先輩や友人と未完成の卒論の批評会をした後、喫茶店で遅い昼食を食べてからぼくは帰路についた。出町柳から京阪で四条へ出て、阪急に乗り換える。もうすぐ日の暮れる時刻である。昨夜はほとんど寝ていないので、やたらと眠い。
急行に乗って座席に着き、首をカクンカクンとやっていると、不意に例の野太い声が車両中に響き渡った。
「よう、児玉君っ」
他でもない、われらがリンリー教授の登場である。
「あ、こんちは、教授。」
(ぼくの横にどかっと座って)「お、なんやなんや。えらい眠たそうな顔して。あ、卒論で苦しんどんか。そうかそうか。四回生は大変やのー。その調子やとクリスマスも正月もなさそうやな。がはは。は。ほんで、進んでんか、卒論?」
「いや、まあ、半分くらいは書いてみたんですけど」
「がんばっとるやんか。もうなんも教えることあらへんがな。がはは」
「(そんなにいろいろ教えてもらったっけと思いつつ)あ、そう言えば、そんなにたいしたことじゃないんですけど、教授にちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「なんや、なんでも聞いてみい。おれは何でも知っとる」
「あの、ほんとにたいしたことじゃないんですけどね、あの、です・ます調の文章にするか、だ・である調の文章にするかでちょっと頭を悩ませてるんですけど」
(しばらく間があって)
「おう、そうかそうか。えー、「です」と「である」の問題か。そうかそれは大変やなあ」
「え、そんなに大変なことですか?」
「何言ってんねん、君知らんのか?それはメタ倫理学における中心テーマやぞ。えー、今世紀の初めにムーアっちゅうおっさんが、えー、「である」から「です」は導けへんって騒ぎ出して、えらい問題になったんやがな」
「え、え、ムーアですか?あの人って、「である」と「すべきである」の区別の他にそんなことも言ってるんですか?え、『倫理学原理』でですか?」
(またしばらく間があって)
「いやいや、ちゃうちゃう。えー、これはムーアの死後出版された、えー、『倫理学原理主義』に書いてあるはずや。えー、日本語における男性社会主義的誤謬っていう問題や」
(ここで注を入れておいた方がよかろう。リンリー教授は学問的な話になると重低音で「えー」を連発する癖がある。これまでわずらわしいので省略してきたが、これからは会話をなるべく忠実に再現するために適宜記述していく。)
「へーえ。で、どんなこと言ってるんですか」
「えー、まあ、それはやな、えー、君が自分で調べなさい。えー、哲閲行ったら多分あるから」
「あ、そうですね、わかりました。あの、それで、リンリー教授は「です」か「である」のどっちでお書きですか」
「もちろん、「です・ます」やがな」
「え、そうなんですか?あ、それはすごい」
「君の言いたいことはわかっとる。みんな「だ・である」調で書かなあかん、言うんやろ」
「そうなんですよ。けどぼくはなんとなく「です・ます」調の方が書きやすいんですよ。それでどうしようかと思って」
「大学のやつらは少し日本語感覚が狂ってるやつが多いからな。あいつら「ダダイズムの語源はダダだ」とか「三角形の内角の和は2アールであーる」とか平気な顔で書きよるわ」
「あはは。そうですよね。いや、まあ、その、うちの研究室の人がそうだという気はないんですけど…」
(だんだん声が大きくなる)「大体やなあ、あいつらが「です・ます」はあかんっていうのは、あれや、こういう言葉はおんな言葉やと思とんねん。そやから女が「だ・である」調で書いたら「なまいきや」言いよるねん。大学では平気で言葉による男女差別が行なわれとるんや。ふ、ふざけとんのかっ」
「いや、あの、教授、赤ん坊も怯えて泣いてますし、もう少し小さな声で」
(まったく聞いてない)「レポート書いて来る学生にしても、「なんとかだ」とか、「なんとかである」とか書きくさりやがって。あいつらガキか。け、敬語知らんのか。誰に向かって書いてるつもりやねん。ぼけ。きょ、教授をなめとんのか。おまえらみんな欠点じゃ」
「いや、そしたらあの、ここ高槻なんで、ぼくもう失礼します。そしたらまた。どもども」
ぼくが高槻で降りた後も、リンリー教授はそこらの乗客を相手に、大学における男女差別についてあることないこと大声でアジり続けていた。教授のアジに一部の女子大生らしき集団は大受けしていたが、なかには青い顔になって隣りの車両へ逃げ出す大学教員らしき人々もいた。リンリー教授が車掌に止められることなくいつまで大声でしゃべり続けられたのかは、残念ながらぼくにはわからない。