児玉 聡
「まるでわたしには何の権利もないみたいだわ」。 積極的安楽死を求める彼女の訴えが貴族院判決で退けられたとき、 車椅子に乗ったダイアン・プリティはそう言った。 正確には、彼女の夫のブライアンが、 他の人にはうめき声にしか聞こえない彼女の言葉をそのように伝えた。
英国のルートンに住む二児の母のダイアンは、 1999年に運動ニューロン病(MND)と診断された。 MNDとは、身体の運動機能が奪われる進行性の病である。 まず四肢の自由が徐々に失なわれ、 それと並行して発話と食事の能力が低下する。 最終的には呼吸筋が麻痺して自発呼吸ができなくなり、 肺炎や窒息で死亡することが多い。 しかし、精神は最後まではっきりしているのが普通であり、 そこにこの病気の悲劇がある。治療法はまだ開発されていない。
やがてダイアンの身体は首から下が完全に麻痺し、 車イスに装着されているコンピュータを使って会話を行ない、 夫のブライアンの介護でチューブを用いて食事するようになった。 末期のことを憂えた彼女は、 生の質が耐えがたい低さになる前に自ら命を断つことを決意し、 夫に自殺の手助けを願い出た。 夫は妻の最後の希望を叶えることに同意したが、 自殺幇助は1961年の自殺法によって最大で懲役14年の犯罪と規定されている。 そこで二人は検察当局に願い出て、 妻を安楽死させた場合に夫が告訴されることのないように 事前の刑事免責保証を求めたが、検察長官はこれを拒否した。 ここから二人の法の改正を求める長い戦いが始まった。
ダイアンは検察当局の判断を彼女の人権侵害であるとして司法審査を求めた。 その理由は、2000年に施行された英国人権法が保証している 生命権、非人間的な治療の禁止、思想の自由などはすべて、 個人に尊厳死を選ぶ自己決定権があることを意味している、 というものである [注: 日本では通常「尊厳死」は消極的安楽死を指すが、 ここでは積極的安楽死も含むより広義の意味で用いられている]。 しかし、一審の高等法院の判決(2001年10月18日)はこの主張を退け、 人権法は個人が尊厳のある生を送る権利は保証しているが、 尊厳死を行なう権利は保証していないと述べた。 これを受けダイアンは貴族院に上訴したが、 貴族院判決(同年11月29日)は一審の判決を支持し、 安楽死は法の上では殺人であり、 ダイアンには死ぬ権利はないとの見解を示した。
英国で積極的安楽死の合法性が正式に争われるのはこれが最初であるが、 世論は必ずしもダイアンに好意的であるとは言えず、 「彼女は非常に気の毒ではあるものの、 法の改正による悪影響を考慮した場合、 この件は例外的な事例として無視した方が良い」 という否定的な見解が目立つ。 たとえば英国医師協会は、 積極的安楽死は殺人との境界があいまいで濫用のおそれがあると主張し反対している。 また、 現在では苦痛緩和医療によってMND患者は穏かな自然死を迎えることができるから、 安楽死は必要ないとの指摘もある。 英国に約5000人いるMND患者の対応もさまざまで、 ダイアンを支持する声がある一方で、 「積極的安楽死が認められれば、 われわれ弱者に一層の圧力がかかることになる」 との懸念の声も強い。 さらに、 ブレア首相は国会の答弁で自殺法の改正は考えていないと答えている。
これに対し、判決を批判する声も一部であがっている。 今回の訴訟をサポートしている自発的安楽死協会やリバティといった市民団体は、 「われわれは自殺できるが、 ダイアンは自分では死ぬことができない。 夫の助けを借りて死ぬことを彼女が選ぶならば、 これを認めないことは彼女の自己決定権を奪うことになる」 と主張している。また、哲学者のA・C・グレーリングはガーディアン紙上で、 「生きる権利はどのように生を終えるかを選ぶ権利を含んでいる」と述べ、 生命権は尊厳死を含意しないとする一審の判決を 「人権法の解釈における深刻な誤り」と批判している。 また彼は、積極的安楽死と消極的安楽死との違いは感情の上でのことにすぎず、 1993年のブランド裁判で消極的安楽死が事実上合法化された以上、 積極的安楽死も認められるべきだと述べている。
現時点(2002年1月31日)での最新のニュースによれば、 プリティ夫妻は3月19日に欧州人権裁判所で最後の争いを行なうことになっている。 もし欧州人権裁判所で貴族院の判決が覆されれば、 オランダとベルギーに続き英国も安楽死法の制定に向かうものと思われる。 ダイアンの健康状態は裁判の始まった去年の夏以降急速に悪化しているが、 二人は現行の法に反する手段に訴える気はまったくなく、 あくまで法の改正を求めて最後まで戦い抜くつもりであるという。
(関連サイトのリンク集: http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/bioethics/pretty.html)
(こだま さとし 京都大学 倫理学 kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)
[謝辞] ニューズレターの紙面には字数の都合で書けなかったが、 今回もいろいろな方にお世話になったので、 ここに記して謝意を表したい。 京都大学医学部の浅井篤氏には、 MNDについての医学的情報を提供していただいた。 京都大学文学研究科リサーチアソシエイトの板井孝壱郎氏と 京都大学文学部倫理学専攻の相澤伸依氏には、 草稿を読んでもらい貴重なコメントをいただいた。 ただし、本文中に誤りがあるとすれば、 すべて筆者に責任があることは言うまでもない。