ギターと人間は比べられるか

日記論争


  1. 11/09/96の日記
  2. 反論
  3. 11/11/96の日記
  4. 反論
  5. 11/16/96の日記
  6. 反論
  7. 某先輩の助言のメイル(抜粋)
  8. 奥田君からのメイル
  9. 奥田君の助言のメイルについて
  10. 奥田君の議論に対する反論者のメイルに対するこだまの議論
  11. リンリー教授の意見
  12. 反論
  13. 上の反論について
  14. 上の議論に対する反論についてのコメント
  15. まとめ

この内容に関するメールは議論の必要上、一部公開することになるので、もしそのことについて問題があれば早急にお知らせ下さい。

ご意見のある方は、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。


11/09/96の日記

 さてここでギターが男性か女性かという問題が一気に表面化する。ジミヘンはあの手の使い方からして男性だと考えていた節がある。クラプトンはあのギターを弾く顔つきからしてホモだろうから、やはり男性と考えているのだろう(これも冗談です。クラプトンファンの人はぼくに石を投げないように注意)。ジミーペイジはあのサディスティックなバイオリンの弓の使い方からして少女と思っていたのではないかと考えられるが、これは断定できない。......いや、どんどん危ない方向へ行きそうなのでここらあたりで議論を打ちきることにする。

 しかしさらに新たな問題に直面する。それは、

「ギターを部室(研究室)においておいたら誰かが使うのがあたりまえ。置いておく方が悪い」

というまことしやかな議論の正当性である。しかしもしこの議論がまかり通るなら、

「女性が会社(学校)にいれば誰かがセクハラするのがあたりまえ。セクハラされる方が悪い」だとか

「女性が(ミニスカートで)電車に乗ればちかんされるのがあたりまえ。(ミニスカートで)電車に乗る方が悪い」だとか

「家のかぎを開けっぱなしにしておけばどろぼうが入るのがあたりまえ。かぎを開けとく方が悪い」

だとかいう議論もやはりまかり通ってしまう。そこで結論。やはり勝手にギターを弾くやつ、セクハラするやつ、ちかんするやつ、どろぼうに入るやつが悪いっ。反論募集中。


反論

本人の希望により削除(勝手に載せてごめんなさい)。


11/11/96の日記

 ところで11/09/96の日記で、ギターを女性になぞらえたら、おしかりの手紙をいただいた。曰く、「女性と物とは比べられません」。あ、頭が痛い・・・。世の中に比喩に使えないものなんてあるんだろうか?いや、それともこの方はぼくが女性とギターを比較したと考えているんだろうか?

「ギターが男性か女性か」という議論が半分以上冗談であることはこの方もわかっておられると思われる。それに、「女性がギターだ」といったわけではなく、「ギターが女性(的)だ」といったんだから問題なかろう。(問題あると思う方は反論をどうぞ)

 だからおそらく問題となったのは、

「ギターを部室(研究室)においておいたら誰かが使うのがあたりまえ。置いておく方が悪い」

「女性が会社(学校)にいれば誰かがセクハラするのがあたりまえ。セクハラされる方が悪い」

というのがおんなじ論法である、という部分であろう。ここは「女性と物とを比べて」いるというよりむしろ、勝手に人のものを使うときの正当化の一つの論法セクハラをする人間の・正当化の一つの論法が類似しているといっただけである。(不正な)行動の正当化の仕方がおんなじだと述べただけで、べつに女性を物扱いしたわけではない。この方はそれがわかっているのだろうか?また反論を待つ。

(しかし、悪口を言うようで悪いが、内容も理解せずとにかく「女性」という言葉が出たら非難をしてくる人間がいるから、フェミニズム全体が軽蔑されるのではないだろうか)

(こういう人に「原始、女性は太陽だった」なんていうとグサリと刺し殺されちゃうんだろうな)


反論

本人の希望により削除(勝手に載せてごめんなさい)。


11/16/96の日記

またギターの話(11/09/9611/11/96参照)で文句が来た。曰く、「ギター(言葉をいえない物)と人間(口答えを言える)という全く次元の違うものを例にして比べるのがおかしい」。この方はぼくの書いた説明を無視している気がするが、まあいい。

(この人は口の聞けない人間や植物人間のことをどう考えているのだろうか--某先輩の感想)

 果たして、ギターと人間は次元が違うので比べられないのだろうか?

 例えば、コンピュータと人間をある点において比べることは簡単である。両者には「知能」という比較可能なものがある。人間とコンピュータにチェスをさせて「コンピュータの方が人間に比べて賢い」ということにはどこにもおかしいところはない。(もちろんチェスの勝ち負けによって、「コンピュータの方が人間に比べてあらゆる点において賢い」なんて結論は出てこないが)

 したがって、ギターと人間をある点において比べることも当然可能なのである。簡単な例で言えば、ギターの音色と人間の声色を比べることが出来る。「あのヴォーカルの声はすごくいいけど、それに比べてこっちのギターの音色はジャイアンの声色みたいで最悪だな」

 もちろんこれは人間の声色ギターの音色を比べているのであって、人間そのものギターそのものを比べているわけではない。(全く尺度のない比較は不可能である--ただしこれは決して次元の違いなどというものではない)

 そして、前に書いたように、ぼくも「ギターと人間」や「人間と家の鍵」を比べていたのではなく、「ギターを持ち主の同意なく使う行為」と「女性を本人の同意なくセクハラ・ちかんする行為」と「人の家の物を持ち主の同意なく持ち出す行為」という比べ方をしていたのである。これらは(犯罪)行為という点ではみな同じであり、またこれらの行為に対しては同じような正当化の議論がある、と言ったのである。もっとわかりやすく言えば、ギターも、女性の体も、人の家の物も、「持ち主の同意なしで他の人が使い得る」という点で比較可能(同一)なのである

 以上っ。反論があれば誰でもかかってきなさいっ。(強調はやりすぎると見にくいなぁ)


反論

本人の希望により削除(勝手に載せてごめんなさい)。


某先輩の助言のメイル(抜粋)

某先輩 >「ギターの場合はなにをされてもギターに利害はないが、痴漢の被害者は不利益を被るので直接比較できない。」っていうあたりまえのことがポイントなんだろうから、それは認めてやらねば。(もちろん認めてると思うけど)

児玉> え、そういう見方なんですか?ぼくはギターと痴漢被害者ではなく 、ギタリスト(ギターを無断で使用された人)と痴漢被害者という風に考えてたんですが。

某先輩>うん。そこで話がくいちがってんじゃろ?「体と人間は同一」っていう言葉はそこらへんを指してるのだと思う。


某先輩の助言のメイル(抜粋)について

これで済むんだったらもう議論は終わりにしたいんだけれど...。まだ反論ありますかあ。次は奥田君の(火に油を注ぎかねない)メイル。


奥田君からのメイル

実践「**なひと」批判

**な人につかまってしまったようですね。彼の文章からプロファイリング(!?)するに、揚げ足とり症候群を患う負けず嫌いのエゴイストのようですね。きっと彼に何を言っても納得してくれないでしょう。彼はいちゃもんをつけたいだけで、議論をしたいわけじゃありません。だから、はっきりいって議論は無駄です。やめちゃったら?彼には『モラリストとしてのカント』を読むように薦めて、決別しなさい。別に厳密な比較をしようとおもっていたわけではないんだし。それにしても、朝顔の観察例を出してくること自体、比較の誤謬を犯してると思うけどな。まったく、「児玉君がんばって!!」とか励ましのメールのひとつも書けって言ってやりたいっすね。

とりあえず、考えると、どうも**な人の論点は比較の妥当性にあるようですね。別に女性が出てきたからというわけではないようです。じゃあ、もっともっと比較のポイントをクリアにしてやればいいんです。とりあえず反論の吟味。


「ギター(言葉をいえない物)と人間(口答えを言える)という全く次元の違うものを例にして比べるのがおかしい。」

文句が言えるかどうかが、比較のポイントならそうかもしれない。だが、児玉君の主張のポイントはそこではない。

「家の鍵も人間ではない。」

そりゃそうだ。当り前のお話。児玉君もそんなことは百も承知。

「類似しているように聞こえるだけで、てんで話しにならない例文であるということを述べたかったのみである。」

比較の妥当性を否定するにはあまりにも根拠に欠ける雑な言い方。どう話にならないのか、丁寧に述べるべきだ。野党的な発言は控えよ!

「ついでに私はフェミニストではない。女性という言葉を聞くだけで、直ぐにフェミニストに結び付けるのは、良くない。 」

そりゃそうだ。だが、最初の反論の「女性と物は比べられません」という主張から、フェミニズム的な発言かと疑ってもおかしくはない。舌たらずな自らの配慮不足を恥じよ!

このように、**な人は何ら具体的な批判を述べていない。本人が論点を自覚しているのかさえ疑わしい。やるなら、児玉君の比較が妥当なものでなかったとして、彼の主張そのものが疑わしくなるのか、まで示すべきである。そうでなければ、批判の意味は全く無い。自分が負けたくないだけの「議論のための議論」をしているにすぎなくなる。

「..ギターの持ち主は人間で、体と人間は同一だということが見えない君はナルシスト症という、言葉を知っていますか。」

ナルシスト症という言葉をちらつかせて、知らねえだろ、お前、と言ってくるあたり、ペダンティックなナルシストという発言者像が透けて見える。**な人は、所有という哲学的な問題を知っているのだろうか。(仕返し)体と人間は同一?そんなことが無前提に言えるの?じゃあ、ちょん切れた自分の手も人間なの?

「コンピューターと人間を比べる例もこの場所では、見当違いですね。ギターと人間の音の違いの比べ方も君の討論の何の役にもたっていない。」

どう役に立ってないのか、はっきりさせてほしい。最初の例の比較に対して役に立たないというなら、児玉君のここでの議論自体は認めるってことか。

「それらしく聞こえるのは、ただ、単にギターという、言葉と人間という言葉がでているからである。」

そうかもね。でもここでの議論自体はいいってことだね。じゃあ次いこう。

「持ち主の同意無しで使うとあるが、ここで使われている物の全てが感情を持たない『物』であれば君の比較は成り立つ。しかしながら、ギターが使われたり、置き離しされているする場所に、持ち主は存在しない。シチュエーションが全く違うのに、比較の仕方がない。物事を比べるには、例えば小学校の時に朝顔の観察をしたでしょう。何故、同じ時間に観察していたか、良く先輩と考えてみて下さい。... 」

まず朝顔の観察と児玉君の議論の比較自体妥当なんですか?それに、一文目と二文目が、「しかしながら」でつながるように思えない。論理学をちゃんと勉強せよ!それに、**な人は、児玉君の議論を理解していない。自分勝手な解釈のもとで、一人相撲を演じているようだ。


では、児玉君の議論を分析してみよう。

まず、1)「ギターを部室(研究室)においておいたら誰かが使うのがあたりまえ。置いておく方が悪い」 のシチュエーション。持ち主が明らかなギターが、他人が入るこ とができる部屋に置いてある。持ち主はギターを勝手に触られたくないと思っている が、現在その部屋にいない。そこへギターを弾きたいEさん入室。ギターをみてむず むずする。使う。そこで働くEさんの行為の正当化の論法。

  1. 置いてあるものは全て断わりなしに誰もが使ってよい。

  2. ギターは置いてある。

  3. ギターを勝手に使ってもよい。

・・・使われたくないなら置くな、となる。

2)「女性が会社(学校)にいれば誰かがセクハラするのがあたりまえ。セクハラされる方が悪い」のシチュエーション。男性の性欲を刺激する女性が、性欲丸出しの男性が入ることができる会社(学校)にいる。女性はセクハラされたいとは思っていない。そこへセクハラをしたいEさん現われる。女性を見てむらむらする。セクハラする。 そこで働くEさんの行為の正当化論法。

  1. 男性は女性にセクハラしてよい。(セクシーなお尻は男なら誰でも触ってよい。)

  2. 女性がいる。

  3. 女性にセクハラしてよい。(お尻に勝手に触ってもよい。)

・・・セクハラされたくないならされるな、来るな、となる。(「セクハラされる方が悪い」というより、「会社に来るのが悪い」に までいきそうだなあ。)

3)「女性が電車に乗ればちかんされるのがあたりまえ。電車に乗る方が悪い」のシチュエーション。男性の性欲を刺激する女性が、性欲丸出しの男性が入ることができる電車の中にいる。女性はちかんされたいとは思っていない。そこへちかんをしたいEさん現われる。女性を見てむらむらする。ちかんする。そこで働くEさんの行為の正当化論法。

  1. 男性は女性にちかんしてよい。(セクシーなお尻は男なら誰でも触ってよい。)

  2. 女性がいる。

  3. 女性にちかんしてよい。(お尻に勝手に触ってもよい。)

・・・ちかんされたくないならされるな、乗るな、となる。

4)「家のかぎを開けっぱなしにしておけばどろぼうが入るのがあたりまえ。かぎを開けとく方が悪い」のシチュエーション。 持ち主が明らかな家の鍵が開いていて、他人が入ることができる。持ち主は家の中に勝手に泥棒に入られたくはないが、現在 にいない。そこへ泥棒したいEさん登場。鍵が開いているのを見てむずむずする。泥 棒する。そこで働くEさんの行為の正当化の論法。

  1. 鍵の開いた家には誰もが泥棒に入ってよい。

  2. 鍵の開いた家がある。

  3. その家に泥棒に入ってよい。

・・・泥棒に入られたくないなら鍵かけろ、となる。

まず見ればわかるが、2)と3)は若干のシチュエーションの違いはあるが、ほぼ同じであり、例としては共通のものである。それに、児玉君はEさんの正当化論法を問題にしているのだから、2)と3)は同じ論法を持ち、同列に並べられる。

また、1)と4)も同じ理由で同列に並ぶと言える。

では、1)と2)3)が同列に並ぶ例かどうかが問題となるだろう。ここでは、1)と2)を代表させて考える。

まずシチュエーション。あることをしたいと欲する人間がいる点では同じ。ある存在者がその欲望を持った人間にさらされている点でも同じである。では何が違うのか。欲望の対象が女性であるかギターであるか、が違う。まあ、仮に**な人が言うようにこの両者は次元の異なるものであると仮定しよう。そう仮定したとしても、シチュエーションが全く違うとは言えない。

さらに、児玉君が問題にしているのはEさんの正当化論法である。1)と2)はともに同じ論法を用いていることは明らかであろう。その際、問題なのは、二つとも、誤った前提1.を置いているということである。置いてあるものは全て断わりなしに誰もが使ってよい、という前提、及び、男性は女性にセクハラしてよい、という前提が間違っているのである。この前提がいかに矛盾していようとも、そして、次元の異なった対象を考慮していようとも、Eさんが用いている正当化の論法は同一であり、同列に並べることができるのである。

つまり、児玉君は、誤った前提が隠蔽され論理的一貫性があるかのように見える主張を批判したかっただけであり、別に物と人間や身体とギターを比較したかったわけではない。また、いずれの例も、自らの犯罪行為(の正当性)を無条件に前提し、その行為に対する回避行動のみが唯一の解決方法であると主張する点で、同列に並べられる。はっきりいって、**な人には、高いプライドが備わっているとしても、高い読解力は備わっていなかった、というところにオチがつきそうだ。


だから、まったく議論の余地はない。**な人に「倫理学を勉強せえっ!」とリヴァイア様直伝の捨てセリフを吐き残しておけばよいのである。


奥田君の助言のメイルについて

よ、応用倫理学の理論顧問っ。てなわけで、奥田君のメイルにはぼくが言える以上のことが言い尽くされています。

特に、『モラリストとしてのカント』を読めという指摘と、「どう話にならないのか、丁寧に述べるべきだ。野党的な発言は控えよ!」という発言には胸のすく思いがしました、いや実際。

もうこれで反論が来ないならぼくも書きません。しかし、人数的には反論者の方が不利なので、誰かに参戦してもらってもかまいません。ただし、わかりやすく書いてきてくださいね。


追記

奥田君の手紙の中で不適切な表現があったことをお詫びします。(児玉・奥田)


奥田君の議論に対する反論者のメイルに対するこだまの議論

反論者のメイルの内容をわかりやすく書くとこうなるかと思われます。

Case 1

  1. (所有者Aによって)(誰かほかの人がアクセス出来るところに)置いてあるもの(所有物B)は全て断わりなしに誰もが使ってよい。

  2. ギター(所有物B)は(所有者Aによって)(誰かほかの人がアクセス出来るところに)置いてある。

  3. (所有者Aがその場にいないため、所有者の意図が明らかでない)ギター(所有物B)を勝手に(所有者Aの許可を得ずに)使ってもよい。

・・・使われたくないなら(そもそも所有者Aは所有物Bを)(誰かほかの人がアクセス出来るところに)置くな、となる。

Case 2

  1. 男性は女性(所有者A,所有物B)にセクハラしてよい。(セクシーなお尻は男なら誰でも触ってよい。)

  2. 女性(所有者A,所有物B)が(所有者Aの意思で)(所有物Bが危険にさらされる場所に)いる。

  3. (所有者Aの意思で)(所有物Bが危険にさらされる場所にいる)女性に(所有者Aの許可を得ずに)セクハラしてよい。(お尻に勝手に触ってもよい。)

・・・セクハラされたくないなら(そもそも所有者Aは所有物Bを)(誰かほかの人がアクセス出来るところに)置くな(すなわち女性はそこにいくな)、となる。

あれ、やっぱり結論一緒じゃんっ。要するに、こういう言い訳は「誰かほかの人がアクセス出来るところにある所有物は、所有者当人の同意を得ずに使うことが許される」という同一の理屈によって支えられているのではないか、というのがぼくの結論です。

所有者がそこにいるかどうかを考慮すると、反論者の方が言うようにこれは別のケースになるかも知れません。しかし、所有者の同意・不同意の意思を無視する、という点では同じではないでしょうか。そしてぼくは後者を考慮して、同一の例だと言ってるわけです。

それで、ぼくは決してちかんやセクハラを擁護しているわけではなく、どういう状況であっても人の物を持ち主に無断で使う人は悪いし、どういう状況であっても人の体を当人の同意なく使う人も悪い、と言いたいのである。

以上っ。反論待つ。


リンリー教授の意見


反論

下の文をどうぞ、公表してください。

「ギターを部室(研究室)においておいたら誰かが使うのがあたりまえ。置いておく方が悪い」

物=A 置いた人=B 加害者=C 悪い対象になるのは=D

Bが誰もいない部屋にAをおいたら、CがAを使った。Bが悪い。(D=B)

(この誰もいないというのがキーワード)

「女性が会社(学校)にいれば誰かがセクハラするのがあたりまえ。セクハラされる方が悪い」

B+Aが学校にいれば、CがB+Aをセクハラした。B+Aが悪い。(D=B+A)

と、なる。双方が違う環境にあるので良い比較が出来ていない。分かりやすく、良い例文を書くと、

「ギターを持ち歩いていたら誰かが強盗するのがあたりまえ。持って歩くのが悪い。」

これと、女性が。。。の文とを比較すれば、双方の議論はまかり通る。

「誰かほかの人がアクセス出来るところにある所有物は、所有者当人の同意を得ずに使うことが許される」という同一の理屈によって支えられているのではないか、というのがぼくの結論です。

所有者がそこにいるかどうかを考慮すると、反論者の方が言うようにこれは別のケースになるかも知れません。しかし、所有者の同意・不同意の意思を無視する、という点では同じではないでしょうか。そしてぼくは後者を考慮して、同一の例だと言ってるわけです。

それで、ぼくは決してちかんやセクハラを擁護しているわけではなく、どういう状況であっても人の物を持ち主に無断で使う人は悪いし、どういう状況であっても人の体を当人の同意なく使う人も悪い、と言いたいのである。

例が同じでも、君が言いたいなかにあるように、「無断」がキーワードです。だから、同一の例にはなりえないのです。比べられないのです。所有者の同意・不同意の意思を無視する、という点のみで同じなのです。それで同一だからといって、それが、「同一の理屈」にはなっていないのです。環境が違うからです。

「加藤尚武の『応用倫理学のすすめ』の死刑廃止論のとこにも比喩があるやろ、死刑における誤判を自動車事故に例えるやつ。(注.誤判があるからすべての死刑はやめるべきだという議論は、交通事故があるからすべての自動車交通は禁止すべきだ、というのに等しい、という議論。)あれなんかおれ、ようできてると思うんやけど、おれの同僚とか友達とかはわかりおれへんのや」

これをもう少しはっきりと書いて下さい。どういう意味で等しいの でしょうか。全体を把握していないので。


上の反論について

「女性が会社(学校)にいれば誰かがセクハラするのがあたりまえ。セクハラされる方が悪い」

(物=A 置いた人=B 加害者=C 悪い対象になるのは=D)

B+Aが学校にいれば、CがB+Aをセクハラした。B+Aが悪い。(D=B+A)

と、なる。双方が違う環境にあるので良い比較が出来ていない。分かりやすく、良い例文を書くと、

「ギターを持ち歩いていたら誰かが強盗するのがあたりまえ。持って歩くのが悪い。」

これと、女性が。。。の文とを比較すれば、双方の議論はまかり通る。」

と、書かれてますが、これがセクハラとおんなじ環境だとすると

B+Aが歩いていると、CがBを強盗した。B+Aが悪い。

ということになりますよね?所有物であるギター(B)も悪いということになる。おかしいでしょう。ほんとは、どちらの例でも所有者(A)だけが悪くて、所有物(B=ギター・体)は悪くないのです。つまり、

B+Aが学校にいれば、CがB+Aをセクハラした。Aが悪い。(D=B+A)

B+Aが歩いていると、CがBを強盗した。Aが悪い。

結局、「他人Cがいる場所に所有物(B)を持ってきた所有者(A)が悪い」

という風に考えれば同一なのです。そこに所有者(A)がいるかどうかはぼくは問題にせずに同一だと考えていたわけですから、これ以上その点を突っつかれても誤解だとしか言いようがありません。議論が堂々廻りしつつあります。

また、すべての状況を考慮に入れればそもそも比喩も比較も成り立ちません。どこかを切り捨てる必要があります。そしてぼくは「所有者がいるかどうか」は、「セクハラされる方が悪い」「鍵を開けとく方が悪い」「ギターをおいとく方が悪い」という同一の論法を考慮する際には、重要ではないことだと思うのです。

「セクハラされる方が悪い」「鍵を開けとく方が悪い」「ギターをおいとく方が悪い」がそもそも同一の論法ではない、と考えられても結構ですが、ぼくはこれが同一だと見なして議論を始めたわけなので、その点を考慮していただきたい。

人間は同時に所有者であり所有物である、というのは議論になりえますが、これは絶対に、延々と続く水掛け論になるのでやりません。

あと、リンリー教授の持ち出した加藤先生の議論はこの議論とは直接結びつかないと思われるので、気にしなくてもよいと思います。もしそれでも気になるのなら、丸善ライブラリーから新書サイズのものが出ているので、お買い求め下さい。

以上。反論、その他待つ。(簡潔かつ明瞭であることを望む)


上の議論に対する反論についてのコメント

誤解があるようなのでコメントしておきます。

死刑は意図的に行われ、交通事故は全くの事故である。分かりやすくいうと、自動車交通は人を殺すのを意図としていない。死刑は人を殺すために行われている。

この本(『応用倫理学のすすめ』)で加藤先生は死刑と交通事故を比べているのではなく、死刑における誤判と自動車交通における事故(両者は共に非意図的)を比べているのです。誤判と事故です。おわかりになったでしょうか。この本をまだお持ちでなければ、すばらしい本なので、ぜひお買い求め下さい。(加藤教授ファンクラブ広報部より)


まとめ

 いろいろな人からご意見いただき、たいへん勉強になりました。この議論はめでたくフィナーレを迎えることになりました。そこで、ぼくが現在考えることを述べておきます。まず以前挙げた例を再度見てみます。

 まずこれらすべてに共通に見られるのは、所有者(被害者)の管理責任を問題にしているということです。(ぼくのからだの所有者はぼく自身と考えます---そういえば身持ちの悪い女性という表現がありますね)

 この言い訳は加害者が自分を正当化するために用います。こういう言い訳に対抗するためには次のように問わなくてはいけません。

 ぼくも、いまでは所有者の管理責任も問題にされ得る、という意見に賛成です。すなわち、セクハラされる方にも問題がありえる、という意見にも一理あると思うわけです(--うわー、これ言うと刺されるかもしれんなあ--)。しかし、これは程度の問題で、ぼくは上の問いには次のように答えられると思うのです。

 結局、状況によっては所有者の管理責任も問いえるが、ただしその責任の程度はその場の状況や社会通念に従う、ということです。基本的には、行動を起こす加害者の責任が大だと考えるべきでしょう。ま、これも状況によりけりかもしれないけど。

 以上っ。ご意見・反論があればどうぞ。しかしもうこのページはおそらく更新されないでしょう。皆さんありがとうございました。


さいしょにもどる?


Satoshi Kodama
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Last modified on 11/23/96
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