注:この原稿は、1998年1月12日の応用倫理学の発表に使われたものである (ただし一部改訂)。発表後の若干のコメントあり。 なんで死刑ってやったらあかんの?

なぜ死刑制度は廃止されるべきなのか?

誤判可能性を論拠とする死刑廃止論の検討

児玉聡

"I shall ask for the abolition of the punishment of death until I have the infallibility of human judgment demonstrated to me."--the Marquis de Lafayette

Summary in English


目次


はじめに--なぜ誤判論か--

「なぜ死刑制度は廃止されるべきなのか?」という問いに対しては、さまざま な回答がありうる。試みに、総理府の内閣総理大臣官房広報室による「基本的 法制度に関する世論調査(平成6年9月調査)」を見てみよう。「どんな場合にで も死刑は廃止すべきである」と答えた者に対して、その理由を尋ねた結果では 次のような答えが返ってきている1

ところで、以上のような理由のうち、日本の死刑廃止論者の多くが「もっとも 決定的な論点」として挙げているものは、「誤りがあったとき取り返しがつか ない」、すなわち誤判の可能性である。誤判による死刑は「言語に絶する不正 義、人道上絶対に許すことのできないような大きな不正義2」などと言われ、「誤判の危険だけでも死刑は廃止すべき 3」「誤判の可能性が0%でない以上、死刑は廃止されな くてはならない4」と論じられることがしばしばである。

そこで本稿では、誤判の可能性を根拠とする死刑廃止論の検討を行なってみた いと思う。というのも、もしこの議論が正しく思われるのであれば、往々にし て「水掛け論」に終わってしまっていると言われるその他の議論を待つまでも なく、死刑制度は直ちに廃止されるべきだからである。


コメント: 反-死刑廃止論の立場から一方的な意見を述べて、 議論が「水掛け論」になってはつまらないので、基本的な姿勢として「疑わし きは誤判論の利益に」なるようにした。すなわち、誤判論に対する反論に「合 理的な疑い」の余地のある場合は、誤判論の側を正しいとみなすことにした。


1. 誤判論の定式とその反論の定式

まず、「死刑制度には誤判の可能性があるから廃止すべきだ」という議論(以 下、誤判論と呼ぶ)をはっきりさせよう。「誤判を理由とする死刑廃止論と一 口にいっても、その内容、理由付けには様々なものがある5」と言われたりもするものの、多くの誤判論の要点は、 多かれ少なかれ、以下のようにまとめることができる。

  1. 人間は神ならぬ不完全な存在であり、誤ちを犯す。(可謬性fallibilityの議論)
  2. ところで、誤判による死刑は「取り返し」のつかない誤ちであり、「不正義の極み」である。(回復不能性irrevocabilityの議論)
  3. そして、死刑制度が存在するかぎり、誤判の可能性はなくならない。
  4. したがって、死刑制度は廃止されるべきである。

つまり、「死刑制度には、取り返しのつかない誤判の可能性が必ず伴なうから、 廃止すべきである」ということである。また、詳しくは以下で見ることになる が、「人間の可謬性」と「誤判による死刑の回復不能性」という考えが、誤判 論の大きな前提となっている。この点を念頭において先に進むことにしよう。

さて、このような誤判論に対して、いくつかの反論が提出されている。それら の反論を大きく分けると、以下の4つに分類できる。

  1. 現在の日本の死刑制度においては、誤判の可能性は全く存在しない。 (誤判可能性の否定)
  2. 誤判の余地のない事件については、誤判は死刑廃止の根拠とならない。 (誤判可能性のない事例の存在)
  3. 誤判の回復不能性は、死刑に限るものではなく、他の刑罰にもあてはま る。(回復不能性に関する反論(1))
  4. 誤判論を認めると、同じ根拠から(たとえば)自動車交通などの制度も廃 止しなくてはならないことになる。(回復不能性に関する反論(2))

わたしの知るかぎり、また、わたしの考えつくかぎりでは、誤判論に対する反 論はすべて上の4つに分類される。そこで、誤判論が上の4つの反論に対してど のように再反論することができるかをこれから検討する。そして、もしそれら の反論の各々に対する誤判論の再反論が、説得力のあるものだと認められるの であれば、誤判論は死刑廃止の決定的な論拠だと言えるであろう。


コメント: 上にあるように、誤判論の立場は、(1)可謬性と (2)死刑の回復不能性という考えを基本にしている。この両者のいずれか、あ るいは両方について「そのような考えはとても認められない」と言ってしまう と、誤判論との対話はいつまで経っても平行線を辿ることになる。だから、反- 死刑廃止論者は一度思い切って相手のふところに飛び込むつもりで、これらの 考えを受け入れてみて、誤判論と同じ土俵に立った上でその議論を反駁できる かどうか試してみるべきである。もちろん、(1)と(2)の考えそのものを吟味す る必要もあるのだが。(今回は、特に(1)可謬性の考えを吟味することを忘れて いた。反省)


2. 反論(1)-(4)の検討

反論(1): 誤判可能性の否定

この反論は、--これ以外の他の3つの反論が、暗に死刑制度における誤判の可 能性を認めているのに対し--、誤判論に対して「そもそも現在の日本の死刑制 度においては、誤判は起こらない」と真っ向から論じるものである。例えば、 以下のような発言がある。
少なくとも、わが国の明治以降におきます死刑の宣告を受けたものに関する限 り、誤判であった例は聞かないのであります。死刑を宣告したその事件でこれ は誤判であったとあとで、証拠があった事件はあまり聞かないのであります。 死刑囚に関する限りにおきましては、わが国としては外国は知りませんが、明 治維新この方、死刑囚について誤判があったというようなことはあまり聞かな いのであります。6

幸いなことに、わが刑法始まって以来、誤って死刑を執行して後にそれが再審 で無実であったことはなかったことを申し上げたいと思います。7

確かに、もしも明治以降の日本の死刑制度において誤判によって死刑を執行さ れた例がなく、また今後も誤判によって死刑を執行される可能性が全くないと すれば、誤判論は少なくとも日本においては死刑廃止の根拠とはなりえないで あろう。

しかし、多くの誤判論者は、この反論は全く妥当でなく、(1)これまでにも誤 判によって死刑を執行されている可能性があり、(2)今後もその可能性は否定 できない、と論じている。(1)に関しては、1975年に出された「白鳥決定」(再 審事由を従来の基準よりもゆるやかにした)以降の、4つの再審無罪の事例(免 田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)がよく引合いに出される8

もし「白鳥決定」で再審の道が広げられていなかったならば、この四件にして も、おそらく再審は通らなかったでしょう。想像するだけでも、恐ろしいこと です。従来、再審が通った事件は非常に稀有で、それまでの間に、明治時代以 降、無実のまま死刑が確定し、かつそれを執行された事件は、かなりの数にの ぼるのではないかと推測されます。9

およそ裁判は、いかに厳格な手続きのもとでいかに慎重に行なわれようとも、 誤判の危険(可能性)から完全に免れることはできない。免田事件をはじめとす る一連の雪冤事件の存在は、誤判の危険を如実に示すと同時に、認知されてい ない冤罪事件の存在を暗示してもいる。10

実際のところ、明治以降の日本の死刑制度においては、死刑判決が確定してか ら死刑が執行されるまでの間に再審が行なわれ、その結果無罪になった事例は 存在するが、死刑が執行された後に誤判であったことが確認された事例は存在 していない。

しかし、確認された事例が存在しないからといって、直ちに「誤判による死刑 執行が一つも存在しなかった」と言い切れるかどうかは疑問である。まして、 仮にこれまで誤判による死刑の執行が存在しなかったとしても、そうといって これからもその可能性が皆無である、ということを保証することはできない。 日本の死刑廃止論の大家とも言うべき団藤重光は、誤判の可能性が必ず存在す ることを論じる際に、カール・ポパーの「可謬論(fallibilism)」を援用する が(団藤重光、『死刑廃止論』。144-145頁)、ポパーを持ち出すまでもなく、 われわれは「死刑制度を存続させるかぎり、誤判の可能性が全くなくなること はない」という誤判論の主張を認めざるをえない。

したがって、誤判論に対する反論(1):「現在の日本の死刑制度においては、誤 判の可能性は全く存在しない」は有効でないとみなすことにする。


コメント: 反論(1)では、人間が可謬性あるいは誤ちを犯す 可能性を持つ、という議論を、ぼくは最終的に認めることになるのだが、加藤 先生もおっしゃった通り、ポパーの言う「可謬性」と団藤重光の使う「可謬性」 が同じものかどうか吟味する必要があった。(ただし、ポパーは団藤重光に対 して、「人間の可謬性(human fallibility)こそが死刑廃止論の決定的な理由 だ」と書いた手紙を送っているそうである(団藤重光、『死刑廃止論』、 144-145頁)。

たしかに、--誤判論者がしばしば非難するように--、「絶対に間違える可能性 のない場合が存在する」と主張するのは怪しい。しかし、「あらゆる場合にお いて、間違う可能性は常に存在する。だから、死刑制度は 廃止すべきだ」という議論もまたあまり健全ではない。というのも、「あらゆ る場合において、間違う可能性は常に存在する。だから、 なるべく間違う可能性を小さくしていこう」という議論の仕方もありえるはず で、多くの場合は、こちらの方が健全な判断のはずだからである。


反論(2): 誤判可能性のない事例の存在

この反論は、全ての死刑判決は誤判の可能性のあるもの(集合1)と全くないも の(集合2)に分けることができ、誤判論は集合1に関しては有効かも知れないが、 集合2に関しては全く妥当しない、と論じるものである。

廃止論の決め手とされる「誤判」の問題についても、誤判の可能性が僅かでも ある以上死刑を行ってはならないという論理をもってして、誤判の可能性の全 くない凶悪事件の犯人をも死刑から免れさせることを正当づけることにならな い。11

自動車が走っているとき、まったく死亡事故の可能性のない場合と死亡事故の 可能性のある場合とがある。自動車交通を全面的に禁止するならば、死亡事故 の可能性のない場合についても、「死亡事故の可能性があるから」という理由 で禁止することになるので、この判断は論理的な間違いを犯していることにな る。
「ただ一例といえども間違って死刑にしてはいけない」というのは正しい主張 である。しかし制度としての死刑を廃止することは、「当然死刑に処すべきで あるような事例が存在したとしても、自動的に、その件についても、死刑が免 除される」という判断を将来のあらゆる事例について、前もって下しておくこ とを意味する。その先行判断の正しさは証明できない。したがって冤罪の可能 性という特殊な事例を根拠にして死刑を全面的に廃止するのは、論理的にまち がっていることになる。12

この反論に対しては、二つの再反論が考えられる。

一つ目は、誤判の可能性の全くない事例は現実には存在しない(すなわち、集 合2は空集合である)、という再反論である。これは、人間の可謬性を前提とす れば当然考えられる反論である。

確かに、誤判はすべての刑事事件にとって重大な問題であり、人知のおよぶ限 り除去されなければならない。しかし、人間の行う裁判である以上、限界があ ることも否定できない。裁判は常に誤判の危険性を含むものである。免田事件 等の死刑における再審無罪のような事実認定の誤りだけでなく、法律の適用や 量刑の段階にも誤りが混入しうる。どの事情を考慮するかで判断が大きく異な ることは経験の教えるところである。死刑相当との判断を絶対的に誤りなく下 すことは不可能だといってよい。実際の刑罰がこのような裁判で決定されるこ とを考えれば、抽象論としてはともかく、誤判の余地のない事件というものを 安易に前提とすることはできない。むしろ、誤判の危険性を前提に刑罰を考え るべきである。13

また、団藤重光は「証拠にひそむ誤判の要因」として、自白の任意性や証明力 の問題、証人の証言の誤りや偽証の問題、精神鑑定において責任能力の有無の 判断を誤つ可能性などを挙げ、事実の認定には「一抹の不安」が入りうる余地 が常にあることを力説している14

要するに、誤判論からの再反論は、「誤判の可能性が全くない場合」--加藤尚 武の比喩を使うならば、「自動車が走っているとき、まったく死亡事故の可能 性のない場合」--というのは、想像上はありえても現実にはありえない、と主 張するのである。彼らの主張を認めるとすれば、全ての死刑判決には誤判の可 能性が常にあることになり(すべての事例が集合1に入り)、反論(2)も有効でな いことになる。

二つ目の再反論は、仮に誤判の可能性が全くない事例(集合2)が現実に存在す るとしても、死刑制度を存続させる限り、不完全な人間の手による誤った死刑 判決が出される可能性(集合1の事例に死刑が適用される可能性)は消えない、 というものである。

死刑存廃の議論において論じられているのは、制度としての死刑を存置すべき か否かということである。仮に(4)の見解[こだま注: 本稿では反論(2)の見解 にあたる]がいうように量刑も含め全然誤判のおそれのない死刑相当の事件が 存在するとして、その犯人を死刑にするために死刑制度を存置する場合、その 制度の現実の運用においては、死刑が相当とされる者のみならず、本来死刑に 処せられるべきでない者も誤判により死刑に処せられるおそれがあることはこ れまで見てきたとおりである。死刑廃止論は、この危険性を問題にしているの である。死刑制度がある限り本来死刑に処せられるべきでない者も死刑に処せ られるおそれがあるのであり、本来死刑に処せられるべきでない者の生命を奪 う(まさしく国家による殺人である)死刑制度の存置が許されないというのが誤 判に関する死刑廃止論の立場なのである。15

すなわち、仮に集合2(誤判の可能性が全くない場合)が空集合でないとしても、 ある事例が集合1(誤判の可能性がある場合)に含まれるのか、それとも集合2に 含まれるのかを判断する際に、可謬的人間は誤ちを犯しうる、というのである。 この二つ目の再反論も、やはり人間の可謬性を問題にしている。

けれども、反論(2)の論者が「誤判の可能性の全くない事例が存在する」と断 言するとき、その人は少なくともその点に関しては人間の可謬性を前提してい ないのではないだろうか?ここに誤判論とその反論の間の議論のすれ違いが起 きる原因の一つがある。そこで議論が水掛け論になってしまわないためにも、 誤判論者の主張を認めて、先に進むのが適当だと思われる。


コメント: ここの議論は、「可謬性」という言葉に振り回 されて、論理的な誤ちを犯している可能性があるので、再検討の余地あり。 (とはいえ、誤判論はおそらく上のような推論をしていると思う)

コメント: 加藤先生「個々の死刑判決に関しては誤判の可 能性を完全には払拭できない、という理由から、死刑制度そのものを廃止せよ、 という結論は論理的には必ずしも出てこないし、刑事政策上で健全な判断だと も限らない。むしろ、たとえ誤判の可能性が完全にはなくならないにせよ、で きるだけ小さくなるよう努力する、というのも刑事政策上で健全な判断と言え るし、現に日本における死刑制度の運用に関しては、誤判の可能性がほぼゼロ の理想的な状態になりつつある(誤判の可能性が0%でなくては死刑はやっては ならない、というのは一種病的である)」(こだまの言葉で書かれてあるので、 必ずしも先生の真意が述べられているかどうかはわからないので、その点に注 意されたし)


反論(3): 回復不能性に関する反論(1)

この反論は、誤判が起きた場合の回復不能性(取り返しのつかないこと)は死刑 に限ったことではなく、その他の刑罰(特に自由刑)においても回復不能性は存 在するのだから、仮に「誤判が起きると取り返しがつかない」という理由で死 刑制度を廃止するとすれば、刑罰制度全体を廃止しなければならないことにな る、というものである。

廃止論者からは、誤判による死刑は回復不能だから廃止せよとの主張もなされ ている。これはまことに三歳の童児にも分かる類の説明である。しかし、これ は有期自由刑でも同様の現象なのである。自由刑ならば生物としての生命は保 たれるけれども、精神的内容を重視する人間生活としての「生命」に不可逆的 変更を加えるものであるという意味で、誤判による自由刑の被害もまた回復不 能である。誤判により無実の身をもって一〇年の自由刑に処せられたとしたら、 一〇年の牢獄生活はその人の一生を変えることになる。「青春再び返らず。」 の語はその一例であり、しばしば演劇や小説などにも取り上げられる主題となっ ている。それはもっと短い刑期でも、それなりに人生の大きな変更を余儀なく なさせることを思わなければならない。
誤判はあってはならない。けれども、それは死刑の問題とは別の次元に属する。 それを死刑に特有の如くに取り上げるのは誤魔化しであると言うべきである。 16

こういった反論に対して、誤判論の側からは、生命刑である死刑の誤判と自由 刑の誤判では、同じ「取り返しがつかない」と言っても、内容が全く異なり、 両者の間には「本質的な差異」がある、という再反論がしばしばなされる。
誤判の問題は何も死刑事件に限りません。死刑以外の、どんな事件についても あることです。そうして、どんな事件についても、誤判はあってはならないこ とです。ですから、死刑問題を議論するのに、誤判の問題は別にして考えるべ きだという意見が、有力な学説の中にもあるくらいです。例えば、懲役刑など にしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出され ても、失われた時間、失われた青春は再び戻って来ないという意味では、これ もたしかに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要 な、しかも人格的(その意味で主体的)な利益であろうとも人間が自分の持ち物 として持っている利益ですが、これに対して、生命はすべての利益の帰属する 主体の存在そのものです(もちろん、このことと、前述の人間の尊厳が人命の 上位にあるということとを混同してはなりません)。死刑はすべての利益の帰 属主体そのものの存在を滅却するのですから、同じ取り返しがつかないと言っ ても、本質的にまったく違うのであります。その区別がわからない人は、主体 的な人間としてのセンスを持ち合わせない人だというほかありません。そうい う人には、無実で処刑される人の気持ちがどんなものであるか、見につまされ てはわからないでしょう。そういう人は、無実の人を処刑することがいかにひ どい不正義であり、どんなことがあろうとも絶対に許されるべきでない不正義 であるかということを、身をもって感得することができないのでしょう。死刑 事件における誤判の問題は、決して単なる理屈の議論ではないのであります。
死刑の判決が執行された後で、無実だったことがわかった場合には、刑事補償 法(四条三項)の規定によって、三千万円以内の金額--もし本人の死亡による財 産上の損失が証明されればその額が加算されます--が補償金として出されます が、そういう刑事補償が遺族に出されたところで、本質的には何の償いにもな るものではありません。法律を改正してその金額をいくら引き上げても、そん なことで解決できるものではない。そういう点で、死刑事件以外の場合の誤判 と、死刑事件の誤判とでは、質的な違いがあるのです。17

もちろん誤判の危険の問題は、死刑のみならず刑罰一般に共通するものではあ る。しかし、他の刑罰においては、誤判が明らかになった場合に本人に対する 代替的回復措置がまがりなりにも可能であるのに対して、死刑の場合には、本 人に対する回復措置は全くありえない。この点に、生命刑としての死刑の特異 性が如実に現われる。18

つまりこれらの再反論によると、死刑は生命を奪う刑だから、誤判による死刑 は(絶対的に)回復不能であり、死刑以外の刑罰は生命を奪うわけではないので、 誤判の場合に(絶対的に)回復不能なわけではない、という差異があるのである。 (くだけて言えば、いったん死刑が執行されてしまえば、後でそれが誤判だっ たとわかった際に、本人に直接「ごめん」と謝ることはもはや不可能であるが、 その他の刑罰であれば、本人に直接謝ることが可能だ、ということである-- 「回復不能」とか「取り返しがつかない」というのは非常に誤解を招く表現で あるので、「直接謝罪不能性」とでも言い換えた方が良いかもしれない)

しかし、たとえ「回復不能」をこのように解釈するとしても、死刑以外の刑罰 においても(たとえば懲役生活の途中で死ぬ、といったように)生命が奪われる 可能性は全くないとは言えない。すると誤判論の論法で行けば、死刑以外の刑 罰においても「取り返しのつかない誤ち」が犯される可能性があるのではない だろうか。


コメント: 最後のこだまの疑問に対する答えとして、「死 刑と、誤判による死刑執行との間には直接の因果関係があるが、自由刑と、服 役中の病死や老衰との間には直接の因果関係はない」という反論がなされたが、 検討と分析の余地あり。


反論(4): 回復不能性に関する反論(2)

最後の反論は、回復不能性に関するもう一つの反論である。その反論とはすな わち、「では、誤判論に従って、死刑における誤判とその他の刑罰における誤 判には質的な差異があるとするとしよう。さて、誤判論によると、死刑制度は 『回復不能な誤ち(生命を奪ってしまう誤ち)の可能性を不可避的に伴なうから』 廃止すべきだ、という。ところで、たとえば交通事故というのも、『生命を奪っ てしまう誤ち』と考えることができる。また、自動車交通がある限り、交通事 故の可能性が0%になることはないと考えられる。すると、誤判論のこの論法を 認めるならば、同様な回復不能な誤ちを引き起こす可能性のある制度(たとえ ば自動車交通)も、同じ根拠から廃止しなくてはならなくなる」という議論で ある。
時々、誤判の危険性について論じられることがある。誤判のケースが詳細に示 されると、容易に国民感情が動くことがある。確かに、このようなケースがあっ たことは事実であるし、最近注目された冤罪事件もこれを証明しており、将来 もまた、けっして生じないとは断言できないことである。しかし、単なる誤判 の危険性だけで、死刑制度が不正だと判断することは正しくない。それは例え ば次の事実をみれば容易に理解できよう。すなわち、自動車の運転に伴なう危 険性はかなり大きいが(日本では毎年一万人に近い交通事故による死亡者があ る)、それだからといって、自動車の運転が、道徳的にも法律的にも禁ずべき であるとはいえないし、事実、禁じられてはいないということである。刑法に おいては、いわゆる「許された危険」という原則が存在する。すなわち現代の 複雑な社会生活を可能にするためには、ある程度の危険性は許されるというこ とである。この原則からも、時には誤判があるとしても、もし、死刑が社会防 衛のような理由で必要不可欠なものであるとすれば、それ は「許された危険」として認められるといわなければならないであろう。つま り、これだけでは死刑を廃止する決定的な理由にはならないわけである。19

誤判の危険を避けるためにあらゆる合理的な方法を講ずることが必要であるこ とはいうまでもないが、これを理由に立法における死刑の廃止を要求するのは、 交通事故が頻出するからこの危険を避けるために汽車自動車飛行機などの近代 的交通機関を全面的に禁止すべきであるという主張をなすのと同様に、否それ 以上に不当であるといわねばならない。20

この反論は一見したところ非常に強力に思える。また、これに対する誤判論の 側からの有効な再反論は、わたしの知るかぎりでは、まだなされていないよう である。しかし、もし誤判論者が「死刑制度は廃止すべきであるが、自動車交 通は廃止すべきでない」と主張するのであれば、死刑制度における誤判と、自 動車交通における事故との有意な違いを指摘する必要がある。そこで、そのよ うな違いがありうるかどうかを考察してみることにする。

再反論(1)と(2)に関しては、これまでわたしが述べてきたような誤判論がこの ような議論を認めることは矛盾しているので、とりあげるまでもなかろう。

次に、再反論(3)は、自動車交通における事故と死刑制度における誤判を誤ち の違いを、その誤ちを私人がなすか、政府(あるいは公務員)がなすかという点 に求めている。両者とも誤ちによる殺人には違いないが、政府による誤ちの方 が私人による誤ちよりもゆゆしき不正だ、というのである。

しかし、この議論はおかしい。というのも、死刑制度と自動車交通を制度とし て考えた場合、死刑制度を合憲として認めているのは政府であるが、制度とし ての自動車交通を合憲として認めているのもまた政府に他ならないからである。 だから当然、政府は、やろうと思えば、「自動車交通には交通事故による死者 が出る可能性が常にあるから」という理由で、自動車交通を廃止することも可 能なはずである。だが政府は、毎年1万人前後の交通事故による死者が出るこ とを知りながら、自動車交通を容認しているのである。

また、再反論(4)はどうであろうか。この議論によると、死刑制度と自動車交 通は、事故による死者を出すという点に関してはどちらも同じだが、前者は人 を殺すことを意図する制度で、後者は人を殺すことを意図する制度ではないか ら、死刑制度は廃止すべきであっても、同じ理由から自動車交通をも廃止すべ きとは言えない、ということになる。

しかし、なぜ「人を殺すことを意図する制度において、事故による死者を出す こと」の方が「人を殺すことを意図しない制度において、事故による死者を出 すこと」よりも大きな不正である、と言えるのだろうか。言い換えると、なぜ 「人を殺すことを意図し、かつ事故による死者を出す可能性が必ず伴なう制度 (死刑制度)」の方が「人を殺すことを意図せず、かつ事故による死者を出す可 能性が必ず制度(自動車交通等)」よりも不正だ、と言えるのだろうか。(この 部分まだ書きさし)

したがって、誤判論の立場から死刑制度の廃止を主張するのならば、同時に自 動車交通(やその他の「回復不能な誤ち(生命を奪ってしまう誤ち)の可能性を 不可避的に伴なう」制度)の廃止をも主張しなければ、筋が通らないのではな いだろうか。もちろん、それらの制度はすべて廃止されるべきだが、順番とし てまず先に死刑制度が廃止されるべきだ、と主張するのならば一応筋は通って いるが。(しかし、もしも死刑制度と自動車交通が同じ理由(回復不能な誤ちを 伴なう)から不正だとすると、事故の数量の点からいえば、先に廃止されるべ きなのは自動車交通ではないだろうか)


コメント: 最後の部分が検討の余地あり。2.の問題が特に 論争点になると思われる。また、これ以外の理由で、「同じ『取り返しのつか ない誤ち(本人に直接謝ることができない誤ち)』が生じるといっても、誤判に よる死刑と交通事故とでは決定的な違いがある」とお考えの方は、その理由を ぜひ教えていただきたい。21


(暫定的)結論

以上の考察からすると、誤判論はまだ明らかにすべき反論に明確には答えてい ないように思われる。すなわち、もし誤判論の主張が、次の2点を根拠にして いるとすれば、

  1. 人間の可謬性、すなわち、人間は自分の意図とは異なる結果を生み出す 可能性を常に有していること
  2. 死刑における誤ちの致命性(回復不能性)、すなわち、死刑制度における 誤ちは生命を奪いかねないものであること

その場合、同じ根拠から、他の「生命を奪いかねない誤ち」を伴う制度(例え ば、反論(3)で挙げた自由刑の問題と、反論(4)で挙げた自動車交通の問題)も 廃止しなくてはならなくなる。

もし誤判論がこの反論に対して説得力のある再反論をすることができないので あれば、誤判の可能性は、せいぜい死刑制度の欠点の一つに過ぎず、誤判論 (可謬性、回復不能性)のみによって死刑制度を廃止すべきだとは言えないこと になる。

そしてこの結論が正しいとすれば、われわれは誤判論だけに留まらずに、死刑 廃止論のその他のさまざまな論点を考察しなくてはならないであろう。


参考文献


関連サイト


1 関東弁護士会連合会編、『死刑を考える: 平成7年度 関弁連シンポジウム報告書』、関東弁護士連合会、1995年(資料編、150頁)に よる。なお、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と回答した者は、ア ンケート回答者総数2113人のうち287人で、割合としては全体の13.6%となって いる。また、その理由に関する回答は複数回答である。

2 団藤重光、『死刑廃止論』、はしがき27頁、15頁

3 大久保哲、「誤りをなさない人間はいないし、誤判の ない裁判はありえない」、『死刑廃止を求める』、138頁

4 道谷卓、「誤判の危険性こそが死刑廃止の理由である」、 『死刑廃止を求める』、146頁

5 『死刑を考える』、367頁

6 1956年5月10日参議院法務委員会公聴会における安平 政吉検事の発言、『死刑を考える』、364頁

7 1975年11 月20日参議院法務委員会安原美穂法務省刑 事局長の発言、『死刑を考える』、364頁

8 白鳥決定については、たとえば、団藤重光、『死刑廃 止論』、146-150頁を参照。白鳥決定以降の4つの再審無罪判決に関しては、関 東弁護士連合会編、『死刑を考える』、387-400頁に詳しい説明がある。

9 団藤重光、『死刑廃止論』、150頁

10 丸山雅夫、「生命刑としての死刑の特異性」、『死刑 廃止を求める』、145頁

11 土本武司、「実証的死刑論」、『法学セミナー』、 30頁

12 加藤尚武、『応用倫理学のすすめ』、114-115頁

13 吉弘光男、「誤判と死刑は切り離せるか」、『死刑 廃止を求める』、148頁

14 団藤重光、『死刑廃止論』、154-168頁

15 関東弁護士会連合会編、『死刑を考える』、470-471頁

16 植松正、「死刑廃止論の感傷を嫌う」、『法律のひ ろば』、14頁

17 団藤重光、『死刑廃止論』、145-146頁

18 丸山雅夫、「生命刑としての死刑の特異性」、『死 刑廃止を求める』、145頁

19 ホセ・ヨンパルト、『刑法の七不思議』、236頁(ち なみに、彼は誤判論は誤っていると考えるものの、他の理由から死刑廃止論を 唱えている)

20 竹田直平、「死刑」、日本刑法学会編、『改正刑法 準備草案』、116-117頁。ただし、この引用は三原憲三、『死刑存廃論の系譜』、 168-169頁からの孫引きである。

21この点に関して、 「自動車は生産的で,死刑制度は非生産的だという違いがある」 というメイルをいただいた。 たしかに、こういう反論も予期すべきであった。 しかしながら、 「死刑制度は社会的に有用かどうか」という議論は、 いわゆる死刑の抑止力の問題になるので、 わたしはこれを誤判論とは別の議論と考え、 ここでは考慮しないことにする。 わたしが本論で問題にしているのは、あくまで、 「たとえ、死刑制度が生産的であったとしても(あるいは抑止力があったとしても) 誤判の可能性がわずかでもある限り、 死刑は廃止されなくてはならない」という議論である。


Satoshi Kodama
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