難病患者の在宅療養の実態

小野妙子さんの写真

松阪・訪問看護ステーション カトレア
            管理者 小野 妙子

 私が難病の患者様との関わりを持たせていただきましたのは、鈴鹿病院への転勤からでした。難病の患者様とのかかわりを話させていただくには、私の経歴、職歴にそって話させていただきますのが私なりに一番整理しやすく、話しやすいのでお許し下さい。
 
 津病院から鈴鹿病院へ転勤したのが昭和57年4月、重症心身障害児の病棟管理でした。そこで4年、その後結核病棟を改築し神経難病の患者様を収容するという計画のもと何もわからないまま取り組みました。初めて聞く病名に戸惑いもありました、毎週行われた疾患理解の勉強会、追いつかないようにして入院してくる患者様、その都度勉強しました。レクレーションに患者様をお連れしていった、みかん狩り農園で農園主の奥様、脊髄小脳変性症の患者様を見つけたこともありました。ALS・SCD・多発性硬化症・ハンチントン舞踏病・筋無力症・パーキンソン病・スモン・シャイドレージャー・ミトコンドリア脳筋症、収容に際し当時の飯田院長先生にはしっかり後押ししていただきました。
 
 あっという間に4年が過ぎ次に筋ジストロフィーの病棟の呼吸管理を任されました。神経難病以上に私の頭はパニックになりました。こだわりの強い子供達、体外式の人工呼吸器を使用しており看護の大変さに驚きました。そこで青森まで勉強に行かせて貰い、鼻マスクによる人工呼吸を導入しました、これにはあまり時間を要しませんでした。体外式人工呼吸器のデメリットがあまりにも大きく、寒さ、圧迫感行動は自由にならず食欲も落ちていました。鼻マスクによる人工呼吸は行動範囲も拡大され圧迫感も無いことから食欲も増しやせていた子が太って、体力回復にも繋がり、楽になることを子供達が理解してくれたからスムーズに導入できました。兄弟が別々にしか外泊できなかったケースが一緒に帰る事ができ、ご両親も介護が楽になったと喜んでいただきました。外泊する車の中で胸を押し続けたと話されました。
 
 
 在宅の患者様との出会いは神経難病の病棟を開設した翌年位からとおもいます。訪問看護研修の「難病患者様のかかわり」についての看護協会の講義を担当させていただいたこと、飯田先生の難病検診のお手伝いをさせていただいたことが、いろんな人との出会いのきっかけとなりました。
 
 研修を受講していただいた保健師さんから要請があり神経内科のDrと共に志摩地方への難病の検診に出かけました。ALSの患者様・難病の患者様の多いのに驚きました。でも、皆さん家庭の中で家族の介護の中で幸せに生活して見えました。此処で、ALSの会にちなんで私のALSの患者様との出会いを少し話させて頂きます。
 
 初めてのかかわりをもった女性の患者様は、近隣の開業医様から病名を告げられて入院して見えました。まだまだ一人で歩くこと食事をすることが可能な患者様でしたが、息子様が東京大学の大学生と、生き甲斐を話されていたにも関わらず、息子様帰郷時外泊され自殺されました。息子の成長を確認できない、迷惑をかけるといって居られたようです。息子様のショックは大変なものでした。我々も、何故支えてあげることができなかったかと残念でなりませんでした。
 
 次に関わらせていただいた患者様は男性の40代の患者様でした。一番長く関わらせていただきました。意思の疎通に文字盤を使用したり、カードを作ったり、ナースコールの工夫をしたりしましたが、一番理解していた奥様も子供様が小学生と小さく、お姑様との板ばさみになり見ていられなくなりました。思うように意識を伝えられない葛藤を目のあたりにし辛い思いをしました。
 
 また、年齢の高い男性患者様は、奥様が鈴鹿病院の近くに家を借り、毎日かよわれました。迷惑をかけてはいけないと言い本当に何も言われない患者様でした。私たちで、してあげられることは何だろうと考えさせられました。
 
 志摩地方、前島(さきしま)病院の患者様、近隣の保健婦さんからの依頼で訪問しました。神経難病の患者様が多いのに驚きました。志摩地方では裕福な真珠製造業の社長、家族の女性が絶えず三人で介護してみえました。また、小さな二間だけの小屋に夫婦二人だけの生活がありました。文字盤を使ってご主人がうまく意思を汲みとって見えました。暗い迷路のような部屋に通されたこともありましたが、皆さん家族様が一生懸命でした。近くにも同じような病気で困っている人が居るので見てあげてほしい、と、病気を隠すこともなく地域全体で支えておられました。三重県内ですが遠く行くのに時間を要します。当初は2週間おき、時間が無く1ヶ月置き、その後は2ヵ月置きとなりました。
 
 
 もうひとつ力を入れてきた事業に入院患者様の在宅との調整、在宅の患者様を生活しやすいように支えるという目標を持ちました。特に筋ジストロフィーの患者様は年齢が低く、母親と離れることに苦痛を感じる子供達です。6〜7才で養護学校が付属する療養所へ入院です。母親恋しく我儘言う子もありました。できるだけ子供の望む親の元で生活させてあげたいと思い、悪いときのみ入院し、マスクによる人工呼吸の導入を行い在宅に返しました。その代わり毎月患者様宅を訪問しました。訪問は静岡、浜松、愛知、尾鷲、紀南と私も若かったんですね〜。各地の美味しいものも食べました。
 
 辛いこともありました、訪問先で患者様のお婆ちゃんが畑でセロリを一株取ってきてくださいました。大きな立派な見たこともないほどの株でした。ご自分が作っているといわれ、ぜひ持っていって食べてほしい、大事な孫が世話になっている人たちに私の気持ち!と言って半分に折れ曲がった腰で畑に精を出し、次は何を持っていっていただこうとお婆ちゃんの楽しみを作っていました。断る事も出来ず車に積んでいただきました。車はワゴン車で荷物も人も一緒です、トランクルームではないのです、セロリは私の大嫌いな食べ物で其の臭いが嫌いなんです。鈴鹿までの2時間半の苦痛わかっていただけるでしょうか?またネギの時もありました。匂いの強いものばかりです。おばあちゃんが「内の大事な孫です!」と一生懸命に接してもらっているのが良く分かりました。こんな病気の子を産んでも責められることなく大事にしてもらってと、お母さんは涙ぐまれていました。一卵性双生児で二人とも筋ジストロフィーでした。
 
 自宅に帰ってもらい得られたメリットは沢山ありました。学校の友達との関わりです、朝家まで誘いに来てくれる、車椅子を押して家まで送ってくれる友達ができたこと、母親以外介護職員以外の健常児との関わりを持ち、又、成人では地域のボランティアの援助を受け一社会人として職業にも付け、自信を持って行動範囲を広げていました。
 
 色んな患者様とのかかわり今一歩踏み込んで行きたいと思っていた矢先、津病院への転勤命令、三重中央病院立ち上げ準備のため断ることができず、思いは消沈していました。三重中央病院がスタートし落ち着きだした平成14年、今度は金沢への転勤でした。叱られましたが転勤を断り退職することとなりました。新しい職場で、理事長に訪問看護がやりたいと申し出、再び在宅で生活しておられる難病の患者様とのかかわりが持てるようになりました。
 
 
 訪問看護の職についてからALSの患者様2名、SCDの患者様1名パーキンソンの患者様は特定疾患に認定されている患者様が7〜8名家族の都合で認定されていない患者様2〜3名、小児難病の患者様3名、小児の患者様はお母様のレスパイトとして関わらせていただいています。週2回の訪問ですが、もっと関わってほしいと要望されても看護師不足はどうしようもありません。
 
 NIPPV導入の患者様3名いらっしゃいますが、皆様家族の協力の下、自宅で生活して見えます。介護保険が導入されホームヘルパー、ショートステイ、デイケア利用しておられますが、事業所によっては呼吸器の持ち込みは拒否されるところが多く、まして吸引器使用しているとなると全くだめ!訪問看護では家族のレスパイトまで考えてあげられません。
 
 訪問看護師不足も大きな問題となってきました。入院期間が短縮されている今日在宅の患者様たちをどう支えたら良いかと不安になります。私どものステーションでも常勤Ns5名非常勤2名PTOTの非常勤4名、これだけいても90名の利用者様を要望どおり支えられません。訪問看護ステーションを持たない事業所は中々受けてもらえず困ります、と最近多く耳にします。まず、空きは有りますか、訪問看護にあわせて後のサービスを計画しますという、ケアマネさんが多い中、医療保険利用の特定疾患の患者様は不利かと思います。介護保険の計画の中に入っていないと担当ケアマネにも忘れられがちです。またステーションによっては医療保険は扱わないところもあると聞きました。
 
 防災の問題もあり電化製品を使用している患者様のリストを中部電力に届けて停電時の対応をお願いしました。もちろん患者様には了解の元行いました。
 
 患者様を支えていただけるDrも不足しており、なかなか思うような対応がしてもらえません。色んなところで色んな話し合いがされていますが実際は地域の近医では対応していただけないのが現状です。

  
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