合評会 船木亨 『ランド・オブ・フィクション――ベンタムにおける功利性と合理性』 (木鐸社、1998年)

The Misread Bentham

児玉 聡

はじめに

船木氏は本書の序において、ハートを引用しながら次のように述べている。

現代の著名な法哲学者であるH・L・A・ハートも強く要請しているように、 「ベンタムは読まれなければならない」のである。(12頁)

ハートは、ベンタムがしばしば他の哲学者によって言及されつつも、その著作 が直接に読まれることのない状況を「読まれざるベンタムthe unread Bentham」 と表現した。もちろんわたしは船木氏やハートの意見に賛成である。ベンタム は読まれなければならない。ただし、わたしは「ベンタムは読まれなければな らない」という表現に一つの副詞を添えることを提案したい。すなわち、ベン タムはただ「読まれなければならない」のではなく、「正確に読まれなければ ならない」。「読まれざるベンタム」も困るが、「誤読されるベンタム」でも 困る。

さて、言語哲学を中心にベンタムの思想を紹介するという船木氏の試みは高く 評価したい。しかし、本書にはいくつかの問題点があるように思われる。まず、 本書におけるベンタムの引用には明らかな誤訳が多数あり、その誤訳の数と程 度は、船木氏がベンタムの言っていることを正しく理解しているかどうかを疑 わしくさせるほどである。また、船木氏は、ベンタムの功利主義について誤解 しているように思われる。

そこで本稿では、本書における船木氏のそうした「誤ったベンタムの読み」を 指摘することにする。まず最初に、目立った誤訳をいくつか指摘し、その後に 船木氏の功利主義理解の批判を行なう。

1. 誤訳

ではまず目立った誤訳を指摘していこう。ただし、まず断っておきたいのだが、 船木氏の引用しているベンタムの著作のほとんどは、これまで日本語訳が出版 されたことのないものである。また、ベンタムの英語が相当難しいものである ことにも定評がある。このことは、ベンタム研究をするためには、少なくとも 相当の(英語の)語学力が要求されることを意味している。

(以下、船木氏の訳、原文、わたしの訳と並べる。また、原文およびわたしの 訳では、文意がわかりやすくなるよう、適宜 [ ] で前後の文を補っている。 さらに、誤訳だと思われるところには、原文、船木氏の訳、わたしの訳のそれ ぞれに太字強調を行なった)

「いつか、足の数や毛並や尻尾の有無は、同じ運命に遭遇した感性的 存在が遺棄されて構わない十分な理由ではない日が来るであろう」 (22頁)

[The French have already discovered that the blackness of the skin is no reason why a human being should be abandoned without redress to the caprice of a tormentor.] It may come one day to be recognized, that the number of the legs, the villosity of the skin, or the termination of the os sacrum, are reasons equally insufficient for abandoning a sensitive being to the same fate?

「[フランス人はすでに、肌が黒いからといって、ある人間を補償もなしに拷 問者の意のままにさせるべきではない、ということを発見した。] いつか、足 の本数や、体毛の多さや、仙骨の末端(尻尾の有無)もまた、感性的存 在を同様な運命をたどらせるには十分な理由ではないことが 理解される日が来るであろう」

abandon (〜を…に委ねる、まかせる)の誤訳。to be recognizedの訳し忘れ。

次は引用の形式を取りながら何の断りもなく要約したものである上に、誤訳を 犯している。また船木氏は、本書のすべての引用において、原文でイタリック となっているところをまったく無視して訳出している。

「言語には、終わりなく作動し続ける自己改良的な本性的傾向性がある。 その運動には、人間本性からくる対立さえ乗超えるところがある 。」(32頁)

Generally speaking, there exists in language a natural tendency to improve itself, or, to speak strictly, to become improved in respect of this desirable quality. The same causes, by the operation of which the earliest and scantiest stock of the instruments of thought and conversation were produced, continue in action and will continue in action, without end. Observation, experiment, experience, reflection, discovery, invention: all these are so many seeds of language, seeds from which new additions to the stock of words and combinations in every language are continually springing up.

As there exist cases in which the alteration made in language by increase given to the number of words, and combinations of word, of which it is composed, cannot, with propriety, be set down to the account of advantage, so are there cases in which, though the addition, if made, is or would be of an advantageous nature, yet, the addition finds the introduction of it opposed, by various springs of human action, by various principles of human nature.

「一般的に言って、言語には自己を向上させる――あるいは、厳密に言えば、 この望ましい性質(単語数の多さ)の点で向上する――自然な傾向がある。思考 と会話の道具の最も最初で最も少量の蓄えを生みだしたのと同一の原因が、終 わることなく作用し続けており、また作用し続けるであろう。観察、実験、経 験、内省、発見、発明――これらすべてがそれぞれ言語の種子なのであり、こ れらの種子から各言語における単語と熟語の蓄えに新しい追加が絶えず生じて いるのである。
ちょうど、言語を構成している単語数や熟語数の増加によって言語になされた 変更が、適切には利益になるとみなしえない場合があるのと同様に、 追加が、もしなされれば、利益となる性質のものであるか、ありうるのだけれ ども、しかし、追加がなされることに対して、人間の行動のさまざま な動因によって、人間本性のさまざまな原理によって、反対がなされることが ある。」

次の引用は、原文では2段落だが、船木氏の訳ではなぜか1段落になっている。 (これも多くの引用において行なわれている)

「概して、ことばはコミュニケーションの道具、あるひとのこころによって、 ほかのひとのこころに対してその内容をコミュニケートするのに採用される道 具であるという以外の観点では、考察されてこなかった。しかし、注意深く検 討してみると、知覚ができないように想定した場合、人間 のこころのすべての区別される能力のうち、その働きにおいて言語が使われな いものは、ほとんどないということが分かるであろう。ある程度の便 宜、ある程度の水準で、言語なしに実行されるであろうようなもの は、ほとんどひとつもないことが分かるであろう。」(50頁)

In general, language is seldom considered in any other point of view than that of an instrument of communication, -an instrument employed by one mind in making communication of its contents to another mind.
But, upon an attentive view, it will be found that, when perception has been excepted, of all the several distinguishable faculties of the human mind there is scarcely one in the use of which it is not habitually employed, -scarcely one, which without it, would be exercised with any considerable advantage to any considerable extent.

「概して、言語は、意思伝達の道具――ある精神が、その内容を他の精神へと 伝達する際に用いられる道具――という観点以外の点で考察されることはめっ たにない。
しかし、注意深く検討してみると、次のことが分かるであろう。すなわち、 知覚を例外とした場合に、人間の精神が持つ、すべてのさ まざまな区別可能な能力のうちで、その能力の使用の際に言語が習慣的に用い られていないものはほとんどないということ――言語の助けを借りずに、 かなり有効に、かなりの程度機能する能力はほとんどない であろうということ。」

次は、誤訳によってそれ以降の船木氏の議論が誤った方向に導かれている例でもある。

「ときの観念は、観念の継起に由来するといわれる。問題なのは、そ の説明が偽装されていることである。ときの観念は、観念の変化に 由来するといわれるかもしれない。こころには観念だけが現前してお り、そこにときの観念として示され得る観念は存在しないはずだ」 (61頁)

The idea of time is derived, says the common phrase, from the succession of ideas. Of this definition the misfortune is, that, in the explanation given of the object, the object undertaken to be explained, is itself introduced under a disguise.
It may, perhaps, be said to be derived from the diversity between ideas. To a mind to which an idea, and no more, was present, one smell, for example, or one taste or one sound, no such idea could, it should seem, present itself as an idea of time.

「時間の観念は、常套句によれば、観念の継起に由来する。この定義 に関して不幸なことは、対象に与えられている説明において、説明されようと している対象が、それ自身偽装して導入されていることである
おそらく、それ(時間の観念)は、諸観念の差異性に由来すると言うことができ る。一つの観念だけ――たとえば、一つの匂い、一つの味わい、一つ の音――が現前している精神にとっては、いかなる観念も、時間の観念として 現前することはありえないはずである。」

要するに、ベンタムがここで言っているのは、時間の観念は二つ以上の観念の 違いによって得ることができる、ということである。だが、船木氏は、この引 用から、まったく正反対の結論を導いている。「ベンタムがいわんとしている ことは、こころに生じる観念相互の連関や諸観念のあり方からは、時間が何で あるかを理解することはできないということである」(61頁)

もう少し続けよう。次の引用に出てくるthelematicという語は、OEDによると、'of or pertaining to will or volition; voluntary'という意 味で、「意志的、有意的」。

目的的な種類の運動ないし一組の運動の結果において、すなわち 運動が到達した物体のなか、ないし諸物体のあいだで、感覚的で自己運動 的存在のこころがその意欲の生産に関わると見られる運動、こころが全体にあ るいはいかなる部分においても交流する運動の結果において、それによっ て一定の割合の時間にその運動が新鮮な形において人間の使用に役立つように されるとみなされたり、みなされなかったりする何らかの条件の変化が生じる とき、それにって作品(労働)が産みだされたといわれる」(65頁)

[A work has reference to human interests and exigencies.] When, in consequence of a motion, or set of motions, of the thelematic kind, in the body or among the bodies in which the motion has terminated, or those to which it has in the whole, or in any part, been communicated, any such change of condition has place, by which, for any considerable portion of time, they are or are not regarded as being rendered, in any fresh shape, subservient to human use, a work is spoken of as having thereby been produced.

「[仕事(作品)は、人間の利益と必要と関連を持つ。] 意志的な種類 の運動ないし一連の運動の結果、運動が終結した物体においてあるいは諸物体 の間で、または運動が全体的または部分的に伝えられた諸物体の間で、何らか の状況の変化――それによって、あるかなりの期間、それらの物体が、新たな 形で、人間が使用するのに役立つようにされたと見なされたり見なされなかっ たりする――が起きたとき、仕事がそれによって生みだされたと言われる」

「感覚的で自己運動的存在のこころがその意欲の生産に関わると見られる運動」 うんぬんは、上の原文にはまったく見られないが、これはどうやら同じページ の別の段落(4段落上)から滑り込んだもののようである。

次の引用もひどい。

「だが、根拠はここまでだ。つけ加えておかなければならないが、これま で立法者はみな男性だったようだ」(76頁)

So much for reasons: add to which, in point of motives, that legislators seem all to have been of the male sex, down to the days of Catherine.

「[夫に権力を与えることに対する]理由はここまでである。 これに加え、[夫に権力を与えることに対する] 動機の点で は、立法家はすべて、カザリン大帝の時代まで、男性であったと思われるとい うことが挙げられよう

補足しておくと、ベンタムは、ある行為をする動機とその行為の正当化する理 由は別である、ということをいろいろな場所で口をすっぱくして言っている (たとえば、『道徳と立法の諸原理序説』第2章第19段落)。したがってここも、 その区別を念頭において読むべきところと考えられるが、なぜか船木氏は、こ の区別をまるで無視しているようである。

まだまだ指摘し続けることもできるが、ずいぶん長くなってしまったので、次 で最後にしておく。

「あることが、ほかの個体の行動の遂行によって実現され得るとみなされ、そ れ以外はない場合、わたしのこころで取扱われる欲望に気づいて、対応する行 動に引継がれるような、対応する欲望が相手に生みだされるであろうことが蓋 然的であるとわたしに見えると同時にわたしは 自分を相手に差向ける」(93頁)

[A certain event presented by my imagination as being not yet realized, becomes the object of my desire; ...]
If it be regarded as capable of being brought into reality by the active agency of some other individual, and not otherwise, at the same time that it appears to me probable that, by the knowledge of the desire entertained in my mind a correspondent desire followed by corresponding action, will be produced in his, I address myself to him. [I employ the faculty of language in making communication to him of such my desire accordingly.]

「[わたしの想像(力)によって、まだ実現されてないものとして現前するよう な、ある特定の出来事は、わたしの欲求の対象になる。…。]

もしそのことが誰か他の個人の能動的な働きによって以外では実現されないと 考えられるならば、また同時に、わたしのこころの中にあ る欲求を知ることにより、彼のこころの中にそれに対応する欲求が生みだされ、 対応する行動によって伴なわれる可能性があると、わたしに思われるのであれ ば、わたしは、彼に話しかける。[わたしは言語能力を用い て、わたしの欲求について彼に相応の意志伝達を行なう]」

addressは再帰用法で、「〜に話しかける」という意味である。「自分を相手 に差向ける」では意味が分からない。


2. 功利主義理解

批判1: 「功利的本性」と「心理的ヘドニズム」は同じ内容を指しているのか、 否か。

「功利的本性」

感性的存在とは、快苦を感じることを通じて振舞うような存在者のことをであ る。人間と動物では快苦の実質的内容は異なるかもしれないが、快を求め苦を 避けるという点では、同じように振舞っている。…。この「快を求め苦を避け る」ということ、およびそれを促進するということを簡潔に表現すれば、それ がベンタムの考える「功利的」ということであった。そのような意味で、かれ は、人間は本性的に功利的であると主張したのである。(19頁)

心理的ヘドニズム

(7) H・L・A・ハートは、『ベンタム』という論文において…、「もう一度ベ ンタムは読まれなければならない」と結んでいる。それによると、ベンタムは 読まれていないばかりでなく、誤解されているのだという。誤解の最たるもの は、たとえばG・E・ムーアのように、ベンタムが心理的ヘドニスト(快楽主義 者)であるというものである。しかも、たとえばラシダールのように、心理的 内容の一切を量に還元して事足れりとしているとされる。ハートは、こうした 誤解を覆すために、快苦に関する新しい見方を提示しなければならないと述べ ている。…。(195-196頁)

ハートは上の論文のある部分で心理的ヘドニズムについて言及しているが(第2 節第2段落)、そこでは、快pleasureに関する近年の分析の深化によって、「心 理的ヘドニズムに関する命題の再定式化と、そうした命題を新たに批判するこ とが要請される」と述べられているだけで、「ベンタムが心理的ヘドニストで ある」のは誤解であるなどとは一言も述べられていない。それどころか、別の 論文(IPML, pp. xci-xciii, 小見出しは「心理的ヘドニズムと功利原理」)で は、明らかにベンタムが心理的ヘドニストであることを認める記述をしている (「ベンタムの細かい議論の基礎にあるのは、人間は自分自身の快ないし幸福 だけしかそれ自体のために欲求したり獲得しようと行為したりしない、という 風に出来ている、という学説である」)。したがって、ハートが上のようなこ とを述べた、というのは明らかに誤りである。もしそれが正しいとすれば、船 木氏の語彙を用いれば、ハートが「ベンタムが功利的であるというのは誤解だ」 と言ったことになる。


批判2: 船木氏は功利原理と心理的ヘドニズムを混同しているのではないか。 すなわち、船木氏は、ベンタムがこの「快を求め苦を避ける」という人間本性 を功利の原理と呼んだ、と考えているのではないか。

人間が功利の原理に従うということは、ただひたすら、快を求め苦を避けると いう形式で行動するということなのである。(19頁)

「功利の原理」とは、人間を動物性において捉え、快苦から人間の実践と認識 の一切を理解させようとする原理のことである。…ベンタムは、このようにし て、デカルト的コギトの地位に快苦をすげかえて、別のひとつの原理からすべ てを解釈できるような体系を構築しようとしていたとはいえないであろうか。 (34頁)

(功利原理――正・不正の基準、心理的ヘドニズム――人間本性)
功利原理とは、『序説』の第一章にあるように、「その利益が問題になってい る人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見え るかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、 その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえ るかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する」(山 下訳 82頁)であり、また、人間が功利の原理に従うということは「ある行為ま たはある政策に対して与える是認または否認が、社会の幸福を増大させ、また は減少させるとその人が考える傾向によって決定され、またそのような傾向に 比例してなされる場合」(山下訳84頁)である。

(未完成)

(こだま さとし 京大文学研究科倫理学専攻修士2回生)


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Aug 4 15:15:42 JST 1998