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湖北観音巡拝の変更点

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!!!湖北観音巡拝−観音の里高月 ふるさとまつり
                                    (室月 淳 2015年8月9日)

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十一面観音菩薩立像(渡岸寺)−国宝

 

先週末の湖北観音巡礼の興奮がようやくおちついたので、その感想をまとめます。まずはとにかく暑い一日というのが最初にでてくることです。帰りの新幹線で頭痛がひどくてロキソニンを飲んだのですが、いま思えばあれは軽い熱中症の症状だったのかもしれません。

8月の第一日曜日は,滋賀県の湖北地方にある長浜市高月で「観音の里 たかつきふるさとまつり」がおこなわれます.年に一度のこの日に高月の寺院や堂はいっせいに開帳します.今年は8月2日でした.当日は近隣の集落からおおくのひとがでてきて,案内や解説をしてくれたり,あるいは御朱印を書いたりしてくれるのです.拝観後に冷たい茶やスイカなどを振舞っていただき,暑いなかほんとうに生きかえる心地がしました.

かつてこの湖北地方には己高山という山岳修行で栄えた諸堂伽藍があったのですが,いくたびもの戦乱や時代の流れのなかで次第に衰退してしまいました.しかしまつられていた仏像の一部は,地域住民が代々守り受けつぎ現在にまで伝わっています.この地域の寺は無住のところがおおく,仏像などは観音堂とか薬師堂などとよばれるちいさなお堂に収められていて,ふだんはその集落の人間が交代で世話をしているようです.地域共同体ぐるみで維持管理されているわけです.

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JR木の本駅に貼られてあったポスター.周遊バスはここからスタートしました

 

当日は周遊バスツアーで,午前中に4か所,午後に6か所の寺や堂をまわりました.ほとんどは観音菩薩像が安置されているところです.ぜんぶで十数体の仏像をみた勘定になります.一般に仏像は美術的,歴史的価値によって,国宝,重要文化財,県指定,市指定,無指定などにクラス分けされています.今回巡拝した諸観音像ももちろん例外ではなく,このなかには国宝一軀,重文二軀の仏像がふくまれています.そしてこの評価をおこなった専門家の判断にわたしはまったく同意いたします.

唯一の国宝である渡岸寺十一面観音菩薩立像は2回目の拝観ですが,そのみごとさは諸像を頭抜けています,今回あらたに気がついたのは,造形された体のフォルムのすばらしさです.右足をすこしだけ前に出しわずかにひねられた体幹が,左右非対称にもかかわらずそのフォルムは,前からみても,後ろからみても,左右からみても完璧になっています.

とくに後ろからみると,ウェストが曲線的に非常に絞られていて,あきらかに女性をモデルにしてつくられていることがわかります.世評に官能的とされる由縁です.ところが横からみると,ウェストは意外にがっちりとつくられていて厚みがあり,すなわち腰腹部は横に細く,前後に厚くつくられています.

局所的には女性的で官能的な印象を与えながら,わずかにひねられた体が全体的にはきわめて安定したつくりとなっているのがみごとです.これらはあきらかに作者が意図したものであり,きわめて大胆な姿勢としながら実は細心の注意のもとにつくられていることが感じとれました.

2軀の重文の観音像も,いずれも保存状態はいまひとつながら,きわめて優秀な仏師の手になることは素人目にもあきらかでした.定朝様のしばしばみる平安仏ながら,定型やマンネリに流れることなく,すぐれた表現性のなかに清新さすら感じさせるすぐれた仏像でした.素人のわたしでもこれは重文級だろうとわかります.

しかしそれ以外のおおくの観音像は,あるものは類型的であったり,からだ全体のバランスが悪かったり,後代の補修がおおきく像容を損ねていたり,と美術的にいえば欠点がめだつものが多かった.平安時代の作と銘打っていても,どうみても室町はくだらないものや,へたをすると近代の作を疑わせるものすらありました.

これらの仏像は長い歴史をとおして,地域のひとたちが守り続けてきて今日にいたります.彼らは敬虔な仏教徒として教義を信じ仏像を崇拝するということに加え,むしろそれ以上にその仏像を,自分のアイデンティティとして,自分たちの共同体のよりどころとしてきたという意識が強いのかもしれません.たとえどんな高名な美術評論家であっても,そういったひとたちの信仰をないがしろにして美的価値のみを批評する資格はないでしょう.

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光明寺観音堂.観音像のおおくはこうした小さなお堂に収められていて,年に一度この日に開帳されます

 

ながく仏像を見続けていると,造形作品としての個々の仏像のよしあしはそれなりにわかるような気がしてきます.わたしは湖北の観音巡拝をしながら,しかし正直にいうと,それぞれの仏像の美的価値を評論家然として客観的に云々することのむなしさすら感じていました.その地域のひとたちにとって自分たちが信仰する仏像は唯一無二の存在です.不出来な仏像をあれこれとあげつらうのは,それを守り続けているひとたちに失礼な行為ですらあります.それはたとえていえば,知り合いの奥さんの美醜を評価する,そういった人間としての品性のなさに近いようなものでしょうか.まったく変なたとえで恐縮ですが(笑).

すぐれた仏師がつくり,なおかつその仏師の生涯最高の出来となっただろうと想像される仏像があります.それはわたしの心につよく働きかけます.一方,凡庸な仏師の手による凡庸な仏像もたくさんありました.ふだんは百姓をしながら,たまに依頼されて仏像をつくる土着の地方仏師がいたのかもしれません.まったくの素人が稚拙ながらもノミのひとつひとつに祈りをこめてつくった仏像もあったことでしょう.

仏像は美術品ではなく,信仰の対象だという言いかたはたしかによく聞きます.しかしそれならばなぜすぐれた仏師がいて,すぐれた仏像をつくりあげようとして努力してきたのでしょうか.それは仏像が単純な礼拝の対象にとどまらず,その造形表現そのものが仏教の教えを体現した存在であるからだと思います.だからこそつくり手は最高の造形表現によって仏教の奥義と霊性をそこに実現しようとしたのでしょう.

わたしたちはなにも考えずに仏像のまえに立ち,思わず知らず強く動かされ揺さぶられることがあります.だれかに強制されたわけではなく,自分でえらんだこの一期一会がなぜわたしをこれほどまでにつよく揺り動かすのか.それはもちろん仏像の造形美の力によってですが,しかしそういった形でうまれた思いというのは,もしかすると仏教,というか宗教一般のもつ信仰心に近いものではないかと最近思うようになっています.


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十一面観音菩薩立像(菅山寺)

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馬頭観音菩薩立像(横山神社)

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十一面観音菩薩立像(赤分寺)

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千手観音菩薩立像(光明寺)

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薬師如来立像(東柳野薬師堂)

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千手千足観音菩薩立像(正妙寺)

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十一面観音・薬師如来立像(西野薬師観音堂)

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聖観音菩薩坐像(竹蓮寺)

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十一面観音菩薩立像(片山観音堂)


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