『東医学研究』107号(2003年4月25日発行 )ななめ読みライブラリー
『医古文の基礎』
編著:劉振民・周篤文・銭超塵・周胎謀・盛亦如・段逸山・趙輝賢
編訳:荒川緑・宮川浩也(東洋学術出版杜刊)

 日本には、漢文の読み方として二つの方法がある。
 一つは、伝統的な「訓読法」である。それは、おそらく『万葉集』に見られるがごとき例からも、奈良時代に始まっていたのであろう。そして、それは室町時代に進化を遂げ、江戸時代には一定の完成を見たのである。
 一方、音読という方法もある。奈良時代「大学寮」においては、漢籍の正式な読み方は音読であった。音読を指導したのは、中国からの渡来人であった。しかし、この方法はしだいに衰退し、訓読法に取って代わられる。
 江戸中期には、儒学において多くの学派が競い合い、その中から、「古文辞学」を唱える荻生徂徠が現れ、「訓読法」を批判するに至る。
 「予嘗て蒙生のために学問の法を定む。先づ崎陽の学を為し、教ふるに俗語を以てし、謂するに華音を以てし、訳するにこの方の俚語を以てし、絶して和訓週環の読をなさず。始めは零細なる者を以てす。二字三字、句を為す。後書を成す者を読ましむ。崎陽の学、既に成りて、乃ち始めて中華人たることを得。しかして後に稍稍に経子史集四部の書を読めば、破竹の如し。これ大上乗なり。」『訳文筌蹄・題言』
 つまり、まず中国語の音からはいり、和訳すべきである、と述べている。
 この方法は、近代には、倉石武四郎に継承され、現代に至る。近年の中国学者たちは、やはり現代中国語から学習し、古典文に進む傾向がある。そのため、伝統的な訓読法を採用しない人々も増えている。漢方の世界では、荒木正胤・荒木性次氏などが、中国音ではないが、日本の音読みでの読法を採用している。
 また、近代中国では、西洋文化の流入の中で、文法学が導入され、中国語文法の研究が始まる。従来、中国でも日本でも、文法といえば、助字・虚詞の研究が中心であったが、この傾向は一変する。西洋文法の理論によって中国語文法を明らかにしようという研究である。その最初の成果は、馬建忠の『馬氏文通』である。これ以来、中国・目本の研究者たちがこの主題と取り組むことになる。そしてそれは、現代中国語のみならず、古典文にまでおよぶ。
 さらに、解放後にはその研究はさらに進み、多くの成果が形成された。そして、それは日本にも影響する。おそらく、最も早く中国の古典語文法を訳書のかたちで紹介したのは、波多野太郎など訳『中国文語文法』(原著『文言文法』楊伯峻著)であろう。
 ここで、注目すべきは、訳者らは訓読法を採用していない点である。以来、古典文法に対する訳書は何冊か出版されているが、訓読法を採用しない者が多い。たとえば、池田武雄訳『中国古典読法』などである。
 また、日本でも多くの成果が見られた。しかし、訓読法は採用されてはいない。たとえば、太岡辰夫の『中国歴史文法』『古典中国語文法』、牛島徳次の『漢語文法論』などがそれである。
 ところで、中国においては、中医学院・中医大学などで、「医古文」が必修の科目となり、中医師の其本素養となっている。それにひきかえ、日本はどうであろうか。漢方の漢文を読むための参考書といったら、ほんの三四を数えるのみである。しかも、それは、たった二人の手によってかかれたものである。
 しかも、高校における漢文教育は、まことにお寒い限りである。センターからも漢文が除外されるという噂もあり、漢文教育は絶滅に瀕している。
 彼我を比較するとき、まことに差恥の念で一杯である。こんな状況で、果たして古典の研究ができるのであろうか。
 しかし、中国の状況もさほど誉められたものではない。中国人の学生たちにとっても、医古文の学習は甚だ困難であるようだ。
 中国も例外ではなく、近頃はガイド本というらしいが、教科書にはアンチョコがある。医大生・薬大生ならば、赤本である。まあ、教科書ガイドでもあるし、卒業試験対策本でもある。
 中国では中医学生用のガイドが、このごろはやたらに増えてきたが、十年ほど前にはさほど多くはなかった。ところがである、医古文のガイド本は当時から相当数に上っていた。評者の書棚を眺めるだけでも二十や三十はある。
 これはなんとしたことなのか、やはり古文は中国人にとってもやはり厄介なのだ。
 また、ガイドに限らず、医古文と銘打った書籍も少なからずある。
 にもかかわらず、なぜ『医古文基礎』なのか、評者には読みとれない。
 そして、何よりも問題なのは、この書にあげられた例文を訓読していることだ。
 上記したごとく、文法を論ずる多くの研究者たちは、訓読法を採用してはない。にもかかわらずである。
 しかも、その訓読たるや、初歩的な漢文法もわきまえず、誤読のヒットパレードなのである。これは、つまり、文法書を訳したものたちが、訓読法を採用するのか、はたまた音読法でいくべきなのか、その矛盾を解決しないままに、翻訳刊行に踏み切ったからに違いない。あるいは、中国語文法・訓読法、ともに未熟なのか。
 そもそも、中国における古典文の入門・概論書は、現代中国語文法を十分に理解し認知しているという前提に立っている。つまり、中国の一定の素養のある層に対して発せられているのである。
 たとえぱ、われわれが現代中国語を学ぶ際、最も困難を極めるものの一つに補語がある。この『医古文基礎』における補語の扱いは極めて軽い。これは、補語について当然知っているはずだという前提に立っているからである。「編訳者まえがき」にあげる『中国語学習ハンドブック』などですむならば、なんの苦労もない。
 少し具体的に見てみよう。本書の中核をなす「第三章語法」の部分を読んでみると、ほとんど毎ぺ一ジに誤読が発見される。こうなっては、誤植とか勘違いの域を超えている。
 それをいちいち挙げていたのでは、一書を成してしまうので、わずかな例に止めたい。

p52
原文:「虚邪不能独傷人」
訓読:「虚邪独り人を傷ること能わず」
 「不能独傷」と「独不能傷」とは、部分否定と全否定である。部分否定と全否定との違いは、高校程度の文法書にもその違いが説明され、それこそセンター試験の山中の山である。まことに初歩的な誤りである。
 「虚邪独りは人を傷る能はず」

p52
原文:「奈何治此者……便作寒湿脚気治之」
訓読:「奈何ぞ此を治する者は、……、便ち寒湿脚気と作して之を治す。」
 「ぞ=なむ・か・や」は連体形で結ぶ。「係り結びの法則」である。「奈何ぞ」とあるのに「治す」と終止形で読むのは、目本語文法の誤りである。これは、「治する」とすべきである。
 このように本書の訓読の誤りは、漢文の文法をわきまえないもの、日本語の文語文法を知らないもの、そのどちらもがある。訓読法は、文語文法にしたがって訓読すべきは原則である。時に、訓読の習慣によるものはあるが、これは例外である。勝手に訓読することが許されるならば、口語訳となんの違いもない。

p54
原文:「若夫殿処鼎食之家」
訓読:「夫れ殿に処り鼎して食するの家」
 ここは、名詞が状語となり、連用修飾する場合の説明である。しかも、「場所あるいは道具を表す」と述べられている部分である。「殿」と「鼎」がそれだと説明される。「殿」は確かに場所を表すのだから、「殿に処り」と読んでよい。
 問題は「鼎食」である。訳文によれば「鼎食」は鼎を列ねて食すの意(豪華な食卓)。「鼎」は本来は名詞であるが、この文中では動詞「食」を修飾して、連用修飾語となり、行為の方法を表している。
 であるならば、「鼎して」とどうして「サ変」で読むのであろうか。「鼎もて」で十分なのではないのか。漢文法の理解の不足。

p55
原文:「仮如痩病……傷酒」
訓読:「仮如痩病……傷酒たれば」
「仮如」には「もし」とノレビがふってある。つまり、仮定文である。仮定文であるならば、「たれ(已然形)」+「ば」にするのであろうか。仮定文ならぱ「たら(未然形)」+「ば」とすべきはずだ。もちろん、これには異論がある。仮定文でも、「已然形」+「ば」でよいとするものである。ならば、なぜ、一貫性がないのか。仮定文でありながら、ある時は已然形にし、またある時は未然形にする。この揺らぎはなんなのか。

p63
原文:「三飲而疾愈」
訓読:「三飲して而して疾愈ゆ」
 「三飲して」と「て」という助詞をつけているのに、さらに「而して」と読むのは、いかがなものか。一般に、「而」の前に句読がなけれぱ、「て」「して」ですませ、前に句読がある場合には「しかうして」と読むのが原則である。ところが、本書では、至る所にこの重複が見られる。常識的な原則に反する以上は、なんらかの意図があるのか、この原則を知らないのか、どちらかである。
 ついでにいえば、「三たび飲みて」であろう。この「三」は、状語である。前ぺ一ジでは、「三たび易う」と読んでいるのに。

p69
原文:「色之与脈、当参相応」
訓読:「色の脈とは、当に参じて相応ずべし」
 この「之」については、本書に「語気助詞として、音の調子を整えたり、語気を伸びやかにしたりする。特別な意味はない。」と述べられている。このようなr之」に関しては読まずに、「色と脈とは」するのが普通である。

p72
原文:「其毋忽於是焉」
訓読:「其れ是に於いて忽せにする毋かれ」
 介詞句が、述語の前にあり状語の場合には、「おいて」と読み、介詞句が補語となって述語の後にある場合には「に」とするのが常識である。ただ、そうとも限らず、本書p112にあるごとく、「より」とすることもある。訳を見ると、「ぜひとも、この点をいい加減にしないように。」となっている。ならば、「これを」とすべきではないのか。訓読と和訳の不一致である。これも散見される。

p73
原文:「呼佗視脈」
訓読「佗を呼びて脈を視せしむ」
 「視せしむ」とは、なんという目本語だ。「視」は「みる」と読み、マ行上一段活用の動詞である。「しむ」は使役の助動詞である。「しむ」は、活用語の未然形に接続する。「みる」の未然形は「み」である。したがって、「みしむ」となる。
 いや「みせる」に使役の「しむ」をつけたのだと強弁するかもしれない。あるいは「みす」の未然形に「しむ」をつけたのだと弁解するかもしれない。
 この構文は「兼語式」である。つまり「呼(述語動詞)+佗(賓語)」と「佗(主語)+視(述語動詞)+脈(賓語)」の二つの文が結合している。「佗」は「呼」の賓語でもあり、同時に「視」の主語でもあるので、「兼語式」と呼ぶ。
 したがって、「佗視脈」を読めば、「佗脈を視る」となる。「佗脈を視せる」とか、「佗脈を視す」とは読めない。そう読んでしまっては、「華佗が脈をみせる」とすでに使役なである。屋上に屋をかさねては、なんのことだか解らなくなってしまう。
 ここでは、漢文法の基礎構文の理解がなされず、さらに目本語の基礎知識のなさが露呈している。

p74
原文「或言内経多論鍼而少論薬者、蓋聖人欲明経絡」
訓読:「或るひと言わく、内経の鍼を論ずること多くして薬を論ずること少なき者は、蓋し聖人の経絡を明らかにせんと欲すればなり、と。」
 これはいささか驚いた。「言」を「いわく」と訓じている。評者の勘違いかと、訳者が推奨している『漢字海』を見てみたが、「いわく」という訓は見つからない。「目」には、もちろん「いはく」の訓はついているにもかかわらず。『漢字海』によれば、動詞とした場合、①「いう、イフ」②「いうこころハ」あるいは「いフ」と訓じるとしている。評者の勘違いではなかった。
 「日」「云」「言」「謂」「道」などの意味と訓をよく復習すべきだ。
 次は、「欲」についてだ。「明らかにせんと欲す」と訓じているが、和訳では「明らかにしたい」としている。
 これも『漢字海』を引いてみると、動詞の「ほっする・ホッス」と訓じ「期待し願う。…しようと求める。」の意と、副詞の「ほっする・ホッス」と訓じ「まさに…しようとしている。いまにも…しそうである。」の意とがある。
 和訳は「したい」となっているのだから、動詞として読んだのであろう。
 確かにともに「ほっす」と訓じるのではあるが、その前が違う。動詞は「…(せんこと)をほっす」である、副詞は「…せんとほっす」である。
 こう読み分けることによって、意味をはっきりさせる。訓読の常識である。

p79
原文「惟以熟地一味、無方不有、無病不用」
訓読:「惟だ熟地の一味のみを以てしても、方として有らざるは無く、病として用いざるは無し。」
和訳には「処方もないことはなく、用いる病がないわけでもない。」とある。
 高校生に見せたら笑われてしまう。「無…不…」の構文である。訓読は確かにその通りだが、和訳が明らかに間違っている。
 この二重否定は強い肯定を表すものだ。高校生用の参考書には「どんな…でも…しないものはない」と訳せと教えている。たとえば「無夕不飲」は「どんな夕でも酒を飲まないことはない」、つまり「毎晩酒を飲む」と訳している。

p80
原文:「治療之無貴賎」
訓読「之を治療するに貴賎無く」
 これは誤植の可能性があるのでとばそうかとも思ったが、他の誤りを見るとき、必ずしも誤植とはいえないのではないかと推測し、ここに挙げておく。
 「無貴賎」を「貴賎無く」と訓じているが、これまた、高校生用の漢文入門書でも開いてみれば、一目瞭然である。
 「貴賎と無く」と訓ずべきところだ。入門書の例文に「無貴無賎」とあり「貴と無く賎と無く」と訓じている。
 ご推薦の『漢字海』を見ると、動詞の②に「無視する。かろんじる。ないがしろにする。」と説明され、「なみする・ナミス」と訓ずるとある。しかし、このように反対語が使用されている場合には、一般に「となく」と訓ずる。
 それに、本書では「なみす」とも読んでいない。

p87
原文:「六腑之咳奈何」
訓読:「六腑の咳は奈何(いかん)」
 ここまで書いてきたら、編集者から電話があり、締め切りを過ぎている早く提出しろとのお小言がきた。字数を数えてみると、すでに与えられた字数を超過している。しかし、ここは極めて重要なので落とすわけにはいかない。
 疑問を表す詞に「何如」と「如何」がある。「何如」は「いかん」と訓じ「どのようであるか」と状態を問うている。それに対して「如何」は「いかんせん」と訓じ、「どうするのか・どう対処・処置するのか」と手段・方法を問う。なぜそうなるのか、説明する余裕は今はない。
 後にこれは混用されるようになるが、原則はこうである。
 和訳には「六腋の咳嗽はどのようなものなのか」とある。「奈何」は言うまでもなく「如何」に同じである。しかも、原本には「ツェンマバン」とあるにもかかわらず、「どのようなものか」というのでは、原文の「奈何」も解っておらず、原本の現代中国語訳「ゼンマバン」も解っていないことになる。

 主なところを拾ってきただけでもこんなにある上に、まだ半分も終わつていない。一体どうしたことか。

 この翻訳書をくさしているのではない。壮挙だと申し上げたい。まず何よりも、医古文の書を初めてに目本に紹介した業績を。評者もまた、『医古文基礎』などの医古文の書を片手に古典を読んでいる身としては、まさに友を得た気持ちである。
 そして、また「暴虎偏河」の暴挙と申し上げたい。「現代中国語が読めなくても、根気よく学習すれば、ある程度は形になること」ほとんど現代中国語の文法知識もなく、中国語辞典を頼りに翻訳してしまったことを。
 実は、評者は「語法」以外の所はほとんど目を通していない。何しろ「ななめ読みライブラリー」なので。出来得るならぱ、「語法」以外のところで、誤訳などがないことを祈る。