「余録の意見に賛成」が1票
「児玉の意見に賛成」が10票
「やめなさい」が4票
・先日、江口さんが毎日新聞の宮崎つとむについての社説(余録)はひどい、と言っておられたので、二三日後にどれどれ、と読んで見ると、ホントにひどいことが書いてある。
・4月15日朝刊の余録によると、宮崎勤被告は「ヒトではあるが、人間ではない」そうだ。ヒトであって人間ではない、という言い方はこれだけではわかるようであってよくわからない。そこでよく読むと、「ヒト」というのはホモ・サピエンスとしての人間のことであり、「人間」というのは他の人間とともに社会を構成する一員としての人間、つまり社会的存在としての人間のことらしい。
・この余録を書いた人は、「私が信じられないような行動をする人は、もはや人間ではなく、ヒトでしかない」と言いたいのであろうか。そうするとこの人は、「人間でないヒト」にどういう取り扱いを要求つもりなのだろうか?まさか「人間でないヒト」は皆死刑、という気ではあるまい。しかし、「人間でないヒト」は皆精神病院でも行け、と言いかねないほどの論調である気もする。
・しかし、世論を背景にして恐ろしい常識を吐く人もいたものである。ぼくが宮崎なにがしの兄弟かなにかだったら、絶対この余録の筆者にあって弁明を聴き、事と次第によっては...。いや、やめとこう。これ以上書くのは。
・皆さん、どう思います?
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・ああ、今夜は天気がいいなあ、空が黒い。という話はやめにして、続きを。
じつは、こういう「悪人は人間ではない」という議論は、ぼくの修論のテーマになるであろう話と、結構関係があるのである。つまりこれは、法の世界では「悪法は法にあらず」という議論になるのである。ま、それはまた今度書くか。ぼくの立場はもちろん、「悪法も法なり」だし、「悪人も人間なり」である。
・しかし、「悪い法は法ではない」って議論は、ベンタムがやっつけてるわけだけど、この「悪いAはAではない」っていう正当化論法は今でも使われるんだよなあ。
「さとしっ、あんたなんで授業全然でえへんのっ」
「つまらない授業は授業でないからでぃす」
(ビシバシッ)
「さとしっ、あんたなんでこないだのテストなんにも書かへんかったのっ」
「悪いテストはテストでないからでぃす」
(ベシベシッ)
ほかにも、「悪い『うちの子』は『うちの子』ではない」「悪い学生は学生ではない」などなど...
・ま、このぐらいにしておこう。
・白水氏と遅い晩ご飯を食べながら、熱い人権論争と毎日新聞余録論争。
・白水氏の話では、児玉の解釈は歪んでいる、とのこと。おかしいなあ。よく読んで結構まっとうな解釈をしたつもりなのに。まあ、気になる人は04/15/97(火)の毎日新聞朝刊を読んでください。
・しかし、やはり自分と違う人間や、悪人だと思う人間を「ヒト以上人間以下の存在」と呼ぶのは、傲慢に思えてぼくは好きではない。
・毎日新聞はぼくも基本的には好きである。しかし、余録にも署名をいれよ、と言いたい。
(ちなみに、この件に関してぼくは怒っていたりするわけではないので、その点に要注意。それにぼくはそもそも死刑廃止論者ではないっ)
(ただ、死刑にするかどうかでやたらと精神鑑定が問題となったり、新聞に「ヒト以上人間以下」というような表現が現われてくるのは、常々自分が「既知外ではないか」と考えているこだまにとっては、なにか人ごととは思えない・恐怖に似た感じを覚えるのである)
・宮崎なにがしの行動は、正に「ヒト」ではできない、「人間」らしい行動である、と書かれていた方もいた。あくまで彼は日本の社会と文化の産物である、といったところでしょうか。
・某氏が指摘したように、たしかにあの余録を「宮崎なにがしに限らず、今の若者はヒト以上人間以下のものばっかりじゃ」という若者批判と取ることも可能である。
が、それにしても、この筆者の「おれは関係ないもんね」「おれは人間だもんね」「若者がそうなったのについて、おれは責任ないもんね」式の、ちっとも内省的ではない言い方に、ぼくなんかは何か違和感を感じるのである。いや、やはりはっきり言ってけしからんと思う。許せん。
(「人間でないのなら法では裁けない」という意見をいただいた。ぼくもそう思う。し×××さんなんかは、「いや、これはそういう文脈で言っとんのとちゃう」とおっしゃられるわけですが…)
・次のようなメイルも来た。
『やあやあ、「某氏」の旗色がどうも悪そうだなぁ。 しかし現在「正義」の側にあるあんたの論調は、 少々安直ではないか?
「余録」氏が人を「人間ではない」というのは許せないとして、 では自分の娘が殺された親が「あんな奴は人間じゃない!」と 叫ぶのはどう判断するのか?』
・前半部分は確かにそうだと思う。ぼくはいつのまにか世論(?)に後ろ盾されて、少々無批判な意見を言っていたのかも知れない。
(「やめなさい」を選んだ人は、なるべく意見をお書きください。何も書いていないと異常に恐いので。'Quit it.'だけが来ると、ほんとに恐い)
・原文を実際に読まれて、「あれは『言葉のあや』の範疇である」と書かれている方もいました。けれども、時には「言葉のあや」で済まされない場合もあり、ぼくなんかは今回の文章はそのきわどいラインだ、と思っています。
(失言・暴論の絶えないぼくが言うのもまるで説得力がないのですが。いや、むしろあるのか?)
というか、ぼくが宮崎なにがしの肉親だったら、怒るだろう、という感じです。いや、ほんとにそうだったらじっと我慢するかな?
この件に関してはえぐ×さんも一言述べておりますので、参考にしてください。
また、問題の余録が載った同日の社説には、(社会的責任に言及した)しごくまともな意見が述べられていたことも、ここに記しておきます。