法の問題に関して何か言おうとする全ての人がいずれかを担うと言いうる、 二つの役割がある;--解説者という役割と、批判者 という役割とである。解説者の職分には、「法と は何であるか」について彼の考えるところをわれわれに説 明することが含まれている: 批判者の職分には、「法とは何であるべ きか」について彼の所見をわれわれに述べることが含まれている。 したがって前者は主として、事実を述べること、または探 求することに従事している:c 後者は、理由を論じることに 従事している。解説者は、彼の本分を守っている場合は、 理解力、記憶力、判断力 以外の精神の能力とは一切無関係である: 後者は、彼が検討してい る対象に対して抱く場合のある快と不快という感情のために、感情 となんらかの交渉を持つ。法であるものは、異な る国々では、かなり異なる: 法であるべきものは、すべて の国においてかなりの程度同じである。したがって、解説者 は、常にある特定の国の市民である: 批判者は、 世界の市民である、あるいはそうあるべきである。解説者 の役目には、立法家と彼の部下である裁判官 がすでにしたことを示すことが含まれる: 批判者の役目には、立法家が未 来に何をすべきかを提案することが含まれる。要 するに、批判者の役目には、立場が変わることによって術 に転じたときに立法家が実践するような学 を教えることが含まれる。
c 実践においては、法の問題は通常、事実 の問題と相反するものとして語られてきた: しかしこの区別は偶然 的なものである。ある種類の行為を命じるまたは禁じる法 が制定されたということは、その種類の個々の行為が為さ れたということと同程度に事実である。法の制定は、その ような法の理由として提示されうるなんらかの考慮とは少 なくとも区別するために、事実として語られうる。
というのも、理由というまさにその考えが、是認を示し ているからである: だから、その役割において意見を紹介するのは、しかも批 判なしに紹介するのは、それを採用することである。
法の支配の下において、善き市民の標語はなにか? きちんと従うこと; 自 由に批判すること。
知性の意図しない錯誤においては、怒りが引き起こさ れることはほとんどありえないか、または、少なくとも怒りが正当化されるこ とはほとんどありえない。ある意味で、厳しい批判を要する唯一のものは、 感情の邪まな偏見である。
「根本的な」修繕というあらゆる考えに反対するために、彼が法を城にな ぞらえるのはここではない。
そこで、わたしが他のどの部分にも優先して序説を選んだのは、序説が全 体の最も良い実例となると考えたためであり、それが批判のために最も都合が 良いと考えたからではない。
(文体が優れている)
解説者の職務は二つの部門に分割されると考えることができる: 歴史の部門と、単純な証明(実演)demonstration の部門とである。歴史の仕事とは、法を、それが存在していた過去の期間にお いてそうであった状態にて描きだすことである: 単純な証 明の仕事--わたしが証明という単語をこのような意味で使用することを許して もらえるなら--とは、法を、現在そうである状態にて描き だすことである。
さてそこで、行為一般に関して言うと、それらの内にあって、観察者の注 意を非常に容易に引き、そして非常にしっかりと固定させる性質は、それらす べての持つ共通の目的と呼びうるものへの傾向 、あるいは逸脱をおいて他にない。わたしが言う 目的とは幸福である: そしてあらゆる行為のうちのこの 傾向は、われわれがその功利性と呼ぶも のである: この逸脱は、われわれが有害さ という名を与えるものである。そこで、法の対象となるような特定 の行為に関しては、人にそれらの行為の功利性あるいは有 害さを指摘することが、すべての人が探し求めている行為の性質を彼に はっきりとみせしめる唯一の道である; 要するに、彼に 満足を与える唯一の道である。
さて、悪い法とは、有害でない行動様式を禁止する法の ことである。
a1 要するに、一つの法の理由とは、それが命じる行動 様式によって生み出される善、あるいは(結局同じことにな るのだが)それが禁じる行動様式によって生み出される害悪 以外の何ものでもない。この害悪またはこの善は、もしそれが本物であるなら ば、苦または快の形でどこかに現われざるを得ない。[善と 快は、定義というよりは、同義語、つまり外延が同じ語のように思われる。父 母と両親のように]
この小論そのものに関しては、あまり言うべきことはない。その主な、そ して公言している目的は、われらが著者の錯誤と欠点を暴露することである。 この小論の仕事はしたがって、打ち立てるよりはむしろ 打ち倒す(破壊する)ことにある: この後者の任務をかなり の程度果すことは、前者が主な任務である場合、ほとんどできないことである。
したがって、打ち立てるためにこの作品によってなされ たわずかばかりの部分において、わたしの意図は読者のために考えるというよ りは、読者が自分自身で考えるようにさせることにある。
1. この検討の主題は、W・ブラックストーン卿の『イングランド法注釈』 中の、著者が序説と銘打った部分に含まれている一節である。彼のこの序説は 四つの節に区分されている。第一節は、「法 の研究について」の彼の議論が含まれている。 第二節は、「法一般の性質 について」と題されており、法という共通の名の下で今日言及され るさまざまな実在的または空想的対象に関する彼の思索が含まれている。 第三節は、「イングランドの法 について」と題されており、この最後に言及された法に関する全般 的な所見、彼がそれらの法の特定の部分の詳細に立ち入る前に前置きしておく のが適切であると思われるような所見が含まれている。第四節 は、「イングランドの法に従っ ている国々について」と題されており、これらの法の異な る部門が異なった地域的適用範囲を持つことを述べた文章が含まれている。
2. われわれが、検討を要すると提案されたひとくだりの文章を見出すのは、 これらの節の二つ目である。
3. 「法一般」、「自然の法」、 「啓示の法」、そして「諸国家の法」-- 空想的な全体の諸部門--について扱った後、われらが著者は「国内 の法」と彼が呼ぶものについに言及することになる:
4. 政府が設立された仕方 について--政府が設立される場合に政府がとるさ まざまな形態について--この国において 設立された政府の形態の特別な卓越性について--すべての国の政府 が法を制定することに関して持ち、彼がわれわれに語る必要があると考える、 権利について--法を制定する義務につい て; 法を制定することは、彼によると、政府の義務でもある。
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6. 「これによって」、(と彼が言っているのは、上で語られた定義の一部 について彼がそれまでに与えた説明のことである)「われわれは自然と、社会 と市民政府の本性に関する短い探求をすることになろう; そして、主権国家 stateの主権--どこにその主権が存するにせよ--に属する、法を制定し施行す る本性的で固有の権利に関しても。」
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10. 自然的社会の観念は否定的な観念である。政治的 社会の観念は肯定的な観念である。そこで、後者から、わ れわれは始めるべきであろう。
ある数の人々(われわれは彼らを臣民と呼ぶことができ る)が、ある既知の、そして一定の種類の人、または人々の集団(われわれは彼 らを統治者あるいは統治者たちと呼ぶこ とができる)に対して服従する習慣にあ ると考えられるとき、そのような人々は全員(臣民も 統治者たちも)、政治的社会の状態にあ ると言われる。
11. 自然的社会状態の観念は、すでに述べたように、 否定的な観念である。ある数の人々がお互いに会 話をする習慣にあると考えられ、同時に上で言及されたような習慣 にはまったくないと考えられるとき、彼らは自然的社会の 状態にあると言われる。
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注(家族的結合は、いかに完全であっても、 政治的社会を作るわけではない--なぜか
そこで、同一の当事者は、異なった人々に関して、ある いは、異なった服従の対象に関して、服従していると同時 に服従していないと言われうる。
15. 次のことも同じ仕方で理解されうる。ある人ないし人々に対して 統治者である人が同時に、別の人に対しては臣民 でありうるということ: 統治者たちにおいて、ある統治者たちは、 お互いに対して完全な自然状態にありう るということ: ちょうどフランスとスペインの王たちのように:
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25. そこで一般的に、正確にはどの時点で、ある政府に服従していた人々 が、不服従によって、その政府に関して自然状態になるのか? 要するに、いつ、 反乱が起こったと見なされるのか; そしてまた、いつ、そ の反乱が独立を確立するほど成功したと見なされるのか?
26. ちょうど、個々人の服従が従属の状態を成り立たせるように、彼らの 不服従が反乱の状態を成り立たせるに違いない。それでは、すべての不服従の 行為が反乱の状態を成り立たせるのだろうか? 肯定的な答えは、間違いなく、 支持しえないことである: というのも、その場合、政府のようなものはどこに も見出せなくなるだろうからだ。
欺瞞的不服従と力ずくの不服従--そ の違いの例示(窃盗と強盗)
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30. (解説者として事実問題を主張しているのか、批判 者として是認の感情を表明しているのか)
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38. このような機会において、ありふれた文句の従者たちが手近にいた; 正義、正しい理性がそれを要求した、 自然法がそれを命じた、などなど; それらすべては、ある 人が特定の道徳的命題が真であることを固く信じている--彼が、なぜ 信じているのかを言う必要はないと思っているに せよ、あるいは言うことができないと考えているにせよ、 とにかく固く信じている--ということを知らせるための、さまざまな方法に過 ぎない。
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42. しかし、結局のところ、人々が彼らのした約束を守るべき だというのは、どのような理由によるのか? な んらかの理解可能な理由が与えられるとすれば、それはこうであろう:彼らが 約束を守ることは社会の利益になるから;またもし彼らが守 らなければ、刑罰が役に立つ限りで、彼らが約束を守るよ うに強制した方が、社会の利益になるから。各個人の約束 が守られることは、人々全体の利益になる:そして、それらが守られないより は、それらを守らない個々人を罰した方が、人々全体の利益になる。もしも、 「どうしてそうなるんだ?」と訊ねられたら、答は手近にある: --約束を守る ことによって得られる利益、そして避けられる害悪は非常に大きいので、人々 を義務づける(強制する)ために必要な量の刑罰の害悪を埋め合わせるからであ る。これを行なうための人々の行動に、利益と害 悪がここで述べられたような仕方で基くかどうかは、事実 の問題で、それを決めるのは、他の一切の事実問題が決定される仕 方と同様に、証拠や、観察や、経験によるのである。
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46. 「たしかに、それ自体として無効である約束は、 いかなる義務も生みださない。しかし、約束が妥当である ならば、義務を生みだすのは約束そのものであって、それ以外ではない」
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48. そこで、われわれの心になお浮んでくるこの他の 原理は、功利性の原理以外の何でありえよう? それは、わ れわれに、それのみがいかなる高次の理由にも依拠せず、それ自体がありとあ らゆる実践のための唯一かつ十全な理由を与えてくれる原 理である。
1. われわれの検討している余談全体の内容が、この小論の出だしで、5つ に分割されたことを覚えておられよう。一つ目は、政府一般が成立する仕方に 関してであったが、前章ですでに検討された。次は、政府が取りうるさまざま な種ないし形態に関してであり、これからそれが考察される。
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5. 神の属性から、人間におけるなんらかの性質に関する観念が得られる わけではない: それとは逆で、人間の性質についてわれわれが見てとるものか ら、神の属性についてわれわれが形成しうるかすかな観念が得られるのである。
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10. 命令は意志の表明である:
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15. しかし、これらすべてのことは、推論に過ぎない:
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23.(君主政治、貴族政治、民主政治)
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30. (専制政治は君主政治の非難の念を込めた呼び方。寡頭政治、暴民政治 ochlocracyも同様)
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5. (それは司法権を含むのだろうか?)
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11. (より経験をもつ)
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16. 「経験は、知恵の母である」と昔言われた:そうであるとしよう;--し かし、そうだとすれば、利益が父である。経験の父である利益さえある。
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1. …
2. わたしが考えるに、彼の本当の目的は、「すべての国家には、 絶対的な権力が誰かの手の内に存していなければならない」 という確信を教え込むことである。
3.「ここまで」とわれらが著者は述べる、「三つの通常の政府の形態と、 それらすべてから抜粋され複合されたわれわれ自身の独自な政体を急いで考察 してきたが、次に進んで述べるのは、法律を制定する権力によって最高権力が 成り立っているのと同様に、法律を制定することはその権力の権利である、と いうことである; それはすなわち、われわれの定義の言葉づかいによれば、市 民の行為の規則を命じることは、その権力の権利である。そしてこのことは市 民国家のまさにその目的と制度から見出されうるのである。というのも、国家 は集合体であり、各の安全と便宜のために結合し、一人の人として一緒に行為 しようと意図する一群の個人によって成り立っているからである。したがって もしも国家が一人の人として行為するつもりであれば、それは一つの一致した 意志によって行為すべきである。しかし、政治的共同体が多数の自然人によっ て成り立っており、その各人が自身の特殊な意志と傾向性を持っている限り、 これらのさまざまな意志はいかなる自然な結合によっても 一つにまとまらないし、また、永続的な調和へと調和させうまく処理すること によって一つの一致した全体の意志を作り出すことはできない。したがって、 それは政治的結合によって以外では生み出しえない; 各人 は自分自身の個人的な意志を、最高権力が信託されている一人の人あるいは人々 の単数あるいは複数の集合体の意志に従わせるという、すべての人の同意によっ て以外では生み出しえない: そしてこの一人の人ないし人々の集団の意志は、-- 異なる国では、異なった政体に従って--法であると理解される。」
4. …
5. 省略三段論法は二つの命題から 成り立つ; 一つの後件と一つの前件であ る。
6. さて、ある語句phraseを定義するというのは、よりよく理解されてお り、かつ同一の観念を表していると想定される別の語句へ言い換えることであ る。
7. …
8. …
9. だとすれば、この解釈によれば、一方の「権利」は、他 方の事実との対比で置かれていると考えなくてはならない。 すると、その意味は、最高権力(あるいは同じことだが、 省略三段論法の前件に従えば、 法律を制定する権力)を実際に用いる人はだれであれ 、それらの人々はそれを用いる 権利を持つ、ということである。
10. …
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注a: われわれが考察している段落において、一つの事柄が観察されうる; それは最後の一文であり、そこで彼は法と意志 という観念を一緒に持ち出している。するとここで、余談の末尾に おいて、彼は実際のところ、気づいてはいないにせよ、彼が脱線することになっ た元の定義自身のどの部分に比べても、法の正しく精確な観念を提示すること により肉迫しているのである。もしも、法とは意志である と述べる代わりに、彼がそれを意志の表明 と呼んでいれば、そして命令という名で通ってい る種類の意志の表明と呼んでいれば、彼の定義は、この点に関する限り、正し くかつ明晰であったであろう。だが現実には、彼の定義は前者でも後者でもな い。しかし、このことについては、もし述べるとするなら、他の所で詳しく述 べる。法の定義は注で片付けるにはあまりに繊細でかつ重要すぎる問題である。
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13. …
14.…
15. (自由と統治という二人の嫉妬深い敵対者)
16. このように慎重に曖昧にしてある論議を適用するなんらかの機会が生 じて初めて、その真の用途と効力が明らかにされるであろう。人々が、どのよ うな機会にせよ、不平を言いはじめ、抵抗の手段を計画する。さてそこでこの 一節の隠された効能がよび起こされるべき時が来る。この本が彼らに向けて開 かれ、そしてこの一節において彼らが見るのは、彼ら自身はおそらく一度も考 えたこともなかったような、奇妙に結びつき包みこまれた一組の論証であり、 それが証明しているのは、従属の普遍的な便宜性、あるいはむしろ必 然性である: その必然性は、抵抗によって生じそうな害悪 が服従によって生じそうな害悪よりも大きいということを考えるこ とによって生じるのではない; そのような何らかの議論可能な考察から生じる のではない; そうではなく、それよりもはるかに力強く効果的なあるものから 生じるのである: すなわち、ある形而上学-法学的不能性で あり、それは彼らの内に感情を生みだし、自然な不能の持つすべての効果を持 つ。われらが不平分子たちは、武装し、怒りに満ちて、王宮へと行進する。無 駄である。ある禁反言が、われわれがすでに見たように、 われらが著者による法の巧みな処理の力によって、彼らに投じられるよう準 備されているので、彼らの武器は、まるで魔法にかけられたかのように、彼ら の手から落ちることになるのである。異論を唱えること、騒ぎたてること、反 対すること、要するに、自分の意志を再び取り戻そうとすることは、今ではも う遅すぎるのだ、と彼らに告げられる: それはなされえな いことである: 彼らの意志は他のものと共に併合されてしまったのだ: 彼らは 「結合」してしまった、--彼らは「同意」してし まった、--彼らは「従属」してしまった。--われ われの著者はこのように彼の鈎を彼らの鼻にひっかけたの で、彼らは来た道を引き返さねばならず、そしてすべてが平和になるのである。
17. (われらが著者によると、抵抗は許可されたもので なく、義務である)
18. それはわれわれの検討している余談より前にある一節であるが、同じ 節にあり、自然法と称されるものと啓示の法について述べるさいに、「いかな る人定法も」と彼は言う、「これらに矛盾することが許容 されてはならない」。「否」と、彼が例として挙げた行為に関して述べるさい に彼は言う、「もしもなんらかの人定法がわれわれがそれを行なうことを許可 していたり命じていたりしたならば、われわれはその人定法に違反するよ う拘束されているのであり、そうしなければ、われわれは自然の法と神 の法の双方に違反することになる」。
19. 自然の法については、もしそれが(わたしはそのよ うに思えると信じるが)ただの文句に過ぎないのであれば; もしもなんらかの 行為がそれに対する違法行為であることを示すのに、そのような行為の有害な 傾向以外に手段がないのだとしたら; もし国家の法がそれ に反していることを示すのに、--そのような法について考える人の単なる根拠 のない否認が証明とは呼ばないとした場合--そのような法の不便さ以外に手段 がないとしたら; もし自然の法に反して いる法を、それに反してはいないが、単に不便 であるものから区別する試験が、われらが著者によっても他の誰に よっても提示されると主張されたことさえないものであれば; もし、一言で言 うと、ほとんど法が、その法を気に入らないと考えた人が、なんらかの理由で、 聖書のある文面に一致しないことを見出すようなものであるとすれば; わたし は、そのような学説の持つ自然な傾向は、ある人がたまたま気にいらないあら ゆる法に対して武器を持って立ち上がるよう、彼を良心の力によって駆り立て るものに他ならないと思う。そのような傾向と両立する政府がどのような種類 のものかは、われらが著者がわれわれに教えてくれるよう、わたしは彼に任せ ねばならない。
20. こうした峡谷を通り抜けるよう人を導いてくれる唯一の道しるべを与 えてくれるのは、正確に理解され着実に適用された場合の功利性 の原理である。理論上はどちらの論争者もあえて 否認しない決定を与えてくれるのは、ありうるとすれば、それだけである。そ れは理論の上でさえ、人々を和解させる何かである。彼らは少なくとも、実践 の上だけでなく理論の上でも異なる場合よりも、有効な一致にいくぶ ん近づく。
21. 抵抗の手段に訴えることが、義務の点でも 利益の点でも、各人に--強制されないまでも--許されるの は、次の時であり、その時になって始めてそうである、と 言うことができよう; 各人ができるかぎり最高の計算した結果に従えば、(社 会集団一般に関する)抵抗によって生じそうな害悪の方が、従属によっ て生じそうな害悪よりも当人には少なく思える時である。そこでこ れが、彼にとって、すなわち特定の各人にとって、抵抗の時点 なのである。
22. 特定の各人に対する特定の指標として役に立つものに関しては、わた しはすでに一つ示した--功利性は抵抗の側に傾くという、 各人自身の内的な確信である。
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24. それでは、自由な政府と、専制的な 政府に関して、違いはどこにあるのか? 最高と認められる権力をそ の手に宿している人々が、彼らがその権力を慣習から得る際に、一方が、他方 よりもより小さな権力を持っている、ということなのだろうか? 決してそう ではない。一方の権力の方が他方のそれよりも、権力になんらかの限界を持っ ている、というようなことではない。その区別は、非常に異なった性格の諸事 情によるのである:--一まとめにして考えると最高の権力となるような権力全 体が、自由な国家では、その権力を分け持つさまざまな階級の人々のうちで、 分配されている仕方による:--その権力 に対する彼らの権原が、継承的に由来する源泉による:--統 治する者と統治される者の立場頻繁で容 易な変化による; それによって一方の集団の利益は、他方 集団の利益と分ちがたく混ぜ合わされるのである:--統治者の責任 による; あるいは、臣民が、彼に対してなされるすべての権力行為 に関して公けに与えられ描かれる理由を持つ権利による:--出版の自 由; あるいは、各人が、一方の集団に属するにせよ、他方の集団に 属するにせよ、自分の不平や抗議を社会集団全体に知らせることができる保障 による:--公共的な集会の自由による; あるいは、不平分子 たちが、行政権力が彼らの邪魔をすることにおいて法的に正当化されうるまで、 彼らの意見をやりとりし、自分たちの計画を企図し、現実の暴動には至らない ようなあらゆる様相の反抗を実践することができるという保障による。
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26. 彼らができない行為があると述べること、--彼ら のする何かについて違法であると語ること、--無 効であると語ること;--彼らが自分達の権限(文句 はなんであれ)--自分達の権力、自分達の権利 --を超えていると語ること--は、いかによくあることとは言え、言 葉の誤用である。
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28. なぜ詭弁の荒野へ立ち入るのだろうか、平坦な理性の道がわれわれの 目前に真っ直に続いているのに?
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35. (習慣、過去の行為に関して言 うと; 性癖、未来の行為に関して言うと)
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39. わたしはこれを単なる言葉上の争いだとは考えない。わたしは、論争 している当事者間の--ある法の擁護者とそれの反対者の間の--議論は、もしも 彼らが直ちに功利性の原理にはっきりと、そして恒常的に 訴えさえすれば、現在よりも解決する可能性がはるかに高いだろうにと、確信 せずにはいられない。この原理がすべての議論を基づける立脚点は、事実問題 のそれである; すなわち、未来の事実--ある未来に起きうる事柄の蓋然性の問 題を議論の立脚点とするのである。そこでもしも論争がこの原理に後援されて 行なわれたとすれば、次の二つの事柄のいずれかが起きる: 人々がその蓋然性 に関して意見の一致を見るか、または彼らは、議論の本当の根拠について然る べく議論をした後に、遂に、いかなる一致も期待できないことを知るのである。 彼らはともかくも意見の不一致の基づく点を、明晰、明示 的に知るであろう。…。しかし、口論の根拠が単なる感情の問題ではなく、判 断の違いであり、しかも、彼らの知るかぎりでは、その違いは真実のものであ るということを知ったとき、和解への扉はずっと大きく開かれているであろう。
(功利原理の合理的な議論可能性)
40. それは、彼らの反対の確信を、あるいはむしろ感情を、彼らのいずれ もが根拠について議論をしようとしない問題について宣言すること以外のなに ものでもなく、しかも、それを曖昧な仕方で、そして同時に独断的で人を迷わ す仕方で宣言すること以外のなにものでもないのである。
(信念や感情の表明にすぎず、その根拠を論じない、というのがポイント)
41. 他方、もしも議論が元から、そして公然と功利性に基づいて始められ ていたならば、論争の当事者たちは、ついには意見の一致を見たかもしれなかっ た; あるいは、少なくとも、明白で明確な論点に辿りついたかも知れなかっ た。--「わたしに言わせれば、問題の政策の害悪は、 このような量になる。--わたしに言わせ れば、そうではなく、より小さい。-- わたしに言わせれば、そうではなく、よ り大きい。」--これは、わかるように、前者とはまるきり 異なる議論の根拠である。今や問題ははっきりと、未来において起こりうる事 実問題に関する推測の問題なのである(cf. p. 199): そこでそれを解決するた めには、双方の当事者は自然、彼らの銘々の確信を裏付けるために、その問題 の性質が許す唯一の証拠によって導かれる;--過去の事実問 題の中で、未来に起こりうる事実問題と類似していると思 われるものの証拠である。さて、これらの過去の事実は、 ほとんど常に、厖大な数である: 非常に厖大なので、議論の目的のために視界 にもたらされるまでは、それらの大多数はごくごく当然にも当事者の一方の観 察を免れていたものである:そして、おそらくは、その当事者が他方の当事者 と不和となるような確信を持っているのは、これによるのであり、これ以外で はないのである。そこで、ここに、ただちに和解に至る平坦で開かれた道があ るわけである: 最悪でも理解可能で明白な問題点へ、--すなわち、完全に探索 され探究されたあかつきには最後に和解へと通じることが見出されるような、 違いの根拠への平坦で開かれた道があるわけである。人々は、一度でもはっき りとお互いを理解しさえすれば、彼らが同意するのはそう遠い話ではない。曖 昧で詭弁的な議論によって困惑させられることこそ、理解力を削ぎ台無しにし て、情念を刺激し火を注ぐものなのである。
1.
2. 彼曰く、「ここまでが、最高権力が法律を制定する権利 についてである; しかしさらに、それは同様にその義務でもある。 というのはそもそも、それぞれの成員は国家の意志に一致 するよう拘束されているから、彼らが国家からその意志を宣言している 指示を受けることは都合がよい。しかしそもそも 、それほど大勢の者の中で、特定の各人に、特定の各行為に関して 命令を与えることは不可能なので、それゆえ国家は、積極的義務にせよ消極的 義務にせよ、すべての点において、全ての人々の永続的な情報と指示のための 一般的規則を制定する。そしてこのことは、各人が何を自分のものとみなし、 何を他人のものとみなすかを知るためになされる; どんな絶対的義務とどんな 相対的義務が彼の手に要求されているかを知るために; 何が誠実、不誠実、あ るいはどちらでもないとみなされるか; どの程度各人は自然的自由を把持する のか; 彼が何を社会の利益を得るために犠牲にしたのか; そしてどのような仕 方で各人は国家が彼に与えた権利を、公共の安定を促進し保障するために、使 用することを穏当にやるのかということを知るためになされる。」
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注
1. あることがわたしのしなくてはならない義務(政治 的義務と解する)であると言いうるのは、あなた(あるいは他の人ないし人々) がそれをわたしにさせる権利を持っている場合である。そ のときわたしはあなたに対して義務を持っている: あなたはわたしに対して権利を持っている。
2. あなたがわたしにさせる権利(政治的義務と解する)を持っている事柄 とは、わたしがそれをしない場合、あなたを代理してなされた要求に基づき、 法によって、わたしが刑罰を被るであろう事柄である。
3. わたしは刑罰が与えられると言った: というのも、 刑罰の概念(それはすなわち、ある行為に結びつき、ある理由 に基づいて生じ、そしてある源泉から生じる 苦痛の概念である)なくしては、われわれは権利 や義務について、いかなる概念も持ち得ないから である。
4. さて、苦痛という語に属している観念は単純観念で ある。ある語を定義する、あるいはむしろ(より一般的に言っ て)説明するexpoundこととは、それに属する観念を単純観 念に分解すること、あるいは分解の過程を進めることである。
5. 義務、権利、権力 、権原等の語、および倫理学と法哲学において溢 れるほどあるその他のこうした語と同じ種類の専門用語は、わたしが大いに勘 違いしているのでなければ、なんらかの有益な示唆をもたらすことのできる唯 一の方法は、ここで例証されたものである。この方法でなされた説明は、 換言法と名付けたい。
6. ある語が換言法によって説明されると言えるのは、 その語だけが他のいくつかの語に置き換 えられるのではなく、その語が含まれているある一文全体 が別の一文に置き換えられるのである; 後者の一文の語は 単純観念を表現しているものであるか、あるいは前者の文 の語に比べてより直接的に単純観念に分解できるものである。、ロックが 複合様相と呼んだ観念を表現している抽象的 名辞に関して言うと、そのような語とは実体と 単純様相を表現している語である。これが、要するに、な んらかの抽象的な名辞が、最終的に、なんらかの有用な目的のために説明され うる唯一の方法である: すなわち、知覚された実体の表象 image、あるいは感情の表象を生み出すよう計算された名辞 によって説明することである;--すべての観念がそのいずれかから由来するは ずの源泉は、明晰なものである(?)。
7. 通例の定義の方法--類と種差による方法と論理学者 は呼ぶが、それは、多くの場合、まったく役に立たない。抽象的な名辞におい ては、われわれはただちにいかなる上位の類概念を持たな いものにぶつかる。これらの名辞に用いられた場合、類と種差による 定義では、何の解明もできないことは明らかである: 定義はそこで 不十分なままで終わらなくてはならないか、あるいはあたかも循環小数や循環 節におけるがごとく、自分自身に戻ってこなくてはならないかである。
「剛勇fortitudeは徳である」:--よろしい:--しかし徳とは何か? 「徳と は性向である」:--それもよい:--しかし性向とは何か? 「性向とは…」; そこでわれわれは止まる。事実は、 性向はいかなる上位の類概念を持たない、 ということだ: 性向とは…、いかなるものでもない:--この 方法は、それによって何が意味されているのかについてわれわれにいかなる概 念も与えてくれない。同様に、「権限powerとは、 権利である」: では権利とは何か? それは 権限である。--財産権とは物権 interestのことである、とわれらが著者はどこかで述べている; そ こで彼は財産権を定義している:--彼が物権とは財 産権のことであると言ってもおかしくなかっただろう。要するに、 このような仕方で接続詞か前置詞を定義してもおかしくなかっただろう。前置 詞を通じてthroughや、接続詞なぜなら becauseについて述べてもおかしくなかっただろう; を通じ てとは…、あるいは、なぜならとは…、そしてそ れらを定義し続ける。
7. 義務(政治的義務)という語が、わたしに対して用い られたとき、その語がどのような意味を持つのかを、わたしはよく理解してい るつもりだ; そしてわたしは、わたしが自分の最高統治者として語るような人々 に対する通例の説教的な談話において、この語を同じ意味で用いる気にはなれ ないと思う。わたしがすべき義務とは、わたしがそれをし なければ法によって刑罰を受ける見込みがあるということ である: これが義務という語の元々の、通常の、適切な意 味である。c これらの最高統治者はそのような義務を持っているだろうか? 否 である: というのも、もしも彼らが、何かをしなかったこと のせいか、あるいはしたことのせいか、いずれにせよ、法 によって刑罰を受ける見込みがかりそめにもあるとすれば、彼らは、考えられ ているような、最高統治者ではないのである: そうした人々が刑罰に服するこ とを命じる人々こそが、最高統治者である。
c.
1. 三つの種類の義務を想定することができる; 政治的、 道徳的、そして宗教的義務である; それ らの義務を強制する三種類のサンクションに対応している: あるいは、同じ行為がこれらの三つの理由から、ある人の義務であるかも知れ ない。これらの一つについて語ったのちに、読者をあざむくこと、そして断り なしに別の義務を語りだすこと、あるいは最初からそれらのいずれについて語っ ているのかをわからないようにすることは、混乱を生み出さずにはおかない。 (cf. p. 31, 42)
2. 政治的義務は、刑罰によって生み出される: あるいは、少なくとも、 その手に刑罰を持つ人々の意志によって; その人々は定まっており、 確定している、--政治的上位者である。
3. 宗教的義務もまた、刑罰によって生み出される: 確定 された人、--至上者の手によると予期される刑罰によって。
4. 道徳的義務は、ある種の動機によって生み出される。その動機は、そ れを用いる人々と、それが用いられる際の種類と 程度が不確定なために、まだほとんど刑罰という 名を得たことのないものである: 不確定で不定な人々、-- 社会集団一般の悪意から生じるさまざまな屈辱によって: その人々とはすなわ ち、当の社会集団において、問題の義務を持つ人がたまたま関わりを持つ個々 人である。
5. これらの三つの意味のいずれかの意味で人がある行為を義務と主張す るとき、彼が主張しているのは、ある外的な出来事の、現 実的ないし蓋然的な存在である: すなわち、義務に違反した結果、これらの源 泉のいずれかから生じる刑罰の、現実的ないし蓋然的な存在である: その出来 事は、言及されている当事者の行為からも、および言及している人の感情から も外在的であり、別個のものである。もしも彼がその行為 を義務と主張することに拘り、しかし、彼がそれを義務とみなすのは、これら の三つの理由のうちのいずれかに基づくと解されるべきだということを意味し ないのなら; その場合、彼が主張しているのは、彼自身の内的な感情 だけである: その場合、彼が意味しているのは、彼が当の行為を考 えた際に快あるいは不快を感じるが、どうして感じるのか は説明できない、ということだけである。この場合、彼はそのように言えばい いのである: そして、彼個人の一票を、神の声、法の声、または人々の声を宣 言するために用いられる言葉で述べることにより、不当な影響を与えようとす るべきではない。
6. さて、この語のこれらすべての意味のうち、われらが著者が念頭に置 いていたのはどれか; これらすべての意味のうち、どの意味において彼が「法 律を制定するのは、最高統治者の義務である」と主張するつもりであったのか、 わたしにはわからない。政治的義務は、彼らが服従しえな いものである: また、その趣意の道徳的あるいは 宗教的な種類の義務が彼らにあると述べるのも、いささか早計な主 張であるように思われる。
わたしが思うに、本当のところ彼が意味していたのは、彼らが彼の語って いることを行なうのを見ることは、自分にとってよろこばしいことである、と いうことに他ならない; 彼の語っていることとはすなわち、「法律を 制定すること」である: 言い換えると、彼自身が説明しているよう に、法律の知識を世に広めることである。彼は喜ぶであろうか? わたしなら喜 ぶであろう; そしてなぜかと尋ねられた場合、われらが著者がどのように答え るのか、わたしは知らない; しかしわたしは、自分に関して言うと、まったく 困難なことはない。わたしはこう答える、--なぜなら、わたしは、彼ら(統治 者)がそうすることは、社会集団の利益になるということを確信しているから だ、と。これは、わたしが自分の意見として、彼らがそうすべき であると述べるのを保証するのに十分である。こうしたことにも関 わらず、わたしは少なくとも、それが政治的意味における 彼らの義務であるとは言うべきではない。同様に、わたし は、彼ら自身がその政策を有用で便利なものであると考え、 そして彼らがそう考えていると一般的に想定されることを 確信するまで、それが道徳的あるいは宗教的 意味において彼らの義務であるとあえて言うべきではない。
仮にわたしが彼ら自身がそう考えていると確信したなら、 その場合、神もそのことを知っていると言えよう。神は、もしも彼らがそれを 追求することを怠ったならば、彼らを罰するだろうと想定される。その場合、 それは彼らの宗教的義務である。仮にわたしが人 民が彼らがそう考えていると想定していると確信したならば: 人民 は、そのような怠慢が起きた場合、--人民もまた、その悪意のさまざまな仕方 の表明によって、彼らを罰するだろうと言えよう。その場合、それは彼らの 道徳的義務である。
これらのいずれの意味においても、問題の政策を追求することが最高権力 の義務であると主張することは、社会にとって等しく有益な、他の想像可能な どの政策を追求することも彼らの義務であると主張するのが適切でないのと同 様に、適切でない。こうした独断的で僭越な仕方で、ある政策の提案を先触れ するのは、論理的でない修辞的な熱弁においては許されるかも知れないが、厳 密な説教的文章においては、決して正当化されえない。個人的な道徳 的行為の様態で、その傾向が非常によく知られていてまた非常に一 般的に認められているために、それらを遵守することが義務と呼ばれるのももっ ともであるようなものは、たしかに多くある。しかし、同じ言葉を立 法的な行為の特定の詳細に用いることは、特に新たに発議されたも のに関して用いることは、あまりに行きすぎであり、混乱させるだけであると 思われる。
8. そこで、義務という語が、最高統治者として語られる人々に対して用 いられる場合、明らかにその語は、比喩的で非本来的な意味で彼らに対して用 いられている: またそれゆえに、この語がこの意味で用いられている諸命題か らは、もしその語の本来的な意味である他方の意味で用いられていれば導かれ たであろう結論と、同一の結論は導かれない。
9.
10. 彼は義務という語を口にし出す; そして、 批判者の役柄で、しかるべき重々しさでもって、どうある べきかをわれわれに話し始める。その講義の途中で、われ らがプロテウスはわきに下がる; 歴史家 の役割を演じ始める; 談話に気付かれぬ変化をもたらす; そして、変化につい てはなんの注意も与えることなく、どうあるのかをわれわ れに語ることで終了する。実際、これらの二つの点、である とべきであるは、他の人々の目には、しばしばまっ たく反対のものであるのに、われらが著者に身についている従順な静 観主義の精神のせいで、彼は違いにほとんど気付かないようである。… そこで、彼がこの仕方でなされるのを見たいと願うことが できるものは、現実になされるのである。
(問題群: (1) あるべき姿とはいかなるものか(批判者の役目)。(2) 現実 の姿とはいかなるものか(解説者の役目)。(3) あるべき姿と現実の姿とをどの ように一致させるか。ブラックストーンは、「あるべき姿とは現実の姿のこと である」とすることで、(3) を解決した)
11.
12.
13. 「では」、--(と反論する者は叫ぶ)--「あなたがやり始めた仕事は終 わった; そしてそこで検討された問題は結局のところ、あなたの言うところに よれば、何も教えるところがなかった; --あなた自身が示したところによれば、 それは考慮に値いしないものである。--それではなぜそれほどの注意をそれに 対して払うのか?」
次の意図からである--憶病で人を尊敬しやすい学生を指導する、いやむし ろ彼らに真実を悟らせることをするため:--彼が自分の力量により自信を持ち、 高名な名前の者たちの不可謬性をあまり信用しなくなるよう喚起するため:-- 彼が権威の足枷から自らの判断を解放するのを助けるため:--議論を理解しな いのは、読者のせいでありうると同様に、著者のせいでもありうることを彼に 示すため:--見かけだけの言葉と健全な意味との区別を彼に教えるため:--言葉 に尊敬を払わないよう彼に注意を与えるため:--耳をくすぐったり、想像力を 奪うものが、常に判断力を満たしてくれるわけではないことを示すため:--わ れらが著者ができること、したことを彼に示すため: そして彼がしなかったこ と、できないことを:--彼が、誤りをたらふく口にするぐらいなら、無知だけ で精進する気にさせるため:--法の解説者という点に関しては、われらが著者 は来たるべき者ではなく、われわれは未だ別の者 を探しているということを彼に悟らせるため。--「それでは誰が」、 わたしの反論者は言う、「その別の者なのだ? あなた自身なのか?」--そうで はない。--わたしが彼の前に道を準備したとき、わたしの 使命は終わったのである。