結論


それでは、ここまでの議論を踏まえて、ベンタムの人間本性観と功利性の原理 との関係についてまとめてみたい。

ベンタムの人間本性観によれば、ある人の行為は、その行為をなす時点で彼が 持っている利害関心によって決定される(心理的利己説)。また、人は、他人の 幸福に対して利害関心を持つこともありうるが、一般的に言って、人はみな自 分の幸福に対してより大きな利害関心を持っている(通常の意味での利己主義)。 したがって、そのようないくぶん利己的な個人の集合である社会においては、 各人の利益の衝突が生じることが予想される。ここまでが彼の事実認識である。

それでは、各人が自分の利害関心を最大限に満足させることができ、しかも各 人の利益の衝突がなるべく生じないようにするためには、立法や道徳(的議論) はどのような原理に基づいて行なわれるべきか。この問いに対するベンタムの 答えは、共同体の幸福、すなわち各人の幸福の総和を正と不正の基準とすれば よい、というものであった。これが功利性の原理である。

しかし、本性的に自分の幸福により大きな利害関心を持つ人々が、どうして共 同体の幸福を促進すべきだとする功利性の原理に従うことができるのか。これ が両立不可能性の批判が提示した問いである。

この問いに対して、利益の自然的調和説の支持者は、共同体の幸福を促進する 行為が、実は、自分の幸福を最も促進するのだ、と答えた。 そして、もし人々がときに正しい行為ができないとすれば、それは彼らが、何 が自分の幸福を促進するかについて誤解しているからであり、法や道徳は彼ら の考えを矯正するためにあるのだ、という風に論じた。しかしながら、たしか にこの応答は両立不可能性の批判に十分答えるものであるが、ベンタム自身は このように考えていなかったことが示された。

もう一つの応答の支持者は、各人の利益が見かけだけではなく実際に衝突する ことを認めた上で、功利性の原理は、必ずしも人々が自発的に正しい行為をな すことを期待していないと論じた。もし自発的にできないのであれば、説得や 強制という手段を(もちろん、共同体の幸福を減少させない程度に)用いること によって、正しい行為をすることが当人の利益になるようにすればよい。そし て、これがベンタム自身の考え方であったと論じられた。ただし、功利性の原 理をこのように理解した場合でも、それは単に「立法の原理」であるばかりで はなく、「道徳の原理」としても十分に有益であると考えられる。

(以上、400字詰原稿用紙100枚相当)


説明と弁明

功利性の原理の正当化の問題

結論では、これまでの議論に基づいて、さらに 「ベンタムの人間本性理解と規範的主張とが両立しうることはわかった。 そしたら、なぜこの人間理解に基づいたとき、 この規範的主張が一番良いものだと言えるの?」 という問い(いわゆる功利性の原理の証明の問題)に答えようと思っていたのだが、 結論はそのように議論を進めるところではない、 という先輩方の意見に従い、ここまでの議論をまとめるだけにした。 というわけで功利性の原理の証明の問題はまた次回に扱いたいと思う。 (いつになったらできることやら)


おれは何か新しいこと言ってるの?

それは大変難しい質問です:-)

あえて言うなら、 最近は割とベンタムの人間本性論(特に利己主義について)を、 彼のテキストに即して議論する傾向がでてきたんだけど、 しかし、両立不可能性の批判を、 これまでの見解も含め、 このような形でまとめて議論をした論文はこれまでにないので、 そこが新しいと言えば新しいと言える。 (もちろん、ハートもディンウィディも簡単には論じているんだけど、 きちんとは論じていない)

もっと議論を進めたかったんだけど、 まあ、これはこれで一応完結した論文だと思う。 諸賢の批判を期待したい。


今後の展望



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Feb 3 13:16:15 JST 1999