細胞は細胞内のホメオシターシスが壊れ、細胞膨化を起こしての壊死という形での死に方と、細胞内Ca2+の増加から遺伝子損傷を起こし、細胞が萎縮しながら死滅するアポトーシスという死に方がある。これらの神経細胞が蘇生限界を超えて死んでいくプロセスにおいて細胞膜の機能が消失するステージがあり、その際、神経機能の面でも電気生理学的な検索においても神経細胞の反応が見られなくなるため、細胞が死んでいるのかあるいは単に細胞膜の機能が消失しているだけなのかを、細胞一個取り出しても正確に区別することは出来ない。

この問題は、特に、細胞構築が確立していない小児において起きやすい。この場合神経症候学的にも電気生理学的な検索でも反応がみられないとしても,直ちに細胞が死んでいるとはいえないことになる。小児の神経細胞は発育過程にあるため再生能力が高いと考えられているが、これとは別に、成人より小児では細胞膜の機能消失だけで脳が死んでいるようにみえやすいという問題がある。神経細胞が死んでいるのか、あるいは脳の機能が消失しているのかを正確に区別するモニターがない現状において、神経細胞死をどのように理解すべきなのだろうか?その判定法として、理論的にも現実的にも、あらゆる反応が全く消失してからどれくらい経過したら細胞は生き返らないかという、非生理学的かつ物理学的な時間経過という因子を導入する方法しか考えつかない。したがって、細胞膜の脆弱性が強い小児では、当然大人より長い時間経過をもって神経細胞の不可逆性を判定することが求められる。

それでは、不可逆状態から細胞死の間にどれくらいの時間的距離があるのであろうか?脳死判定で、この問題をひっくるめて科学的な検証ができないため、おおよそ大人では,6時間の経過観察時間を設け、学童は12時間、幼児では24時間、乳児では48時間経過をみることが提唱されている。基本的な考え方として非常に合理的な判定法といえる。逆な言い方をすれば、瞳孔散大、呼吸停止、対光反射、脳波や脳幹電位の反応がみられなくても、直ちに、脳の神経細胞死と判定することは出来ないし、蘇生限界を超えたともいえない。現在、このような状態は臨床的脳死といわれているが、そこにもある程度の時間的因子を加えて臨床的脳死と考える方が間違いのない考え方といえる。著者らの経験では、神経反応の消失に加えて、脳波、脳幹電位に反応がみられなくなっても15分間後から反応が出現して回復した症例を経験しており、臨床的脳死の判定においても1時間とか一定の時間的因子を加える方法が現場の治療にたずさわる医師にとって納得のいく脳死判定につながると考えている。

一方、脳組織レベルで配慮すべき問題として、障害部位の問題がある。英国では脳幹死をもって脳死とする概念が導入されている。本邦のように大脳皮質を含めて脳の全ての部位で不可逆状態となる全脳死を脳死と考える形をとるのか、あるいは、脳幹死をもって脳死とするかは議論の分かれるところである。脳死判定は全脳死をとるか、あるいは、脳幹死をとるかに関わらず、細胞レベルでの不可逆状態を判定する際の時間的因子が、絶対に配慮されなければならない。

 

林氏のいわんとするところを正確に理解するためには、「蘇生限界を超えた」という言い方と「不可逆性」あるいは「不可逆的状態」という言い方に注意を払いつつ、細胞レベルのことなのかそれとも組織レベルのことなのかを明確に区別しなければならない。細胞の存立レベルは大きく二つに分けられる。一つは、(A)神経症候学的にも電気生理学的にも反応があるレベルで、活性代謝のレベルである。二つ目は、(B)神経症候学的にも電気生理学的にも反応のないレベルである。この異常レベルも二段階に分けて捉えられなければならない。一つは、(b-1)基礎代謝レベルにあるが細胞膜の機能が消失しているため 反応がないレベルであり、二つ目は、(b-2)細胞死のレベルである。反応を失っている細胞が、(b-1)レベルにあるのか(b-2)レベルにあるのかは、細胞を一つ一つ調べても分からない。それを判別するための科学的方法はないのである。先に、高須氏の「脳血流が全体的に停止すると、脳内の細胞は機能を停止

(機能死)し、細胞は壊死(器質死)する。機能死と器質死を区別できる臨床的方法はない」を引いたが、機能死と器質死を区別することができないのは単に臨床上のことだけなのではない。むしろ臨床的不可能性は細胞のレベルでの不可能性の反映である 。そして「蘇生限界を超えた」といえるのは(b-2)レベルの細胞だけであるが、(b-2)レベルの細胞とは、(b-1)レベルの細胞に非生物学的、非医学的なファクター、つまり物理的ファクターである時間経過を加算したものである。細胞レベルで蘇生限界を云々するにも時間という因子が必要不可欠なのである。

これに対し、組織レベルでのこととなると、組織の可逆性、不可逆性が問題となる。脳組織機能の不可逆的消失とは瞳孔散大、

ECI,呼吸停止など神経症候学的、電気生理学的無反応ということを意味し、「臨床的脳死」といわれている状態である。これを細胞レベルでみるならばBレベルにあたる。Bレベルには生きてはいるが基礎代謝レベルにあるため、細胞膜の機能が消失しており、無反応という細胞が含まれる。それゆえ、組織的には「不可逆」とみられても、細胞レベルで「蘇生限界を超えた」ということはできないのである。そして脳幹死説を採ろうと全脳死説を採ろうと、「臨床的」であろうと「法的」であろうと、脳「死」という概念を使用しようとするならば、組織レベルでみても、細胞レベルでみても時間因子を欠くことはできない。組織レベルでは不可逆的機能消失状態を脳死と判定するために、細胞レベルでは無反応な細胞から基礎代謝レベルの細胞と死んだ細胞を判別するために、経過観察時間が必要不可欠なのである。ただし、いずれの場合もどれだけの経過観察時間が必要なのかは、理論的に決定されているわけではない、その基盤は統計と経験である。

まとめ

これまでの議論で明らかになった点を簡単にまとめよう。厚生省基準は四つの点において実体論的基盤を欠いた現象論的判定基準である。脳幹反射検査項目と検査方法が理論的に定められておらず、研究班の合意によっていること、脳波検査の意義が示されておらず、深部脳波に無関心である根拠も示されていないこと、つまり脳波検査の必要性についても理論がなく、研究班の合意によって決定されていること、経過観察時間については基礎となる理論がなく、統計と経験に基づかざるを得ないこと、そして薬物の影響に関して見切り発車としかいえない扱いをしていることの四点である。意識の問題については実体論的基盤に基づくかに見えたが、その基礎とした脳機能論はあまりにも古く、現在では不十分なものと指摘されている。このほかに、厚生省基準が関心を持つ脳幹機能が神経機能に限られており、その根拠の説明が全くない、という問題がある。世界の判定基準が脳幹機能に注目するのは、「脳幹機能が停止すれば人間は生きていけない」からであるといわれている。脳死と判定された人も人工呼吸器、昇圧剤、ADHホルモン、厳重な水分管理等によって、首から下はほぼ正常な状態でかなりの期間「生存」できるようになっていることは別としても、人間が生きていくために必要不可欠な脳幹機能は神経機能だけではない。脳が果たす内分泌機能を失えば人間は生きていけない。それにもかかわらず厚生省基準は内分泌機能を検査しない。この点においても、厚生省基準が判定する不可逆性は統計的・経験的不可逆性、つまり現象論的不可逆性にすぎないということが明らかなのである。脳死判定基準は根底からの再構成が必要だ。

林 成之 「脳低温療法(脳温、脳冷却、補助療法、治療成績)」 ,高須俊明・林成之 『脳蘇生治療と脳死判定の再検討』 近代出版 2001 p.48林 成之・守谷 俊 「脳死診断の現場と無呼吸テスト」,高須・林 前掲書 p.93同論文 pp.87,88 (  )内は筆者の補充 唐沢秀治 『脳死判定ハンドブック』 羊土社 2001 pp.129〜147高知新聞社社会部 「脳死移植」取材班 『脳死移植−いまこそ考えるべきこと』 河出書房新社 2000

p.105

 脳死・臓器移植に反対する関西市民の会 News14 http://fps01.plala.or.jp/~brainx/news14htm  http://www.telegraph.co.uk/et?ac 脳死は人の死とする立場からの議論は齊藤誠二 『脳死・臓器移植の論議の展開』 多賀出版 2000,

脳死は人の死ではないとする立場からの議論は倉持 武 『脳死移植のあしもと』 松本歯科大学出版会 2001

高須・林 前掲書 p.229脳波学会基準もまったくのオリジナルというわけではなく、「新潟大学脳死判定基準」というものが

植木幸明氏によってすでに使用されていて、これをモデルとして作成されたようだ。新潟大学基準に

ついては残念ながら調べることができなかった。

この問題の検討が本質論的脳死論を構成する。これについては本論では検討しない。松浦啓一・中尾啓之・小嶋正治 『脳の機能とポジトロンCT』 秀潤社 1988竹内一夫 『脳死とは何か』 講談社ブルーバックス 1987 p.77竹内一夫 前出論文 高須・林 前掲書 p.229唐沢秀治 前掲書 p.209洪 祖培 「我が国で行われた臓器提供のための脳死判定にたいするコメント」,高須・林 前掲書 pp.238,239同論文 pp.239,240C.パリス 『人間の死と脳幹死』 医学書院 1986、これに添えられた翻訳者植村研一氏による「一般読者のための解説」pp.1~4大村 裕編著 『概説生理学 動物的機能編』 南江堂 1991 p.331W.ぺンフィールド 『脳と心の正体』 法政大学出版局 1992 p.56生田・武田 「『脳死』をめぐる神経病理学」 『神経科学レビュー5』 医学書院 1991、生田・武田 「『脳死』の神経病理学」 『神経研究の進歩』 第36巻2号 1992、有田・魚住ら 「脳死患者における視床下部および下垂体系機能」 『脳神経科学』 第16巻10号 1988林 成之 「重症脳損傷患者の、新しい概念にもとづく脳障害機構」 高須・林 前掲書 p.38川村 浩 『脳はとりかえられるか』 共立出版 1996 第4章、第5章唐沢秀治 前掲書 p.171同書 pp.170~189同書 p.202同書 p.208林 成之 「脳蘇生とは? (脳蘇生から脳死、脳死判定へのプロセス)」 ,高須・林 前掲書 p.25A.E.ウオーカー 『脳死』 メディカル・サイエンス・インターナショナル 1987 p.74植村研一 「一脳外科医は脳死をこう考える」 中央公論 1987年5月号竹内一夫 前掲書 pp.102,103澤登俊雄 「脳死問題の考え方」 ,梅原 猛編 『「脳死」と臓器移植』 朝日新聞社 1992 pp.150,151竹内一夫 前掲書 p.34高須俊明 「脳と、脳損傷の病理・症状・転帰」, 高須・林 前掲書 p.9林 成之 「脳蘇生とは?」 pp.2