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NIPTにかんする生命倫理学的考察の変更点

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!!!非侵襲的出生前遺伝学的検査(NIPT)に関する生命倫理学的考察
                                  (室月 淳  2013年2月25日)

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この文章は,第11回東北出生前医学研究会(山形,2013年2月23日)で発表した一般演題の発表原稿に大きく手をくわえたものです.これまでほかでアップした文章も一部つかってまとめました.

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個人的なことからお話させていただきます.わたしがいまかかえている課題は,NIPTのこと,HTLV-1の短期母乳栄養の問題,南相馬における低線量被曝のリスクのみっつです.NIPTのこと以外では,日本産科婦人科学会の産科診療ガイドラインの作成委員をしていますが,成人T細胞白血病ウイルス(HTLV-1)キャリアの妊婦さんの短期母乳栄養の問題について議論しているところです.また南相馬市立病院への応援として「放射線健康相談カウンセリング外来」外来を手伝い,地元のひとたちの相談にのっています.

このみっつの問題はおなじ構造をとっていて,そのこたえもじつはおなじであることに最近気がつきました.すなわちそれは,平凡な結論ですが当事者の自己決定,インフォームドチョイスによる解決しかないような気がします.仮にそれに限界があろうともです.

NIPTについては,一方では妊婦さんのニーズにこたえるため,どこの病院にでもかんたんに検査できるように普及させるべきという主張があり,他方ではNIPTは優生思想であり,倫理的に問題はるから禁止すべきだという意見があります.HTLV-1陽性妊婦は,分娩後は一律に断乳させるべき,これまで認めていた短期母乳の選択肢をなくすべきだという主張があり,他方では母乳は多くの面でメリットがあり,短期母乳栄養で進めるべきだという意見があります.また福島の低線量被曝地域においては,住民は一刻もはやく避難するよう主張するひともいれば,地域社会の再生のためにひとりでもおおくの避難者の帰還をはかるべきだといった意見もあります.

これらみっつの問題のおなじ構造とは,かぎられたあいまいな情報,それも専門的な内容をふくむ問題や,自分にとって体験したことがない未知の世界の問題を,自分たちが決めなければない,決断をせまられるという状況です.その決断はあきらかな根拠やエビデンスにもとづくのではなく,そのひとの価値観や人生観そのものがおおきくかかわってくるところです.

これらみっつの問題において前者の主張をのべるひとたちに共通しているのは,エビデンスがはっきりせず不確定な現状であるが,1%でもリスクがひくいと考えられるほうをえらぶべきだ,そうでなければ将来後悔することになるという一種の威圧といったものが感じられます.いずれの立場にたつひとにもある種の信念と,たしょうの思惑がありそうです.そしてその両極の立場にたつひとのあいだにはほんとうの議論が存在していません.

遺伝専門医あるいは遺伝カウンセラーとしてわたしは,これらのいずれの主張にもくみすることはできません.当事者のかたのそばによりそって,おはなしをきいて相談にのり,それぞれの決断を背中からそっとあとおしするだけです.どちらかいっぽうの立場にいきさえすれば,そこになかまはたくさんいます.しかしそれはできないのです.患者/妊婦/ クライエントのところからはなれることはできません.その都度,できるかぎりのエビデンスにもとづいた評価をおこない,当事者のかたとともに現実的な解決を模索していくだけです。

このようにNIPTをめぐる国内の現在の議論は,選択的中絶による生命の選別を認めない立場,あるいはマススクリーニングとなることによって優生社会化することを危惧する立場からのNIPT批判や拒絶と,希望によって妊婦が検査を自由に受ける権利を保障せよ,非侵襲的検査なのだから遺伝専門医に限らず広く一般に検査を認めよというNIPT自由化の主張の,両側からの批判がNIPTコンソーシアムにあつまっています.前者の問題提起はマスメディアなどでよくみられる言説ですが,後者の積極的推進の意見は医師集団や妊婦,クライアント個人の意見として聞くことがしばしばです.

NIPTに関する倫理的議論は,この数年間,世界的にもかなり徹底しておこなわれてきました.その結果議論のレベル自体は深化しましたが,予想もしなかったようなNIPT特有の倫理的問題はでてこず,直面する課題にはこれまでの生命倫理的な原則を厳密に適応することで対処できるという結論になっています.すなわち,情報を与えられたうえでの自由意思による選択であり,検査をうけるかうけないかは個々人が自発的にきめること,検査結果は厳重に管理され本人以外には開示されないこと,インフォームドコンセント(インフォームドチョイス),自己決定,ブライバシー権の3つです.

この3つの大原則を前提としてみとめたうえで,出生前診断の中心にあらわれてくるのが選択的中絶の是非の問題です.これに対するこたえはもちろん「自己決定の尊重」です.しかし倫理学者や患者家族団体などには優生社会への危機を最重視するひとたちがいて,自己決定をこのようにまとめることにすら,障がい児の中絶をせまる優生政策と同じであるとなお批判しています.そのような批判がありながら,それでもなおカップルの自己決定にすべてをゆだねようというのが,現代社会と医療の到達した上記課題へのこたえです.

それではそういった倫理的な批判にどのようにこたえるべきなのでしょうか.「うむかうまないかはカップルがきめる」かわりに,「どちらを選択しても社会的不利益を受けないよう,国や社会は全力で支援する」ことが必要となります.「産むことを選択した」家族のために,各種の福祉,社会対策やノーマライゼーション政策の実施が求められます.障害者が排除されるのではないかという不安のもとでは,どのような出生前検査も障がいを持って生活している方や家族を始め,国民に受け入れられるはずはありません.NIPTの導入を契機として,「すべての障害者が安心して生活できる社会」をつくっていくという社会の姿勢が求められます.

日本産科婦人科学会が中心となりNIPTに関する指針づくりを行い,昨年12月に「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に関する指針(案)」を公表しました.この「指針(案)」についてのパブリックコメントを全国より募り,3月には正式な指針が出される予定です.おそらく当初は施設を認定した上で,臨床研究として実施されることになっていて,東北地方では宮城県立こども病院と岩手医大の2か所で実施ということになりそうです.

昨年12月に公表された「指針(案)」では,すべての医師はNIPTに対して,「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について医師が妊婦に積極的に知らせる必要はない」と明記されています.これは1999年にだされた母体血清マーカーにたいする指針とまったく同様の姿勢です.妊婦さんに聞かれれば答えるが,医師の側からNIPTについてきちんと説明する必要はない,半ばしてはいけないということになります.遺伝学的知識,あるいは遺伝リテラシーの教育や啓蒙をまっこうから否定した方針でもあります.

「検査をうけるかうけないか」あるいは「うむかうまないか」は本人,ないしはカップルの自己決定によります.それがNIPTによる遺伝子異常のスクリーニング,そして選択的中絶を肯定する唯一の倫理的根拠となります.自己決定がくだされるためには必要な情報開示がおこなわれなければなりません.情報開示がないところでは自己決定はありえず,自己責任もありえません.情報開示を抑圧する体制を維持しながら自己決定を重視する姿勢は自己撞着でしょう.

マスコミにでてくる識者のはなしでは,あるいはこの指針(案)でもそうですが,「採血だけで簡単にできるから,安易な気持で検査をうけ,マススクリーニング化するおそれがある」,「陽性的中率や確定検査のことなどきちんとしたカウンセリングが必要である」,「じゅうぶんなカウンセリング体制を」といった主張がなされています.これらはたしかにまちがってはいません.

しかしここで強調したいのは,遺伝カウンセリングは問題の解決ではけっしてありません.ほんとうの問題はむしろそこからはじまるのです.検査をうけるかうけないか,あるいはうむかうまないかといった深刻な悩みは,遺伝カウンセリングではけっして解決しません.遺伝カウンセリングは検査に付属するサービスではないし,ましてや判断や自己決定のマニュアルなどではありませんから,カウンセリングをうけることで問題がなくなることはありません.真の問題は,遺伝カウンセリングのあとにみえてきて,ひとびとの前にたちふさがるのです.

そしてその真の問題とは,やはり「選択的中絶」の問題です.母体保護法によってそれは許容されていますが,しかし人工妊娠中絶は「殺人」にほかなりません.ほとんどのひとはいろいろな意味においてそれはしかたがないこと,ときには必要なことと考えています.わたしもそう思います.もちろんそれは間違いなくひとが自分の都合しか考えていない「エゴ」です.児の立場からすれば,障害をかかえて生まれてきたとしても,たとえその生命がわずかであったとしても,家族にみまもられて生涯をまっとうするのが本望でしょう.医療は本来そのような思いをかなえるためにあるべきだったはずです.

しかしどんなに医学が発達し,科学技術が生活を変え,文化文明が精神を変えても,ひとは一個の動物にすぎず,動物としてのエゴや欲望というものは残って,その矛盾に苦しみ続けることになります.ひとは欲深く,その願いはとどまることを知りません.ひとがもつわずかな自由意思ができることは,こういたエゴイズムを否定することではなく,矛盾を矛盾であるままに,ひととひととのエゴの葛藤を協調にかえていくこと,生きるエゴをみにくい因果からうつくしい連鎖に転回することだけです.そして社会のなかの弱い者にむけられるあたたかいまなざしを,およそ医療者たる者の最低限の感性としてもちつづけていたいと思います.
しかしどんなに医学が発達し,科学技術が生活を変え,文化文明が精神を変えても,ひとは一個の動物にすぎず,動物としてのエゴや欲望というものは残って,その矛盾に苦しみ続けることになります.ひとは欲深く,その願いはとどまることを知りません.ひとがもし自由意思をもっているのならば,こういたエゴイズムを否定することではなく,矛盾を矛盾であるままに,ひととひととのエゴの葛藤を協働にかえていくこと,生きるエゴをみにくい因果からうつくしい連鎖に転回することだけです.そして社会のなかの弱い者にむけられるあたたかいまなざしを,およそ医療者たる者の最低限の感性としてもちつづけていたいと思います.

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