J・S・ミル「死刑制度を支持する演説」

原文はここにあります。

原文は段落分けがないですが、翻訳では適当に段落分けしてあります。

翻訳はまだ途中です。悪しからず。


……この動議を支持することができれば非常に満足なのでありますが。 公けの問題に関して、 博愛主義者と--ときに誉め言葉として、ときにあざけりを込めて-- 呼ばれている人に反対することになってしまうのは、 わたしにとってつねに遺感であります。 公務に参加するすべての人々の中で、 彼らこそわたしが一般に最大の尊敬を感じる人なのです。 と申しますのは、彼らの特徴といえば、自らの時間を、自らの労働力を、 そして自らのお金の大半を、純粋に公共的な対象に費やし、 しかもその場合に、他のどんな種類の政治家たちに比べてましても、 個人的あるいは集団的な利己心が混ざっていないからであります。 ほぼすべての重要な問題において、彼らほど安定して、 また彼らほどほぼ一律に、 正しい側にいることが見い出される政治家はいますまい。 彼らはめったに誤つことがなく、また誤るとしても、 なんらかの正しくて非常に重要な原理を過大に適用してしまうからに過ぎないのです。

今われわれが従事している問題におきましても、 彼らがいかにすぐれた奉仕を行なったかは、 われわれみなが知るところであります。 彼らの努力を通じて、われわれの刑法は、 --この刑法は、わたしの記憶に残っているところでは、 40シリングの価値ほどの家に盗みに入ったことで人々を絞首刑に処したのです。 この法のおかげで、ラドゲートヒルを上ったり下ったりする人々によって 何列もの人間がニューゲート(牢獄)の前につりさげられるのを見ることが できたのです--われわれの刑法は、 そのもっともいやらしくもっともおろかな残忍さが大きく緩和されるにいたったので、 今や実際のところ加重殺人のみが、 正当な裁判を通じて死刑が下される唯一の犯罪となったのであります。 そしてわれわれは今や、 この唯一の事例においても極刑が維持されるべきかどうかを考えているのです。 人類に対してのみならず刑罰の目的に対してもあてはまるこの大きな進歩、 これをわれわれは博愛主義者に負っているのです。 そして本事例に関して彼らが間違っているとしても --わたしはそう思わざるをえないのですが-- これまでかくもきわだって有益であった歩みにおいて、 立ち止まるべき正しい時と場所を見極めなかったためでしかありません。 歩みはいつかどこかで止まらなければいけないとわたしは思います。

法に対するもっとも重大な犯罪が、決定的な証拠によって、 だれの目にも明らかであるとき、 そしてそのときの状況からしていかなる罪の軽減も考えられないとき、 犯罪者がそれでもまだ人々のあいだで暮らす価値がなくはないかもしれないという希望がまったくないとき、 犯罪が彼の全般的性格の結果というよりはその例外であるという可能性がまったくないとき、このような場合、そのような人間にとってはふさわしくない命を奪うことは --彼を人類の共同体から、そして生者の一覧表からおごそかに消しさることは-- もっとも適切であると同時にもっとも強い印象を確実に与えるやり方であり、 またこのやり方によってこそ、社会はかくもゆゆしき犯罪に対して、 生命の安全にとって不可欠な刑罰を課すことができるのであります。

わたしが極悪な事件に限りこの刑罰を支持しますのは、 通常はこの刑罰を非難するのに用いられる 「犯罪者に対する人道性」というまさにその理由に基づいてであります。 と申しますのは、比較を待つまでもなく、 死刑は犯罪を十分に抑止できる刑罰の中でもっとも残酷でない種類の刑罰だからです。 もし死を与えることを恐れて、 死刑と同じくらい人間の精神への抑止作用を持つような、 生きた犯罪者に対するなんらかの刑罰を考えだそうとするなら、 われわれは見ためはずっと厳しくなく、したがって死刑ほどは抑止力を持たず、 しかしながら実際はずっと残酷な刑罰を課すことになりましょう。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed May 3 02:09:26 2000