ご意見のある方は、 kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを 送るまで。
・そういえば、倫理学研究室の合宿で(あの有名な京北町に行く)、環境 倫理の勉強会がある。ので、担当の「救命ボート倫理」なる有名な論文を(電 車に乗っているときに4、5日かけて)読んだのだが、これがまたなんともお粗 末な論文で頭に来てしまった。
・それでも4級が先日、「ガレット・ハーディンって女性でしょ?ハーディ ンちゃん、でしょ?」と言われていたので、まあ女性だったら許そうか(やっぱり これも差別?)、と思っていた。が、この論文を批判している別の論文の中でハー ディンちゃんがしっかり「彼(he)」で言及されていたので、無制限に批判する ことに直ちに決めた。合宿が楽しみだ。くく、くくくくく…。
(注記:念のために書いておくが、4級(現在3級)はアカハラの文脈で話をして いたのではない。4級は性別や字の善し悪しやHTMLの書き方で人を判断するこ とのない、大変高潔な方である…)
・ところで以前、
「ガレット・ハーディンって女性でしょ?ハーディンちゃん、でしょ?」と 言われていたので、まあ女性だったら許そうか(やっぱり これも差別?)
と書いたところ(7月2日)、「やはりそれは女性差別です。いやしくも倫理 学を学ぶ者がそういう発言をするのは許せません。いますぐ日記の掲載を中止 して京大新聞に謝罪文を載せなさい、きい」(後半はウソです。あ、怒らない でね)と、ある方のお叱りを受けた。
・この文章を読んで気分を害された方、ごめんなさい。I didn't mean to hurt youとか言って。
・しかし未熟な倫理学者はあえて考えてみる。
「ある行為に関して、それを男性が行なった場合は許さ ないが、女性が行なった場合は許す」というルールは差別 であろうか。
「ある行為に関して、それを成人が行なった場合は許さ ないが、未成年が行なった場合は許す」というルールであ れば誰も差別だと言わないであろう。
・後者は「なぜなら、未成年は成人に比べて判断能力が劣るため、責任が 問えない場合があるからだ」と正当化できよう。
・すると前者はどうか。「なぜなら、女性は男性に比べて判断能力が…」 と最後まで書くと友人を大勢失うのでやめるが、この正当化は明らかに事実に 反する偏見に基づくもので、差別といわれてもおかしくないであろう。
・だが、「なぜなら、男性に嫌われるのは構わないが、女性に嫌われるの は大変困るからだ」という正当化ならどうだろうか。
・男性ならどんな人であろうが死力を尽くして批判するが、女性ならば態 度がふにゃりと軟化して、できるだけ嫌われないように努力しながら批判する、 というのは差別だろうか。
・男性に対して取る態度と女性に対して取る態度が異なることは許されな いことだろうか。ある程度は許される気もするが。じゃあ、どの程度までは許 される?
・ううむ。わからん。また考える。
・昨日ぼくは、
「男性に嫌われるのは構わないが、女性に嫌われるのは大変困るからだ」 という正当化はどうだろうか。
と書いたのだが、「こういう考えは『女性だというだけの理由で、正当に 論文を評価される権利を奪うことになる』という点においてセクハラであるこ とを理解してもらいたい」とのメイルをいただいた。近頃は学問の領域におけ る性的差別のことをアカハラ(academic harassment)と言う らしく、今回のぼくの態度はそれに当たっている、とも指摘されている。
・ううむ。ぼくの腹は黒いぞ。
・たわごとはさておき、この指摘は一理も二理もあると思う。確かにこの ままいくとぼくは、たとえば(偉くなって)学生のレポートを評価するとき、男 性と女性とでは異なる採点基準を持つ、ということになる可能性が高い。
・おそらく、女性のレポートに対する評価の方が甘くなると思うのだ。し かしこれは絶対に非難されるべきことなのだろうか。(非難されるだろうなあ、 少なくともこういうことを学生に明言すれば)
・たとえば、相変わらず強引な例を出すが、世の中には字がきれいな人も いればそうでない人もいる。現在ワープロとPCの普及によって、字の善し悪し が論文の判断基準の一つになるということは減ったかと思うが、昔は相当あっ たに違いない。
・だがこの場合、『字が上手だ(あるいは下手だ)という だけの理由で、正当に論文を評価される権利を奪うことになる』からアカハラ だ、という風に主張されるだろうか。
・字は性別と同様に、論文の中身とはなんら関係がないはずである。しか しおそらく、「字が汚い人の論文については、自然と評価が辛くなる」という ことを暗に認める人は多いと思うし、明言する人も少なからずいるかと思う。
・さて、ぼくがもし「字の善し悪し」を論文の評価基準の一つにすること が正当であり、必ずしも不当な差別とは言えないと考えていたとすると、同じ 理由から「女性の論文については、自然と評価が甘くなる」という基準が正当 であり、必ずしも不当な差別とは言えないと考えることは十分にあり得る。
・結局、「マリリン・モンローの書いた論文は、(田中邦衛にそっくりな) ジャン・レノの書いた論文よりも評価が甘くなる」のは男性にとっては(明言 はしないにせよ)不可避であるように思えるのだ。女性もそうじゃないのだろ うか。
・もちろん「そうなることは不可避である」という事実 から「そうあるべきだ」という当為(規範)は導き出せない が--しかしぼくは事実としてそのような判断基準があると思うだけでなく、そ の判断基準は(字の善し悪しと同様に)あながち不正であるとも思えない。
・ご批判請う。(絶対にあるはず。こだまの誤謬を鋭く指摘していただきたい)
(もっとも今から思えば、ガレット・ハーディンに関しては、「議論が説得 力に欠けるけど、女性だからしょうがないか」と少し考えた気もする。深く反 省)
・「特定の女性ではなく、女性一般 を男性一般よりひいきにする、というあなたの発想は理解しがたい」というメ イルをもらいました。
・確かに、世界中でいっちばん嫌いな女性と世界中でいっちばん好きな親友 の男性のどちらをひいきするか、と聞かれれば、もちろん男性の方だと答えま す。
・しかし、そういう具体的な特徴を捨てて、非常に一般的なレベルで考え たとき、ぼくはやはり女性一般を男性一般よりもひいきにするかな、と思うわ けです。
・たとえば。今ここ大海原に二人乗りの救命ボートが浮いていて、ぼくが すでに乗っており、あと一人乗る余裕があるとします。もちろん、三人乗ると 沈むという設定です。(また、ぼくが下りるつもりは毛頭ありません…あしか らず)
・さて、海には二人の人間が助けを求めて泳いでいます。良くは見えない が、声からして一方は男性で、他方は女性であることだけははっきりわかって います。
・このときぼくがどうするかは言わずとも知れているでしょう。
・もちろんその女性が醜い老婆であったり(あ、またひどいこと言ってるか?)、 男性が世にも美しい美少年だったりした場合は別かも知れませんが、あくまで そういう要素抜きの一般論として、ぼくは女性の方をひいきにするであろうと 思うのです。
(上のような例は実際には起こりにくいでしょうが、たとえばある人の名前 だけがわかっていて、その人が男性か女性かについてのみ知り得る、という 状況は現実に起こり得ますよね)
・というわけで、実際にはあまり起きない例にせよ、上のような場合を想 定すれば、ぼくは「女性一般を男性一般よりもひいきする」と言わざるを得な いと思うのです。
・また同じ人から、ぼくが次のように書いたことに対する批判もいただき ました。
さて、ぼくがもし「字の善し悪し」を論文の評価基準の一つにすること が正当 であり、必ずしも不当な差別とは言えないと考えていたとすると、同じ 理由か ら「女性の論文については、自然と評価が甘くなる」という基準が正当 であ り、必ずしも不当な差別とは言えないと考えることは十分にあり得る。
曰く、「字の善し悪しで論文の評価が多少変わることは避けられ ないことかも知れない。しかしだからといって、字の善し悪しで論 文の評価を変えることが正当であるとは言えない。したがっ て論文の評価が性別で変わるのは、(字の善し悪しと同様に)不当なこ とである」。
(断っておきますが、ぼくは他人からのメイルをそのまま引用しているわけで はありません。あくまでメイルを読んでぼくが理解した内容を、ぼくの言葉で 書いています)
・確かに、「現に差別がある」からと言って、その差別が正当化されるわ けではありません。すなわち、「現に差別がある」という前提からは、「これ からもその差別はあるべきだ」という結論は導き出せません。
・しかし、同様にして、「現に差別がある」という前提からは、「これか らはその差別はなくすべきだ」も必ずしも導かれないのではないでしょうか。
(いや、導かれるかな?暗黙の前提として「全ての差別はなくすべきである」 があるとすれば)
・いずれにせよ、少なくとも「字の善し悪しで論文の評価がある 程度変わる」というのは、ぼくにとっては正当でも不正でもない気 がします。
・というのも、普通に考えて、どれだけ努力しても字の善し悪しが多少論 文の評価基準になることは避け得ないからであり、努力によってどうしようも ないことを「正当だ」「不当だ」と言っても始まらないからです。
・たとえば、ぼくに「あなたは100メートルを9秒台で走らなければならな い。もしそれができないなら、あなたは不正を犯したことになる」と言われて も、ぼくはただただ泣き笑いをして失禁するだけで、どうしようもありません。
・同様に、「あなたは絶対に字の善し悪しで論文の評価を変えてはいけな い」と言われても、ぼくが十分に正直であれば、「それは不可能である」と言 わざるをえないでしょう。
・これは倫理学の用語で言うと、ought implies can(「すべし」は「でき る」を前提とする)という問題です。すなわち「すべきこと」というものは 「できること」でなくてはならない。あるいは裏を返せば、「できないこと」 を「すべき」と言うことは無理な相談である、ということになるでしょうか。
・結局、ぼくが言いたいのは、「性別によって、あるいは字の善し悪しに よって論文の評価基準が変わるのは、厳密に言えばある程度までは 避けられ得ない」ということです。もちろんそれが、ある 程度以上にならないように努力すべきだとは思いますが。
・しかし、厳密な意味では、やはり性別や字の善し悪しは、判断基準にな らざるを得ないのだと思います。それはちょうど、「人を身なりや第一印象で 判断してはならない」と言われても、実際全くそうしないのは不可能である、 というのと似ています。
・ま、以上の議論はつまらない反論かも知れません。ぼくも基本的には 「女性差別反対」側ですし。
・ん、まてよ。そもそもぼくはなぜ女性差別に反対するのだろうか。ひょっ としてこれも男性よりも女性をひいきするからなのだろうか…
・男女という性別で差別をすることは不当だ、という批判に対してぼくは、 いやそもそも性別が一旦わかってしまえばそれを全く考慮に入れないのは不可 能だ、と答えたわけですが(だと思う)、それに対して次のようなメイルが来ま した。
「批判されているのは、まさに自分の性格に対する君のそういう開き直っ た態度なのだ。たとえ性別によって君の評価が異なってしまうことが不可避で あるとしても、君がそういう開き直った態度をとるかぎり、非難は免れないの だ。だから今すぐ懺悔しなさい」
う〜む。これはその通りですね。話の行きがかり上、開きなおらざるを得 なかったところもあるのですが、あることをなすのが不可能だからといってそ れについてまったく努力しないと宣言すれば、非難されますよね、普通。
ま、けど、「男女は平等だからわたしは性別でいかなる差別もしません」 という風に、偽善的になるのがいやだったから、ぼくもあえて「男女の性によっ て評価が変わることは(字の善し悪しの場合と同様に)根本的には避けられ得な い」と言いたかったのです。その大前提を受け入れた上で、なるべく性別で評 価が異なるということを無くそうと努力したいと思うのです。
ん?えらく偽善的な結論になったな。