『倫理学の諸問題』演習発表用 (04/27/99 発表)

QUOTE, UNQUOTE

D1 児玉 聡


1. 功利性の原理について

(1) 功利性の原理とは、利害関係者の幸福を増進させるように見えるか減少さ せるように見えるかの傾向に従って、ありとあらゆる行動を是認または否認す る原理を意味する。 (_IPML_ 12)

(2) ある行為が功利性の原理、あるいは、簡略に、功利性(共同体全般に関す る功利性)に適合すると言われうるのは、当の行為が持つ、共同体の幸福を増 進させる傾向の方が、共同体の幸福を減少させる傾向よりも大きいときである。 (_IPML_ 12-3)

(3) 功利性の原理に適合している行為について、人は、「それはなされるべき 行為である」、あるいは少なくとも、「それはなされるべきでない行為ではな い」、と常に言ってよい。人はまた、「それがなされることは正しい」、少な くとも「それがなされることは不正ではない」、「それは正しい行為である」、 少なくとも「それは不正な行為ではない」、とも常に言ってよい。 (_IPML_ 13)

(4) 共同体とは、虚構的な*身体*bodyであり、それは、いわばその*身体の各 部分*membersとみなされる個々の人々によって構成されている。すると共同体 の利益とは何か? ――共同体を構成する各成員の利益の総和である。(_IPML_ 12)


2. 利己主義について

2.1 利己主義の二つの意味

(1) ……*自己中心的*_selfish_という表現は、動機に対して用いられる場合、 広い意味と狭い意味を持っている。*自己中心的*という表現を広い意味でとっ た場合、*すべての*動機は*自己中心的*である。というのも、すべての動機は 願望wishだからである。そしてすべての願望は、ある人の*自己*_self_に影響 を及ぼす苦痛であり、彼はその苦痛によって駆り立てられ、願望の対象を獲得 することにより安心感reliefを得ようとする。――*自己中心的*という表現を 狭い意味でとった場合、*自己中心的*な動機は*博愛的*_benevolent_な動機か ら区別されなければならない。すなわち、われわれ自身の善に対する願望は、 われわれの隣人の善に対する願望から区別されなければならない――われわれ 自身の利得ないし便益を追求するようわれわれを駆り立てる欲求は、他人の利 得ないし便益を追求するようわれわれを誘う欲求から区別されなければならな い。(Austin 1995 102 note 3)


2.2 心理的利己説

(1) あらゆる機会において、各人の行為は、彼自身の利害関心によって、そし てまさに彼自身の自分に関する利害関心self-regarding interestによって、 すなわちそのようなものとして彼の目に映るものによって、決定される。(_D_ 195)

(2) 人が*なんらかの対象*_subject_*に利害関心を持つ*と言われるのは、そ の*対象*が彼に対する快または[苦の]減免exemptionの源泉におそらくなりそ うだと考えられる限りにおいてである。その対象とは、事物または人であ る。……(_D_ 91; cf. _IPML_ 12)

(3) ある人が、自分がある*善*、すなわちある*快*あるいはある*苦*の*減免* を享有するためには、ある*出来事*または*状態*が生じる必要があると思い、 そして、それを生み出すために彼がある行為をした場合、その機会において彼 の心の中に生じ、作用した心理的現象のいくつかは、以下のようなものである。 すなわち、1. 彼は自分がその善を所有することに*利害関心*を持っているこ とを感じた。2. 彼はそれを所有したいという*欲求*_desire_を感じた。3. 彼 は自分がそれを所有しないという考えに*嫌悪*_aversion_を感じた。4. 彼は それに対する*欠乏感*_want_を感じた。5. 彼はそれを所有する*望み*_hope_ を持った。6. 彼はそれを持たないことに対する*恐れ*_fear_を目前に抱いた。 7. そして彼がそれを所有したいと感じた*欲求*が、*動機*として彼の意志に 作用したのであり、その動機の作用または助けによってのみ、彼による上述の 行為が生じたのである。(_D_ 94; cf. _D_ 98-9)


2.3 共感について

(1) この社会的感情[共感や博愛心]の存在を否定するなら、すべての経験に反 することになろう。……。しかし、わたしの友人に快を与えることを予想して わたしが感じる快は、他ならぬわたしの快ではないのか? わたしの友人が苦痛 によってさいなまれているのを見て、あるいは見るだろうと憂慮してわたしが 感じる苦痛は、他ならぬわたしの苦痛ではないのか? (_D_ 148)

(2) 上記の[快苦の種類の]表の中で、ある種の快苦は、他の人が持つ快苦の存 在を想定しており、その快苦に対して当人の快苦は関係regardを持っている。 そういう快苦は*他人[の快苦]に関係する*_extra-regarding_ものと呼ばれう る。それ以外の快苦はそうした事柄[他者の快苦の存在]をまったく想定しない。 これらの快苦は*自分[の快苦]に関係する*_self-regarding_と呼ばれうる。他 人に関係する快苦は、博愛心と憎悪malevolenceの快苦のみである。それ以外 はすべて自分に関係する快苦である。(_IPML_ 49)


2.4 (通常の意味での)利己主義について

(1) 人間の生の一般的な傾向において、すべての人間の胸中では、自分に関係 する利害関心が、他のすべての利害関心を合わせたものよりも優勢である。 (_FP_ 233)

(2) 他の人々との関係において考慮した場合、各人の胸中には、三種類の感情 affectionがある。1. 自分に関するもの。2. 社会的共感。3. 反社会的反感。 自分に関する感情、すなわち自分自身の幸福に対する欲求は、絶えず働いてい る。共感に関する感情、すなわち(他人の)幸福に関するものは、しばしば働く が、しかし[1.ほど]絶えず働いているわけではない。反感に関する感情――他 人の不幸に関するもの――は、[2.よりも]さらにまれにしか働かない。
通常の人生において、自分に関する感情の影響は、これらの他人に関する二つ の感情の影響を合わせたものよりも、強力で、有効である。(_SE_ 183)


3. 利益の自然的調和を想定する応答

3.1 自然的調和説

(1) 一般的に言って、功利主義者は利益の自然的な調和があることを主張する。 これによって彼らが意味するのは、一般幸福を目指す行為は、事実、最もよく 行為者自身の幸福を実現するということである。このことが真である限りにお いて、あるいはより正確には、このことを信じるもっともな理由がある限りに おいて、合理的な行為者は、一般幸福を追求することにより、自分自身の最大 の幸福を達成するための最も合理的な方針をとることになる。しかしこの利益 の自然的な調和は、もし人々が、外部からの指導ないし干渉なしに、彼らの選 ぶがままに行為することを許されたとしても達成される、というわけではない。 なぜなら、人々はみながみな合理的なわけではないし、またおそらく完全に合 理的である人は一人もいないからである。……。
彼らは自分自身の最大の幸福を生み出すと思い違いしているものを目指すであ ろう。彼らに正しく行為させるためには、自分自身の幸福に対して自分の行為 が持つ長期的な帰結についての誤ちを彼らに悟らせるよりも、彼らが行ないが ちである望ましくない行為に法的またはその他のサンクションを付加すること によって、彼らの行為によって起こりうる短期的な帰結を変えた方が簡単であ る。(Quinton 1988 7-8)

(2) そこで、神の意志を排除することを明言するか、または神の意志に言及せ ずに、徳の直接的な基準を人類の善であるとする者は、(徳についてすべての、 あるいはほとんどの人が持っている考えに反して)徳がすべての場合において* 義務的*であるわけではないと認めなければならないか、あるいは彼らは、人 類の善が十分な義務であると言わなければならない。 しかし、一命を投げ打 つなどの特定の場合においては、人類の善はおそらくわたしの幸福に反すると いうのに、人類の善がどうして*わたしの*義務になりうるのだろうか? (Gay 1969 413; cf. Paley 1811 62-3, 65-6)


3.2 ベンタムのテキストに基づくかどうか

(1) あらゆる政治的共同体において、すべての成員は、共同体の全成員の利益 を合わせたもので構成される全体の利益――一言で言えば普遍的利益――に関 与している。
しかし、あらゆる共同体において、すべての成員は残りの成員が関与しない特 定の利益を持っている――そして、多くの機会のそれぞれの場合において、こ の利益は普遍的利益と対立状態に陥りやすい。その対立状態が、そのような機 会が起きるときはいつでも、ある成員の幸福は残りの成員の幸福全体がある一 定の割合で減少しなければ増加しえない、というようなものである場合――こ の特定の利益が、こうした事情にあるとき、そしてその場合に限り、それは邪 悪な利益(利害関心)sinister interestと呼びうるものであり、また通常そう 呼ばれている。(_FP_ 192)

(2) もし人間が、どの人の幸福も、他のどの人の幸福とも競合しないという状 況に置かれていたとしたら、もし人間の状況がそのようなものであったとすれ ば――すなわち、もし各人の幸福、あるいはある人の幸福が、他のだれかの幸 福を減らすという影響を持つことなくして、無制限の量の増加を受けることが 可能だとすれば、上記の表現[全員の最大幸福]が制限あるいは説明なしに役立 つであろう。しかし、あらゆる場合において、各人の幸福は他のすべての人の 幸福と競合しがちなのである。たとえば、もし二人の人が住まう家において、 一ヶ月の間、彼らのうちの一人の生存をその間継続させるためにかろうじて十 分なだけの食糧の供給しかないとすれば――それぞれの幸福のみならず、それ ぞれの存在までもが、もう一人の存在と競合し、そして両立しえないのである。
それゆえ、すべての機会に役立つように、全員の最大幸福と言うかわりに、最 大多数の最大幸福という必要が生じるのである。 (_FP_ 234; cf. _FP_ 231-2 note a, _CO_ 31-2, _SE_ 218)


4. 利益の自然的調和を想定しない応答

4.1 『べし』は『できる』を含意するを巡って

(1) ベンタムは、要するに、人々は一般幸福を目指すべきであると主張する功 利主義と、事実として人々は常に自分自身の幸福を目指すと主張する利己主義 の両方を主張したのである。……。
批判者たちはしばしば、これら二つの教義がなんらかの仕方で不整合であると 論じた。それらが直接的に両立しえないものではないことは、十分に明らかで ある。というのは、それらの一方は、人々が事実どのように振舞うかを述べて おり、他方は、人々がどう振舞うべきかを述べているからである。しかし、普 通は、ある人があることをできないのに彼がそれをすべきである、ということ はありえないと考えられている。そこで、もし彼が自分自身の幸福しか目指す ことができないのであれば、彼が一般幸福を目指すべきだということはありえ ないことである。
……それゆえ、議論を一貫させるためには、心理的利己主義者でもある功利主 義者は、ある所与の状況において行為者に開かれている選択可能な行為の集合 は、彼自身の幸福に最も役立つと彼が考える単一の行為に――利己主義の原理 によって――限られているわけではない、と言わねばならない。そして、これ が、実際のところ、彼らが通常することなのである。彼らにとって、行為者が *できる*こと――彼がそれをすべきだと言えるために必要とされる意味におい て――は、サンクションを用いるならば彼に行なわせることができることなの である。……。「人は、それをなすように仕向けられうることをなすことがで きる」という原則に基づくならば、行為者が実際に行なうこと以外にも、彼の なしうることはたくさんある。(Quinton 1989 6-7)


4.2 ベンタムのテキストに基づくかどうか

(1) 658. 功利主義は、道徳家と立法家のための唯一の適切な目的は、最大多 数の最大幸福だと述べる。
659. そして、あらゆる個人をその目的に向けて行為するよう仕向けることが できる唯一の*手段*は、当人の幸福だと述べる。すなわち、動機として彼に作 用する*利害関心*を示すかまたは生み出すかすることによって、彼がその目的 に向けて行為するように仕向けるのである。 (_D_ 60; cf. _D_ 59-60, 62-3, 66, 71-2)

(2) 議論の余地のない事実、すなわち、いかなる人も、行為の瞬間にそれをす ることが少なくとも彼の目に利益になる(「利益」という語に与えられる最も 広い意味で。とはいえ不適切な意味とは言えない)とは映らない行為を、これ までしたことはないし、今後もすることもできないという事実に関して言うと、 この著作の中でわたしが述べることはすべて、この根拠に基づいている。
ある人によって、別の人の行動は次の二つの方法のいずれかによって影響され うる。1. 影響を与える当事者が何もすることなくして、そう行動することが すでに自分の利益になることを彼に信じこませることによって。あるいは、 2. [影響を与える当事者が]何もしなければそう行動することは自分の利益に ならないであろうが、そう行動することが自分の利益になるという帰結をもた らすような、なんらかの行為をすることによって。一言で言うと、単に誘因 inducementsを示すか、あるいは誘因を生み出すことによって。(_D_ 175)

(3) もし、……、統治者の立場においては、その立場がどのようなものであれ、 いかなる人の行動も、いかなる瞬間においても、その同じ瞬間に自分自身の個 人的な利益になると当人に思われる事柄と対立しているような利益によって決 定されることは合理的に期待できない、というのが正しいのであれば、彼の行 動を普遍的利益に役立つような方向へ向かわせるには、人間の本性上、事柄の 本性上、統治者の特定の利益を普遍的利益と一致させることに存するような方 法を除いてはない。
そこで、ここにおいてわれわれは、先の二つの原理(功利性の原理と、自己選 好ないし身びいきの原理に加えて、三つめの主要原理を持つのである。
これを手段指令Means-prescribing原理、または利益連結指令 Junction-of-interests prescribing原理と呼ぼう。
第三の原理を作るには、前者の二つを結合させればよい。
一つめは、あるべきことを宣言する。次のものは、現にあることを[宣言する]。 最後のものは、現にあることをあるべきことと一致させる手段を[宣言する]。
それでは、この利益の連結はいかにして達成されうるのか? 事柄の本性上、一 つの方法しかありえない。それは、その個人の立場のゆえに彼が影響を受ける かもしれないあらゆる邪悪な利益の影響と効果を消滅させることである。これ が達成されたなら、彼はそれによって事実上、すべてのそうした邪悪な利益 (利害関心)を失なうであろう。彼の行為を決定しうる唯一の利益として残るの は、彼の正しく適切な利益のみである。その利益は、普遍的利益の中にある彼 の持分によって成り立っており、それは、全体として考えられた普遍的利益と 一致する利益と言うのと同じことである。(_FP_ 235; cf. _FG_ 513-5)


4.3. 功利性の原理は立法家のためだけにあるのか

(1) ……功利性の原理は、普通の個人がそれを用いて自らの道徳的行為を律す ることが期待されるような原理として意図されていたのではない。それ は、……、立法家やその他の公的な立場にいる人々に向けられた指針precept として意図されていたのである。もし普通の個人の行動が*社会的*視点から―― 共同体の視点、そしてそれを運営する責任を持つ人々の視点から――眺められ るならば、個人の行動が共同体における幸福の総量をどの程度増やすか減らす かによってその行動を正または不正と判断することは、ベンタムの考えでは、 意味があった。しかし、もし物事が個人の視点から考慮されるならば、彼が心 理的に拘束されている以外の何かを追求*すべき*だと言っても意味がなかった。 たしかにベンタムは、理性的な人ならば全員、最大幸福原理が、社会全体がそ れに基づいて*運営*されるべき原理であることを認めるだろうと考えたが、彼 は各個人が自分自身の幸福の最大化以外の何かを目指すことは期待していなかっ た。(Dinwiddy 1989 29; cf. Ayer 1954 255; Plamenatz 1963 9-10; Hart 1982 xcii)

(2) わたしは、論争している当事者間の――ある法の擁護者とそれの反対者の 間の――議論は、もしも彼らが直ちに*功利性*の原理に明示的に、そして恒常 的に訴えさえすれば、現在よりも解決する可能性がはるかに高いだろうにと、 確信せずにはいられない。この原理がすべての議論を基礎づける立脚点は、事 実問題のそれである。すなわち、未来の事実――ある未来に起きうる事柄の蓋 然性の問題を議論の立脚点とするのである。そこでもしも論争がこの原理に助 けられて行なわれたとすれば、次の二つの事柄のいずれかが起きる。人々がそ の蓋然性に関して意見の一致を見るか、または彼らは、議論の本当の根拠につ いて然るべく議論をした後に、遂に、いかなる一致も期待できないことを知る のである。彼らはともかくも意見の*不*一致の基づく点を、明晰、明示的に知 るであろう。(_FG_ 491)

(3) 660. 政治的権力を持たない単なる道徳家が、そのような立場において、 一般幸福を促進することのできる仕方。 1. 存在している動機を示すことによって。 2. 新たな動機を作り出すことによって。
661. 私人である道徳家が、そのような立場において、この目的に向かって作 用する動機を作り出しうる役柄。この目的のために民衆的ないし道徳的サンク ションを用いる世論裁判所の、主要な構成員として。(_D_ 60; cf. _ibid_. 67, 69-70, 205, 335-6)

(4) ……しかしながら、功利主義的な道徳体系に付与されているサンクション が常に十分なものであるのかどうかという問題を解決しなくても、この体系を 用いることのできるさまざまな仕方を指摘することができよう。1. この体系 は、「全体の善」を究極的目的として選ぶ人々すべてに対して、実践的な指針 として提示されうる。そのような人々は、宗教的な理由からそうするのであっ てもかまわないし、不偏的な共感が胸中において優勢であるがゆえにそうする のであってもかまわないし、彼らの良心が功利主義的な原理と調和して働くが ゆえにそうするのであってもかまわない。また、これらの理由やそれ以外の理 由が組み合わさっていてもかまわない。あるいは、2. この体系は、絶対的に 従わなければならない規範としてではなく、個人と全体の利益の一致が成立し ていると判断されるかぎりにおいて従うべき規範として、提示されうる。ある いはまた、3. この体系は、たとえ人々が自分の行為をこの基準に従って律す るのが適切だとは常には思わないにせよ、この基準を用いて他人の行為を賞賛 したり非難したりすることには人々が合理的に同意しうるような、そうした基 準として提案されうる。(Sidgwick 1988 248)


参考文献

ベンタムの著作


二次文献


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Apr 27 13:20:15 JST 1999