素 問 考 に つ い て
日本内経医学会月報1993年4月号より

【起】
 一、成立
 巻末に「寛政四年庚戌之夏集之」とある。ただし庚戌は寛政二年にあたるから、何方かが誤りである。寛政四年壬子は西暦1792年、二年庚戌は1790年である。四を二と誤る可能性の方が高いだろう。これを成書の年とする。
 二、輯者
 巻首に「鼇城公観輯」とあり、傍らに同筆で「後改姓名為金窪七朗」とある。今までのところ、著者についてはこれ以上のことは不明である。本書末尾の多紀元堅の自筆の識語にも、「不知何許人」と言っている。「鼇」は海中に住む大スッポン、ただし「鼇山」と言えぱ、大きな海亀がのせているという海中の山で、神仙の住むところだから、単なるスッポンではない。「鼇城」と言うのは日本人の氏としては異様でもあり、僧名、道号の類かも知れない。のち還俗して金窪七朗と言ったか。金窪氏には、武蔵の国児玉郡金久保邑から起こる鎌倉以来の名族が有る。
 もし「鼇」が「鼈」の誤字であれぱ、「ベッキ」と読み、別木、別喜、戸次などのうち何れかの書換えかも知れない。これらの氏は各地に名族が有る。ただしこれらの氏を称する幕末の名医、名儒は知らない。
 三、出現
 本書末尾の多紀元堅の識語中に、「榎本玄遷、持来見示、因瀏覧一過去題数言以還」とある。榎本玄遷については、森立之の『素問攷注』の采用諸家例式で関宿藩針医と注している。この識語は「丙午歳首夏望」に書かれ、これは弘化三年(1846年)にあたる。成書より半世紀以上を経ている。以後、多紀元堅の『素問紹識』、森立之の『素問攷注』、伊澤裳軒の『素問釈義』などに引用される。
【承】
 四、構成
本書は一丁半面に概ね十三行二十字で書かれた抄本である。時に細注を混える。用紙の版心には陰刻で「集成堂藏」とある。丁数は篇毎に新しくする。全文同筆のようであり、条文の順序を訂正したとみえる「上」「下」などの文字の他は、欄外、行間に僅かな加筆が有るだけで、既に完成していたものを筆写したように思われる。それにも係わらず、引用の仕方に整理が見られない。つまり、張介賓を時に、張云とし、また類注云とする。張志聡に至っては、集注云とし、志聡云とし、また思聡云ともする。
 各条は上に問題とする句または、長いときは最初の句のみを示し、下に校勘資料、諸家の注解を列記し、時に自らの見解を述べる。全体にわたって返り点が施され、総て多紀元簡の『素問識』の体裁に似る。所謂運気七篇を扱わないのも『素問識』と同様である。
 現存するものは篇第三十四から第四十二を欠いている。『素問釈義』などに引用されるものの中にもこの部分を既に欠いている。
 五、冊数
 全巻は現在は五冊に分けられている。森立之の『素問攷注采用諸家例式』では、「凡四冊、無巻数」とする。四冊は誤りであろう。『素問攷注』平人気象論に引用するにあたっては五冊とする。ただし、本文には冊の数は記されておらず、ただ全書の首と脈要精微論の篇名の前だけに「素問考」と有るのだから、(全体の分量の釣り合いからみて)原書は上古天真論と脈要精微論と、現在は失われた逆調論から風論にいたる何れかの篇を首篇とする三冊に綴じられていたのであろうと推測される。
【転】
 六、『素問識』以前
 多紀元簡は『素問識』の自序中で、父の教えを奉じて『素問』を研究すること十数年、「凡そ以て経旨を開発す可き者は、簡端行側に細字標識し、これを久しくして側理殆ど余地無きに至」ったが、庚戌(寛政二年=1790年)の冬に侍医に抜擢され、多忙の為に、一時中断した、と言う。この頃までに、元簡が自ら書き入れをなした『素問』にもとづいて弟子に口述したものを筆記したのが、桂山先生口授『素問記聞』であると、一応推定される。
 そして、辛酉(享和元年=1801年)の秋に外班に下って暇が出来てから、再び整理、改定して作つたのが『素問識』八巻である。勿論、享和元年以後にも、元簡は『素問』を講義したであろうし、『素問記聞』はその記録という可能性も有るが、『素問記聞』から『素問識』への発展の状況からみて、寛政二年頃までの講義の記録と考える方が相応しいと考える。
 さて、この『素問記聞』と『素問考』を比較してみると、殆どの内容が一致する。従って、『素問考』もまた多紀元簡の講述するところを筆記したもの、或いは『素問記聞』の別本と考えるべきであろう。『素問考』の推定成書年が、元簡の侍医就任の年というのも暗示的である。
 その類似する所は、全巻殆ど悉くであるから、首篇を挙げて例とする。〔 〕内は原書では細字双行。『素問考』をもとにして、赤字部分が『素問記聞』と共通する(文字の違いは引書に従う)。青字部分は『素問記聞』にしか無いものの補充である。

上古天眞論〔林億五藏生成篇注云有問答爲論無問答爲篇易云上古聖人穴居而野慮天蓋自然之謂莊子云眞誠精之至也淮南子云雖神農黄
帝之聖不能與眞人居呉云此篇言保合天眞則能長有天命乃上醫治未病也淮南子
注云上古玄古也漢書藝文志云方技者生生之具王官之一守也大上有岐伯兪拊云
云
昔在黄帝 書堯典酒誥等作在昔無逸篇謂昔在倶猶言古昔也孔疏云言昔在者鄭
 玄云書以堯爲始猶言昔在使若無先之典然也詩言云自古在昔言在昔者自下本
 上之辭言昔在者從上而下爲稱故曰使若無先之者據代有先之而書無所先故云
 昔在也 註證云此總述黄帝始末之辭合類云此述黄帝始末記者之言也〔至登
 天〕
生而神靈 易云陰陽不測謂之神大戴禮云陽之精氣曰神陰之精氣曰露類注云神
 露聰明之至也
弱而能言 史記索隱引播岳哀弱子篇云生未七旬曰弱呉注云弱始生百日之稱
 〔曲穫二十日弱與此義異〕
幼而徇齊 家語大戴禮徇齊作睿齊一本作慧齊張云齊中正也馬云齊側皆切通雅
 卷七曰史黄帝幼而徇齊注徇迅也齊疾也家語作叡齊大戴禮作慧齊智按爾雅宜
 徇徧也疾齊速也狗乃徇之訛言聖哲偏知而神速〔以上方以智通雅之説〕墨子
 云年踰五十則聰明心慮無不徇通矣説文徇徧也齊速也綱鑑注云狗疾也齊速他
 言聖徳幼而疾速化
長而敦敏 呉云敦厚也敏達也馬云敦信也敏達也〔王泳同〕張云敦厚大也敏感
 而逐通不疾而速也
成而登天 張云謂治功成天年盡在位百年壽百十一歳而升遐也凡人之死魂歸於
 天今人云死爲升天者蓋本干此世傳黄帝後鑄鼎於鼎湖之山鼎成而白日升天者
 似渉於誕〔注證大略與次注同〕按竹書記年云帝王之没曰陟陟昇也謂昇天也
 介賓以登天爲崩御之義蓋本干此綱鑑注日成成人也素問要語云登天者即位也
 莊子黄帝登雲天云云 以上論帝一生之事故做小序看
廼問天師曰 王安石曰乃爲継事之辭呉云廼乃同天師尊稱也又出莊子徐無鬼
 篇秦漢之時呼道士稱天師乃承天之辭類注云六臣之中惟岐伯之功濁多而爵位
 隆重故尊稱之爲天師集注云天者謂能修其天眞〔此説甚是〕
人將失之 千金方作將人謂失養生之道
岐伯對曰:呉云岐國名伯爵也神仙通鑑云岐伯岐山下仙伯也〔按黄帝之時未聞
 有五等之爵呉説殆誤之〕
知道者法於陰陽 類注云道者造化之名也陰陽天地千金方法作則
和於術數 類注云術數修身養性之法也荀子楊倞注云數術也本見呂覽注術數者
 修道之法則也
起居有常 家語王肅注起居猶動靜也千金作飲食有常節起居有常度
盡終其天年度百歳乃去 類注云天年者天畀之全去死也去此就彼之義故能盡天
 年而死靈樞天年篇云百歳五藏皆虚神氣皆去形骸獨居而終美
以酒爲漿 漢書飽宣傳漿酒霍肉品字箋云凡物之汁皆曰漿漿將也食飲之可將扶
 生氣者周禮有漿人之職莊子有賣漿孝子傳有義漿〔即水也〕
以妄爲常 即无妄之妄見子易呉注云下文起居無節四字宜在此下〔今按上文□
 不妄作勞然則此言妄作勞動之事也〕
耗散其眞 新校正云按甲乙経耗作好一本作解今閲甲乙經皆作耗眞乃難經所謂
 腎間動氣集注曰天眞之氣也類注云持執持也御統御也神神藏
夫上古聖人之教下也皆謂之 此結上之兩節金峨曰皆皆上古聖人也新校正云按
 全元起注本作上古聖人之教也下皆爲之太素千金同虚邪賊風出九宮八風篇可
 考
避之有時 言從陰陽消長之時宜避其害也
恬憺虚無 類注云恬安靜也憺朴素也虚澹然無物也無窅然莫測也惔憺古通用又
 作淡韓非子臣以爲恬惔説文云恬安靜也
病安從來 安從猶自何也
故美其食 以下三句與老子八十一章頗同但美爲甘任爲美類注云與天和者楽天
 之時與人和者楽人之賊也
愚智賢不肖 按靈樞  篇此句上有無字
將天數然也 也猶邪
女子七歳 左傳云女陽物也與此説反言陽得陰數而長陰亦得陽數而長 齒者骨
 之餘故腎氣滿則骨體日盛骨體日盛則齒更髮長
二七而天癸至 郭象注莊子云天者自然之謂也鄭玄注禮記云癸之言揆也萬物懷
 妊於下揆然萌芽據此二説天癸即男女慾竇始開之謂也〔韓氏醫通〕 張云天
 癸言天一之陰氣也〔下又引全文〕呉云癸腎水也是爲男精女血天眞所降也故
 曰天癸甲乙作天水行餘醫言膈噎門云女子二七陰竅初生滑澤之曰天癸此一節
 與家語本命解略同注證云天癸者陰精也蓋腎屬水癸亦屬水由先天之氣畜極而
 生故謂陰精爲天癸也〔細注〕按王冰謂天癸爲月事者非蓋男女之精皆可以天
 癸稱今王注以女子之天癸爲血則男子之天癸亦爲血耶易曰男女媾精萬物化生
 故交媾之時各有其精而行經之際方有其血未聞交媾之時可以血言廣嗣要語諸
 書皆謂精開裹血血開裹精者亦非云 類注云愚按天癸之義諸家倶即以精而爲
 解然詳玩本篇謂女子二七天癸至月事以時下男子二八天癸至精氣溢寫是皆天
 氣在先而後精血繼之分明先至後至各有其義焉謂天癸即精血即天癸本末混淆
 殊失之矣夫癸者天之水干名也干者支之陽陽所以言氣癸者壬之偶偶所以言陰
 故天癸者言天一之陰氣耳氣化爲水因名天癸此先聖命名之精而諸賢所未察者
 其在人身是曰元陰亦曰元氣人之未生則此氣蘊於父母是爲先天之元氣人之既
 生則此氣化於吾身是爲後天之元氣榮氣之初生眞陰甚微乃其既盛精血乃王故
 女必二七男必二八而後天癸至天癸既至在女子則月事以時下在男子則精氣溢
 篤蓋必陰氣足而後精血化身耳陰氣陰精譬之雲雨雲者陰精之氣也雨者陰氣之
 精也未有雲霧不布而雨雪至者亦未有雲霧不濃而雨雪足者然則精生於氣而天
 癸者即天一之氣乎可無疑矣列子曰有生者有生生者有形者有形形者其斯之謂
大衝脈盛 全本太素甲乙倶作伏衝下同一作伏膂陰陽離合論王注云腎至與衝脈
 合而盛大故曰大衝督任衝三脈共出于子宮十四經注云任之爲言姙也行腹部中
 行爲婦人生養之本大衝衝脈也會任脈伏膂中而行 紅毛人説天樞左有大動脈
 元氣虚則爲動氣爲積塊是疑大衝脈乎〔或曰氣府論云衝脈氣之所發者二十二
 穴俠鳩尾外各半寸至臍十一〕五音五味篇云衝脈任脈皆起於胞中
月事以時下 注證云事者月經也毎月有事故曰月事以其有常故又云月經經者常
 也類注云月事者言女子經水按月而至其盈虚消長應於月象經以應月者陰之所
 生也
眞牙生而長極 眞當作齻或音通徐子才子傳或生齻牙之再云是智才也是與王説
 合又儀禮既夕禮右齻左齻疏謂牙兩畔最長者集注云蓋齦牙也
丈夫八歳腎氣實 丈夫男子通稱大戴禮丈長夫扶也謂扶持生養天地萬物也漢人
 説丈尺名十尺曰丈人身長一丈故曰丈夫
天癸至精氣溢寫 類注云男女眞陰皆稱天癸天癸既充精乃溢寫
五七陽明脈衰 張云女爲陰禮不足於陽故其衰也自陽明始男爲陽體不足於陰故
 其衰自腎始白虎通云七歳之陽也八歳之陰也七八十五陰陽之數備有相偶之志
 蓋概男女取十四十六之中而言之耳
筋骨隆盛 隆突起貌
髮鬢頒白 呉云頒斑同注證亦同是也孟子頒白者不負戴于道路注頒斑同經絡全
 書引説文頒髩也然是宜爲斑看
腎藏衰 甲乙作腎氣可從白虎通腎之爲言寫也釋文云腎引也謂導五藏六府之精
 液
形體皆極 説文燕人謂勞曰極又郭璞方言注極疲也
腎者主水受五藏六府之精 此章爲下文五藏皆衰無子者言也精精液之精素問中
 所説不同宜隨處着意
男不過盡八八 高世栻直解云此雖有子非其常數若常數論之則男子天氣不過盡
 八八女子天癸不過于七七上天之氣下地之精皆竭矣明韓懋韓氏醫通曰大衍敷
 五十有五天地自然之數也桂山曰由是考之則謂不過八八者是五十五而加九數
 也謂不過七七者是五十五而減九數也所謂陽進陰退之理了然可見焉 桂山曰
 諸家注大抵以七七八八爲其子之年數者非也馬注爲其親之年數尤可也〔今擧
 馬氏説于下〕注證曰夫曰年老而有子則雖八八已後亦能有子也然此等之人雖
 或有子大略天地間之爲男者不過八八之數爲女者不過七七之數而天地所稟之
 精氣皆竭矣能如此等之有子者不亦少乎
帝曰夫道者年皆百數 類注云道者言合道之人也既能道合天地則其材力天數自
 是非常却老全形壽而生子固有出人之表而不可以常數限者矣此篇大意帝以材
 力天數爲問而岐伯之答如天癸盛衰者言材力也七七八八者言天數也雖材力之
 強者若出於數限之外而其所以能出者又何莫非天稟之數乎其有積精全神而能
 以人力勝天者惟法則天地而合同於道者爲能及之也云云
却老而全形 説苑云却歩而及前人與此義同
身年難壽 身年之字多見王充論衡
黄帝曰余聞上古 注證云此下四節帝述其素所聞者而言之也 淮南子淑眞訓提
 挈天地而委萬物高誘注云一手曰提挈擧委棄也又云聖人呼吸陰陽之氣白居易
 云王喬赤松呼吸陰陽之氣食天地之精呼而出故吸而入新 肌肉如一言與天地
 合其質如一也 類注云眞天眞也不假修爲故曰眞人 又云呼接於天故通乎氣
 吸接於地故通乎精又云引金丹大要曰氣聚則精盈精盈則氣盛此言精氣之互根
 也 又云有道獨存故能獨立神不外馳故曰守神 又云神寄於中形全於外身心
 皆合於道故曰肌肉如一即首篇形與神倶之義 又云敝盡也形去而心在氣散而
 神存故能壽敝天地而與道倶生也 呉云敝盡也〔與類注同義〕 類注又云按
 此節所重者在精氣神三字惟道家言之獨詳今并先賢得理諸論採附於左以助參
 悟云云 類注云愚按諸論無非精氣神之理夫生化之道以氣爲本天地萬物莫不
 由之故氣在天地之外則包羅天地氣在天地之内則運行天地目月星辰得以明雷
 雨風雲得以施四時萬物得以生長收藏何非氣之所爲人之有生全賴此氣故天元
 紀大論云在天爲氣在地爲形形氣相感而化生萬物矣惟是氣義有二曰先天氣後
 天氣先天者眞一之氣氣化於虚因氣化形化氣此氣自調攝中來此一形字即精字
 也蓋精爲天一所生有形之祖龍虎經曰水能生萬物聖人獨知之經脈篇曰人始生
 先成精精成而腦髓生陰陽應象大論曰精化爲氣故先天之氣氣化爲精後天之氣
 精化爲氣精之與氣本自互生精氣既足神自王矣雖神由精氣而生然所以統馭精
 氣而爲運用之主者則又在吾心之神三者合一可言道矣今之人但知禁慾即爲養
 生殊不知心有妄動氣隨心散氣不聚精遂氣亡釋氏有戒慾者曰斷陰不如斷心心
 爲功曹若止功曹從者都息邪心不止斷陰何益此言深得制慾之要亦足爲入門之
 一助也 此其道生 言與天地之道生長按上文雖言无終時然有此生則必有終
 矣老子云死而不滅者壽即是也能成就於道者雖死其神不減
中古之時有至人者淳徳全道 莊子云不離眞謂之至人〔注證云至極之人也〕張
 云淳厚也文選李善注淳不澆也
視聽八遠之外 類注云至道之人動以天行故神遊宇宙明察無外故聞見八荒 按
 宋板作八達按准南高誘注遠殥或通蓋謂八荒准南作八殥
亦歸眞人 類注云此雖同歸於眞人然値能延壽而不衰已壽蔽天地者呉曰亦者有
 間之鮮
從八風之理 見准南子及靈樞九宮八風篇理木理也 類注云適安便也恚〔音畏
 注證於桂切〕怒也瞋惡也欲雖同俗自得其宜隨遇皆安故無瞋恚
被服章 〔新校正云三宇疑衍〕 書云五服五章哉呉云聖人擧事同於時俗故被
 服章衣冠而處類注云五服五章尊徳之服皐陶謨曰天命有徳五服五章哉
擧不欲觀於俗 猶言不欲見觀于世俗
以恬愉爲務 淮南原道訓恬愉無衿注云恬愉無所好憎也 知要云聖人之心不磷
 不淄雖和光混俗而未嘗觀傚於俗也 又云恬愉者調伏七情也
以自得爲功 知要云自得素位而行無入不自得也 類注云聖人之心外化而内不
 化外化所以同人故行不欲離於世内不化所以全道故擧不欲觀於俗者效尤之謂
 恬靜也愉悦也〔與王同〕敝壞也外不勞形則身安故形體不敝内無思想則心靜
 故精神無傷内外倶有養則恬愉自得而無耗損之患故壽亦可以百數
其次有賢人者 類注云賢善也才徳之稱法效也則式也象放也似肖也辨別也列分
 解也逆反也從順也將隨也極盡也 知要云言精乎醫道者也
法則天地象似目月 言從陰陽消長之理 陰陽應象大論云惟賢人上配天以養頭
 下象地以養足中傍人事以養五藏 又見干靈樞邪客篇 尚書注日月之所會謂
 之解
分別四時 具干四氣調神論 將從二字一意 桂山按此篇全道家之言蓋係於淮
 南王輩所作莊子分神聖至賢文子別二十五等 〔文子有神人眞人道人至人聖
人其次徳人云云以小人爲最下〕可見秦漢之際有此等之伎倆
 これを似てないというのは、盗作を咎められた小説家の抗弁に似る。しかも「昔在黄帝」条で両書とも『書』尭典、酒誥等で在昔に作り、無逸篇で昔在に作ると言うが、十三経注疏本では尭典は昔在、酒誥は在昔である。こういったものを偶然と見なすのは無理であろう。
 その相違する所は、『素問考』には、張介賓(概ね「類注」と記す)、馬蒔(概ね註證と記す)などの諸家注、引用書の篇名を追加することがあり、また条数もやや多いように思われることである。その中には按語も幾つか有る。従って単なる講義の記録で無く、自分にとって必要な諸家注を摘録し、時には自分の考えも述べたとも考えられる。巻首に「鼇城公観輯」、巻末に「集之」と記す所以であろう。
 ただし、『素問記聞』には、題目だけで内容の無い条など、書き洩らしを思わせるものが有る。例えば『素問記聞』の上古天真論には「故美其食 数然也○也猶邪」とある。これは「故美其食」の解釈を脱した結果である。『素問考』ではこの間に解釈と「愚智賢不肖」条と、「数然也」の上の「将天」二字が有る。また『素問記聞』の書式から見れば「数然也」と「也猶邪」の間の○は有るべきではない。
 また「男不過尽八八」の解釈の後半は『素問記聞』には無いが、その中に二つの「桂山曰」が有る。これは『素問考』の筆者が、元簡の素問講義を聞く機会が有ったということである。
 さらにまた、四気調神大論の「愚者佩之」条「元李冶古今黈云佩与背通用」は『素問記聞』は無いが、『素問識』には「古今黈之説是」と言う。
 これらは『素問記聞』の書き洩らし、あるいは聞き落としと考えられる。
 また例えば、森立之は『素問攷注』金匱真言論の「長夏」の項に『素問考』を引いているが、その文は『素問記聞』にも有る。従ってこの説は、もともとは元簡のものであったと思われる。
 さらに『素問記聞』中の按語を、『素問考』に書き入れるに際して必ずしも「桂山曰」としていない。従って逆に『素問考』だけに有る按語を、そのまま鼇城公観のものとして評価するわけにはいかない。
 従って、平人気象論の「尺脈緩濇は当に尺緩脈濇に作るべし。脈尺粗常熱は当に脈粗尺常熱に作るべし」も、鼇城公観の考え出したことかどうかは大いに疑わしい。『素問記聞』には無いが、写し漏らしている可能性の方が高いからである。また『素問紹識』の「先兄曰」に「蓋し尺膚緩にして脈濇なり」と言い、「此れまた脈粗にして尺膚常に熱す」と言っている。元胤が元簡の説を参考にしたか、あるいは無自覚に剽窃したかも知れない。だから、『素問考』末尾の多紀元堅の識語で「前人の未だ言及せざるところ、甚だ古脈法の旨に叶う」と評価し、「先兄柳沜先生が所見もまた相近し」などと言っているのは、殆ど笑い話に近い。
 総じて言えば、独特の卓見も皆無とは言い切れないにしても、『素問攷注采用諸家例式』中で『素問紹識』と『素問研』の間に列するのは、分に過ぎると思われる。
 とは言え、『素問記聞』との間に文字の違いが有る場合は、『素問考』が正しいことが圧倒的に多い。従って少なくとも鼇城公観の教養は『素問記聞』を書写した人物よりは高いと思われる。
【結】
 七、謎
 まず最初に年代的に整理しておく。
 1790年 元簡は侍医に抜擢され、多忙のため『素問』研究を一時中断
 1790年または1792年 『素問考』の筆写を終える
 1801年 元簡は外班に下り、『素問』研究を再開
 1808年 『素問識』自序
 私はこれまで『素問記聞』は、元簡が侍医に抜擢される以前に講述したところを筆録したものであると推定して、話を進めてきた。勿論、外班に下って研究を再開した後の記録と考えることも不可能ではない。しかし、それでは以前の『素問』研究とは如何なるものであったのか、大いに謎である。また『素問考』を見た後に行った講義の記録が『素問記聞』であるとしたら、それは影響などというものではなく、盗作である。
 それにしても、不思議なことはいくつも有る。
 この時代の『素問』研究書が多紀元簡を指して言う時は概ね「桂山先生」とするのに、『素問考』では「桂山」と呼び捨てにしている。これは原本が恐らく元簡の自筆で、だから当然「先生」を付けなかったのを、そのまま書き写したと考えれば解決がつく。また人を号で称すること自体が尊敬を表すのであるから、「桂山」だけでも格別無礼なわけではない。
 もう一つの謎は、多紀元堅も森立之も伊沢裳軒も、『素問考』と多紀元簡の講義録との類似性に気付いてないことである。これは彼らの年齢と関係が有るかもしれない。元簡が『素問』の講義をした時期は、侍医拝命の1790年以前と考えたほうがよい。鼇城公観によって『素問考』が書写されたのは、巻末の『寛政四年庚戌之夏集之」の寛政四年が正しければ1792年、庚戌が正しければ1790年である。いずれにせよ元堅も立之も裳軒もまだ生まれていない。1801年に元簡が侍医を辞してから整理、改定を進め、1808年には『素問識』の自序が書かれた。この1808年でさえ、元堅が十四歳、立之は二歳、裳軒はまだ当分生まれない(元胤は二十歳)。(2004補注:もし1801~1808年に行われた講義の記録が『素問記聞』であるとしたら、元胤や元堅はその内容を多少は知っていて良いはずである。)整理、改定の過程で、書き入れをなした『素問』あるいは講義録は当然変質もしくは失われたであろうから、彼らが目に出来なかったのは無理も無いかも知れない。残ったのはあまり出来の良くない(少なくとも考証学者としては大成しなかった)学生による講義録の抄本だけになっていた。1846年に榎本玄遷が持ってきて見せたのが、偶然にも、「桂山先生口授」と書かれていない方の『素問考』だったので、気付かれないまま評価されることになった。これには元堅の識語の力も与かるところが有ったのであろう。その内容が『素問識』を越えるものでないのは、同一著者の破棄された未定稿であってみれば当然のことである。
 八、憶測
 多紀元簡の1790年以前の「講義録」が存在した。最初の講義録自体が、学生による聞き書きであった可能性も高い。それを粗忽者が書き写して桂山先生口授『素問記聞』とした。鼇城公観も講義録(現存の『素問記聞』では無く、脱落の無いもの)を書き写し、それに自分の必要に応じて『類注』、『注證』などを加え、若干の按語を加えて『素問考』とした。ただしその按語中の程度のよいものは講義録中に既に存在していたと疑われる。「鼇城公観輯」などと署したのは、現代の目で見れぱ不埒かも知れないが、別に人に見せるつもりでもなかったろうから、元簡が盗作した場合よりは罪が軽い。
 『素問識』刊本の前に、少なくとも「講義録」と改稿と決定稿が有ったことになる。『素問攷注』や『素問釈義』に見えるものは、『素問識』刊本とは勿論、講義録とも異なる。それがつまり改稿である。

(1992年2月初稿/1992年12月改稿/1999年6月PDF化にあたって僅かに修改/2004年11月HTML化にあたって誤入力を主として僅かに修訂)