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団藤重光『死刑廃止論』批判草稿

3.状況の流動化--改めて死刑廃止を訴える


出典:団藤重光著、『死刑廃止論(第5版)』、有斐閣、1997年


要するにスウェーデンが、今回、犯人の引渡し拒否の姿勢を示しているこ とは、日本が死刑廃止国になっていないで、文化的・社会的にまだヨーロッパ 諸国の仲間入りをしていないことが、こういうところにも表れた問題だと見な ければなりません。…中略…。裏を返せば、日本が文化国の仲間入りがまだで きないということにもなって来る。まことに恥ずかしいことです。憲法前文に あるような「国際社会において、名誉ある地位を占める」というには、ほど遠 いことになるのではないかという感じを、ここでも持たざるを得ないのであり ます。(pp.70-71)

(注.日本で殺人を犯し、国外へ逃亡したと見られるイラン人が、古くから の死刑廃止国であるスウェーデンで身柄を拘束された。ところが日本の捜査当 局が身柄の引渡しを求めたところ、スウェーデン当局は「死刑制度のある国に は、本人を死刑にしないという保証がないかぎり、引渡しはできない」といっ て交渉が難航した)

・死刑廃止国と存置国との間の犯人の身柄引渡しの問題は、確かに難しい 問題であろう。

・単純に考えて、もし存置国Aで殺人を犯しても廃止国Bへ国外逃亡すれば 少なくとも死刑だけは免れる、ということが確実だとわかれば、存置国Aで殺 人を犯した人間はみな廃止国Bへ逃亡しようとするだろう。

・しかし廃止国としても、殺人犯が死刑にされるのをわかっていてみすみ す存置国側の引渡しに応じるのは「人道がすたる」というところであろう。

・この問題に対して両国が納得する解決案を考えるのは非常に面白い作業 だと思われる。

・それなのに一体団藤氏のまとめ方はなんなのか。死刑存置国と廃止国の (法的・政治的な)共存の可能性を探ろうともせずに、ただただ日本の文化的後 進性を槍玉に上げている。

・これでは某「愛国的」日本人本多勝一ではないが、ぼくも団藤氏のこと を「植民地型知識人」と呼びたくなってくる。


本来、死刑の合憲性の問題は、個人の生命権という基本的人権の問題であ る。人権は、多数の意思で存否が決まるものではない。人権の問題を多数国民 の意識によって決定することは、妥当ではない。死刑が残虐刑にあたるか否か も、人権の法理によって決められるべき問題であり、「何を残虐と感じるか」 という多数人の「感覚」によって決められる問題ではない。…中略…。死刑の 問題は「人権」の問題であり、人々の「意識」問題ではないというところにあ るのではなかろうか。(p.86)


・これは平川宗信という人のコメントを団藤氏が引用したものである。世 論が移り変わって死刑制度が憲法に言う「残虐な刑罰」に当てはまる時代も来 よう、という意見に対して、いやいや、世論などは問題ではない、もとより人 権は世論によって左右されるべきものではない、というのが平川氏の持論であ る。

・しかしそれでは一体、何が「人権」であって何が「人権」でないのかを 誰がどのようにして決めるのであろうか。ここでまたおそるべき「人権問題」 が発生するのである。「人権を決める権利を持った人間は誰か?」

・それにしても、いつの時代にもどこの国でも通用する「人権」なるもの が存在すると考えるのは、世界のどこかに「善のイデア」が存在すると考える のとほとんど異ならない。(これも自然法的誤謬の一つと言える)

・死刑が人権に反するかどうかなどという問題に対する答えを何らかの原 理から理屈によって演繹的に導き出すことはまず不可能なのに、われわれは平 川氏が「死刑は人権に反する」という答えをどこかから手に入れたら、それに 黙って従わなくてはならないのだろうか。民主主義国家に住むわれわれが?


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 08/25/97
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