関西胸部は日本胸部外科学会よりも古いのだ」と言っても、誰も信じないだろう。しかし日本胸部外科学会の前身である胸部外科研究会が発足し、第一回の会合が行なわれたのは昭和23年11月3日であり、関西胸部外科学会の前身である結核外科談話会が発足したのは、昭和23年2月とこちらの方が早いのである。しかしそれを言うなら、胸部外科研究会の前身は、終戦後、昭和22年に第12回として再興された東京結核談話会であり、その端緒は古く、戦中の昭和19年7月10日の第一回結核懇談会にあると見られている。
関西では前述の如く昭和23年2月に結核外科談話会が発足したが、昭和23年5月2日に新潟で外科学会が開催された時、鍋茶屋で東西の胸部外科関係者が一堂に会した頃には、東西協力して全国的な研究会を作ろうとする気運は既に熟していた。そこで出席者全員の賛同を得て、秋に第一回の会合を開く事を決め、更に当初考えられていた肺外科研究会という名では範囲が狭すぎると言うことで、胸部外科研究会として発足したのである。そしてこの名称も第3回からは日本胸部外科学会に改められた。
と云うことで関西で発足した結核外科談話会は地方の結核外科研究会として継続することとされ、永年春秋2回開催されて来た。そして昭和33年(1958年)になって、関西にも結核のみではなく、胸部外科の学会をということであろうか、胸部外科学会第1回関西地方会として6月に京都で開催され、これを機に結核外科研究会は年一回の開催となった。
その後各地で胸部外科の地方会が発足し、又日本胸部外科学会では、地方会の組織を如何にするかが理事会の議題となり、数年に亘る議論の後、昭和60年(1985)に会則に第10章として地方会の規定が追加された。こうして北海道、東北、関東甲信越、関西、九州の5つの地方会が正式に発足することになった。
只その間、我が関西地方会については、理事会でその範囲が余りにも広すぎて地方会としてはなじまないと言った意見が出された。その為実情を見て頂く為に数回に亘って日本胸部外科学会の有力理事を関西地方会に招いたこともあった。しかし結局はそのまま認められ、日本胸部外科学会関西地方会となって収まったのである。
本会は公式の名称としては、第一回から日本胸部外科学会関西地方会となっていたが、正式に認められたもので無かった為か、会員の多くはこれを関西胸部外科学会と呼んでいた。その為、これを日本胸部外科学会関西地方会と呼ぶのには、当初、若干の抵抗を感じたものである。
その後、年1回となった結核外科研究会も、昭和39年(1964年)からは胸部外科研究会と改称し、同年の会合を第一回として再出発している。更に昭和49年(1974年)からは春秋2回、同じ名称の学会と研究会を行なうのは如何なものかという議論になり、一方の日本胸部外科学会関西地方会はそのままとして、研究会は胸部外科セミナーとして再出発することになった。その後このセミナーは平成12年の関西胸部外科学会の理事会で、平成13年(2001)の第28回を最後に廃止することが決定された。
他方、本会は日本胸部外科学会関西地方会となったものの、他の地方会に比べると、会員数では関東甲信越地方会とはほぼ同じであるものの、その範囲は格別に広く、学術集会の内容も格段に充実したものと多くの会員が自負していた。その為日本胸部外科学会の地方会であるという事実はよしとするも、名称は昔の愛称であった関西胸部外科学会に戻したいという希望が強まってきた。そこで本地方会の理事会において、関係者へのアンケート調査を踏まえ検討した結果、平成13年(2001)より関西胸部外科学会と称することに決定し、日本胸部外科学会の理事会においても承認されて名称変更となったのである。但しこれが日本胸部外科学会の関西地方会である事には変わりない。かくして我が関西胸部外科学会は2017年には正式発足から60年、結核外科談話会として産声をあげてから丁度70年を迎えることとなるのである。
国立循環器病研究センター 名誉総長
川島康生