鼇城公観とは何者か ―本当に、知られざる偉人なのか?
平成26年度 日本内経医学会 研究発表会
左合 昌美

『素問記聞』と『素問考』

 桂山先生口授の『素問記聞』と鼇城公観輯の『素問考』がある。『素問記聞』は、多紀元簡が『素問』を講義したときの内容を、弟子が記録したものということになっている。つまり多紀元簡が『素問』を研究しはじめた初期の水準を示すものであって、『素問識』に至る道程を窺わせる貴重な資料と考えられている。現在は、武田の杏雨書屋に蔵される。『素問考』の由来は、本当のところあまり明かではないが、一本がやはり杏雨書屋に蔵され、多紀元堅の『素問紹識』や森立之の『素問攷注』に一定の影響を与えたと評価されている。
 両書の内容はそっくりである。そこで、今回の話は一言でいえば、両者の関係は如何なるものか。

多紀元簡が剽窃したのか

 中国の学苑出版社から、北京中医薬大学の銭超塵教授が主となって校正したものが、最近になって「藍泉斎蔵書」などと称して出ている。その前言に、「『素問記聞』は丹波元簡(多紀元簡のこと)が親しく撰したものではなく、金窪七朗(鼇城公観のこと)の『素問考』を過録したものである」といわれる。

鼇城公観輯『素問考』→ 多紀元簡の講義 → 桂山先生口授『素問記聞』

 つまり、鼇城公観のノート『素問考』を借用して、多紀元簡が『素問』の講義をし、それを事情をよく知らない受講生が書きとめて、先生から聞いた話として『素問記聞』ができた。
 はたしてそうだろうか。確実に言えるのは、そっくりということまでである。どちらかがどちらかの引き写しなんだろうとは、まあ言えるかと思う。では、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観のものを写したのか、無名な鼇城公観が有名な多紀元簡のものを写したのか。どちらの可能性も有るだろうが、常識的にいえば、有名な者が無名な者の為事を取った(奪った)というためには、逆の場合よりもさらに多くの証拠を要する。教授は、鼇城公観という埋もれた大学者がいて、多紀元簡の江戸医学館における『素問』講義は、その鼇城公観輯の『素問考』を無断借用して為されたに過ぎないと言いたいようである。しかし、そこまで言うに足るだけの証拠が有るのか。
 藍泉斎蔵書の前言から窺えば、その主張の重要な論拠は、以下の二点であろうと考える。
①『素問考』首頁下に「鼇城公観輯」と署名があるから、鼇城公観の為事に違いない。
② 多紀元簡の説を引くのに、桂山先生でなく、桂山である。これは、朋輩(同輩)として扱っているからだ。

証拠不十分

 先ず、署名が有ることを重視しすぎるのは誤りである。そもそも「輯」は、書き手が全責任を負う作品であることを意味しない。
 著とか輯とか、記とか考とか、いかなる違いが有るのか。江戸時代の日本人の常識としてはどうであったかを見るために、『和本入門』(誠心堂書店店主・橋口侯之介 平凡社 二〇〇五年)を開いてみた。
 「記」は、書きとめる、書きとどめる、ありのまま記す。だから、『素問記聞』という書名は、口授された内容をそのまま記録したということだろう。
 「輯」は、集とほぼ同じで、「集」は、文章や詩歌などの材料を集めてまとめることだが、「輯」にはもう少し編集に近く系統立てるという意味がある。もつとも、『素問考』の場合は、末尾には「庚戌之夏集之」とあるから、巻頭の署名の下だから「集」より「輯」という字を選んだだけとみていい。「考」は、他者の文に自分の意見を加えるときにもいう。してみると『素問考』という書名の由来は判る。鼇城公観としては、多紀元簡の『素問』講義の内容の他に集めて併せたものが有り、いくらかは自分の意見も添えたつもりなのであろう。確かに、『素問考』には『素問記聞』に無い按語が有り、そのうちのいくらかは鼇城公観のものかも知れない。他から集めて併せた内容の主なものには、張介賓の『類経』注、馬蒔の『素問註証発微』がある。
 次いで、桂山先生と「先生」をつけないと無礼なのか。それほどでも無いと思う。号で呼ぶこと自体がそれなりの尊敬の現れである。
 また、弟子でなく同輩、さらには先輩であっても、多紀元簡の『素問』講義を聴くということは有っただろう。講義をしたのが、『素問識』の序にいうところの、「庚戌の冬に侍医に擢でられ、公私に鞅掌、呼吸に遑なく、遂にこれを橱中に投じた」のより以前とすれば、三十代前半のころで、当時としては中年であったにせよ、未だ雲の上の人というわけではなかったはず。だから、聴講者であっても、必ずしも桂山先生と書いたりしなくてよい立場のものもいただろう。
 またそもそも、当時の講義はどのように為されていたのか。聴きながらノートを取るなどということは可能だったのか。特殊な才人はともかくとして(小川環樹の中国語学講義を、尾崎雄二郎がそっくりそのまま筆録したという本が、臨川書店から出ている)、一般には難しかろう。講義用ノートを書き写させてもらったのではないか。その場合、ノートが多紀元簡がおのれの為に準備したものであれば、当然ながら「桂山先生云」などとは書かなかった。ただ「按」とか「云」とか、あるいは「桂山云」とだけ記した。それは確かに、『素問記聞』の場合のように、抄者が「先生」を加えるほうが鄭重だろうし、『素問考』のようではいささか粗忽なのかも知れない。しかし、声を荒げて叱責すべきほどのこととは思わない。
 多紀元簡が自分で書いたノートがあったはず、ということのついでに言っておくが、現存する『素問記聞』の筆者の教養レベルはお話しにならない。誤りだらけである。そしてその誤りの大部分は形誤である。聴講した内容を速記した場合とは誤りかたが違う。
 故に、二点の証拠は、いずれも確たるものとは言い難い。

継承関係の異見

 書名と署名の意義から推測すれば、継承関係のあらましはむしろ次のようなものではないか。

 多紀元簡の講義ノート → 桂山先生口授『素問記聞』
            ↘
             鼇城公観輯『素問考』
 「類注」・「註証」etc.  ↗

 多紀元簡は『素問』の講義の為に、何らかのノートは用意したはず。そのノートは恐らくは受講生、あるいは少なくとも受講生の一部には書き写すことを許されていた。次々と転写されて、抄本はいくつかできていたのではないか。その内の一つは(あまりできのよくない受講生の書き写した)桂山先生口授『素問記聞』として残った。別の一つは、鼇城公観の手に入り、彼は省略されたりして不足と感じた『類経』注や『素問註証発微』を、ながながと書き足した。鼇城公観には、そうしたことができる程度の教養と資料の持ち合わせがあった。

その他の差異をどう判断するか

 さて、『素問考』と『素問記聞』の内容の違いには、見方を変えればむしろ私の考える筋道を支持するものが有る。
 『素問記聞』上古天真論の「故美食數然也 也猶邪」について、この条は誤りが甚だしく、『素問考』では3条であるものを合成して1条としたものであり、あまつさえ厳重な抄誤が有るのは、『素問記聞』が『素問考』から出たものである確証といわれるが、どうしてそんな理屈になるのか。単に『素問記聞』の書き手の粗忽さを露呈するに過ぎなかろう。
 金匱真言論「故冬不按蹻」条について、『医学綱目』が「按蹻」は衍文かどうかをいうのに対する元簡の按語が、『素問考』にはあるのに、『素問記聞』にないのも、なんの不思議もない。『素問記聞』も『素問考』も同一のノートからの抄写であるとは認めているはずであるが、元のノートが改変と増補を繰り返す過程で写されているはずである。原著者の理解は日々に進んでいたと想像される。それが反映されていても何の不思議もない。一方にあって、他方にない内容があるのも、むしろ当たり前である。そもそも『素問考』は、『医学綱目』が衍文説なのかどうかの根本を誤っている。「桂山云:『医学綱目』以按蹻二字為衍文者、妄也。其言有衍文錯簡者、可也。」(按蹻の二字が衍文だというのは思い違いである。どこかに衍文もしくは錯簡が有るという意見なら、まあ良い。)『素問識』ではきちんとした引用をしている。「楼氏『綱目』云:按蹻二字非衍文。其上下必有脱簡。即冬不蔵精者、春必温病之義也。」(按蹻の二字は衍文ではない。ただその上下に何かを脱しているはずだ、云々。)これなどはむしろ、『素問記聞』は『素問考』を書き写したものではない証拠といえそうである。『素問考』の緝者は、多紀元簡の講義を聴きまちがえて記録した可能性がある。
 また、陰陽離合論の厥陰に関する項、どちらにも「漢書・貨殖志:天下之財産、焉得不厥足。師古註:厥足、盡竭也」とある。この貨殖志は食貨志の、厥足は蹷の誤りである。これらは(多紀元簡の『素問』研究の集大成)『素問識』では修正してある。ところがもう一つ、『漢書』を調べると、師古註は応劭註「傾竭也」の誤り。やはり、最初の多紀元簡のノートの誤りを、『素問識』として整理したときに正したと考えたい。貨殖志を食貨志と訂正した。蹷はもともと誤ってなかった可能性も高い。誰の註であるかの誤りはそのまま。訂正が中途半端なのは、常識によって処理したからで、それはもともと(多紀元簡)自身の按語だからであろう。もし他人の為事から取ったのであって、短い引用の中に二つもの誤りを見出せば、残りの部分についても直接『漢書』を紐解いて確認しそうなものではないか。応劭註を師古註と誤るなどということは、どうしておこったのか。『康煕字典』ではない。誤りのもととなった書物を突き止めれば、『素問識』成書の秘密にまた一歩近づけそうなんだが。(以前、井上雅文先生から、『素問識』はすごいけれど、『康煕字典』が有ればかなりのところまではできる、神業というほどのことではないらしい、と聞いた。伊沢棠軒『素問釈義』は幕末の戦に従軍中に書かれた。どうしてそんなことができたのか。実は『素問識』と『素問紹識』が有れば、その他の資料は行李一つにも入ったかも知れない。別に牛に負わせて汗をかかせるには及ばない。)
 またあるいは、陰陽離合論の「陰摶陽別謂之有子」の条、『素問考』に桂山曰と有りながら、『素問記聞』に無いのは、『素問記聞』が『素問考』から出る確証といわれるが、何のことやらさっぱり合点がいかない。『素問考』は上に類註を引いたから、ここからは張介賓の考えではなく多紀元簡の説と、はっきりさせたいから「桂山曰」を途中に必要としただけのこと。紛れそうにないところでは、ほとんど誰の按語であるかは記すことはない。上古天真論「分別四時」の按語でも、『素問記聞』はわざわざ桂山曰などとはしない。無くともわかるはず。
 『素問記聞』も『素問考』も、同系のノートを元にしていると仮定して、どちらがより後期のものに拠っているかははっきりしない。ただ、『素問考』には汚れか剥落の痕を模写したと思しい箇所が有る。陰陽応象大論「九竅為水注之気」の条に、『外台』十六引刪繁論に云うとして「九竅為水注之○気」とある。『素問記聞』ではキチンと「九竅為水注之於気」になっているから、『素問考』抄写の対象となる講義ノートのほうがより後期のもの(汚れてしまってからのもの、あるいは墨で塗りつぶされた後のもの)だからと考えられる。もし、『素問考』のほうが、多紀元簡の講義ノートの源であったと仮定すれば、『素問考』の集め手と書き手は別人(つまり書き手は鼇城公観ではない)で、しかも現存のものは、汚れてしまった後のものからの書き写しということになりはせぬか。鼇城公観とその弟子もしくは朋輩によるサークルのごときものの存在が必要になりはせぬか。もしそうだとしたら、鼇城公観の周囲にも、そこそこ事情を知る人がいたはずで、しかも江戸の学界には半世紀もの間、誰もその書物の存在を知るものがなかった、ひょっこり「偉大な先学の為事」として出てきた、というのは異様ではないか。

喜多村直寛の酷評

 どうも学界は、多紀元簡に対して厳しすぎるように思う。これには、喜多村直寛の言い分からくる悪印象の影響が有るのだろう。『黄帝内経素問講義』の跋文の中に、多紀元簡の『素問識』は偉大な著作には違いないが、先人の為事を剽窃したところが有ると批判されている。すなわち目黒道琢に十の七を、稲葉通達に十の二を負うている、その他にも芳邨恂益などというのもいる。こんなことを言われるのは、多紀元簡の身から出た錆(他にも人格に問題が有るとする評判が残っている)でもあろうが、いささか酷に過ぎるとも思える。『素問識』の業績のほとんどが、目黒道琢や稲葉通達に由来する、明記しないのはけしからんと言うのであれば、どうして『黄帝内経素問講義』に、「劉(多紀元簡のこと、多紀氏は後漢霊帝の後裔を称している)云」が多いのか。とても十に一どころではない。喜多村直寛の主張するところに叶うには、おおもとを確かめて、片端から「驪(目黒道琢のこと)云」や「稲(稲葉通達のこと)云」に改めるべきだったのではないのか。我々としては、平心につとめ、初めから色眼鏡で見るのは控えるべきだろう。

校正本の粗忽

 名高い多紀元簡の為事にだって、それは粗忽は有るだろう。例えば、『素問記聞』も『素問考』も、張志聡を張思聡と書き間違えるのは共通している。こういうのは多紀元簡のノートにすでにあったことかもしれない。
 藍泉斎蔵書にだって粗忽は有る。前言に取り上げられていることのいくつかは勇み足である。例えば『素問記聞』の抄者のレベルをあげつらって、「侖」は「訛字である、当に論に作るべし」というのには同意しがたい。なるほど見慣れない文字ではあるが、これは古字もしくは略字というべきものである。『漢語大字典』にも、「侖」は「論」と同じとちゃんと載っている。
 この他にもいろいろなことを言われているが、藍泉斎蔵書自体それほどの精校とはいえないし、継承関係の証拠とされるものもさして確かとは思えない。かつて、『霊枢識』が『素問識』より劣るのは、『素問考』に相当するものが無かったからだと言われたことも有るが、それは主観的な感想であって、論拠には為しがたい。藍泉斎蔵書には、さすがにこんなのは載せてはいない。
 はっきりしているのはそっくりということ。どちらがどちらを剽窃したかを確言できる証拠は、未だ見つからない。だから、有名な多紀元簡が無名な鼇城公観の為事を奪ったなどと、誹謗し、常識を逆転させるに足るだけの証拠は無い、と無名な粗忽者が有名な学者に抵抗するだけのことである。

鼇城は稲葉氏の居城

 ただ、教授の、鼇城公観のほうが先輩であるという意見を、後押ししかねない些細な情報なら、実は一つ見つけてある。
 「鼇城公観 後改姓名為金窪七朗」とあるのを、七朗の字は公観、号は鼇城と解するのには疑問が有る。当たり前なら、鼇城という姓を金窪に、公観という名を七朗に改めたという意味の注記だろう。
 確かに鼇城というのは日本人の苗字(姓と氏と苗字の違い、などというややこしい話は省く)としては異様であるが、豊後臼杵の城の異名に亀城というのがある。さらに巨きな神話的な亀ということで、鼇城という場合もあった。出身地を苗字代わりとするのは、むしろ伝統的である。してみると、豊後臼杵の(藩主)稲葉氏の出のものが、鼇城という戯れの苗字を称する可能性はある。(亀城という異名を持つ城は、全国にいくつも有るが、確かに鼇城と呼ばれたものは、他には知らない。)思い起こせば、『素問研』の稲葉通達は、豊後臼杵の人らしい。確かに稲葉氏の通字の「通」を用いている。稲葉通達の係累が、稲葉の一族とあからさまに名乗っては拙い場面で、鼇城公観と戯称するのはそう突飛、不可思議ではない。医家としての稲葉一族の端くれであれば、家学の発露としての『素問考』を集する能力くらいは期待できそうである。得体の知れない者が、得体の知れない学識者でありうるのかという疑問は払拭できる。
 あるいはまた、鼇城というのは署名における、ひそかな矜恃の表現に過ぎなかったかも知れない。それで、誰にも存在を知られなかった。時がたってさすがに鼇城公観という異様な名では通らなくなって、金窪七朗となった。あるいは世間にはもともとそう称していたのかも知れない。稲葉氏を名乗らなかったのは、そちらの方面にもはばかるところが有って、母方の氏でも採ったのかも知れない。ただ、そもそも金窪某としても、受講生仲間に記憶されるほどの存在ではなかったらしい。
 だから、結局のところ鼇城公観とは何者か、よくわからない。桂山先生の聴講生中のオッチョコチョイか、あるいは稲葉通達の係累のはぐれものか。
(二〇一四年一月十二日発表)