パトリック・デヴリン、『道徳の強制』要約


I. 道徳と刑法

(元は、1959年の「道徳の強制」という題の講義)

1. ウォルフェンデン報告 (the Wolfenden Report: 正式には「同性愛犯罪と売春に関する委員会の報告」)は、 刑法の役割を考察している点で興味深い。重要な問いは、 刑法は道徳を強制し罪を罰するべきかというもの。

2. 本論では、ウォルフェンデン報告が主張する刑法の一般原則を検討する。

3. ウォルフェンデン報告によれば、

この領域[売春と男性間の同性愛についての法]においては、 その[刑法の]役目は、われわれの理解では、 公共の秩序と品位を保つことであり、 気分を害する事柄または有害な事柄what is offensive or injuriousから市民を守り、 他者による搾取と腐敗に対して十分な防壁を --とくに、若かったり、身体や精神が弱かったり、 経験不足であったり、特別な身体的、職務的、経済的依存状態にあったりして とりわけても弱者の地位にある人々に--提供することである。

われわれの見解では、 今概略した目的を達成するのに必要とされる以上に市民の私生活に干渉したり、 特定の行動様式を強制しようとしたりすることは、法の役目ではない。

4. また、次のように言っている。

同意している成人の間で私的に行なわれる同性愛は、 われわれが決定的と信じる次の理由から、もはや犯罪とみなされるべきではない。 その理由とは、 私的な道徳に関する個人の選択と行為の自由を、 社会と法は重視すべきだということである。 社会が、法という手段を用いて行為し、 犯罪の領域と罪の領域を意図的に一致させるのではないかぎり、 私的な道徳および不道徳の領域が存在するはずであり、 この領域は、簡単で粗野な言い方をするならば、 法の知ったこっちゃないのである。 こう言ったからといって、私的な不道徳を大目に見るとか奨励する とか言うわけではない。

5. 売春についても同様のことを述べている。 私的な不道徳については法は関知しない。

6. ウォルフェンデン報告の原則は、法と道徳(犯罪と罪)を分離せよ、 ということである。この見解は伝統的には、 個人の道徳判断を社会の見解よりも優先する無神論者(この場合、 罪とは道徳原則に反するという広義の意味)や、 現世の刑罰では罪はつぐなえないと考える宗教家や、 信仰と同様に道徳にも寛容であっていいと考える人々によって支持されてきた。

7. デヴリンの直観: 犯罪と(広義の意味での)罪を完全に分離すると、 道徳法にとってよくないし、刑法にとってはひどいことになる。 本論ではこの直観が正しいことを論じる。

8. 論理的に考えると--。 道徳規範は、その背景にある宗教によってのみ正当化される。 また、宗教は複数あるので、道徳も同じだけある。 国家がある宗教(たとえばキリスト教)を採用するなら、 その道徳(キリスト教道徳)を法が強制するのは論理的。 採用しないなら、その道徳を法が強制するのは非論理的。

9. だとすると、(国家がある宗教を採用していない場合は) 刑法は不道徳のゆえにある行為を禁じることはできないことになる。 その代わりになる刑法の正当化は、 社会の秩序と潤滑な運営を守るためというものである。 たとえばスピード制限など。 この場合、法と道徳の大部分が一致するとしても、それは偶然。

10. この見解は現行の英国法の基本原理に一致するかどうか、 まずこの点を検討する。

11. 英国の刑法ははじめから道徳にかかわってきた。 同意がその良い例である。

12. 強姦を除けば、通常、殺人や暴行の場合など、 被害者の同意は弁護理由にはならない。 訴訟を取り下げることができるのは、法務長官だけである。

13. このことを説明できる唯一の仕方は、 社会が守るべき道徳原則が存在し、 法は個人の保護ではなく、社会全体の保護にかかわっていると述べることである。

14. そこで、 (道徳原則を守るのではなく)社会の秩序や品位を守ることを意図した法以外を 無効にするなら、英国刑法の根本的な原則をひっくりかえすことになり、 安楽死や自殺、決闘や中絶、近親相姦も許されることになってしまう。

15. したがって、英国の刑法が道徳に基づいていることは明らかである。 以下ではこれが正当であることを、 宗教によってではなく(これは論理的でないと8で述べた)、 別の理由から示す。

16. 問われるべき三つの問い(pp. 7-8)。

  1. 社会は道徳的な事柄に判断を下す権利を持つか。
  2. 判断する権利を持つとしたら、法によって強制する権利も持つか。
  3. そうだとしたら、すべての場合に強制してもよいか。 あるいは、一部の場合だけなら、どのようにして区分するのか。

17. 一つ目の問いについて考える。 善悪について判断を下す社会の権利とは何か。 これは集合的な道徳判断、公共道徳が存在するということである。

18. ウォルフェンデン報告も公共道徳の存在を認めている。

19. 公共道徳の存在はアプリオリな仕方でも知られる。 すべての社会は政治的構造と道徳的構造を持ち、 道徳的構造を取り除くなら社会という家は倒れてしまう。 たとえば、結婚制度。 英国に住むなら、どんな人でも一夫一妻制を認めなければならない。

20. 政治的な構造を考えるともっと明らか。 社会はどのような理由であっても反乱を許すことはない。

21. 結婚制度も同様。 政治・道徳・倫理についての共有された考え方が存在しないかぎり、 社会は存在できない。

政治、道徳、倫理についての共有された考えがないかぎり、 いかなる社会も存在できない。 われわれはみな、善いことと悪いことについての考えを持っているが、 それを自分の住む社会から隠していることはできない。 もし男性たちと女性たちが善悪について基本的な意見の一致がない 社会を作ろうとしたら、彼らは失敗するだろう。 意見の一致に基づいて社会を作ったとしても、 その意見の一致がなくなったら、社会は崩壊するだろう。 なぜなら、社会とは物理的に結びつけられているものではなく、 共通の考えという見えないきずなによって結びつけられているからだ。 そのきずながあまりに緩まってしまうなら、 社会の成員たちは離ればなれになるだろう。 共通の道徳は、そのきずなの一部である。 このきずなは、社会の費用の一部である。 だから、社会を必要とする人類は、この費用を払わなくてはならないのだ。 (p. 10)

22. かつてキリスト教が国家の法の一部だと言われたのも、 道徳が社会の秩序に必要だという意味。

23. 二つ目の「社会はその道徳判断を法を用いて強制してよいか」 という問いは、一つ目の問いへの答えが「はい」であり、 社会的に承認された道徳は社会的に承認された政府と同様に社会にとって 必須のものだということを認めるなら、この答えもprima facieに「はい」である。 社会は、政府を守る場合と同様に、道徳を守るために法を使ってよい。

24. ウォルフェンデン報告のように、 一つ目の問いを「はい」、 二つ目を「(特別な事情がないかぎりは)いいえ」と答えるのはおかしい。

25. ウォルフェンデン報告のいう特別な事情 (とくに、「他者による搾取と腐敗に対して十分な防壁を --とくに、若かったり、身体や精神が弱かったり、 経験不足であったり、特別な身体的、職務的、経済的依存状態にあったりして とりわけても弱者の地位にある人々に--提供すること」) は適用範囲が広すぎて不道徳な行為のすべての場合に当てはまってしまう。

26. たとえば売春のポン引きにおける「他人による搾取」とは何か。 ポン引きは一般には売春婦を搾取していないとウォルフェンデン報告は 認めている。報告によれば、ポン引きが真に搾取しているのは、 売春婦と客の人間的弱さである。

27. 「人間的弱さの搾取」が特別の事情になるなら、 あらゆる不道徳はこれにあてはまってしまう。

28. デヴリンの見るところ、けっきょく、 不道徳を禁じる法には理論的制限は存在しない。 社会は法によって内からも外からも危険を守る権限がある。 反逆罪とのアナロジー。

反逆罪の法は、国内で国王の敵を助けたり、 動乱を起こしたりすることを禁じている。 その正当化は、確立された政府が社会の存続に必要であり、 それゆえ政府が暴力的な転覆から守られていることが保障される必要がある ということである。 しかし、社会の福祉のためには、 確立された道徳は良い政府と同じくらい必要である。 社会は外的な圧力によって破壊されるより内部から崩壊することの方が多い。 共通の道徳が守られないときに崩壊が起こるのであり、 歴史からわかることは、 道徳的な結びつきが緩むのはしばしば崩壊の第一段階だということであり、 それゆえ社会は政府やその他の不可欠な機関を守るのと同じ手続で 道徳規範を守ることが正当化されるのである。(p. 13)

悪徳の抑圧は政府転覆活動の抑圧と同様に法の仕事である。 私的な政府転覆活動の領域を定義することが不可能であるのと同様に、 私的道徳の領域を定義することも不可能である。 私的道徳について語ったり、 法は不道徳そのものには関与しないと語ったり、 悪徳の抑圧に関する法の役割に厳格な境界線を引こうとするのは誤りである。 反逆罪や煽動を禁止するさいに国家権力にはいかなる理論的限界もないのと同様に、 不道徳を禁止するさいにもいかなる理論的限界もありえないと考えられる。 あなたは、ある人の罪が当人にしか影響を与えないならば、 それは社会の関知するところでない、と論じるかもしれない。 彼が毎晩自分の家で私的に酔っぱらうことを選ぶのであれば、 彼以外に悪影響を受ける人がいるだろうか? しかし、人口の4分の1あるいは半分が毎晩酔っぱらうとすると、 その社会はどうなるだろうか? 社会が酩酊を禁ずる法を作る権限を得るために何人まで 酔っぱらうことができるかについては、 理論的限界を設定することはできない。(pp. 13-4)

[注の部分: ハートの「道徳がすこしでも変わったら、 社会は崩壊して別の社会になるのか」というのは難クセ。 デヴリンが言っているは「道徳なしには社会は存在しない。 法は道徳を強制してよい」ということだけであり、 道徳が変わったら法を変えればよい]

29. 三つめの問いに行く前に: 社会の道徳判断はどのようにして決めるのか。 「道理のある人」という基準。

立法家はどのようにして社会の道徳判断を確かめることができるのか? 多数派の意見によって得られるというのでは明らかに不十分である。 すべての市民の個々の同意を必要とするというのでは行きすぎであろう。 英国法は頭数を数える必要のない基準を生み出し、常に使用している。 それは道理のある人という基準である。 彼は理性的な人と混同されてはならない。 彼は何か推論をすることは期待されておらず、 彼の判断は大部分感情の問題であるだろう。 それは通りを歩く普通の人の物の見方であり、 --あるいはすべての法律家になじみの古臭い言葉を使うならば-- クラパム乗合馬車に乗車した人の物の見方である。(p. 15)

30. 要するに、不道徳とは、すべての正常な人が不道徳と考えるだろうもの。 ただし、三つ目の問いに対する答えは、 個人の利益と社会の利益のバランスを取る必要があるというものである。 たとえば、家が公道に面している人が、車を公道に駐車するという場合。

31. 道徳とは、私的と公的に分離できるようなものではなく、 私益と公益が衝突するものであり、それをどう解決するかが問題。 どのようにバランスを取るかは厳格には規定できないが、 一般原則として「バランスを取るべきだ」と言える。

32. 「社会の全一性と矛盾しないかぎりで、 最大限の個人的自由が寛容されるべきである」 というのは、皆が認めるであろう、刑法の柔軟な一般的原則の一つ。 この寛容と不寛容のラインは理性ではなく感情(不寛容、憤概、嫌悪) によって決められる。社会の判断の背後にあるのは理性の力ではなく 常識の力。

33. 第二の原則は、「社会の道徳の基準は変化しないが、 寛容の限度は変化する」。立法家はこのことを頭に入れておくべき。

34. 三つ目の柔軟な原則は、 「プライバシーはできるだけ尊重されるべし」。

35. プライバシーの権利は法の執行とバランスをとられるべきだが、 だからといって法が手を出せない私的道徳の領域ができるわけではない。

36. 四つ目、「法は最大限ではなく最小限にかかわる」。

37. この点はよく看過されるが、刑法は基本的に善い市民には無関係である。

38. 法は社会の道具であり、どの場合にどのように用いられるかは 実践的な決定。

39. 判決は、最高三ヶ月以下の刑罰を伴う犯罪の場合は裁判官が判決し、 それ以上のときには陪審が判決するのが一般。 陪審員は法に自分の道徳観を混ぜる傾向にある。

40. それゆえ刑法の立法において、 法の執行のさいに道徳を体現する陪審を無視することはできない。

41. けっきょく、第三の問いに対する答えは、 以上で述べてきた考慮のバランスを取ることである。 ウォルフェンデン報告のまちがいは、 刑法の原理は個人を守ることに尽きると考えたこと。 しかし、本当の原理は、法は社会を守るためにあるというものである。

42. [これ以降、宗教と道徳と法の話] 英国の道徳はキリスト教道徳であり、 教会の支持なくてしては、道徳秩序は崩壊するだろう。

43. 教会と法の関係。 法は最小限の人間活動にかかわる。 教会は教育や訓練によって道徳を教える。

44. 法は人々に罪の意識がないとやっていけない。 たとえば中絶。

45. まとめ。社会は共通の道徳なしにはやっていけない。 道徳は「道理をわきまえた人」が承認するもの。 合理的な人でも、共通道徳の必要性は否定できない。

46. 道徳を維持するのは教育と法。 教育は宗教なしにはできない。 法はキリスト教の教えの助けがなければ失敗するから、 キリスト教道徳に基礎づけられねばならない。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu May 02 19:22:15 2002