児玉 聡
すべり坂論法とは、ある行為が法的または道徳的に許さ れないことを示すために使われる論法の一つであり、一般に次の形式を持つ。 「もしあなたがはじめの一歩Aをふみだすならば、あなたか、重要な点におい てあなたと似ている別の行為者によって類似の行為が次々と連鎖的に行なわれ、 その結果、行為Bが必ずなされるか、あるいは非常に高い可能性でなされるだ ろう。Bは道徳的に許容できない。したがって、あなたは第一歩Aをふみだして はならない。」(1) この論法の代表的な例は、安楽死 に関するものである。「おそらく極端な例においては自発的な安楽死が道徳的 に正当化される場合もあるかもしれない。しかし、自発的安楽死は非人間的な 社会へと向かうすべり坂の第一歩であるから、決してそれを行なうべきではな いし、ましてや合法化は論外である。そうなると、次には重度の障害を持った 新生児が殺されることになり、その次には精神的障害を持った人々が殺される ことになり、ついには役に立たない老人がその意志に反して殺されることにな る。」(2)
すべり坂論法は、ときにその名を変えて、「ラクダの鼻をテントに入れる (letting the camel's nose in the tent)」、「くさびの先端(the thin end [edge] of the wedge)」、「ドミノ理論(the domino theory)」などの名前で 表現され、出生前診断や遺伝子治療といった生命倫理学であつかわれる話題に 限らず、表現の自由からマリファナの規制まで、応用倫理学で論じられるほと んどの話題において重要な論点の一つを提供している(3)。もっとも、この語がつねに同一の意味で用いられて いるとは言えず、しばしばその意味内容はあいまいである。たとえば、「蚊を 殺すためにこの殺虫剤を使うべきではない。他の有用な昆虫も殺してしまうこ とになるから」というような議論がすべり坂論法として語られることがあるが、 この議論はある行為の弊害ないし副作用を指摘するもので あり、ある行為が連鎖的にそれと似た別の行為を生みだす と論じるすべり坂論法とは異なる(4)。したがって、他 の論法との混同を避けるために、すべり坂論法を定式化する必要がある。
また、すべり坂論法が論理学の教科書において説明されることはめったに ないが、論理学においてはこの論法は誤謬として取り扱われるのが通例である。 しかし、D. Waltonが詳細に論じているように、すべり坂論法はその形式によっ ては、たとえあまり有効な議論ではない(弱い議論である)にしても誤謬とは呼 べないものもある(5)。すると、実践的な観点からは、 すべり坂論法を分類して誤謬である場合とそうでない場合に分け、そして誤謬 でないすべり坂論法がどのていど有効な議論として機能しうるのかを考察する 必要があるように思われる。
そこで本稿では、1998年に出版されたA Companion to Bioethicsに収録されているGovert den Hartoghの`The slippery slope argument'(6)という論文の紹介を通じて、応用 倫理学においてしばしば登場するすべり坂論法の定式化と分類、およびその有 効性を検討する。
はじめにHartoghのこの論文のおおまかな見取り図を描いておく。この論文 は七つの節に分かれている。第一節では、出生前診断の問題にすべり坂論法を 適用した例が挙げられ(本稿では省略)、第二節では、 すべり坂論法の典型的形式が提示される。第三節では、すべり坂論法の典型的 形式とはいくらか異なる「有害な前例への訴え」という論法が紹介され、この 論法は妥当であると論じられる。しかしながら、続く第四節と第五節では、す べり坂論法は妥当ではなく、合理性に訴える論証としては失敗しており、また たとえ人間の不合理な側面に訴えるにしても、この論法がいくらかでも有効に 適用されうるのは道徳的真理の議論ではなく慣習や制度に関する議論のみであ ると述べられる。第六節では、オランダの安楽死政策を例にとり、すべり坂論 法を有効な議論にするのは難しいことが指摘され、最後の第七節では、実際に 使われるすべり坂論法の多くは、現状の改革への反対を劇的に表現するために 用いられているにすぎないので、このような場合、すべり坂論法に正面から反 論するよりはむしろ現状に対する無批判な肯定を問題にすべきであると論じら れる。
第一節ですべり坂論法の典型な事例を紹介したあと、Hartoghは次に、すべ り坂論法の典型的形式(paradigmatic form)を提示する。彼によれば、すべり 坂論法が定式化されねばならない理由の一つは、「すべり坂論法」という言葉 の適用範囲があいまいで、ときに「有害な前例への訴え」(第三節参照)や提案 された行為の悪い結果を指摘する議論(7)を指すのにも 用いられるからである。 すべり坂論法の典型的形式は以下の特徴を持つとさ れる。
この連鎖を生み出すのは何なのかという問いに対して、Hartoghは合理性を一つの要因として挙げている。これは通常、すべり坂論法の論理的形式(logical form)と呼ばれるもので(8)、それによると、われわれが行為Aを許すのならば、われわれは合理的には行為B、行為C、そして結局は行為Nをも許さざるをえないことになる、と論じられる。
だが実際には、この論理的形式はほとんど常に将来の予想 (prediction)に組み込まれる、とHartoghは述べる。すなわち、行為 Aの反対者は、行為Aを許すことが行為Nを許すことを論理的に含意すると主張 するだけでなく、しばしば「行為Aが許容された結果として行為Nがいったん許 容されると、行為Nは今まで以上に頻繁になされるようになるだろう。それゆ え、行為Aは許されるべきでない」と論じる。また、反対者は「行為Aが許容さ れた結果として行為Nが許容されるにせよそうでないにせよ、 行為Nはいずれにしてもこれまで以上に頻繁になされるようになるだろう。だ から、行為Aは許されるべきでない」と論じることもある。
Hartoghは、前節で提示されたすべり坂論法の典型的形式の検討に入る前に、 この典型的形式とは二つの点で異なる論法を紹介している。この論法は 有害な前例への訴えと呼ばれるもので、以下のような構造 を持つ。「行為Aは一見したところ、道徳的には問題ない。しかし、行為Aを許 すならば、すべての重要な点において行為Aと似ている行為B を許さない理由 はない。だが、行為Bは明らかに許しがたいものである。」この論法がすべり 坂論法の典型的形式と異なる点は、(1)「もし行為Aを許すのなら、合 理的には行為Bをも許さざるをえない」と論じているだけで、「われ われが行為Aを許すのなら実際に行為Bも受けいれるだろう」 という予想をしていない点と、(2)問題になるのは行為Aと 行為B だけで、それらの中間的な行為や、行為C、行為D などのさらなる連鎖 は問題にされていない点である(二つ目の点は次節で検討される)。
ある行為が不正であることを示すために、すでに不正であると認められた 行為とその行為との類似性を指摘するというのは、判例法に典型的に見られる 思考法であるが、Hartoghの考えでは、この論法は妥当である(論理的に正しい)。 彼はこの論法の妥当性を、規範的述語のよく知られた特徴である依存 性 (supervenience)を用いて説明している。すなわち、ある行為が 道徳的に許容されうるかどうかは、その行為を許容されうるものにするいくつ かの他の特徴がその行為に備わっているかどうかに依存する(9)。それゆえ、行為Aが許容されており、行為Bが重要な 点において行為Aと同じ特徴を持つのであれば、合理的には行為Bも許容されな くてはならない。もっとも、行為Bは、たとえ行為Aを許容されるものにする特 徴をすべて共有していたとしても、必ずしも許容されるとは限らない。という のは、行為Bは、その行為を許されないものにするような他の特徴も持ってい るかもしれないからである。それゆえ、Hartoghによれば、道徳的議論も法的 議論も論駁可能(defeasible)なものである。
また、このことによって、「有害な前例への訴え」を論駁する方法もわか ると彼は言う。すなわち、行為Aを正しいものにする特徴のうち、行為Bが共有 していないものを指摘するか、行為Bを不正なものにする特徴のうち、行為Aが 共有していないものを指摘し、行為Aと行為Bが重要な点において異なることを 示してやればよいのである。もっとも彼の考えでは、この論法の真価は、行為 Aの反対者が、この二点のいずれかを指摘する苦労を行為Aの支持者に負わせる ことができる(つまり立証責任を負わせる)という点にある。
次にHartoghは、将来の予想を含まない純粋に論理的なすべり坂論法(第二
節参照)の妥当性を検討する。彼によればこの論法は次のような人工妊娠中絶
の議論において用いられることで有名である。
接合体(zygote)を殺してよ
いのであれば、妊娠14 日後の胚(embryo)を殺すことを禁じる理由はない。だ
とすれば、妊娠3ヶ月の胎児を殺すことを禁じる理由もない--等々。接合体か
ら子どもまでの成長には突然の変化というものがないから、接合体を殺すこと
を許されるならば、「ここからは殺してはいけない」という点を合理的に決め
ることはできない。生存能力の有無は医者の技術力によるから適切な点とは言
えない。また、誕生したかどうかも、変化するのは環境であって子どもではな
いのだから、やはり適切ではない。
Hartoghの言うように、この論法は「有害な前例への訴え」とよく似ている。 この論法は、「Aを許すならBも許される。Bも許されるならCも許される」とい う形で前例への訴えを繰り返し、最後に「すると、Aが許されるならNも許され ることになる」という風に、明らかに有害な前例へとたどりつく。「有害な前 例への訴え」が妥当な論法だとすると、論理的なすべり坂論法も妥当だと思わ れる。
しかし、Hartoghによると、実はこの論法は、古代から堆積の誤謬 (連鎖式)として知られている誤謬なのである。堆積の誤謬の代表例 は次のものである。普通に髪が生えている女性から髪を一本だけ抜いても彼女 は禿げとは呼ばれない。もう一本抜いてもやはり禿げとは呼ばれない。もう一 本。もう一本。…。ついに最後の一本まで髪の毛を抜いても、やはり彼女を禿 げと呼ぶことはできない。なぜなら、彼女が禿げと呼ばれる人々の仲間入りを する正確な点を指摘できなかったからである。(髪の毛が一本もない場合のみ 禿げと呼ぶのだと反論されるかもしれないが、通常は「禿げ」という語はその ように限定的に用いられることはない。)
Hartoghによると、この論法がどうして誤謬なのかを説明することは論理学 者でも困難である。この論証に用いられる前提も推論の仕方にも問題はないた め、おそらくこの論法はすべての事例に当てはまるわけではないと考えざるを えない、と彼は述べている。とくに「禿げ」などの曖昧な言葉(すなわち、あ る連続体(continuum)の不明確な一部分を指す言葉)の場合にはそうである(10)。
連鎖式がなぜ誤謬かを説明するのは難しいが、しかしそれが誤謬であるこ とはまちがいないとHartoghは述べる。というのは、黒と白の中間に灰色の領 域 (grey area)があり、その境界線自体も不明確だからといって、灰色の領域 よりも明らかに黒側または白側にある点を指摘できないわけではないからであ る。したがって、論理的なすべり坂論法は立証責任を相手に負わせることがで きない。たとえば、もし接合体と新生児の重要な違いを示すことができるなら ば、その違いが発生した正確な時点を示す必要はない。また、色素性網膜炎に 遺伝的に罹りやすいという理由が中絶をするもっともな理由であるかどうかわ からないからといって、「ハンチントン病は中絶をするもっともな理由である が色盲はそうではない」と主張できなくなるわけではない。
とはいえ、Hartoghの考えでは、そのような重要な違いが発生する点を慣習 的・法的な規範によって定める必要がある。たとえば、妊娠3ヶ月までは胎児 による実験あるいは中絶を認めるが、嬰児殺しや赤子の命にかかわる医学実験 は認めないというのであれば、胎児の保護を開始する点を決めなくてはならな い。この点を決定するための原則がないのであれば、唯一合理的なのは、灰色 の領域の中央部分に確実に入る、恣意的な点に決めることである。たとえば、 生存可能性や誕生などの「目立つ」点が選ばれる傾向にあるが、しかし、これ らの点も便宜的なものであり、それ自体としての重要性があるわけではないと 彼は注意している。
またHartoghによれば、中絶の議論の場合、論理的すべり坂論法は別の意味 でも致命的な欠点を持つ。中絶に反対するためにすべり坂論法を持ち出す人は、 「人間の生命の保護は妊娠した時点から始まる」という現状の位置が完全に明 確であることを前提している。だが、受精は胎児の成長と同様に連続的な過程 であるから、「どこで線を引くか」という問題がやはり出てくるわけである。 この問に恣意的でない答ができないとしたら、妊娠が道徳的に重要な境界線で はありえないことになると彼は論じる。
以上のように、Hartoghによれば、論理的すべり坂論法は誤謬推論であり、このような議論に反論するには、坂の上と下の重要な違いを指摘するだけでよい。だが、彼によれば、中絶の合法化に賛成する自由主義者が直面する問題はまさにこの指摘ができない点にある。すなわち、彼らは人間を守るための真の理由である「人格であること」が赤子には当てはまらないと考えている。人格であるとは「時間を通じて連続的なものとしての自己」という意識を持つことであり、そのためには記憶能力、計画能力、他人を認め意思伝達する能力が要求される。そこでこの場合には、論理的すべり坂論法は--その基本的な考え方は誤っているものの、結果的に接合体と赤子の重要な違いの指摘を論争相手に任せることができるという意味では--有害な前例への訴えと同様、立証責任の転嫁に成功していると言える。彼の考えでは、中絶に賛成する自由主義者は次のいずれかの方法で応じることができる。すなわち、接合体と赤子の重要な違いをどうにかして見つけるか、接合体と同様、赤子の命を保護する本質的理由はないこと認めるかである。
前節でHartoghは、人間の合理性に訴えるすべり坂論法の妥当性を論じたが、 本節では、合理性への訴えを含まないすべり坂論法がどの程度の説得力を持つ かを考察している。
前節で見たように、一見すると合理的に見える論理的すべり坂論法は実は 誤謬であることがわかった。だがHartoghの考えでは、このことによってすべ り坂論法が行なう予想の説得力が必ずしも減じるわけではない。誤謬であるは ずの論理的なすべり坂論法につい納得してしまうのは、人々がもともと連続体 に線引きをするのが不得手だからであり、すべり坂論法は「道徳はそもそも連 続体を避けるべきである」という人々の心理をうまく利用するからであると彼 は言う。
また、Hartoghによれば、先の中絶の例から明らかなように、われわれは明 確な点(たとえば妊娠したとき)を示すだけでは不十分で、それがまた恣意的な 点でないことも示す必要があるのだが、すべり坂論法を用いる人々は、しばし ば現状の位置がまったく恣意的でなく、唯一道徳的に擁護可能なものだと考え る傾向にある。もっとも、このような考えを持つ人がすべり坂論法を使っても、 現状の位置に満足しない人を説得することはできそうにない。
Hartoghの考えではさらに問題がある。それは、すべり坂論法で問題にされ ているのが、道徳的真理なのか、慣習なのか、あるいは法律なのか、という問 題である。彼によれば、われわれは通常、道徳判断を信念の問題だと考えてい る。すなわち、Aが許されるとみなすことは、「Aが許される」という命題が真 だと信じることである。するとすべり坂論法は結局、いったん「Aが許される」 が真だと信じたら、結局「Nが許される」が真だということも信じることにな ると言っていることになるが、これは明らかに正しくない。だが、たとえこれ が正しいとしても、「Aが許される」が真であることを信じない理由にはなら ない。なぜなら、ある真なる命題を信じるなら悪い結果が生じるからといって、 その命題が偽になることはないからである。
そこで、Hartoghの考えでは、すべり坂論法を理解するためにとりうる方向 は二つある。一つは、議論されているのは基本的な道徳的真理 の問題ではなく、人間の慣習(conventions)の問 題だと考えることである。この場合、すべり坂論法が論駁しようとしている提 案は「われわれの慣習を現状の位置から新しい位置へと変えるもっともな理由 がある」というものである。だが、彼によれば、このように解釈したとしても、 まだ問題が残る。ある人が聴衆に、人々が一般にAをすることを慣習的に認め るならば善い結果がおきるだろうと言うと、別の人がすべり坂論法を使って、 その提案を認めると、人々はその不合理さのゆえに、一般に不道徳なBをする ことをも慣習的に認めることになると言う。しかし、不合理であることがわかっ ているのなら、どうしてそれを直そうとしないのだろうか、と彼は述べている。
彼によれば、もう一つの方向は、真の道徳はエリートのものだから、群衆 には教えない方がよいというものである。すなわち、行為Aはエリートにとっ ては完全に許容できるものであるが、群衆に教えるとすべり坂が起きると考え るのである。
ところで、提案されている新しい位置が道徳ではなく 法律に関するものであるなら、この節での議論のいくつか は当てはまらないとHartoghは言う。なぜなら、たとえ法律の大部分は道徳的 信念によって正当化されるべきであるにせよ、法律は道徳的信念の表明ではな いからである。したがって法律に関する場合は、Aが許されると、Nも同一ある いは異なる権威によって認められることになるから、Aは許されるべきではな いと論じるのは不適切とは言えない。あるいは、Aが許されると、少なくとも、 法の下にいる人々によってNがより多くなされるようになると論じられるかも しれない。
さらに、境界線が明確であることは法においてはとりわけ価値があると Hartogh は述べる。というのも、法においては、許されることとそうでないこ ととの境界線は、警察官や判事ばかりでなく市民によってもはっきり理解され る必要があるからである。もちろん法律の場合でも、恣意的な境界線ははっき り灰色の領域の内部と分かるところに引かれているにこしたことはない。単に 明確であるという理由だけから恣意的な境界線が選ばれるなら、この境界線が 守られるかどうかは疑わしい。その意味では法律の場合においても、すべり坂 論法が効果的に用いられる場合は、現状の位置が明確さだけでなく道徳的信用 をも持つことが前提されている。したがって法の領域においては--とくに新し い位置よりも現状の位置の方が道徳的に優れていることを示すためにすべり坂 論法が用いられるときには--すべり坂論法が独自の説得力を持っていると考え た方がよさそうである、とHartoghは結論する。
Hartoghは、 前節までで論じられたすべり坂論法の問題点を以下の二つにまとめている。
有効なすべり坂論法を作るためには、他にどんな一般的条件が必要だろう か。 Hartoghの考えでは、その一つに、主張される因果的作用がもっ ともらしいこと --「坂をすべるだろう」という主張がもっともらし いこと--が挙げられる。しかし、これは簡単にできることではないと彼は述べ る。たとえば、過去のすべり坂の事例に訴えることによって説得力を増そうと する人もいるが、たとえそうした考慮にいくらか重きをおくにしても、決定的 な重さになるとは限らない。というのは、現実の道徳的問題においては、現状 にとどまることにも道徳的コストがかかるからである。こうしたコストが、競 合するすべり坂論法の形式で提示されることもある。たとえばJohn Griffiths は、安楽死や自殺幇助は至るところで行なわれているため、それを現在のよう にタブー視するよりも、法律によって厳格な条件の下で許容した方が良いと論 じている(11)。
すべり坂論法で用いられる因果的作用をもっともらしく説明することがし
ばしば困難なことを例証するために、Hartoghは近年オランダの某病院で起き
た次のような事件を例に挙げている。
ある看護婦がアルツハイマー病の患者にインシュリン剤を過剰に投与すること
によって少なくとも5人を殺した。看護婦は善意からやったと言っているが、
彼女は精神的に不安定であることが精神鑑定によってわかった。
安楽死に関するオランダの政策を批判する者は、この事件を用いて次のよ うに論じるかもしれない。「この看護婦がやったことは安楽死についてのオラ ンダの道徳的および法的基準からしても不正であるが、そもそもオランダが安 楽死をまったく認めていなければ彼女がそのように行為することはなかったは ずだ」と。この主張はいくぶんもっともらしいとHartoghは述べている。
しかし他方で、彼の考えでは、オランダの安楽死政策に関する予想がこう した事例によって裏付けられたと考える人は、道徳的コストを公平に考慮して いないことが多い。というのは、安楽死を認めなければ、死ぬ前に長いあいだ 苦痛を耐えなくてはならない人がでてくるというマイナス面を彼らは無視して いるからである。この点でも、すべり坂論法を用いる人が通常、現状の位置を 道徳的に完全に許容できるものと考えていることが理解されるとHartoghは述 べている。
このように、すべり坂論法を独立した議論として考えるならば、たとえそ の予想にいくらか説得力があったとしても、決定的な議論にはなりえないこと がほとんどであるとHartoghは言う。だが彼によれば、すべり坂論法の重要な 欠点は別のところにあり、これも安楽死の論争を用いて説明することができる。 すべり坂論法において予想される悪い結果は、オランダの看護婦の例のように 人々が誤った推論をすることから生じると考えられている。すると、 安楽死が慣習的または法的に認められない理由は、安楽死を要求している人の 願望が悪いからではなく、安楽死を制度として認めると他の人が不正なことを するからだということになる。しかし、安楽死を必要としている人 に、他の人が罪を犯すのを防ぐために自己の利益を犠牲にしてくれと要求する のは不公平だとHartoghは主張する。彼の考えでは、これは行為者の直接的責 任と間接的責任を区別しない形式の帰結主義すべてにあてはまる一般的な欠点 である。間接的責任とは、他の人がわたしの行為に予想された仕方で反応した ことによって生じた事態に対する、わたしの責任のことだとされる。
ここまですべり坂論法の論証としての有効性を見てきたが、Hartoghの考え では、この論法は限定された領域においてのみ、決定的ではないがいくらかの 説得力を持つ。しかし、彼によれば、この論法が現実に使われる際にはそのよ うな限定は無視されることがほとんどである。すなわち、すべり坂論法は道徳 的に基本的な事柄について用いられ、その予想は現状の位置を正当化するため に絶対的に確実なものとして提示されることがしばしばである。
Hartoghによれば、通常、そのような議論にまともに取り組む必要はない。 そうした議論は単に現状の位置が道徳的に優れているという意見を表明してい るに過ぎないからである。そのような議論においては結局、道徳的に 重要な境界線は、坂の上と坂の下との間にある境界線ではなく、現状の位置と 新しい位置との間の境界線なのである。それゆえ、坂の下に行きつ くという予想は坂の上の位置が許容できないという主張を劇的にするだけであ り、実質的には何も付け加えるところがない。そこで、このように再構成する ならばこの議論は結局、有害な前例への訴えと同じことになる と彼は結論している。そう考えるならば、未来の予想も中間的な事 例も重要でなく、また、はじめの一歩の道徳性は問わないという主張は誤解を 招くものでしかない。
そこで、このような場合、すべり坂論法を用いる者に反論する人は、問題 のすべり坂論法が現状の位置に対する忠誠心からは独立であるかどうかをその 者にはっきり尋ねることである、とHartoghは忠告している。そして、答が 「いいえ」であれば、現状の位置と新しい位置の道徳的価値について論じれば よい。答が「はい」であれば、ほとんどの場合、相手の主張が支持できないこ とを示せるだろう。それが示せない場合に限り、当のすべり坂論法のもっとも らしさと説得力を吟味する意味があると言える、と彼は述べている。
以上がHartoghの議論である。 彼の議論の重要な結論を四つにまとめて以下に示しておく。
最後に、Hartoghの議論で問題に思える点を一つだけ指摘する。彼は第六節 において、すべり坂論法においては行為者の直接的責任と間接的責任が区別さ れていない点をこの論法の大きな欠点として挙げている。そしてすべり坂論法 はこの区別をしないため、「他の人によって不正な行為Nがなされるかもしれ ないから、わたしは行為Aを行なうべきでない」という議論を認めることにな ると論じている。しかし、たとえば安楽死について言うと、安楽死の是非が議 論されるのは社会的な意思決定の文脈においてであり、少なくともこの文脈に おいては「安楽死が慣習的または法的に認められない理由は、安楽死を要求し ている人の願望が悪いからではなく、安楽死を制度として認めると他の人が不 正なことをするからだ」と論じることはまったく問題がないと思われる。なぜ ならここで論点になるのは、安楽死を行なった人が他人の不正行為に対して責 任を持つかどうかということではなく、安楽死を許容することが社会に対して どのようなインパクトを持つかということだからである。安楽死を法的に認め た結果、社会に大きな損害が生じるというのであれば、それは安楽死を法的に 禁じるもっともな理由になるはずである。したがって、行為者の直接的責任と 間接的責任との区別はここでは無関係だと思われる。
(注で引用したものは省略する)
(こだま さとし 京都大学大学院文学研究科
日本学術振興会特別研究員)
kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp
(補足) 以下は上の論文紹介ではページ数の都合で省略したHartoghの第一節の部分。
Hartoghは最初に、すべり坂論法はさまざまな議論においてよく使用され、
またこの論法はたいていの場合、提案された改革に対して反論するために用い
られると述べている。以下の例では、出生前診断の実施に反対するためにすべ
り坂論法が用いられている。
もし遺伝子上の欠陥が見つかったときに取りうる措置が人工妊娠中絶のみであ
るならば、出生前診断は原則的に不正である。最初はハンチントン病や嚢胞性
繊維症の疑いが中絶を行なうためのもっともな理由と考えられるだろう。次に
は糖尿病が、鎌状赤血球貧血が、ダウン症候群が、その次には湾曲足が、口唇
裂が、近視が、色盲が、余分なY染色体が、左ききが、そしてついには肌の色
が、中絶をするためのもっともな理由になるだろう。中絶をすることは未来の
子供自身の利益になると論じられるかもしれない。しかし、ある人の生が生き
るにあたいしないとわれわれが決めることはできない。ある障害を持った人の
生が価値を有しないと決める権利はわれわれにはない。そうすることは平等と
いう基本原則の侵害である。もしこの原則に一つでも例外を認めるならば、障
害を持った人々は親の過失の産物とみなされるようになるだろう。人々は彼ら
にこう言うであろう。「なぜおまえはここにいるんだ? おまえは中絶される
べきだったのに」。そして人々は、もし一貫性を持つのであれば、ついには、
障害を持った人々の生は今からでも--彼ら自身の利益のために--終止符を打た
れるべきだと信じるようになるだろう。
Hartoghの議論の骨子 (生命倫理学勉強会用レジメ)
第二節 すべり坂論法の典型的形式 (=論理的すべり坂論法+将来の予想)
第三節 有害な前例への訴え
第四節 合理性の坂 (論理的すべり坂論法の問題点)
第五節 不合理性の坂
第六節 道徳的なもっともらしさと事実的なもっともらしさ
第七節 見かけと実状
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