胎児を臓器農場にすることができるか (要約)

`Can the Fetus Be an Organ Farm?' in Bette-Jane Crigger, Cases in bioethics: Selections from the Hastings Center Report third edition, New York: Bedford/St.Martin's, 1998, 263-8.


ケース

28才のエンジニアであるR氏は、 三年間人工透析を受けている。 そして、透析を受けることによる制約のために、ヤケになりつつある。 人工透析センターに行かなければならないので、 フルタイムで働くことができない。 また、元気が出ず、治療の副作用のために苦しんでいる。

R氏はすでに臓器移植の可能性を考えたことがある。 しかし、彼は幼児のときに養子になったため、 元の家族のことを知らない。 さらに、検査によって彼が珍しい組織適合(rare tissue type)を していることがわかり、死体からの臓器移植を待っても可能性は低いと考えられる。

R氏の身体的・精神的状態は悪化の一途をたどっているため、 彼の妻は移植医師に解決策を提案する。 彼女が言うには、 自分が妊娠して、5ヶ月か6ヶ月で堕胎すれば、 胎児の腎臓を夫に移植することができるのではないか、と。

医師は、技術的にはそのような移植が可能であり、 移植された腎臓はおそらく拒絶されないだろうことを知っている。 彼はまた、 R氏がいつまでも透析を受けなければならないくらいなら自殺すると言っていること も知っている。

この医師は意図的に受胎され堕胎された胎児の腎臓を移植することに同意すべき だろうか。

コメンタリー1: メアリー・アン・ウォーレン (Mary Anne Warren)

[要約: 胎児は人格じゃないからOK]

法的問題、専門家としての問題、個人的問題を抜きにして道徳的側面だけを 見るならば、医師は女性の計画に同意すべき。

今回の件では胎児の道徳的地位が問題になる。 胎児に成人と同様の生存権があるとすれば、 女性が提案していることは明らかに殺人である。 もし生存権がないとすれば、この提案には道徳的問題はない。

「xが人間であること」は、xが道徳的地位を持つことの必要条件でも 十分条件でもない。必要条件にしてしまうと (「xが道徳的地位を持つためには、 xが人間であることが必要」)、人間以外の生物は自動的に 道徳的権利を持たないことになる。 また、十分条件にしてしまうと(「xが人間であれば、xは道徳的地位を持つ」)、 自動的に中絶が不正になってしまう。 したがって、道徳的地位の基準は「種中立species-neutral」なものであるべき。

わたしが提案する基準は人格である。 人格とは、意識の(潜在的ではなく、現実の)能力、 複雑で洗練された知覚、合理性、自己意識を持ち、 自ら動機づけられた行為を行なう存在者のことである。 そのような存在者は自分の現在と将来の状態についてはっきりとした選好を持ち、 欲求、希望、計画、恐れを持つ。 さらに、そうした存在者は概して生きつづける欲求を持つか、 あるいはすくなくとも自分が選ばない仕方で死ぬことを欲求していない。 当人の意志に反して人を殺すのが本質的に悪いものであり、 多くの事例においては道徳的に不正であるのは、この理由からである。

胎児は以上のような人格の基準をまったく満たしていないので、 成人を助けるために殺してもOK。

5ヶ月、6ヶ月の胎児は人間の姿をしているので、われわれの同情をひく。 しかし、そのような同情は誤りである。 その頃の胎児は魚や昆虫と同じかそれ以下の意識的活動しかしていないのだから、 魚や昆虫を殺すのであれば、胎児を殺すことも許される。

[追記: メアリー・アン・ウォレンの最近の立場に関する紹介論文については、 以下のものを見よ。 後藤博和、「中絶問題へのウォレンの多元論的アプローチについて」]

コメンタリー2: ダニエル・C・マグワイア (Daniel C. Maguire)

[要約: 提案されている二者択一は間違い。子供を産んで移植すればよい]

倫理学の困難なディレンマを解決する一つの方法は、別の選択肢を見つけること。 今回の場合は、子供を産んで、組織適合が適切かどうかを調べればよい。

母親の遺伝子も子供に伝わるので、子供の腎臓が父親に移植できない可能性もある。 もし組織適合が適切であり、子供に二つ腎臓があれば、一つを移植することができる。 子供を産むことによって、この事例の意義が大きく変わる。 産まれてくる子供の組織適合が適切であろうと不適切であろうと胎児の段階で 中絶するのは、父親のドナーになりうる子供を(中絶せずに)産むことと (道徳的に)同じではない。

子供を産むことにはいろいろ理由がありうるが、 潜在的なドナーとして子供を産むことは悪しきことでも勝手なことでもない。 医学的に見ても、(胎児よりも)産まれた子供の方がドナーとして適当である。 また、たとえ子供の組織適合がR氏のものとマッチしなくても、 子供はR氏に生きがいを与えるであろう。

R夫妻が腎臓は欲しいが子供は欲しくないとしたらどうだろうか。 わたしは片方だけ得ることは難しいと答えるだろう。 また、実際のところ彼らは目的としてではないが、 手段として子供を欲しがっているのであり、 そしてそのことは何も不道徳ではない、と答えるだろう。

中絶に反対するこうした理由に加えて、 わたしは子宮を臓器農場と考えたり、胎児を臓器バンクと考えたりすることに 心中穏やかならぬものを感じる。 ひょっとするとこれは単なる新しいものに対するたじろぎなのかもしれない。

しかし、それは道徳的知性の産物なのかもしれない。 道徳はたじろぎ(畏敬)から始まり、議論や論理によって精巧化される。 今回の場合、この心中穏やかならぬ感じと、他に選択肢があることから、 提案された中絶が道徳的に間違っていることは確実のようにわたしには思われる。

残された問題が一つある。 [産んで子供から臓器移植するとなると] 産まれてくる子供の自己決定権はどうなるのか? 子供がそのような臓器提供に同意できる年齢になるまで、 子供の自律とプライバシーが守られるべきなのではないか?

子供は人間の連帯の枠内に産まれてくる。子供が「自然状態」に産まれてきて、 契約を結ぶまでは社会と関係を持たないと考えるのはヒドい個人主義。 「人格」は相対的な語であり、赤ちゃん人格(baby-person)も本質的に 他の人格と関係を持っている。

われわれはそれと気づく前から他人と関係を持ち、共有する能力を持つ。 だから親は子供から二つある臓器を一つ取ることも許されうる。 これを認めることができないのは、未成年の地位にある子供を守る と称して子供に(他人と関係を持ち、共有するという)人間性を認めない 悪しき孤立-個人主義的立場を取っているから。

この問題は当人あるいは代理人が同意するかどうかというレベルの議論では 片付かない。当人の倫理観全体の基礎(個人主義か、共同体主義かなど) が問題になっている。

コメンタリー3: キャロル・レヴァイン (Carol Levine)

[要約: 胎児は潜在的人格なので道徳的考慮がなされるべき。しかし、 そもそもR氏は人工透析を受けるべきで、臓器移植では問題は解決しない]

妊娠は生の肯定であり、内在的価値を持つ。 他方、中絶は、避妊に失敗した、レイプがあった、子供に遺伝的問題があるなどの 事柄を考慮に入れ、すでに存在する人の権利と利益を胎児の権利と利益と比較して 行なわなければならない。

この事例で提案されていることは、その二つの行為(妊娠、中絶)の悪用である。 殺すために産むことは極悪非道の行ないである。

この特定の事例における中絶に反対するからといって、 中絶のあらゆる事例に反対である必要はない。 胎児は成人でも幼児でもないが、ニワトリでもニンジンでもない。 潜在的な人格として、尊厳を持って扱われるべきであり、 他人ためのスペアの臓器として考えられるべきではない。 そのようなことをすれば、 R夫人は胎児を目的でなく手段としてのみ用いるばかりか、 自分も同じようにされることを認めることになる。

他人の命を助けるために、人格の尊重という道徳的命令に違反することが許される だろうか。利他的に自分の命を他人を助けるために犠牲にすることはありえるが、 それは今回の事例とは異なる。 他人の命を助けるためにもう一人の命を犠牲にするという例も考えられなくはないが、 それも今回の事例とは異なる。

というのも、そもそもR氏は自殺したいと言っているだけで、 生命の危険はないからだ。 彼は人工透析は制約が大きすぎるというので、 移植を求めているが、 親戚も適切なドナーもいない。 そこで胎児からの臓器移植を考えているが、 それだってうまく行くかどうかわからない。 血縁のあるドナーからの移植はそれ以外のドナーからの移植よりも拒絶される率が 低いが、それでも5年後の生着率は2/3以下である。

移植自体もリスクがないわけではなく、うまく行っても免疫抑制の薬は 精神面に副作用をもたらす。R氏は数年は透析を行なわなく済むかもしれないが、 そのあとどうする気なのか。また胎児から臓器を移植するつもりか。

R氏は透析に我慢がならないらしいが、何千もの患者はそれでやっているのである。 一部の人々はその方が臓器移植よりも長い目で見て安全だと考えて、 透析を選んですらいる。

R氏には心優しい妻がいるではないか。自殺で脅すことによって、 妻に胎児を中絶するという選択肢を強要していないか。R氏は妻を パートナーとして、また子供の母親としては見ず、 臓器の生産者として見ているのではないか。

結論: 移植医師は計画に参加すべきではない。 必要なのはR氏に現実的な選択肢を選ぶように説得することである。 R氏は精神科の助けが必要であり、この夫婦は結婚カウンセリングを受ける必要がある。 深刻な医療問題と問題のある夫婦関係に加えて、 さらに道徳的に許容不可能な行為を付け足すならば、 彼らの絶望は深くなるだけである。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Aug 14 15:26:23 JST 2003