千葉大資料集用論文 (PDF版はこちら)
児玉 聡
本論文の目的は、 プロ・ボクシングを法によって禁止すべきだ、 あるいはそのルールを変更すべきだという主張に対してなされる反論(存続論) の主な論点を整理し、批判することである。
存続論の主な論点は、次の九つにまとめられる。
以下の本論ではこれらの議論を順に検討するが、 それぞれの議論は比較的独立しているので、 どれから先に読んでもかまわない。 もっとも重要な議論は8と9であり、 それゆえ他の議論よりもくわしく検討してある。
本論文における重要な主張は二つある。 一つは、「ボクシングを禁止すべきだというのなら、 ほかの多くのスポーツも禁止しなければならないことになる」 という8の議論は成り立たないということである。 もう一つは、 「他人に危害を加えないかぎり、何をしてもよい」 という自由主義的立場からボクシングを擁護する9の議論は、 かなり過激な含意を持つということである。
本論に入る前に、いくつか注意点を述べておく。
(1) 廃止論の主な論点は以下の三つにまとめられる。 これらの論点は、存続論の議論を検討するさいに説明する。
(2) この論文において、「ボクシング」とは、 KO、TKOを含めた現行のルールにしたがったプロ・ボクシングのことであり、 とくに断わらないかぎり、 より安全を重視したルールで行なわれるアマチュア・ボクシングは含まない。
(3) 廃止論といっても、 プロ・ボクシングとアマ・ボクシングの両方を廃止すべきだという強硬路線を となえる立場から、 プロにおいてもアマチュア同様にヘッドギアの着用を義務化したり、 あるいは頭部への攻撃を禁止すべきだと主張する立場まで、 さまざまな立場が含まれる。 みながみな、1か0かという極端な議論をしているわけではないので注意されたい。
(4) 本論文を執筆するにあたっては、先行文献がすくないため、 多くの議論はBBCや英国の新聞の社説などに見られた意見を参考にしてまとめた (それぞれの議論の名称は筆者がつけた)。 また、のちの便宜のために、 参考文献にはまだ入手できていないものも挙げてある。
最後に、本論文を草稿の段階で読み、 有益なコメントをくれた先輩や友人に感謝の意を記しておく。 江口聡氏、江上正明氏、林芳紀氏、佐々木拓氏、 三輪恭久氏、森本誠一氏、Ms Tang ReFeng、Ms Ashley Lee。
この議論は、もしボクシングを法律によって禁止するならば、 麻薬や賭博のように闇(あるいは国外)で行なわれることになる、 というものである。 また、地下に潜行した場合、試合の規則がいいかげんになり、 素手での試合が行なわれたり、 さらにケガをした場合に医療スタッフが待機していなかったりする可能性があるので、危険が増す、と論じられる。
たしかに、あることを法律で禁止した場合に、 禁止しなかった場合よりも害悪が増すならば、 禁止すべきでない一つの理由になる。 たとえば、人工妊娠中絶を禁止することによって 非合法で不衛生な中絶がひんぱんに行なわれるようになるならば、 禁止に反対する理由になるであろう。
しかし、 「法律で禁止すると、地下に潜行するので禁止すべきでない」 という議論が、 タバコや麻薬について当てはまるかどうかが疑わしいように、 ボクシングについても、 この議論が説得力を持つかどうかは明らかでない。 というのも、妊娠中絶の場合とは異なり、 ボクシングの場合は完全に消滅する可能性も多分にあるからである。 そういうことは絶対にありえないと主張する人は、 根拠のうたがわしい人間観に基づいている (6の人間本性論を参照せよ)。 なるほどボクシングが法によって禁止されたあと、 一時的に違法ボクシングがさかんになる可能性もあるが、 警察による適切な取締りを行なうことにより、 闘鶏やクマいじめ(bear-baiting)と同様に事実上消えさることも十分に考えられる (The Guardian, `Ban this barbaric sport')。 また、反対に、ラドフォードが示唆しているように(Radford 1988: 81)、 現在、プロ・ボクシングが非合法のボクシングを促しているという議論も成り立つ。 この点をどうしても確かめたいのであれば、 たとえばボクシングを10年間試験的に廃止して統計を取ってみればよいであろう。
まとめると、法律によってボクシングを禁止することにより、 非合法なボクシングがさかんになるかどうかは明らかでないので、 この議論は説得力をもたない。
この議論は、ボクシングは民衆の支持を受けているのだから、 廃止すべきではない、というものである。 たとえば、次のように述べられる。 「文明化された感性を持つ人たちは、民衆が不快感を示すか、 ボクシング界が腐敗によって自滅することにより、 このスポーツが消滅することを望んだかもしれないが、 実際には正反対のことが起きているようである。 とくに、英国のボクシングはルネサンスを迎えている。 ボクシングは野蛮であるが、廃止すべきではない」 (The Independent, `Boxing is barbaric - but it should not be banned')
しかし、実際にボクシングが民衆の支持を受けているかどうかは明らかでない。 英国について言えば、ルネサンスを迎えるどころか、 すでに衰退の一途を辿っているという意見も見られる (The Times, `The final round')。 ボクシングを支持する一定数の人々が存在することはまちがいないが、 もし民衆の支持ということによって、 過半数の支持が意味されているのならば、 死刑制度の是非の場合と同様に、 世論調査を行なって確かめるべきであろう。
また、たしかに民衆の支持はボクシングの廃止、 存続を決めるさいの重要な根拠であるとはいえ、 たとえ人口の過半数がボクシングの存続を支持していたとしても、 それが存続を支持する決定的な理由になるとは限らない。 たとえば、奴隷制がたとえ民衆の支持を受けていたとしても、 人権を侵害するという理由で禁止されるかもしれない。 この場合、 民衆の支持という理由を圧倒するような理由が ボクシングにおいてあるかどうかが問題になるが、 8と9の議論がそうした理由を提供する可能性がある。
一口にいうと、 ボクシングに対する民衆の支持があるかどうかは明らかでなく、 また民衆の支持は、それよりも強い反対理由によって圧倒される可能性がある。
この議論は、 ボクシングは貧民街に育った少年が悪人になることなく、 まっとうな道を歩むための、 唯一ではないにせよ数少ない貴重な方法だというものである。 たとえば、 昨年12月のIBFフェザー級タイトルマッチの最終12ラウンドにおいて、 チャンピオンのポール・イングルが脳出血を起こして倒れ、 試合後に緊急手術が行なわれるという事件があったが、 1998年に同様の事故によって引退したスペンサー・オリバーは、 この事件について次のように語っている。 「おれたちがボクシングを始めた理由は、 生きていくのが困難で、 しばしば他には何もやれることがないような環境で育ったからだ。 だが、このスポーツはおれたちにいろいろなものを与えてくれる。 ボクシングはおれに家を与えてくれたし、 他の方法ではかせげないような大金も与えてくれた。 ポールだって同じことさ」 (The Guardian, `It was like watching myself in there')
オリバーの意見には共感するところがあるものの、 この議論にはいくつか問題がある。 一つは、かりにすべてのボクサーがこのような環境から育ったと仮定しても、 貧民街に住む少年の全員がボクサーになるのではないかぎり、 貧民街の問題の根本的な解決にはならないことである。 社会的な見地からすれば、 貧民街から脱出する手段としてボクシングを奨励するよりも、 貧民街の状況を改善するという根本的な解決を主張すべきである。 もちろん、 ボクシングは同じ貧民街に住む女性にとってはほとんど救いにならない。
これに対しては、 「たしかに、いつか貧民街がなくなれば理想だろう。 だが、貧民街は現に存在し、 少年たちは抜け道としてのボクシングを必要としている」と反論されるかもしれない。 しかし、ボクシングが唯一の抜け道であるわけではない。 また、たとえスペンサー・オリバーやポール・イングルが少年だった時代には ボクシングが「唯一の抜け道」だったとしても、 今後もそうあるべきであるとは言えない。 たとえば、 ボクシングをやるよりも音楽やバスケットボールをするの方が望ましいのであれば、 政府はボクシングを禁止して、 より多くのジェームズ・ブラウンを生み出すか、 より多くのマイケル・ジョーダンを生み出すかする努力をすべきである。
まとめると、ボクシングは貧民街を抜けでる唯一の方法ではかならずしもなく、 ボクシングよりも望ましい他の方法があるのならば、 政府はそれらの方法を奨励すること、 また、より根本的には、貧民街そのものの状況を改善することができる。
この議論は、 ボクシングは身体だけでなく精神をも鍛えるための優れた方法だというものである。 「功利主義と拳闘(`Utilitarianism and the Noble Art')」 という論文でラドフォードは、 「ボクシングは、勇気、同情、自己知、 意志の堅さといった道徳的徳を実践するための機会を与える」 とボクシングの徳について語っている(Radford 1988: 79)。
また、ボクシングが持つ不良少年の矯正効果についても熱心に論じられており、 ある新聞記事には次のようなインタビューが紹介されている。 (ボクシングジムに通う15才の少年に対して) 「ジムに来る前には何をしてたの」 「本物のいじめっ子だった。しょっちゅう学校から追い出されてた」 「ジムで何を学んだの」 「規律」 「今は学校ではどんなふうに過ごしているの」 「自分を律してます」 (The Guardian, `Poverty, not pugilism, hits the hardest')
プロ・ボクサーの中にはマイク・タイソンのような「規律」 を身につけているかどうか疑わしい選手もいるものの、 ボクシングが一般に身体だけでなく精神をも鍛えるのはおそらく事実であろう。 しかし、規律を養うことは、なにもボクシングだけの専売特許ではなく、 柔道や剣道、マラソン、その他のスポーツにも共有される特徴である。 規律という面だけに照明をあてるならば、 軍隊に参加することも規律を学ぶためのよい方法かもしれない。 しかし、 われわれはこの理由だけから自分の子供を軍隊に参加させるよりは、 むしろ、より安全なスポーツをすることを勧めるであろう。 同様に、もしボクシングと同様に規律を養うスポーツがあり、 ボクシングが持つ望ましくない特徴を免れているならば (たとえば、以下の暴力奨励論を見よ)、 あるいは、そちらの方が危険が少ないとか、 女性も参加できるなどの優れた特徴があるならば、 そちらが優先されてしかるべきである。
また、真剣あるいは木刀で試合するプロ剣道というものがなくても、 剣道は一定数の少年少女を集め、教育に役立っていると考えるならば、 ボクシングが少年の教育に役立つという議論に関するかぎり、 プロ・ボクシングを廃止してもほとんど影響はないかもしれない。 さらに、成人ボクサーの精神修養に関しても、 アマチュアのルールでは十分に精神を鍛練できないと言えるかどうかは明らかでない。 だとすれば、 この規律論はプロ・ボクシングを 現行のまま存続させる有効な議論にはならないことになる。
さらに、 「ボクシングによって規律を身につける人もいるかもしれないが、 より暴力的になる人もいる」という反論もありうる(暴力奨励論)。 リングの上とはいえ、 二人の人間がときに血を流しながら殴りあうだけに、 フィクションである暴力的な映画や音楽よりも子供に悪影響を与えかねない、 というわけである。 もちろん、実証的なデータがなければこの議論は説得力を持たないであろうが、 もしこの論点が認められるのであれば、 ボクシングの持つ欠点の一つと考えられる。
まとめると、 ボクシング以外にも身体と精神を鍛える有効な方法はいくつもあり、 それらの方がボクシングよりも優れた特徴を備えているならば、 この議論はボクシングを存続させる有効な議論とは言えない。 また、この目的のためにプロ・ボクシングが必要かどうかは明らかでない。 さらに、この議論は、 ボクシングは暴力を奨励するという議論と相対的に考える必要がある。
この議論は、ボクシングがなければ、 モハメド・アリも、 マイク・タイソンも、 ロッキーも、 矢吹丈も力石徹も生まれなかっただろう、 そこで今後も偉大な英雄を生みだすために、 ボクシングは廃止すべきではない、 というものである。
こうしたボクシングの英雄が、 多くの人々の生き方に影響を及ぼしたことはうたがいがない。 しかし、この議論は本末転倒である。 たしかにボクシングがなければ英雄モハメド・アリは生まれず、 モハメド・アリがいなければボクシングの歴史だけでなく、 米国の市民権運動の歴史も変わっていたかもしれない (モハメド・アリについてはラドフォードが彼の論文において 熱心に論じているので(Radford 1988: 73-77)、そちらを参照されたい)。 しかし、同様の議論が戦争についても成り立つ。 フランス革命がなければナポレオンは登場せず、 ベートーベンの名曲、ダヴィドの名作の数も減ったかもしれない。 第二次世界大戦がなければ『アンネの日記』は生まれず、 多くの少年少女は彼女の感動的な日記を読む機会を奪われたかもしれない。 しかし、だからといって新たなナポレオン、新たなアンネを生むために 戦争をすべきだという議論を主張できるだろうか? われわれには英雄あるいは目指すべき理想的人物が必要かもしれないが、 もし戦争のように多くの死者や身体および精神障害者を出すことなく そのような人物を生みだす方法があるとすれば、そちらを選ぶべきであろう。 同様に、もしボクシングには重大な欠点があり、 たとえば柔道の方が多くの点で好ましいとするならば (8と9においてそうであることを主張する)、 われわれは第二、第三の矢吹丈や力石徹ではなく、 第二、第三の山下泰裕や田村亮子を期待すべきであろう。
まとめると、ボクシングがこれまで偉大な英雄を生み出だしてきたとしても、 英雄を生み出すために戦争を行なうべきだとは言えないように、 英雄を生み出すためにボクシングを存続させるべきだとはただちには言えない。
この議論は、闘争本能は人間の本性に根ざしたものであるから、 ボクシングを禁止することによってこの本能を抑圧するよりもむしろ、 ボクシングを存続させることによって動物的欲求の「はけ口」 にした方がよい、という議論である。たとえば次のように述べられる。 「ボクシングを非合法化しようとしている人々は、 ある衝動 --法の届かない巣窟へと駆り立てるよりも適切に管理すべき古来の人間的欲求-- を禁止しようとしているように思われてならない。[...] ボクシングの禁止はアルコールの禁止と同じくらい成功しそうにない。 本能は立法によって消滅させることはできない」 (The Daily Telegraph, `Boxing Comment: Tragedy no reason to abolish noble art')
この手の議論はしばしば売春の合法化においてももっともらしく用いられるが、 ボクシングを正当化する議論として用いられた場合には、 すくなくとも三つの問題がある。 第一に、この闘争本能と呼ばれるものが、 本当に人間に本性的なものなのかどうかわからない。 もし本性的なものならば、どうして多くの人(とくに女性) はボクシングに参加しないどころか、試合を見ることもしないのだろうか。 むしろ、 そのような暴力的傾向は、 人々の育つ環境によって獲得されるものだとは言えないだろうか。 第二に、 たとえこの暴力的本能が生得的なものだとしても、 ボクシング以外の手段(その他のスポーツや教育) によっては昇華させることができないと主張することは困難であろう。 たとえば、レイプや殺人でしかこの本能を満足させることができない、 という人がいたらその人は異常であると考えられるように、 ボクシングのリングに立ち相手を打ちのめすこと(あるいはその様子を見ること) によってしかこの欲求を満たすことができない、 という人がいるならば、 やはり異常と判断されるべきなのかもしれない。 第三に、この暴力的衝動が、ボクシングをすることによって昇華されるのか、 あるいはさらに促進されるのかもあきらかでない (この点は、4で述べられた暴力奨励論を参照せよ)。
なお、この論点に関係する廃止論側の主張として、 この暴力的衝動をどう処理するかによって文明の度合が決まるとする議論 (文明・野蛮論)があるので紹介しておく。 この議論によれば、闘鶏や公開処刑、そしておそらくはボクシングなどによって このような欲求を満たす社会は野蛮で、 テニスやゴルフ、ビリヤードなどによって闘争本能を昇華させる社会は文明的である。 しかし、 路上での喧嘩に比べると格段に洗練された規則を持つボクシングが 野蛮であるかどうかは議論が分れるところであろうし、 たとえ野蛮であったとしても、 野蛮であることがなぜ悪いのか(たとえば性行為は野蛮でないのか)、 またすべての野蛮な行為は法によって禁止すべきなのか、 と問われた場合に、廃止論者はさらなる根拠を提示する必要があるだろう。
まとめると、闘争本能が本当に本能なのかは明らかでなく、 たとえそうだとしても、ボクシングだけがその本能を満たす(あるいは昇華させる) 方法ではないし、 ボクシングによって暴力的欲求が鎮静するのか増大するのかも明らかではない。
この議論は、ボクシングは危険なスポーツであるという批判に対する反論であり、 たとえボクサーが脳出血などの重症を負ったとしても、 緊急治療体制が整っているので危険は少ない、というものである。 先に述べたポール・イングルの事故においても、 英国ボクシング規制委員会 (The British Boxing Board of Control)は、 1991年に同様の事故が起きたさいの処理の悪さを反省した結果、 イングルがノックダウンされてからわずか45分後に手術が開始されたという事実を 強調して、 ボクシングに対する批判をかわそうとしている。 (The Daily Telegraph, `Safety first name of game but questions still need answers')
この議論に対する批判を二つ挙げる。 ひとつは、治療体制が整っているとはいえ、 脳出血などの深刻なケガを負ったボクサーが完全に治癒するとは限らない という点である。 イングルに関して言えば、 たしかに彼は敏速な処置を受けたおかげで死ぬことはないかもしれないが、 ふたたびボクシングをできる体にはならないどころか、 通常の生活ができるようになるかどうかもわからない。 それに、急性の脳損傷(acute brain damage) についてはこのような弁護ができるかもしれないが、 それと同じくらい深刻な問題である慢性の脳損傷(chronic brain damage)、 いわゆる「パンチドランカー症状」については同じ議論は当てはまらない。 この点に関しては英国ボクシング規制委員会の主張は一面的であり、 しばしばボクサーたち自身が認めているように、 リングに上がることは常に脳障害をこうむる可能性に直面することを意味している (The Guardian, `Crucial hour can save a boxer's life - and health')。
もう一つは、 事故が起きた場合の緊急治療体制が整っていることはたいへん望ましいが、 だからといって事故が起きることが望ましいことにはならないということである。 「予防は治療にまさる(prevention is better than cure)」と言われるように、 なるべくならば事故が起きる原因をなくすことに努めるべきである。 かりに医学技術の発展によって、 ボクサーが脳出血を起こした場合にかならず完治するようになったとしても、 ボクシングにおいて頭部への打撃を積極的に擁護する理由がなければ、 頭部への打撃を認めるべきではない。 この意味で、 敏速な治療論は弱い議論であり、 ボクシングを擁護するにはほかの積極的な理由を必要とする。
まとめると、ボクシングは危険だという批判に対してなされる 「ケガをしても治るから大丈夫」という反論に対しては、 現在のところボクシングにおける深刻なケガが完治するとはいいがたく、 また、たとえ治療が完全になったとしても、 その理由だけでは、 ボクシングにおいて深刻なケガが生じることが正当化されるわけではないと 応じることができる。
この議論は、どんなスポーツにせよ、 事故の危険は避けられないのだから、 もしボクシングは危険だという理由からこのスポーツを廃止するのであれば、 あらゆるスポーツ--あるいは、危険な行為すべて--を廃止せねばならないことになる、 というものである。 先のシドニー・オリンピックでスーパーヘビー級の金メダルを獲得した オードリー・ハリソンは、次のように述べている。
ポール・イングルの事故を知っても、 プロに転向することをやめるつもりはない。 飛行機で空を飛ぶことと比べてみるといい。 だれもが、世界のどこかで事故が起こることを知っている。 だけど、みんな、あいかわらず飛行機に乗って旅をする。 自分が乗っている飛行機が事故に遭う可能性は非常に低いからだ。 ボクシングのリングに上がることも同じだ。 だれかが、世界のどこかで、リング上で意識を失なって倒れることがあり、 不幸なことに、命を落すやつもいる。 けれど、統計的に言って、そういうことが起きるのはまれで、 その点から言えば、ボクシングをすることは理に適っている。 おれはプロに転向して、プロ・ボクサーとしてやっていくつもりだ。 (The Times, `Boxing: Ingle tragedy reopens old wounds for boxing')
また、ボクシングよりも危険なスポーツがあることはよく指摘される点で、 たとえば、ナイジェル・ウォバートンによると、 1986年から1992年のあいだにイングランドとウェールズで起きた ボクシングの死亡事故は3件であるのに比べ、 自動車・二輪車関係のスポーツでは77件、 飛行関係のスポーツでは69件、 登山関係のスポーツでは54件、 球技関係では40件、 乗馬では28件あったとされる(Warburton 1998: 57)。
この議論はボクシング廃止論に対してなされるもっともよく見られる反論であり、 この議論がボクシング廃止論の息の根を止める決定的理由になると 考えている人が少なからずいるようだが、 そういう人の多くはボクシング廃止論の重要な論点をまったく捉えそこねている。 たしかに、 参加者の大半が死んでしまうような非常に危険なスポーツでもないかぎり、 事故が起きるからという理由のみからあるスポーツを禁止するのは難しい。 たとえば、 単に事故が起きて危険であるという理由からボクシングを禁止するとすれば、 すべてのスポーツを禁止することになるであろう。 また、 たとえ毎年一名以上の死者が出るようなスポーツを禁止するという条件であっても、 スキー、乗馬その他相当数のスポーツが禁止されることになろう。 同じ理由が自動車交通や飛行機にもあてはまるとすれば、 われわれは何もできないことになる。この理屈は正しい。 しかし、 ボクシングを廃止せよと主張する者(の多く)は、 それほど単純な主張をしているわけではない。 彼らは、単に危険だから廃止せよというのでもないし、 単にかなり危険だから廃止せよというのでもない。 彼らは、ボクシングが他のスポーツにはない固有の特徴の持つと考えており、 その特徴のゆえにボクシングは廃止すべきだと考えているのである。
ボクシングを他のスポーツから区別する特徴とは、 ボクシングにおいては、いわゆる「事故」が、 ゲームの勝敗のルールと分かちがたく結びついているということである。 すなわち、ボクシングにおいては、相手に勝つためには、 すくなくとも10秒間のあいだ立ち上がれないほどの打撃を、 相手の頭および上半身に与えつづけなければならない。 ようするに、相手がフラフラになってぶっ倒れるまで殴りつづけた方が勝ち、 というルールである。 (もちろん、試合続行が不可能と見られた場合はTKO(テクニカル・ノックアウト) という判断がなされたり、 最終ラウンドが終わっても勝敗がつかない場合はポイントを多く取った方が 勝利するが、上のルールがあることには変わりない) このルールが、 マラソンやサッカーやテニスの勝敗のルールと異なるのは明らかであるが、 相手を土俵の外に押し出すか倒すかすれば勝ちという相撲のルールや、 技が決まれば勝ちという柔道や剣道あるいはフェンシングのルールとも 異なるということを理解しなければ、 ボクシング廃止論者の論点を捉えそこねることになる。 ボクシングの場合は、いわゆる「事故」が、 ルール上相手に勝つために必要な行為から生まれる意図的なものだという点で 相撲やサッカーにおける事故とは決定的に異なっている。
1985年以降ボクシングの完全廃止を唱えている英国医師会 (British Medical Association) の公式見解においてもこの趣旨のことが述べられている。
危険の高いスポーツ活動はたくさんあるが、 ボクシングが他のスポーツと異なるのは、 このスポーツの目的が相手の意識を失なわさせることであり、 これが脳の損傷につながる。 英国医師会は意図的に脳と目に損傷を与えることを 正当化することはできないと考えている。 損傷の影響は蓄積的なので、 闘えば闘うほど、傷害をこうむる可能性が高くなる。 (The Times, `Boxers `know risks when they get in ring'')
上のような意見に対して、ボクサーは相手を殴るさいに、 相手を倒すことを意図しており、 たとえ脳に損傷を与えることを予想はしても意図しているわけではないし、 ましてや相手の死ぬことを意図しているわけではない、 と反論されるかもしれない。 しかし、この反論は受けいれがたい。 たとえばラドフォードは--のちに見るように彼はボクシング存続論者なのだが--、 このような二重結果論は成り立たないとして、 次のように述べている。 (二重結果論 the doctrine of double effectとは、 行為者は意図した結果にのみ責任を持ち、 起こることが予想されたが意図しなかった結果に対しては 責任を持たないという議論である。 典型的な例として挙げられるのは、 医者が患者の痛みを和らげるためにモルヒネを投薬した場合、 たとえそれによって生命を縮めることが予想されたとしても、 後者の結果(生命が縮まること)に対しては医者は責任を持たない、 という例である)
はっきりさせておこう。ボクサーの意図は勝つことであり、 勝利を得ることができるのは、彼は相手をノックダウンするか、 より多くのポイントを得ることによってのみであり、 これをなすことができるのは、自分が受けるよりも多くのパンチを、 よりあざやかなパンチを、 より効果的なパンチを相手に与えることによってのみである。 そして、そのために彼は、一つには、[...]、 相手を思いきり殴って、 相手から効果的な応戦のパンチを打つ能力を奪おうとするのである。 それゆえ、ボクサーは、相手を傷つけることを望んでおり、 そうすべく試みているのである。
わたしが主張しているのは、 ボクシングを擁護するために二重結果論を用いることはできないということである。 というのは、ボクシングの結果とボクサーのプロとしての意図は、 同胞である人間を傷つけ、一時的に無能力にさせることだからである。 こうすることによる帰結は、永続的な損傷、 それもしばしばとくに好ましくない種類の損傷、 すなわち脳損傷である可能性があり、そして実際にそうであるときもある。 脳損傷は深刻な場合は、死に至る可能性もある。 (Radford 1988: 69-70)
ボクサーが相手の顔面を思い切り殴るのは、 (不適当な例かもしれないが)女性が怒って男性の頬をひっぱたくのとはわけがちがう。 女性は男性が10秒間立ち上がれなくなることを意図して殴るのでは (おそらく)ないだろうが、 ボクサーはまさにそれを意図しており、 ボディではなく頭部を殴るのは、 脳をゆすぶるためである。 したがって、たとえ相手を死なせることは意図していないとしても、 相手の脳に損傷を与えることを意図していないというのは、 「意図」という言葉を相当曲解しないかぎり無理である。 ボディに対する攻撃についても同様であり、 やはり身体に損傷を与えることを意図していると言える。
また、相撲やサッカーにおいても、 意図的に相手に損傷を与えることがあるという反論がなされるかもしれない。 もちろん、相撲やサッカーにおいても、 相手にケガをさせることを意図して攻撃することはあるだろうが、 そのような行為は、 勝つための不可欠な手段として、 勝敗を規定するルールによって要求されているわけではない。 むしろ、相手のケガを意図した行為は、 しばしばルールからの逸脱と考えられる。 たとえばサッカーならば、 ボールを持った相手を倒すことを意図したスライディング・タックルは反則になる。 ところが、ボクシングの場合は、 相手を殴ることがまさにルールによって要求されているのであり、 逸脱であるどころかルールに則って勝つための正しい方法なのである。
以上をまとめると、 ボクシング廃止論に対してなされる 「スポーツに危険はつきもの」という反論は、 廃止論者が主張しているボクシングの特異性を見逃している。 ボクシングは 「相手の身体に意図的に深刻な損傷を与えることがルールによって要求されている」 という点で、他のスポーツと異なる。
この論点から、 ボクシング廃止論の一つの議論(他者危害論) を組み立てることができる。 一般に、ある行為が他者に危害を与えるものであることは、 その行為を法的に規制する根拠になる。 また、ある規則が、それに従う者に対し、 他者に危害を与えることを要求するものであることは、 そのような規則を法的に規制する根拠になる。 そして、上で見たように、 ボクシングのルールは、 選手がおたがい相手に深刻な危害を与えることを要求する。 したがって、そのようなルールを持つボクシングは廃止すべきか、 あるいはそのルールを変更すべきである。
この他者危害論に対する重要な反論が次で述べられる自由主義的同意論である。
この議論は、 成人がリスクを承知で自発的同意によってボクシングに参加しているのであるから、 法によって禁止するのは誤っているというものである。 たとえばラドフォードは、J.S.ミルの自由主義の立場から、 次のようにボクシングを擁護している。
もしこうした危険、苦痛、さらには苦難が、自分のものであるならば、 またそれらを自発的にかつ危険を承知のうえで選んでいるのであれば、 そして他人に危害を与えないのであれば、われわれは、 道徳的に、そうした危険をともなう活動に参加することが許されるべきである。 というのは、そういった活動を禁止することは、 われわれの自由と幸福に干渉するだけでなく、 人間の生の完全さと強烈さを減じることによって、 人間の生を小さくすることになるからである。
そこで、ボクシングが自由に選ばれ、 このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず、 また彼らが危険を承知しているならば、 ボクシングは[…]禁止されるべきではない。 (Radford 1988: 79)
この議論はおそらくボクシング存続論のなかでもっとも強力な議論だと思われるが、 8で行なわれた議論を考慮に入れると、大きな問題点をはらんでいることがわかる。 それを説明する前にまず、自発的な同意について一言述べておく。 自由主義的同意論が成立するためには、 ボクサーは危険を十分に承知で、しかも自発的に同意する必要があるが、 この点を疑問視することは可能である。 とくに、3のスラム脱出論においては、 ボクシングは貧民街に住む少年がまっとうな人生を歩むための ごく限られた選択肢の一つだと主張されたわけであり、 この主張をしながら、自由主義同意論をも唱える人は、 苦しい立場に陥いることになる。 そうした少年たちは、危険を承知の上で、 自発的同意をしたと本当に言えるのだろうか?
しかし、議論を進めるために、 ボクサーたちは一般に自発的な同意をしているとしよう。 すると次に、彼らがいったいどういったことに同意をしているのかが問題になる。 自由主義的同意論を主張する人の多くは、 8で論じられたボクシングの特異性を認めているように見えるが、 本当に理解しているのかどうかはうたがわしい。 たとえば、8でみたように、ラドフォードはボクシングの目的が 「相手に意図的に危害を加えること」だという点で 他のスポーツと異なることを認めたうえで、 自由主義的見地からボクシングを正当化している。 そこで、直前の引用においては、 第一段落においては「他人に危害を与えないのであれば(do not harm others)」 と書き、 次の段落においては「このスポーツに従事することを選んだ者以外はだれも傷つけず (harms no one but those who have chosen to engage in it)」 と述べている。 一見すると、この二つの文は、ミルの危害原則Harm Principle、 すなわち「文明社会の成員に対し、 彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、 他者にたいする危害の防止である」(ミル 1979: 224) という原則のパラフレーズのように見えるが、 両者は厳密には同じではない。 なぜなら、 前者は他人に危害を与えないならば何をしてもよいという主張であるが、 後者は他人(スポーツに従事することを選んだ者) に危害が加わることが含意されているからである。 いいかえると、ボクシングの場合は、 「自分のこぶしをふりまわす自由は、 他人の鼻の先までである(My freedom to swing my fist ends where your nose begins.)」という自由主義の格言は通用しない。 というのも、ボクサーたちが自発的に同意しているのは、 「自分が頭部を殴られて脳に損傷が生じてもかまいません」 という主張ではなく、 「相手に危害を与えるかわりに、 自分が頭部を殴られて脳に損傷が生じてもかまいません」 という主張だからである。
ラドフォードも先のウォバートンも、 自分がミルの立場の延長線上にいると考えているようだが (Radford 1988: 80; Warburton 1998: 59)、 「相手に危害を与えるかわりに、 自分が頭部を殴られて脳に損傷が生じてもかまいません」 というボクサー同士の契約を、 ミルが認めるかどうかは明らかでない。 もちろんミルは、 「幾人かの人々が彼らに共通に関係し、 彼ら以外の人々には関係しないようなことを 相互の同意によってとりきめる自由があること」(ミル 1979: 332) を認めている。 しかし、ミルは、 ウォバートン(Warburton 1998: 59) が引いているローマ法の格言volenti non fit injuria、 すなわち「同意あれば危害なし」という主張に全面的に同意するわけではない。 というのは、 彼は「その契約が彼ら自身にとって有害である」(ミル 1979: 333) ならば契約は無効になるとしているからである。 ミルはこの一例として、奴隷になる契約が、 自由を放棄することは有害であるという理由から、 無効であることを述べている。 すなわちミルは、 自由主義的同意論に関しては、 他者の危害(契約の場合は第三者の危害)にならないかぎり、 という例外規定だけでなく、 当事者にとって有害ではないかぎり、 という例外規定をも設けているのである。 この例外規定にある「有害である(injurious)」 が何を意味するかはあいまいであるが、 少なくともこの例外規定があるかぎり、ミルが、 他者に危害を与えることを意図するボクシングを、 契約をかわしている当事者同士にとって有害でないと言うのかどうかは明らかでない。 (また、日本や英国の法律においても、「同意あれば危害なし」 という原則が常に適用されるわけではない。 これに関するおもしろい例はサドマゾヒズム、いわゆるSMで、 たとえば英国では、SMプレイをしていた15人の成人が、 ケガをすることについて同意があったにもかかわらず、 暴行罪が成立したという事例がある(Warburton 1998: 59)。 また日本でも、SMプレイの一環として、 ナイフで腹を刺してくれとたのまれたので、 死ぬことを予期して刺したら本当に死んでしまい、 嘱託殺人罪に問われたという事例がある。)
かりに、ボクシングは、ミルの「その契約が彼ら自身にとって有害である」 という例外規定によって禁止されないとしよう。 しかし、この場合、 ローマの剣闘士スタイルの戦闘や、 お互いのこめかみに銃口を当てて交互に引き金を引く変則ロシアンルーレットを 行ないたいという人がいるなら、 ボクシングを許す一方でそうした行為を禁止することはできるだろうか (こめかみというのがあまりに過激のように思われるのであれば、 相手の手を打ち抜くというのでもよい)。 お互いに脳に損傷を与えることを意図するボクシングは当事者にとって有害でないが、 お互い脳を打ちぬくことを意図するロシアンルーレットは当事者にとって有害である、 と主張するのは難しいように思われる。
また、われわれは何もミルに従う必要はない。 実際、上の例外規定を忘れているように思われるラドフォードは、 自由主義的同意論を極限まで押しすすめる気構えがあるようである。 彼によれば、自発的同意があれば、あらゆる危険なスポーツも許されるだけでなく、 拳銃による戦いも許される(Radford 1988: 80)。 こうなってしまえば何でも許されるわけで、 ローマの剣闘士スタイルの戦闘も変則ロシアンルーレットも問題がないだけでなく、 奴隷になるという契約も許されるし、 もちろん麻薬の売買も賭博も(第三者に危害を与えないのであれば) 禁止すべきでないことになる。 しかし、 自由主義の立場からボクシングの存続を主張する人のどれほどが、 このような社会を望んでいるのだろうか。
このようにして、 ボクシングを容認するかどうかは、 自由主義をどこまで追求するつもりがあるかを試す試金石になることがわかる。 「その契約が彼ら自身にとって有害でないならば」 というミルの例外規定を認めたうえで 「ボクシングは有害ではない(この例外規定に当てはまらない)」と主張するにせよ、 あるいはこの例外規定をまったく認めないにせよ、 ボクシングを容認するならば、 多かれ少なかれラドフォードと同様の過激な自由主義的立場を受けいれざるをえない。 もしわれわれがそうした過激な自由主義的立場を受けいれるつもりがないのであれば、 ボクシングの是非についてもう一度よく考えてみるべきである。
以上をまとめると、 当事者間の自発的な同意があるからという理由でボクシングを容認すべきだ という議論には、二つ問題があり、 一つは同意の自発性が真性なものと言えるかどうかである。 もう一つは、 このスポーツを容認することは、 「同意があれば、相手に危害を与えることが許される」 という原則を(ほぼ)例外なく受けいれることを意味し、 その結果、過激な自由主義の立場を取らざるをえなくなることである。
以上、 ボクシングの存続を支持するさいにしばしば用いられる議論を整理し、 批判してきた。1から7までの議論は、 現行のルールでボクシングの存続を支持する決定的な理由にはならない。 そのような決定的理由としてよく主張される8の「スポーツに危険はつきもの」論は、 「相手の身体に意図的に深刻な損傷を与えることがルールによって要求されている」 というボクシングの特異性を見落としており、 その結果廃止論者の重要な論点(他者危害論)を理解しそこねている。 最後に、9の自由主義的同意論については、 この議論を簡単に退けることはできないものの、 ボクシングを容認することに含まれる自由主義の過激な帰結をどう受けとめるか、 という大きな問題をはらんでいることを指摘した。
終わりに、本論でふれなかった点を二点述べておく。 一つは、 今回は基本的にプロ・ボクシングを完全に廃止すべきかどうかという議論に終始し、 ヘッドギア着用、 頭部に対するパンチの禁止などの法規制についての議論はふれなかったので、 簡単に紹介する。 英国では、アマチュア同様、 プロ・ボクシングでもヘッドギアの着用を義務づけよという議論があるが、 ヘッドギアは視野を狭めるだけでなく、 脳への衝撃を増幅させる効果があると言われており、積極的に支持されていない。 また、 法規制によって下半身だけでなく頭部に対する攻撃も禁止することが 英国医師会や一部の国会議員によって真剣に主張されているが、 このような措置によりボクシングの醍醐味が失なわてしまうと危惧する人も多く、 事実上の廃止につながる可能性もある。 (また、そうなることを意図して主張しているようにも見える。 この点は、アマチュアのルールを採用せよという意見も同様である)
もう一つは、 ボクシングのルールと似たルールを持つ他の格闘技についてである。 英国医師会のように、 「相手の身体に意図的に深刻な損傷を与えることがルールによって要求されている」 という理由をもとにしてボクシングの廃止を主張する者は、 同様なルールを持つ格闘技はすべて、 他に重要な違いがないとすれば、 廃止すべきかルールを変更すべきだと主張することになろう。 もう少し具体的な基準を示すならば、 勝敗の基準として、一定の時間(たとえば10秒間)、 疲労あるいは意識消失が原因で自力で立ち上がることができなければ負け、 というようなルールを持つ格闘技は、そのルールを変更するか、 廃止すべきことになる。
注: BBCおよび新聞の記事については、 関連リンクの方に出典を記してある。
(こだま さとし 京都大学大学院文学研究科
日本学術振興会特別研究員)
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