伝統医学の形成期をどうとらえなおすか


九州国際大学助教授 石田秀実


1,前提
 始めにお断わりしておかなければいけない事は、先程までのお二人の先生方の様な臨床の話は、私が教わりたい位ですから、当然できません。ですから今日は歴史の話をさせて頂く訳ですが、歴史の話は、チンプンカンプンの漢文が並んでおりますので、飽きられてしまうかもしれません。その点あらかじめお断わりしておきます。最初にと言いますか、順番に従ってと言いますか、前提として、なぜそのような古典の解説に私の場合拘わるのか、そういう話をさせて頂きます。
>  皆さんはもちろん違うわけですけれども、日本の医学界に一般的な意見というのは、伝統医学というものは、その理論は迷信だったり誤りだったり、どうもろくでもないけれども、技術自体は素晴らしい、そういう意見が意外と多いんではないでしょうか。皮肉な事に東洋医学会の会員が増えれば増えるほど、そういう人が多くなってくる、どうしようもない状態がますます酷くなっているのではないかと私は見ています。もしそれが本当ならば、技術だけをマニュアル化すればいいわけで、理論については、所謂ヨーロッパの理論で解釈し直せばいいわけで、たしかにそういう方向も大事なわけです。ところが今、そのヨーロッパの理論でうまく解釈できているんだろうか、例えば中西医結合がちゃんと結合できているんだろうか、ちっとも結合できていないわけです。中西医結合の文献を読めばすぐお解りと思います。中国の古い理論についての理論解説が先ず有り、ヨーロッパ近代理論についての解説が有り、その間の結合はどこにもないんですね。単に並んでいるだけです。並べて書いてあって、しかも両者の言葉がまるで違う。言葉は、つまり科学には言葉が必要です。その言葉とは近代科学だったら数学が第一義的な言葉であり、古い科学は象徴的な言葉、シンボリックな言葉であるわけです。そういう言葉と、所謂ヨーロッパ医学の機械論的な分析的言葉とが全然結合されずに並んでいて、古い古典の記載ではこうなっているが、それは多分ヨーロッパの理論でいうとこっちなんであろう、という話が書いてあるだけで、つまり結合されていないのが今の状況です。そこでのヨーロッパ医学による解説というのは、本当をいうと解釈にも結合にもなっていないのです。将来結合するかもしれませんが、今のところそうではない。むしろ今の現状で大事なのは、ヨーロッパの理論で一生懸命解釈しようとやってみたが、それがうまくいかなかったという、その事実だと思います。つまりヨーロッパの医学の様々な理論で説明しきれないほど、微妙で複雑な領域を伝統医学が扱っていた。そういう微妙で複雑な領域、情報伝達といいますか、信号体系といいますか、そういった分野、領域を扱っている医学が伝統医学であると言う事が解った、という事がすごく大事だと思います。それは今のヨーロッパの科学の観測工具といいますか、或いはその観測工具を説明する理論といいますか、そういったものでは測定し、理論化することができないと言う事がようやく解る程度の、大変やっかいなものです。それについて古典というものは、もちろん非常にシンボリックな象徴的な言葉によってだけれども、それによって一応の言語化といいますか、それを自身の言葉に直している、それがとても大事だと思います。つまりヨーロッパの医学の理論では解析できない、と言う事が解った領域について、古典というものは私達が知っている科学の言葉ではないですけれども、シンボリックな言葉でともかく言語化している。しかもシンボリックな言葉はどういった点でシンボリックかと言いますと、私みたいな臨床の事を全然知らない人間が読んでも、よく解らないという点でシンボリックなのです。先程島田先生、井上先生が言われたように、その言葉と自分の体験とを結合して、そのうえでいわば考えてゆくと、そのシンボリックな言葉が解ってくる、そう言う様な形の言語だろうと言うわけです。そうしますと、そういう言葉を一番理解できるのは臨床家の皆さんですし、そういう様な形で臨床家の皆さんが古典というものと自分の経験というものと、確かにその具体的にすぐこの古典に書いてある事は、この病気を治す為の答え等とはでてきませんけど、考え方の問題としてさまざまな古典の言葉を、自分の経験と照らし合わせるという事ができると思います。それは今のところヨーロッパの科学ではできない事をやっているわけです。将来どういう形でそのヨーロッパの科学とこの針灸の古典と結び付けてゆくかと考えた場合、おそらくいまあるような中西医結合のパターンで結び付いてゆく事は永遠にないと思います。有るとすれば、それはヨーロッパの科学がこの微妙複雑な領域と言いますか、体の生きた生理の流れというものを扱える位にもっと精密化する。精密化したヨーロッパの科学であってやっと、今針灸師さんたちや漢方医学を実践している人達が、経験的に解っている事を自分の言葉で言語化できるでしょう。こういう言葉をヨーロッパの科学の方で発明する、そういう事がいつか可能になると思います。その時にこんどは伝統医学に従事している人達が、その自分の経験と、古典についての読解と、そしてヨーロッパ医学が理解して作り出した新しい言葉とを、結合といいますか、そういった事をする事が可能になるのだと思います。だからお互いにヨーロッパの機械論で扱えない様なものについて、もっとミクロな視点から迫ってゆく事が大切になってくる。その結果共通の言語というものが出来上がってくるかもしれません。それは将来の事です。その上、ヨーロッパの医学が伝統医学についての解析の言葉を発明したとしても、直接的な経験の細部までは全部解析し尽くせないかもしれません。一方私達は今シンボリックな言語としての古典によって、それをある程度解析できるわけですから、古典というものをそのまんまほったらかして読まない、実践に結び付けないというのはいかにも惜しい気がします。ただそれは私には出来ない事です。皆さんが出来る事です。今日私が出来る事はシンボリックな言葉で書かれた古典の文章整理とか、字句上の意味をある程度、といってももちろん私の力など限りがありますけれども、確定していく、或いは書物の群れとしての古典の歴史的な位置を整理してみる。その程度の事しか私にはできません。それを多少とも参考にしてくださって、皆さんが古典を臨床の目、眼差しで読んで頂ければ、私としては大変うれしいですし、その結果いろいろの事が解れば、ぜひ教えて頂きたいと思います。

2,原型
 以上が前提といいますか、私が古典について考えている事、ないし古典読解が大事であるという事を考える場合に、一番力点を置きたい事なのですけれど、その上で古典を考える上でどんな事を注意したらいいか、四つ注意してみる事が有ると思います。
 それは私達の医学の本は、あくまで技術の本だという事から出てくる宿命的な事柄です。つまり例えば思想の本を考えて見て下さい。中国の古い思想の本ですと、『論語』とか、『孟子』とか、『荘子』とか種々あるんですが、そういった本は幅が有りましても、ある限定した時代にある一人の人、ないしある一人の人を先生とする集団が考えて、多分最初は口伝でしょうが、伝えられたものです。で、それがそのうち整理されて、書かれた時代を含めても、せいぜい一人の人間が生きた時代、それからその後弟子達がいた時代、その程度の非常に短い期間に本が出来上がって、そして出来上がってしまえば、後は伝えられるだけなんです。あとから注釈されても本文自体は変わってゆく事がない。そういう意味では構造が簡単ですし、それを分析する事も簡単です。それでも皆大変苦労して読んでいます。
 ところが医学の書ないし技術の書というのは、技術が変革されると、例えば先程島田先生の話にあった取穴なんかは、どんどん変わってゆくわけです。技術が変えられるたびに補われて、改められて、加えられて、そういう事がどんどん行なわれます。今であれば補われたり改められたり加えられたりする時に、これは何の誰それが考えた事で、学会で発表していつの事でと書きますけれど、昔の本ですからそんなことは一切書きません。どんどん横に書いていって、それが加えられていきます。ですから最終的に私達が手にしている今の本を分析して、一体これがいつできたものかというのを考えるのは非常に難しいわけです。その上時代を同じくする人々の間でさえ、技術というのは非常に違いがあります。地理的空間的にも違いがあります。そしてその変化の仕方も違いがあります。しかもこういう技術の書として、中国で代表的なのは天文学の書と医学の書ですけれども、天文学の書ならばひとつ非常に簡単といいますか、役に立つ工具が有ります。時代を定めて、各時代の正史ですが、歴史の本に天文律暦志という形で、この時代の天文学の成果の集大成みたいなものが、ちゃんとお上が認めて書かれたものがあるわけです。したがってそれを見れば、この時代にはこんな天文学の理論があった、こんな人がいたという事が、一目瞭然です。それを題材にして色々考えていけば、どの時代にどんな天文学があったか簡単にわかるんです。医学はこれがありません。医学は御存じの様にわりと賎業視されてきたんです。中国ではそうしますと、扁鵲倉公列伝にしろ、華陀の列伝にせよ、非常におもしろ可笑しくと言いますか、ある意味で怪しげな形で色々書かれます。そしてその中の肝腎の医学理論については、倉公列伝の様にカルテがはっきり書かれて、まああれはお上にカルテを差し出せと言われて、カルテがそのまま残っているわけですが、その幸いな例を除けば何もない訳です。そういう意味で非常に難しい訳です。それから技術が変化する仕方ですけども、進化論的にいつもどんどん変わる事など、今の科学など日進月歩で、三カ月前のワープロが役にたたなくなりますけど、そんな事はないんです。突然変化したり、いつまでも変化しなかったり、ということがたくさんあるんです。ですからそういう意味でも、歴史を書く上で技術革新の予想がしがたい。これが二つ目です。
 三番目に秘伝主義があります。ある人達にとっては、今でもそうかもしれません。しかし秘伝主義がありますと、同じ時代に、私達からみて新しい技術、あるいは進んだ技術と思われるものと私達からみて古い技術、あるいは遅れた技術と思われるものとが、そのまんま並行して実践され続ける事が有るわけです。これは例えば、いい例は京都大学で山田慶児さんという人が一生懸命頑張った馬王堆医書というものです。あれは文帝という皇帝の時代に使われていたはずです。そしてその時使われた以上最新の医書でしょうということになります。しかしながら、その同じ時代に倉公が生まれて、実はもっと前ですけれども、そして倉公の医術というのは、倉公の先生で公乗陽慶という人が、この人は紀元前180年、その頃に七十余歳という、とんでもない歳だったおじいさんでしたが、その人が伝えたものです。そのおじいさんがこの本を手に入れたか、師から受けて伝えたかの時代は戦国の末です。秦始皇帝が政権を取るか取らないかの頃です。とんでもない昔です。そうすると倉公の医学上、非常に素朴な馬王堆医書というものと、どちらが古いということを考えてみると、そういう文献上の観点からすれば、秦始皇帝の頃まで遡れる倉公の医学の方が古いんじゃないかということになります。じゃ、どうして倉公の医学の方が進んでいるのか、非常に疑問ですね。これは色々なことが考えられると思います。実はその馬王堆医書というのは家庭医学書だったのかもしれません。或いは倉公の医学というのは非常に秘伝で、なにせ斉国王の太医が倉公淳于意のところへわざわざ教わりにくるようなものだったのですから、これは大変な秘伝であったわけで、それは他の医者なんかには解らなかったのかもしれません。そんなことを考えてみますと、ともかく進化論的にその本を並べて、これが素朴だ、だから古いということがなかなか出来にくいという、非常にやっかいなことがあります。
 四番目に地域差ですね。特に北と南の違い、特に古代ですから伝播速度は早いといっても限度があります。
 このような四つの点、つまり技術の書としての宿命としていろんな事があり、変化が一様ではない。秘伝主義、地域差、このような四つの事から、伝統医学というものは歴史主義、進歩主義、進化主義ではなかなか捉えられないのです。

3、気としての身体
 さて今日の資料というのは、別に珍しいものは実は何も有りません。形成期の資料というのは非常に少ないんです。皆様多分御存じと思われる資料を使いまして、それをどう解釈するかは私の勝手な見解です。正しいかどうかは皆さんが判断して頂くしか有りません。まず今私達が東洋医学ですといっている医学の原型が何時頃できただろうかという話をしたいんですけれども、そのための資料として『春秋左氏伝』、通称『左伝』という本を使いたいと思います。この『左伝』という本は色々な問題が有りまして、人によっては前漢の終わり頃に偽作したんだという人もいるわけです。ですがこの頃の色々な研究によって、だいたい紀元前5世紀、前403~389年の間、この間にできたという事がほぼ実証されてきています。この時代といいますのは、春秋というのは十二の魯の殿様の年代記ですが、魯の殿様の哀公という人の晩年から60~80年たった時代です。魯の最後の殿様が死んで100年もたたないうちに書かれた書であるということが、この頃楊伯峻の研究によって判ったことです。楊伯峻という人は『論語』の解釈のすばらしいものを書いた有名な中国の学者です。ですから『左伝』という本について、いろんな後代改変があったにしても、基本的なところは紀元前403年頃に書かれたものとして信じてよさそうだ、という事になっています。そうしますと、気という概念なんか実はこの中に出ているわけですから、中国医学の原型を知る上で大事な資料になってくるわけです。
 天に六つの気があるという有名な文ですけれども、これは上の段からずっと続いている文です。上の方の僑という字で呼ばれている子産という人の、この人の医学理論といいますか、議論の部分はあまり注意されません。それでちょっとみて欲しいと思うんですけれども、この議論の所は非常に気の医学の原型をよく示していると思うんです。
 実はこれはある殿様に病気がありまして、でそれは、何かの崇りじゃないかと色々聞かれるわけです。そうすると、その子産という鄭の国の有名な宰相ですけれども、この人が星辰の神様というのは、こういう場合には祭るけど、こういうのには崇らない。崇りというのは確かにあるんだけれども、だけどこの場合はそうじゃないんだということで、「僑之を聞く、君子に四時有り、朝に以て政を聴き、昼に以て訪問し、夕べに以て令を修め、夜は以て身を安んず。是においてか其の気を節宣し、壅閉湫底して以て其の体を露すること有らしむること勿れ。」と読むんだと思いますが、ようするに自然のリズムにまず自分の体のリズムを合致させなさい、「君子に四時有り。」四つの季節の様な時が君子の一日のリズムに有るんだ、それからそこで働かせる事と休ませる事双方を、動静のバランスを重視しなさい。それからおしまいから五行目位ですが、訳の判らない字が書いて有りますが、「壅閉湫底」というのは、要するに滞らせたり、そういった事をしないように、「壅閉湫底」で滞らせるという意味ですから、そして体を痩せさせたりしない、つまり気がふさがり滞って、その結果体が痩せてしまうような事がないように、もしそういう事が有ると、「その心爽ならずして、百度を昏乱せしむ。今乃ち之を壹にすること無ければ、則ち疾を生ず。」心が正しくないと様々に乱れる、様々な事が皆乱れてしまう。そういった事をいっているわけです。気が滞りふさがる事によって体が痩せるだけじゃなくて、体の気と滞りが心を曇らせ乱してしまう。つまり心と体とが気を介して相関の関係にあるという事をいっている訳です。ですからここでは自然のリズムに合致させよ、動静のバランスをとれ、気の溜滞がないようにしろ、それからその気が滞ると体の滞りだけでなく、心の乱れまで引き起こす、このような事を言っている訳です。そうしますと、そこでは所謂内因的な病因を中心に、今の中国医学の基本的な枠組みが全部出揃っているという事になります。と同時に自然と人間、マクロコスモスとミクロコスモスの間の相関というのがここにすでに出てくるわけです。
 次は秦の医者の医和という有名な人の言葉ですけれども、この人の議論というのは御存じのように、八つの気の病因論で有名です。天の気として「陰陽風雨晦明」ですね、「陰陽」というのは寒暑のめぐり、「風雨」も風や雨のめぐりと考えて下さい。「晦明」は昼と夜の巡りです。具象的な六つの気のめぐりというものが、余り有る状態、つまり過多の状態になると病因になる。これはいわば外因的な客疾的なものです。運気論的な考え方の原型がここにあるわけですけれども、そういった形で病因というものを構成している訳です。この例は割りと精神疾病的な病気であった様なんですが、それを色々理屈づけていますけれども、自然と人体との対応という形で、内因と外因という形で、中国医学の原型がすでに出来ているわけです。
 中国医学の歴史の本をみますとこの資料は大体中国医学はいかに合理的かという事を示すのに使われています。一方で東洋医学の原型だと言う事をあまり言ってくれないのが、少し私は不満なんです。もう一つ不満なのは、この二人の医者は共に鬼が崇るという呪術的な側面を否定していないという事に気づいていない点なんです。つまり気の医学というのは、気というのは天と同様で、神様であると同時に自然な訳ですね。同様に外因的な病気というのも、鬼神が崇るという場合もあれば、あれは自然現象だという場合もあるわけですけども、どちらの説明も気という概念でなしうるような柔軟な概念です。つまり気というのは体を説明することもできますし、心を説明する事も出来ますし、人を越えた霊について、これは霊気だとか、気が結ぼれてある神様の形になったとかいう形で説明することも出来ます。そうしますと、呪術的なものと私達がみて合理的なものというのは、実はそれほど区別しないほうがいいんじゃないかというようなことも判ってきます。つまり彼らも一応区別するんですけども、区別したからといって呪術的なものを否定しているかというと、否定していないというところが大事なんです。つまり合理的な形でいろんな病因を捉えて病理を構成して治療することも出来るんですが、それで上手くいかなかった時に、呪術的な形で捉えて治療する事も中国医学では出来るんです。それは気という概念について考えてみますと、気というのは、心も気なわけですね。そうするとイメージを形成することは気の働きです。そのイメージ形成の中に、例えば神とか霊とかがある訳ですね。そうすると、そういった形でイメージ形成として捉えた呪術的な治法といったものについての考え方が、もう早くから出来ていい訳です。
 例えば『素問』の移精変気論という例の有名な篇があります。その移精変気という方法ですが、今の心理学者があれを見てびっくりして、これはまるでフロイトではないかと言います。何の事はない、気という概念で考えれば、その気というのは心を動かすイメージなんですから、イメージを作るものなんですから、その気を動かすこと、心を動かすこと、あるいは霊的なものをイメージすることは同じ事なんです。そうしますと、移精変気という形で一見呪術的なものも取り入れる事ができる。ただ二つの療法は区別して構わない訳で、複眼的視点を持つ訳です。こんな事言いますと、あいつは合理的な医学と言われている中国医学を馬鹿にしているんじゃないかといわれそうですので、後漢時代の、あるいは前漢の末頃の合理的な思想家だといわれている連中が、どの程度合理的かという事を調べてみたらどうかという事で、それを説明したいと思います。
 といいますのは、例えば『黄帝内経』という本は、非常に合理的な本だと言われています。しかしそれは、例えば王充のような後漢の合理主義者達の考え方と一脈通じる合理主義だと言われています。では連中はどういう合理主義か。図々しいですが僕が二十代に書いた論文の一節をこのレジュメに載せています。「揚雄と桓譚」という論文です。「こうして桓譚は、揚雄や、後の王充などと同様、いわば荀子的な合理的思考を有するが、その合理主義は、以下のような特徴を持つ。第一に、超経験的な事象については、不可知とされるだけで、肯定も否定もなされない」。つまり経験を越えた人間の考え方では理解できないような事については判らないと言った後でも、あれは信じたいなと思うような、つまり「理念上の強い要請や、先験的に認められたものまで覆す力を、このプラグマチックな合理主義は持っていない」。ですから、例えばこういう事が経験としてあったと人が言った場合、それは嘘だよ、と言う事は勝手ですけれど、それが本当にその人の個人の経験として事実であれば、心の中の経験にせよ、あるいはイメージによる治療による経験にしろ、事実であれば、それを否定する事はできないのですね、中国的な合理主義というのは。たしかにあなたはそういう経験をしたのだから、そう経験したこと自体は事実だと認める、そういう合理主義です。ですからヨーロッパ的なこれが正しい、これが間違いという合理主義ではないんです。それから二つの異なる矛盾する事象が、どっちも経験的なものとしてあった場合、こっちが正しい、こっちが間違いということをいうような認識の強力な枠組みというのはないんです。そういった訳で、そういうのが後漢の時代の合理主義です。これがこの時代一番頭が良いと言われた人たちの合理主義ですから、『黄帝内経』の合理主義というのは、やはりそういったものであっていいわけです。ですからそれを合理主義だからといってヨーロッパ的な合理主義と考えない方がいいことになります。むしろ馮依的な疾病理解と、自然病因論的な疾病理解の相互を包括しうるから、中国医学はおもしろいんだと考えた方がいいんじゃないかと僕なんか思う時があります。
 例えば気功みたいなものはイメージの療法です。それはある意味ではマジカルな医学なわけですね。しかしそれで治るという事は大切な事ですね。このことは『千金方』なんかでもそうです。『千金方』の方は一応かなり合理的で、一方『千金翼方』の方には咒文がたくさん書いてある。これは同じ人間が書いた本か否か、そういう事も今述べたような事がたぶん説明になると思うんです。つまり自然現象中心の病因論、医学的な眼差しで書いた場合には『千金方』的で、一方では道教徒として鬼神論といいますが、馮依のレベルでこんな事が経験上あるんだという事を書いた場合は、『千金翼方』の後の方のさまざな咒のものも書ける訳です。もっとも『千金方』というのをよく読んでみますと、かなり馮依的なものについても、すべてが神様や咒のせいじゃないんだよ、ということをさんざん強調しているのが作者の孫思なんですね。ですから、そこらへんにも二つの眼差しを否定しない、という形の合理主義があるんだと思います。だから扁鵲の六不治の鬼神を信じて云々なんていうのも、恐らく「鬼神だけを信じて」という事に対する批判だと思います。そうしませんと、中国のいろんな医学書における呪術的な療法と、そうでない療法との併用という事がなかなか理解できません。
 さて次に、こういったものが春秋時代といいますのは紀元前5世紀以前ですから、たいへん古いんですけれども、そんな時代にすでに気の医学としてあったとしますと、それが完成するのが、その次の戦国時代だろう、ともかくかなり早い時代だろうと考えた方が良いと思うんです。完成すると言うのは『黄帝内経』的に完成するという意味です。その気の医学としてとりあえず完成するという意味ですけれども、その気の医学の一つの特徴は、体の外側はどんなに変化していようが、中の方が大切だという事ですね。内側を流れる気が変わってなければ、外側が変っていたって病気ではないという話がどこかに欲しい訳です。
 それは『左伝』にあります。『左伝』の裏公二十一年ですけれども、ある人が楚の国の人ですが、大臣になるのが嫌なもんですから、病気になって、たまたま暑い時ですね、中国では昔から穴倉を掘って、中に氷を埋めて貯えるというのがあった訳で、その地下の氷を積んで、それをベットにして、その上にたくさん布団を敷いて、食を少なくして寝ていたわけです。全然物を食べないで寝た訳です。そうすると寒い処に厚い物を敷いて物を食べないわけですから、体はゲッソリするわけですね。そこで楚の国の子爵が「医をして之を視しむ」。そうすると「痩せているのはすごく甚だしいけれど、血気はまだ動いていませんよ。」というんです。だからそこに注して「言うこころは疾なきなり」と書いてありますけれども、こんなにゲッソリ痩せているけれども、血気が全然動いてない以上、これは病気ではない。そういう言い方なんです。つまり、外側がどうあれ、内側の血気が大事なんです。内側の血気次第で病気が判る。そこから当然望診とか脈診という形で、外側に表れたある信号によって内側を探っていこうという、そういう技術が出てきてるだろうという事が判ります。
 こうした身体というか、体が気の束みたいだという事を非常に強烈にイメージしているこの頃の資料が幾つかあるわけですけれども、その内で一番有名なのはここには載せてありませんけど、『荘子』知北遊篇という、体と言うのは気の集まりで、集まれば生になるし、散ってしまえば死だ、というあれです。
 そしてもう一つ非常に大事で重要なのは、『行気玉佩銘』という石の上に書かれた金文ですね。あの凧物のバックルみたいにつけるもので、そこに銘が書いてあるんです。これは気功の人達がここにこそ内丹の原理ありといっているものです。全部嘘ですけれど。これを内丹として読むのはどうかと思いますが、そうでない資料として読めば、少なくとも仲々面白い資料です。で「行気」これは気の廻らせ方というんでしょうけれども、非常に読みづらいんですが、「納るれば則ちたくわう。」と読むんですがね、この「」字は、納めるという字のようです。口の中から入れた物が貯えられて、そして体の中へ更に伸びてゆく。そして定まってゆくと固になる。これはたぶん『老子』の「深根回柢」という言葉を踏まえていると思うんです。固まった状態、固まった状態から明である状態、明はいろんな解釈がありますが、僕は『荘子』の中の人間の一番良い状態、純粋で素晴らしい状態、認識的にも一番良い状態のことを明ということで表わしますけれど、それのことなんだろうと思っているんです。明になると今度は伸びてゆく。伸びてといったのは、今度は逆に体の一番下の方から上の方へ戻ってゆくという事で、退という字がこれを示します。退くと今度は天にまで至る。そんなことが書いてあるんです。その後に「天の几」この字は機械の「機」と同じだと思います。この機械の「機」という字は兆しとかバネとか仕掛けという意味です。天の一番根元的な力のエネルギーのおおもと、兆しというんです。天の機、天のエネルギーの原動力は臼づいて、調度臼をべッタンベッタンつくように臼づいて上の方にあるし、地のエネルギーの兆しは臼づいて下の方にある。「これに従えば生なり、逆らえば則ち死す」。そんなことが書いてあるんです。
 ですから、ここでは人間の体の呼吸やら何やら、その気の働きというものが、上に天の機があり、下に地の機というものがあり、その中を下がって上がってゆく、まるで臼づきの運動のような、気の運動としてあってという訳です。臼づきというのは臼をつくあれですね、そういうイメージがあるわけです。それでそうした宇宙的の運動の中に人間というのは生かされて、いわば気の束としてある、そういうイメージがある訳です。
 と同時に「明」というものが出来上がるというのは非常に大事だと思うんですけれども、といいますのは、この時代ですね、戦国の中期と考えていいと思いますけど、この時代に人間の体に独特の気があるという話が、いろんな思想家によって唱えられる。
 例えば『孟子』には有名な「浩然の気」というものがあります。あるいは「夜気」というのがあります。浩然の気とか夜気というのがあって、特別な気を、夕べに体に満たすと素晴らしくなるということが、『孟子』によって説かれているわけです。それはいわば、僕らから考えたら内丹までいかないけれど、ある特別な根元的な気、心気かも知れませんが、ともかく根元的な気であるように思えます。精神とか定心とかいう『管子』の言葉も、そういった物に近いですし、竣気という、これは竹簡『十問』という馬王堆からでてきた医書の中の養生法という、主にセックスについて書いてある本の中の言葉ですが、赤ん坊の一番純粋な気を竣気というようですが。あるいは壹気、これは『楚辞』の遠遊の中の言葉です。こんな根元的なエネルギー、気というものが戦国時代の中期になりますと、医家以外の様々な思想家によって説かれている訳です。
 そういったものについての言及が当然医学にあって当り前なのです。普通の人が言うくらいですから、医学の上では当り前だろうという事なんです。そういった形の、気の束としての人間という考えですね。その中に根元的なエネルギーの気がある。それは、天と地の二つのエネルギーと言いますか原動力、天機地機といいますか、永遠の運動みたいなものが天と地にあって、それによって働かされるんだ、働かされているんだ、そのようなイメージがすでにこの時代にあると思うんです。それが僕らがやっている中国医学の体のイメージとしては、非常に重要だと思います。

4,陰陽と五行の結合
 次に気を捉える概念として陰陽と五行という二つのものがあるわけです。いったいこれがいつ頃出釆て、いつ頃結び付いたかという事を、やっぱり知っておきたい気がするわけです。実は陰陽と五行が結合するのはいつ頃だろうというのは、医学の諸学派の生成について知る上では結構大事なものですから、こんな一見無縁な話しをさせて貰うわけです。陰陽五行が何時結合したかと言う事で一番極端な、しかし一番信じられている説は小林信明氏の説で、陰陽五行の結合は前漢の中期から末期だという考え方です。それは董仲舒という人の『春秋繁露』という本ですが、これは前漢の景帝の頃書かれたという事になっているんですが、その景帝の頃書かれた本の中でさえ、陰陽と五行はばらばらに書かれているから、陰陽と五行の結合というのは、司馬遷よりずっと後なんだという、そういった考え方なんですね。これは正しくはないと思うんです。というのは、『素問』を見ても判ると思いますが、陰陽と五行は、『素問』でも結合していたり、結合していなかったりする訳です。だからといって、『素問』の医学で陰陽と五行は結合していないかというと、結合しているんじゃないでしょうか。つまり所々で陰陽だけ書いたり、五行だけ書いたりしているからといって、陰陽五行が結合してないとはいえないんです。
 他の学説としては、戦国時代の末に鄒衍という人がいますけれども、鄒衍という人の手によって陰陽と五行が結合したんじゃないかというのが割りと多くの人の説です。あと八年前に金谷治氏という、これは僕の先生ですが、この先生が「陰陽五行説の成立について」という論文を出しまして、これにかなり決定的に違う説が提出されています。この先生の考え方では、「時令」、これは『素問』にも良く出てきますが、季節ごとの命令ですね。それが陰陽と五行を結び付けるきっかけになったんだろうという訳です。
 手短かにその話をしますと、この時令という季節ごとの政治の命令を書いた一番古いのは『詩経』という、日本でいえば『万葉集』みたいなものですが、その「七月」という詩です。その山には五行の事は出てきていません。
 全部どろどろのきっかいな絵の資料は、これは『楚帛書』という長沙、中国の南の方ですね、馬王堆と同じような場所から出たものです。この書は非常におもしろいんですが、回りにいろんな神様が書いてあります。そしてそれらを四角く囲んでこの季節には何をしろとか、この季節の神様は何だとか、この方角はどうだのという時令が書いてあります。これが古い時令の形として出てきます。そこでは五行と陰陽ではありませんが、その原型となるもの、そういったものが結び付いて出てきます。
 そして三番目に『管子』の幼管篇、幼管篇というのは本当は「玄官篇」といったんだと思うんですが、漢代には天子が住む処を明堂といったわけですが、その明堂の宮殿の形になぞらえた形で、色々な文章が書いてあるものです。その中でまず「土」が出てきて、それから春夏秋冬の色々な物が書かれると言う形で時令が出てきます。
 それから次に『管子』の四時篇と言うものに春夏があって真ん中に土がきて、秋冬があるのが出てくるんです。
 それから『呂氏春秋』の有名な十二紀というものができまして、これも真ん中に土があるんですが、刑罰をいつやるのかという項が出てくるんですね。それから漢代の『淮南子』の時則訓になって、夏が三つに分かれ、その最後の夏の部分(季夏)を土にするというのがここに出てきて、先程の『春秋繁露』治水五行篇とか『管子』の五行篇になると、一年を七十五日ずつ分けて真ん中を土にするというのが出てきて、これで完成という訳なんです。そういった形の色んな時令が出てくる訳です。この四時五行の時令には色んな項目表があるんです。春にはこういう事をして、春の神様はこれで、春の気はこれで、春の風はこれで、それが皆さんがよく針灸なさる部屋に掛ける五行の配当表そっくりです。いや、実はその五行の配当表というのは、この時令を完成する過程で出てきたものなのです。その五行の中に陰陽が組み込まれる。この五行と陰陽とが結び付く契機というのは、先ず陰は冬で厳しい刑罰、陽は春で徳ですから恩徳を施す、陰と陽を刑と徳に配すという形で、政治のやり方として陰と陽が五行の配当表に出てくる訳です。
 それから四つの季節は当然陰が秋冬、陽が春夏です。に分かれますから、そういう形で陰と陽に四つが分かれ、真ん中に中央土がくるという形で陰陽が五行の配当表に含まれてきます。そういう形で陰陽と五行が結合してくるのが紀元前300年です。これは孟子や荘子がそろそろ死ぬ頃です。そのころに『楚帛書』や『管子』幼管篇が出来たとしますと、陰陽と五行が結合するのは大変古い訳です。しかもこれも意外なんですが、調べてみますと、陰陽と言う概念の変遷過程はさっぱり判らない。ところが五行の変遷過程は非常に良く判る。そういう意味では五行の方が判りやすいし、歴史をたどりやすい明確な概念です。いつも僕らは解説書的なものを読むと五行の方が後にあるかのような、あるいは五行の方が概念としては堅苦しいし、何か判りにくいような、変化の過程が良く判らないような事を解説書に書いてあるんですが、良く調べてみれば五行の方が良く判る。むしろ陰陽はいつも陰陽だけですから、判らないと言うところもあるんです。陰陽で何を指し示すか非常に様々ですから、ますます判りにくいんです。
 紀元前の300年頃に陰陽と五行がくっついちゃったとしますと、色んな人がこの人が陰陽と五行を結合したんだと考えている、戦国末の鄒衍という人は、おそらく陰陽と五行を結合して自論をつくった集大成者、完成者だ、いう事になります。今までと全然逆です。そうしますと、医学の導入はそのあと直ぐであっていい訳です。
 しかし我々は本を持っていません。『黄帝内経』だけしか持っていません。しかしながらただ一つの救いの神は『史記』の、先程島田先生がお話しになった扁鵲倉公伝です。その倉公のカルテには五行論が出てくる訳です。藤木先生は非常にある意味では穏やかにというか、控え目に五行論が導入され始めているとおしゃっていますが、あれだけ数が限られているカルテですから、しかも色々検討して見ますと、倉公の中で五色診という形の望診は五行理論を徹底的に使ってあるとしか思えないもんですから、五行論は倉公の医学に完全に入っている。すると倉公の医学が基づいている公乗陽慶という人の医学の中にそれがあったと考えられる。とするとそれは戦国末です。つまり紀元前300年頃に五行と陰陽とが結び付いて、それが医学に取り入れられるのは、どんなにおそくとも紀元前の220~30年頃だろう。というのは此頃には公乗陽慶は三十才位だったんですね。昔の人は三十才と言うのはもう老人で死んじゃいますから。ご存じのように明治時代でも漱石の小説を読めば判るように、四十才になれば初老です。とすれば、古の人はなかなか三十才迄と生きてないんです。後でこの話は『黄帝内経』の学派の話しをする特に生きてきますから覚えておいて下さい。
 戦国末に五行論があっただろうというもう一つの資料は、山田慶児さんたちがあまり検討して下さらなかった馬王堆の医書の中の房中関係、セックス関係の書です。セックス関係の書は幾つかあるんですが、その中には五蔵、五味、五声、五穀、五色なる言葉が頻出します。ですから馬王堆の医書には陰陽しかないんだという山田さんたちの説は、養生、房中関係の本を視野に入れて考えると、全くの嘘だという事になります。特に馬王堆の医書が戦国末ぐらいの本だとすると、もっとも山田さんたちはもっと古く考えますが、せいぜい戦国末ぐらいだと考えますと、やはり戦国頃までには、五行というのは医学に入っている事になります。
 さて、それでその問題の馬王堆医書をどう扱うかという事になります。これは本当は話せば非常に長くなるんですけれども、私はやはり亡くなられた藤木先生が半ば直感的におっしゃった、これは入門書のようなものだと言うのは、非常に正しいと思っています。多分正解だと思います。先程言いましたように秘伝主義の問題がありまして、馬王堆医書と言うのは、年代決定の上で考えてゆくと、もっと進んでいるはずの倉公の先生の医学よりも、もっと新しいものかも知れないとなっちやう位の代物ですから、そうしますといったいどうしたらいいんだと言う事になりますね。
 この年代決定は先程言いましたから繰り返しませんが、ともかくも公乗陽慶と言う倉公の師ですけれども、漢の高祖の奥さんで女ながらに皇帝になった呂后の8年、BC180年に七十六才余りという、もう三十才ぐらいで死ぬ人が多い中で、どうしてこんなに長生きするんだろう、何かやっていたにちがいないという感じの人ですけれども、そういう人から習ったもので、その人がいわゆる黄帝扁鵲脈書、上下経……等様々な本を授けてくれたんです。その本にのっとった医学が倉公の医学です。これは色々考えてゆくと、秘伝主義を考えざるを得ないのは、倉公はこの人につく前に、もう一人公孫光という人についてたんですが、その人は『方化陰陽』という、陰陽だけについて論じた本だと思うんですけれども、そんな本しか持っていなかった。つまり同じ時代なのに、一方では五行に基づく五色診なんていうのがあり、一方では陰陽の書しかないという訳ですね。
 僕は今たまたま医学史を書いているんですが、困っちやっているんです。いったいどっちを古いものにしたらいいのか、何にも材料がないんですね。取り合えず私が解決した姑息な解決は、進化論的解決という奴です。つまり生き残った方がより新しいんじゃないかという考えです。そうしますと、馬王堆の医学は取りあえず今死んでいる訳です。一方倉公の医学は『黄帝内経』に近くてまだ生きている。そういう意味で、進化論的です。そういう形でしか解決出来ない。
 実はこのうえにですね、もう二三年すれば公表されますけれども、張家山と言う湖北省の地から出てきた医書があるんですが、これは馬王堆の医書にそっくりなんです。しかもまとめ方がちがうんです。これは発表されていないんです。それがどんなものかによって僕が医学史を多分本年中に書いて出すでしょうが、その医学史は全部嘘っばちだとなるかも知れません。そのようなものなんです、中国医学史というのは。

5、出土医書
 さてそのような資料の問題がある事を知った上で、以下馬王堆の医書について考えたいのですが。その馬王堆の医書については、山田さんが幾つかの話を書いてる訳です。
 それは一つには灸法、お灸の響きで脈が発見された事と、先ず脈が発見されて、経穴が発見されたという事、それから砭石よりも灸の方が大事だという、そういうような話を書いておられる訳です。それから学派の話があるんですが、この内のまず血を出す為の砭石と脈とは無関係で、脈と言うのは灸の響きから生れたのかという事を考えてみたいと思います。もちろんお灸の響きも脈を見つける上で非常に大事だったにちがいないんですけれども、しかしながら馬王堆の医書にはご存じのように脈法という本があります。その中を見てみますと、これは脈法と言う位ですから脈の本ですが、砭石をやる時に脈をどのように扱うかという事が一番のポイントな訳ですね。この本のポイントは普通気血といった場合、衛気と営血ですが、脈はこの内の営血と係わる概念と考えたほうがよい。もちろん衛気だって大事ですけれども、先ずは脈とは専らそういうものです。そうしますと古代の医学の中で脈をいじるというのは、やっぱり先ずは血をいじるものだと思います。つまり気分血分と言いますけれども、その気分は微針で色々するんでしょうけど、血分はおそらく微針ではない針で血を出すという形でやるのが『黄帝内経』的医学だと思います。とすれば、その基になっている、ないしはその家庭版である馬王堆出土の『脈法』の中で、砭石とか脈とか書かない訳がない。実際にここに「病を治するものは、有余を取りて不足を益すなり」、「砭を用いて脈を啓くは必ず式の加くす」。つまり砭石によって脈を切り開いてゆく場合には法則道理にしなさいという事で、これは今の『内経』にもある文章ですけれども、四つの場合があるんだよ、その膿の部分が深いのに砭石の入れ方が浅いとか、あるいは膿の部分が浅いのに砭石の入れ方が深いとか、そういった形で四つの類型が定式化されて書いてあります。
 この場合の膿ないしでき物という物を、山田さんたちはこれは外科手術だから、所謂今の針とは何の関係もないんだと考えちゃった訳ですが、それは今の医学でいえば外科手術なんですけれども、昔の技術で考えれば、膿ができる、ないし悪血やでき物があるというのは、血が溜滞しているという事です。つまり血の溜滞の処こそが、一番昔の医学で大事な治療部位なんですね。そこを如何に開通させるかという事であれば、これも所謂針法なんです。現代の分類で外科と捉えるのは、全くおかしな訳です。ですからこの資料は砭石が針の直接の祖先であった事、そして砭石が脈と係わるものであった事、それから脈というものを発見する上で、もちろんお灸も大事だったでしょうけれども、砭石による治療というものは非常に大事であっただろう、という事を証明するものです。脈の性質というのは、ご存じの通り血の流れです。血液だけじゃないにしても、砭石による悪血の治療、でき物の治療というのは、先ず脈のルートを考えるのに非常に大事になってくる訳です。ですから馬王堆の医書について、灸法から脈が出てきたと言うのは、ちょっとおかしいんじゃないかと思います。むしろ逆だと思います。
 次に孔穴が何時頃から出来てきた、発見されているかということです。馬王堆の医書には穴位がほとんどないのは確かです。しかしご存じの様に『内経』を見たって、穴位なんかちっとも書いてないんですね。しかし『内経』の人たちは穴位を知らなかったとは誰も考えません。ですから穴位名がないから、経穴が発見されていなかったというのは乱暴な議論ですし、倉公のように経穴を知っていたであろうと思う人のカルテにさえ、穴位の具体的な名前は書いてないんです。ですからやっぱり、ひょっとしたら藤木先生が言うように、馬王堆の医書というのは一般書だったんじゃないかと思う訳です。
 一方で、医学以外の書に経穴の記載があるのです。それについては意外と注目してくれないものですから、ここでぜひ知って欲しいと思います。それは『荘子』の大宗師篇、実は人間世篇にもあるんですが、その中の五の管、「五管」という記載です。これについては先程誉め上げた僕の先生を、少しけなさなくてはなりません。金谷治さんも福永光司さんも、この頃『荘子』の注釈を書いているほとんどの人は、この部分で間違っています。章太炎という、医学も知っていた有名な中国の革命家であり思想家であった人が、これは五蔵の事だという、偉そうに間違った解釈を書いた為に、皆が踏襲しているからなのです。これはある人がすごい傴で、上の方に五管があって、顎は臍の方に隠れて、肩は項より高く、句贅は天を指しているという話です。常識的な状態こそ不便なのだという『荘子』独特の話ですが、この話は『淮南子』の精神訓という、これは漢代の武帝の頃に書かれた本ですが、その中にやっぱりこの話が引かれているんです。そこでは五管というのは「脊管」に改められています。これはさすがに内臓には解釈できない。どうやってもこれはやっぱり脊髄脊中にある管ですから、やはり背兪と考えない訳にはいかない。そうするとこれは孔穴なわけです。実際に古い注を見てみますと、章太炎という人は民国頃の人なんです。古い注を見ますと、皆これは孔穴だと書いてあるんです。章太炎以降、誰も採用しなかっただけなんです。こういう背兪のようなものが、すでに一般の本に出ている。これは『荘子』の内篇ですから、『荘子』の中でも非常に古い、戦国中期のものでしょう。
 で戦国末期になれば、これも有名な話の割に余り注意してくれないんですが、『呂氏春秋』の中に「三百六十の節」というのがあります。骨節というのが同時に穴位になっている有名な話です。これは『内経』を読めば直ぐ判ります。360の穴と360の骨節は何時も互換的に使われます。ですから360の骨節が人体にあると書いてあれば、それは穴の認識と同じと考えていい訳です。そうしますと『呂氏春秋』にも、やはり穴の記載はあるという事になります。
 さて、『五十二病方』という本が馬王堆の医書の中にあって、これは非常に話題だった訳ですが、五十二の病気について様々な薬や治し方を書いた本、これは京大の人たちは大喜びしまして、この時代の医学の一般的特長を示す大事な本なんだと言う事で、大変優れた研究を残してくれたんです。ただ本の性格の捉え方は決定的に誤っています。それはどういう事かと言いますと、この本は一つも一般的な本ではないという事です。先ず薬を見てみますと、南の方の薬ばかりです。北の方の薬は甘草、黄耆、防風、その程度なんです。それから灸法が6つ、砭石が1つだけ。という事は、つまり六朝時代に様々な、今でいう家庭医学書が作られますが、その中に針というのは素人には危ないから書かないよと、書いてあるのが多いんですが、それと同じで灸法が僅かに書いてあって、後の医療はあまり凄いプロが使うもんではなさそうなんですね。決定的にこの本の特長と思われるものは、ありふれた病についての項目が何もない。例えば頭痛がありません、腹痛がありません、熱病がありません、目や耳の病気について書いてありません。不眠症とかそんな事について書いてありません。こういうものは、例えば『傷寒雑病論』とか『金匱』だったら書いてなければいけない。一般に暮らしていて大事なものです。そういう病気が全然ない。じゃ何が書いてあるか、先ず生殖器とか、排泄に係わる事が書いてあります。それから子供の病気が書いてあります。疣痔だ、脱腸だ、でき物だ、皮膚病だという、体の外側の醜いものが書いてあります。それから外科的な応急処置を要するものがあります。こうした病気が書いてある訳です。とすると、これは誰の為のものであるか、『春秋公羊伝』昭公二十年に、人々がいみ嫌って人間扱いしない病気というものがあるという記載があります。それは聾、盲、癘、禿、跛、傴。なぜ禿、跛、傴等なんでしょう。ひどいですね。これは体の外側が変わる事、異常になる事への過度な恐れがあるんです。これは多分、中国人の面子の考えと通じているんだと思います。あるいは先程の『荘子』の中に、体の形がおかしい人達が人に非ざるものとして出てくる。グロテスクなもの、体の外側がグロテスクな事は、人間でない事の証明みたいなものです。そうすると貴族に疣が出米たり、脱腸になったり、でき物になったり、皮膚病になったりしますと、人間じゃないような感じになっちゃう可能性があるんです。貴族としての地位を著しく損ないます。ですからそういう病気は大事です。それから生殖器と排泄に係わる問題、子の作り方、その他、これは貴族はやっぱりセックスが好きですね、暇がありますから。なおかつセックスの結果子供を作って、跡継ぎにでもなると自分は万々才ですから、子供を作るのは凄く大事なんです。『千金方』の一番最初の項は「求子」です。「子供を求める」です。ですからこれは跡継ぎということを考えると、どうも貴族特有のものです。それから精神疾病が出てきます。かなり出てきます。これも当時精神疾病になるのは、やはりよっぽど余裕のある人ですね。現代の精神疾病でストレスが多いのは、やっぱり上流社会的になったからではないでしょうか。と同時に精神疾病は当時、さっきの悪疾の中に入っていません。治せる病気と考えられています。文化的に今ほどストレスが重くありませんから、急性精神疾患みたいのが多いから治しちゃう訳です。ですけれども、それでも貴族にとっては退位の原因になる訳です。自分の王様としての位を失なう原因にはなる訳です。ですから大事なんです。あと応急疾患ですね。
 以上のような形で考えていきますと、『五十二病方』という一見ご大層な本は、実は貴族用の、特殊な家庭医薬書に過ぎないということになります。勿論それは、それを扱ったおつきのお医者さんが書いたかも知れないし、おつきの人が書いたかも知れませんけれども。いずれにせよ、恐らくこの本以外に、これは貴族の墓から出たものですから、そうではない医者が、プロが持っていた本当に凄い書物があったはずです。こうやって見てきますと、馬王堆医書というものが良く見えてくるんです。脈の本は、一般人も使えるお灸の本です。それから京大が研究しなかったセックスの本も、貴族の楽しみの為のものです。例の『医心方』を見れば判りますが、平安貴族と同じです。それから長生用の辟穀ですね、穀類を食さない、気を受ける、あるいは導引法をする。導引も今は気功なんてみんなやってますが、昔の農民はあんな事をする暇はなかったはずです。これはやっぱり皆さんがお金持ちになった為に、あんな事をし始めた訳です。これまた貴族のものです。ですから医者用の専門的な本というのはあって、それがきっと倉公の医学のようなものだったと考えると、馬王堆の本というのはあんまり重視したくないな、というのが僕の正直な気持ちです。或いは重視するとすれば、家庭用の医学書というのは、やっぱり少しばかり古臭い医学でしょうから、その時代における古いものとして重視していいかも知れません。そういったものが出土医書についての扱いについて、僕が考えている事です。時間が少なくなりましたので、倉公の医学については省略させて頂きます。

7,山田仮説
 次に山田仮説。先程から山田さんを目の敵にしていますが、一言弁明しておきます。私は山田慶児さんを尊敬しております。ああいう事をやって下さったから、こういう事が言える、そういう意味では本当に素晴らしいと思うんです。ただあくまで仮説である訳で、それには厳しい批判をしなければなりません。以下厳しい批判をします。山田さんの基本的な枠組はですね、『黄帝内経』の中の対話者の種類から黄帝派、少師派、伯高派、岐伯派、少兪派の五つに分類するんです。それを医学の中の前期の二派と後期の三派に分けちゃやうんです。こういうやり方は、実は僕の先生の金谷さんの、そのまた先生の武内さんという人が、よくやった古い文献学です。この分類の中でですね、前期の二派が使っているのは、要するに陰陽だけだ。陰陽だけだというのは、先程話したように、馬王堆の医書を根拠にしていっていますけれども。一方後期の三派が陰陽と五行の結合で、それは武帝の時期だ、或いはそれ以後だというんです。今までの私の話で凡そお解りだと思うんですが、陰陽五行の結合は、それよりはるか以前です。ですから武帝の時期に陰陽五行が結合したというのは、小林信明さんという、先程お話しした人の説にのっかっているだけに過ぎなくて、そもそも正しいと言えそうもありません。この仮説には色々ありまして、陰陽だけの時期では、お灸が脈と結び付いていて、陰陽五行結合の時は、針と脈が結び付いていたという、そういう考え方も加味されますが、これも先程の話でお判りだと思いますけども、ちょっと言えなさそうです。一つ非常に無理だと思うのはですね、この二派から三派になる時期を考えてみますと、区切りが倉公淳于意の時期ですから、島田先生がお話しになったように、紀元前160年頃です。それから後でお話ししますけれども、『黄帝内経』というものが編纂されたであろう年代というのは、司馬遷が死んでまもなくの頃でしょう、所謂今あるような形になったのは。そうしますと、その間が大きく見ても僅か80年です。この80年間に二つの派があったものが三つの派に分かれて、それが総合されるという、そういうことが可能だったろうかというと、何か随分忙しい。昔は時はゆっくり流れますから、随分忙しい仮説だなというのが僕の印象ですね。
 そして山田さんには「九宮八風と少師派の立場」という有名な論文があります。この図はそこから取ったんですが、そこでは黄帝派という一番最初の学派に、少師派というものが外因論、つまり病因に内因と外因がある訳ですが、その外因論を付け加えて、そして黄帝派は豊かになったと書いてあるんです。外因と称するものは風邪の病因論、風の病因論です。ところが中国で風というものを病因にするのは、殷の時代からです。紀元前何千年という甲骨文にあるんですよ。甲骨文の風というのは、先ず気の代りに使われている訳ですが、今の風ではなくて「鳳」の字が使われています。鳳凰の鳳の字は、頭に冠のある鳥で、つまり神様の使いとして書かれているんですが、その神様の使いが同時に四つの季節の巡りをも司る訳ですから、それは先程話しましたように、呪術的なものであると同時に、合理的なものでもある。つまり神様の使いが、同時に自然現象を司る、その自然現象に逆らった場合に、風が病因として作用する訳です。そうしますと、所謂山田さんの言うような風の病因論といったものは、殷の時代からずっとある。八気の病因論という、さっきの春秋時代のものも多分そんなものです。
 これについては、実は確かな証拠があります。それは『太素』の三虚三実篇、『霊枢』でいうと歳露篇の文章が、実は山田さんが風邪の病因論を示すという資料なのですが、その読み方が間違っているのは、僕の本の中に書いてありますから読んで下さい。読み方が間違っているのはまあいいとして、その資料的な問題です。前期の少師派のものだというこの歳露篇というものは、いったい何時頃のものだろうか。あの「願わくば三虚を聞かん」という形で始まる一説があります。「少師曰く、年の衰に乗り、月の空に逢い、時の和を失し、困りて賊風の傷る所となる、これを三虚と謂う」という文章があるんです。この所の注と言うのは、張介賓とかいろんな人は皆所謂運気論ですね。もちろん運気論は非常に大事なんです。しかし所謂『素問』の運気七篇と言われている中に出てくる運気論によって、ここの部分を解決しちゃう訳です。そうしますと「年の衰えに乗り」というのは、この年の歳気が不及だった為という話になるんです。ところがこの原文は後の方で、以上は個人の体の気についての話なんだと書いてあるんです。とすると天の運気でこれを解釈するのはおかしい。
 そうしますといったい何なんだ。その時に一番ピッタリくる注釈は楊上善の『太素』の注釈です。「人の年七才にして九才を加うれば、十六才に至る、名づけて年衰という。是の如くにして恒に九才を加うれば、百六に至る、皆年の衰なり。歳露の年にあらざれば、其の人美なるをもって邪傷らず、故に人この年に至るを名づけて乗というなり」。言っている事は七つの年に九年加えると十六になる訳ですね。その年が年の衰の初めての年です。そこからまた九を加えてという形でどんどん九を加えて9年毎に衰えるべき年というのがくる訳です。これが衰年です。なぜ9年毎に衰えるか、陽の数の極まったのが9です。「陽九の戹」というんですけども、実は漢代の讖緯の書ですが、その中に「陽九の戹」と「百六の会」というのが出てきます。これは例の漢の王朝が衰えて王莽が出てくると、盛んに説かれるんですけれども。暦運の思想といいまして、運気論なんかはこれが原型だと僕は考えているんです。中国人はかなり過激でありまして、こういうのがあるから、運気論というのは漢代のおしまいか、隋代に出来てしまった。そういう具合に勝手な事を言いますが、それはちょっと嘘です。ただ原型はここにある。しかもこの暦運の思想が出てくるのには、太初暦が出てくる頃です。太初暦というのは、武帝の頃紀元前104年に出てきます。という事は、この『霊枢』の歳露篇というのは、武帝中期以降の資料なんです。そうしますと、この表の後期三派の時代なんです。ところが、山田さんの論では、少師派ですから前期二派で、遥か古いものです。ですから風の病因論云々というのは、資料自体がおかしい。あれこれ考えて、この仮説はかなり全面的に否定していいと思います。
 そうしますと、学派分類が上手くいかないのはなぜなのか。例えば『諸病原候論』とか、そういった後の隋唐の医学書を見ますと様々な『黄帝内経』の断篇が引かれています。そこには黄帝派、少師派、伯高派、岐伯派、少兪派だけじゃないのです。倉公と黄帝の対話とか、扁鵲と黄帝の対話とか、めちゃくちゃなものがあるんです。そうすると倉公派とか扁鵲派とか、色んなものを作んなきゃいけないですね。で、そういった篇章が昔はあったらしい。そうしますと、学派でまとめるのはとてもむずかしいんじゃないかというのが僕の考え方です。そうした訳で、以下非常に保守的に考え方がなっていきます。先ず文献批判についてですが、先程一番最初に医学の本と言うのは、普通の本に比べてとても難しいんだと言いましたが、実はとっても簡単な諸子百家の本でさえ、完全には成功していません。今、文献批判の第一人者は、僕の先生の金谷さんなんで、はっきり師匠は完全には成功していないと僕は言えます。作業を手伝っていますから。金谷先生自身も認めています。つまり漢代以前の本はですね、とくに後漢以前の本は、蓋然性でしかものを言えないんです。
 文献批判の方法として重要な方法は二つです。
 一つは武内、金谷先生の方法で、『漢書』芸文志のような書目ですね。書誌目録を使って篇ごとのまとまりを考える。それの一つのやり方が、この山田さんのやり方です。今まで話してきましたけれども、篇ごとという、その篇の中が新旧入り混じっているのが『黄帝内経』です。例えば『甲乙経』の中に引かれていない『黄帝内経』は、新しいんだという考え方が今迄ありました。ところが『甲乙経』に引かれていない『黄帝内経』が、馬王堆の医書の中に断片で入っているのです。そうすると困っちゃいますね。という訳で本当に分析ができない。篇ごとのまとまりとしては分析できない。
 もう一つのやり方としては津田左右吉さんのやり方で、篇ごとのやり方をやめて、文章をばらばらにして再構成する。どっちかなんです。今までの話でお判りかと思うんですけれど、おそらく津田さんのやり方しか、どうもなさそうなんですね。大変残念です。
 ただ一つ大事なのは、『漢書』芸文志というものをもう一度見直したらどうかということです。『漢書』芸文志について凄く大事なのは、『漢書』芸文志というのがどのようにまとめられたかという、序録というものが幾つか残されています。これはこういう本があるが、それはこんな本とこんな本を集めてきて、その結果、こういう具合にまとめたんだ、という事が書いて残っているのが幾つかあります。その中で、代表的なのが『晏子春秋』『管子』『荀子』で、こういった本の序録を読んでいきますと、劉向・劉という漢代末の親子が、どういう形で本を集めたかが解ります。例えば『晏子春秋』はたった一篇の本、たった五篇の本、たった十三篇の本、なんてものをたくさん集めて何百篇と言う本を集めた訳です。そこから重複を整理して八篇の『晏子春秋』を作り上げたんです。という事は、それが八篇になる前には晏子さんの本と言うのが、あっちこっちにいろんな形である。『管子』については二十七篇の本、四十一篇の本、たった十一篇の本、九十六篇の本等というのがあって、全部で五百八十四篇が材料です。それを八十六篇にしたのが、今の本のもとです。今の本はもっと少なくなっていますけれども。
 そうしますと『内経』もやっばりそうなんじゃないか。この時に一つ大事なのは、倉公の先生が持っていた、公乗陽慶が持っていた黄帝扁鵲の『脈書上下経』、僕は全然自信がなくて言えないんですが、黄帝扁鵲というのは、ひょっとして全部の本にかかるんじゃないかなという疑いを捨て切れないんです。もしそうだとすれば、あれは黄帝扁鵲の名に託した本の群れなんですね。そういったものがあちこちにあって、それを集めれば『黄帝内経』のもとはできます。これを『黄帝内経・外経』の形にまとめたのは、一体誰だったのか解らないですが。そういった作業だった訳です。

8,『内経』の変遷過程
 そうしますと『黄帝内経』の出発点として、黄帝の名に託した様々な医書というのが先ずあります。それは呂公八年の時七十余才だった公乗陽慶が、もっともっと前に彼が書いたか、彼の先生が書いたか、或いは彼が集めたか、そんなものです。それが『黄帝内経』になってゆく時期というと、司馬遷が死ぬまでは『黄帝内経』になっていかないと思うんです。というのは、司馬遷は倉公伝の中に一言も『内経』の事を書いていません。で、司馬遷が死んだ時点から、書物収集の校訂が始まる紀元前の二十六年まで、この間僅かに60年。この60年の間、『黄帝内経』というものがどういう形でかは知りませんが、出来上がってきます。これは第一次の『黄帝内経』。
 この『黄帝内経』を例の侍医の李柱国という人が校訂して、何らかの形にしたのでしょう。それが『漢書』芸文志に載っているものです。そして、それが『素問』『針経』の形になる。おそらくその内の『針経』は、先程島田先生がおっしゃったように、おそらく『素問』よりは後に独特な形で編まれたと思いますけれど、それについては確たる資料がありません。
 『素問』『針経』の形になった時期は特定できないか。特定できる資料は、劉の『七略』を信じて、そのままに『漢書』芸文志を書いたのは班固です。班固は『漢書』芸文志だけを見たんじゃなくて、なにせ図書館長だった訳ですから、宮中の本すべてを見て、これで良いと思ってきいた訳ですね。で、もし違っていれば注記も書ける訳です。そうしますと、班固が死んで、そしてその後馬昭と班固の妹の班昭やら、その他の人が『漢書』をまとめ上げる時期が120年頃です。ここまではおそらく『黄帝内経』はそのままだったのではないでしょうか。だから『漢書』芸文志に、ああいう形で書いてある訳です。その後120年頃から『難経』というもの、『傷寒論』というものができた紀元後200年ちょっと前、かなり前でしょうけれども、後漢中期から後期にかけて、これも多分、恐らくせいぜい60年位の間に、恐らく『素問』『針経』の形になったはずです。
 『難経』は資料として『内経』を使っていますし、『傷寒論』は色々かわっている訳ですけれども、『傷寒論』の序は漢代の文が使われていると、この頃良く言われますので、取り合えず信じますと、そこに『素問』『針経』が出てくる訳ですから、やっぱりその時点までに『素問』『針経』の形になっている訳ですね。 で、それを素材にして『甲乙経』が又かなり近い時代に、250年頃に出来てきます。そういった形で、まとまりとしての書物は考える事ができる。しかしこれ以上の事はなかなか言いにくい、と言うのが現在の状況なんです。以上大変にむずかしく、且つ面白くない話をまとまりもなく、長いことして申し訳ありません。質問があれば受けたいと思います。


質疑応答
(質問)島田会長:基本的な質問なんですが、『霊枢』と言われる『黄帝針経』の中で主張している脈診の人迎脈口と、『素問』で主張している三部九候との係わり合いが、同時期ではないかと最近思うんですけども。
(応答)僕は倉公伝から確実に言えると思います。人迎診と思われるのは倉公伝にあります。倉公伝の脈診というのは色々あるんです。尺膚診があるのは確実なんです。それから脈口診があって、切経があると思うんです。「循」で示される、撫でるという字、「切」という字、「診」という字、この三つを区別してるんだと思うんです。「循」は、これは専ら尺膚、肌を見るんじゃないかと思います。その他に人迎脈口診らしきものが有ります。
(質問)島田会長:それと関連してですね、私の先生の丸山先生が、『黄帝内経』と『素問』と『針経』は、それぞれ別個の本であると主張されましたが、それについてどうお考えですか。
(応答)わからないんですけどね。やっぱり『甲乙経』を信じたいんです。『甲乙経』というのは、僕らがイメージする以上に古いものなんです。原『黄帝内経』の編纂が紀元前26年前位だと思いますと、それから二百何十年後に出来たものに過ぎないんです。で、その間に色々変わったとしても、それを同じものたという事は、そんなに間違いないような気がしてならないんです。後はやっぱり『難経』はやっぱり『内経』に基づいているんじゃないか。つまり進化論的に考えて『内経』が一番良くて残った訳ですね。そうしたならぱ『黄帝内経』なるものに基づいた形で、ちょっと内容は違うんですが、『難経』というものに展開して書いてあるとすれば、その『難経』と『甲乙経』が近い。その『難経』と『素問』『針経』が近い。この間の関係は、やっぱり同一なんじゃないかと。すみません、これはかなり希望的な話に過ぎないのですが、そんな風に考えたいのです。