1876年(明治9年)4月9日に長谷川泰(34歳)は済生学舎が創設、日本医科大学の前身が誕生しました。1903年(明治36年)8月31日、長谷川泰による済生学舎廃校宣言。同年9月、廃校直後に磯部検蔵によって「済生学舎同窓医学講習会」設立されました。1904年(明治37年)4月、済生学舎学生を救済するために山根正次衆議院議員らによって私立日本医学校が設立されました。1910年(明治43年)3月私立東京医学校を合併、同年10月私立東京医学校跡地駒込(現千駄木校舎)に移転、翌11月付属駒込病院(現・付属病院)が開院しました。1912年(明治45年)7月、専門学校令により私立日本医学専門学校となりました。
1924年(大正13年)7月、日本医学専門学校飯田町分院、後の日本医科大学第一病院が開院しました。飯田町分院は、日本医学専門学校を医科大学に昇格させるため必要とされ、当時の中原徳太郎校長が国学院大学の土地建物を一括購入、これを病院に改修したものでした。しかし開院直前の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災にあい焼失。直ちに拓殖大学の学生寮を移築し、1924年5月二階建てのバラックで開院式を挙げたのでした。中原徳太郎院長の下に、内科・外科・産婦人科・小児科・眼科・耳鼻科・皮膚泌尿器科の7科が診療に当たりました。
内科の初代教授が大倉安治部長でした。
1926年(大正15年)2月、日本医学専門学校は日本医科大学に昇格、飯田町分院は日本医科大学第一病院と改名されました。
大正13年5月〜昭和5年3月
昭和5年4月〜昭和35年1月
昭和35年1月〜昭和57年3月
昭和56年4月〜平成10年3月
平成10年4月〜平成26年3月
第二内科は大正13年、現在の飯田橋に当たる地に開設された日本医学専門学校飯田町医院に端を発し、長らく飯田橋の地にありました。
平成9年の病院の統廃合に伴い、千駄木の付属病院に移り、第二内科学教室として神経内科、腎臓内科および膠原病リウマチ科(リウマチ科)を担当しておりました。平成18年4月からは名称を内科学講座(神経・腎臓・膠原病リウマチ部門)と変えております。
神経内科では、脳梗塞を始めとする脳血管障害の早期診断・治療および脳梗塞急性期における脳保護を科の主要テーマに据え、その他パーキンソン病ならびにその近縁疾患およびアルツハイマー型認知症に代表される認知症性疾患などの変性疾患、末梢性神経障害、中枢神経系の感染症などの診断・治療を行っております。
研究面では、脳神経細胞の虚血性細胞傷害のメカニズムおよびその保護(脳保護療法)について多面的に検討を行っております。また最近では、骨髄幹細胞移植により脳梗塞によって失われた神経細胞を再生することができるかどうかについても研究を始めております。
また、脳組織の病変や脳血流・代謝状態を描出する画像診断機器であるMRI・A、SPECT、PETは1980年代以後に飛躍的に進歩を遂げていますが、我々はこれらの診断機器を駆使して脳梗塞におけるt-PAの適用の決定や、アルツハイマー型認知症の早期診断に役立てています。
千葉北総病院内科、武蔵小杉病院内科に神経内科医を派遣して、他の付属病院においても診療に貢献しております。