出典:佐伯千仭+団藤重光+平場安治編著、『死刑廃止を求める』、日本評論社、1994年
(批判1)しょっぱなのタイトルからケチを付けるのは多少気が引けるのであるが、なんとも居心地の悪いタイトルである。なぜこの方は「死刑は廃止した方がよい」という断言的な主張をせず、「死刑はやはり廃止した方がよい」などというお茶を濁した言い方を選んだのだろうか。いったい何が「やはり」なのか?少なくともわたしにはなぜ「やはり」なのか分からないのである。まあその理由はおそらく以下の論文の中で示されるのであろう。
1.現在わが国において死刑の存続を肯定する側の理論的な代表者としては、まず畏友竹田直平博士の名をあげるべきであろう。博士によると、苛くも一国の立法が、人命の尊厳と平等を保全しようとする以上、それは当然に、「私はあなたを殺さないことを約束する。若しこの約束に違反してあなたを不法に殺すことがあれば私の生命を提供する」という社会契約を土台とし前提としなければならない。しかるに、死刑の廃止を主張する人達は、「私はあなたを殺さないことを一応約束する。しかし、この約束に違反して、恣意的にあなたを殺すことがあっても、あなた達は、私を殺さないことを約束せよ」と要求していることになるのであって、全く筋が通らないといわれるのである『「刑法と近代法秩序』二八九頁以下、とくに三一九頁)。まことに説得的で、博士と同じ社会契約説の立場に立てば、これを論破することはむずかしい。
(補足1)死刑廃止論者は「死刑制度を無くせ」と言うが、そう言うことによって「殺人者に殺されない権利を」ということをも意味しているように思われる。「人を殺す者に、人に殺されないことを保障せよ」という主張は、人間一人一人の命の重さは平等である、という考えに反しているのではないだろうか。
上のようなことを書くと、「殺人の加害者を死刑にしたところで死んだ被害者は二度と帰って来ない。だから死刑は無駄である」という反論が帰って来ることがある。しかしそうすると「殺人の加害者を無期懲役にしたところで死んだ被害者は二度と帰って来ない。だから無期懲役は無駄である」と言う文章も正しいことになりはしないか?もしこれを認めるならば、全ての刑罰は無駄だ、ということになる。
それでは、死刑という刑罰は、殺人という犯罪がなくならない限りなくなる見込みは全然ないのかというと、そうでもないのである。実際には、今日すでに多くの国で刑罰としての死刑が廃止されているし、とくに一九八九年一二月一五日に国連総会で採択された第二選択議定書−−正確には「市民的及び政治的権利に関する国際規約(一九六六年一二月六日、わが国は一九七九年に批准)の死刑の廃止を目的とする第二選択議定書」−−は多くの国によって批准されすでに発効しているのであって、現にわが国もその批准を求められているのである。国連までまったく筋の通らぬ矛盾をおかしているといってすますわけにはいくまい。問題は、もう少し別の角度から考えてみる必要があるように思われる。
(批判2)他の多くの国で死刑が廃止されているからといって、その事実から論理的に「日本も死刑を廃止すべきだ」と言えるわけではないのは、当然この方もわかっておられよう。また当り前の話であるが、他の多くの国の選択や、国連の決定が間違えている可能性もあるのである。われわれは(いやしくも議論を行なう気があるのであれば)多数意見に付和雷同してしまうのではなく、あくまで冷静に事の本質を見抜こうと努力すべきである。
まず、右の竹田説では、現に裁判の結果死刑に処せられる被告人が、そのような死刑にあたる犯罪を犯し有罪であることが間違いなく真実であると証明されていることが前提になっている。ところで、有罪の証明とは、裁判官が証拠に照らして被告人が被害者を殺したに相違なく、その点について合理的な疑問を入れる余地がないと確信するということである。しかし、その裁判もしょせん有限な人間による判断であるから、裁判官自身は疑いの余地がなく、有罪と信じて判決を下したとしても、時にそれが間違っていることもある。竹田博士もこのことを否定はされないけれども、ただそんなことはきわめて稀な例外中の例外であるから仕方がないとされるようであるが(前掲書三二五頁)、これはいかがなものであろうか。
(批判3)おなじみの誤判議論である。裁判は「しょせん有限な人間による判断であるから…時にそれが間違っていることもある」から死刑は廃止されるべきだ、という論理である。わたしはこの方のように裁判所の判決が間違える可能性を力説すべきではないと思うのだが、まあそれはこの際置いておこう。それにしても、もし「誤る可能性があるものは全て中止せねばならない」のならば、われわれは死刑制度は愚か、刑罰全体を廃止するだけでなく、さらに(誤って人を殺し得る)自動車や飛行機などを使用することも止め、宇宙ロケットや原発の開発も直ちに中止すべきだ、ということになるのではないだろうか?この反論を予想してこの方は次に死刑とその他の刑罰との間に線を引こうとする。しかしはたしてこの試みはうまく行くのであろうか?
この誤判の問題は、死刑以外の懲役刑や禁固刑等の自由刑や罰金、科料等の財産刑の言渡にも生じ得る。しかし、それらの場合には、誤判とわかったところで、自由刑では前の有罪判決を取り消して受刑者の身柄を釈放して再び自由の身に立ちかえらせ、あるいは納めさせた罰金等を戻してやれば、何とか一応のとりかえしがつく。しかし死刑の場合には、いったん執行されてしまえば、再び生きかえらせることは不可能で絶対にとりかえしがつかないのである。間違った、すまなかったといくら詫びたところで、処刑された人は生きかえってはこない。そんなことは、滅多にない、まったく例外中の例外だし、秩序維持のためにはそれもやむを得ない犠牲として諦めろと突き離せる問題ではない。竹田博士の死刑肯定論は、理論的にはまことに一貫しているけれども、この誤った裁判による不当な死刑の執行があり得るということに対してはすこし冷たすぎるように思われる。
(批判4)この方はこう言いたいようである:「人間は誤って自由を奪われても取り返しがつくが、生命を奪われたら取り返しがつかない」
いったいわれわれの自由とはその程度のものであったのであろうか?われわれは他人の自由--言論やその他の基本的な自由--を例えば10年間奪っても、それは「何とか一応のとりかえしがつく」のだろうか。この自由は権利と置き換えてもよい。この方のいわんとするのは、「われわれは権利を奪われても生きていれば後で何とかその償いはつく」ということなのだろうか?われわれの人格の尊厳は、この自由や基本的な権利に基づいているのではなかったか?これらの人間らしい生活の基本的条件を奪われ、人生の貴重な時間を刑務所で無駄に過ごしたとしても、後で自由にしてやれば「取り返しがつく」というのであろうか?
そもそも「とりかえしがつく」とはどういう意味なのだろうか?もしわたしが冤罪で10年間刑務所で過ごし、それから判決が誤りであったことがわかり、釈放されたとする。この10年間は「元に戻せない」という意味では死刑と同様に「とりかえしがつかない」。わたしは死んでしまったら生き返ることが出来ないのと同様に、10年前の過去に戻ることも出来ない。この方の言い方を用いれば、「間違った、すまなかったといくら詫びたところで、奪われた10年間は戻ってはこない」。
そうではなく、「とりかえしがつく」とは「償いが出来る」ということである、とこの方は主張されるかも知れない。確かに死人に対して何をしても死人は満足もしないであろうし、不満も覚えないであろう。それに対して、生きた人間であれば、あるいはお金などの補償を受けることによって「とりかえしがついた」と思う人もいよう。
しかし、冤罪で刑務所暮らしをした人の中にはいくらお金を積まれようが「とりかえしはつかない」と考える人がいることをわたしは容易に想像することが出来る。10年間の刑務所暮らしは間違いなくわたしの人生を大きく変えるであろう。もしかしたらわたしはその間に最愛の人を失うかも知れない。結婚生活が破綻するかも知れない。そのような経験をした人に対してお金さえ払えば「とりかえしがついた」と考えるのは償いをする側の論理でしかない。すると自由刑であっても誤判の場合に「とりかえしのつかない」可能性がわずかでもあるかぎり、われわれは刑罰を全く科すべきでない、ということになるのではないだろうか?(「中には取り返しのつく人もいる」という理由で自由刑の正当化を図ろうとするのは小数の「取り返しのつかない」人を犠牲にすることになるので、無実の罪で犠牲になる人が一人でもいることを極端に嫌う人道主義的な死刑廃止論者はおそらくこれをよしとはしないであろう)
(本当に問題にすべきなのは「とりかえしがつく可能性があるかどうか」ではなく、「どの程度誤る可能性があるのか」ではないだろうか?死刑判決が2回に1回は冤罪である、ということが明らかになれば、そしてその割合が改善不可能であるとわかればさすがにわれわれも、死刑を廃止せよ、と言わざるを得ないであろう。これは原発や宇宙ロケットにもあてはまる)
2.死刑肯定論のもうひとつの、しかもおそらくより強固な土台は、むしろ「因果応報」という考えであろう。「積善の家には余慶あり、積悪の家には必ず余殃あり」とか、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉は、昔から人々の間に広く行きわたっており、「因果応報」という言葉は今日の日常会話でもよく使われている。そして犯罪に対する刑罰、とくに人を殺した者が死刑を宣告されかつそれを執行されるのも、またこの因果応報の道理の現れにほかならないとする考えは、我同胞の多くによっても支持されているように恩われる。
(補足2)次は死刑肯定派の応報論的な理由を問題にするようである。人間の生命が平等であると考えるのならば、「殺人者には死刑を」というのは自然な発想であろう。果たしてこの考えはどのように否定されるのであろうか。
いかにも、原因があれば必ず結果がある。このことは天地自然を貫く道理であって、その例外は考えられない。しかしそれが「因果応報」と称して有限な人間の社会における営みとその結果の理解のために用いられ、ことに裁判、それも犯罪とそれに対する刑罰との関係の理解と説明のために用いられることになると、それは多分に「擬制」の性質を帯びてくるということに注意しなければならない。犯罪を犯しても逃げおおせるものはいくらもあるし、逆に裁判で極悪非道の犯罪者として死刑の宣告を受け現実に処刑されてしまった人が、後日新たな証拠によって実は無実だったということが判明する場合もあるのである。現に、この十余年の間にも、免田事件(一九八三年)、財田川事件(一九八四年)、松山事件(一九八四年)、島田事件(一九八九年)等のように一、二審の裁判所で誤って有罪とされて死刑の言渡を受け、それが最高裁でも見過ごされ上告棄却となったために、いつ死刑の執行を受けるかもしれない状況に追い込まれていた人達が、幸いにも本人と周囲の人達の長年にわたる努力によってやっと再審の裁判で無罪となり危うく命を助かった生ま生ましい実例がいくつもあるのである。
天地自然の運行、あるいは神仏、全能者の摂理である因果応報には、このような間違いはあり得ないであろう。しかし、有限な人間の営みである刑事裁判−−正確には警察や検察宮の犯罪捜査、訴追から裁判官による刑事裁判の全過程を通じて−−では、それにあたる人間達が主観的にはどのように誠実かつ勤勉であろうとも、このような誤判の発生する危険が至るところに孕まれている。誤判など滅多にない例外中の例外だからやむを得ないものだといって、黙殺し去るわけにはまいらぬのである。むしろ人間は、人間としての有限性を自覚しその営みについて謙遜であるべきである。絶対者あるいは神仏の摂理に属する「応報」の道理を人間が自らとり行おうなどと思い上がるべきではない。誤りをおかしがちなわれわれ人間にはそんな資格はない。それができると思うのは人間の思い上がりであるというのが、わたしの考えである。
(批判5)再び誤判の問題が死刑廃止の根拠にされている。しかし先ほども述べたように、ここの議論を使って刑罰制度そのものを廃止せよ、ということも出来るのである。
またくどいようだが、この方が「犯罪を犯しても逃げおおせるものはいくらもあるし」などと力説するのはあまり感心しない。(ちなみに「犯罪を犯す」という表現は畳語である。正しくは「罪を犯す」あるいは「犯罪を行う」であろう)
さらに目的刑論からも、見せしめ、一般威嚇のために死刑を必要とする立場もあるが、これは人間を他の目的のための手段に堕せしめるものであって断じて賛成できない。また特別予防の立場からも、改善不能の犯人に対する刑罰としてそれを肯定する立場もあるが、今日われわれが到達している人間理解の程度をもってしては、みだりに人を改善不能などと断定すべきではない。この意味で絶対的な社会淘汰である死刑は認められないのである。
(批判6)不幸にしてわたしはこの方の刑法理論を知らないのであるが、応報論はだめ、一般予防はだめとなると、この方はどのようにして国家の刑罰権を根拠づけるのであろうか?わたしにはますます、この方が刑罰そのものを廃止せよ、と言っているように聞こえるのである。
3.さきに一九五六年(昭和三一年)以来二○年近く続けられた法制審議会における刑法改正問題の審議の際には、正木亮、木村亀二両博士のような著名な死刑廃止論者も加わっていたけれども、死刑の廃止ということはほとんど問題にならなかった。せめて死刑の言渡には裁判官の全員一致が必要であるという規定をおこうという私達の提案も少数で葬り去られてしまった。わが国における死刑廃止に対する壁は実に厚かったのである。しかし、その後の世の中の動きはまことに急であって、わが国でも死刑廃止の声は高まり広がってきている。そしてこの問題についての世界の大勢も、刑罰としての死刑の廃止に向って大きく動き出しているのである。さきにもすこし触れたように、一九八九年一二月一五日には国連総会で死刑の廃止を目的とする第二選択議定書が採択され、それがすでに多数の国によって批准せられ、一九九一年七月にはすでにその効力が発生しているのである。すべての人間は、生命に対する固有の権利を有すると宣言した世界人権宣言の第三条や、死刑の廃止が望ましいことを強く示唆し言及している自由権規約(正式には「市民的及び政治的権利に関する国際規約」)の第六条を想起留意し「死刑の廃止のあらゆる措置が生命に対する権利の享有における前進であることを確信し」て、「死刑を廃止するという国際的な公約」をすることを願って、このような協定を結んだとされているのである。わが国の政府はまだその批准を行っていないけれども−−そして同じように批准をためらっている国もいくつかあるけれども−−いつまでもそのままですますわけにはいかぬ状況に来ているのである。
(批判7)願わくば日本人が「世界の大勢」などというものに流されずに冷静に物事を判断してくれるように。もしかするとわれわれは死刑を廃止することによって犯罪発生率をあげるかも知れないのである。そしてそのときに「とりかえしのつかない」人の命が実験という目的で無駄に奪われるかも知れないのである。
死刑制度の廃止に反対する人達は、自分自身はそんな死刑になるような犯罪など決して犯さないという固い信念の持主であろう。しかし、さきに引合に出した免田事件その他の再審で無罪になった人達も、事件に巻き込まれ刑事被告人にされるまでは、同じように自分は決して死刑になるような犯罪は犯さないし、そんな嫌疑を受けるようなこともないと信じていた人々である。この人達は幸い再審で助かったが、そのように助からないで誤って死刑を執行されてしまった人が何人もいることであろう。同じような目に会わないという保障は誰にもないのである。
このように間違えばとりかえしのつかぬことになる死刑だけは、法の定める刑罰のリストから取り外しておくべきではあるまいか。(さえき・せんじん)
(批判9)「反死刑廃止論者は犯罪など決して犯さないという固い信念の持ち主であろう」とはひどい偏見である。もしもわたしが死刑廃止論者に対して「あなたがた死刑廃止論者は自分がもいつ人を殺すかも知れないからその場合に死刑にならないように死刑を廃止せよと言っているのではないですか」と言ったら、おそらくその方は非常に憤慨されてわたしを絞め殺すかも知れない。しかしこの方はそれと同じぐらい侮辱的な発言をわれわれ反死刑廃止論者にしているのである。
最近は「たとえわが子が殺人鬼の手によって殺されたとしても、それでもわたしは死刑廃止論者であり続ける」とガリレオきどりで語るのが流行しているらしいが、わたしもこれにならって宣言しておこう。
「たとえ自分が殺人を犯して死刑判決を受けようと、またたとえ自分が無実の罪で死刑判決を受けようと、それでもわたしは反死刑廃止論者であり続ける」