醫説 鍼灸


『醫説』鍼灸

小林健二先生から,南宋・張杲『醫説』鍼灸のデータをいただきました。以下,順次句読点をつけて訓読したものを掲載したいと思います。
訂正・補注・現代語訳などの書き込みをいただければありがたいです。
まずは,鍼灸之始。

醫 説
南宋・張杲
卷二
■鍼灸■
●鍼灸之始
帝王世紀曰:太昊畫八卦,以類萬物之情,六氣六腑五臟五行陰陽四時水火升降,得以有象,百病之理,得以有類,乃制九鍼。又曰:黄帝命雷公岐伯,教制九鍼。蓋鍼灸之始也。

『帝王世紀』に曰く「太昊 八卦を畫いて,以て萬物の情を類す。六氣・六腑・五臟・五行・陰陽・四時・水火・升降 以て象有ることを得たり。百病の理 以て類有ることを得たり。乃ち九鍼を制す」と。又曰く「黄帝 雷公・岐伯に命じて教えて九鍼を制せしむ」と。蓋し鍼灸の始めなり。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/21

『醫説』鍼灸2

●明堂
今醫家記鍼灸之穴,爲偶人,點誌其處,名明堂。按銅人兪穴圖序曰:昔黄帝問岐伯,以人經絡窮妙于血脉,參變乎陰陽,盡書其言,藏於金蘭之室。豢似旧ソ問,乃坐明堂,以授之後世。言明堂者以此。(並事物紀原)

今 醫家 鍼灸の穴を記すに偶人を爲(つく)り,點じて其の處を誌(しる)し,明堂と名づく。按ずるに『銅人兪穴圖』序に曰く「昔 黄帝 岐伯に問いて,人の經絡を以て妙を血脉に窮(きわ)め,變を陰陽に參じ,盡く其の言を書し,金蘭の室に藏す。雷公が請問するに豢氏iおよ)んでは,乃ち明堂に坐し,以て之れを後世に授く。明堂と言う者は此を以てなり」と。(並びに『事物紀原』)
 ・『銅人閻ァ穴鍼灸図経』夏竦序を参照。
 ・『事物紀原』 宋・高丞の撰。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/21/20:01

『醫説』鍼灸3

●妙鍼獺走
宋人王纂海陵人,少習經方,尤精鍼石,遠近知其盛名。宋元嘉中,縣人張方女日暮宿廣陵廟門下。夜有物,假作其壻來,女因被魅惑而病。纂爲治之。始下一鍼,有獺從女被内走出。病因而愈。(劉穎叔異苑)

宋の人 王纂は海陵の人なり。少(わか)きより經方を習い,尤も鍼石に精(くわ)し。遠近 其の盛名を知る。宋の元嘉中 縣人 張方の女 日暮れて廣陵廟の門下に宿る。夜 物有り。假りて其の壻と作(な)り來たる。女 魅惑せらるに因りて病む。纂 爲に之れを治す。始めて一鍼を下す。獺有り。女の被内從り走り出づ。病 因りて愈ゆ。(劉穎叔『異苑』)
 ・王纂 『醫説』卷一・二,『流注指微賦』にも名がみえる。『扁鵲神應鍼灸玉龍經』注解標幽賦(末尾)によれば,穴名は交兪。なお劉宋(南北朝)の劉穎叔『異苑』卷八によれば,元嘉十八年のこと。張方の女の名前は道香。夫が北行するのを送っていった。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/21/20:41
Re: 『醫説』鍼灸3

こんなものは法螺話です。
現代人の目から見れば、一針して治ったと書いたほうが、むしろ重みが有る。ただし、当時の人々には怪談のほうが感動的だったんだろうからしょうがない。
面白いのは獺であること。狐や狸の他にも人を化かすものは有るんです。獺の話は他にも有ったように思う。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/22/08:22

『醫説』鍼灸4

●鍼蒭愈鬼
徐熙,字秋夫,不知何郡人。時爲射陽少令,善醫方,名聞海内。常夜聞有鬼呻吟聲甚淒苦。秋夫曰:汝是鬼,何所須。答曰:我姓斛,名斯,家在東陽,患腰痛死,雖爲鬼,而疼痛不可忍,聞君善術,願相救濟。秋夫曰:汝是鬼而無形,云何蜴搦。。鬼曰:君但縛蒭爲人,索孔穴鍼之。秋夫如其言,爲鍼腰四處,又鍼肩井三處。設祭而埋之。明日一人來謝曰:蒙君醫療,復爲設祭,病除饑解,感惠實深。忽然不見。當代稱其通靈。長子道度,次子叔嚮,皆精其術焉。(唐史)

徐熙 字は秋夫。何れの郡の人かを知らず。時に射陽の少令と爲る。醫方を善し,名 海内に聞こゆ。常(=嘗)て夜に鬼の呻吟する有るを聞く。聲 甚だ淒苦なり。秋夫曰く「汝は是れ鬼なり。何の須(もと)むる所ぞ」と。答えて曰く「我が姓は斛,名は斯。家は東陽に在り。腰痛を患い死せり。鬼と爲ると雖どもしかるに疼痛 忍ぶべからず。君の術を善くするを聞く。願くは相い救濟せよ」と。秋夫曰く「汝は是れ鬼にして形無し。治を蜴掾iソ)するに云何(いかん)せん」と。鬼曰く「君は但だ蒭を縛りて人を爲り,孔穴を索めて之れに鍼せよ」と。秋夫 其の言の如く鍼を腰の四處に爲し,又 肩井の三處に鍼す。祭を設けて之れを埋む。明日 一人來たりて謝して曰く「君の醫療を蒙り,復た爲に祭を設く。病 除かれ,饑 解かれ,惠を感ずること實に深し」と。忽然として見えず。當代 其の通靈を稱す。長子は道度,次子は叔嚮。皆 其の術に精し。(『唐史』)

 ・『南史』(張)融與東海徐文伯兄弟厚.文伯字德秀,濮陽太守熙曾孫也.熙好鮟メC老,隱於秦望山,有道士過求飲,留一瓠ャ帑o之,曰:「君子孫宜以道術救世,當得二千 .」熙開之,乃扁鵲鏡經一卷,因精心學之,遂名震海蜈ァ.生子秋夫,彌工其術,仕至射陽令.嘗夜有鬼呻吟,聲甚悽愴,秋夫問何須,答言姓某,家在東陽,患腰痛死.雖為鬼痛猶難忍,請療之.秋夫曰:「云何蜴摶@?」鬼請為芻人,案孔穴針之.秋夫如言,為灸四處,又針肩井三處,設祭埋之.明日見一人謝恩,忽然不見.當世伏其通靈.
 ・『普濟方』卷四百九・流注指微鍼賦:「秋夫療鬼而馘效魂免傷悲」。注「昔宋徐熈字秋夫善醫方方為丹陽令常聞鬼神吟呻甚悽若秋夫曰汝是鬼何須如此答曰我患腰痛死雖為鬼痛苦尚不可忍聞君善醫願相救濟秋夫曰吾聞鬼無形何由措置鬼云邵ウ草作人予依入之但取孔穴鍼之秋夫如其言為鍼腰閻ァ二穴肩井二穴設祭而埋之明日見一人來謝曰蒙君醫療復為設祭病今已愈感惠實深忽然不見公曰夫鬼為陰物病由告醫醫既愈矣尚能感激况於人乎鬼姓斛名斯」。
 ・著者未詳『凌門傳授銅人指穴』に「秋夫療鬼十三穴歌」あり。曰く「人中神庭風府始,舌縫承漿頬車次,少商大陵間使連,乳中陽陵泉有拠,隠白行間不可差,十三穴是秋夫置」。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:14
Re: 『醫説』鍼灸4

ここから幻肢の治療法を思いつけたら臨床の天才なんでしょうね。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/22/08:23

『醫説』鍼灸5

●鍼愈風手
唐甄權,許州扶溝人。常以母病,與弟立言,專習醫方,遂究其妙。隋開皇初,爲秘書省正字。後稱疾除。魯州刺史庫狄欽若患風,手不得引。諸醫莫能療。權謂曰:但將弓箭向蝙怐C一鍼可以射矣。鍼其肩隅一穴,應時愈。貞觀中年一百三歳。太宗幸其家,視其飲食,訪以藥性。因授朝散大夫,賜几杖衣服。其修撰脉經、鍼法、明堂人形圖,各一卷,至今行用焉。(同上)

唐の甄權は許州扶溝の人なり。常に母の病を以て弟の立言と與に專ら醫方を習い,遂に其の妙を究む。隋 開皇の初め,秘書省の正字と爲る。後に疾と稱して除せらる。魯州の刺史 庫狄欽 風を若(苦しみ)[四庫本に「若」なし]患い,手 引くを得ず。諸醫 療すること能うこと莫し。權 謂いて曰く「但だ弓箭を將(もっ)て蝙怩ノ向わば,一鍼にて以て射るべし」と。其の肩隅一穴に鍼すれば,時に應じて愈ゆ。貞觀中 年 一百三歳なり。太宗 其の家に幸し,其の飲食を視,訪(と)うに藥性を以てす。因りて朝散大夫を授け,几杖と衣服を賜う。其の修撰せる『脉經』『鍼法』『明堂人形圖』各一卷,今に至るまで行い用いる。(同上)

 ・『旧唐書』甄權,許州扶溝人也.嘗以母病,與弟立言專醫方,得其旨趣.隋開皇初,為祕書省正字,後稱疾免.隋魯州刺史庫狄蠍萩齦頼ウ,手不得引弓,諸醫莫能療,權謂曰:「但將弓箭向蝙怐C一鍼可以射矣.」鍼其肩隅一穴,應時即射.權之療疾,多此類也.貞觀十七年,權年一百三豁イ,太宗幸其家,視其飲食,訪以藥性,因授朝散大夫,賜几杖衣服.其年卒.撰脈經,鍼方,明堂人形圖各一卷.

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:28
Re: 『醫説』鍼灸5

要するに針刺の際の姿勢の適否と効果の問題。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/22/08:24

『醫説』鍼灸6

●許希善鍼
天聖中,仁宗不豫。國醫進藥,久未效。或薦許希善用鍼者,召使治之,三鍼而疾愈。所謂興龍穴是也。仁宗大喜,遽命官之,賜予甚厚。希善既謝上,復西北再拜。仁宗怪問之。希善曰:臣師扁鵲廟所在也。仁宗嘉之。是時孔子之後,久失封爵。故顔太初作許希詩,以諷之。於是詔訪孔子四十七代孫,襲封文宣王。(皇朝類苑)

天聖中 仁宗 不豫なり。國醫 藥を進すること久しけれども未だ效かず。或るひと 許希善という(許希という善く)鍼を用いる者を薦む。召して之れを治めしむ。三たび鍼して疾 愈ゆ。謂う所の興龍穴 是れなり。仁宗大いに喜ぶ。遽に命じて之れに官す。賜予すること甚だ厚し。希善[「善」上海中医学院図書館所蔵 癸酉夏五陶風楼本になし] 既に上に謝し,復た西北に再拜す。仁宗 怪しみて之れを希善[「善」同上]に問う。曰く「臣の師 扁鵲廟の在る所なり」と。仁宗 之れを嘉す。是の時 孔子の後,久しく封爵を失す。故に顔太初 許希の詩を作りて以て之れに諷す。是において詔して孔子四十七代の孫を訪(たず)ね,文宣王に襲封す。(『皇朝類苑』)

・『宋史』顏太初字醇之, 徐州彭城人,顏子四十七世孫.少博學,有雋才,慷慨好義.喜為詩,多譏切時事.天聖中,亳州真令黎德潤為吏誣構,死獄中,太初以詩發其寃,覽者壯之.文宣公孔聖祐卒,無子,除襲封且十年.是時有醫許希以鍼愈仁宗疾,拜賜已,西向拜扁鵲曰:「不敢忘師也! 」帝為封扁鵲神應侯,立祠城西.太初作許希詩,指聖祐事以諷在位,又致書參知政事蔡齊,齊為言於上,遂以聖祐弟襲封 .
 ・『皇朝類苑』 宋・江少虞の撰。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:37
Re: 顏太初

・『皇朝類苑』 宋・江少虞の撰。董康本『皇朝類苑』卷四十七・占相醫藥の小題は「許希」につくる。「或」を「或有」につくる。「襲封文宣王」の「封」字なし。
・「希善既」「希善曰」 『四庫全書』本は,かくのごとくつくるが,上海中医学院図書館所蔵 癸酉夏五陶風楼本『醫説』ならびに董康本『皇朝類苑』により,書き下し文では「善」字を削除した。
・『宋史』卷四百四十二列傳第二百一・文苑四「顔太初,字醇之,徐州彭城人,顔子四十七世孫。少博學,有雋才,慷慨好義。喜為詩,多譏切時事。天聖中,亳州衛真令黎徳潤為吏誣搆,死獄中,太初以詩發其寃,覽者壯之。文宣公孔聖祐卒,無子,除襲封且十年。是時有醫許希以鍼愈仁宗疾,拜賜已,西向拜扁鵲曰:不敢忘師也。帝為封扁鵲神應侯,立祠城西。太初作許希詩,指聖祐事以諷在位,又致書參知政事蔡齊,齊為言於上,遂以聖祐弟襲封。」
 ・この『宋史』によれば,孔子四十七代孫は,聖祐の弟であると思われるが,インターネット百科辞典「ウィキペディア」によれば,聖佑(おそらく聖祐と同一人物)が四十五代で,「宋代1055 年,第四十六代孔宗願からは衍聖公という地位(爵位)が与えられた」(2006/1/29現在)とある。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/31/23:01

『醫説』鍼灸7

●鍼法
善用鍼者,從陰引陽,從陽引陰,以右治左,以左治右,以我知彼,以表知裏。

善く鍼を用いる者は,陰從り陽に引き,陽從り陰に引き,右を以て左を治め,左を以て右を治め,我を以て彼を知り,表を以て裏を知る。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:40

『醫説』鍼灸8

●鍼愈風眩
秦鳴鶴爲侍醫。高宗苦風眩,頭重目不能視。武后亦幸災異,逞其志。至是疾甚。召鳴鶴・張文仲診之。鳴鶴曰:風毒上攻,若刺頭出少血,即愈矣。天后自簾中怒曰:此可斬也,天子頭上,豈是試出血處耶。上曰:醫之議病,理不加罪,且吾頭重悶殆不能忍,出血未必不佳。命刺之。鳴鶴刺百會及腦戸,出血。上曰:吾眼明矣。言未畢,后自簾中頂禮拜謝之,曰:此天賜我師也。躬負繒寶,以遺鳴鶴。

秦鳴鶴 侍醫爲りしとき,高宗 風眩に苦しむ。頭重し目視ること能わず。武后亦た災異を幸いとし 其の志を逞しくす。是に至りて疾 甚し。鳴鶴と張文仲を召して之れを診しむ。鳴鶴曰く「風毒 上攻す。若し頭を刺し少血を出ださば即ち愈えん」と。天后 簾中自り怒りて曰く「此れ斬るべきなり。天子の頭上 豈に是れ試みに血を出だす處ならんや」と。上曰く「醫の病を議するは,理として罪に加えず。且つ吾が頭重く悶すること,殆んど忍ぶ能わず。血を出ださば未だ必ずしも佳からずんばあらず」と。命じて之れを刺さしむ。鳴鶴 百會及び腦戸を刺し,血を出だす。上曰く「吾が眼 明かなり」と。言 未だ畢らずして,后 簾中自り頂禮して之れに拜謝す。曰く「此れ天 我に師を賜うなり」と。躬ら繒寶を負い,以て鳴鶴に遺(おく)る。
 ・『季刊内経』154号(2004年春号)を参照。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:44
Re: 『醫説』鍼灸8

臨床家には胆力が必要とも読める。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/22/08:25

『醫説』鍼灸9

●鍼鼻生贅
狄梁公性好醫藥,尤妙鍼術。顯慶中應制入關。路傍大榜云:能療此兒,酬絹千匹。有富室,兒鼻端生贅如拳石,綴鼻根蒂如筋,痛楚危亟。公爲腦後下鍼,疣贅應手而落。其父母輦千邵装=B公不顧而去。(集異記)

狄梁公 性 醫藥を好み,尤も鍼術に妙なり。顯慶中 制に應じて關に入る。路傍に大榜して云く「能く此の兒を療せば,絹千匹を酬いん」と。富室の兒有り。鼻端に贅を生ずること,拳石の如し。鼻根を綴(かざ)り,蒂 筋の如し。痛楚すること危亟なり。公 爲に腦後に鍼を下す。疣贅 手に應じて落つ。其の父母 千邵曹rにして奉る。公 顧ずして去る。(『集異記』)
 ・『集異記』 唐の薛用弱の撰。
 ・狄梁公 『舊唐書』などに名前が見えるが,未調査。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:49

『醫説』鍼灸10

●筆鍼破癰
李王公主患喉癰,數日痛腫,飲食不下。纔召到醫官,言須鍼刀開,方得潰破。公主聞用鍼刀哭,不肯治。痛逼,水穀不入。忽有一草澤醫,曰:某不使鍼刀,只用筆頭,陂ク藥癰上,霎時便潰。公主喜,遂令召之。方兩次上藥,遂潰出膿血一盞餘,便寬,兩日瘡無事。令傳其方。醫云:乃以鍼繋筆心中,輕輕劃破,其潰散爾,別無方,言醫者意也,以意取效爾。(名醫録)

李王公主 喉癰を患う。數日痛み腫れ,飲食下らず。纔かに召して醫官を到らしむ。言わく「鍼刀を須(もち)いて開かば,方(まさ)に潰破するを得ん」と。公主 鍼刀を用いることを聞きて哭く。肯て治せず。痛み逼り,水穀入らず。忽ち一草澤醫有り。曰く「某(それがし) 鍼刀を使わず,只だ筆頭を用いる。藥を癰上に陂ク(サン)すれば,霎時に便ち潰えん」と。公主喜ぶ。遂に令して之れを召す。方に兩次 藥を上(くわ)う。遂に潰えて膿血を出だすこと一盞餘りにして,便ち寬す。兩日にして瘡 事無し。其の方を傳えしむ。醫云く「乃ち鍼を以て筆心の中に繋ぎ,輕輕にして劃破し,其れ潰散するのみ。別に方無し。醫は意なりと言う。意を以て效を取るのみ」と。(『名醫録』)

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/00:54
Re: 『醫説』鍼灸10

草沢医の臨機応変を讃える。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/22/08:25

Re: 『醫説』鍼灸10

・明・陳耀文の類書『天中記』卷四十に「筆頭陂ク藥」と題してほぼ同文が見える。『醫説』鍼灸から転載したものか。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/1/00:18

『醫説』鍼灸11

●鍼瘤巨虱
臨川有人,瘤生鬆ー間,癢不可忍,毎以火辜・пC則差止,已而復然,極以患苦。醫者告之曰:此真虱瘤也,當剖而出之。取油紙,圍頂上,然後施遐ュ,瘤才破,小虱涌出無數,最後一白一黒兩大虱,皆如豆,殻中空空無血,與鬆ー了不相干,略無瘢痕,但瘤所障處,正白爾。(丁志)

臨川に人有り。瘤 鬆ー間に生ず。癢み忍ぶべからず。毎に火を以て辜・пi炙)すれば,則ち差(やや)止むも,已にして復た然り。極めて以て患苦す。醫者 之れに告げて曰く「此れ真虱瘤なり。當に剖きて之れを出だすべし」と。油紙を取り,頂上を圍む。然る後に遐ュを施す。瘤才かに破れて,小虱涌出すること無數なり。最後に一白一黒の兩大虱 皆な豆の如し。殻中空空として血無し。鬆ーと了(つい)に相干せず。略ぼ瘢痕無し。但だ瘤の障ぐる所の處 正に白きのみ。(『丁志』)
 ・『夷堅志』丁志か?

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/01:00

『醫説』鍼灸12

●善鍼
無爲軍張濟善用鍼,得訣於異人,能觀解人,而視其經絡,則無不精。因歳饑,疫人相食。凡視一百七十人,以行鍼,無不立驗。如孕婦因仆地,而腹偏左,鍼右手指而正;久患脱肛,鍼頂心而愈;傷寒反胃嘔逆,累日食不下,鍼眼眥,立能食。皆古今方書不著。陳瑩中爲作傳云:藥王藥上,爲世良醫,嘗草木金石,名數凡十萬八千,悉知酢鹹淡甘辛等味,故從味,因悟入益知,今醫家別藥口味者古矣。(邵氏聞見録)

無爲軍の張濟 善く鍼を用いる。訣を異人に得て能く觀る。人を解するに,其の經絡を視れば,則ち精ならざる無し。歳饑なるに因りて,疫人相い食む。凡そ一百七十人を視,以て鍼を行い,驗を立てざるは無し。孕婦の,地に仆るるに因りて,腹左に偏するが如きは,右手の指に鍼して正す。久しく脱肛を患うは,頂心に鍼して愈ゆ。傷寒・反胃・嘔逆 日を累(かさ)ねて食下らざるは,眼眥に鍼して,立ちどころに能く食う。皆な古今の方書に著れず。陳瑩中 爲に傳を作りて云う。「藥王藥上 世の良醫の爲に草木金石を嘗め,名數凡そ十萬八千。悉く酢鹹淡甘辛の等味を知る。故に味に從いて,因りて悟り入りて益ます知る,今の醫家 藥の口味を別つ者は古し」と。(『邵氏聞見録』)
 ・陳瑩中 宋代,髢ゥのひと。名は逑・B
 ・『邵氏聞見録』 宋・邵伯温(字は子文)の撰。『邵氏聞見録後録』もあり。いまだ該当箇所,発見できず。
 
 『水滸伝』を読んだことがないので,無爲軍については,存じません。どなたかしかるべき解説をしてくださるでしょう。
 また陳瑩中の作った傳の後半が理解できていません。たぶん誤った訓讀をしていると思います。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/01:11
Re:

無為軍は地名で、長江を挟んで大都市・江州(今の江西省と湖北省東南部あたりに在った州の治所)の対岸です。『水滸伝』では流罪になっていた宋江が酔っぱらって叛詩を江州の潯陽楼の壁に書き、それを無為軍に住んでいた非役の通判が見つけて告げ口をして、宋江や仲間が処刑されそうになって、それを救うために「梁山泊の好漢法場を却かし 白竜廟に英雄小しく義に聚まる」という騒動が起こり、ついで「宋江智取す無為軍 張順活捉す黄文炳」という名場面が続きますが、ここの文章の理解には別段関係有りません。

投稿:神麹斎 from 東海 投稿日時:2006/1/22/09:08

Re: 『醫説』鍼灸12

ありがとうございました。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:57

『醫説』鍼灸13

●捫腹鍼兒
朱新仲祖居桐城,時親戚間有一婦人姙孕,將産七日而子不下,藥餌符水無不用,待死而已。名醫李幾道偶在朱公舍,朱引至婦人家視之。李曰:此百藥無所施,惟有鍼法,吾藝未至此,不敢措手爾,遂還。而幾道之師鮴粋タ常適過門,遂同謁朱。朱告之故,曰:其家不敢屈公,然人命至重,公能不惜一行救之否。安常許諾,相與同徃,才見孕者,即連呼曰:不死。令其家人以湯温其腰腹間。安常以手上下拊摩之,孕者覺腸胃微痛,呻吟間生一男子,母子皆無恙。其家驚喜拜謝,敬之如神。而不知其所以然。安常曰:兒已出胞,而一手誤執母腸胃,不復能脱,故雖投藥,而無益,適吾隔腸捫兒手所在,鍼其虎口,兒既痛,即縮手,所以遽生,無他術也。試令取兒視之,右手虎口有鍼痕。其妙如此。(泊宅編)

朱新仲の祖 桐城に居す。時に親戚の間に一婦人有り。姙孕し,將に産まんとするも,七日にして子下らず。藥餌・符水 用いざる無く,死を待つのみ。名醫 李幾道 偶たま朱公の舍に在り。朱 引きて婦人の家に至り,之れを視しむ。李曰く「此れ百藥施す所無し。惟だ鍼法有り。吾が藝 未だ此に至らず。敢えて手を措かざるのみ」と。遂に還る。幾道の師 鮴粋タ常 適たま門を過ぎる。遂に同じく朱に謁す。朱 之れに故を告げて曰く「其の家 敢えて公を屈せず。然れども人命至って重し。公 能く一行を惜まずして之れを救わざるや否や」と。安常 許諾す。相與に同じく徃く。才かに孕める者を見れば,即ち連呼して曰く「死せず」と。其の家の人をして湯を以て其の腰腹の間を温めしむ。安常 手を以て上下に之れを拊摩すれば,孕める者 腸胃の微痛を覺え,呻吟の間 一男子を生む。母子皆な恙無し。其の家 驚喜して拜謝し,之れを敬すること神の如し。しかるに其の然る所以を知らず。安常曰く「兒 已に胞を出づ。しかるに一手誤りて母の腸胃を執る。復た脱する能わず。故に藥を投ずると雖も益無し。適たま吾 腸を隔てて兒の手の在る所を捫で,其の虎口に鍼す。兒 既に痛み,即ち手を縮む。遽に生ずる所以なり。他術無きなり」と。試みに兒を取り,之れを視しむれば,右手の虎口に鍼痕有り。其の妙 此の如し。(『泊宅編』)
 ・『泊宅編』 宋・方勺の撰。

・『宋史』卷462列傳221方技下  鮴粋タ時字安常,陂эB陂ю・l.兒時能讀書,過目輒記.父,世醫也,授以脈訣.安時曰:「是不足為也.」獨取鮟ヲ驕C扁鵲之脈書治之,未久,已能通其隱ェ,時出新意,辨詰不可屈,父大驚,時年猶未冠.已而病閨オ,乃益讀靈樞,太素,甲乙諸秘書,凡經傳百家之豸苑エ道者,靡不通貫.嘗曰:「世所謂醫書,予皆見之,惟扁鵲之言深矣.蓋所謂難經者,扁鵲寓術於其書,而言之不詳,意者使後人自求之歟!予之術蓋出於此.以之視淺深,決死生,若合符節.且察脈之要,莫急於人迎,寸口.是二脈陰陽相應,如兩引繩,陰陽均,則繩之大小等.故定陰陽於喉,手,配覆溢於尺,寸,寓九候於浮豐堰C分四貅ォ於傷寒.此皆扁鵲略開其端,而予參以蜈ァ經諸書,考究而得其隱ェ.審而用之,順而治之,病不得逃矣.」又欲以術告後世,故著難經辨數萬言.觀草木之性與五藏之宜,秩其職任,官其寒熱,班其奇偶,以療百疾,著主對集一卷.古今異宜,方術閼ォ遺,備陰陽之變,補仲景論.藥有後出,古所未知,今不能辨,嘗試有功,不可遺也,作本草補遺.
為人治病,率十愈八九.踵門求診者,為辟邸舍居之,親視鬣・溷Z物,必愈而後遣;其不可為者,必實告之,不復為治.活人無數.病家持金帛來謝,不盡取也.
嘗詣舒之桐城,有民家婦孕將逕「,七日而子不下,百術無所效.安時之弟子李百全適在傍舍,邀安時往視之.纔見,即連呼不死,令其家人以湯貅ォ其腰腹,自為上下拊摩.孕者覺腸胃微痛,呻吟間生一男子.其家驚喜,而不知所以然.安時曰:「兒已出胞,而一手誤執母腸不復能閼ォ,故非符藥所能為.吾隔腹捫兒手所在,鍼其虎口,既痛即縮手,所以遽生,無他術也.」取兒視之,右手虎口鍼痕存焉.其妙如此.
有問以華佗之事者,曰:「術若是,非人所能為也.其史之妄乎!」年五十八而疾作,門人請自視脈,笑曰:「吾察之審矣.且出入息亦脈也,今胃氣已邨普C死矣.」遂屏卻藥餌.後數日,與客坐語而卒.

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:24

『醫説』鍼灸14

●鍼急喉閉
於大指外邊指甲下根,齊鍼之,不問男女左右,只用人家常使鍼。鍼之令血出,即效。如大蜿嚏・},兩手大指都鍼之。其功甚妙。(庚志)

大指の外邊 指甲の下根において,齊しく之れを鍼す。男女・左右を問わず,只だ人家に常に使う鍼を用いる。之れに鍼して,血をして出ださしめば,即效あり。如し大蜿嚏・}ならば,兩手の大指都(す)べて之れに鍼す。其の功 甚だ妙なり。(庚志)
 ・『夷堅志』庚志?

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:29

『醫説』鍼灸15

●遐ュ石
遐ュ石謂以石爲鍼也。山海經曰:高氏之山,有石如玉,可以爲鍼。則遐ュ石也。

遐ュ石とは,石を以て鍼を爲るを謂うなり。『山海經』に曰く「高氏の山に石有り,玉の如し。以て鍼を爲るべし」と。則ち遐ュ石なり。
 ・『山海經』 「せんがいきょう」とよびならわしている。著者未詳。原形は先秦時代のもの。晉・郭璞の注あり。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:36
Re: 『醫説』鍼灸15

『山海經』卷四・東山經「髙氏之山,其上多玉,其下多箴石。」晉・郭璞注「可以為砥針治癰腫者」。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/1/00:17

『醫説』鍼灸16

●刺誤中肝
督郵徐毅得病。華佗徃省之。毅謂佗曰:昨使醫曹吏劉祖鍼胃管,訖,便苦咳嗽,欲臥不安。佗曰:刺不得胃管,誤中肝也,食當日減。五日不救,如佗言。(三國志)

督郵の徐毅 病を得たり。華佗徃きて之れを省る。毅 佗に謂いて曰く「昨(きのう)醫曹吏の劉祖をして胃管に鍼せしむ。訖わりて便ち咳嗽に苦しみ,臥せんと欲すれども安からず」と。佗曰く「刺して胃管を得ず,誤りて肝に中るなり。食 當に日々に減ずべし。五日にして救(たす)からず」と。佗の言の如し。(『三國志』)
 ・三國志/魏書/卷二十九 魏書二十九方技を参照。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:53

『醫説』鍼灸17

●九鍼
九鍼上應天地陰陽,一天、二地、三人、四時、五音、六律、七星、八風、九野。一鍼皮,二鍼肉,三鍼脉,四鍼筋,五鍼骨,六鍼調陰陽,七鍼益精,八鍼除風,九鍼通九竅,除三百六十五節氣。一髑ア鍼,二員鍼,三骰芽I,四鋒鍼,五荀オ鍼,六員利鍼,七毫鍼,八長鍼,九大鍼。

九鍼は,上 天地陰陽に應ず。一天・二地・三人・四時・五音・六律・七星・八風・九野なり。一は皮に鍼す。二は肉に鍼す。三は脉に鍼す。四は筋に鍼す。五は骨に鍼す。六は鍼して陰陽を調う。七は鍼して精を益す。八は鍼して風を除く。九は鍼して九竅を通じ,三百六十五節の氣を除く。一は髑ア鍼,二は員鍼,三は骰芽I,四は鋒鍼,五は荀オ鍼,六は員利鍼,七は毫鍼,八は長鍼,九は大鍼なり。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/09:55

『醫説』鍼灸18

●工鍼
僧海淵髢ャ人也。工鍼遐ュ。天禧中入呉楚,游京師,寓相國寺。中書令張士遜疾。國醫拱手。淵一鍼而愈。由是知名。既老歸蜀。范景仁賦詩餞之云:舊郷山水繞禪謇メC日日山光與水聲,歸去定貪山水樂,不教魂夢到神京。治平二年化去。張唐英貽以偈曰:言生本不生,言滅本不滅,覺路自分明,勿與迷者説。劉季孫銘其塔曰:資身以醫,有聞於時,餘幣散之,拯人於危,此士君子所難,嗟乎師。

僧の海淵は髢ャの人なり。鍼遐ュに工なり。天禧中 呉楚に入り,京師に游び,相國寺に寓す。中書令の張士遜 疾(や)めり。國醫手を拱ぬく。淵 一たび鍼して愈ゆ。是に由りて名を知らる。既に老いて蜀に歸る。范景仁 詩を賦して之れに餞(おく)りて云く「舊郷の山水 禪謇モ・閨C日日 山光 水聲と,歸り去りて定めて山水の樂しみを貪り,魂夢を教えずして神京に到る」と。治平二年 化去す。張唐英 貽(おく)るに偈を以て曰く「言う,生の本と不生。言う,滅の本と不滅。覺路 自ら分明なり。迷う者と説く勿かれ」と。劉季孫 其の塔に銘して曰く「身を資するに醫を以てす。時に聞く有り。餘幣之れを散じ,人を危に拯う。此れ士君子の難ずる所,嗟乎 師や」と。

 ・宋史/列傳/卷三百一十一 列傳第七十:張士遜字順之.祖裕,嘗主陰城鹽院,因家陰城.士遜生百日始啼.淳化中,舉進士,調驗夜ч主簿,遷射洪令.轉運使檄移士遜治驛ェ,民遮馬首不得去,因聽還射洪.安撫使至梓州,問屬吏能否,知州張雍曰:「射洪令,第一也.」改襄陽令,為祕書省著作佐郎、知邵武縣,以寬厚得民.前治射洪,以旱,遖ア雨白崖山陸使君祠[四],尋大雨,士遜立廷中,須雨足乃去.至是,邵武旱,遖ア歐陽太守廟,廟去城過一舍,士遜徹蓋,雨霑足始歸.改祕書丞、監折中倉,豁キ御史臺推直官.
 ・宋史/列傳/卷三百三十七列傳第九十六:范鎮字景仁,成都華陽人.薛奎守蜀,一見愛之,館於府舍,俾與子弟講學.鎮益自謙退,豈乗ュ・行趨府門,踰年,人不知其為帥客也.及還朝,載以菫ア.有問奎入蜀何所得,曰:「得一偉人,當以文學名世.」宋庠兄弟見其文,自謂弗及,與為布衣交.
 ・宋史/列傳/卷四百六十八列傳第二百二十七/宦者三:神宗即位,御史張唐英言其資性諞ク巧,善迎合取容.中丞司馬光亦言其「久處近職,罪惡已多.祖宗舊制,幹當御藥院官至蜈ァ殿崇班以上,即須出外.今陛下獨留四人,中外以此竊議.〓居簡頃在先朝,依憑城社,物論切齒.及陛下繼統,乃復先自結納,使寵信之恩過於先帝.願明治其罪,以解天下之惑」.於是罷為供備庫使.稍遷帶御器械,進蜈ァ侍押班.以文思使領忠州刺史,卒,贈耀州觀察使.

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/22/10:44

『醫説』鍼灸19

●鍼舌底治舌出不收
王況字子亨,本士人,爲南京宋毅叔壻。毅叔既以醫名擅南北。況初傳其學,未精。薄遊京師,甚悽然。會鹽法忽變,有大賈,覩掲示,失驚吐舌,遂不能復入。經旬食不下咽,蟆ォ羸日甚。國醫不能療。其家憂懼,榜于市,曰:有治之者,當以千萬爲謝。況利其所售之厚,姑徃應其求。既見賈之状,忽發笑,不能制。心以謂未易措手也。其家人怪而詰之。況謬爲大言,答之,曰:所笑者,輦轂之大如此,乃無人治此小疾耳。語主人家曰:試取鍼經來,況謾檢之,偶有穴與其疾似是者。況曰:爾家當勒状與我,萬一不能治,則勿尤我,當爲鍼之,可立效。主病者不得已亦從之。急鍼舌之底,抽鍼之際,其人若委頓状。頃刻舌遂伸縮如平時矣。其家大喜謝之如約,又爲之延譽。自是翕然名動京師。既小康始得盡心肘後之書,卒有聞於世。事之偶然有如此者。況後以醫得幸。宣和中爲朝請大夫,著全生指迷論一書。醫者多用之。(王明清餘話)
王況 字は子亨。本(も)と士人なり。南京の宋毅叔の壻爲り。毅叔 既に醫名を以て南北に擅なり。況 初め其の學を傳うるも,未だ精ならず。京師に薄遊し,甚だ悽然たり。鹽法の忽變するに會う。大賈有り。掲示を覩て失驚し,舌を吐きて,遂に復た入る能わず。旬を經て,食 咽に下らず。蟆ォ羸(オウルイ)すること日々に甚だし。國醫 療する能わず。其の家 憂懼して,市に榜して曰く「之れを治する者有らば,當に千萬を以て謝と爲す」と。況其の售する所の厚きを利とし,姑く徃きて其の求めに應ず。既に賈の状を見れば,忽ち笑いを發して制する能わず。心以て未だ手を措くに易からずと謂(おも)うなり。其の家人怪しみて之れを詰す。況 謬(いつわ)りて大言を爲し,之れに答えて曰く「笑う所の者は,輦轂の大なること此の如し。乃ち人の此の小疾を治すること無きのみ」と。主人の家に語りて曰く「試みに『鍼經』を取りて來たれ」と。況 謾(あざむ)きて之れを檢し,偶たま穴と其の疾の是れに似たる者有り。況曰く「爾が家 當に状を勒し我に與うべし。『萬一治する能わざるとも,則ち我を尤むること勿し』と。當に爲に之れに鍼すれば立ちどころに效あるべし」と。主病の者 已むを得ず,亦た之れに從う。急ぎて舌の底に鍼し,鍼を抽(ぬ)くの際,其の人 委頓の状の若し。頃刻にして舌遂に伸縮すること平時の如し。其家 大いに喜び,之れに謝すること約の如し。又た之れが爲に延譽す。是れ自り翕然として,名 京師に動ず。既に小康ありて,始めて心を肘後の書に盡すを得。卒に世に聞く有り。事の偶然 此の如き者有り。況 後に醫を以て幸を得。宣和中 朝請大夫と爲る。『全生指迷論』の一書を著す。醫者多く之れを用いる。(王明清『餘話』)
 ・王況=王雋コ。宋毅叔=宋道方。 王明清餘話=南宋・王明清『揮塵録・餘話』

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/24/00:38
Re: 『醫説』鍼灸19

何だかホリエモン信者の話みたいだね。
それにしても驚いて舌を吐くというのは本当なんだ。

投稿:胡思 投稿日時:2006/1/24/08:29

『醫説』鍼灸20

●艾謂之一壯
醫用艾一灼,謂之一壯,以壯人爲法也,其言若千壯,壯人當依此數,老幼羸弱量力減之。(類苑)

醫 艾を用いること一灼,之れを一壯と謂う。壯人を以て法と爲すなり。其の言 千壯の若し[四庫本は「若干壯」に作る。/其れ若干壯と言う]。壯人 當に此の數に依るべし。老幼羸弱は,力を量りて之れを減ず。(『類苑』)
 ・『類苑』 『事實類苑』宋・江少虞の撰。類書。 『四庫全書』本『事實類苑』卷五十一は「若干壯」につくり,宋・沈括(1031窶髏€1095)の『夢溪筆談』からの引用とある。『夢溪筆談』卷十八技藝は「若干壯」につくる。清・陳元龍『格致鏡原』は宋・陸佃の『蝓、雅』に出ているというが,未調査。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/24/11:31

『醫説』鍼灸21

●灸背瘡
京師萬勝門剩員王超,忽覺背上如有瘡隱起,倩人看之。已如盞大,其頭無數,或教徃梁門裏外科金龜兒張家,買藥。張視,蝴ャ眉曰:此瘡甚惡,非藥所能治,只有灼艾一法。庶可冀望萬分,然恐費力。乃撮艾與之,曰:且歸家,試灸瘡上。只怕不疼,直待灸疼,方可療爾。灼火十餘,殊不知痛。妻守之而哭。至第十三壯,始大痛,四傍惡肉捲爛,隨手墮地。即似稍愈。再詣張謝。張付藥。敷貼數日安,則知癰疽發於背脅,其捷法莫如灸也。(類編)

京師 萬勝門の剩員 王超,忽ち背上に瘡有り隱起するが如きを覺ゆ。人を倩して之れを看しむ。已に盞の大の如し。其の頭 無數。或るひと教えて梁門裏の外科 金龜兒張家に徃き,藥を買わしむ。張 視て眉を蝴ャ(ひそ)めて曰く「此の瘡 甚だ惡し。藥の能く治する所に非ず。只だ灼艾の一法あり。庶(ねがわ)くは萬分を冀望すべし。然れども恐くは力を費さん」と。乃ち艾を撮りて之れに與えて曰く「且に家に歸りて試みに瘡上に灸すべし。只だ疼まざるを怕る。直だ灸して疼むを待てば,方(まさ)に療すべきのみ」と。灼火すること十餘,殊に痛みを知らず。妻 之れを守りて哭く。第十三壯に至りて始めて大いに痛む。四傍の惡肉 捲爛して手に隨いて地に墮つ。即ち稍や愈ゆるに似たり。再び張に詣り謝す。張 藥を付す。敷貼すること數日にして安んず。則ち癰疽の背脅に發するは,其の捷法 灸に如くは莫しと知るなり。(『類編』)
 
 ・金龜兒張家 12世紀初頭の豎エ京(開封)のにぎわいを記した南宋の孟元老『東京夢華録』卷三・大内西右掖門外街巷に「殿前司相對……張戴花洗面藥國太丞張老兒金龜兒醜婆婆藥鋪」とある。殿前司(宮廷直轄正規軍司令部)の向かい側に張戴花という洗面薬を売る店・張老兒(張老人)金龜兒・醜婆婆などが経営する薬局が軒を並べていたようだ。この張さんは外科と薬屋を兼業していたのだろうか。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/00:01
Re: 補足

・『類編』 未詳。「類編」を書名に持つものには,宋・呂祖謙『観史類編』、宋(元?)・潘迪『格物類編』、宋(元?)・胡助『純白類編』があったが,他書である可能性のほうが高いかもしれない。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/00:06

Re:

「然恐費力」は、「そうは言っても無駄骨折りになるんじゃないかと思う」では無かろうか。「然れども力を(無駄に)費やすを恐る」。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/26/08:15

Re:

ご意見頂きありがとうございます。
「そうは言っても無駄骨折りになるんじゃないかと思う」
そういう意味に取りました。
それで「おそらくは……む」と推量形にしました。
「然れども力を費やすを恐る」という訓に異を唱える気も毛頭ありません。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/23:32

Re:東京夢華録

それにしても醜婆婆とは!

投稿:遍在 from 上海 投稿日時:2006/1/26/23:39

Re:

平凡社東洋文庫『東京夢華録』では張老児金亀児を二軒と考えているようです。ただし、ここで金亀児の主人が張氏となるとちょっとややこしい。でも、この前の記事「馬行街から北の医者町」では、「山水」李家の口歯咽喉薬・「石魚児」班防禦・「銀孩児」柏郎中家の小児科・「大鞋」任家の産科などとあります。つまり渾名が前、姓が後ろが一般的です。防禦とか郎中とかは官名、ただしほとんど全てが詐称です。だから、ここで金亀児張家というのには問題有りません。おそらくは張老児と金亀児は別の店で、金亀児の主人の姓も張というのは偶然だろうと思います。

投稿:神麹斎 投稿日時:2006/1/27/08:03

『醫説』鍼灸22

●蒜灸癰疽
凡人初覺發背,欲結未結,赤熱腫痛,先以濕紙覆其上,立視候之,其紙先乾處,則是結癰頭也。取大蒜切成片,如當三錢厚薄安其頭上,用大艾轤キ灸之三壯,即換一片蒜,痛者灸至不痛,不痛者灸至痛時方住,最要早覺早灸爲上,一日二日,十灸十活,三日四日六七活,五六日三四活,過七日不可灸矣。若有十數頭,作一處生者,即用大蒜研成膏,作薄餅鋪頭上,聚艾於蒜餅上燒之,亦能活也。若背上初發,赤腫一片,中間有一粟米大頭子,便用獨頭蒜切去兩頭,取中間半寸厚薄正,安於瘡上,却用艾於蒜上灸二七壯,多至四十九壯。(江寧府紫極觀因掘得石碑載之)

凡そ人の初めて背に發し,結ばんと欲して未だ結ばず,赤熱腫痛を覺ゆれば,先づ濕紙を以て其の上を覆い,立ちどころに之れを視候す。其の紙 先づ乾く處は,則ち是れ結癰の頭なり。大蒜を取り,切りて片と成す。三錢に當たる厚さの如く薄くし,其の頭上に安んず。大艾轤キを用いて之れに灸すること三壯にして,即ち一片の蒜を換え,痛む者は痛まざるに至るまで灸し,痛まざる者は痛むに至る時まで灸して方(まさ)に住(や)む。最も要なるは,早く覺え,早く灸するを上と爲す。一日二日ならば,十灸して十活す。三日四日ならば六七活す。五六日ならば三四活す。七日を過ぐれば灸すべからず。若し十數頭有り,一處に生ずるを作す者は,即ち大蒜を用い,研して膏と成し,薄餅を作り,頭上に鋪す。艾を蒜餅の上に聚め之れを燒く。亦た能く活するなり。若し背上に初めて赤腫一片を發し,中間に一粟米大の頭子有らば,便ち獨頭の蒜を用いる。切りて兩頭を去り,中間の半寸の厚薄を取り,正に瘡上に安んず。却て艾を蒜の上に用い,灸すること二七壯,多くは四十九壯に至る。(江寧府の紫極觀に掘りて得たる石碑に因りて之れを載す)
 ・江寧府 今の南京。
 ・紫極觀 道觀(道教寺院)の名前であろう。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/22:55

『醫説』鍼灸23

●灸逖オ疾
女童莊妙真,頃縁二姉坐逖オ疾,不起。餘蟄ス亦駸駸見及。偶一趙道人過門,見而言曰:汝有逖オ疾,不治何耶。答曰:喫了多少藥,弗效。趙笑曰:吾得一法,治此甚易,當以癸亥夜二更,六神皆聚之時,解去下體衣服於腰上兩傍微陷處,鍼灸家謂之腰眼,直身平立用筆點定,然後上床,合面而臥,毎灼小艾轤キ七壯,勞蠱或吐出,或瀉下,即時平安斷根,不發,更不傳染。敬如其教,因此獲全生。(類編)

女童 莊妙真 頃ころ二姉の逖オ疾に坐するに縁りて起きず。餘蟄ス(ゲツ)亦た駸駸として及ぶを見る。偶(たま)たま一趙道人 門を過(よ)ぎる。見て言いて曰く「汝に逖オ疾有り。治せざるは何ぞや」と。答えて曰く「多少の藥を喫し了(お)えるも效あらず」と。趙 笑いて曰く「吾 一法を得。此を治すること甚だ易し。當に癸亥の夜二更 六神皆な聚まるの時を以て,下體の衣服を腰上の兩傍の微(かす)かに陷する處〔鍼灸家 之れを腰眼と謂う〕に於いて解き去るべし。身を直くし平立し,筆を用いて點定す。然る後に床に上り,面を合して臥す。毎(おの)おの小艾轤キを灼すこと七壯。勞蠱 或いは吐出し,或いは瀉下せん。即時に平安して根を斷たば,發せず,更に傳染せず」と。敬して其の教えの如くす。此れに因りて生を全うするを獲たり。(『類編』)

 ・逖オ疾 勞蠱 『丹溪心法』卷二癆逖オ十七「其證,臓中有蟲喫心肺間,名曰逖オ疾,難以醫治」。 『漢方用語大辞典』労逖オ「病名。伝染性の慢性の消耗性疾病をいう。肺結核に類する。肺癆・癆逖オともいう。」労逖オ九虫「伏虫・陏・氏E寸白虫・肉虫・肺虫・胃虫・弱虫(また膈虫ともいう)・赤虫・蟯虫を九虫という。これらは人体臓腑の間に寄生して人の臓腑の血髄を蝕み,久しくして癆逖オに変化する。虫は九竅膚閻黴€より他人に伝わる,すなわちこれを癆虫という。」勞蠱は,癆蟲と同じものであろう。『中国漢方医語辞典』は,癆蟲(結核菌)という。
・蟄ス 讚アの異体字。わざわい。
・夜二更 日の入りから日の出までを五等分して,その第一の時間帯を初更(一更)といい,第二の時間帯を二更という。
・六神 道人(道士)のことばなので,『黄庭内景經』にいう心・肺・肝・腎・脾・膽の六臓神であろう。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/23:10
Re:自分で読んでみて

縁二姉坐逖オ疾
二姉に縁りて逖オ疾に坐して
かなあ?

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/26/23:17

Re: 『醫説』鍼灸23

下體の衣服を解去し、腰上の兩傍に於て微しく陷める處(陷める處を徴す?)、鍼灸家これを腰眼と謂う、直身平立して筆を用いて點定し、然る後に床に上り、合面して臥す。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/27/08:59

Re: 『醫説』鍼灸23

「頃縁二姉」は、単に「二姉(二番目の姉?二人の姉?)のもとにしばらく居候していたころに」だろうか。むしろ「二姉にまずいかたちで関わり合いになって」ではなかろうか。頃は斜めにする、かたむく。縁は関わり合いになる。ただし、頃縁という熟語は『漢語大詞典』にも見つからない。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/27/11:45

Re: 莊妙真,頃縁二姉坐逖オ疾,不起。

・頃 このごろ。近頃。
・縁 『漢辞海』第二版 1.動詞。ヨル。したがう。沿う。 2.接続詞。行為や判断に対する理由や原因を説明する。ヨル。~ので。~であるから。3.前置詞。原因や理由を表す。ヨリ。~のために。~によって。
・坐 動詞。手出しができないままでいる。何の対処もとれずにいる。 違反して罪になる。罪をおかす。 前置詞。ヨッテ。~なので。~のために。 副詞。マサニ。ちょうど。スナワチ。そのまま。そこで。すぐに。ハナハダ。ふかく(深く)。ムナシク。意味もなく。ヨウヤク。次第に。
・不起 「起」は寝床から起き上がることであり,引伸して病気が治ることであるので,「不起」は,病の床に伏していることであろう。

二姉の逖オ疾に坐するに縁りて起きず。
二姉に縁りて逖オ疾に坐して

「坐す」と音読みしたのは,「二姉の病気に連座して?」というような,悪い事態に巻き込まれて,いうふうに理解したからです。この動詞の「坐」はあくまで犯罪だけにしかつかわないとしたら,この読み方はおかしいと思われます。

まあ,大意は「二姉が逖オ疾を患い,それが近くにいて巻き添えを食って莊妙真にも伝染し,床に伏せった」ということだと思うのですが。

さて,どう読みましょうか。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/28/01:07

Re: 莊妙真頃縁二姉,坐逖オ疾不起。

「頃縁」は単に「掛人になっていて」、「坐」は単に前置詞「…によって」のほうが良いかも知れない。坐の前置詞の例は『漢辞海』第二版にも載ってます。だって、二姉が死んだとか、二姉にも灸をしたとかが無いんだもの。
「莊妙真が二姉に頃(≒傾?)縁せしとき,逖オ疾によりて起たず。」

投稿:妙真 投稿日時:2006/1/28/06:50

Re: 「掛人になっていて」

「掛人」の意味を教えて下さい。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/28/09:54

Re:

大辞林 第二版。かかりゅうど かかりうど 【掛人】〔「かかりびと」の転〕他人に世話をしてもらって生活している人。いそうろう。かかりうど。

投稿:妙真 投稿日時:2006/1/28/10:21


『醫説』鍼灸24

●灸谺ャ逆法
予族中有病霍亂,吐利垂困。忽發谺ャ逆,半日之間,遂至危殆。有一客,云:有灸谺ャ逆法,凡傷寒及久疾得谺ャ逆,皆爲惡候,投藥,皆不效者,灸之必愈。予遂令灸之,火至肌,谺ャ逆已定。元豐中予爲驗怏・S略使,有幕官張平序,病傷寒已困。一日官屬會飲,通判延州陳平裕忽言:張平序已屬纊,求徃見之。予問:何遽至此。云:谺ャ逆甚,氣已不屬。予忽記灸法,試令灸之。未食頃平裕,復來喜笑曰:一灸遂差。其法乳下一指許,正與乳相直骨間陷中,婦人即屈乳頭度之,乳頭齊處,是穴,艾轤キ如小豆許,灸三壯,男灸左,女灸右,只一處火到肌即差,若不差,則多不救矣。(良方)

予が族中に霍亂を病むもの有り。吐利して困するに垂(なんなん)とす。忽ち谺ャ逆を發す。半日の間 遂に危殆に至る。一客有りて云く「谺ャ逆に灸する法有り。凡そ傷寒及び久疾 谺ャ逆を得れば,皆な惡候と爲す。藥を投じて,皆な效かざる者は,之れに灸すれば必ず愈ゆ」と。予 遂に之れに灸せしむ。火 肌に至り,谺ャ逆 已に定まる。元豐中 予 驗怐iフ)・延の經略使と爲る。幕官に張平序なるもの有り。傷寒を病みて,已に困(くる)しむ。一日 官屬 會して飲む。通判 延州の陳平裕 忽ち言う。「張平序 已に屬纊(ゾクコウ)なり。徃きて之れを見んことを求む」と。予 問う。「何遽(なん)すれぞ此に至るや」と。云く「谺ャ逆甚だし。氣 已に屬(つづ)かず」と。予 忽ち灸法を記(キ)して試みに之れに灸せしむ。未だ食頃ならずして,平裕復た來たりて喜び笑いて曰く「一たび灸すれば遂に差(い)ゆ」と。其の法 乳下一指許り,正に乳と相直(あた)り,骨間の陷中なり。婦人は即ち乳頭を屈して之れを度(はか)る。乳頭に齊(ひと)しき處 是の穴なり。艾轤キは小豆許りの如くす。灸すること三壯。男は左に灸し,女は右に灸す。只だ一處 火 肌に到らば即ち差ゆ。若し差えざれば,則ち救われざること多し。(『良方』)
 ・『良方』 宋・沈括(1031窶髏€1095)による『(沈氏)良方』か。あるいは,のちに沈括の『良方』に後人が蘇軾の医薬雑説を附益した『蘇沈良方』によるか。
 ・霍亂 『諸病源候論』卷二十二・霍亂候、卷八・傷寒(病)後霍亂候などを参照。俗に「はきくだし」という。
 ・吐利 嘔吐と下痢。
 ・垂困 「垂」 動作や事態が間近に現れる。いまにも~しそうである。 「困」 「くるしむ」とも訓むが,ここでは「困窮」「きわまる」の意であろう。
 ・元豐 年号。1078~1085年。
 ・驗怏п@驗恟Bと延州をふくんだ地域が驗怏・Hという行政区画であったのであろう。詳細は未調査。宋代の州は,現代の市程度の広さ。『宋史』本紀卷十六に「(元豐五年)冬十月辛亥,洛口、廣武大河溢。甲寅,知延州沈括以措置乖方,責授均州團練副使,隨州安置;驗怏・H副都總管曲珍以城陷敗走,降授皇城使。」とある。
 ・經略使 『大漢和辞典』によれば,宋代,一路(行政区画の名,現代の「省」に相当する)の兵民の事を掌る。 「元豐中 予 驗怐iフ)・延の經略使爲(た)りしとき,」とした方が,わかりやすいか。
 ・幕官 幕僚。官僚の私設秘書。
 ・官屬 属吏。下級の官吏。
 ・通判 宋代,府(大きな州)・州の副長官。通判の陳平裕が沈括を訪ねてきたのは,沈括が医薬に詳しいことをかねてから知っていたからだろうか。
 ・屬纊 死にかかった人の口に纊(新しい綿)をあてて,呼吸の有無をみることをいう。ここでは,虫の息のこと。屬は,付ける・近づける。
 ・何遽 「なんぞ」あるいは「なんぞにわかに」。意味は「どうして」,「どうして急に」。
 ・記 思い出す。
 ・食頃 食事を済ますぐらいの短い時間。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/28/00:18

『醫説』鍼灸25

●灸鼻衄
徐德占教衄者,急灸項後髮際兩筋間宛宛中三壯,立止。蓋血自此入腦,注鼻中。常人以線勒頸後,尚可止衄。此灸決效無疑。(同上)

徐德占 衄する者に教えて,急ぎて項後髮際兩筋の間 宛宛たる中に灸せしむること三壯。立ちどころに止む。蓋し血 此自り腦に入り,鼻中に注ぐ。常に人は線を以て頸後を勒すれば,尚お衄を止むべし。此の灸 決(かなら)ず效あること疑い無し。(同上)
 ・占 四庫本『蘇沈良方』卷六・治鼻衄不可止欲絶者は,「沾」につくる。『鍼灸資生経』卷六の引用文は『醫説』鍼灸と同じ。『宋史』卷三百三十四に「徐禧,字徳占,洪州分寧人」とあり,『朱子語類』卷百三十に「徐徳占為御史中丞」とある。徐德占は,『醫説』卷七・啖物不知飽(『夢溪筆談』卷二十一から引用)にも見える。
 ・宛宛 『蘇沈良方』は「宛穴」につくる。『鍼灸資生経』の引用文は『醫説』と同じ。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/28/22:09

『醫説』鍼灸26

●灸牙疼法
隨左右所患,肩尖微近後骨縫中,小舉臂取之,當骨解陷中,灸五壯。予目覩灸數人皆愈矣。灸畢,項大痛,良久乃定,永不發。予親病齒痛,百方治之,皆不驗,用此法遂差。(同上)

左右患う所に隨いて,肩尖の微(わず)かに後ろに近き骨縫中,小(すこ)しく臂を舉げて之れを取る。骨解の陷中に當たる。灸すること五壯。予 數人に灸して皆な愈ゆるを目覩す。灸畢りて項 大いに痛み,良(やや)久しくして乃ち定まれば,永く發せず。予が親 齒痛を病み,百方もて之れを治するも,皆な驗あらず。此の法を用いて,遂に差ゆ。(同上)
 ・肩 『蘇沈良方』卷六・灸牙疼法は「眉」につくる。
 ・予目覩灸數人 『鍼灸資生経』卷六の引用文は「予親灸數人」につくり,『普済方』卷四百十九は「王氏云予親灸數人」につくる。下文「親」字によるあやまりか。
 ・此法 『蘇沈良方』この下に「灸」字あり。
 ・定 サダム。おさまる。やむ。
 ・明・江逑・i1503窶髏€1565)『名醫類案』卷七・牙「張季明治一人患牙疼,為灸肩尖(原注:肩尖即肩鬮ヴT大腸穴。)微近骨後縫中,小舉臂取之,當骨解陷中,灸五壯即差。嘗灸數人皆愈。隨左右所患,無不立驗。灸畢,項大痛,良久乃定永,不發。季明曰:予親病齒痛,百方治之不效,用此法治之遂差(良方)」。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/29/14:08
Re: 『醫説』鍼灸26

どうして灸し畢わって、項が痛むのでしょうか。
まさか項は頃の誤りで、「灸畢りて、しばらく大いに痛み、やや久しくして乃ち定まり、永く発せず」ということは無いでしょうね。
『針灸資生経』の牙疼のところには、この文章に続けて、灸する穴は違うけど、「初め灸して牙癢を病むを覚え、再び灸して牙に声有るを覚え、三壮して疼み止むこと今に二十年なり」と有ります。最初灸して、前よりかえって疼み、それから治るというのも有り得ないことでは無さそうな。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/1/30/17:09

Re:瞑眩

代田文誌『鍼灸治療基礎学』(改訂増補第七版)456頁 胃アトニーの治験「この治験に於て特記すべきは、灸治の最初に灸による瞑眩を来したことである。即ち灸治により水瀉性の下痢を来し、頭痛を起し、嘔吐を催すなど種々の反動を起こして、一時症状が悪化した。……こうした瞑眩現象は、多くは灸治をつづけていれば、自然となおるもので、特別の手当を要しない。」

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/31/17:57

『醫説』鍼灸27

●脚氣灸風市
蔡元長知開封,正據案治事。忽覺如有虫,自足心行至腰間,即墜筆暈絶,久之,方甦。掾屬云:此病非兪山人,不能療。趣使呼之。兪曰:是真脚氣也,法當灸風市。爲灸一壯。蔡晏然復常,明日疾如初。再呼兪,曰:欲除病根,非千艾不可。從其言灸五百壯,自此遂愈。仲兄文安公守姑蘇,以鑾輿巡幸,虚府舍,暫徙呉縣。縣治卑濕,旋感足痺,痛掣不堪忍,服藥弗效。乃用所聞,灼風市、肩隅、曲池三穴,終身不復作。僧普清苦此二十年,毎發率兩月。用此灸二十一壯,即時痛止。其他蒙此力者,不一而足。(夷堅志)

蔡元長 開封を知す。正に案に據りて事を治す。忽ち虫の足心自り行きて腰間に至ること有るが如きを覺ゆ。即ち筆を墜として暈絶す。之れを久うして,方に甦る。掾屬云く「此の病 兪山人に非ざれば,療する能わず」と。趣使(スミヤかに使いして/使いをウナガして)之れを呼ばしむ。兪が曰く「是れ真の脚氣なり。法として當に風市に灸すべし」と。灸を爲すこと一壯。蔡 晏然として常に復す。明日 疾 初の如し。再び兪を呼ぶ。曰く「病根を除かんと欲さば,千艾に非ずんば,可ならず」と。其の言に從いて灸すること五百壯。此れに自りて遂に愈ゆ。仲兄の文安公 姑蘇に守たり。鑾輿(ランヨ)巡幸するを以て,府舍を虚くして,暫く呉縣に徙る。縣の治 卑濕にして,旋(つ)いで足痺に感じ,痛掣 忍ぶに堪えず。藥を服するも效あらず。乃ち聞く所を用いて,風市・肩隅・曲池の三穴を灼く。終身 復た作(お)こらず。僧の普清 此れに苦しむこと二十年。發する毎に率むね兩月なり。此れを用いて灸すること二十一壯。即時に痛み止む。其の他 此の力を蒙る者 一にして足らず。(『夷堅志』)
 ・現行本『夷堅志』で該当箇所,発見できず。
 ・『宋史』卷四百七十二・列傳第二百三十一姦臣二「蔡京,字元長,興化仙游人。登熙寧三年進士第,調錢塘尉、舒州推官,累遷起居郎。使遼還,拜中書舍人。時弟卞已為舍人,故事,入官以先後為序,卞乞班京下。兄弟同掌書命,朝廷榮之。改龍圖閣待制,知開封。」
 ・兪山人 『太平惠民和剤局方』卷三と『三因極一病證方論』卷三および宋・楊士瀛『仁齋直指』卷五に「兪山人降氣湯」,宋代・不著撰人名『傳信適用方』卷上と宋・王執中『鍼灸資生経』卷四に「兪山人鎭心丹」あり。
 ・不一而足 ひとりだけではない。沢山いる。
・宋・洪遵『洪氏集驗方』(人民衛生出版社版『全生指迷方 洪氏集驗方』)卷四・治脚氣灸法
「右灸風市兩穴,以多爲貴。蔡元長知開封少尹,一日據案,忽覺如有蟲自足心行至腰間,落筆暈倒,久之方甦。掾曹曰:此病非兪山人不可療。使呼之,兪曰:是真脚氣也,灸風市一艾而去。明日又覺蟲自足至風市便止,又明日疾如初。召兪,兪曰:是疾非千艾不可,一艾力盡,故疾復作。蔡如其言,灸數百,自此遂愈。(沈公雅檢正説:予紹興辛巳歳在呉門,虚郡宅以備 巡幸,徒〔「徙」か?〕治呉縣。縣卑濕,始得足痺之疾,以風市爲主,兼肩隅、曲池、三里,灸之即愈。)」

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/1/31/23:03
Re: 『醫説』鍼灸27

あまり自信は無いんですが、「不一而足」は、「一ならずして足る」、足の意味は「もっと多い」ということはありませんか。「ひとりだけではない。沢山いる。」は、「ひとりだけではない。」そして「沢山いる。」じゃないかと。

出典は『春秋公羊伝』文公九年、なんと現代中国語辞典に指摘してありました。馬鹿になりませんねえ。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/1/08:48

Re: 一にして足らず

この訓のよりどころとしたのは,東方書店『中国成語辞典』です。
時間が取れましたら,『春秋公羊伝』の和刻本を探してみたいと思います。
補注と訓が一致していないような書き方でまぎらわしたったですね。「一では足りない」→「沢山ある」という意味でした。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/1/09:47

Re:一にして足らず

参考:
『大漢和辭典』第一巻236頁
「不壹而足」イツニシテタラズ 一度では十分でない。出典:『春秋公羊伝』襄公二十九年。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/1/10:06

Re: 『醫説』鍼灸27

現代漢語関係の辞典にも、古代漢語関係の辞典にも「イツニシテタラズ」だとすると、ますます自信が無いんですが、そうした訓だと「不・一而足」ですよね。「不一・而足」のほうが自然な気がするんです。「・」は停滞、小さな息継ぎのつもりです。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/1/11:37

Re: 『醫説』鍼灸27

『春秋公羊伝』文公九年のここのところの文章は:
冬,楚子使椒來聘。椒者何?楚大夫也。楚無大夫,此何以書?始有大夫也。始有大夫,則何以不氏?許夷狄者,不一而足也。
(許は與なり。)
『漢語大詞典』は「不一而足」を、「不是一事一物可以満足」と説明して、やはりこの『春秋公羊伝』文公九年を第一に引いています。なんだか良く分かりませんが、「不」が「一而足」を否定していると考えているのは間違いないようです。

投稿:神麹斎 from 東海 投稿日時:2006/2/1/12:17

Re:『春秋公羊伝』文公九年

楚の子越椒が使節としてやってきた。椒とは何ものだ?楚の大夫である。/楚に大夫がいないのなら,ここにどうして大夫とかいてあるのか?始めから大夫はいたのだ。始めから大夫がいたのなら,どうしてその氏名を記さないのか?野蛮人に一つのことだけ許して満足させることはできないからだ。
/以下は,『中国成語辞典』の訳です。そのまえは,『左氏傳』(岩波文庫)からとりあえず補ってみました。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/2/00:06

Re: 『醫説』鍼灸27

楚子(穆王) 椒をして來聘せしむ。
『左氏傳』によると椒さんの礼物の出し方が傲慢だったそうです。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/2/00:16

Re:

成語の理解とやや食い違いそうですが、『公羊伝』にある話自体の解釈は、むしろ「野蛮人には全てを与えなくとも充分なのである」のような気がします。「一」は別本で「壹」になっており、「いっぱいにする」じゃないか。「大夫」として待遇してやれば充分なのであって、「大夫」扱いにしてしかも「氏」で記録するなどという十全の礼遇までは不必要である。あるいは一度に与えるのは拙い。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/2/07:48

Re: 『醫説』鍼灸27

「始有大夫」は、「以前から大夫は有ったのだ」なんですか?「このころからやっと大夫というものが有るようになったのだ」という解釈は無いんでしょうか。『漢辞海』なんかを見ると、両方とも有りそうなんですが。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/4/11:13

『醫説』鍼灸28

●灸脚轉筋
岐伯灸法:療脚轉筋,時發不可忍者,灸脚踝上一壯,内筋急灸内,外筋急灸外。

岐伯灸法。脚の轉筋 時に發し,忍ぶべからざる者を療す。脚の踝上に灸すること一壯。内の筋急は内に灸し,外の筋急は外に灸す。
 ・『新唐書』卷五十九藝文志第四十九に「岐伯灸經一卷」
 ・『宋史』卷二百七・藝文志第一百六十・子類・醫書類に「黄帝問岐伯灸經一卷」「岐伯論針灸要訣一卷」あり。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/3/23:21
Re: 『醫説』鍼灸28

『靈樞』四時氣篇に:
轉筋於陽治其陽,轉筋于陰治其陰,皆卒刺之。
楊上善云:六陽轉筋,即以燔鍼刺其陽筋。六陰轉筋,還以燔鍼刺其陰筋也。

投稿:神麹斎 投稿日時:2006/2/4/07:02

『醫説』鍼灸29

●三里頻灸
若要安,三里莫要乾。患風疾人宜灸。三里者,五臟六臟之溝渠也,常欲宣通,即無風疾。

若し安んぜんと要せば,三里 乾きを要すること莫し。風疾を患う人は,宜しく灸すべし。三里なる者は五臟六臟の溝渠なり。常に宣通せんと欲すれば,即ち風疾無からん。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/4/16:01
Re:黄龍祥『中国針灸学術史大綱』

 古籍の研究中にはしばしば、一つの学説、あるいは一まとまりの原文が、歴代転々と引録された結果、全くその面目を変えてしまうことに出合う。試みに現代の鍼灸治療で最も広範囲に使用される「足三里」の主治を例に説明する。

  人年三十以上,若灸頭不灸三里穴,令人氣上眼暗,所以三里下気也(『千金翼方・鍼灸』巻二十八)。
  人年三十以上,若不灸三里穴,令人気上眼暗,所以三里下気也。出第二十七巻中(『外台秘要・明堂』巻三十九)。
  人過三旬後,鍼灸眼能寛(『玉竜経・天星十一穴・三里』)。
  三里:凡人年三十以上,不灸此穴則熱気上衝,眼目無明(『楊氏家蔵鍼経図』)。
  『外台』云:凡人過三十以上,能灸此穴,則熱気下,眼目増明(『鍼灸六集』)。
  一云小児忌灸三里,三十外方可灸,不尓反生疾……。『外台・明堂』云:人年三十以外,若不灸三里,人気上衝目,使眼無光,蓋以三里能下気也(『類経図翼』)。
  『外台秘要』云:人年三十以後,宜灸三里,令気上衝,可無失明之患。故云「人可三旬後,鍼灸眼重光」(『循経考穴編』)。
  小児忌灸,恐眼目不明,惟三十以外方可灸之,令眼目光明也(『医宗金鑑・刺灸心法要訣』)。

伝世本『外台秘要』が『千金翼方』のこの条を収録したときに、「不灸三里穴」の前の「頭灸」という鍵となる二字を漏らしたので、大いに原文の本義を失った。その外にも王燾が引いたときにはさらに「一切病皆灸三里三壮。毎日常灸,下気,気止,停也」の一句を書き漏らした。『千金翼方』の原文は「三里」穴の気を下す作用を強調している。『太平聖恵方・鍼経』巻九十九に引く『甄権鍼経』に「若鍼肩井,必三里下気,若不灸三里,即抜気上」と言い、『千金翼方』も文も甄権の鍼灸書に出る可能性が高い。唐以後この句は極めてしばしば引用されるが、いずれも直接『千金翼方』あるいは甄権の鍼灸書から引いたものはなく、みな直接間接に『外台秘要』巻三十九から引いている。宋以後はますます系譜を離れ、清以前の各書に引かれた文と『千金翼方』の原文の義にはまだ多少はつながりがあるにしても、清代のものが『医宗金鑑・刺灸心法要訣』による発揮を経た後には全く関係ないものに化している。さらにもう一点注意すべきことは、諸書が直接間接に『外台秘要』の文を引用した際にもそれぞれに発揮があって、原文を抄録したものは極めて少ないということである。このことはまた、古人の引書の方式は臨機応変に過ぎ、謹厳さにおいて欠けるという実例である。だから我々は史料を引用するにあたっては、必ず源に流れを溯り源を考察しなければならない。現存する文献の中で最も早期の出処を明らかにし、一般的な状況の下ではその史料を最初に載せた文献から引用すべきである。我々の中のある人々は文献研究に際し、どの書物のどの版本に見出した話であるかに無頓着に、考察などは一切加えずに直接に文献的依拠として滔々数千言の議論を展開する。甚だしくは『古今図書集成・医部全録』のような類書が収集した文句を直接の引文の形式で文章中に出現させる。私の考察によれば、『医部全録』の引文には誤りが極めて多く、拠り所とするには足りない。
 唐以前の鍼灸医籍に載せる足三里穴に関する内容がたびたび『外台秘要』から転載されて、どうして直接『千金翼方』から引かれなかったか。ここにはさらにもう一つの重要な客観的原因が有る。即ち伝世本『外台秘要』にこの条の文を引いたところで出処を明確にしておらず、さらに拙いことは宋代の校正医書局が『千金翼方』の原書の編次に対しても調整を行っている。だから人々はこの条の文が『千金翼方』に出ることを知らず、また『外台秘要』が提供する巻次から原文を検出することも不可能であった。ここにも宋臣が医書を妄改した弊害がまたしても露呈する。引文の失誤が発生する原因は極めて多い。(黄龍祥『中国針灸学術史大綱』より)

投稿:某 from 北京 投稿日時:2006/2/4/16:22

Re: 『醫説』鍼灸29

三里莫要乾は、おそらく打膿灸のように、常にじゅくじゅくさせて、乾かしてはいけない、という意味だろう。打膿灸は、李唐の「灸艾図」でも行っているようだから、かなり古い灸法でしょう。三里 乾を要(もと)むこと莫れ、と読むんだろう、たぶん。

投稿:かいちょう 投稿日時:2006/2/4/23:56

Re:

言ってること分かってますか?
三里穴に灸を据えつづけることが健康維持に有効であるという思いこみは、本当に経験に基づく情報なのか、ちゃんとした伝統医学理論に基づく発想なのか、あるいはまた単なる古典の読み間違えなのか、はなはだ疑問であると言う指摘ですよ。

投稿:某 from 北京 投稿日時:2006/2/5/11:50

Re: 『醫説』鍼灸29

黄龍祥先生の指摘は充分理解できますね。
一方、かいちょう先生の書き込みも理解できます。

う~ん、この掲示板は勘違いしやすいのかな?
誰に対しての返信かがね。一応、先頭の書き込み
に対しての返信になるんでしょうね。
わかりずらくなるようなら、別スレをたてるべき
なんでしょう。

投稿:恩納 from 日本その他の地域 投稿日時:2006/2/5/12:56

Re:

え~この掲示板CGIを選択したのは間違いだったかも知れません。
新たな返信をもらった記事を頭に持ってくるようには設定されてません。だから、しばしば書き込みに気が付かないことが有る。勿論、CGIをエディタで開いて書き直せば良いわけですが、ちょっと自信が無い。今さらやるとすでにある書き込みを消してしまうかも……。
どれについての返信なのかも分かりづらいことが有るでしょうが、これはもともと以前は返信機能が無いものを使ってましたから、内容からなんとなく分かってもらいたい。あんまり、しばしばスレッドを立ててもどこから出てきた話なんだかが、分かりにくくなってしまう。まあ、適当にお願いします。このCGIの性能としては、先頭の書き込みに対する返信か、返信に対する返信かは区別できてないように思います。

三里に灸をしていつもグチョグチョにしておけという健康法は、まあ黄龍祥の言うように誤解に発しているんだろうけど、三里の灸が広範囲に有効なことは、『内経』を読んでも明らかで、だから「宜灸」には文句はないわけで、だけど「莫要乾」は伝承の誤りだろう、といったところですかね。

投稿:管理者 投稿日時:2006/2/5/14:43

Re: 『醫説』鍼灸29

ぼくの書き込みは、「re鍼灸29」とあるように、冒頭のものに対するものです。もし次のものに対するものなら「re黄龍祥『中国針灸学術史大綱』」となるはずです。何らの問題もありません。

投稿:かいちょう 投稿日時:2006/2/7/18:10

Re: 『醫説』鍼灸29

かいちょうさんが言うように、途中で標題を変えて書き込んだものに対しては問題有りません。ただ、これはかいちょうさんの書き込みに対して書き込んだものですが、冒頭のものに対するものと区別がないでしょう。
それとやっぱり反応が遅れました。

投稿:管理者 投稿日時:2006/2/11/09:00

『醫説』鍼灸30

●灸頭臂脚不宜多
如灸,頭上穴灸多,令人失精神。臂脚穴灸多,令人血脉枯竭,四肢細而無力。既復失精神,又加於細,即令人短壽。

如(も)し灸するに,頭上の穴 灸すること多ければ,人をして精神を失わしむ。臂脚の穴 灸すること多ければ,人をして血脉枯竭し,四肢細くして力無からしむ。既に復た精神を失い,又た細を加うれば,即ち人をして短壽ならしむ。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/4/23:09

『醫説』鍼灸31

●灸痔疾
唐峽州王及郎中充西路安撫司判官,乘騾入駱谷,及宿有痔疾,因此大作。其状如胡爪貫於腸頭,熱如溏辣ィ火。至驛僵仆。主驛吏言:此病某曾患來,須灸即差。用柳枝濃煎湯,先洗痔,便以艾灸其上,連灸三五壯。忽覺一道熱氣入腸中。因大轉瀉,先血後穢,一時至痛楚,瀉後遂失胡爪。登騾而馳。(本事方)

唐 峽州の王及郎中,西路安撫司判官に充てらる。騾に乘りて駱谷に入る。及,宿(もと)より痔疾有り。此れに因りて大いに作こる。其の状 胡爪[四庫本は「瓜」に作る。以下同じ]腸頭を貫くが如く, 熱 溏辣ィ火の如し。驛に至りて僵仆す。主驛吏 言わく「此の病 某 曾て患い來たる。灸を須(もち)いれば,即ち差えん」と。柳枝の濃煎湯を用い,先ず痔を洗い,便ち艾を以て其の上に灸す。連ねて灸すること三五壯。忽ち一道の熱氣 腸中に入るを覺ゆ。因りて大いに轉瀉して,先ず血,後に穢なり。一時至って痛楚するも,瀉する後ち,遂に胡爪を失す。騾に登りて馳す。(『本事方』)
 ・宋・許叔微(1079窶髏€1154)『普濟本事方』卷七にみえ,「溏辣ィ火」を「溏灰火」につくる。「柳枝」を「槐枝」につくる。「以艾」を「以艾轤キ」につくる。
 ・『四庫全書』所収の『救急仙方』(永樂大典本)卷四にも「許叔微普濟本事方」としてほぼ同文が見える。
 ・『普濟方』卷二百九十六「治野髮梹、病方」は,以下の文を引用するが,出所を『肘後方』とする。「王及郎中充西川安撫判官,乗騾入洛谷,數入,而痔病因是大作,如葫闍ス貫於膓頭,其熱如辣サ辣ィ火。至一宅僵臥,無計。有主郵者云:須炙即差。及命所使為,槐栁湯洗闍ス上,因用艾炙三五壮。忽覺一道熱氣入膓中,因大轉瀉,鮮血穢物一時出,至楚痛,瀉後遂失葫闍ス所在」(『四庫全書』本)。
 ・溏辣ィ火 おそらく「辣サ辣ィ火」か「辣サ灰火」が正しく,「埋み火」の意味であろう。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/5/00:49

『醫説』鍼灸32

●灸蛇毒
朝野僉載記:毒蛇所傷,用艾灸,當齧處灸之,引去毒氣,即差。其餘惡虫所螫、馬汗入瘡,用之亦效。

『朝野僉載』に記す。毒蛇の傷る所に艾灸を用う。當に齧む處に之れを灸すれば,毒氣を引き去り,即ち差ゆ。其の餘 惡虫の螫(さ)す所と,馬汗の瘡に入るに,之れを用いるも亦た效あり,と。
 ・『朝野僉載』 唐の張鮃氓フ撰。現行本には見えないが,『蘇沈良方』卷七にもほぼ同文が「朝野僉載記」として見え,「艾灸」を「艾轤キ」につくる。「差」を「逖・」につくる。
 ・馬汗入瘡 『普濟方』卷二百七十七は「馬汗入瘡」の項目をたて,「夫諸瘡未愈,而為馬汗淹漬,或馬尾垢,及馬屎尿,及坐馬皮髻堰C並有毒,令人身體壯熱,疼痛辟ョ腫,毒氣淫溢,則嘔逆悶亂,傳入腸,亦能殺人」という。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/5/18:21
Re: 『醫説』鍼灸32

『朝野僉載』の馬汗は本当は馬豎凾ナある、なんてことは無いですよね。

投稿:洒狗血 投稿日時:2006/2/7/11:19

『醫説』鍼灸33

●灸難産
張文仲灸婦人横産,先手出,諸般符藥不捷,灸婦人右脚小指頭尖頭三壯,轤キ如小麥大,下火立産。

張文仲 婦人の横産して,先づ手出で,諸般の符藥 捷(な)らざるに灸す。婦人の右脚の小指頭の尖頭に灸すること三壯。轤キは小麥大の如くす。火を下せば,立ちどころに産す。
 ・張文仲 『舊唐書』卷百九十一列傳第一百四十一:張文仲,洛州洛陽人也。少與郷人李虔縱、京兆人韋慈藏並以醫術知名。文仲,則天初為侍御醫。時特進蘇良嗣於殿庭因拜跪便絶倒,則天令文仲、慈藏隨至宅候之。文仲曰:「此因憂憤邪氣激也,若痛衝脇,則劇難救。」自朝候之,未及食時,即苦衝脇絞痛。文仲曰:「若入心,即不可療。」俄頃心痛,不復下藥,日譌ー而卒。文仲尤善療風疾。其後則天令文仲集當時名醫共撰療風氣諸方,仍令麟臺監王方慶監其修撰。文仲奏曰:「風有一百二十四種,氣有八十種。大抵醫藥雖同,人性各異,庸醫不逹藥之性使,冬夏失節,因此殺人。惟脚氣頭風上氣,甞須服藥不絶,自餘則隨其發動,臨時消息之。但有風氣之人,春末夏初及秋暮,要得通洩,即不困劇。」於是撰四時常服及輕重大小諸方十八首表上之,文仲久視年終於尚藥奉御。撰隨身備急方三卷,行於代。虔縱官至侍御醫,慈藏景龍中光禄卿。自則天、中宗已後,諸醫咸推文仲等三人為首。
 ・『新唐書』卷五十九・志第四十九藝文・醫術類に「張文仲隨身備急方三卷」,『宋史』卷二百七志・第四十九藝文・醫書類に「張文仲法象論一卷」あり。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/6/08:55
Re: 『醫説』鍼灸33

『黄帝明堂灸経』に「張仲文灸經」(張文仲灸經ではない)が数回引用されているが、至陰穴のところでの引用はない。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/6/13:16

Re: 『醫説』鍼灸33

あらら、この灸法ってこんなに古いのね。『医宋金鑑』が初出かと思っていました。日本のものでは『和漢三才図会』に引用されてますけど、その他ではまだ見ていないなぁ。その他ってのは主に『日本産科叢書』所収の医書ね。

投稿:尾乙髦驗€ from 日本その他の地域 投稿日時:2006/2/7/03:38

Re: 『醫説』鍼灸33

『鍼灸資生経』の難産のところに、この張文仲の故事が載ってますね。

張文仲療産先出手諸符藥不捷灸右脚小指尖頭三壯轤キ如小麥大下火立産

ほとんど同じでしょ。
この小指尖頭をただちに至陰穴と言って良いのかがそもそも問題でしょうが、『甲乙経』あたりの至陰穴には婦人科、産科の主治は無いみたいです。ひょっとするとこの故事が最初なんでしょうか。とすると、効果が有ったんだから文句の付けようが無いんだけれど、張文仲はどうしてこんなことを思いつけたのか、気になってしょうがない。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/7/10:00

Re: 『醫説』鍼灸33

キョートの先生の「纏足の文化がある地域で下肢の経穴を使う事は有り得ない」って言う研究を聞いた事があるし、清末民国初の廖平も『脈學輯要評』の中で「纏足しているから日本と文化がちがうよ」と言っているので、やっぱり「小指尖灸頭」に灸と言う発想が気になってしょうがない。日本で使われた形跡(くどいけども『産科叢書』中に無い)が無いのも気になってしょうがない。

投稿:尾乙闌 from 日本その他の地域 投稿日時:2006/2/7/16:19

Re:纏足

纏足で有名なのは、五代十国の南唐の李煜あたりでしょうか。でも、金でもって蓮の花びらを作って、その上を歩かせたと言うのだから、それ以前から小さい足に対する嗜好は有ったわけで……。漢の成帝はほっそりしたのが好きで、「身軽く、能く掌上の舞を為す」という趙飛燕なんてのを寵愛しています。その後、有名な楊貴妃は豊満型で、つまり嗜好は変転する。張文仲の手柄ばなしは、唐代のことだからまあまだ趣味が多様であったか、それどころではなかったか。
ところが纏足が普及してからは、その点についての嗜好はあまり変わらなかったものものらしい。満州族の女性には禁止されていたということですが、窃かに憧れていたという話もある。
今、歴史を繙いても、唐代の女性は異常に強かった。つまり、その反動と言うことですかね。

たしかに「纏足の文化がある地域で下肢の経穴を使う事は有り得ない」って言うか、かなり難しいでしょう。現在、妙齢の女性の会陰穴に灸するくらいは、難しかったんじゃないか。

でも、ごくごく古くを考えると、やっぱり経脈説は足のものから先に発想されていると思うんです。で、ある日突然(ではないでしょうが)、足には施術しないでくれ、恥ずかしいから止めてくれと言われたら、途方にくれたでしょうね。古典を読め読めと言われてて、でも「血を抜くのは医師法違反である」と言われた時に、呆然とする現代日本の針灸師と、同じくらいには困るでしょう。

投稿:神麹斎 from 日本その他の地域 投稿日時:2006/2/7/17:26

Re: 『醫説』鍼灸33

 職場の電脳から書き込んでいるので、資料不足のままで申し訳ない。

 會陰穴の主治症に「溺死」というのを時々目にする。溺れた人も腰巻ひっぺがされたら「キャー」とか言って覚醒するのか?
 非常に危険な横産と言う状態であっても「恥ずかしい部位」を曝け出され、灸(時間がかかる行為)までされたら何とかなるのか?
 当時の常識とかは、残された物でしか想像できないのだけども、リンク先には色んな靴の頁を貼ってみました。
滿洲族女性は「旗鞋」と言う靴を履くのが伝統らしいです。

投稿:尾乙闌 from 日本その他の地域 投稿日時:2006/2/7/19:19

Re:纏足

纏足の習慣が有るところで、下肢の穴は使いづらいという意見は、一応もっともらしくはあるけれど、例えば『鍼灸大成』の婦人門にだって下肢の穴を含む配穴例なんていくらも有る。患者の中に嫌だという我が儘ものがたまにいたとしても、医者がそれに簡単に同調していてはどうにもならない。
人之情,莫不惡死而樂生,告之以其馭,語之以其道,示以其所便,開之以其所苦,雖有無道之人,惡有不聽令者乎?

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/8/07:26

Re: 纏足

纏足については、2年前に北里研究所で行った「鍼灸史学会」で京都の猪飼祥夫先生が、どのようなシーンでもその靴を脱がないと発表していました。というわけで、治療だとしてもそれを脱がせるわけにはいかないようです。『鍼灸大成』の婦人門の下肢の配穴例があったとしても、纏足が普及していない時代の文献上での出来事で、現実的には不可能かと想っています。

投稿:かいちょう 投稿日時:2006/2/8/10:23

Re:

『鍼灸大成』は前代の成果を大成したという意味が濃いでしょうから、纏足が普及した時代には難しい方法も載っていると言ったところで、全然不可能なものを載せるというのも変な話で、要は事態の切迫の度によるわけでしょう。
例えば脱肛には長強といったところで、私のように気の弱いものは先ず百会の灸を試してみるべきだと考えます。それでだめなら長強は勿論、峽州の王及郎中の場合のように脱肛の上に直接灸を据えるところまでやるべきなんでしょう。
中国人にとって子を生めるかどうかは大変な問題で、ましてやそれが男の子だったりしたら、難産の挙げ句に両者とも昇天なんてことになったら、先祖にも顔向けならない。亭主にしたって、必要とあらば靴はおろか内裙だって脱がせるんじゃなかろうか。あ、もう脱いでるわけだ。
「どのようなシーンでもその靴を脱がない」というのは、一般的に言ってその通りだとは思うけれど、臨床の危急の際にもそうだったという例の二つ三つは示してもらわなければ俄には納得できません。二つ三つでは単に奇譚として書き残したのかも知れませんがね。
猪飼先生のお話は、治療だとしても簡単に脱がせるわけにはいかなかったとか、現在の常識よりも遙かに困難であったとか、困難であったから脱がさないでやる方法を工夫したとか、そういう話ではなかったんですか。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/8/13:18

Re: 纏足

纏足の靴を脱ぐことはその女性にとって屈辱的だという話を聞いたことがあります。これは纏足の女性に聞いてみないとわかりませんが。房事の絵がありますが、これも纏足をしたままですね。こういう文化史を研究したものがあるでしょうから、議論はそれを読んでから進めたほうがいいでしょう。いずれにしても、私たちが靴を、靴下を脱ぐようには、いかない、と言うことは確かのようです。

投稿:かいちょう 投稿日時:2006/2/8/22:06

Re:唐辺睦さま

「『鍼灸資生経』の難産のところに、この張文仲の故事が載ってますね。」
と「張文仲」の記事を掲載していただきましたが、引用文は「張仲文」ではないでしょうか? もし「張文仲」となっているのでしたら、版本名もご教示いただけないでしょうか。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/10/21:14

Re:

ごめんなさい。
『鍼灸資生経』では張仲文ですね。見てたのは江戸・寛文9年和刻本(の影印)です。単純な書き間違いと思うけれど、旋風出版社のものも全て張仲文のようですね。元天歴本、明正統本、影鈔明刻本、皆そうらしい。
張文仲とは別人という可能性も有るんでしょうか。わずかに文仲になっているほうが誤りであると。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/10/22:06

Re: 唐辺睦さま

「仲文」「文仲」どちらが正しいか,わかりません。史書は「文仲」ですが,『明堂灸経』『鍼灸資生経』は「仲文」ですし。同一人物だと思います。
一般に,史書とその他の書籍で名前などが異なる場合は,だいたい史書の方が分が悪いようです。
「秦丞祖」だったか,本によって表記が若干ちがう医療者がほかにもいたように記憶します。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/10/23:31

Re: 唐辺睦さま

辞典の類には「張仲文」は登場しません。その理由の一つに、諱で載せたいということが有るように思います。二字の上が伯叔仲季といった文字の場合、これは概ね字(あざな)です。「文仲」ならば諱であって何も不思議はない。勿論、例外は有るはずで、例えば張仲景も本来なら張機で載せたいところだけど、両者は同一人物ではないという説が有力ということで、慎重を期しているのでしょう。
正式な編纂物は、史書を重んじるというのも当然といえば当然です。「だいたい史書の方が分が悪いようです」というのも皮肉な事実でしょうが。でも余程の資料が無いと、やはり史書を覆すには慎重を期すものではないでしょうか。

投稿:神麹斎 投稿日時:2006/2/11/09:04

Re:文仲と仲文

『大觀本草』、晦明軒本『政和証類本草』卷十・附子の引用は「張文仲」で,『四庫全書』本『証類本草』は「張仲文」につくる。ただ『四庫全書』本『證類本草』でも圧倒的に「張文仲」につくる(九箇所)。
 『備急千金要方』の注はみな「張文仲」につくる。
『外臺祕要方』の注もみな「張文仲」につくる。
『證治準繩』卷六十七・催生法には「張仲文 横産難産 右脚小指尖頭(原注:灸三壯立産)」と「仲文」につくり,『醫説』鍼灸と同じ内容をのせる。
 『本草綱目』には「(唐)張仲文備急方」と「張文仲備急方」あり。数としては「文仲」の方がおおい。
『續名醫類案』卷十二には,張仲文の薬方による六十歳の婦人の治験例を載せるが,脈診などの詳しい辨証があり,興味深い。『本草綱目』からの引用か。
『薛氏醫案』卷四十三・第九産後口噤腰背反張方論は「張仲文」の藥方をのせる。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/11/12:58

Re:『鍼灸資生經』張仲文を中心とした考察

『鍼灸資生經』卷三「張仲文灸脚筋急(原注:見腰脚)」。
『鍼灸資生經』卷四「張仲文療卒心痛不可忍,吐冷酸水,及元藏氣,灸足大指、次指内横文中,各一壯,轤キ如小麥。立愈」。
『鍼灸資生經』卷五「張仲文療腰重痛,不可轉,起坐難,及冷痺,脚筋攣不可屈伸,灸曲雕ソ兩文頭,左右脚四處,各三壯。毎灸一脚,二火齊下,燒纔到肉,初覺痛,便用二人兩邊齊吹至火滅。午時着艾,至人定,自行動藏腑一兩回,或藏腑轉如雷聲,立愈。神效」。「雕ソ」は,「苣吹v(ももとすねの間)の異体字であろう。ほぼ同文が『衞生寶鑑』卷十五・灸腰痛法にみえる。『衞生寶鑑』は「張仲文傳神仙灸法」として引用しているので,『鍼灸資生經』と源を一にする祖本があったのかも知れない。『普濟方』卷四百二十一にあるほぼ同文は,『鍼灸資生經』からの引用と思われる。『續名醫類案』卷二十五にも同文がみえる(『本草綱目』からの引用)。
『類經圖翼』卷四・養老「張仲文傳灸治仙法:療腰重痛,不可轉側,起坐艱難,及筋攣脚痺,不可屈伸」。これは,『衞生寶鑑』から主治症を採取する際,カード整理を誤って養老穴のところに分類されてしまったのではあるまいか。
『鍼灸資生經』卷五「張仲文灸腰痛(原注:見腰脚)」。
『鍼灸資生經』卷六「張仲文療風眼,卒生翳膜,兩目痛不可忍。灸手中指本節頭節閒尖上三壯,轤キ如麥,左灸右,右灸左」。『普濟方』卷四百十九に同文が見える。
『鍼灸資生經』卷七「張仲文療横産,治先出手,諸符藥不捷。灸右脚小指尖頭三壯,轤キ如小麥,下火,立産」。『醫説』鍼灸とほぼ同文。『類經圖翼』卷七・至陰にも見える。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/11/16:20

『醫説』鍼灸34

●灸臍風
樞密孫公抃生數日,患臍風,已不救。家人乃盛以盤合,將送諸江。道遇老媼,曰:兒可活。即與倶歸、以艾轤キ臍下,遂活。(青箱記)

樞密の孫公抃 生まるること數日にして臍風を患う。已に救われず。家人 乃ち盛るに盤合を以てし,將に諸(これ)を江に送らんとす。道に老媼に遇う。曰く「兒 活くべし」と。即ち與(とも)に倶に歸る。艾を以て臍下に轤キす。遂に活く。(『青箱記』)
 ・青箱記 宋・呉處厚の撰『青箱雜記』卷八の文には「臍下」の上に「灸」字あり(艾轤キを以て臍下に灸す)。
 ・孫公抃 孫抃,字は夢得,眉山の人。『宋史』卷二百九十二・列傳第五十一に傳あり。 
・盤 たらい。 合=盒(ふたのついた容器)?
・臍風 撮口・噤風・風謳吹E七日口噤・四六風・七日風などともいう。すなわち新生児の破傷風のこと。(漢方用語大辞典)『鍼灸甲乙經』などは,然谷を治療穴とする。
・宋・佚名『小兒衛生総微論方』卷一・臍風撮口論「兒自初生,至七日内外,忽然面青,啼聲不出,口撮脣緊,不能哺乳,口青色,吐白沫,四肢逆冷,乃臍風撮口之證也。此由兒初生剪臍,不定傷動,或風濕所乘。……如大人因有破傷而感風,則牙關噤而口撮,不能口食,身硬,四肢厥逆,與此候頗同。故謂之臍風撮口,乃最惡之病也」。
 ・宋・程林『聖濟總録纂要』卷二十五・臍風「論曰:初生斷臍後,臍瘡未愈,不可令犯,風邪及浴水入瘡,濕冷謗、抱,皆致臍風。其候臍腫多,啼甚,則風行百脉,口噤不乳,身體反強,乃致不救」。
 ・宋・陳自明(1190?窶髏€1270)『婦人大全良方』卷二十四「《産乳集》將護嬰兒方論。凡新生兒,坐婆急以綿纒手指,郢ウ去兒口中惡物令盡,不可遲。若嚥入腹中,必生諸疾。(原注:《聖惠方》《寳鑑方》謂之玉陦・セ。)先斷兒臍帶,可只留二寸許。更看帶中,如有小蟲,急撥去之,留之必生異病。或以線郢ォ扎定,然後洗兒,不然則濕氣入腹,必作臍風之疾」。
 ・與倶歸 「與老媼倶歸」の省略形。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/9/00:37

『醫説』鍼灸35

●不宜灸
凡婦人懷孕不論月數及生産後未滿百日不宜灸之,若絶子灸臍下二寸三分間動脉中三壯,女子石門不灸(出千金方)

凡そ婦人の懷孕すれば,月數 及び生産の後ち未だ百日に滿たざるを論ぜず,宜しく之れに灸すべからず。若し子を絶たんとすれば,臍下二寸三分の間 動脉中に三壯 灸せよ。女子は石門に灸せざれ。(出『千金方』)
 ・『備急千金要方』卷二十九・鍼灸上・仰人明堂圖・腹中第一行十四穴遠近法第六「石門,在臍下二寸,女子不灸」。この部分以外,『千金方』に類似の文をみつけられなかった。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/12/09:43
Re: 『醫説』鍼灸35

「絶子」には「子が絶すれば=子供が出来なければ」、つまり不妊の治療の可能性が有る。確かに『甲乙』にも石門穴に「女子禁不可灸中央,不幸使人絶子」とあるが、正統本などには「灸中央,不幸使人絶子」は無いらしいし、「腹滿疝積,乳餘疾,絶子,陰癢,刺石門」なども不妊の治療と解したほうが良さそうに思う。また『甲乙』には「絶子」の方はいくらも載るが、いずれも妊娠させないための方とは考えにくい。

投稿:神麹斎 投稿日時:2006/2/12/19:43

Re: 『醫説』鍼灸33

神麹斎先生のおっしゃるとおり、「若絶子灸臍下」の部分だけを取り出せば、「もし子供が出来なければ臍下に灸せよ」と解釈するのがいいのかも知れません。
しかし、ここのタイトルは「不宜灸」です。少なくとも『醫説』を編集した張杲は、灸すると「絶子」となると解釈したのではないでしょうか。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/13/21:05

Re: 『醫説』鍼灸35

ここで気にしているのは、『明堂』あたりの本意はどうだったかなんです。『醫説』は勿論、『甲乙』のいくつかの版本ではすでに石門だけは「若し子を絶たんとすれば」のようなんです。でも『医心方』では臍から下の曲骨あたりまでの諸穴には、ほとんど全てに「絶子」あるいは「絶嗣」が有るんです。しかも治すべき病症群に混じって。で、石門だけはもともと「若し子を絶たんとすれば」であるというのは、なんだかとっても落ち着かない気分なんです。

投稿:神麹斎 投稿日時:2006/2/13/23:34

Re: 『醫説』鍼灸35

凡そ婦人懷孕すれば月數を論ぜず、及び生産の後ち百日に滿たざるは、之れに灸するは宜しからず。

投稿:唐辺睦 投稿日時:2006/2/14/19:03

『醫説』鍼灸36

●因灸滿面黒氣
有人因灸三里,而滿面黒氣。醫皆以謂腎氣浮面,危候也。有人云:腎經有濕氣,上蒸於心,心火得濕,成煙氣,形於面。面屬心,故心腎之氣常相通,如坎之外體即離,離之外體即坎,心腎未常相離也。耳屬水,其中虚,則有離之象。目屬火,其中滿,則有坎之象。抑可見矣。以去濕藥治之,如五苓散、防己、黄蓍之類,皆可用。(醫餘)

人の三里に灸するに因りて,滿面 黒氣する有り。醫 皆な以謂(おもえら)く腎氣 面に浮く,危候なり,と。有る人云う「腎經に濕氣有り。上りて心を蒸す。心火 濕を得て,煙氣と成り,面に形(あら)わる。面は心に屬す。故に心腎の氣 常に相通ずること,坎の外體は即ち離,離の外體は即ち坎の如し。心腎未だ常には相離れざるなり。耳は水に屬す。其の中虚すれば,則ち離の象有り。目は火に屬す。其の中滿つれば,則ち坎の象有り。抑(そも)そも見るべし。濕を去るの藥を以て之れを治す。五苓散・防己・黄蓍の類の如し。皆な用いるべし。(『醫餘』)
 ・『醫餘』 未詳。『本草綱目』卷一上・引據古今醫家書目に「醫餘録」あり。また『景岳全書』卷三十五・雜證謨・諸蟲・陏伜ウに「醫餘曰」の記事あり。
 ・坎之外體即離,離之外體即坎 『周易』を参照。坎の陰陽を逆にした形が離。坎は水であり,離は火である。

以上で『醫説』鍼灸は終わりです。

投稿:闖薗| 投稿日時:2006/2/13/23:15