古典鍼灸研究会(付脉学会)

「21世紀の鍼灸に向けて」 石田秀実

  古典鍼灸研究会(付脉学会) 60周年記念講演 
2000年11月23日 於赤坂プリンスホテル


A.19世紀から20世紀にかけての西欧医学とは、東アジアにとって何であったか。

1.17〜8世紀に於ける東アジアへの西欧医学の伝来


現実的な効果という点では、ほとんど何ものでもなかった。


中国:外科・眼科などのみの限定的評価(逆にイエズス会宣教師が中医学の効果に驚き西欧に書簡を送っているほど)。 内科では中国伝統医学という評価-ゆるがない

解剖学的身体図式:18世紀まではガレヌス的解剖学しか流布しない。(康煕帝にのみはP.ディオニの解剖書-ヴェサリウス流の近代的解剖書が満州語訳で伝わっていたが)

一定の評価をしても「死者の形質にすぎない」として二次的に扱う。……「生者の働き・機能とは別のもの」という「気の身体」観が根強く働き続ける。

 cf.キリスト教禁止にともなう西欧書輸入制限(18世紀中葉〜)のため中国医家がヴェサリウス流の解剖学を受容するのは1851年の『全体新論』(B・ホブソン)以降となることも影響。


日本:外科・眼科中心の限定的評価。

内科領域にもある程度浸透……とはいえ当時の西欧医学は、細菌病理学以前のハーブ医学ゆえ効果は低い。薬の新奇さから、いわばプラセボ的に効いた程度。漢方医も全く驚異に思っていない。

解剖学的身体図式:ヴェサリウス流の図式を17世紀末に受容(本木良以)し、……いわゆる古方派勃興以前であることに注意……18世紀中頃には解剖が盛んとなる。

 cf.プラグマティクな日本人:17世紀、曲直瀬学派の饗庭東庵・味岡三伯らによって早々と蔵府経絡の実体性が否定されてしまう-「気の身体」を実体としてとらえたうえで否定。臓腑経絡は機能ではなく実体と勘違い。
→古方派は18世紀になってこれを大袈裟にプロパガンダしたにすぎない。(後世派が実体としては否定し、理論としてのみ評価したのを、理論としても否定しただけ)

だが、総体として言えば、日本でも西欧医学は死者の身体図式という点で評価されるものの、伝統医学を越える効き目があるなどという評価はなかった。

2.19世紀中頃まで

西欧医学そのものの効果によってではなく、西欧の物質文明の力、帝国主義的攻勢に気圧されて、「制度的に」西欧医学化が進められ、伝統医学が根拠もなく否定される。

 cf.帝国主義の時代-戦争の時代における軍隊医学の効用ということも西欧医学化に有利に働く……18-9世紀西欧医学は基本的に軍隊医学であった。

3.19世紀中葉〜20世紀

ウイルヒョウらの細菌医学・実験医学の方法論登場

→魔弾主義の幻想へ:薬は魔弾であり、病気を消滅させるという幻想⇒伝統医学の否定的評価の科学的根拠になると思われてしまった。

だが実際には、In vitoroでは魔弾に見えても現実の生命体中ではそうではない。⇒薬は身体の中で自然治癒力発動のきっかけになるにすぎない。

だが、こうした幻想はさらに医療の万能幻想へと展開し、「自然治癒力」のことは現代生物医学では、ほとんど無視されてしまうにいたる。(C.ベルナールのように、実験医学の基礎を築きながら一方でホリスティクな身体の内部環境についてきちんと考えた医者も、少数見出だすことはできるが)

4.一方、20世紀における感染症減少が、化学療法や抗生物質によるものでないことは、現代西欧医学史のうえでも、もはや常識である。

→栄養状態の改善・教育の普及・上下水道の整備・食品衛生の普及などなどが人間の免疫力・自然治癒力を高めた。その結果としての感染症減少。……この事は様々な研究が実証している。たとえば肺結核死亡率:19世紀前半から滅少の一途。ストレプトマイシンが登場する前にすでに重大な脅威ではなくなっていた。

*日本でも1940年以降、同様にして結核死亡率激減。1950年以降のストレプトマイシン普及以後よりも減少率は高かった。

→①細菌医学や実験医学は、In vitoroのいわゆる「実証」(試験管や都合よく設定された実験系における)では病気を消滅させるかのような幻想を与えたが、現実に感染症を減少させたのは、現実の人間身体が有する「自然治癒力」や「免疫力」であり、それらを高めることに貢献した栄養・衛生・教育などの政策であった。

 ②逆に魔弾主義の幻想による化学療法・抗生物質などの乱用は、生物界の有機的共生共殺秩序を混乱させ、多剤耐性菌などによる医原病多発の温床になってしまっている。(もちろん個々の患者レベルで、化学療法や抗生物質がきっかけとして働いて免疫・自然治癒カが有効化して病気が治った事までを否定しているのではない。統計的なレベルで実証されるのは、In vitoroのレベルの魔弾的薬物の力よりも自然治癒力増強に貢献した栄養・衛生政策であるということ)。

→魔弾主義幻想と医療の万能幻想上に築かれた現代生物医学:危うい医学

とりわけ「20世紀になって細菌病理学・実験医学(つまりは現代生物医学)のおかげで感染症が征服され、人々が長寿になった」といった言説には、かなりのうそがあると見なければならない。

 cf.長寿の原因のほとんども、栄養・衛生状態の改善による乳幼児や老人の死亡率減少によるもの。

→実験結果の見掛け上のもっともらしさや、抗生物質などの魔弾幻想を取り除いて、公平な視点で20世紀の現代生物医学を考えると……
→「現代生物医学が病気を減らした、治した」というわけには到底いかない。(そして現実に病気自体は、医学の「進歩」宣伝にもかかわらず全く減っていない)それどころか現代生物医学が魔弾と宣伝する薬物も治療法も、生物の身体レベルでは
→「その薬物や治療法をきっかけとして自然治癒力を発動させ、自然治癒力に頼って病気を治している」と言わざるを得ない。

5.19〜20世紀に医学の上でまずなにが起こったのか

 ①栄養・衛生・教育などの改善による社会全体の免疫力・自然治癒力の増強
→その結果としての感染症の減少・社会の長寿化

 ②その後に勃興した細菌病理学・実験医学による病理の因果論的記述の流行と、「その結果感染症などが減少した」という誤った信念の流行。

原因(細菌・ウイルスなど)→結果(病気)というこの因果論の図式は、わかりやすく便利だが、原因の除去→結果の消滅ということが必ずしも起こらない事を考えれば明らかに間違いであることが分かるだろう。

→細菌が存在しても病気は起こる事も起こらない事もある。魔弾と考えられた抗生物質を使っても病気は治らない事もある。原因と考えられた細菌やウイルス、物質などを除去しても病気自体は治らない事もある。有機的共生関係を考えれば「細菌を消滅させる」などは幻想だし人にとっても危険。

→複数の原因(細菌・物質・心身の変化など)と自然治癒力・免疫力との有機的関係

→病気・健康などと名付けられる身体の多様な状態、のはず。

→であれば、私たちが研究すべき事は、因果論的な、原因-結果、刺激-反応といった系ではない。

 →a.細菌も含めた生物の有機的共生共殺関係の認識=真に科学的研究(病気の視点からいえば、細菌とどう共生することが可能なのか)

 →b.その関係の中で人はどのように在ることができるのかの研究(免疫力や自然治癒力をどう発動させれば、細菌やウイルスをも含めた自然界で「人も生きつつ」有機的共生関係を持続的に保てるのか)

6.だが20世紀現代生物医学は、さらに幻想を積み重ねていった。 有機体としての生物:生老病死の変化や個々の差異はあたりまえ:変化すること=正常、差異がある=正常のはず

→だが現代医学は、壮年者でかつ理想的(つまりどこにもいない)健康人の状態のみを「正常」とみなす異常な正常概念を取って平然としている。

ここからどのような誤りが生じたか?

(1)検査値の正常幻想(基準値幻想)

正常値はどう定められて来たか

 cf.「正常」という言葉自体が人間中心的な価値と欲望を込められた言葉であり、科学的とはいえないし実証もできないしろものであることに注意……たとえば「正常なO2」という科学的概念があるだろうか?

 ①健康と判断された(実証的にではない。あいまいな医者の判断で)人々の検査から出た数値や結果の統計

→正常値を有する健康人の値だと勝手に定義⇒つまり「健康と思われる人=健康な正常値を持った人」という定義:なにも説明してないし、科学的根拠も実証もない、ただの同語反復(この人はなぜ健康か?健康だからだといっているにすぎない)

 ②壮年健康者の平均値=全ての人の基準値としてしまっている。
個人差・年齢差(特に若年・高齢者の)は無視されるので、機械的に病人が作られ(医原病)、機械的に不安をあおる(不安産業=営利事業としての医学)事になる。

(2)壮年不死幻想

正常・健康でないと、まともに人間とはいえないという脅迫観念:いつまでも壮年のような身体を保てないとまともに人間扱されないという誤った幻想を生む。⇒老人疎外

医療の万能幻想:死のない医療という妄想としか言い様のない幻想

→結果的になにをもたらしたか?

 ①大切な死の時=ターミナルを集中治療室で孤独・悲惨に終わらせる治療至上主義医療

 ②老人医療に於ける現代生物医学の無惨な敗北

 なぜなら、老化は病気ではない。有機体の自然な変化。→原理的に治せない。治すべきでもない(自然の摂理・環境中の生物循環の必然)

 だが、現代医学=治す事だけを医療と考えてきた医学。したがって敗北は最初から予定されていたこと。
→老人病院に閉じ込めて頬かぶりという最悪の死の時を普遍化させた。

7.老人医療=治すのではなく、調える医療であるべきだし、それだけが現実的で人間的

→だが、もっと考えると、実は全ての医療において完全治癒とか病原の消滅といったことは幻想にすぎない。完全な健康も完全な異常も観念の上でしか有り得ない。それぞれの人々における心身の差異とゆらぎのなかで、どのように調えるのかを考えることだけが真の医療という名に値するのではないか。

→であれば健康と病気という二分法を前提として、対照群の比較をするような現代医学の「科学を僣称する」方法論自体が幻想の産物、砂上の楼閣ではないのか?

→さらにそうした現代生物医学の方法論を必死に後追いした伝統医学の科学化とはなんだったのか。

8.だからといって現代生物医学の全てを否定しているのでは、もちろんない。

(1)現代生物医学=もともと外科モデルの「排除の医学」

a.病原(邪物)の排除→b.正常状態というモデル

 cf.伝統医学の排除モデルとの違いに注意

a.病原(邪気)の排除→x.正気の回復→b.平衡状態というモデル

*x.の過程(自然治癒カ)は必須のものなのに現代生物医学では軽視

→外科領域における機械技術・手技などの精密化は、17世紀からの西欧医学の長所として、十分に評価すべきだろう。(17世紀伝統医学もこの領域は評価していた)

 ①ただし上記のx過程(自然治癒力に頼って医療が現実化すること)の軽視

 ②自然治癒力を可能にしている心身本来の働き・機能=経絡系の認識体系がとらえてきた機能をシステマティクに認識できないでいること

→伝統医学の方向から補正すべき⇒伝統医学の大学の役割のひとつのはず!

(2)もしも現代医学が「異常な正常」概念(上記の6)を捨てて生物体個々の差異を認めるならば、検査機器の精密化も、もちろん評価すべきだろう。

→ただしその結果でてくる数値が、経験豊かな人間の感覚以上のものかどうかについては、疑いの眼を常に保持すべきである

→「機械の眼・機械のレベルでは、こうであった」という客観性・冷静さ(科学の条件である!)が必要。

*機械で計測した=客観的というのでは宗教的信念か妄信であり科学的な態度とは到底いえない。

9.上記4・5については、次のような反論が予想される。

「栄養・教育状態改善はともかくも、衛生改善はウイルヒョウらの細菌医学と殺菌技術がもたらしたものであり、その意味では「細菌医学」が衛生状態の改善をもたらしたといえるのではないか?」

(1)時代認定の誤り:衛生状態改善は、西欧社会ではいずれも細菌医学登場以前に始まっている。-都市工学・生活改善→衛生

(2)事実認定の誤り:魔弾主義的な殺菌=細菌絶滅の考え方は真の衛生状態にはつながらない。

→たとえば人の皮膚から細菌を絶滅させ続ければ、有機的共生平衡が保てず、逆に限られた細菌が偏って繁殖して不衛生の原因となる。⇒皮膚や身体という生命の場そのものを絶滅できない(人という生命体をも殺してよいというなら話は別だが)以上、有機的共生共殺関係の舞台は常に存在するし、細菌も絶滅などできっこない。

→実際には殺菌も、魔弾主義ではなく、共生共殺関係を前提にしてなされなければ衛生につながらない。(抗生物質乱用がもたらした耐性菌とのいたちごっこはその典型)。

そもそもHygine:衛生とは?

Hygieine(GK)=健康の技法から

衛生=『荘子』庚桑楚篇の「衛生之経」(生命を衛る経)から

→どちらにも生命絶滅のような考え方はない。逆に「生命が守られる事」=衛生

→であれば、生命の有機的関係=共生共殺関係は、衛生の大前提であるはず。

10.だから私たちは再び上記5の末尾に記した結論に立ち帰ることになる。

私たちが研究すべき事は、因果論的な、原因-結果・刺激-反応といった系ではない。

 a.細菌も含めた生物の有機的共生共殺関係の認識(病気の視点からいえば、細菌とどう共生することが可能なのか)

 b.その関係の中で人はどのように在ることができるのかの研究(免疫力や自然治癒力をどう発動させれば、細菌やウイルスをも含めた自然界で「人も生きつつ」有機的共生共殺関係を持続的に保てるのか)⇒こうした視点こそ真に科学的研究をもたらすもの


*①ここで免疫力とは、伝統医学の衛気にほぼ当たる概念であることを思い出すのもよいだろう。一方、自然治癒力は伝統医学の正気にはぼ当たる概念である。

 ②免疫力と自然治癒力が部分的に重なり合う概念であるように、衛気と正気も重なり合う自己の気の内の概念である。

 ③そして伝統医学では早くから、自己の気・邪気ともなりうる他の生命の気・薬物という他の生命の気といった有機的生命関係を前提としていた事を思い出すべきだろう。(詳しくは拙著『気・流れる身体』P.275 『こころとからだ』P.267など)

11.共生という言葉は真実の半分しか表現していない。

→生物の有機的関係の中で共生できるのは、共に死に共に生きているから

地球という生命環境が循環・持続する条件として生命の共生共殺関係がある。

→共生だけしか見ようとしない甘えだらけのロマンチックな環境論も駄目だが、細菌絶滅(それは生命循環のなかでは生命循環系の絶滅を意味する)を唱えて平然としている俗流現代生物医学はもっと救いようがない。

→細菌との共生共殺関係を真剣に考える医学、死ぬ事・治せないことの意味を真剣に考える医学、が是非とも必要である。

12.以上のようであれば私たち東アジア伝統医学の関係者は、こうした状況にどのように対処すべきか。

①誤りだらけの現代生物医学の「科学を僣称する」方法論を、もっと推拙にまねることは意味がないし、その失敗の後を追うだけである。

②とりわけ魔弾主義や正常値幻想、医療の万能幻想、「死のない医療」妄想を追いかけたり、因果論的な原因-結果・刺激-反応の単純きわまりない(生命系と異なる)実験系にのみとらわれるのは、愚の骨頂。21世紀の現代医学もこうした幻想から離れていくべきで、そうした方向に気がついた現代医学の徒もいる(ただし少数)。

③生令の共生共殺関係・自然治癒力・免疫力などについて、現代自然科学はごく部分的にしか語る「言葉」を開発していない。

④一方、調える医学・プライマリケア・ターミナルケア・未病治・診断名のない治療など生命の全体論的性質を踏まえた医療のプラグマティクな方法論と、それを「象徴的に」語る「言葉」を、伝統医学は持っている。

⑤であれば、21世紀は伝統医学が医学の方法論において、モデルを提示すべき時代である。


*次のような事実にも注意

上記1〜3から分かるように、西欧医学の効果が強かったので、西欧医学が東アジアに導入されたのではない。

→逆に、西欧医学の効果が強いと喧伝され、科学的実証もなされたとされる時代に(すなわち20世紀初頭)、まさに伝統医学が各国で復興し始めている。

→つまり人々は細菌医学・実験医学の登場によって西欧医学に向かったのではない。そうしたものの登場の時代に、逆に伝統医学に眼を向け始めた人々がもとめていたのは何だったのだろうか、と考えてみる必要がありそうである。(人々は、西欧現代医学の誤りに本能的に気がついていたのではないか。)


B.本来の伝統医学の医家に立ち帰るべき時ではないのか。

1.伝統医学の医家は、どんなことをしていたのか。

扁鵲・倉公・張仲景・華佗・秦承祖・甄権など……いずれも湯液・鍼灸・導引整骨・刺絡・外科など医療の全領域に手を染めている。『素問』『霊枢』なども鍼灸が主だとはいえ、全領域をカバーしている。

 cf.もちろん涪翁のように鍼石のみと思われる人もいるが

→伝統医学は様々な方法・領域の総合医学であったことは、思い出す必要がある。

2.三国魏晋六朝ころから、微妙な変化が始まったように思われる。

戦乱と異民族侵入、伝染病の時代:医学が宗族維持や孝行、自己の生存のために、貴族・士大夫層にとっても重要なものになる。

→単なる家庭医学を越えて深く医学を学ぶことの必要性

→医学書を執筆する士大夫

⇒だが、彼等は専門的で危険でもある鍼には手を出せない。

→せいぜい灸療法という立場:曹操の孫、曹翕の『灸経』(佚)

鍼とその前提となる脈診は専門の医家にまかせるという立場:『小品方』・『肘後備急方』など

(cf.かつてこうした立場を一つの医学流派と考えた人々が京都にいたが勘違いである。)

→だが、この傾向が、逆に鍼の専門家としての医家(彼等のほとんどは著述などしない)の地位をおとしめるような働きをしたのではないか、と思える節がある。

3.鍼の位置が、湯液に対して次第に従属的なものになっていく傾向:唐宋〜元明と強くなっていく(張元素のように鍼と薬の大家もいたが)。同時に外科・整骨などが、二次的なものとされ、ある場合は賤業視される傾向も。

→運気論による理論整備もあって湯液中心の伝統医学へ

4.けれども気の身体論を前提とするなら

①気の器:導引整骨・外科などで調える

②気の流れ:鍼灸・湯液・刺絡などで調える

→総合医学でなければ本当の医学にならないはず

5.現在は制度の問題があって、鍼灸師は様々な事ができない

→だが、カウンタ・メデイスンとしての伝統医学を本当に考えるなら、漢方薬しか出す能力のない医者(しかも伝統医学理論も学ばない)や鍼灸しか許されない医者では、困る

→現代医学の医者からの見当はずれの非難などは捨て置いてよいが、伝統医学の医者(鍼灸師も医者であることを忘れてはけない)が伝統医学本来のやりかたから遙か遠い地点で分断されているのはどうか?

→①制度の改革運動

 ②一方で、鍼灸・薬剤師の共同作業、有機的生命系に目覚めた医師との共同作業が必要(いわゆる漢方医のえせ科学主義と、そこに起因する鍼灸師蔑視をなくすことが前提作業として必要だが)など、多様な試みが必要。

6.伝統医学の大学はなにをすべきなのか

現在の伝統医学大学:誤りだらけの現代生物医学の「科学を僣称する」方法論を、もっと稚拙にまねることに専念している。

→逆に現代生物医学の方法論を変えていくような提案をすべきである。

自然治癒力・免疫力・有機的生命の共生共殺関係など伝統医学本来の領域を、科学的「言葉」で語る研究をなんとか考えるべきである。