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こだま3.27筆禍事件


  1. 04/02/97:反省文その1

  2. 04/03/97:反省文その2

  3. 04/06/97:反省文その3

  4. 04/08/97:反省文その4


04/08/97

・初めに。前回、「高卒の人はみんなこの言葉がわからないと思うし、変な言葉だと思う」と暴言を吐いてしまいましたが、これは予想されたように、いくらかの反論がありました。

今読むと、明らかに誤解される書き方ですね。ぼくは、「高校を卒業して大学に行かなかった人はみんなわからない」というのではなく、「ある人が高校までの公教育のカリキュラムを普通の成績で終えた時点では、この言葉はわかりにくいであろう」ということが言いたかったのです。大学に行った人の方が大学に行かなかった人がよりも知識があるとか、そういうことが言いたかったのではありませんので、念のため。追記

しかしまあ、「ある人が高校までの公教育のカリキュラムを普通の成績で終えた時点では、この言葉はわかりにくいであろう」というのが正しいのかどうかは統計にでも頼らないとわからないので、ここではおいておくことにします。しかし、少なくともぼくはわかりにくい表現だと思った、ということは確かです。


・さて、それでは本題に入りましょう。ぼくが今回の一件をどのように捉え、どのように反省しているかをここに述べて、この筆禍事件に関してはひとまず自分の気持ちに区切りをつけたいと思います。

・さて、ぼくが口を酸っぱくして泡をごぼごぼ吐きながら力説したいことは、次の二点であります。一つは、今回の筆禍事件に関しては、ぼくはもともと悪意がなかった、ということ。もう一つは、だからといってぼくは責任を逃れようとするつもりはない、ということです。

もうすでに同じことを言っている気がしますが、もう一度わかりやすい(?)比喩を使って説明したいと思います。

・今回の事件は例えるに、ちょうど次のようなことの様にぼくには思えるのです。

「東大路通りを(運転免許も持っていない)こだまがスポーツカーを時速200キロですっとばしていたら、運悪く某助教授をはね飛ばした。」

・この比喩からわかるように、まずこだまは常識を知らないばかである(注:開き直っているのではありません)。しらふでこういうばかげたことをしてしまうのです。しかもそれですぐに謝らず、真面目な顔で「いやあ、某助教授ならよけてくれると思ってたんですけど」と言ってますます怒りを買うのです。

・今回ぼくは、「よしそれじゃあ、たまには某助教授の激怒する姿を見てみよう」とか、「心に深い傷を追わせてやろう」という、考えただけでも失禁ものの意図を持って、あのような文を書いたわけでは、けっしてありません。ぼくの意図は別のところにあったのであり、この意味においては、今回の件は事故だといえます。

(けれども、そのときの自分は自分ではなかった、とか、頭がどうかしてた、というつもりもありません。すでに書いた様に、今回の行動は非常にこだまらしいのです。)

しかし、事故といっても、これは過失事故であり、ぼくには多大な責任があると思うのです。

・過失とは、わかりやすくいうと、「ごく平均的な人ならば注意して避けられえたことを、不注意のためにおかしてしまうこと」です。

だから、ぼくは自分が「常識を持った人間ならやらないようなことを、不注意にもやってしまったのだ」と理解しているわけです。こういう意味で、ぼくは過失犯である、と思います。

しかし、皆さんもご存じのように、過失犯にも責任は問いうるわけです。時速200キロで某助教授目がけて突っ込んでいって、「いやあ、怪我をするとは思いませんでした。わざとじゃないんです」で済めば、警察も裁判官も弁護士も職にあぶれます。

だからこだまは、某助教授を苦しめたことを非常に後悔していますし、ペナルティーは喜んで受けますし(--ペナルティは罪滅ぼしでもあるのですから)、今後このようなことが少なくとも某助教授とのあいだに起きないよう、細心の注意をするつもりであります。(やはり、他の人との間には、起こりうると思います。--注意はしますが)

・というわけで、理屈の上では、ぼくは自分は過失犯であったのだと考えています。しかし、心情的にはそういう理屈を超えたところで深く深く反省しています。これはホントです。ごめんなさい。


・何だかお粗末な反省文になってしまいましたが、とりあえずこれにて気持ちの整理をつけたことにしたい。と思います。


追記

・また、「『高卒』という言葉はそもそも使わないほうがいい言葉である」という助言もいただきました。こだまの言葉使いに気分を害された人には謝りますが、こだまはこの言葉を悪い意味で使ったわけではありませんし、今後そのような悪い意味で用いる気もまったくありません。


04/06/97

・まず最初に。いろいろメイルを下さった方、ありがとうございます。励ましのメイルもあれば、「なんやだらしない。もっと闘わんかい」という恐ろしいメイルもありました。その中で一つ、気になる質問があったので、本人にはすでにメイルを出しましたが、他の人の誤解を避けるためにも、ここでもう一度詳しく答えます。


・どういう質問かというと、「こだま氏はなぜそれほど『自己目的的』という言葉にこだわったのか。あのような言葉はそれほどおかしくはないではないか」という質問です。この質問に答えることは、実は結構こわいのですが、まあ、本音で書きます。あっ、あかんっ、かか、からだがふるえてきたっ。

たしかに、世の中には「合目的的」だとか、「自己同定」(これはあんまり関係ないか)だとかいう言葉もあります。そしてほんとはぼくはこういう言葉についても、「こういう言葉をなんのためらいもなく使うことに、違和感を強く感じる」方ですが、もしこういう言葉や「自己目的的」が哲学書や論文なんかに出ているのであれば、ぼくも何も文句は言いません。いや、まあ、変な言葉だなあ、ぐらいは言うかもしれませんが。

また、もちろん、英語の授業で"for one's own sake"を「自己目的的」と教えて下さって構いません。(ただし、そういう訳だけでなく、「自分のために」という訳も教えている、と仮定してですが…)

しかし、もう言いたいことはわかってもらえたと思いますが、今回ぼくがあの言葉にこだわったのは、その言葉が一般人向けの雑誌にはそぐわない言葉だと思ったからです。

想像してみてください。あなたがファッション雑誌を読んでいると、いきなりエッセイに「実存」だとか「現存在」だとか出てきた場面を。(そういえば、書きぞめの話も書きましたね)気持ち悪いでしょう?ぼくは気持ち悪いです。

もちろん『ざべ』はファッション雑誌ではありませんが、聞くところによると、この雑誌は以前の高踏的イメージを一新して、コンピュータ入門者にもとっつきやすい雑誌にしようとしているそうですし、また、助教授の文章にも、そのような「わかりやすさ」を心がけているような感じがある、と思われます。少なくとも、少数の哲学者に向けて書かれた文章ではない、とは言えると思います。

ところで、こういうコンピュータ雑誌は、大体どの程度の知的レベルの読者を想定しているんでしょう?よく知りませんが、一応高卒レベル以上、と仮定しても、異論はないのではないでしょうか?もしかしたら中卒レベル以上、と言っても大丈夫かもしれませんが。

そこで、某助教授や、その他の人々からの反論がこわいですが、あえて言います。高卒の人はみんなこの言葉がわからないと思うし、変な言葉だと思う。わー、言っちゃった言っちゃった。さ、逃げる支度しよっと。

あとで知ったのですが、この「自己目的的」という言葉は、某助教授の去年一年間のキータームだったそうです。それを聞いてぼくはぞっとしたわけですが、もちろん一般人(「一般人」ってだれだ?)はそのようなことを知りうるはずもありません。「なんやこの大学の先生、こむずかしいこと書いとんなあ」、で終わりです。そしてぼくがメイルの書き手として想像していた人物は、まさにそのような「一般人(だから「一般人」ってだれだ?)」だったのです。

だからまあ、ぼくはあの言葉は一般人に対してはパラフレーズして書くのがよかろう、と思ったわけです。告白しますが、いまだにそう思います。


・さてさて、すっかり長くなってしまったので、今日はこのぐらいにしようと思います。要約すると、『「自己目的的」という言葉は、あの雑誌の読者に向けて書くべき言葉ではないと思う(理解されないだろうから)』となりますか。もちろん、見た目と語感が悪い、ということも強く感じるのですが。

・まだ書くことがあるので、また今度。

・以上の文に納得がいかない方は、以下にお書きください。


04/03/97

・さて、昨日の話からは一気に飛ぶが、今回の一件は、例えれば次のようなことが起きたのだ(と思う)。

二人でキャッチボールしていて、悪乗りしたこだまが冗談のつもりで軟球の代わりに、「わーい」と言ってパイナップル爆弾を投げつけた。

それで爆弾がどっかあんと爆発したことに対して、こだまは「常識がない」と怒られたのである。

・普通、キャッチボールしていて、いきなりボールの代わりにパイナップル爆弾を投げつけられたら、だれでも怒る。というか、怒る前に死んでいる。さすがに、ぼくでも怒るであろうと思う(だから怒る前に死んでるってば)。だから、この比喩はあまり適切ではないかもしれない。

そこで、パイナップル爆弾の代わりに、ボーリングの玉を投げたとしよう。これをしゃれと受け取るかどうかは、かなり微妙なところである。これはキャッチボールする相手との人間関係によって、しゃれともなるだろうし、「じょ冗談じゃないっ」ということにもなりうる。

・今回の一件は、ボーリングの玉よりも危ないもので、パイナップル爆弾よりもまだ危なくないもの、たとえば槍かなんかを投げつけた、と考えられないだろうか。そして多くの方に指摘されたように、こういうのはしゃれでは済まないのである。

しかし、常識のない、火星人か妖怪人間ベムかと見まごうバカこだまは、今回の一件をしゃれのつもりでやってしまったのである。

・もちろん、「その気はなかった」と言って責任を負わないつもりではない。自動車で人をひいて殺してしまったとき、それが事故だろうが意図的なものだろうが、人が死んだことには変わりがないのと同じで、今回の一件で某助教授をひどく怒らせ、深く悲しませたことに対しては、非常に責任を感じているし、申し訳なく思っている。

けれども、ぼくは火星人だから、こういうことを通じて「何をしてよくて、何をしたら悪いか」を学んでいくしかないのだ。それが初めからわかっていれば、倫理学科に入ってくる必要などない。ありませんっ。本からだけでなく、こういう手痛い思いをして、実生活でも学ばないと仕方ない。

前向きに考えれば、この一件によって反省することで、今後某助教授に失礼なことをするのは絶対にやめよう、と心がけることが出来るであろうし、うまく応用すれば、ほかの人にも今回の轍(テツ)を生かすことも出来よう。

そう考えると、今回の一件は、ぼくにとっては非常に貴重な体験だったように思える。いや、もちろん相変わらず某助教授には非常に悪かった、ご免なさい、と思ってるんですけどね。

まだ考えることがあるので、またそのうち書く。


04/02/97

さて、それでは懸案の事項について現在思っていることを正直に書く。正直が必ずしもいいとは限らないが。「懸案の事項」という風に名前がないのも困るので、「こだま3.27筆禍事件」と命名する。

さて、もうすでに元の文章を自発的に削除してしまったので、この件について初めて読む人のためにも、この筆禍事件の顛末を(反省の意も込めて)きちんと説明しておいたほうがいいと思う。


まず、こだまが"The Basic"というコンピュータ雑誌に載っている某助教授のエッセイを読んで、「あ、この方はすべての日記者が、まるでいつでもけんかしているような口ぶりで書かれている」というような歪んだテキスト解釈をしてしまった。

そこでこだまはしゃれのつもりで、このエッセイをネタにした愚劣な中傷メイルを自ら書き、ホームページに掲載した(某助教授に直接送ったわけではない)。

すると、これが常識的に言ってしゃれで済まされないものであったので、某助教授は非常に怒られた。

しかし、相変わらず常識を知らないこだまは、某助教授がそれほどまでに怒られているとはつゆ知らず、追い討ちをかけるように失礼な言い訳メイルを某助教授あてに書いてしまった。

その後、某助教授が大変お怒りであることを知ったこだまは、恐怖に震えつつも、「はっきりとどこが気に入らなかったのか説明してもらわなければ謝る気はない」という、今思えばあまりに身のほど知らずなメイルを某助教授に出した。

そして昨日、某助教授と直に会って、お話を聞いたのである。


ここまでの説明にもうすでにかなりこだまの見解が入り込んでいて、事実(そのようなものが客観的にあるとすればだが)とは異なったものである可能性があることを指摘して話を先に進めたい。

ここらあたりからは、恐怖のために筆がなかなか進まないが、とにかく書く。それで昨日夕方に某助教授と会ってお話を聞いたのだが、そこで某助教授が言われたのは大体次のようなことであった。「君の文章はいかなる意味においてもわたしの文章に対する批判などではなく、単なる低劣な、しかも人を大変傷付ける愚弄である。君は人間関係における最低限の礼儀やマナーさえ守っていない。わたしとしてはこのような文章を書く者の人格を疑わざるを得ない」

思い出しながら書くだけでみぞおちのあたりが苦しくなるが、どんどん書く。


と、そういう経過で現在に至るのでが、説明がわかりにくかっただろうか。

思うに、今回の事件は、ぼくの常識の無さ、他人に対する甘えから生じたものである。そして、ぼくの愚かさのために某助教授が非常に怒り、苦しまれたことについてはいくら謝っても謝り足りないと思っている。文章で書くとこんなにうそ臭いが、これは本当である。


しかし、たとえこういう愚かなことをしても、やはりぼくは倫理について考えているものなので、なぜこのようなことが起きてしまったのか、(今後このようなことが起こらないためにも)考えてみたい。

そもそもぼくは人に何か(良いこと、悪いこと)をするときに、意識的・無意識的に次の二つの検査をしていると思う。

一つは、いわゆる黄金律で、「自分が他人にされたらいやなことは、他人にすんな」、あるいは、「自分が他人にされたらうれしいことを他人にしいや」、という基準に基づく検査である。今回の事件でぼくがしたことは、一応この検査は通過しているのである。ぼくは、自分が同じ立場で同じことをされてもたぶん怒らないであろう、と考えていたのである。(よくよく考えてみると、怪しいが)

しかし、ぼくを尺度とするこの検査だけでは不十分である。世の中にはぼくより怒りやすい人もいれば、ぼくより寛容な人も大勢いる。ぼくが怒らないからといって他の人が怒らないとは限らないし、それはちっとも理不尽なことではないのである。

たとえば、ぼくが何にも感じられない絵に対して美しさを感じる人もいるし、ぼくが平気な音楽に対して、「そのような音楽を聴くのには絶えられない」、という人もいる。ある出来事に対してどの程度憤りを感じるかは、各人ごとに違うのであって、決してぼくは、自分よりも怒りっぽい人に対して、(あまり怒るのは喜ばしくはないにせよ)その怒りは不当である、などというつもりはない。あれ、ぼくまた変なこと言ってます?

そこで、もう一つの検査が必要になってくる。つまり、一つ目の検査に加えて、「あの人だったらどう反応するか」ということを考えるのだ。ぼくがされたいと思っていることをA氏はされたいとは思わないかもしれないし、ぼくがされたくない、と思っていることをA氏はされたい、と思っているかもしれない。自分を尺度にして考えるほかに、他の人たちのそれぞれの尺度にあわせて、その人に対して何をするかを決めなくてはならない。

だれでも経験的にわかるように、こちらの基準は非常に誤る確率が高い。望まないで起こるいさかいの原因というのはほとんどこの基準に関する見誤りによって生じるのではないだろうか。言い換えると、「あの人なら喜ぶと思ってた」「あの人なら怒らないと思ってた」 という予想が、外れてしまう場合にいさかい、というのが起きるのではないであろうか。


とここまで書いたが、工事の音がうるさいので少し休憩してまた後で書く。


何か言いたいこと(慰めの言葉が最も期待される)がある人は、以下にお書きください。


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 04/04/97
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