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「仮の妊娠」

The tentative pregnancy(仮の妊娠)

                                   (室月 淳 2013年2月15日)

      常世と現世の端なる神奈備(島根県出雲市) 

最初にうまれたこどもが難病で,在宅でレスピレータ管理をしているおかあさんがいます.その後の妊娠でそのつど絨毛生検(CVS)による出生前遺伝子検査をうけ,先日が3回目の検査となりました.わたしも同じひとにたいしてCVSを2回をおこなった経験はこれまで何回かありましたが,3回目というのははじめての経験でした.何年か前には,CVSを予定して当日来院したら心拍がなく流産だったということもありましたので,実際には4回ということになります.

それぞれ事前カウンセリング,当日のCVS,結果の説明の最低でも3回の来院が必要となりますので,県外のとおいところから仙台まで10回以上も往復したことになります.先日は3回目のCVSの結果説明でしたが,さいわいにも「非罹患」という結果でした.もうこどもは希望されないとのことですから,これがわたしの最後の外来になりました.そこで診療のおわりにいろいろと雑談をしました.

そのとき印象に残ったおはなしは,ご本人にとって,遺伝子診断をうけるうけないかの葛藤,つわりのつらい時期に仙台までくる負担,検査をうけるときの緊張感,中絶のつらさ,などとたいへんなことが多くはありましたが,いつもいちばんつらかったのは,「結果がでるまでの2週間をまたなければならないこと」だったことです.われわれがこころすべきことだとおもいました.

一般に,女性は出生前検査のまえに不安をたかめ,悩みながら結果をまち,異常がなかったということばを聞いて不安をしずめるという心理過程をたどるとされます.出生前診断の結果がでるまえの母親と胎児の結びつきについての有名な研究があります.Rothmanの"The tentative pregnancy(仮の妊娠)"というタイトルの本(1)です.「仮の妊娠」とは胎児のいない妊娠です.女性は検査結果がわかるまで,妊娠についてのよけいな出費をおさえたり,妊娠に気づかれないようにマタニティウェアをきるのをさけたりといった冷たい沈黙をしめすとのことです.ゆめを断つおそれをだきながら,最初のかすかな胎動にも気づかないふりをしたり無感動をよそおい,ひたすら検査結果がでるのを待つのです.

このような試練を経験すれば,たとえ検査結果がよいものであっても,その後の妊娠出産になんらかの影響を与えるかもしれません.出生前診断とは「安心という名の幻想」だといわれることがあります.検査はむしろ結果がでるまでは不安を増大させ,検査結果が異常なしとでてはじめてその不安が解消されるという側面があります.出生前診断は安心をもたらすのか,それとも逆に不安をたかめるものなのか?

スクリーニングによって染色体異常のリスクが300分の1以上といわれ,羊水穿刺をうけるような状況にある妊婦であれば,まさにうえのようなことがいえるのだろうと思います.この文章の最初に紹介した常染色体遺伝で25%の同胞再発リスクがあるような例では,不安は検査によって人為的につくられたものではなく,まさに女性のまえに現実にたちふさがっているものです.もし出生前診断が可能でなければ,ふたたび妊娠しようと決意するのはたいへんなことであったでしょう.

出生前診断はこのような「ハイリスク」なときにはまさに価値があり,「安心」をあたえるものだと思います.逆に「ローリスク」な一般女性にたいして,それが「安心」をあたえるものかどうか,これはむずかしい問題かもしれません.

 (1) Rothman BK: The tentative pregnancy, 1986, Penguin Books, New York

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カウンタ 2364 (2013年2月15日より)