ベルモントレポートの部分訳


最初に一言

ベルモントレポートのうち、 `Part B: Basic Ethical Principles'の部分だけ訳してみました。 けっこう意訳の部分もあります。 明らかな誤訳があれば指摘してくれるとありがたいです。 ちなみに、原文は以下のところにあります。

The Belmont Report, OHSR
The Belmont Report


B. 基礎的な倫理原則

「基礎的な倫理原則」という表現は、人間の行為に関するさまざまな具体的な 倫理的指針や評価を正当化するための基礎的な根拠として役立つ一般的な判断 を指す。人体実験を伴なう研究の倫理性に対しては、われわれの文化的伝統に おいて一般的に受けいれられているものの中でも、とりわけ三つの基礎的な原 則が重要である: すなわち、人格の尊重respect for persons、善行 beneficence、正義justiceの原則である。


1. 人格の尊重

人格の尊重には、少なくとも二つの倫理的信念が含まれている: 一つは、個人 は自律的な主体として扱われるべきだという信念であり、もう一つは、自律性 を十分に持たない人々persons with diminished autonomyは、保護を受ける権 利があるという信念である。それゆえ、人格の尊重の原則は、二つの別個の道 徳的要求に分けられる: 自律を認めよという要求と、自律性を十分に持たない 人々を保護せよという要求である。

自律的な人格とは、個人的な目標について考えをめぐらせることができ、そし てそのような考えに従って行為することのできる個人のことである。人格を尊 重するとは、自律的な人格が抱く熟慮に基づく意見や選択を重視するというこ と、また、彼らの行為が他人に対してはっきりと有害である場合を除いては彼 らの行為を妨げないということである。自律的な主体に対する尊重が不足して いるというのは、十分な理由なくして、その人格が抱く熟慮に基づく判断を否 認したり、個人がそのような熟慮に基づく判断に従って自由に行為することを 否定したり、また、熟慮に基づく判断をなすために必要な情報を提供しなかっ たりするということである。

しかしながら、すべての人間が自己決定を行なうことができるわけではない。 自己決定の能力は、個人の人生を通じて成熟していくものであり、また、個人 の中には、この能力を、病気や精神的障害、あるいは自由を厳しく制限するよ うな事情のために、全部あるいは一部失なってしまう者もいる。未成熟の者や 無能力の者は、彼らが成熟するまで、あるいは彼らが無能力の間は、保護され ることが必要となりうる。

人々の中には、自分を傷つける行動をさせないようにしなければならないほど、 広範な保護を必要とする者もいる; 他の人々は、ほとんど保護を必要とせず、 ただ彼らが自由に、また不都合な帰結が生じうるという自覚を持って、行動で きることが保証されてさえすればよい。与えられる保護の範囲は、有害な事態 が生じる危険度と有益な事態が生じる可能性によって左右される。「ある個人 は自律性を持っていない」という判断は、定期的に再評価されるべきであり、 またその判断は異なる状況において異なったものとなる。

人体実験を伴なう研究のほとんどの場合において、人格の尊重が要求するのは、 被験者が当該の研究に自発的に、そして十分な情報を得て、参加するというこ とである。しかし、場合によっては、この原則がどのように適用されるかは明 らかでない。囚人を研究の被験者にする場合が、有益な例となるだろう。一方 で、人格の尊重の原則によって要求されるのは、囚人は研究に自発的に志願す る機会を奪われてはならない、ということであると思われるかもしれない。他 方、刑務所に入っているという状況の下で、彼らは、もし刑務所に入っていな ければ自発的には志願しなかったであろうような研究活動に参加するように、 巧妙な仕方で強制されていたり、適切とは言えない影響(不当威圧 undue influence)を受けていたりするかもしれない。そのような場合、人格の尊重は、 囚人を保護せよと命じるであろう。囚人が「自発的に志願する」ことを許すか、 彼らを「保護する」かは、ジレンマを生み出す。人格を尊重するということは、 非常に厄介な場合においては、しばしば、尊重の原則そのものによって主張さ れる競合的な要求をはかりにかけるという問題になる。


2. 善行

人々に対して倫理的な仕方で振る舞っていると言えるのは、彼らの判断を尊重 したり、彼らを害悪から保護したりする場合だけではなく、彼らの健康(幸福 well-being)を促進させようと努力する場合にもそう言える。そのような振る 舞い方は、善行の原則に適うものである。「善行」という語は、しばしば、厳 密な意味での義務を超えるような、親切心や慈善心からの行為を含むものとし て理解される。この文書では、善行はより強い意味で、すなわち義務として、 理解される。二つの一般的な規則が、この意味における善行的な行為の補足的 な表現として定式化されている: (1) 害悪をなすなdo not harmと、(2) 生じ うる利益を最大化し、生じうる害悪を最小化せよである。

ヒポクラテスの格律である「害悪をなすな」は、長い間、医の倫理の基本的な 原則となってきた。クロード・ベルナールは、人は、たとえ他の人に利益が生 じうるとしても、ある人を傷つけるべきではないと述べて、この原則を研究の 領域にも適用した。しかし、害悪を避けようと思うならば、何が害悪となるか を学ぶ必要がある; そして、この情報を得る過程において、人々は害悪をこう むる可能性にさらされるかもしれない。さらに、ヒポクラテスの誓いによれば、 医者は「彼らの最善の判断に従って」患者の利益に資することが要求される。 どんなことが実際に利益となるかを学ぶためには、人々を危険にさらすことが 必要になるかもしれない。こうした命令によって生じる問題は、どのような場 合であれば危険が伴なうにも拘らずある一定の利益を求めることが正当化され るのか、また、どのような場合は危険のゆえに利益があきらめられるべきかを 決めることである。

善行の義務は個人の研究者にも社会全体にも関わるものである。というのは、 この義務は個々の研究にも研究活動全体にも及んでいるからである。個々の研 究の場合、研究者や研究所の成員は、研究調査から生じうる利益を最大化し危 険を減らすように前もって考慮する義務がある。科学的研究一般の場合、社会 の成員は、知識の発展や新たな医学的治療法、精神療法、社会的治療法 medical, psychotherapeutic, and social proceduresの発達によって生じう る長期的な利益や危険をよく理解する義務がある。

善行の原則はしばしば、人体実験を伴なう研究の多くの領域において、明確な 正当化の役割を果たす。子供が含まれる研究を例に挙げる。子供の病気を治療 し健全な発育を助長するための効果的な方法は--たとえ個々の被験者が直接の 受益者ではない場合であっても--子供が含まれる研究を正当化するのに役立つ 利益である。研究はまた、これまで受け入れられてきた--が、詳しく調査した 場合に有害であることがわかるような--慣行に従うことから生じる害悪を避け ることをも可能にする。しかし、善行の原則の役割は、いつもそう明確なわけ ではない。たとえば、研究に関わる子供に直接の利益がただちに生じる見込み はなく、しかも少なからぬ危険が伴なう研究については、難しい倫理的問題が 残る。そのような研究は承認できないと論じる人々がいる一方で、他の人々は、 そのような制限をするならば、未来の子供たちに大きな利益を生み出しうる研 究の多くが禁止されることになってしまう、と指摘している。あらゆる厄介な 問題においてそうであるように、ここでもまた、善行の原理に適っている複数 の異なる要求が衝突し、異なる選択を迫ることがありうるのである。


3. 正義

だれが研究の利益を受けとり、だれがその負担を引き受けるべきなのだろうか? これは正義--「配分における公平さ」あるいは「受けて然るべきものwhat is deserved」という意味での正義--についての問いである。不正義が生じるのは、 ある人が受ける権利のある利益が、もっともな理由なくして与えられない場合 や、なんらかの負担が不適切に課される場合である。正義の原則を理解する別 の仕方は、等しきものは等しく扱われるべきだ、ということである。しかし、 この言明には説明が必要である。だれが等しくてだれが等しくないのだろうか? どのような考慮によって等しい配分からの逸脱が正当化されるのだろうか? 経 験、年齢、欠乏、能力、功績、立場などが、場合によっては、ある一定の目的 に関して異なる扱いがなされることを正当化する基準になるということは、ほ とんどすべての論者によって認められている。そこで、人々がどのような点で 等しく扱われるべきなのかを説明する必要がある。負担と利益を配分するさい の正義に適った方法については、広く認められている定式がいくつかある。そ れぞれの定式は、負担と利益を配分するさいの基礎となるべきある重要な特徴 に言及している。それらの定式とは、(1) 各人に等しい分け前を、(2) 各人に 個人の必要に応じて、(3) 各人に個人の努力に応じて、(4) 各人に社会的な貢 献に応じて、(5) 各人に功績に応じて、である。

正義についての問いは、刑罰、課税、政治における代表制などの社会的慣行と 長く結びつけられてきた。最近になるまで、正義についての問いは、一般的に 言って、科学的研究と結びつけられることはなかった。しかし、この問いのき ざしは、人体実験を伴なう研究の倫理性についての最初期の反省においてすら、 存在したのである。たとえば、19世紀と20世紀の初めにおいては、人体実験の 被験者になるという負担は、概して貧しい共同病室の患者ward patientsが引 き受け、一方で改善された医療がもたらす利益は、主に個室の患者private patientsが亨受したのである。その後、ナチスの強制収容所において囚人を被 験者としてむりやり利用したことが、とりわけ極悪な不正義として非難された。 本国では、1940年代に、タスキーギ研究所の梅毒研究において、田舎の恵まれ ない黒人たちが、決してその階層の人々だけが罹るわけではない病気の自然経 過を研究するために利用された。これらの被験者は、はっきりと効果のある治 療法が一般の手に届くようになってからずいぶん経ってからも、研究を中断さ せないがために、そのような治療を受けることができなかったのである。

この歴史的背景を鑑みると、正義の概念が人体実験を伴なう研究にとっていか に重要であるかが理解されよう。たとえば、研究の被験者の選び方に関しては、 それがよく検討されて、ある階級の人々(たとえば、生活保護を受けている患 者、特定の人種的・民族的少数者、あるいは施設に閉じこめられている人々) が、研究される問題に直接に関係する理由ではなく、単にその階級の人々は容 易に被験者として手に入れることができるとか、彼らが不名誉な立場 compromised positionにあるだとか、あるいは彼らは扱いやすいといった理由 のみによって組織的に選択されていないかどうかが判断される必要がある。最 後に、公的な援助を受けている研究によって治療装置や治療法が開発された場 合にはいつでも、正義は次の二つのことを要求する--すなわち、これらの装置 や治療法が、それを使用するお金を出せる人々にのみ利益を与えることがない こと、また、そのような研究が、その研究がのちに活用されるさいに受益者と なる可能性が低い集団に含まれる人々を、不適切なまでに利用しないことであ る。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Jul 24 18:04:10 JST 2004