サルトル

(さるとる Sartre, Jean-Paul)

それからまた、人生を劇務と見、おちつかないものと見ているあなたがたも、 はなはだしく人生に倦んでいるのではないのか? あなたがたも死の説教を聞 くのにふさわしく、じゅうぶん熟れているのではないのか?

激務や、スピードや、新奇なものや、異常なものをこのむあなたがた全部-- あなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であ り、自分自身を忘れようとする意志なのだ。

---ニーチェ

私の一生の短い期間が、 その前と後との永遠のなかに〈一日で過ぎて行く客の思い出〉のように呑み込まれ、 私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、 私の知らない、 そして私の知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、 私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きを感じる。 なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなくて現在の時に、 なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。 だれが私をこの点に置いたのだろう。 だれの命令とだれの処置とによって、 この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。

---パスカル

「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」

---サルトル

「人間は自由の刑に処せられている…刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」

---サルトル


フランスの思想家、文学者(1905-1980)。 実存主義者。 ノーベル賞を断わったことで有名。 哲学的主著は『存在と無』(L'E^tre et le ne'ant, 1943)と 『実存主義はヒューマニズムである』 (L'Existentialisme est un humanisme 1946)。 フッサールやハイデガーなどのドイツ現象学に 大きな影響を受けている。 喫茶店の話は有名。 自由フランス軍に参加するか老いた母の面倒を見るかという選択の話も有名。

サルトルによれば、 書物やペーパーナイフなどのあらかじめ目的を持って作られたものと違い、 人間にはあらかじめ決まった目的がない。 アリストテレスなどは、 どんな存在にもそれぞれ定まったテロスがあるというが、 サルトルは人間にはそんなものはないと言う。 これがサルトルの「存在は本質に先立つ」というテーゼであり、 彼によれば人間はどのように生きようが自由であり、 自分で選択をすることによって自分を見つけていかなければならない存在である。

さて、 人間には本質が不在だからそれぞれが自分の生き方を決めなければならないとなると、 これは多くの人には大変で、しかも、 サルトルは自分がした選択には責任を取らなければならないと言う。 人間が置かれたこのような苛酷な状況は、 人々に不安(angst)をもたらす。

そこで、あまり苦労したくない人は「まわりの人と同じように生きよう」 とか「既存の法と道徳に従って生きよう」と、 他のものに頼ってなるべく選択(と、それに伴う責任)を少なくしようと 努めることになる。 しかしサルトルに言わせると、これは不誠実なケシカラン生き方で、 このように生きたとしても、 自分の選択(「まわりに従って生きる」など)に対する責任は回避されない。

そこで、サルトルによれば、人間のあるべき生き方、本来的な生き方は、 既存の道徳や宗教や権威にもたれかかる(あるいは「流される」)ことなく、 自らが主体的に選んだ人生を歩むというものであることになる。

10/Jan/2002; 09/Feb/2002更新


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Oct 28 11:16:15 JST 2014