`Quasi-realism in Moral Philosophy: An interview with Simon Blackburn' By Darlei Dall' Agnol: Summary

以下は、次のインタビューにおけるブラックバーンの答えを適当にまとめたも の。
`Quasi-realism in Moral Philosophy: An interview with Simon Blackburn' (PDF file)


もともとは自然科学をやっていたが、人文系にあこがれてケンブリッジではムー ア研究者のCasimir Lewyについて哲学を研究した。

情動説が70年ごろまでに流行らなくなったワケ。 情動説はわれわれの道徳的思考を説明できないとするギーチの批判。情動説で は間接的文脈を説明できない。たとえば`if it's good to be kind to your mother, then it's also good to be kind to your father.'には論理がある のに、`if hurray to be kind to your mother, then hurray to be kind to your father.'では意味をなさない。

それに対する情動説側からの反論。サールの言語行為論、ヘアの反論、ダメッ トのフレーゲ論。そしてマッキー(1977)の錯誤理論。マッキーは情動説が正し いとし、日常的思考や言語の方が間違っているとした。

しかし、「日常的思考の方が哲学より正しい」と述べたウィトゲンシュタイン を研究していたブラックバーンはマッキーの考え方に不満だった。そこで、情 動説を採り、しかも日常的な実在論的思考には問題はないとする準実在論を説 いた。彼は、実在論的思考に対するプラトン的説明が間違っているのであり、 別のより簡単な説明、正当化ができるとする。しかし、これは現在、混乱を招 いている。

準実在論は道徳的思考の発生(geneaology)を説明する、説明的理論。ムーアは 道徳的命題と記述的命題が本質的に異なることを指摘した(連続的と考えるの が自然主義)。ムーアがプラトン的な神秘主義を再導入したのに対して、ブラッ クバーンは情動説と道徳的思考についての発生論的(系譜学的)説明を行なう。

準実在論における道徳的知識について:準実在論は非認知主義に分類されてい るので、知識を世界の表象と結びつけるなら、知識はありえないことになる。 しかし、「知識を持つと主張するときに何をしているかよく見てみろ」と述べ たウィトゲンシュタインに従ってよく考えてみると、知識とは、強く確信して いる事柄、反証の可能性が開かれていない事柄、と考えることができる。たと えば、「労働者のために最低賃金を設定すべきである」という道徳的信念を抱 いていたとしても、経済学者が最低賃金は経済にとってよくないと説明すると すれば、意見を変えるかもしれない。その意味でこの信念は知識ではない。し かし、「子どもに不親切にすべきではない」はいかなる状況においてもそれを 再考する余地があるとは考えられないので、道徳的知識と言える。ラムゼー流 の確率についての準実在論も同じようなことが当てはまる。

準実在論と真理論について:真理の対応説に対して、フレーゲ流のミニマリス ト的真理論は、「『あなたが椅子に座っている』というのは真である」という のは「あなたが椅子に座っている」ということを断言しているに過ぎないとす る。これだと、「『盗むことは不正である』は真である」も「盗むことは不正 である」と断言しているに過ぎないことになるので(世界を表象していると主 張する必要がないので)、一見準実在論と調和するように見えるが、 1994年のAnalysis誌上における論争では、 真理のミニマリスト説は、 世界を表象する言明とそうでない言明を峻別するという前提に立つ準実在論 (あるいはexpressivists)とは両立しないという批判が出た。いや、やはり両立するとい う意見もあるが、ブラックバーンの意見は、真理のミニマリスト論以上の内容 のあるrobust理論が必要かどうかはわからないが、より内容のある表象理論は やはり(道徳的言明とそれ以外を区別するために)必要だというのは確かという もの。今、これについては研究中だそうだ。

Rule-followingをめぐるマクダウエルらとの論争について:ウィトゲンシュタ インのこの考えは通常はanthropocentricなanti-realismを指向しているもの と理解されるが、マクダウエルはどの領域においてもわれわれの感受性が作用 しているということから、道徳も色も同じようなものだと考えた。しかし、色 や数学においては意見の一致が見られるが、道徳においては論争が起こるとい う違いがある。この点に関してマクダウエルらは自分たちの基準が正しいとい うエリーティズム、貴族主義を持っているようにみえる。`I always thought that McDowell and some of his followers became very elitist on this point. Those aristotelian people who are virtually well trained and had education. Things struck them the right way and the other people could basically go hang... I always thought this was elitist. I didn't like it. It smells to me a certain kind of aristocratic and rather aesthetic ethics.' これに比べたら理性的存在者の平等な能力を信じるより 民主的なカントの方がなんぼかまし。それはともかく、rule-followingの議論 を使って、倫理とそれ以外の領域との違いを消そうとする試みは関心しないし、 ウィトゲンシュタインもそのようには考えていなかった。それに、実際のとこ ろ、sensible subjectivismを標榜するマクダウエルやウィギンズの立場は実 際には実在論ではなく、主観説である。

ムーアのopen question argumentについて:この議論は概念の同一性(同義語) と属性の同一性を混同しているが(「もしも、善いという属性と幸福という属 性が同じであるなら、善いという概念と幸福を生み出すという概念は同じであ るはずだ。しかし、これらの概念は別だから、善いという概念には特別な道徳 的属性が対応するはずだ」と考えた。しかし、概念が異なっても、属性は同じ である可能性はある。たとえばH2Oと水の例か)、ムーアが倫理が何か特別な活 動であることを察知していた点は評価できる。しかし、彼はその特別さをブラッ クバーンのように「態度」と見なかった。ハチソンの情動説から、ヒュームも 因果論について何か特別さを見た。

ヒュームのis-ought questionとムーアの議論との関係:よく似ている。ヒュー ムもisからoughtに移るのは論理の問題じゃなく、感情の問題であることを指 摘した。同じ問題意識がある。

ヘアのスーパーヴィニエンスについて:心身問題に関するロックとライプニッ ツのやり取りにおいて、ライプニッツはロックが心身のスーパーヴィニエンス を神によって説明するのを説明不足として批判した。同じように、道徳におい てもスーパーヴィニエンスはきちんと説明されなければならない。昔ブラック バーンが(1973年以降のいくつかの論文で)論じたように、実在論では、なぜ道 徳的性質(道徳的真理)が自然的性質(自然的真理)に常に同じようにスーパー ヴィーンするのか説明できない(論理的には、別の日には別の仕方でスーパー ヴィーンするということもありうる)。表明説expressivismならば、事物の自 然的性質に基づいて道徳の議論をしなければ、実践的な議論にならない、単に 恣意的に議論するだけになる、という風に容易に説明できる。ブラックバーン はこの説明を、ムーアの`The Conception of Intrinsic Value'という論文を めぐるCasimir Lewyとのやりとりにおいて思い立った。

準実在論と第一階の規範理論の関係について:準実在論は、道徳が何のために あるかも説明する。この目的についての説明は、義務論よりも帰結主義と結び つきやすい。ブラックバーンは動機や性格や徳に基づく間接的な功利主義を採 用する。実在論者はこの道徳の目的を説明できず、単なる保守主義に過ぎない。 準実在論は道徳の目的に従って道徳を洗練させることができる。

準実在論と応用倫理学:準実在論は間接功利主義を支持するので、応用倫理学 にも役に立つ。実在論はアリストテレス的な保守的でエリート主義的な立場か、 融通のきかない義務論のいずれかにいたるので、役に立たない。

最後に:本当に重要な問題は富の再配分であり、中絶やポルノを読む自由では ない。もし応用倫理学に口をさしはさむなら政治哲学を論じ、貧困の問題に取 り組むだろうが、あまり他人にこうせよというのは得意ではない。


Satoshi KODAMA <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Mon Oct 13 11:40:16 JST 2003