日本内経医学会談話室2008


近刊予告 投稿者 : 管理者 投稿日 : 2008/10/28(Tue) 08:24 No.64
よくわかる黄帝内経の基本としくみ
発行日:2008年11月10日(今月末にはできあがる?)
  著者:左合昌美
発行所:秀和システム
 定価:1890円 (本体1800円)


お恥ずかしい - 左合昌美 2008/11/01(Sat) 19:00 No.65
訂正
p24下段4行目 第八巻→第七巻
p57下段4行目 陰陽の脈の 脈を→陰陽の脈を
p78上段-3行目 淳々(じゅんじゅん)→辟栫X(とんとん)
p108上段9行目 胸中と上肢の→上肢の一陽経脈と
p113 上段の図中の「脈口一足 二足 三足」はそれぞれ「脈口一盛 二盛 三盛」の誤り


徳不孤 必有隣 - 尾乙蘭 2008/11/05(Wed) 12:37 No.66
横浜市の有隣堂書店で平積みしてありました、店員が「売れる」と確信したのでしょう。神奈川の紙価が上がりそうです。

経過報告 - 左合昌美 2009/01/07(Wed) 09:20 No.78
研究会の仲間から届いたメールの抜粋です。多分に「仲間誉め」の気配がありますので,そ の辺にはご注意を。
●内容的には入門じゃないですけど、一定の基礎知識がある人には、とてもわかりやすくなっていると思います。
●いや, よくできてます。感心しました。『黄帝内経』の内容のわかりやすい?部分が満遍なく入っているし,最先端?の見解もふんだんに読み取れます。それから発展 させた左合文も抑えめですが,面白かったです。
●日本の古典学にとっては、貴重な一歩です。啓蒙書として出たことの意味も大きいです。
● 読めば読む程、内容の熟知に驚きます。感心して居ます。是動病、所生病を言い切るのも大した事です。
●著書購入しました。勝手に宣伝もしていま す。自序が良いです。気に入った言葉として「そこには今日の行き詰まった医療の現場に新しい道を切り開くヒントが満ちていると考えられています。」この表 現は臨床実感からもとても的確だと思います。
●時間を見つけては「よくわかる……」を読んでいます。失礼ながら、想像していた以上に、出来栄えが 良いと感じています。知らないうちに、ニコニコしながら読んでいるようであります。家内が「面白い本なの?」って、聞いてきましたから(笑)。
● 左合さんの著作が有ることを発見して、さっそく取り寄せて読んでいます。「よくわかる黄帝内経の基本と仕組み」の名に恥じない、分かり易い文章ですね!


Re: 近刊予告 - かいちゅう 2009/01/21(Wed) 09:40 No.82
わたしを介して、都合350冊売れました。タイトルが羊頭狗肉。肉がおいしいから、良 いでしょう。短期間で書き下ろしたようですから、助走期間は相当長いものと知れます。はき出すように、一気に書いたのでしょうね。まあ、かれこれ、30年 くらいは、読んでいるでしょうから、当たり前といえば、当たり前。ボケル前で、よかったです。

仁和寺本太素 不明字について 投稿者 : 別府正志 投稿日 : 2008/11/15(Sat) 18:50 No.67
いつも大変お世話になっております。東京医科歯科大学の別府です。
先ほど林克先生の素問攷注の講義からか えって参りました。
本日は陰陽離合論篇の第1回だったのですが、そこで質問があります。

森枳園は太素や楊上善注を必ず引いていま すが、仁和寺本で判読不明のところを□で表しています。本日の講義のところで言えば

〔楊〕言陰陽之□。大而無外。細入無間。豪末之形。竝 陰陽彫刻。故其數者不可勝數也。故陰中有陰。陽中有陽。陽中有陰。陰中有陽。然則混成同爲一氣。則要一也。

〔楊〕辨陰陽所□雌雄者也。□ 徒之與物。未生以前合在陰中。則未出地也。未生爲陰。在陰之中。故爲陰中之陰之也。

といった具合です。ところが、小林健二先生から頂いた 電脳医学古典資料庫所蔵の007世紀_太素_左合氏フォルダ内のTaisuExAなるワードファイルには、これらの□が埋めてあります。オリジナルをどう 逆さにしてみても読めないので、どこからか持ってきたものであるとか、x線などで解析したものであるとか、左合さんに楊上善が乗り移られたとか、であろう と想像するのですが、いかがなものでしょうか。

よろしくご教示ください。

Re: 仁和寺本太素 不明字について - 左合昌美 2008/11/15(Sat) 21:47 No.68
そのデータはかなり古いもので,現在は『太素新新校正』として,
【楊】言陰陽 之〔理〕,大而無外,細入無間,豪末之形,並陰陽彫刻,故其數者,不可勝數也。故陰中有陰,陽中有陽,陽中有陰,陰中有陽,然則混成同爲一氣,則要一也。
【楊】 霎ヲ陰陽,所謂雄雌者也。〔人〕之與物,未生以前,含在陰中,則未出地也。未生爲陰,在陰之中,故爲陰中之陰(之)也。
です。そして,その凡例中に 「『黄帝内経太素新校正』の所説に異論の無い場合は,直ちに改めて脚注も省略する。」「原鈔中の除くべき衍文は( )に入れ,補うべき奪文は〔 〕に入れ る。」「コメントが無い場合は,おおむね新校正の意見に従っているのであり,新校正で断言している場合と,疑いを存する場合の区別はしない。」「新校正が 蝕爛の文字を補うか,空格にするかの基準には,実のところ首をかしげるような場合も有るが,概ね従った。」とことわっています。
「所」の次の文字 は,一部が残っており,文義から推した「謂」と合うと判断しました。具体的には言偏の一部と胃の左上部が残っていると見ました。今改めてみれば,積極的に 「謂」のはずといえるかどうかは微妙なところではあります。しかし,「謂」と仮定して齟齬するような筆画は無いと考えます。
「理」の末筆も一応 残っているようですが,下部の横棒が合うというだけのことですので,今のところひかえています。


Re: 仁和寺本太素 不明字について - 別府正志 2008/11/16(Sun) 07:47 No.69
早速のお返事ありがとうございました。林先生にもお伝えしたいと思います。

Re: 仁和寺本太素 不明字について - 左合昌美 2008/11/16(Sun) 08:03 No.70
要するに,そのように読めるという文字の他に,推理して補った文字もあります。それは 一応,区別がつくようにしてあります。当然ながら,個々の文字については,「そのように読んだ」というべきか,「推理して補った文字」というべきか,微妙 な場合はあります。
その推理した文字が銭教授主編『太素新校正』の推理と同じであれば,特に何も注記しないで「おおむね新校正の意見に従ってい る」です。中には,どうしてそんな文字を思いつけるのか,というようなものもありそうですが,それはそれ,碩学のいうことですから。
銭教授らが, 空格にしているのに,埋まっているとしたら,それは私の推理です。その場合も私のコメントがなければ,大抵は『太素新校正』の記事がよりどころです。
銭 教授らが推理した文字が,より鮮明な資料に残っている筆画と合わないとか,そもそも推理の根拠に納得できないときには,しつこく噛みついています。
言 い換えれば,『太素新新校正』は銭教授にたいする,屈折した恋文のようなものです。


Re: 仁和寺本太素 不明字について - 左合昌美 2008/11/16(Sun) 08:45 No.71
言い忘れました。
「所謂雄雌者也」の「也」字は,『素問参楊』に拠っています。 『太素』再発見当時の最初の摸写のころには,まだ読めたものと判断しています。
「〔人〕之與物」と推理した理由は,ここしばらくの楊注中に「人 物」つまり「人と物」がしばしば登場するからでもあります。残っている筆画はおそらく「人」の右下端でしょう。

それから,『太素新新校 正』の最新の原稿では,問題の文字は笘垂ナ囲んで,「空格とすべき文字を推理して補った」ことを示していました。近々,少部数を印刷するために準備中です。 書庫においてある『太素新新校正』も,すでにちょっと古い。


Re: 仁和寺本太素 不明字について - 別府正志 2008/11/17(Mon) 14:14 No.75
丁寧な解説どうもありがとうございました。
仁和寺本を源流としないものから 補ったということはない、という理解でよろしいでしょうか。
ところで左合先生の改訂版『太素新新校正』はどこかで入手可能なものでしょうか?


Re: 仁和寺本太素 不明字について - 左合昌美 2008/11/17(Mon) 16:40 No.76 ホームページ
「仁和寺 本を源流としないものから補ったということはない」,まあそういうことです。ただ,『素問』『霊枢』をみてあたりをつけているから,残っている筆画が判読 できる,ということはあるかも知れません。
それとわずかな例ですが,『素問』王冰注とか『医家千字文註』とかに引くものを参考にしたことは,あっ たかと思います。

『太素新新校正』は,内経が百冊分の印刷費用を計上してくれることになりましたので,今年度中にはなんとかしようと考え ています。


古籍整理 投稿者 : せいりん 投稿日 : 2008/11/16(Sun) 09:41 No.72
中国の本を読んでいて、時々「古籍整理」という言葉を見かけます。辞書をひいても、「整理」は「整理」で、わかったよ うなわからないような。具体的にいうと、どういうことなのでしょうか?
教えていただけないでしょうか。

Re: 古籍整理 - 唐辺睦 2008/11/16(Sun) 20:09 No.73
一般的にいえば、文中の言葉の意味の、単純に辞書を引いてわかることより先を知るに は、文中の説明を読み解くしかないでしょう。
たとえば、中国の本を読んでいて、「古籍整理」という言葉がわかったようなわからないようなであって も、普通はその書物で何をするつもりか、著者が具体的に説明しているはずだと思います。
もっとも、もし誤字脱字が有るようだったら、文章を整理し てから読み始める必要は有ろうかと思います。


Re: 古籍整理 - 闖薗| 2008/11/17(Mon) 09:41 No.74
古典籍そのもの (現物)には,句読点もなく,誤字脱字も珍しくなく,異体字もあり,難しい語句もたくさんあって,一般現代人にとってはハードルの高いものです。そこで専 門家が,句読点を打ったり,校勘したり,注を付けたり,現代語訳したりします。これらの個々の作業をひっくるめて「(古籍)整理」と総称します。このよう に,古典についての知識が少ない人にも,読解活用しやすいようにする作業のことを「整理」といっているようです。句読点をつけるだけでも「整理」ですし, 原文や注もなく,「今訳」「白話」にしたものも「整理」です。
左合先生の靈蘭之室の書庫にある古典のデータは,句読点や注や翻訳がなくとも,瞬時 に一字検索ができるわけですから,立派な古籍整理です。


2008年大韓韓醫學原典學會國際學術大會 投稿者 : 左合昌美 投稿日 : 2008/10/28(Tue) 08:17 No.63
ソウルで開かれた大韓韓医学原典学会に参加して,昨夜遅くに帰ってきました。
私の話は,杏雨書屋に在る『太 素』の巻21・27の本物を見れば,今まで分からなかったことが随分と分かるよという自慢と,そうじゃなかった今までの翻字は信用できないよという警告で す。まあ,当たり前の話です。
例によって,韓国の学者の発表は韓国語ですから,何を言っているのやらさっぱり分からない。なんとかする必要が有り ますね。

『中医古籍閲読学』簡介(簡単紹介) 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/08/19(Tue) 00:17 No.62
王育林(北京中医薬大学)主編。高等教育出版社、2008年5月初版。B5版291頁。35元。中医古籍閲読叢書の一 冊。おそらく本叢書の第一冊で、総論的部分に相当するのであろう。今後、陸続と各種経典の「浅注」テキストが出るらしい。編集委員は、王氏を含めて19 人。各地の中医薬大学・学院および首都医科大学の先生たち。それぞれの方々が各章を担当しています。
「閲読」とは「読む」という意味ですが、本文 70頁にも「閲読の核心は理解である」とあるように、「読んで理解する」ととりましょう。(前後関係から「読書」と訳してもいいですが。)ということで、 書名をくどく翻訳すると「中国医学古代典籍読解学」となると思います。

前言によれば、本書を編集する際、次の四つの要求を設定したとあり ます。
1.伝統を重視する。2.経典を重視する。3.源流(源とそれを受け継いだ流れ)を重視する。4.実用を重視する。
過去のみなら ず、現在も遠い未来にも、中医を学ぶには、中医古籍を読解せずにはすまされない。/読解の具体的な方法は、ひとによって異なるけれど、本書が述べている一 般基礎から始めましょう。とのことです。

目次:
引言:「中医古籍閲読と閲読学」
第一章:中医古籍の目録
第二章: 中医古籍テキストの流伝中における改変
第三章:中医古籍の校勘
第四章:中医古籍の注釈と闡発(意味を明らかにする)
第五章:中医 古籍言語の解読
第六章:医学理論の奠基(基礎を定める)
第七章~十章は『黄帝内経』『難経』『傷寒雑病論』『神農本草経』の内容とテキス ト(原文:義理和文本)
第十一章:後世医籍挙要 医学の発展と医籍の編集。以下、『脈経』『鍼灸甲乙経』『諸病源候論』から温病の重要書籍、最後 は『医宗金鑑』まで22書の紹介。
第十二章:出土医学文献
 出土文献の専門書以外では目にすることがない固有名詞が多く紹介されているの が目を引きました。敦煌の蔵経洞を発見した王円邁カが相談に行った、交県令の汪宗瀚、大谷探検隊の吉川小一郎、壁画を剥がしていった米国のラングドン・ ウォーナー(Langdon Warner)など。
参考〔若干、記載に問題があるとは思いますが〕:http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana68.htm

全 体の印象としては、内容をある程度理解している人にとっては、理解しやすく内容をまとめてあるように感じますが、初学者には、かなり濃密な内容になってい るのではないでしょうか。

張燦邇セ 『黄帝内経文献研究』若干文字訂正 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/08/18(Mon) 09:39 No.61
6p末行 安知不早=⇒安知不早見
9p下から7 沈作讒=⇒沈作喆
39p下から12 彧少嘗詒=⇒彧 少嘗詣
59p3~5 「胡郎切」おそらく「胡浪切」か
64p2 天上=⇒太上
71p20 木書=⇒本書?
76p14 付 印告峻=⇒付印告竣
105p4 長之道也=⇒養長之道也
108p9 "玉版"=⇒《玉版》
112p下3  《秦問》=⇒《素問》
137p 下5 曲頬=⇒曲頷
146p1 髯迫]叢刊=⇒髯迫]叢考

以前,読んだ本を引っ張り出してみました。どうも155頁以降は読んでいな いようです。

多紀元胤『霊枢紹識』 投稿者 : 神麹斎 投稿日 : 2008/08/17(Sun) 07:39 No.58
内経の合宿で話題になった多紀元胤『霊枢紹識』の件,私の持っている1987年9月第1版第1次印刷の高等中医院校 教学参考叢書『内経』でもそうなってます。つまり20年以上にわたって訂正されてません。
ただし,これは多紀元簡『霊枢識』でもありません。実は 多紀元胤『医籍考』に「先子曰」として引いてある文章の字句が一番近い。それを,さらに節略しています。先子は無論,多紀元簡です。

Re: 多紀元胤『霊枢紹識』 - 神麹斎 2008/08/17(Sun) 08:15 No.59
この本には,他にも変なところがいろいろ有ります。

“また『素問・上 古天真論』中の「昔在黄帝,……成而登天」という一段の文字は,『史記・五帝本紀』および『大戴礼・五帝徳』に載せるところと,わずかにいくつかの文字が 異なるだけで,意味は全く一致する。してみればこの二書の著作年代が西漢であることも,『黄帝内経』の成書年代が春秋、戦国あるいは先秦ではなくて,西漢 の『史記』と『大戴礼』成書の後である佐証とすることができる。”

何が変なのか,分かりますよね。『素問紹識』には「『遐年要鈔』に引く 『太素経』は(篇首を)黄帝問於岐伯曰の七字に作る」と言っています。

さらに,現在通行の『素問』の全名は,『増広補注黄帝内経素問』だ と言っています。

大丈夫ですかァ?


Re: 多紀元胤『霊枢紹識』 - 神麹斎 2008/08/18(Mon) 09:00 No.60
新 版の高等中医院校教学参考叢書『内経』の緒論は,実際にはかなり大幅に書き直してあるんですね。上の「『史記』と『大戴礼』成書の後である」とか,『増広 補注黄帝内経素問』だとかは,削除もしくは訂正してあります。でも,多紀元胤『霊枢紹識』はそのままということです。

内経の出没 投稿者 : 神麹斎 投稿日 : 2008/08/12(Tue) 16:22 No.57
漢書・芸文志 :黄帝内経十八巻
隋書・経籍志 :
旧唐書・経籍志:黄帝内経明堂十三巻
         黄帝内経太素三十巻 楊上善注
        黄帝内経明堂類成十三巻 楊上善撰
新唐書・芸文志:黄帝内経明堂十三巻
         楊上善注黄帝内経明堂類成十三巻
        又 黄帝内経太素三十巻
遂初堂書目  :黄帝内経
直斎書録解題  :黄帝内経素問二十四巻
宋史・芸文志 :黄帝内経素問二十四巻 唐王氷注
        黄帝大素経三巻 楊上善注

森立之「錯簡試読法」 投稿者 : 素食 投稿日 : 2008/08/09(Sat) 07:10 No.55
王育林『中医古籍閲読学』(高等教育出版社)3頁に「森立之的"錯簡試読法"」という言葉が見えますが,具体的なこと は記されていません。
森立之的"錯簡試読法"とは,どういうことを言っているのでしょうか?

Re: 森立之「錯簡試読法」 - 神麹斎 2008/08/12(Tue) 08:32 No.56
無視しているわけではありませんが,『中医古籍閲読学』を持ってないので,応えようが ありません。取りあえず東京の中国書籍を扱う店頭にもありませんでした。
常識的には,具体的なことは記されてないということであれば,読者には著 者が何を考えているかなどは分かりようがありません。問題の「森立之的"錯簡試読法"」が3頁に登場するのであれば,普通はそこは序論であって,詳しくは 後の本論中で何か話があるはずだろうと思います。
そもそも『素問攷注』には,森立之が錯簡を云々しているところはそんなにはないでしょう。病能論 について,「本論凡八章」あたりのことを言っているんでしょうか。末章の文句は,前のほうの章のそれぞれを受けて言っているのだから,それによって錯簡を 正すとでもいうんでしょうか。それとも骨空論の「水兪五十七穴者」云々をどこかへ持っていきたいという話でしょうか。どちらも「森立之的"錯簡試読法"」 なんていうほど大げさな話ではないような気がしますが。


夏の墓参と合宿の案内 投稿者 : 管理者 投稿日 : 2008/07/01(Tue) 13:00 No.14
平成20年度
 島田隆司先生のお墓参り
 日本内経医学会夏期合宿




8 月10日(日)
お墓参り
10:00      東武東上線 高坂駅 改札集合
10:20~11:00 島田先生墓参
11:30~12:30 昼食(場所未定)

合宿
        ★宿泊先 大栄館 へ移動 http://homepage3.nifty.com/taieikan/
          高坂駅→池袋→本郷三丁目駅(丸ノ内線)約1時間
         本郷三丁目駅下車 徒歩10分(東大正門左折)
          東京都文京区本郷6-10-12  TEL.03-3811-6226

14:00~17:00 勉強会
         笘ッテーマ:『黄帝内経』=『素問』+『霊枢』は信じられるか?
         信じる立場の説明 信じない立場の説明 そして侃々諤 々

18:00~     夕食
         夕食後 さらに侃々諤々

8月11日(月)
8:00      朝食
8:30      解散
       [1]直接解散
       [2]墓参後に解散(全行程歩行で移動)
         ①西日暮里:渋江抽斎の墓
         ②田端  :多紀一族の墓

※ 参加希望は事務局にメールするか,もしくは,日曜講座の際に直接申し出るかしてください。


Re: 夏の墓参と合宿の案内 - 事務局 2008/07/01(Tue) 23:38 No.15
詳しい案内は、近日中に発送いたします。締め切り日が設定されていますが、早めに申し 込んでください。始めて利用するところなので、自由がきくかどうかわかりませんので、締め切り厳守でおねがいいたします。

信じる立場からの説明 - 神麹斎 2008/07/04(Fri) 13:10 No.16
【還是可信的】=郭靄春主編『黄帝内經素問校注』後記(1991.6)に見える言い分
◎基本的に,晋の皇甫 謐や唐の王冰が言った『素問』+『針経』(あるいは『霊枢』)=『黄帝内経』は信ずるに足るとして,宋、元以後の長きにわたって受け継がれてきた。
● 明の胡應麟あるいは清の姚際恆の主張として:『漢志』に見えるのは『黄帝内経』であって,『黄帝素問』という名は『隋志』に初めて見える。『素問』+『霊 枢』=『黄帝内経』などというのは牽強付会の説に過ぎない。後人が『黄帝内経』の説を敷延して『素問』をつくったかどうか,そこまでは分からない。
○ 『素問』の名の初見は『隋志』ではなく,張仲景『傷寒雑病論』序である。しかも,漢代の人の篤実の風から考えて,張仲景が勝手に名づけたものではなかろ う。つまり,漢末以前に『素問』の名はすでに有った。
○劉向や班固以前にも,少なくともその内容は単独では行われていたはずで,そうした黄帝や岐 伯に関わる論文が,民間で整理されて『素問』とか『九巻』(あるいは『針経』)とすでに名づけられていたのに,劉向や班固の整理ではそれらの名を採用せず に『黄帝内経』と名づけたのかも知れないし,あるいは劉向や班固の整理以降に,誰かがあらためて整理してそれぞれを『素問』とか『九巻』(あるいは『針 経』)と名づけたのかも知れない。そもそも,『漢志』に見える書名がそもまま後世にも用いられたとは限らないし,もともといくつも名が有ったのに『漢志』 には一つしか採用されていないことも有る。
◎今となっては確かにそうだと言うにも,違うと言いきるにも,証拠が不足している。だから,劉向や班固 からあまり時を経ていないころの大学者である皇甫謐が唱えた説は「やはり信じるに足るものである」(否定するに足る証拠は無い)。



信じない立場からの説明 - 橘蔭軒 2008/07/04(Fri) 19:33 No.17
……また特に重要な点は、本書甲乙経が隋志では十巻とされており、それゆえ甲乙の名称 を付したものと考えられているのに、この序文中では、十二巻に作ったと明記されていることである。
 これには二通りの解釈ができる。その一は、元 来十巻と記してあったものを、後代梁以後十二巻本として伝わったものであるから、後に二の字を加えて十二と改変したとの考えである。また、その二は、この 皇甫謐の序文と称されるものは後代の偽文で、既にその当時十二巻本であったゆえ。元来が十巻本であったことを知らずに、この偽作者が十二巻と記したとも考 えられる。私には、この二つの考え方のいずれが正しいかを断定する資料がないため、確実なことは言えないが、どうもこの序文は、晋書で言う「皇甫謐字士 安、沈静寡欲、高尚之志あり、著述を以て務めと為す」人の作とするには、いささかお粗末すぎるようで、後人の偽作のよに思われてならない。(丸山昌朗『鍼 灸医学と古典の研究』創元社 昭和52年4月 p.335 鍼灸甲乙経和訓注解)


……漢代の「巻」は帛に書かれて一巻軸をなすも のを指すのであって、内容の多少を基準とするものではない。漢代の「巻」と「篇」の概念は同じであって、「巻」の中を分けて「篇」と言うのではない。…… 『方技略』に載せる『黄帝内経』十八巻、『外経』三十七巻は、実際には『黄帝内経』十八篇、『外経』三十七篇であると考えることができる。……(『内経霊 素考』中国中医薬出版社1992年)


信じる立場か らの説明② - 神麹斎 2008/07/04(Fri) 21:37 No.18
【不得謂之無据】=張燦邇セ『黄帝内経文献研究』(2005.1)に見える言い分
●皇甫謐の説には結局のとこ ろ大した証拠は無い。
○余嘉錫の『四庫提要弁証』の意見に従えば,『漢志』に見える名が失われ,後には別の名で表れるというようなことは,有りが ちなことであって,後代の目録に書名が無いからと言って,皇甫謐の説に根拠が無いなどとするのは,おそらくは正しくない。
●篇と巻はもともと同じ ことであって,『漢志』の十八巻はすなわち十八篇であって,今日の『素問』『霊枢』おのおの八十一篇を包含できるものではない。また,その字数からいって もそれほどの巨著は当時まだ有り得なかったはずである。
○篇と巻は同じというのは,確かに多くはそうであるが,実際には状況はもう少し複雑で,巻 の下に篇が有るというのも皆無ではない。例えば六芸略書類に「爾雅三巻二十篇」とある。また諸子略道家類に「太公二百三十七篇」などという巨著も有る。
● 『漢志』に著録する『黄帝内経』には,それに含まれる別題を言わない。
○『漢志』に著録する書名は,様々であって,大部分は一級の題名だけである が,それに含まれる二級あるいは三級の題名が書いてある場合も有る。例えば諸子略儒家類に「劉向所序六十七篇 新序、説苑、列女伝頌図也」とある。「太公 二百三十七篇」の下にも「謀」「言」「兵」といった二級の題名が有る。(『黄帝内経』にも,『素問』とか『九巻』とかいう二級の題名が有ったのに書いてな いという可能性は有る。)
●『甲乙』という書名は十干に基づいているであろうに,現行本は十二巻であり,後に改編された結果である可能性が有る。 十二巻にまとめたと言う皇甫謐序はそもそも疑わしい。
○『甲乙』だからと言って十巻であるとは限らない。十一巻目を子,十二巻目を丑とした例は有 る。例えば『新修本草』鉄精の下に鉄落なるものがあり,「『甲乙』子巻陽厥条言之」と言う。今の『甲乙』の巻十一に確かに「生鉄落飲」が出てくる。またそ もそも,「甲乙」はただ「編次」の意味という場合も有る。
○『隋志』に『黄帝甲乙経』十巻とあり,注に「音一巻,梁十二巻」とあるが,唐以降はみ な十二巻本である。『旧唐書』経籍志に十三巻と言うのは音一巻を合わせて言う。(そもそも『隋志』の評価はあまり高くはないらしい。)
◎……以上 に引いた『漢志』に著録された諸書に拠れば,巻篇の関係,大小の題名,著録内容および方式の問題に関して,状況には相当に複雑なものがあり,とても一概に 論ずることなどはできない。だから,もし一種の模式を以て『漢志』著録の准則となし,さらにはそれを以て今存するところの『素問』『霊枢』(即ち古の『九 巻』あるいは『針経』)と『黄帝内経』の関係を否定するのは,なお拠り所とはしがたいようである。だから別に確かな証拠が出ないからには,やはり皇甫謐の 説に従っておくのも,あながち根拠が無いとは言いがたい。当然,皇甫謐のこの説を遵守すると言っても,それは今存するところの『素問』『霊枢』が部分的に 散亡と後人の整復を経ていて,後世増補の内容が有ることを避けがたい,ということを否定するものではない。それもまた古籍の一般的な規律に完全に符合する ことである。



Re: 夏の墓参と合宿の案内 - 編集部 2008/07/07(Mon) 00:16 No.19
7月2日に発送しました「案内」の日程には、
8月9日(日)と8月10日(月)とありましたが、
8月 10日(日)と8月11日(月)の誤りです。
ここに、訂正とお詫びを申し上げます。


初学者の知識 - 2008/07/15(Tue) 03:09 No.26
初級クラスで、合宿シンポジウムのテーマについてどのぐらいの知識があるか、挙手をしてもらい人数を調査してみまし た。

 1)『黄帝内経』が『素問+霊枢』とすることに、懐疑的意見が
   あることをすでに知っていた人。    初級19人 中、5人
 2)『漢書』藝文志を読んだことがある人。 初級19人中、0人
 3)『甲乙経』序を読んだことがある人。  初級19人中、 1人

初学者たちにも興味が湧くシンポジウムになるよう、参考にしてください。


こんなもんでしょう - 神麹斎 2008/07/15(Tue) 21:33 No.27
『黄帝内経』=『素問』+『霊枢』? 『甲乙経』序に書いてあるから信じる人も,先 生に言われたから疑う人も,疑うことを知らなかった人も,ホントは五十歩百歩です。

次の質問:
4)推理小説やクイズは好きです か? 

内経会員に推理好きは増やしたい! むかし,原塾の頃に,井上先生が冗談で,古典なんか勉強し始めると性格が悪くなる,と言ってま した。ものごとを疑いの目で見るようになるということです。でも,推理小説を読むのもクイズを解くのもそうでしょう。多分,臨床だってそうだと思う。


廖育群『岐黄医道』 - 神麹斎 2008/08/08(Fri) 15:27 No.54
張燦邇セ『黄帝内経文献研究』で,「篇と巻はもともと同じことである」とか,「『漢志』 に著録する『黄帝内経』には,それに含まれる別題を言わない」とか言う説が有ると紹介したうえで,それぞれ反論しているのは,おそらくは廖育群『岐黄医 道』第三章 今本『黄帝内経』ー『素問』与『霊枢』 を念頭に置いてのものだろうと思われます。

送戴原禮還浦陽序 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/08/08(Fri) 03:45 No.52
『四庫全書』本  文憲集卷八
送戴原禮還浦陽序 (戴原禮の浦陽に還るを送る序)
醫之為道,至矣! (醫の道為〔タ〕るや,至れり。)故『周官』有疾醫。(故に『周官』に疾醫有り。)視萬民四時之病。(萬民四時の病を視る。)春之逞沁C夏之痒疥,秋之瘧 寒,冬之嗽谺ャ二氣,皆分而治之。(「二」,全集作「上」。『周禮』作「冬時有嗽上氣疾」。//春の逞沁C夏の痒疥,秋の瘧寒,冬の嗽谺ャ上氣,皆な分かちて 之れを治す。)驗其迢€而制其禄,甚為不輕也。(其の迢€を驗して其の禄を制すること,甚だ輕からずと為すなり。)後世官蟇鮪ク職。(後世,官蟇磨kヨウヤ/次第 に〕く職を失す。)故於其術豈傷「之不精。(故に其の術に於いて豈潤kツネ〕に之れを擇〔エラ〕ぶこと精〔クワシ〕からず。)有人於此能合於古者之道,豈不猶 空谷足音之可喜者乎?(此に於いて人有り,能く古者〔イニシエ〕の道に合すれば,豈に猶お空谷の足音の喜ぶべき者のごときにあらずや?//空谷の足(跫) 音:人気のない谷で,人の足音を聞くこと。予期せぬ慶事のたとえ。)如吾同縣戴原禮氏是已。(吾が同縣,戴原禮氏の如きは是れのみ。)原禮生儒家,習聞詩 禮之訓,惓惓有志於澤物。(原禮,儒家に生れ,詩禮の訓を習い聞き,惓惓(ケンケン/まごころをこめて)として物を澤〔ウルオ〕すに志有り。)乃徒豁・至烏 傷,從朱先生彦脩學。(乃ち徒歩して烏傷に至り,朱先生彦脩に從いて學ぶ。)先生見其頴悟倍常,傾心授之。(先生,其の頴悟なること常に倍するを見て,心 を傾けて之れに授く。)原禮自是識日廣,學日篤。(原禮,是れ自り識〔シ〕ること日々に廣く,學ぶこと日々に篤し。)出而治疾,往往多竒驗。(出でて疾を 治すれば,往往にして多く竒驗あり。)予請得而詳道之。(予請う,得て詳しく之れを道〔イ〕わんことを。)
原禮從叔仲章,六月患大熱。(原禮の從 叔〔父の同姓のいとこで父より年少の者〕,仲章,六月に大熱を患う。)面赤口譫語,身發紅斑。(面〔オモ〕赤く,口に譫語し,身に紅斑を發す。)他醫投以 大承氣湯而熱愈極。(他醫,投ずるに大承氣湯を以てし,而して熱,愈いよ極まる。)原禮脉之。(原禮,之れを脉す。)曰:「左右手皆浮虚無力,非真熱 也。(左右の手,皆な浮,虚にして力無し。真熱に非ざるなり。)張子和云當解表而勿攻裏。(張子和云う,當に表を解して裏を攻むる勿れ,と。//『儒門事 親』卷14辨十二經水火分治法「當解表時莫攻裏」。)此證似之,法當汗。」(此の證,之れに似る。〔カクノゴトシ。〕法として當に汗すべし。」)遂用附 子、莠∝G、人參、白譛ッ為劑。(遂に附子・莠∝G・人參・白譛ッを用いて劑を為〔ツク〕る。)烹液冷飲之,大汗而愈。(液を烹て,冷して之れを飲ましむ。大汗し て愈ゆ。)
讚ァ讒ゥ方氏子婦瘧後多汗。(讚ァ讒ゥの方氏の子婦〔息子の嫁〕,瘧後,汗多し。//「讚ァ讒ゥ」,全集同じ。『古今図書集成』醫部全録卷511戴 思恭作「諸曁」。「贈醫師周漢卿序」讚ァ讒ゥ注を参照。)呼蟐オ人易衣,不至。(蟐オ人〔ヨウジン/嫁入りに付きそう下女。妾。〕を呼びて衣を易えしむるも,至 らず。)怒形於色,遂昏厥若死迢€。(怒り色に形〔アラワ〕れ,遂に昏厥して死状の若し。)灌以蘇合香圓而蘇。(灌ぐに蘇合香圓を以て蘇る。/蘇合香圓:太 平恵民和剤局方)自後聞人豁・之重,鷄犬之聲,輒厥逆如初。(自後〔ソレカラノチ〕人歩の重き,鷄犬の聲を聞けば,輒ち厥逆すること初の如し。)原禮曰: 「脉虚甚,重取則散。(原禮曰く:「脉,虚すること甚だし。重く取れば則ち散ず。)是謂汗多亡陽。正合經意。」(是れを汗多ければ陽を亡〔ウシナ〕うと謂 う。正に經意に合す。」/汗多亡陽:『傷寒論』太陽中篇。)以鮟・結、人参日補之,其驚漸減,至浹旬而安。(鮟・結・人参を以て日々に之れを補えば,其の驚, 漸く減じ,浹旬〔ショウジュン/十日間〕に至りて安んず。)
松江諸仲文,長夏畏寒。(松江の諸仲文,長夏にも寒を畏る。)身常挟重纊。(身,常 に纊〔ワタ〕を挾〔ハサ/身に付ける〕み重〔カサ〕ぬ。/挾纊=暖。寒さを忘れるをいう。)食飲必熱如火。(食飲は必ず熱すること火の如し。)方下咽罐イ温 則嘔。(方に咽に下さんとするも微温なれば〔温〔ヌクモリ〕微〔ナ〕かりせば〕則ち嘔く。)他醫授以胡椒煮伏雌之法。(他醫は胡椒を以て伏雌〔フクシ/母 ニワトリ〕を煮るの法を授く。)日啖髮梹メ三,病逾亟。(日々に髮桙V〔クラ〕うこと三たび,病い逾いよ亟〔スミ〕やかなり。//亟,ケワシ/ハゲシ。) 原禮曰:「脉數而大,且不弱。(原禮曰く:「脉數〔サク〕にして大,且つ弱からず。)劉守真云,火極似水,此之謂矣。(劉守真云う,火極まれば水に似る, と。此れを之れ謂うなり。/火極似水:『素問病機氣宜保命集』)椒發陰經之火,髮梍\助痰,祗以益其病爾。」(椒は陰經の火を發し,髮桙ヘ能く痰を助け,祗 〔タ〕だ以て其の病に益〔エキ〕あるのみ。」)以大承氣湯下之。(大承氣湯を以て之れを下す。)晝夜行二十餘,頓減纊之半。(晝夜〔トイレに〕行くこと二 十餘,頓〔トミ〕に纊の半ばを減ず。)復以黄連導痰湯益竹瀝飲之,竟逖ウ。(復た黄連導痰湯を以て竹瀝を益して之れを飲ましめ,竟に逖ウゆ。)
姑蘇朱 子明之婦,病長號數十聲,暫止復如前。(姑蘇の朱子明の婦,病みて,長く號〔サケ〕ぶこと數十聲,暫く止むも復た前の如し。/姑蘇:浙江省蘇州市の西郊 外。張継『楓橋夜泊』「姑蘇城外寒山寺」。)人以為厲所憑,莫能療。(人,以為〔オモエ〕らく,厲〔レイ/悪霊〕の憑〔ツ〕く所にして,療する能うこと莫 らん,と。)原禮曰:「此鬱病也。痰閉於上,火鬱於下。(原禮曰く:「此れ鬱病なり。痰,上を閉ざし,火,下に鬱〔フサ〕がる。)故長號則氣少舒。(故に 長く號べば,則ち氣,少しく舒〔ノ〕ぶ。)經云,火鬱則發之,是已。(經に云う,火鬱〔フサ〕がるるときは,則ち之れを發す,と。是れのみ。/火鬱則發 之:『素問』六元正紀大論(71))遂用重劑涌之。(遂に重劑を用いて之れを涌〔ハ〕かしむ。)吐痰如膠者無遲ュ,乃復初。(痰の膠の如き者を吐くこと,遲ュ 〔カゾ〕うること無し。乃ち初に復す。)
樂原忠妻,亦蘇人。(樂原忠の妻も,亦た蘇の人なり。)因免乳後病驚,身翩翩然如升浮雲之上。(免乳 〔出産〕後,驚を病むに因りて,身,翩翩然〔ヘンペンゼン/フワフワ〕として浮雲の上に升るが如し。)舉目則室廬旋運,持身弗定。(目を舉げれば則ち 室廬,旋運〔グルグル回り〕して,身を持すること定まらず。)他醫飲以補虚治驚,皆無驗。(他醫は飲ましむるに虚を補するを以て驚を治せんとするも, 皆な驗無し。)原禮曰:「左脉雖闃、且澁,神色不動。(原禮曰く:「左脉,闃、にして且つ澁と雖も,神色,動ぜず。)是因驚致心包絡積汚血爾。(是れ驚に因り て心包絡,汚血を積むを致すのみ。)法宜下之。(法として宜しく之れを下すべし。)」下積血如漆者一斗,即愈。(積血の漆の如き者を下すこと一斗にして, 即ち愈ゆ。)
留守衛吏陸仲容之内子病熱。(留守〔官名/行政長官〕の衛吏の陸仲容の内子〔正妻〕,熱を病む。)妄見神鬼,手足迸、動。(妄りに神鬼 を見て,手足迸、動〔痙攣〕す。)他醫用黄連清心湯,不中。(他醫,黄連清心湯を用いるも,中らず。)原禮視之,曰:「形逖ヲ而色不澤,乃虚熱耳。(原禮,之 れを視て,曰く:「形逖ヲせて色,澤〔ウルオ〕わず。乃ち虚熱のみ。)法當以李杲甘温除大熱之法為治。(法として當に李杲の甘温もて大熱を除くの法を以て治 を為すべし。/『内外傷辨惑論』「甘寒以瀉其火則愈,蜈ァ經曰:勞者貅ォ之,損者貅ォ之,蓋貅ォ能除大熱」「白朮苦甘貅ォ,除胃中熱」。)即經所謂損者温之者 也。(即ち經に謂う所の損する者は之れを温むる者なり。/經=『素問』至真要大論(74)。)服人参、黄闌去ァ安。(人参・黄闌汲桙オて安んず。)
他 若此者甚衆。(他,此〔カク〕の若き者,甚だ衆〔オオ〕し。)予備聞賢士大夫恒言之。(予,備〔ツブサ〕に賢士大夫,恒に之れを言うを聞く。)今不能悉 數也。(今,悉くは數うること能わざるなり。)嗚呼!(ああ!)有人如此,可不謂之合於古道者乎?(人の此の如きこと有れば,之れを古き道に合する者と謂 わざるべけんや?)
夫醫之為道,本於『素問内經』。(夫れ醫の道為〔タ〕るや,『素問内經』に本づく。)其學一壞於開元,再壞於大觀。(其の學は 一たび開元に壞れ,再び大觀に壞る。/開元:唐の玄宗の年号。)習俗相仍,絶不知究其微指。(習俗相仍りて,絶えて其の微指を究むることを知らず。/微 指:微旨。奥深く窺い知りがたい内容。)唯執一定之方,類刻舟而求劍者。(唯だ一定の方を執るのみにして,舟に刻みて劍を求むる者に類す。/刻舟而求劍: 『呂氏春秋』察今。時勢の移り変わるのを知らないで,昔通りのやり方にこだわり続ける愚かさにたとえる。)人險セ之,則曰:「我之用此,不翅足矣。(人,之 れを險セ〔ソシ〕れば,則ち〔反論して〕曰く:「我の此れを用いて,翅〔タ〕だ足れりとせざらんや。)又惡事『内經』為?」(又た惡〔イズ〕くんぞ『内 經』を事とするを為さん?」)宋之錢仲陽獨得其秘於遺經而擴充之。(宋の錢仲陽,獨り其の秘を遺經に得て之れを擴充す。)金之張、劉、李諸家,又從而衍繹 之。(金の張・劉・李の諸家,又た從いて之れを衍繹す。)於是『内經』之學大明。(是〔ココ〕に於いて『内經』の學,大いに明らけし。)劉之學,朱先生得 之最深,(劉〔完素〕の學,朱〔丹渓〕先生,之れを得ること最も深し。)大江以南,醫之道本於『内經』,實自先生發之。(大江〔長江〕以南,醫の道の『内 經』に本づくは,實に先生自り之れを發す。)原禮乃其髙第弟子。(原禮は乃ち其の高第〔優秀な〕の弟子なり。/髙第弟子:醫部全録作「高弟」。)其用心也 篤,故造理為特精。(其の心を用いるや篤し。故に理に造〔イタ〕ること特に精と為す。)其傳授有要,故察證無不中。(其の傳授に要有り。故に證を察して中 らざること無し。)亦可賢也已矣。(「可」,全集・醫部全録作「可謂」。/亦た賢なりと謂うべきのみ。)近來京師薦紳之家,無不敬愛之。(近來,京師の薦 紳〔シンシン/縉紳。高位高官〕の家,之れを敬愛せざること無し。)服其劑者,豐蚊}豁然如洗。(其の劑を服する者は,沈痾,豁然〔スッキリ〕として洗うが 如し。/豐蚊}=沈逍エチンア。長患い・重病・難病。)或欲薦為醫官,辭不就。(或るひと薦めて醫官と為さんと欲すれども,辭して就〔ツ〕かず。)遂賦詩以餞 其東還,且請予為序。(遂に詩を賦〔ツク〕りて,以て其の東に還るに餞〔オク〕り,且つ請いて予に序を為〔ツク〕らしむ。)
昔者司馬遷作『倉公 傳』,載其應詔所對。(昔者〔ムカシ〕,司馬遷,『倉公傳』を作り,其の詔に應じて對〔コタ〕うる所を載す。/『史記』倉公伝「意家居,詔召問所爲治病, 死生驗者幾何人?主名爲誰?詔問故太倉長臣意,方伎所長,及所能治病者,有其書無有?皆安受學,受學幾何歳,嘗有所驗,何縣里人也?何病?醫藥已其病之 状,皆何如?具悉而對」。)自齊御史成至公乘項處,凡二十有三。(齊の御史成自〔ヨ〕り,公乘項處に至るまで,凡て二十有三。)書治病之状甚具。(治病の 状を書くこと甚だ具〔ソナ〕わる。)予倣此義,稍陳原禮療疾奇中者。(予,此の義に倣〔ナラ〕いて,稍〔イササ〕か原禮の疾を療して奇中〔スグレテアタ ル〕する者を陳ぶ。)繋之首簡,并告『周官』疾醫四時治證之讒ゥ。(之れを首簡に繋〔ツナ〕げ,并せて『周官』疾醫四時治證の概〔アラマ〕しを告ぐ。)世之 知言君子,必有所擇焉。(世の言を知る君子には,必ず擇〔エラ〕ぶ所有らん。/知言:人のことばをきいて,真意を理解することに秀でたさま。『論語』堯 曰。)原禮之從父能軒翁,予之同志友也。(原禮の從父〔オジ〕,能軒翁,予の同志の友なり。)幸以予言質之。(幸〔ネガ〕わくは予が言を以て之れに質 〔タダ〕せ。)


※附録『明史』列傳第一百八十七 方伎
戴思恭,字原禮,浦江人,以字行。受學於義烏朱震亨。震亨師金華 許謙,得朱子之傳,又學醫於宋蜈ァ侍錢塘羅知悌。知悌得之荊山浮屠,浮屠則河間劉守真門人也。震亨醫學大行,時稱為丹溪先生。愛思恭才敏,盡以醫術授之。
洪 武中,蠕オ為御醫,所療治立效,太祖愛重之。燕王患逖普C太祖遣思恭往治,見他醫所用藥良是,念何以不效,乃問王何嗜。曰:「嗜生芹。」思恭曰:「得之矣。」 投一劑,夜暴下,皆細蝗也。晉王疾,思恭療之愈。已,復發,即卒。太祖怒,逮治王府諸醫。思恭從容進曰:「臣前奉命視王疾,蝠汢、曰:『今即愈,但毒在膏 肓,恐復作不可療也。』今果然矣。」諸醫由是免死。思恭時已老,風雨輒免朝,太祖不豫,少間,出御右順門,治諸醫侍疾無迢€者,獨慰思恭曰:「汝仁義人也, 毋恐。」已而太祖崩,太孫嗣位,罪諸醫,獨擢思恭太醫院使。
永樂初,以年老乞歸。三年夏,復蠕オ入,免其拜,特召乃進見。其年冬,復乞骸骨,遣官護 送,賚金幣,踰月而卒,年八十有二,遣行人致祭。所著有證治要訣、證治類元、類證用藥諸書,皆讙リ∫O溪之旨。又訂正丹溪金匱閭′コ三卷,附以己意。人謂無愧 其師云。

http://big5.itcmedu.com/yls/mjsh_22.html
中華中医薬教育在 線(綫)=⇒名家史話=⇒戴思恭
戴思恭,字原禮,號螟壕チ,生于元窶ァ泰定元年(公元1324年),卒于明窶ァ永樂三年(公元1405年),浦江(今浙 江浦江)人。是我國明代著名醫學家。
   戴思恭家傳學儒,并數世業醫。据《浦陽建溪戴氏宗譜》記載,自第14世行醫始。戴思恭為第18世,除第16世無人行醫外,第15世、17世均有人業醫, 父戴士堯是文學家戴良之兄,早年棄儒學醫;弟思貅ォ,字原植,號益齋,亦以醫名。戴思恭從小就深受家庭環境影響,博學廣納,勤奮向上。元至正三年 (1343),戴思恭与弟思貅ォ隨其父徒豁・到義烏,一同拜在金元時期著名醫家朱震亨(字丹溪)門下,當時受業于朱門的弟子有很多,由于戴思恭穎悟邨風マ,刻苦 好學,所以最受朱氏的賞識,得到的傳授最為精深。其父不幸早卒,其后戴思恭學成回驗堰C以其高明的醫術聞名于江浙一帶。戴氏還從羅知悌學過醫。
   明朝洪武年間,戴思恭被征為正八品御醫,授迪功郎,由于他的療效特別好,所以明太祖朱元璋非常看重他。洪武三十一年(公元1398年)五月,朱元璋得病 而久治不愈,下令逮捕醫官,唯獨慰勉戴思恭隱ェ:“菴黴€是仁義人,不要怕。”仍重用他。不久,明太祖病逝,建文帝即位,將諸侍醫治罪,獨提升戴氏為太醫院史。 到永樂初年(公元1403年)以老辭歸驗於「。三年后再次被征召入朝,因他与當時的皇帝朱棣有舊交,并為他治愈過寄生虫病,所以免去了他的跪拜禮,年底又告 老還驗堰C十天后病逝,享年八十二豁イ,葬于浦江獨秀山。戴氏一生尊重丹溪,去世前,“猶不忘祭奠先師之墓”。
  与戴思恭同驗遠ッ時代的宋濂的《宋 學士文集窶ァ翰苑續集》中,有多則其醫案記載。
   戴思恭的叔叔戴仲帝六月患大熱,面色發紅口中隱ェ胡話,身上發紅斑,其他醫生投以通腑攻里的瀉下劑大承气湯,而身熱更高了。思恭診其脈后隱ェ:“左右手脈都 陌尓vウ力,不是真熱,張子和隱ェ過‘當解表而勿攻里’,此証与之相似,須用發汗的方法。”便用附子、干姜、人參、白術等做為方劑,放置稍涼后喝下,出一身大 汗而痊愈。
  松江有一個叫朱仲文的,秋季非常怕冷,常穿多重絲棉衣保暖,飲食必須熱得如開水才能咽下。否則,即使是吃微 熱的東西也要吐出來。其他醫生都辨其証為“脾胃陌寢ヲ”而授以“胡椒煮伏雌法”,豈藷匤h髮梹O只以貅ォ養脾胃,但經一段時間的治療后,其病情不見減輕反而加重, 戴思恭診其脈后隱ェ:“他的脈數而大,且不陌寰縺C劉完素隱ェ過:‘火譫℃乱・f,就是這個道理,胡椒發陰經之火,難能助痰,只會加重他的病情,于是用大承气湯瀉 之,日夜瀉二十余次,棉衣減半,再以鮟・A導痰湯加竹瀝調服而痊愈。
  以上兩案中都提出到了大承气湯,這是個通腑攻里的瀉 下峻劑,用于治療因陽明腑實所致的發熱、大便不通、腹痛、腹脹為主症的病証,醫案一中患者雖表現為陽明腑實之証,但戴思恭診其脈后認為患者的左右手脈都陌鬯€ 浮無力,不是陽明腑實的實脈,而似張子和所隱ェ的“表証”,于是投以附子、干姜等大熱藥而熱息病愈。案二中患者表現為一派脾胃陽陌對V証,但戴氏診其脈后認為 他的証候并非陽陌宦C而是陽熱到了譫・y而格陰于外,故表現為陽陌實A盛的征象,而治以大承气湯峻下并用導痰劑善后而愈。兩案中一似大承气湯証而反用一派大熱 藥,而蜿ヲ一似脾腎陽陌寶リ而用大承气湯,從中可以看出其荳ー富的臨床經驗和精深的醫術了。
  戴氏曾為蘇州朱子明的妻子治病,該婦常常長聲喊叫數十 聲,反螟冴「作,人們都認為是厲鬼附身所致,戴氏診其脈察其証后,認為是痰閉于上火郁而發,于是投以峻烈的涌吐劑,吐出了許多膠粘痰涎而愈。
  又 治留守衛吏陸某患病發燒,幻視見鬼神,手足掣動,其他醫生予鮟・A清心湯無效,遂邀戴思恭診治,他隱ェ:“這位患者形神疲憊而且面色無光澤,并非實熱,而是陌鬯€ 熱之象,當宗李杲的甘貅ォ除大熱之法,即是《蜈ァ經》中所隱ェ的‘損者貅ォ之’之法。”投以參 等甘貅ォ之劑而轉危為安。
   上述四例均屬奇難病症,戴思恭在了解別的大夫治療方法的基礎上,認真地診察病人,掌握病情,特別是四案中有三案都特別提出到了脈象,脈症合參,辨証精 當,大膽投藥,無不應手奏效,其醫術可見一斑,更為難能可貴的是,他雖然對朱丹溪的心法參悟最深,但也善于靈活運用河間、子和、東垣之長而不拘泥于一家之 言,所以其醫名更甚。
  浦江宋濂學士,于《宋學士文集窶ァ翰苑續集》中撰文稱贊戴氏醫術高妙,非一般醫生可及,文中認為: 祖國醫藥學源于《蜈ァ經》,以后直到宋代錢仲陽才發展了中醫理論,中醫學的再一次大發展是金元時代的張子和、劉完素、李杲諸家努力的結果。朱丹溪之學得之于 劉完素,朱丹溪再傳于戴原禮,長江以南的醫學從戴氏始本于《蜈ァ經》。從中可以看出戴思恭當時的醫名。
  戴氏的著作有《証治要訣》十二卷;《証 治要訣類方》四卷;《推求師意》二卷;以及校補《金匱鉤玄》三卷。
   戴氏的醫學見解,主要是闡發其師朱丹溪的主張,他在丹溪學術思想指導下,往往能透過師承而加以發揮。丹溪隱ェ,“气有余便是火”,戴氏補充隱ェ:“气屬陽, 動作火”。并稱“捍衛衝和不息之謂气,謇ー亂妄動變常之謂火”。丹溪謂:“人身諸病,多生于郁”。戴氏引申后,對六郁辨証及治法,都很精審。指出傳化失常是 致郁關鍵,在郁証中又以中焦致郁居多,深化了丹溪六郁之隱ェ。戴氏對劉完素、張子和、李東垣諸家隱ェ,菫ア深入鑽研,擇善而從,不拘一家,無門謌カ之見。
   戴氏承丹溪之學而最得其傳,對丹溪未竟之論予以補充、發揮,不愧為丹溪高足。其學術思想主要在于對气、血、痰、郁四者的論述。戴氏治病,能憑脈辨証,譫閼€ 為精遑ョ,處方用藥,也譫∴ラ高超。不愧為一“學純粹而識深遠”的醫學大家。
  戴思恭傳授弟子蜷ウ中王仲光,仲光曾孫觀亦精醫。

Re: 送戴原禮還浦陽序 - 古株 2008/08/08(Fri) 08:25 No.53
 内経を冠する会に所属するものとして、「医の道は内経に基づく」と言われるのは嬉し いわけだけど、「左右の手、皆な浮、虚にして力無し。真熱に非ざるなり」とか、「脈、虚すること甚だし。重く取れば則ち散ず。是れを汗多ければ陽を亡うと 謂う」とか、「脈数にして大、且つ弱からず」は火極まって水に似たのだとか、「左脈、闃、にして且つ渋と雖も、神色、動ぜず。是れ驚に因りて心包絡、汚血を 積むを致すのみ。法として宜しく之れを下すべし」とか、そんなのどこに書いてあるんですか。
 「此れ鬱病なり。痰、上を閉ざし、火、下に鬱がる。 故に長く号べば、則ち気、少しく舒ぶ」の項で、経に「火鬱則發発之」と云うのは、『素問』六元正紀大論だそうだけど。「形痩せて色、沢わず。乃ち虚熱の み」の「法として」云々は、『素問』至真要大論のことらしいけど。


留意事項 投稿者 : 管理者 投稿日 : 2008/08/02(Sat) 09:10 No.51
この掲示板の「留意事項」、5「記事には、半角カナは一切使用しないで下さい。文字化けの原因となります。」と7「記 事の保持件数は最大 100件です。それを超えると古い順に自動削除されます。 」に、ご留意ください。
半角カナで、文字化けは発生してないよう ですが、発生した場合に管理者には対処する能力は有りません。
古い記事は自動的に削除されますから、資料の保存場所には適していません。したがっ て闖薗|氏の貼り込みは、閲覧者の返信を期待してのものだと理解しています。どんどんイチャモンをつけてあげてください。
実際には過去記事の保存の 手立ては考えています。考えてはいますが、上手くいくかどうかは分かりません。本来、管理者の能力を超えています。

贈鄭院判序 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/30(Wed) 22:53 No.48
『四庫全書』文憲集卷九
贈鄭院判序
有其術而無所於用,蛟シ可用之機,而人不能任之。(其の術有れど も,而も用いるに所無く,用うべきの機に値〔ア〕うとも,而も人,之れに任〔マカ〕すこと能わず。)欲望其以有成者,百家之所難也。(其の以て成ること有 らんことを望まんと欲する者は,百家の難ずる【難しとする?】所なり。)惟醫為甚。(惟〔オモ〕うに醫を甚だしと為す。)扁鵲、華佗,天下固不常有 也。(扁鵲と華佗は天下に固より常には有らざるなり。)使有之而蛟シ淺易之疾,遇難語之人,上之不足展吾術,次之不能從吾所欲。(使〔モ〕し之れ有りて,而 して淺易の疾に値うとも,難語の人に遇えば,上は【上之〔モチイ〕れば】吾が術を展ぶるに足らず,次は【次之〔モチイ〕れば】吾が欲する所に從う能わ ず。)為法宜鍼,而責我以遐ュ,法宜實,而命我以虚(為に法として宜しく鍼すべくも,而かも我を責めて遐ュを以〔モチ〕いせしめ,法は宜しく實すべくも,而か も我に命じて虚を以〔モチ〕いせしむ。):乖逆(全集作「霑普v)拘執,卒之與恒醫無異。(乖逆拘執して,卒〔ツイ〕に之れ【之れを卒〔オエ〕れば】恒醫と 異なること無し。)是豈醫之罪哉,勢使然也!(是れ豈に醫の罪ならんや。勢い然らしむるなり!)誠有善任人者,惟吾所用而不較,期以成效,(誠に善く人に 任す者有り。惟だ吾が用いる所に較べず,以て效を成すを期するのみ。)而不泥於私謀,人人皆可得而勉矣!(而して私謀に泥〔ナズ〕まざれば,人人皆な得 て勉むべきなり!)故疾有死於過愛,而生於達理。(故に疾に過愛に死して,而して達理に生くること有り。)過愛者,恐其危而不肯任人(過愛する者は,其の 危きを恐れて,而して人に任すを肯んぜず。);達理者,知非己之所能為,則信人而求其成效。(理に達する者は,己の能く為す所を非として,則ち人を信じ て,而して其の效を成すを求むることを知る。)其達者,乃所以生之,而愛乃所以殺之也。(其れ達する者〔コト〕は,乃ち之れを生す所以,而して愛するは, 乃ち之れを殺す所以なり。)
若福建承宣布政使陳君彦銘,其達理者與!(福建承宣布政使,陳君彦銘が若きは,其れ達理なる者か!)陳君之妻免身,得 寒疾,羸弱已甚。(陳君の妻,免身〔分娩〕して,寒疾を得,羸弱すること已甚〔ハナハダ〕し。//「已」ハナハダ。『論語』)蠕オ太醫院判官鄭君某藥 之。(太醫院判官の鄭君某を徴して之れに藥せしむ。)鄭君請曰:「愈否在吾,幸無撓我。」(鄭君請いて曰く:「愈ゆるか否かは吾に在り。幸〔ネガ〕わく は我を撓〔ドウ・妨害〕すること無かれ。」)陳君許諾。(陳君,許諾す。)鄭君乃視脈所宜,集藥之良而療之。(鄭君乃ち脈の宜しき所を視,藥の良きもの を集めて,而して之れを療す。)或謂藥性與疾謌セ,以語懾陳君。(或るひと,藥性,疾〔ヤマイ〕と謌セ〔モト〕ると謂〔オモ〕い,語を以て陳君を懾〔オド〕 す。)君不聽,任之不變。(君,聽かず。之れに任せて變えず。)已而果愈。(已にして果して愈ゆ。)陳君出金帛,謝之。(陳君,金帛を出だして,之れに謝 す。)鄭君辭曰:「子善任我故爾。(鄭君,辭して曰く:「子,善く我に任すが故〔ユエ〕のみ。)使子不我任,而自用,雖欲愈,可得耶?(使〔モ〕し子,我 に任せず,而して自ら用いて,愈えんことを欲すと雖も,得べけんや?)且金帛非所欲。(且つ金帛は欲する所に非ず。)子嘗善太史宋公。(子,嘗て太史宋公 に善くす〔親交アリ〕。)得其文逡€我足矣。(其の文を得て我に逡€〔アタ〕えば足りなん。)」陳君以其言告。(陳君,其の言を以て告ぐ。)
余謂陳君 之善任人,鄭君之不伐其事,皆可稱,且類古之為治者。(余謂えらく陳君の善く人に任し,鄭君の其の事を伐〔ホコ〕らざるは,皆な稱すべく,且つ古の治を為 す者に類すべし。),蕭、曹、房、杜,雖為俊傑之士,使其時不善任之,黎庶何以享隆平之澤,而其名聲事業何以埀至于今乎!(蕭、曹〔曹操?〕、房〔房玄 齢?〕、杜〔杜如晦?〕,俊傑の士為〔タ〕りと雖も,使〔モ〕し其の時善く之れに任せずんば,黎庶〔民衆〕何も以てか隆平〔太平〕の澤を享け,而して其の 名聲、事業何を以てか垂〔タ/後世に伝える〕れて今に至らんや!)然則二君之事,取蝟サ則遠矣。(然れば則ち二君の事,蝟サを取れば則ち遠し。)序而傳之,豈 特可為任醫者之勸乎!(序して之れを傳う。豈に特〔タダ〕に醫に任す者の勸めと為すべきのみならんや!)

蕭曹房杜 - 神麹斎 2008/07/31(Thu) 17:22 No.49
朱子語類・本朝七・盜賊に「偽官を置き,日に蕭曹房杜を以て自ら相い標置し,漢祖と唐宗 を以てその功德を頌す」とあります。漢祖は漢の高祖,したがって蕭曹はその相将である蕭何と曹参,唐宗は唐の太宗,したがって房杜はその謀臣である房玄齢 と杜如晦でしょう。

扁鵲、華佗に遇えない場合は - 七面道人 2008/08/02(Sat) 08:23 No.50
思うにこの話は、扁鵲、華佗 と雖も、患者が信頼して任せてくれなければ、腕のふるいようがない、というのが言いたいことだろう。けれども、もし信頼して任せたのが庸医であったらどう いうことになるのか。
常識的に言えば、見分ける眼力がなかった不明、名医に遇えなかった不運ということなんだろう。この文章もたぶんそのつもりで ある。けれども真実は、案外それだけではないかも知れない。どんな医者でもいいから、とにかく身を委ね任せきる、終始一貫して同じ方針に従う。
庸 医に任せきったほうが、名医と言われる人を、あれかこれかと迷うよりはマシかも知れない。


以瀉其衛 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/28(Mon) 08:32 No.45
朱丹渓『格致余論』病先觀形色然後察脈問證論に次のような医案があります。

東陽陳兄,露筋,體稍 長,患體陌寰ァ勞,頭痛甚,至有決別之言,余察其脈弦而大帶數,以人參白朮為君,川闃賜ツ皮為佐,至五六日未減,逵セ皆訝之,以藥之不對也,余曰藥力有次第矣, 更少俟一二宿當自安,忽其季來,問曰:何不少加鮟・ヒ,予・・s答,又經一宿,忽自言病頓愈,予脈之覺指下稍盛,又半日,病者言膈上滿,不覺飢,視其腹紋巳隱 矣,予曰:夜來藥中莫加鮟・ヒ否?曰:然,止與三帖。遂速與二陳湯,加厚朴枳殼鮟・A以瀉其衛,三帖而安,
問題は最後の「以瀉其衛」で患者は治癒 (安)したのですが,瀉した「衛」は「衛気」なのでしょうか?「衛(気)を瀉す」という治法について,ご存じのことを(用例など)ご教示ください。

Re: 以瀉其衛 - 闖薗| 2008/07/28(Mon) 12:38 No.46
予・・s答=⇒予笑不答

Re: 以瀉其衛 - 神麹斎 2008/07/28(Mon) 13:18 No.47
「笑」などという文字が何故化けたか。『説文解字』に「ャ〟C喜也,从竹从犬」とあるの を採用したからだろう。

題『滑壽傳』後 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/24(Thu) 23:30 No.42
浙江古籍出版社,羅月霞主編『宋濂全集』翰苑續集卷之九 
題『滑壽傳』後  (『四庫全書』本「文憲集」に なし)
昔者,太史遷作『史記』,創為期(「紀」の誤りか)、表、書、傳,秉蠖、筆者,咸宗之。然而傳之為體雖不一,不過立論,序事二者而已。獨為 『淳于意傳』,載其應詔所對,自齊侍御史成,至公乘項處,凡二十有三人,書治病死生,驗者具悉。此其故何哉?蓋醫乃人命所係,不敢不慎,故特變例以成文 耳。
襄城滑壽伯仁,以醫道高一時,而吾老友朱君伯賢,倣司遷法為之傳,事核詞古,而光辯・Y然。與伯仁游者,驪汕イ以行。伯賢方載筆詞林,其言當見信 於世,它日必有采之入史牒者。淳于意之事,尚得專美於前哉?

Re: 題『滑壽傳』後 - 闖薗| 2008/07/26(Sat) 22:20 No.44
創為期(「紀」の誤りか)=⇒創為記(「紀」の誤りか)

贈惠民局提領仁齋張君序 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/26(Sat) 22:18 No.43
浙江古籍出版社,羅月霞主編『宋濂全集』翰苑續集卷之九
 贈惠民局提領仁齋張君序  (『四庫全書』本「文 憲集」になし)
嗚呼!醫其難言矣乎!人之生也,與天地之氣相為流通。養之得其道,則百順集,百邪去;苟失其養,内感於七情,外感於六氣,而疾逍「即 生焉。醫者診而治之,必察其根本枝末。其實也,從而損之;其虚也,從而益之。陰平陽秘,自適厥中。粗工或昧乎此,實實虚虚,損不足而益有餘,其病之能起者 鮮矣!此其難一也。氣血之運,必有以疏載之。左右手足,各備陰陽者三。陽既有太、少矣,而又有陽明者何?
取兩陽合明之義也;陰既有太、少矣,而又 有厥陰者何?取兩陰交盡之儀也。何經受病,宜用何劑治之。治之固不難,又當知有引經之藥。能循此法,則無疾弗逖ウ矣。粗工不辯十二經,而一概施之,譬猶羅雀 於江,鄂セ魚于林,萬一或幸而得之,豈理也哉?此其難二也。歳氣有不同,攻治亦異其宜。曰升降,曰浮沈,吾則順而承之;曰寒熱,曰温凉,吾則逆而反之。庶幾 能全其天和,而不致顛倒錯繆。粗工則蛟€蛟€然,當順則反逆,當逆則反順,如盲人適野,不辯乎西東,此其難三也。病有寒熱,熱者當投之以凉,寒者宜濟之以温, 此恒理也。然寒熱之勢方劇,而遽欲反之,必扞格而難入。熱因熱用,寒因寒用,其始則同,其終則異,庶幾能成其功。粗工則不察而混治之,此其難四也。藥性有 陰陽,而於氣味見焉。然不專於陰陽也,又有所謂陽中之陰焉,陰中之陽焉。差之毫釐,繆以千里,不可不察也。粗工則不覈重輕而妄投之,過矣。此其難五也。然 此多『内經』之所明言。自裴宗元局為大觀二百餘方,經旨晦蝕,無有探而究之者。至金劉守真、張從正、李明之等出,始一以『内經』為宗。向之晦者,昭如也; 昔之蝕者,完如也。嗚呼!醫其難言矣乎?
呉士張君仁齋,世為名醫。從陳鼎庵受『内經』之學,而於劉、張、李三家之書,無不通貫,故用藥多奇驗。將 軍那木哥病危甚,張君脈之曰:「寒凉太過所致,宜温之。」果逖ウ。中書平章政事李思齊遘疾,上遣使者召張君療之。張君脈已,曰:「色夭不澤,尺脈已絶。然能 食飲,主踰月而死。」後亦然。
先是,全室禪師豕酔ウ病,偶乞張君視脈色。張君曰:「師雖康強,其中多滯痰,後有中風之患。」當時咸不以為然。至是 痿痺作,手足痿痺不仁。張君用辛凉劑汗之,下而愈。師欲以金繒遺之,張君笑曰:「師何必爾也。得宋翰林文一篇,不翅足矣。」師來為予言。予雖不知醫,而醫 之諸書頗嘗讀之。故為疏五難之説,使觀者知其道為不易如此。
嗚呼!醫誠難言矣乎?若學如張君,察證如張君,制藥如張君,則不謂之難也已。

題朱彦修遺墨後 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/23(Wed) 23:42 No.41
『四庫全書』本 『文憲集』卷十三
    題朱彦修遺墨後
右丹溪先生書五紙,與門人戴仲積,及其子原 禮者也。夫醫之為道,本於『内經』,其失傳盖已久矣。金之諸儒劉守真霆ー、獨能遠紹絶學,至先生始三傳,則授受之正,不言可知矣。先生之弟子雖衆,得其真切 者,惟仲積父子為優。仲積不幸蚤世,原禮以其學行於浙河之西,從之者日益多。由是先生之道,沾被滋廣,而三尺之童,亦知先生之賢。此非原禮之所致耶!韓子 有云:「莫為之後,雖盛而不傳。」其此之謂歟?原禮尤拳拳不忘,而以遺墨求題,謂見手澤,有如見先生焉。予嘗從先生游,而交原禮諸父間甚久,故不辭為之而 (全集作「而為之」)書。嗚呼!師道立而善人多,今於原禮見之。

醫家十四經發揮序 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/22(Tue) 23:35 No.40
醫家十四經發揮序
人具九藏之形,而氣血之運,必有以疏載之。(人,九藏の形を具して,而して氣血の運,必ず 以て之れを疏載すること有り。)其流注,則曰豁キ、曰循、曰經、曰至、曰抵、其交際,則曰會、曰過、曰行、曰達者。(其の流注は,則ち曰く歴、曰く循、曰く 經、曰く至、曰く抵と。其の交際は,則ち曰く會、曰く過、曰く行、曰く達と。)蓋有所謂十二經焉。(蓋し所謂る十二經有り。)十二經者,左右手足各備髫wz 者三。(十二經なる者は,左右の手足,各おの陰陽を備うる者三。)髫iE而陽左也。(陰は右にして陽は左なり。)陽順布而髫kt施也。(陽は順に布して,而し て陰は逆に施すなり。)以三陽言之,則太陽、少陽、陽明。(三陽を以て之れを言えば,則ち太陽、少陽、陽明。)陽既有太、少矣,而又有陽明者何?(陽,既 に太と少有り。而も又た陽明有るは,何ぞや?)取兩陽合明之義也。(兩陽,明を合するの義を取るなり。)以三髫lセ之,則太髫aA少髫aA厥髫aB(三陰を以て之 れを言えば,則ち太陰、少陰、厥陰。)髫jL太、少矣,而又有厥陰者何?(陰,既に太と少有り。而も又た厥陰有るは,何ぞや?)取兩陰交盡之義也。(兩陰 交ごも盡くるの義を取るなり。)非徒經之有十二矣,而又有所謂系絡者焉。(徒だに經の十二有るに非ず,而して又た所謂る系絡なる者有り。)系絡之數,三百 六十有五。(系絡の數は,三百六十有五。)所以附經而行,周流而不息也。(經に附して行〔メグ〕り,周流して息〔ヤス〕まざる所以なり。)至若髫wz維 雹サ、衝帶六脉,固皆有所郢ォ屬。(陰陽の維・雹サ、衝と帶の六脉の若きに至りては,固より皆な郢ォ屬する所有り。)而唯督、任二經,則苞乎腹背而有專穴。(而し て唯だ督・任の二經のみは,則ち腹・背を苞〔ツツ〕みて而して專穴有り。)諸經滿而溢者,此則受之。(諸經,滿ちて溢るる者は,此れ則ち之れを受く。)初 不可謂非常經而忽畧焉。(初めより常經に非ずと謂いて焉れを忽畧すべからず。)法宜與諸經並論。(法として宜しく諸經と並論すべし。)通考其隧穴六百四十 有七者而施治功,則醫之神祕盡矣。(其の隧穴六百四十有七なる者を通考して治功を施せば,則ち醫の神祕盡〔ツ〕く。)蓋古之聖人,契乎至靈,洞視無 隱。(蓋し古の聖人は,至靈に契〔かな〕い,洞視して隱るること無し。)故能審系脉之真,原虚實之變,建名立號,使人識而治之。(故に能く系脉の真を審か にし,虚實の變に原〔もと〕づき,名を建て號を立て,人をして識りて之れを治めしむ。)雖後世螻「至授膜導穴、驗幽索隱,卒不能越其範圍。(後世,螻「しば膜 を抉り竅を導き,幽を驗し隱を索むるに至ると雖も,卒に其の範圍を越ゆること能わず。)
校勘:「授膜導穴」,全集作「授膜導竅」,『医籍考』引宋 濂序作「抉膜導遲ウ」〔遲ウ:黄龍祥『鍼灸名著集成』校勘記「明刊『薛氏医案』、『医学集覧』本并同」〕。『漢書』王莽傳中4145p末「莽使太醫・聡ョ方與巧 屠共刳蜑摧V,量度五藏,以竹遲ウ導其脈,知所終始」。『史記』扁鵲傳「乃割皮解肌,訣脈結筋,搦髓腦,謠イ荒爪幕」。)
聖功之不再,壹至是乎?(聖功 の再びせざること,壹に是に至らんや?)由此而觀,學醫道者,不可不明乎經絡。(此に由りて觀れば,醫道を學ぶ者は,經絡を明らかにせざるべからず。)經 絡不明而欲致夫療疾,猶習射而不操弓矢。(經絡明らかならずして夫〔カ〕の疾を療するを致さんと欲するは,猶お射を習いて弓矢を操らざるがごとし。)其不 能也决矣。(其の能わざること决せり。)
濂之友滑君,深有所見於此。(濂の友滑君,深く此に於いて見る所有り。)以『内經』骨空諸論及『靈樞』本 輸篇所述經脉,辭旨簡嚴,讀者未易即解。(以て『内經』骨空の諸論,及び『靈樞』本輸篇述ぶる所の經脉,辭旨簡嚴にして,讀む者,未だ即ちに解すること易 からず。)於是訓其字義,釋其名物,疏其本旨,正其句讀,釐為三巻,名曰『十四經發揮』。(是に於いて其の字義を訓じ,其の名物を釋し,其の本旨を疏し, 其の句讀を正し,釐〔マト〕めて三巻と為し,名づけて『十四經發揮』と曰う。)復慮穴之名難於記憶,聨成韻語,附於各經之後。(復た穴の名の記憶し難きを 慮り,聨ねて韻語を成し,各經の後に附す。)其有功於斯世也,豈小補哉!(其の功,斯の世に有ること,豈に小補ならんや!)
校勘:「豈小補哉」, 『医籍考』『鍼灸名著集成』、台湾・自由出版社『古本十四経発揮』序作「不亦遠哉」。
世之著醫書者,日新月盛,非不繁且多也。(世の醫書を著す 者,日に新たに月に盛んにして,繁にして且つ多からざるに非ざるなり。)漢之時僅七家爾。(漢の時は僅かに七家のみ。)唐則增為六十四。(唐は則ち増して 六十四と為る。)至宋,遂至一百九十又七。(宋に至りて,遂に一百九十又七に至る。)其發明方藥,豈無其人。(其の方藥を發明するに,豈に其の人無からん や。)純以『内經』為本,而弗之雜者,抑何其鮮也!(純〔もっぱ〕ら『内經』を本と為し,而して之れを雜〔マジ〕えざる者,抑〔ソモ〕そも何ぞ其れ鮮 〔スクナ〕きや。)若金之張元素、劉完素、張從正、李杲四家,其立言埀範,殆或庶幾者乎?(金の張元素、劉完素、張從正、李杲の四家の若きは,其の言を立 て範を垂ること,殆んど或るいは庶幾〔期待に応える〕なる者か?)今吾滑君起而繼之。(今,吾が滑君起ちて之れを繼ぐ。)凡四家罐イ辭祕旨,靡不貫通。(凡 そ四家の微辭、秘旨,貫通せざる靡し。)『發揮』之作,必將與其書並傳無疑也。(『發揮』の作,必ず將に其の書と並びて傳わらんとすること疑い無きな り。)嗚呼!(ああ!)讒問゙一身之氣機,以補以羞シ,以成十全之功者,其唯針遐ュ之法乎?(一身の氣機を讖絶゙〔タクヤク/フイゴのように〕して,以て補し以 て羞シし,以て十全の功を成す者は,其れ唯だ針遐ュの法のみか?)若不察於諸經,而誤施之,則不假鋒刃而謌舞ッ人矣。(若し諸經を察せず,而して誤りて之れを施 せば,則ち鋒刃を假りずして人を賊謌浮キるなり。)可不懼哉!(懼れざるべけんや!)縱隲応H九針之法,傳之者蓋鮮,苟以湯液言之,亦必明於何經中邪,然後注 何劑而治之,奈何粗工絶弗之講也。(縱〔タト〕い隲堰kズイ/コトヨセ・イイノガレ〕して九針の法,之れを傳うる者蓋し鮮しと曰うとも,苟も湯液を以て 之れを言わば,亦た必ず何れの經に於いて邪に中るかを明かにし,然る後に何の劑を注ぎて之れを治めん。奈何〔イカン〕ぞ粗工絶えて之れを講ぜざる。)滑君 此書,豈非醫塗之輿梁也歟?(滑君の此の書,豈に醫塗〔=道〕の輿梁〔=大橋〕に非ざらんや?)濂故特為之序之,以傳。(濂,故に特に之れが為に之れに序 し,以て傳う。)非深知滑君者,未必不以其言為過情也。(深く滑君を知る者に非ざれば,未だ必ずしも其の言を以て過情と為さずんばあらざるなり。)
滑 君,名螟€,字伯仁,許昌人,自號為謾又J生。(滑君,名は壽,字は伯仁,許昌の人,自ら號して謾又J生〔エイネイセイ:出典は『荘子』〕と為す。)博通經史諸 家言,為文辭,温雅有法,而於醫尤深。(博く經史諸家の言に通じ,文辭を為せば,温雅にして法有り。而して醫に於いて尤も深し。)江南諸醫未能或之先 也。(江南の諸醫,未だ之れより先んずること或る能わざるなり。)所著又有『素問鈔』『難經本義』,行於世。(著す所,又た『素問鈔』『難經本義』有り, 世に行わる。)『難經本義』,雲林危先生素嘗為之序云。(『難經本義』,雲林の危先生,素と嘗て之れが序を為ると云う。)

贈醫師賈某序 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/21(Mon) 12:34 No.39
    『四庫全書』本『文憲集』卷九
贈醫師賈某序
  醫之為道,難言久矣。然必審診,以起度量, 立規矩,稱權衡,合色脈表裏有餘不足順逆之法,復參其人之動静與其息之相應,然後從而治之。則其事為甚不輕矣,非洞明蜴ッ世羣書之得失(全集作「失得」), 尚可與於斯乎?
  『黄帝内經』雖疑先秦之士依倣而託之,其言深,其旨邃以弘,其考辨信而有蠕オ,是當為醫家之宗。下此則秦越人、和緩(全集有「和 緩」)無書可傳。越人所著『八十一難經』,則皆舉『内經』之要而推言者也。又下此則淳于意、華佗(全集有「佗」)之熊經鴟顧,固亦導引家之一術,至於刳腹 背、貉白ー胃而去疾,則渉於神怪矣。意之醫状,司馬遷備志之,其所謂「霑オ風」「杳風」者,今人絶不知為何證,况復求於治療之深旨乎?又下則張機。機之『金匱 玉函經』及『傷寒』諸論,誠千古不刋之典。第詳於六氣所傷,而於情欲、食飲、罷勞之所致者,畧而弗議,兼之文字錯簡,亦未易以序次求之也。又下此則王叔 和。叔和纂岐伯、華佗等書為『脈經』,敘陰陽内外,辨三部九候,分人迎氣口,條陳十二經絡,豢歯v三焦、五臓、六腑之病,最為著明。惜乎為妄男子括以膚陋之 『脈歌』,遂使其本書不盛布於世也。又下此則蟾「元方。其『病源候論』似不為無所見者。但言風寒二濕,而不著濕熱之文,乃其失也。又下此則王遐ッ。遐ッ推五運六 氣之變,撰為『天元玉策』,周詳切螳サ,亦人之所難。闌酷D之則局滯而不通矣。又下此則王燾、孫思驍・B思驍・ネ絶人之識,操慈仁惻厚之心,其列『千金方』『翼』 及(全集有「粗」)工害人之禍至為憤切,後人稍闖其藩垣,亦足以其術鳴。但不知傷寒之數,或弗能無遺憾也。燾雖闇劣,『外臺秘要』所言方證符禁灼灸之詳, 頗有所祖述。然謂「鍼能殺生人而不能起死人」者,則一偏之見也。又下此則錢乙、鮴粋タ時、許叔微。叔微在準繩尺寸之中,而無所發明;安時雖能出竒應變,而終 未離於範圍:二人皆得張機之粗者也。惟乙深造機之髢ォ奥,而謫キ其精華,建為五臟之方,各隨所宜:肝有相火,則有瀉而無補;腎為真水,則有補而無瀉。皆啓『内 經』之祕,尤知者之所取法。世讒ゥ以嬰孺醫目之,何其知乙之淺哉!其遺書散亡,出於閻孝忠所集者多。孝忠之意,初非乙之本真也。又下此則上谷張元素、河間劉 光素(全集「光素」作「完素」。以下同じ)、逹「水張從正。元素之與光素,雖設為竒夢異人以神其授受,實聞乙之風而興起焉者。若從正,則又宗夫光素者也。元 素以古方新病決不能相蛟シ治疾,一切不以方,故其書亦不傳。其存於今者,皆後来之所傅會。其學則東垣李杲深得之。杲推明内外二傷,而多注意於補脾土之説。盖 以土為一身之主,土平則諸臟平矣。從正以吐、汗、下三法,風、寒、暑、濕、火、燥六門為醫之關鍵。其治多攻,其劑多峻厲,不善學者殺人。光素論風火之病, 以『内經』病機氣宜十九條,著為『元(康煕の諱「玄」)病式』,簡奥粹微,有非大觀局諸醫所可彷彿。究其設施,則亦不越補攻二者之間也。
  嗟 乎!自有『内經』以来,醫書之藏有司者,凡一百七十九家,二百九部,二千二百五十九巻,亦不為不多也。他未遑深論,即今所論者,言(全集作「求」)之世之 醫師,果能盡心於斯否乎?脱或未盡心於斯,則夫起度量、立規矩、稱權衡、合色脈之屬,焉能察而行之,不至以人命為戲也幾希矣。雖然,亦有要焉,逆與順之謂 也:曰升降,曰浮沈,吾則順之;曰温凉,曰寒熱,吾則逆之。果能此道矣,則去夫先醫之所治,雖不中,不遠矣。然又未易以一蹴至也。非求之極博而觀其會通, 安可遽反於至約之域乎。醫之道,所以難言者,盖若此而已。
  烏傷賈思誠,濂外弟也,性醇介,有士君子之行。嘗同濂師事城南聞先生學治經,久之, 思誠復去,受醫説於彦脩朱先生之門。諸儒家所著,無所不窺,出而治疾,往往有竒驗。薦紳間,多為賦詩,而屬濂以序。濂非知醫者,將何以為思誠告哉?而思誠 請之不倦,因為直疏蜴ッ世羣書之得失(全集作「失得」),而蜍鮪v誠以學者如此,初不暇如他作者簸弄筆舌,交錯以成文也。

宋濂 医学関連選集 投稿者 : 闖薗| 投稿日 : 2008/07/20(Sun) 08:43 No.37
   入力は,おもに『四庫全書』本による。一部,日本フォントに改変。浙江古籍出版社,羅月霞主編『宋濂全集』を おもに参照して句読,校勘。

 『四庫全書』本 『文憲集』卷九
 贈醫師周漢卿序
余聞松陽周君漢卿,以醫名者久矣。(余聞 く,松陽の周君漢卿,醫を以て名あること久しきを。)一日,余婿鄭叔髻。復来青蘿山中,述其詳。(一日,余が婿の鄭叔髻。,復た青蘿山中に来〔キタ〕りて,其 の詳しきを述ぶ。)曰:「周君之醫精甚,他固不能知。(曰く:「周君の醫の精なること甚だし。他は固〔モト〕より知る能わず。)姑即士君子所常道者言 之。(姑く士君子の常に道〔イ〕う所の者に即して之れを言わん。)【以下,話中話,わずらわしいため,『』を用いず,「」を用いる。】
括蒼阡」仲 良,左目為馬所蹄,其睛突出懸如桃。(括蒼の阡」仲良,左目,馬の蹄〔け〕る所と為り,其の睛〔ヒトミ〕,突出して懸くること桃の如し。)羣工相顧曰:「是 系絡既損,法當□。」(□,全集作「逵「」。/羣工相い顧みて曰く:「是れ系絡既に損す。法として當に逵「(〔エン・失明。メツブル〕すべし。)周君笑不 答,以神膏封之。(周君笑いて答えず,神膏を以て之れを封〔と〕ず。)越三日,月如初。(「月」,全集作「目」。/三日を越えて,目,初めの如し。)
華 川陳明遠,患瞽者十齡。(華川の陳明遠,瞽〔コ/メシイ〕を患うこと,十齡なり。)百藥螻「嘗,而不見效。(百藥螻「しば嘗むれども,而も效あるを見ず。)自 分為殘人。(自ら殘人為りと分とす。/分:推測・判断する。殘:そこなう。傷つく。残人:障碍者。)周君視之,曰:「是翳,雖在内,尚可治。」(周君,之 れを視て,曰く:「是れ翳なり。内に在ると雖も,尚お治すべし。」)用鍼從眥入睛背,掩其翳下之。(鍼を用いて眥從り睛背に入れ,其の翳を掩して之れを下 す。)目豁・R辨五色。(目豁・R〔クツゼン・たちまち〕として五色を辨ず。)陳以為神。(陳,以て神と為す。)
武成男子病胃痛。(武成の男子,胃 痛を病む。)常痛不可忍。(「常」,全集・醫部全録作「當」。/常に痛み,忍ぶべからず。)嚼齒刺刺作聲。(齒を嚼みて刺刺〔セキセキ/ハゲシク・ガ チガチ〕として聲を作〔ナ〕す。)或奮擲乞死,弗之得。(或いは奮擲〔フンテキ/フルエモダエ〕して死を乞うも,之れを得ず。)他醫用大攻湯治,皆不 愈。(「治皆不愈」,全集作「豎刳F不損」。/他醫は大攻湯を用いて治すも,皆な愈えず。)周君以藥納鼻竅中,俄大吐。(周君,藥を以て鼻竅の中に納むれ ば,俄かに大いに吐く。)吐出赤蟲尺餘,口眼咸具,痛即止。(赤き蟲,尺餘りを吐き出す。口眼咸な具わる。痛み即ち止む。)
東白馬氏婦有姙,豁キ十 四月不産。(東白の馬氏が婦に姙有り。十四月を歴るも産まず。)形瘠蟆ォ且黒。(形,瘠〔ヤ〕せ蟆ォ〔ヨワ〕り,且つ黒し。)周君脈之曰:「非孕也。乃為妖氣 之所乗耳。」(周君之れを脈して曰く:「孕に非ざるなり。乃ち妖氣の乗ずる所と為るのみ。」)以藥下之,一物如金魚,疾旋已。(藥を以て之れを下す。一物 あり,金魚の如し。疾旋〔ツ〕いで〔スグサマ〕已ゆ。)
永康應童嬰腹疾,恒逞€僂行,久不伸。(永康の應が童,腹疾に嬰〔カ〕かる。恒に逞€僂〔ク ル〕して行き,久しく伸びず。)周君解裳,視之,氣衝起腹間者二,其大如臂。(周君,裳を解き之れを視れば,氣の腹間に衝起する者二あり。其の大なること 臂の如し。)周君刺其一,魄然鳴;又刺其一,亦如之。(周君,其の一を刺せば,魄然〔ハクゼン/メリメリ・ビリビリ〕として鳴る。又た其の一を刺せ ば,亦た之〔カク〕の如し。)稍按摩之,氣盡解平。(「平」,全集作「手」。/稍〔ハナハ〕だ之れを按摩すれば,氣,盡く解け平らぐ/氣盡く手に解く。) 趨無留行。(趨〔ハシ〕るに留まること無くして行く。)*人民衛生出版社『古今図書集成』醫部全録卷510作「氣盡解,平趨無瘻行」。
長山徐嫗遘 驚疾。(長山の徐嫗,驚疾に遘〔ア〕う。)初發手足顫掉,褫去裳衣,閾搦ァ奔。(初め發すれば,手足,顫掉し,裳衣を褫〔ヌ〕ぎ去り,閾掾kハダカ〕になり て奔〔ハシ〕る。)或歌或哭,或牽曳如舞木偶。(或いは歌い,或いは哭き,或いは牽曳〔訳の分からないことを口走り〕して,木偶〔デクノボウ/愚か 者〕を舞〔ふるま〕うが如し。)粗工見之,吐舌走,以為鬼鬯ス所惑。(粗工,之れを見て,舌を吐いて〔ビックリシテ〕走〔ハシリニ〕げ,鬼鬯ス〔ビ〕の惑 う所と為ると以〔オモ〕う。)周君獨刺其十指端出血,已而安。(周君,獨り其の十指の端を刺して血を出し,已にして安んず。)
虎林黄氏女生瘰 癧。(虎林の黄氏が女,瘰癧を生ず。)環頸及腋蜃「十九竅。(環頸〔クビマワリ〕及び腋に凡て十九竅あり。)竅破,白瀋出。(竅破れて,白き瀋〔シル〕出 づ。)右手拘攣不可動,體火熱。(右手拘攣して動くべからず。體,火熱す。)家人咸憂,趣匠製棺衾。(家人,咸〔ミ〕な憂いて,匠に趣きて棺衾〔柩とキョ ウカタビラ〕を製〔ツク〕らしむ。)周君為剔竅母長二寸,其餘以火次第烙。(周君,為に竅の母〔モト・根源〕を剔〔エグ〕ること長さ二寸,其の餘は火 を以て次第に烙〔ヤ〕く。)數日成痂,痂脱如恒人。(數日にして痂〔カサブタ〕成り,痂脱すること恒人〔常人〕の如し。)
於越楊翁項有疣。(於 越の楊翁,項に疣〔イボ〕有り。)其鉅類瓜。(其の鉅〔オオ〕いなること瓜に類す。)因醉仆階下,疣潰,血源源流。(醉いて階下に仆れるに因りて,疣潰 れ,血,源源〔ダラダラ〕として流る。)凡疣破,血出弗休,必殺人。(凡そ疣破〔ヤブ〕れて,血出づること休〔ヤ〕まざれば,必ず人を殺す。)他醫 辭不進。(他醫は辭して進まず。〔辞退して治療をオコナワズ〕)周君用劑邉搗エ穴,血即止。(周君,劑を用いて其の穴に邉掾kソソ〕ぐ。血即ち止まる。)
烏 傷陳氏子腹有疣,隠起。(「疣」,全集・醫部全録作「蜃キ」。『明史』作「塊」。/烏傷の陳氏が子,腹に蜃キ〔カイ/カタマリ〕有り。)捫之如罌。(之れを捫 〔ナ〕づれば罌〔オウ/モタイ〕の如し。)或以為奔豚,或以為逋・逖普B(或るひとは以て奔豚と為し,或るひとは以て逋・逖浮ニ為す。)周君曰:「脈洪且闃、,癰發 於腸也。」(周君曰く:「脈,洪にして且つ闃、。癰,腸に發するなり。」)即用燔針如筴者,刺入三寸餘,膿隨針射出。(即ち燔針の筴〔サク・メドギ〕の 如き者を用いて,刺入すること三寸餘り。膿,針に隨いて射〔フ〕き出づ。)其流有聲,愈。(其の流るること聲有り。愈ゆ。)
讚ァ讒ゥ黄生背善曲,杖而 行。(「讚ァ讒ゥ」,醫部全録・『明史』作「諸曁」。浙江省諸曁(隸ク證ィ)市。/諸曁の黄生,背善く曲り,杖つきて行〔アル〕く。)人以風治之。(人,風を以て 之れを治す。)周君曰:「非風也。血澁不通也。」(周君曰く:「風に非ざるなり。血澁りて通ぜざるなり。」)為刺兩足崑崙穴。(為に兩足の崑崙穴を刺 す。)頃之,投杖而去。(頃之〔シバラクシテ〕,杖を投〔ステオ〕きて去〔デアル〕く。)
其醫之甚精如此。(其の醫の甚だ精なること此〔カ ク〕の如し。)薦紳先生宜有以褒之揚之。(薦紳〔=縉紳/高位高官〕先生,宜しく以て之れを褒め之れを揚ぐこと有るべし。)敢以序文為請。」(敢えて序文 を以て為に請わん。」/*ここまで,鄭叔髻。の語り。)
余惟古之神醫,一撥見病之應,因五臟之輸,乃割皮解肌,決脈結筋,搦髓謠イ荒爪幕,以為 治。(余惟〔オモンミ〕るに,古〔イニシエ〕の神醫は,一たび撥〔ヒラ〕けば病の應を見,五臟の輸に因りて,乃ち皮を割き肌を解き,脈を決し筋を結び,髓 を搦し荒を謠イし幕を爪して,以て治を為せり。/*『史記』扁鵲傳。)所謂骰叶ク易形者也。(所謂る精を錬〔ネ〕り形を易〔カエ〕る者なり。)今則人誰知之? (今は則ち人誰か之れを知らん。)其次則湯液醴驥メA髑ア石橋引、案謚藷ナ熨之法耳。(其の次は則ち湯液・醴驥メE髑ア石・橋引・案謚潤E毒熨の法のみ。/*扁鵲 傳。)是法亦絶不傳,其僅存於世者,往往不能用。(是の法も亦た絶えて傳わらず。其の僅かに世に存する者は,往往にして用いること能わず。)用或乖謌セ,以 致夭閼而傷生者多矣。(用いれば或いは乖謌セし,以て夭閼〔ヨウアツ/夭折〕を致して生を傷〔ヤブ〕る者多し。)夫醫者民命所郢ォ。(夫れ醫なる者は,民の 命の郢ォかる所なり。)一投丸之間,一授箴之際,則安危由此而分。(一たび丸を投ずるの間,一たび箴〔=鍼〕を授くるの際,則ち安危,此れに由りて分か る。)何可不致謹於斯邪?(何ぞ謹しみて斯れを致さざるべけんや?)昔司馬遷立『倉公列傳』。(昔,司馬遷『倉公列傳』を立つ。)其所治自齊侍御史而下凡 十有餘人、皆蜴ッ疏其病迢€。(其の治する所,齊侍御史自りして下ること、凡て十有餘人。皆な其の病状を歴疏す。)辭雖繁而不殺者,其意盖有見於此也。(辭 〔コトバ〕繁なりと雖もしかも殺〔ソ〕がざる者は,其の意,蓋し此に見ること有ればなり。)余敢竊取斯義,備以叔髻。所述,序次成文,以遺周君。(余敢え て竊かに斯の義を取り,備〔ツブサ〕に叔髻。の述ぶる所を以て,序次して文を成し,以て周君に遺〔オク〕る。)又安知他日脩史傳者,無采於余之言哉?(又 た安〔イヅク〕んぞ他日,史傳を脩〔編纂〕する者,余の言を采ること無きを知らんや?)余耄矣,且有脾禍。(余,耄〔オ〕いたり。且つ脾の禍〔ワザワ イ〕有り。)吐涎日二三升,蔓延將四稔。(涎を吐くこと,日に二三升。蔓延〔ハビコル〕して將に四稔〔年〕にならんとす。)叔髻。尚邀周君,以起余之疾者 乎?(叔髻。,尚〔コイネガ〕わくは周君を邀〔ムカ〕えて,以て余の疾〔ヤマイ〕ある者を起こさんか?/余の疾〔ヤ〕む者を起たさんか? 起=治。)

附 録『明史』列傳/卷二百九十九列傳第一百八十七方伎/周漢卿
-7637p-
  周漢卿,松陽人。醫兼蜈ァ外科,鍼尤神。驗艶l阡」仲良,左目為 馬所雕カ,睛突出如桃。他醫謂係絡已損不可治。漢卿封以神膏,越三日復故。華州陳明遠瞽十年。漢卿視之,曰:「可鍼也。」為翻睛刮翳,谺サ然辨五色。武城人病 胃痛,奮擲乞死。漢卿納藥於鼻,俄噴赤蟲寸許,口眼悉具,痛旋止。馬氏婦有娠,十四月不逕「,蟆ォ且黑。漢卿曰:「此中蠱,非娠也。」下之,有物如金魚,病良 已。永康人腹疾,逞€僂行。漢卿解衣視之,氣衝起腹間者二,其大如臂。刺其一,遐苑R鳴,又刺其一亦如之,加以按摩,疾遂愈。長山徐嫗癇疾,手足顫掉,裸而 走,或歌或笑。漢卿刺其十指端,出血而痊。錢塘王氏女生瘰嘘,環頭及腋,凡十九竅。竅破白瀋出,將死矣。漢卿為剔竅母深二寸,其餘烙以火,數日結痂愈。山 陰楊翁項有疣如瓜大,醉仆階下,潰血不能止。疣潰者必死。漢卿以藥邉搗エ穴,血即止。義烏陳氏子腹有塊,捫之如罌。漢卿曰:「此腸癰也。」用大鍼灼而刺之, 入三寸許,膿隨鍼迸出有聲,愈。諸證ィ鮟ヰカ背曲,須杖行。他醫皆以風治之,漢卿曰:「血澀也。」刺兩足崑崙穴,頃之投杖去。其捷效如此。

あるいは - 神麹斎 2008/07/20(Sun) 12:53 No.38
或牽曳如舞木偶
あるいは手足をひいたりのばしたり動かすのが,操り人形を舞わせ るようにギクシャクしていた。


于鉄成先生 投稿者 : 事務局 投稿日 : 2008/07/19(Sat) 12:06 No.34
写真は、今年6月に、香港に行ったときの、于鉄成とのスナップ。かつて天津との学術交流会では、一番の若手でしたが、 今や、付属病院の院長だそうです。共産党の幹部だともきいてます。あと数年で定年なので、それまでならいろいろやってくれるそうです。第三回学術交流会も 可能であります。いかがでしょうか。

Re: 于鉄成先生 - 神麹斎 2008/07/19(Sat) 13:19 No.35
1985天津・第一回日中内経学術交流会当時の于鉄成氏です。

う~ん,こうならべてみると面影はあり ますか。



Re: 于鉄成先生 - 事務局 2008/07/19(Sat) 13:46 No.36
再会したとき、お互いにすぐわかりましたから、面影はあると思います。あのときの先生 方は、定年だそうです。張露凡先生(女性)だけは、現役だそうです。20年以上も経過していたんですね。

あるんだねえ 投稿者 : 神麹斎 投稿日 : 2008/07/17(Thu) 12:43 No.30
No.28に触発された書き込みですが,返信にすると紛れそうなんで,独立させます。
霎カに虎は逓の異体字だろ う,というような意味のことが書いてあります。
この字は『龍龕手鏡』霎オ部にあります。「縛,土兮反,同續ク,蛹セ縛,薄皃也。」
なんとユ ニコードのCJK統合漢字拡張領域にもあります。

縛を,遞と同じ意味に使った例もあります。念のため。


Re: あるんだねえ - 闖薗| 2008/07/18(Fri) 08:57 No.31
パソコン(の設定・環境)によって,「縛」(1)と「蛹セ」(2)は文字化けして見 えます。
1=しんにょう+虎
2=匚+扁


Re: あるんだねえ - 神麹斎 2008/07/18(Fri) 10:55 No.32
化けますか? 表示されないんじゃなくて。
蛹セはユニコードのCJK統合漢字です。
縛はユニコードの CJK統合漢字拡張領域Bに在ります。
ユニコード対応のフォントが入ってないパソコンは今時めずらしい。表示されないようなら,多分,「言語の選 択」で日本語を指定すると,ユニコード対応でないフォントで表示するようにパソコンが設定されています。例えば「言語の選択」を英語に切り替えてみてくだ さい。蛹セは表示されるだろうと思います。
拡張領域Bの漢字は,拡張領域Bを含むフォントが無ければ当然表示されません。VISTAなら標準で入っ ているけれど,XPだと自分でインストールする必要が有ります。VISTAのほうがお勧めである理由は,私にとっては他には何も無い。フォントがインス トールされていても,「言語の選択」が日本語だと表示されない可能性はあります。上の理由と同じです。

それとIEはあまりお勧めではな い。Mozilla Firefoxのほうが(この点では)良いみたいです。無料です。


Re: あるんだねえ - 管理者 2008/07/19(Sat) 08:16 No.33
自分自身が普段使ってないので,あまり確かではないけれど,IEの最新版でも,「インターネットオプション」の「全 般」を開いて,「ユーザー補助」の「書式設定」を全てオンにして,あるいは少なくとも「Webページで指定されたフォント スタイルを使用しない」をオンにして,OKを(何故だか2度)クリックすると,Firefoxの場合と同じように,適当なフォントを選択して表示してくれ るようです。
あまり確かでは無いといっても,少なくともパソコンに害を及ぼすことは有りません。気に入らないことがおこったら,もとへもどせば良 いことです。

フォントは,XP(SP2以降?)なら下のフォントパッケージをダウンロードしてインストールすれば、Vistaと同じ字が 使えるようです。
http://www.microsoft.com/japan/windows/products/windowsvista/jp_font/jis04/default.mspx

必 要な処置をしないで,文字化けを訴えられても,こちらでは手加減はしません。いずれも手間だけで,費用がかかるわけじゃないんですから。

ご めんなさい。MacやLinaxの場合は,全くわかりません。


文字数の制限とフォント 投稿者 : 管理者 投稿日 : 2008/07/17(Thu) 06:12 No.29
文字数の制限は,タイトルにあります。うっかりすると何字かが「…」となることがあります。「返信」をそのままやる と,「Re:」が加わりますから,さらに表示される文字数は減ります。
本文の長さにも制限は有りますが,この程度は大丈夫です。もし,尻切れトン ボになったら,その1,その2という具合にしてください。尻切れトンボにならなくても,いくつかに分けた方が読みやすいということはあるかもしれない。
表 示フォントは,日本語指定だとメイリオかMS UI GothicかMS PゴシックあるいはOsaka(マック?)。中国語指定だと,PMingLIUかNSimSun。英語指定だとTimes New Roman。
文 字コードはutf-8ですから,相当難しい漢字も表示できます。でも上にいった指定のフォントには全部の文字があるとはかぎりません。そこで他のフォント を使って表示します。例えば,表示言語に英語を指定したからといってアルファベットだけしか表示されないなんてことはないはずです。でも,どのフォントを 使うかはブラウザの側の問題らしい。表示されない文字がありましたら,表示言語を変更してみるか,ブラウザの表示フォントを工夫してみてください。これ以 上のことは私には分かりません。

どれほどの量が貼り付けられるか,ためさせ... 投稿者 : 闖隍€ 竹 投稿日 : 2008/07/16(Wed) 23:12 No.28
医古文教科書ノート
丹溪翁傳 剳記
荒川 緑 08/3/20より
 入力本文は「欽定四庫全書 九靈山房集卷十 元戴良撰 丹溪翁傳」。一部中 国フォント(方正宋体・SimSun-18030)あり。

 我が無理解が原因ではあるが,以下のいずれの参考書の解釈とも一致しない部分 もある。また,紙に印刷することを想定していないので,紙幅にとらわれず,冗漫でくどいものとなろう。(3月28日,想わぬ長編となる……)

   主要参考書目:
『医古文訳解』梁忠主編,中国中医薬出版社,1992年11月。略称『訳解』。
『医古文自学応考必読』段逸山主編(丹渓 翁傳担当:厳振海),上海中医学院出版社,1992年11月。略称『自学』。
『実用医古文』段逸山、孫文鍾編著,上海科学技術文献出版 社,1993年8月。略称『実用』。
『新編医古文訳注』龍月雲主編,湖南科学技術出版社,1995年9月。略称『新編』。
『医古文百篇釈 訳』王紹増、張天柱主編,黒竜江科学技術出版社,1995年10月。略称『百篇』。
『高等中医薬院校教学参考叢書 医古文 第2版』段逸山主編, 人民衛生出版社,2006年1月。略称『2版』
 これらはみな教科書に基づく。教科書は『四部叢刊』所収本を底本とするが,異体字は適宜改めてい る。
★『宋濂集(宋学士文集 ・宋文憲全集・宋濂全集[現代])』故丹谿先生朱公石表辭。

山東中医薬大学 中医古漢語基礎(邵冠 勇主編・中国中医薬出版社,北京,2005年1月)
丹溪翁傳
http://jpkc06.jwc.sdutcm.edu.cn/jpkc/mbfile/2/webkc.asp?id=41


鬚鬆€ 解
本文闃る€猿ゥ《九轣オ山房集》卷十,据《四部荳寢ァ》本。作者戴良(公元1317年─1383年), 字叔能,号九轣オ山人,浦江(今属浙江)人, 元代学者。与朱丹溪驍サ蜴ソ。他通扈庶j百家之隸エ,辷ア好医学,髟ソ于隸藍カ,曾任淮南江北等螟ыs中荵ヲ省儒学提荳セ。元亡后,髫遂庶l明山。明洪武十五年(公元1382 年),被召至南京,以老病辞官不受,下迢ア死。着有《九轣オ山房集》三十卷、《春秋扈丈シ黴€考》三十二卷、《和陶隸浴t一卷等。其《九轣オ山房集》分“山居稿”、“蜷エ 游稿”、“驗棔熏e”和“越游稿”四部分。其中除《丹溪翁莨黴€》外,尚有《抱一翁(鬘ケ彦章)莨黴€》、《豐ァ洲翁(蜷募、香j莨黴€》和《脾胃隶コ后序》等有蜈ウ医学方面的著作 多篇。
本文霎ヱS面地反映了元代着名医家朱震亨的一生。隸ヲ扈・ョー叙他的学医扈丞紙,隸エ明他不自貊。于已取得的成就,能深入研究蛻・A蠑黴€、李三家之学,去其短而用其髟ソ,并霑鬯€ 而提出“相火易蜉ィ”、“髦ウ常有余,髦エ常不足”等学譛ッ隗s_。蠑コ隹ヮ。病“不拘于古方”,及其蟇ケ弟子隸イ而不倦,荳コ人耿直隸嚼ウ,不慕闕」利等品德。


欽 定四庫全書 九靈山房集卷十 元戴良撰
【注釈】欽定四庫全書 九靈山房集:三十巻,補編二巻,遺稿五巻。/なお胡鳳丹『金華叢書』所収本は十九巻 で,丹渓翁傳は卷五にあり。 戴良:1317年~1383年。字は叔能,号は九靈山人。浦江(現在は浙江に属す)のひと。丹渓の義烏県と隣り合う。元代の 学者。経史百家の説に通じ,医学を好み,詩文に長じた。淮南江北などに赴任し,中書省儒学となる。元末,太尉張士誠(1321年 - 1367年)に従うも,ともに謀るに足らざるを知り,去る。明初,四明山に隠居する。明・洪武15年(1382),明の太祖は上京して官につくよう召集し たが,病と称し固辞してつかず,獄死した。金華九霊山のふもとに住んでいたため,九霊山人と号した。著書に,『九霊山房集』30巻,『春秋経伝考』32 巻,『和陶詩』1巻などがある。この伝は,元代の著名な医家,朱震亨の生涯の事績を全体的に記述している。儒学を捨て医学を学ぶ経緯を述べ,辨証して治療 し,多くの処方を採用し,古方にこだわらず,すぐれた医術を発揮したことを指摘し,かれのひととなりの正直さ,名誉営利を望まない(不慕栄利=栄利を慕は ず。陶潜・五柳先生伝)高尚な人徳を称賛している。

丹溪翁傳

丹溪翁者,蟀コ之義烏人也,姓朱氏,諱震亨,字彦脩,學者尊之 曰丹溪翁。
【注釈】蟀コ:蟀コ州。現在の浙江省金華地区。
【和訓】丹溪翁なる者は,蟀コの義烏の人なり。姓は朱氏,諱は震亨,字は彦脩。學ぶ 者,之を尊びて丹溪翁と曰う。
【意訳】丹溪翁は,蟀コ州の義烏の人である。姓は朱氏,諱は震亨,字は彦脩。知識人は,かれを尊敬して丹溪翁と呼ん だ。

翁自幼好學,日記千言。稍長從驗艶謳カ治經,為舉子業。
【注釈】驗艶謳カ:官を辞して故郷に帰ってきている先生。 治經:経書を 学習する。 舉子:科挙(官吏登用試験)を受ける人。
【和訓】翁,幼き自り學を好み,日に記すること千言なり。稍や長じて驗艶謳カに從い經を治め, 舉子の業を為す。
【意訳】丹渓翁は,幼少の頃より勉学を好み,毎日一千言を暗誦していた。やや成長してからは,地元の先生について儒教の経典を学 習し,挙子として受験勉強をした。

後聞許文懿公得朱子四傳之學,講道八華山,復往拜焉。
【注釈】許文懿:名は謙,字は益之。元代 の理学家(理学:宋代、心の本体である性と宇宙の根本である理とを重視した学問。宋学。性理学)。金華のひと。幼くして孤児となったが学問に努め,書にお いて読まざるところなく,遊学に来たる者千余人。晩号は白雲山人。卒して文懿と諡される。著書に『読書叢説』『詩集伝名物鈔』『白雲集』などがある。その 事績は『元史』儒学伝にみえる。 得朱子四傳之學:朱子,すなわち朱熹(1130~1200),字は元晦,またの字は仲晦,蟀コ源のひと。宋代の理学家。か れの学説はその婿・黄讎ヲ(1152~1221)に初伝し,何基に再伝し,王柏(『訳解』は「黄柏」)に三伝し,金履祥に四伝する。許謙は金履祥の学生では ないが,王柏におしえをうけていたので「得朱子四傳之學」という。 八華山:金華の県境にある。 
【和訓】後に許文懿公の朱子四傳の學を得て,道 を八華山に講ずるを聞き,復た往きて焉(これ)を拜す。
【意訳】のちに許文懿先生が朱子から四代目の伝承者の学問を修得して,八華山で講義してい ると聞き,また出掛けていき師事した。
※『文憲集』卷24故丹谿先生朱公石表辭に「時郷先生文懿許公,講道東陽八華山中,公上承考亭朱子四傳之 學,授受分明……」とある。

益聞道徳性命之説,宏深粹螳サ,遂為專門。
【注釈】道徳性命之説:朱熹の「性理の学」,すなわち「理 学」。朱氏の考えでは,性すなわち理であり,人と物の性はみな天理の体現である。仁義礼智などの封建的道徳は永遠の天理であり,人の性に固有のものであ り,かならず遵奉すべきものである。 宏深粹螳サ:(内容が)博大・深奥・精粋(詳しく深い・精密)・厳密。
【和訓】益ます道徳性命の説の宏深粹螳サ なるを聞き,遂に專門と為す。
【意訳】ますます性理学の広く深く精密なるものを学び,ついに専門の学業とした。
※『格致余論』宋濂序「君 名震亨,字彦脩,号丹溪,許文懿公之高弟弟子,公講学入華山,時君即従之遊,而聞道最先。」

【原文】
丹溪翁者竭エ,蟀コ之義鳥人也竭オ,姓朱氏,諱震亨,字蠖・修,學者尊之曰丹溪翁。翁自幼好學,日記千言。稍長,從驗艶謳カ治經,爲舉子業竭カ。後聞許文懿公得朱子四 傳之學竭キ,講道八華山竭ク,復往拜焉。益聞道德性命之隱ェ竭ケ,宏深粹密竭コ,遂爲專門。
【注驥梶z
竭エ丹溪翁:朱震亨,号丹溪翁。宋濂《故丹溪先生朱公石表辞》:“先生所居曰丹溪,学者尊之而不敢字,故因其地称之曰丹溪先生云。”
竭オ 蟀コ(wu蜉。):蟀コ州。今浙江金蜊賜n区。 荵我ケ戟F蟀コ州所霎俣I属蜴ソ。
竭カ荳セ子荳噤F蠎碑ッ負ネ荳セ的学荳噤B被荳セ荐的士子称荳セ子。
竭キ隶ク文懿:名隹ヲ,字益之,自号白云山人,金蜊諮l,元代理学家。 朱子四莨黴€:朱子,蜊ス朱熹,字符晦,一字仲晦,号晦庵,徽州蟀コ源人,寓居福建建髦ウ,南宋著名理学家。其学莨黴€于其女婿黄干,再莨黴€于何基,三莨黴€于王柏,四莨黴€于金 履祥。隶ク是金的弟子,但亦曾蟶・哩、柏,故云“得朱子四莨黴€之学”。
竭ク八蜊試R:在金蜊主質境。
竭ケ “道德”句:指朱熹的性理学隸エ。朱氏隶、荳コ性蜊ス是理,人与物的性都是天理的体邇ー;仁荵於迺q等封建道德是永恒的天理,是人性所固有的,蠎皮サ晏ッケ遵奉。
竭コ宏深:博大深霑怐B 粹密:精湛荳・密。

一日,文懿謂曰:「吾蜊ァ病荵・B非精於醫者,不能以起之。子聰明異常人,其肯遊藝於醫乎。」
【注 釈】謂:~に対して言う。 起:病気をなおして立ち上がらす。『史記』扁鵲傳「越人非能生死人也,此自當生者,越人能使之起耳」。 常人:『史記』扁鵲傳 「扁鵲非常人也」。 其:推測をあらわす語気詞。 肯:すすんで・よろこんで~する。 遊藝:技芸をまなぶ。
【和訓】一日,文懿謂いて曰わく: 「吾,病に蜊ァすこと荵・オ。醫に精しき者に非ざれば,以て之を起(た)たすこと能わず。子は聰明にして常人と異なる。其れ肯(あ)えて醫に遊藝せんか。」
【意 訳】ある日,許文懿は丹渓に対して次のように言った。「わたしは病の床に伏して久しい。医学に精通しているものでなければ,わたしを治すことはできない。 あなたは聡明で,凡人とは異なる。医学技術を勉強する気はないだろうか?」

翁以母病脾,於醫亦粗習,及聞文懿之言,即慨然曰:「士闌告ク一 藝,以推及物之仁,雖不仕於時,猶仕也。」乃悉焚棄向所習舉子業,一於醫致力焉。
【注釈】母病脾:『格致余論』自序「震昌三十歳時,因母之患脾 疼,逵セ工束手,由是有志於醫。」(昌は,「マサニ」と読めるが,下文にも「震昌不揣蕪陋」とあるから,亨の異体「莠ッ」の誤ったものではないか。) 慨然: 強く心をふるいおこすさま。 士:士大夫。読書人。 推及物之仁:物,万物,ここでは衆人。おのれを愛することから多くの人に及ぼす仁愛。『二程遺書』巻 11「以己及物,仁也。推己及物,恕也。」 時:当時。この時。現今。 悉焚棄向所習舉子業:『格致余論』宋濂序「乃尽弃去。」 一於醫致力焉:『格致余 論』宋濂序「醫又特其一事。」
【和訓】翁,母の脾を病むを以て,醫に於いても亦た粗(あら)あら習う。文懿の言を聞くに及んで,即ち慨然として曰 わく:「士苟(いやしく)も一藝に精しく,推して物に及ぶの仁を以てすれば,時に仕えずと雖も,猶お仕えるがごときなり。」乃ち悉く向(さき)に習う所の 舉子業を焚き棄て,醫に一(いつ)にし力を致す。
【意訳】丹渓翁はかつて母が脾病をわずらった経験があったため,医学もおおむね学んでいた。許文 懿の言葉を聞くと,すぐに感慨深く答えた。「知識人が一芸に精通し,自己から衆人に推し広める仁愛の心をもってすれば,たとえいま仕官しないとしても,お 上に仕えたのと同じ事です。」そこで以前勉強していた科挙の受験参考書をすべて焼き捨て,医学に一意専心し,努力した。
※劉時覚ら『丹溪學研 究』(中医古籍出版社)5頁「丹溪母戚氏(1260~1346),為"宋朝奉郎知袁州事知如琥之曾孫、從政郎廣德軍司法參軍宋祥之孫、貞孝先生紹之女", 出身詩礼世家,家學淵源。宋濂有『元故朱夫人戚氏墓銘』載其事迹」。(劉時覚「丹溪九族師友考」『中華医史雑誌』1998;28(2)。未見)

【原文】
一日,文懿謂曰:“吾臥病久,非精於醫者,不能以起之。子聰明異常人,其肯游藝於醫乎竭エ?”翁以母病脾,於醫亦粗習,及聞文懿之言,蜊ス慨然曰:“士苟精一 藝,以推及物之仁竭オ,雖不仕於時竭カ,猶仕也。”乃悉焚棄向所習舉子業竭キ,一於醫致力焉竭ク。 

【注驥梶z
竭エ游濶コ:指从事某鬘ケ技濶コ。《隶コ隸ュ・述而》:“志于道,据于德,依于仁,游于濶コ。”
竭オ及物:蜊ス“推己及物”的省称。隹棟ォ心比心,隶セ身螟・n地荳コ蛻ォ人着想。物,指他人。今通作“推己及人”。
竭カ仕:做官。
竭キ向:从前。
竭ク一:荳嶋黶B  致力:集中力量。蜊ス把力量用在某个方面。

時方盛行陳師文、裴宗元所定大觀二百九十七方, 翁窮晝夜是習。
【注釈】大觀二百九十七方:『校正太平惠民和劑局方』。北宋・徽宗の大観年間,太医の陳師文,裴宗元などにより当時の太医局熟薬所 での処方を校正補充してなる。『四庫全書』太平惠民和劑局方十卷指南總論三卷提要「舊本題宋庫部郞中提轄揩置藥局陳師文等奉勅編。案王應麟『玉海』云:大 觀中陳師文等校正『和劑局方』五卷,二百九十七道,二十一門。」 是習:習是の倒置形。
 ※『医籍考』「〔陳氏(師文)校正太平惠民和劑局方〕宋 史五卷 佚。 陳師文等表曰:昔神農嘗百草之味,以救萬民之疾,周官設疾醫之政,以掌萬民之病,著在簡編,為萬世法,我宋勃興,神聖相授,咸以至仁濃德,涵養生 類,且謂札逖・荐臻,四時代有,救恤之術,莫先方書,故自開寶以來,早敕近臣,讎校本草,厥後纂次神醫普救,刊行太平聖惠,重定針艾菫梃梶C校正千金外台,又 作慶豁キ善救,簡要濟逵セ等方,以□天下,或范金謠ュ石,或鏤板聯編,是雖神農之用心,成周之致治,無以過也。天錫神考,睿聖承統,其好生之德,不特見於方論而 已,又設太醫局熟藥所於京師,其恤民逖シ,可謂勤矣!主上天縱深仁,考述前列,爰自崇寧,增置七局,謠ュ以和劑惠民之名,俾夫修製給賣,各有攸司,又設收買藥 材,所以革偽濫之弊,比詔會府,咸置藥局,所以推展祖考之德澤,可謂曲盡。然自創局以來,所有之大,或取於鬻藥之家,或得於陳獻之士,未經參訂,不無舛 訛,雖嘗鏤板頒行,未免傳疑承誤,故有藥味,閼ォ漏銖兩過差,製作多不依經,祖襲間有偽妄,至於貼榜,謬謌セ尤多,殆不可以一二舉也。頃因條具,上達朝廷,繼 而被命,驕エ撰通醫,俾之刊正,於是請書監之秘文,采名賢之別骭пC公私逵セ本,搜獵靡遺,事闕所從,無不研核,或端本以正末,或溯流以尋源,訂其訛繆,折其淆 亂,遺佚者補之,重複者削之,未髢ア豁イ而書成,繕寫甫畢,謹獻於朝,將見合和者,得十全之效,飲餌者,無纖芥之疑,頒此成書,惠及區宇,遂使熙豐惠民之美 意,崇觀述事之洪規,本末巨細,無不畢陳,納斯民於壽康,召和氣於穹壞,億萬斯年,傳之無極,豈不髻辧b,將仕郎,措置藥局,檢髢ア方書,陳承,奉議郎,守太 醫令,兼措置藥局檢髢ア方書裴宗元,朝奉郎,守尚書庫部郎中,提轄措置藥局,陳師文,謹上。」。
 ※参考:「倪維德,字仲賢,蜷ウ縣人.祖、父皆以醫 顯.維德幼嗜學,已乃業醫,以蜈ァ經為宗.病大觀以來,醫者率用裴宗元、陳師文和劑局方,故方新病多不合.乃求金人劉完素、張從正、李杲三家書讀之,出而治 疾,無不立效.」(新校本明史/列傳/卷二百九十九 列傳第一百八十七 方伎/倪維德 ... 7636)。
【和訓】時,方(まさ)に陳師文、 裴宗元定むる所の大觀二百九十七方,盛んに行われ,翁,晝夜を窮(きわ)めて是れ習う。
【意訳】当時は陳師文と裴宗元らが修訂した『和剤局方』が 流行していた最中であり,丹渓翁も日夜これを研修していた。

既而悟曰:「操古方以治今病,其勢不能以盡合。苟將起度量,立規矩,稱權衡, 必也『素』『難』諸經乎。然吾驗縁皮ホ鮮克知之者。」
【注釈】操古方以治今病:清・毛竒齡撰『大學證文』四庫全書提要「譬如増減古方以治今病,不可 謂無遖・礼ホ療,而亦不可謂即扁鵲倉公之舊劑也。」 既而:まもなく。やがて。 起度量,立規矩,稱權衡:『史記』倉公伝「必審診,起度量,立規矩,稱權 衡,合色脉,表裏有餘不足順逆之法,參其人動靜,與息相應,乃可以論。」度量は,ものさしと枡(ます)。規矩は,コンパスとさしがね。權衡は,はかりのお もりとさお。いずれも物事の基準となるもの。三句は,診断の方法や用薬の規準を定めて,それに習熟すること。(新釈漢文大系91『史記』列伝4。218頁 語釈) 必也『素』『難』:『宋濂集』故丹谿先生朱公石表辭「羅(知悌)……爲言學醫之要,必本於素問、難經」。 克:能力が十分にある。
【和 訓】既にして悟りて曰わく:「古方を操りて以て今病を治す。其の勢い,以て盡くは合する能わず。苟も將に度量を起こし,規矩を立て,權衡を稱(はか)らん とせば,必ずや『素』『難』諸經か。然るに吾が驗奄フ諸醫,克(よ)く之れを知る者鮮(すくな)し。」
【意訳】やがて悟って言った。「古代の処方を 操って現代の病に対処するのは,その情勢としては全部が合致するのは無理である。もし病気を診断治療する法則・原則・規準を定めようとしたら,かならずや 依拠すべきは『素問』『難経』などの経典著作ではないか。しかし我が郷土にはこれを十分知る者は少ない。」
※『格致余論』宋濂序「手抄陳師文裴宗 元所定大観二百九十有七方,昼夜而習焉。既而悟曰,故方新病,安有能相値者,泥是且殺人,乃尽弃去。」

遂治裝出遊,求他師而叩之。
【注 釈】治裝:旅じたくを整える。 叩:質問する。尋ねる。
【和訓】遂に裝を治め,出遊し,他師を求めて之れに(/を)叩く。
【意訳】そこで 旅装を整え,遊学に出て,他の先生を訪ね求め,先生に(/医学経典について)質問した。

【原文】
時方盛行陳師文、裴宗元所定大觀二百九十七方竭エ,翁窮晝夜是習竭オ。譌」而悟曰:“操古方以治今病,其勢不能以盡合。苟將起度量,立規矩,稱權衡竭カ,必也 《素》、《難》諸經乎!然吾驗縁皮ホ鮮克知之者竭キ。”遂治裝出遊竭ク,求他師而叩之竭ケ。
【注驥梶z
竭エ大隗u禔F指《太平惠民和蜑kヌ方》。北宋徽宗大隗ai公元1107年─1110年)年髣エ,由蠎燈曝Y中髯亥ク・カ、裴宗元等将当譌カ太医局熟闕ッ所的螟・綠Z正陦・充而 成,共六卷,凡二十一髣ィ,二百九十七方,流莨黴€甚广。
竭オ是荵黴€:蜊ス“荵黴€是”。是,此。
竭カ “起度量”三句:隹鍋。ョ立隸且。疾病的法度、原蛻凵A譬㍼y。隸ュ出《史隶ー・莉東シ黴€》。度量、隗щ驕A譚ロt,均荳コ法度、准蛻剩V荵堰B譚ロt,本指秤。譚メC秤髞、,衡,秤 杆。此引申荳コ譬㍼y。
竭キ魎怐F少。 克:能。
竭ク治装:整理行装。
竭ケ叩:隸「髣ョ。

乃渡浙 河,走呉中,出宛陵,抵南徐,達建業,皆無所遇。
【注釈】浙河:浙江。すなわち銭塘江。 走:往く。おもむく。 呉中:いまの江蘇省呉県。春秋時 代,呉国の都であったため,呉中と称する。 宛陵:漢代の県名。いまの安徽省宣城。 南徐:東晋の州名。いまの江蘇省鎮江。 建業:いまの南京。三国呉の 都。
【和訓】乃ち浙河を渡り,呉中に走り,宛陵に出で,南徐に抵(いた)り,建業に達するも,皆な遇(あ)う所無し。
【意訳】そこで浙河 を渡り,呉中に行き,宛陵に出かけ,南徐にいたり,建業にまで達したが,どこへ行っても『素問』『難経』に通達したすぐれた先生に会うことが出来なかっ た。
※『格致余論』宋濂序「渡豺實ヘ,走呉中,尋師而求其説,久之不能得,復走宛陵,走南徐,走建業,皆無,呉中時郤咲コ酷ケ途,聞方不知所適。」

及 還武林,忽有以其郡羅氏告者。羅名知悌,字子敬,世稱太無先生,宋理宗朝寺人,學精於醫,得金劉完素之再傳,而旁通張從正李杲二家之説。
【注釈】 武林:山名,すなわち浙江省霊隠山。のちには多く杭州を指すようになった。 羅名知悌:羅知悌,杭州の名医。荊山浮屠の弟子。『心印紺珠』1巻を著す。 佚。(李湯卿『心印紺珠経』とは別。) 太無先生:唐代中期の道士,8世紀の嵩山に住む。『嵩山太無先生気経』を著す。『雲笈七籤』所収。大暦 (766~779)中,羅浮山(広東省増城・博羅・龍門の三県に跨る名山。この地の実質的な開祖は葛洪(261~341)。)の王公に出会って,その教え を著す。(平河出版社『道教事典』376頁)羅氏で,浮屠の弟子であるので,羅知悌は太無先生と呼ばれたのであろう。 宋理宗:南宋の皇帝李昀。 1225~1264年在位。 寺人:宮廷内の近侍。 劉完素:(1120~1200)字は守真。通玄処士と号す。河間(いまは河北に属する)のひと。金代 の著名な医家。寒凉派。『素問玄機原病式』などを著す。 再傳:羅知悌の師・荊山浮屠は劉完素の門人。よって羅氏は劉氏の再伝の弟子。 張從正: (1156ごろ~1228)字は子和,戴人と号す。逹「州考城(いまの河南省蘭考の東)のひと。金代の著名な医学家。太医に任ぜらる。劉完素の医学を継承し 発展させた,攻下派の代表的人物。『儒門事親』などを著す。 李杲:(1180~1251)字は明之。鎮州真定(いまの河北省正定県)のひと。秦代,東垣 県と称したので,東垣という号はこれによる。補土派の代表的人物。『脾胃論』などを著す。上記の三人に朱丹渓(養陰派。1281~1358)をくわえて, 金元四大家という。
【和訓】武林に還る及んで,忽ち其の郡の羅氏を以て告ぐる者有り。羅,名は知悌,字は子敬,世に太無先生と稱さる。宋・理宗朝 の寺人。學は醫に精しく,金・劉完素の再傳を得,而して旁(あまね)く張從正、李杲二家の説に通ず。
【意訳】武林にもどると,思いがけなくあるひ とがその郡の羅氏のことを教えてくれた。羅,名は知悌,字は子敬,世人から太無先生と称賛されていた。宋・理宗時代の近習(きんじゅ)。医学に精しく, 金・劉完素の再伝を得て,張從正、李杲二家の説に広く通じていた。
※『格致余論』自序「又四年而得羅太無諱知悌者為之師。」
※『格致余 論』張子和攻謫樺腰_「泰定乙丑夏,始得聞羅太無,并陳芝岩之言,遂往拜之。蒙叱罵者五七次,雜題カьO髢ア月,始得降接。」
※『醫部全録』引『杭州府 志』「羅知悌,字子敬,號太無,錢塘人,以醫侍穆陵,甚見寵厚。丹溪彦修志醫,遍歴江湖,無遇明者,還至武陵,遇知悌,俟門下三載,始得見。知悌愛其誠, 盡以其術授之。彦修遂以醫名東南。」
※『格致余論』宋濂序「劉〔守真〕之學,授之荊山浮屠師,師〔來〕江南始傳大(ママ)無羅知悌子,杭〔于 杭。〕太無,宋宗祐中人,受幸穆陵,得給事禁中,性倨甚,無有能承其学者。又獨至烏傷(地名・浙江省義烏県)朱君始能傳之。初君之未従太無也,手抄陳師 文、裴宗元所定大観二百九十有七方,昼夜而習焉。既而悟曰:「故方新病,安有能相値者,泥是且殺人」。乃盡弃去,渡豺實ヘ,走呉中,尋師而求其説,久之不能 得。復走宛陵,走南徐,走建業,皆無。呉中時郤咲コ酷ケ途,聞方〔郤咲コ黒キ方,〕不知所適。忽有以太無爲告者,遂還杭拝之。凡十往返不得通。君乃立其門,終日不 動。太無憐其志,爲敷暢三家之旨,而析一以経。越數年,悉受其學以歸。」(和刻本)
※『明史』/列傳/卷二百九十九 列傳第一百八十七 方伎/戴思恭7645「戴思恭,字原禮,浦江人,以字行。受學於義烏朱震亨。震亨師金華許謙,得朱子之傳,又學醫於宋蜈ァ侍錢塘羅知悌。知悌得之荊山浮屠, 浮屠則河間劉守真門人也。震亨醫學大行,時稱為丹溪先生。愛思恭才敏,盡以醫術授之。」

然性褊甚,恃能厭事,難得意。
【注釈】 褊:度量が狭い。 恃能厭事,難得意:『後漢書』華佗伝「難得意……佗恃能厭事。」華佗は曹操に仕えることを嫌った。
【和訓】然るに性褊なること 甚だしく,能を恃みて事(つか)うるを厭い,意を得ること難し。
【意訳】しかし性格が偏狭きわまりなく,才能を自慢して,奉仕することを嫌い,彼 に気に入られることは難しかった。

翁徃謁焉,凡數徃返,不與接。己而求見愈篤。
【注釈】己:『四部叢刊』は「巳」,『金華叢書』 も「已」に近い「巳」につくる。各医古文参考書(以下,参考書という)は「已」とする。
【和訓】翁徃きて焉(これ)に謁せんと,凡そ數しば徃返す るも,與(とも)に接せず。已(すで)にして見を求むること愈いよ篤し。
【意訳】丹渓翁は羅知悌に謁見しようとして,何度も訪ねていったが,彼と 直接会うことは,はたせなかった。そうこうしているうちに,羅知悌に会いたいという気持ちはいよいよ堅くなった。

【原文】
乃渡浙河,走蜷ウ中,出宛陵,抵南徐,達建業竭エ,皆無所遇。及還武林竭オ,忽有以其郡羅氏告者。羅名知悌竭カ,字子敬,世稱太無先生,宋理宗朝寺人竭キ,學精於 醫,得金劉完素之再傳竭ク,而旁通張從正、李杲二家之隱ェ竭ケ。然性褊甚竭コ,恃能厭事,難得意。翁往謁焉,凡數往返,不與接。
【注驥梶z
竭エ “度浙河”五句:浙河,蜊ス髓ア塘江。蜷エ中,今江闍丞清蜴ソ。宛陵,今安徽宣城。南徐,今江闍城芙江。建荳噤C今南京。
竭オ武林:旧譌カ杭州的蛻ォ称,以武林山得名。
竭カ鄂蘭シ知悌:鄂嵐m悌,杭州名医,闕・R浮屠的弟子,着有《心印扈€珠》一卷,已佚。
竭キ宋理宗:蜊ス南宋皇帝襍オ昀(公元1224年─1264年在位)。  寺人:螳ォ中近侍。
竭ク蛻・ョ素:字守眞,自号通玄螟ьm,河髣エ(今属河北)人,世称蛻・ヘ髣エ,金代着名医家。著有《素髣ョ玄机原病式》等。  再莨黴€:鄂落¢\学医于闕・R浮屠,浮屠荳コ蛻・ョ素的髣ィ人,故鄂落$・蛻・I再莨黴€弟子。
竭ケ旁:广。
竭コ褊(biヌ始蛹セ):狭隘。

羅 乃進之,曰:「子非朱彦脩乎?」時翁已有醫名,羅故知之。
【注釈】進:外から内に入る。 故:「羅故」という語順から『訳解』「本来」にしたが う。他書は「ゆえに」と解する。
【和訓】羅乃ち之れを進めて,曰く:「子は朱彦脩に非ざるか?」時に翁,已に醫名有り。羅,故(もと)より之れを 知る。 
【意訳】羅知悌はやっと丹渓翁を家に入れ,質問した。「あなたは朱彦脩さんではないか?」当時,丹渓翁はすでに医者として有名だったの で,羅知悌は以前から丹渓翁のことを知っていた。

翁既得見,遂北髱」再拜以謁,受其所教。
【注釈】既~遂:現代語の「既然~就」に あたるのであろう。 見:拝見。「会(あう)」の謙譲語。 北髱」:正堂において師は南面し,弟子は北面する。弟子としての礼。弟子として仕える。『莊子』 田子方「文王於是焉以為太師,北面而問。」 再拜:師に面会するときの大礼。鄭重なる礼拝。古代の九礼のひとつ。 謁:まみえる。目上の人に面会する。
【和 訓】翁既に見(まみ)ゆるを得て,遂に北髱」して再拜して以て謁し,其の教うる所を受く。
【意訳】丹渓翁は羅知悌にまみえることができたので,弟子 としての礼に則り,北面再拝頓首して謁見し,羅知悌の教えを拝受した。

羅遇翁亦甚懽,即授以劉、張、李諸書,為之敷揚三家之罩磨C而一斷於 經,且曰:「盡去而舊學,非是也。」
【注釈】遇:思いがけなく出会う。処遇する。 懽:『四部叢刊』『金華叢書』おなじ。参考書はみな「歡」につ くる。異体字。形容詞。うれしい。動詞として訓む。 敷揚:敷は述べる,ひろげる,つぶさに陳述する。揚は高く持ち上げて明らかにする。 斷:きめる(断 定)。さばく(断裁)。『格致余論』宋濂序「爲敷暢三家之旨,而析一以経。」 盡去而舊學,非是也:『史記』倉公伝「公乘陽慶……使(淳于)意盡去其故 方。」「公乘陽慶……謂(淳于)意曰:盡去而方書,非是也」
【和訓】羅,翁に遇い,亦た甚だ懽(よろこ)ぶ。即ち授くるに劉、張、李諸書を以て し,之れが為に三家の旨を敷揚し,而(しか)も一に經に於いて斷(さだ)む。且つ曰く:「盡(ことごと)く而(なんじ)の舊學を去れ,是(ぜ)に非ざれば なり。」
【意訳】羅知悌は,丹渓翁に出会って,彼もまた非常によろこんだ。早速,劉完素・張従正・李杲の医学書を伝授し,丹渓翁のために三家の学 説の旨意を詳しく説明したが,もっぱらその是非を医経(『内経』『難経』)をもって判断基準とした。なおかつ「あなたが以前に学んだものは,全部捨てよ。 それらは間違っているからである。」とさえ言った。

翁聞其言,渙焉無少凝滯於胸臆。居無何,盡得其學以歸。
【注釈】渙焉:渙然と おなじ。疑問が消え去るさま。「渙然氷釈」氷がとけるように何の疑問も、しこりも残らずに、すっきりすること。〔杜預・春秋左氏伝序〕 胸臆:むね。  居:過ぎる。経る。時間の経過をあらわす。It takes.
【和訓】翁,其の言を聞き,渙焉として少しも胸臆に凝滯無し。居ること何(いく)ば くも無く,盡(ことごと)く其の學を得て以も歸る。
【意訳】丹渓翁は,羅知悌の話を聞いて,胸中に滞積していた疑問がすっかり消え去った。まもな く彼の学説をみな習得して,故郷に帰った。
※『宋濂集』故丹谿先生朱公石表辭「先生聞之,夙疑爲之釋然。學成而歸。」
【原文】
已而求見愈篤,羅乃進之,曰:“子非朱蠖・修乎?”時翁已有醫名,羅故知之。翁譌」得見,遂北面再拜以謁竭エ,受其所敎。羅遇翁亦甚懽,蜊ス授以劉、張、李諸書, 爲之敷揚三家之旨竭オ,而一斷於經竭カ,且曰:“盡去而舊學,非是也竭キ。”翁聞其言,渙焉無少凝滯於胸臆竭ク。居無何,盡得其學以歸。
【注驥梶z
竭エ北面:面向北行拜蟶・V礼。 再拜:古代的一遘漉鉅鰍先后拜荳、次,表示礼闃wイ重。
竭オ敷謇ャ:犹“敷逡・h,髯・q髦仙書。
竭カ一断于扈潤F隹嶋鼕T以医学扈藷T荳コ譬㍼y。
竭キ而:通“蟆煤h,菴黴€。
竭ク豸」焉:消散貌。 少:稍。  胸臆:心胸。臆,胸。

驗隍€ 之諸醫泥陳、裴之學者,聞翁言,即大驚而笑且排。獨文懿喜曰:「吾疾其遂逖ウ矣乎!」
【注釈】其:推測をあらわす。
【和訓】驗奄フ諸醫の, 陳・裴の學に泥(なず)む者,翁が言を聞き,即ち大いに驚き,而して笑い且つ排す。獨(ひと)り文懿のみ喜びて曰く:「吾が疾其れ遂に逖ウ(いえ)ん。」
【意 訳】故郷の陳師文、裴宗元の学説(『和剤局方』)に拘泥していた多くの医者は,丹渓翁の話を聞くと,大いに驚き,嘲笑し,なおかつ排斥しようとした。許文 懿だけは喜んで,「わたしの長年の病気もとうとう癒えるにちがいない。」と言った。

文懿得末疾,醫不能療者十餘年,翁以其法治之,良驗。
【注 釈】末:四末。四肢。てあし。 驗:効験。効能。ききめ。
【和訓】文懿,末疾を得て,醫の療する能わざる者(こと)十餘年なり。翁,其の法を以て 之れを治すに,良(まこと)に驗あり。
【意訳】許文懿は四肢の病気にかかり,治療してもなおらない状態が十数年にわたっていた。丹渓翁は自分のや り方で文懿を治療したところ,大変よく効いた。

於是諸醫之笑且排者,始皆心服口譽。
【注釈】於是:「於」は原因・理由をあらわ す。 始:ある条件が備わったうえで,次の動作・状態が出現する意。ようやく。そうしてから。 心服:心から尊敬して従うこと。『孟子』公孫丑上「以力服 人者,非心服也,力不贍也。」 口譽:『礼記』表記「子曰:君子不以口譽人,則民作忠。」
【和訓】是(ここ)に於いて諸醫の笑い且つ排する者,始 めて皆な心服口譽す。
【意訳】こういうことがあったので,丹渓翁を嘲笑し排斥しようとした医者たちは,ようやく心から敬服し,口々にほめるように なった。
※『格致余論』宋濂序「郷之群醫方泥陳裴學,聞君言皆大驚,已而又皆大服,翕然共尊事之。」
※『宋濂集』故丹谿先生朱公石表辭 「郷之諸醫,始皆大驚,中而笑且排,卒乃大服,相推尊願爲弟子。」

數年之間,聲聞頓著。翁不自滿足,益以三家之説推廣之。
【注 釈】聲聞:世間のよい評判。名声。『孟子』離婁下「聲聞過情,君子恥之。」 頓:突然であるともに,程度が大きいことをあらわす。急に,かつ大いに。
【和 訓】數年の間,聲聞,頓(とみ)に著(あらわ)る。翁,自(みずか)らは滿足せず,益ます三家の説を以て之れを推し廣む。
【意訳】数年の間に,丹 渓翁の名声はにわかに顕著となった。しかし丹渓翁はそれに自己満足せず,さらに劉完素・張従正・李杲の三人の説を発展,拡充させた。

【原文】
驗鉛V諸醫泥陳、裴之學者,聞翁言,蜊ス大驚而笑且排,獨文懿喜曰:“吾疾其遂逖ウ矣乎竭エ!”文懿得末疾竭オ,醫不能療者餘十年,翁以其法治之,良驗。於是諸醫之 笑且排者,始皆心服口譽。數年之間,聲聞頓著竭カ。翁不自滿足,益以三家之隱ェ推廣之。
【注驥梶z
竭エ逖ウ(chナ講抽):病愈。
竭オ末疾:四肢的疾病。据《扈ュ名医邀サ案》卷十六霓ス,隶ク氏的末疾因遘ッ痰兼冒寒湿而成,以至气血不逡・C行蜉ィ不便,郛黴€扈オ十余年,后由朱氏隹ヮ。而愈。
竭カ声髣サ(wen髣ョ):名声。


謂劉、張之學,其論臟腑氣化有六,而於濕熱相火三氣致病為最多,遂以推陳致新瀉火之法療之, 此固髙出前代矣。
【注釈】謂:人や事物を評論する。考える。見なす。 其論:劉完素『素問玄機原病式』六氣爲病,張従正『儒門事親』など参照。  臟腑氣化:蔵府の生理機能,気機の運行変化。ここではそれらに対する影響。『素問玄機原病式』火類「臟腑經絡……而能為其病,六氣互相干而病也。」 推陳 致新:古いものを去って,新しいものを得る。ここでは寒凉の薬を用いて火熱を清瀉する治療法の比喩。 固:後文に前文をくつがえす表現をともなう。
【和 訓】謂(おもえ)らく,劉・張の學,其れ臟腑氣化に六有り,而して濕熱相火の三氣に於いて病を致すこと最も多しと為すことを論じ,遂に陳きを推し新しきを 致し,火を瀉すの法を以て之れを療す,此れ固(もと)より髙く前代より出づ,と。
【意訳】丹渓翁は,劉完素と張従正の学説について次のように評価 した。蔵府の気の働きに影響を与えるものには風・寒・暑・湿・燥・火の六気があるが,そのなかで湿・熱・相火の三気が病因となることが最も多いと考え,つ いに古いものを推し出して新しいものを得る,火を瀉す方法で病気を治療するようになった。これはもちろん過去の治療法より優れている。

然 有髫k負ホ動,或髫wz兩虚濕熱自盛者,又當消息而用之。
【注釈】髫k負ホ動:『百篇』「朱氏の考えでは,体の陰津が不足すると,相火は動じやすく,各 種の病変をおこす」。 髫wz兩虚、濕熱自盛:『百篇』「およそ陰液が虚衰すれば,かならず内熱を生ずる。陽気が虚衰すれば多く湿を化せない。ゆえに陰陽両 虚のひとは,多く湿熱過盛の証をあらわす」。 消息:斟酌する。「消」は消減。「息」は増加。ここでは処方での薬の用い方を指す。
【和訓】然れど も髫k浮オて火動じ,或いは髫wz兩虚して濕熱自(おのずか)ら盛んとなる者有り。又た當に消息して之れを用ゆべし。
【意訳】しかし,陰が虚して火邪 が変動したり,あるいは陰陽ともに虚して,体内の湿熱が自然に旺盛となるものがある。これらはまた陰陽の消長変化の情況を酌み取って柔軟に瀉火の方法を用 いるべきである。

【原文】
謂劉、張之學,其論臓腑氣化有六,而於濕熱相火三氣致病爲最多竭エ,遂以推陳致新瀉火之法療之竭オ,此固高出前代矣。然有陰陌實ホ動竭カ,或陰陽兩陌巵[熱自盛者 竭キ,又當消息而用之竭ク。
【注驥梶z
竭エ “其隶コ”二句:蛻・ョ素、蠑黴€从正隶コ述閼丈D感受邪气,有鬟至ヲ暑湿燥火六遘香C其中尤以湿、辜ュ和相火三气致病荳コ最多。隸ュ隗=s素髣ョ玄机原病式・六气荳コ病》。蠑黴€氏亦宗 其隸エ。
竭オ推髯・v新:隹桃ン治逍酪繪・v旧法,蛻帛ッシ新法。蜊ス以寒凉之闕ッ清辜ュ豕サ火。
竭カ髦エ虚火蜉ィ:指人体髦エ津不足,相火妄蜉ィ的病理邇ー象。
竭キ “或髦エ髦ウ”句:凡髦エ津虚衰,必生内辜ュ;髦ウ气虚衰.多不化湿。故髦エ髦ウ荳、虚的人,多邇ー湿辜ュ霑≒キ之隸=B
竭ク消息:斟酌。消,消蜃潤G息,增加。

謂李之論飲食勞倦,内傷脾胃,則胃閼・V陽不能以升舉,并及心肺之氣,陷入中焦,而用補中益氣之劑治之,此亦前人之所無也。
【注 釈】胃閼・V陽:『百篇』「胃気を指す。李東垣の考えでは,胃気は諸陽升発の本である。ゆえに治療上は,脾胃の陽を升発することを主とする」。『訳解』「脾 胃は表裏するので,胃はすなわち脾胃である」。『新編』「脾胃が水穀の精微を運化し,陽気を升発するはたらきを指す」。
【和訓】謂(おもえ)ら く,李の飲食勞倦は,内に脾胃を傷(やぶ)るは,則ち胃閼・フ陽,以て升舉し,并びに心肺之氣に及ぶ能わず,中焦に陷入するを論じて,而して補中益氣の劑を 用いて之れを治するは,此れも亦た前人の無き所なり。
【意訳】丹渓翁は,李杲を次のように評価した。飲食の不摂生と疲労困憊は,脾胃を損傷し,胃 の陽気を上昇させ,心肺の気に及ばせることができなくなり,中焦に落ち込んでしまう。それに対して,補中益気(中気=脾胃の気)を補益する方剤を使って治 療することは,これもまた前人には見られない(優れた)治療法である。

然天不足於西北,地不滿於東南。天,陽也;地,髫v轣B西北之人,陽 氣易於降;東南之人,髫iホ易於升。
【注釈】天不足於西北,地不滿於東南。天,陽也;地,髫v轣B:『素問』陰陽応象大論(05)「天不足西北,故西 北方陰也,……地不滿東南,故東南方陽也」。『実用』「これは,我が国の地勢と宇宙陰陽の関係から言っている。古代人は天を陽とみなした。西北方は気候が 寒冷であるので陰に属す。陰が盛んであれば陽はタリナイ。ゆえに地不滿於東南という。気候環境がこのようであるため,身体の陰陽もこれと相応ずる。」 髫闊€ 火:心火。
【和訓】然れども天は西北に足らず,地は東南に滿たず。天は陽なり。地は髫bネり。西北の人は,陽氣 降り易し。東南の人は,髫iホ 升り 易し。
【意訳】しかし,天は西北に足りず,地は東南に充分ではない。天気は陽気であり,地気は陰気である。西北の人は陽気が下降しやすく,東南の 人は陰火が上昇しやすい。

闌黒s知此,而徒守其法,則氣之降者固可愈,而於其升者亦從而用之,吾恐反增其病矣。
【和訓】苟も此れを 知らず,而して徒(いたずら)に其の法を守らば,則ち氣の降る者は固(もと)より愈ゆべし。而るに其の升る者に於いて亦た從いて之れを用いば,吾さ反って 其の病いを增さんことを恐る。
【意訳】仮にもこのことを知らず,いたずらに李杲の治法を墨守すれば,陽気の下降する疾病は当然治癒するが,これに 対して陽気の上昇する疾病にもこの治法を用いると,かえって病情が悪化するのではないかと心配する。

【原文】
謂李之論飲食勞倦,蜈ァ傷脾胃,則胃閼・V陽不能以升舉竭エ,并及心肺之氣,陷入中焦,而用補中益氣之劑治之竭オ,此亦前人之所無也。然天不足於西北,地不滿於東 南竭カ。天,陽也;地,陰也。西北之人,陽氣易於降;東南之人,陰火易於升竭キ。苟不知此,而徒守其法,則氣之降者固可愈,而於其升者亦從而用之,吾恐反增其 病矣。

【注驥梶z
竭エ胃閼・V髦ウ:指胃气。李氏隶、荳コ胃气是隸ク髦ウ升蜿藻V本,故云。
竭オ “陦・中益气”句:李氏重脾胃,蠑コ隹ワ。蜿争ン气.故在治逍酪繹ネ升髦ウ益气法隹ヮ。脾胃。他所制的陦・中益气豎、,由黄闃ェ、人参、甘草、当蠖秩A橘皮、白譛ッ、升麻、柴胡等 闕ッ扈юャ,功能隹・。・脾胃,升髦ウ益气。隗=s脾胃隶コ・鬣ョ食蜉ウ倦所莨、始荳コ辜ュ中隶コ》。
竭カ “天不足”二句:隸ュ隗=s素髣ョ・髦エ髦ウ蠎拍ロ大隶コ》。霑剞・就我国地蜉ソ和髦エ髦ウ的蜈ウ系而言的。西北方气候寒冷蛻剔ョ髦エ,髦エ盛而髦ウ不足;荳恣・蘒レシ辜ュ属髦ウ,髦ウ盛而髦エ不 足。气候邇ッ境如此,人身的髦エ髦ウ也与之相蠎煤B
竭キ髦エ火:指心火.

乃以三家之論,去其短而用其長,又復蜿・V以太極之 理,『易』、『禮記』、『通書』,『正蒙』諸書之義,貫穿『内經』之言,以尋其指歸。
【注釈】太極:古代哲学術語。万物を生む本源。宋・周敦頤 (号は濂渓1017~73)『太極図説』およびその注,朱熹『太極図説解』を参照。朱熹は「動静陰陽の理は已に悉く其(太極)の中に具わる」という。  『易』:五経のひとつ。『周易』『易経』ともいう。吉凶を占う書。陰陽の理を説く。陰と陽と二つの組み合わせで八卦を画き,これを重ねて六十四卦の変化を そろえる。経に対する解釈である伝(十翼)によれば,陰陽の前に太極がある。 『禮記』:儒家の基本的な経書(十三経)のひとつ。『礼経』の注記の意。  『通書』:宋・周敦頤の著。朱熹によれば「蓋し先生の学,その妙,太極の一図に具わる。通書の言,みなこの蘊を発す」という。 『正蒙』:宋・張載の書。 1076年。「太虚即気の実在を前提として,その聚散の運動で宇宙万有の生成発展を説く」(『中国思想辞典』250頁)。 尋:さがす。
【和訓】 乃ち三家の論を以て,其の短を去りて其の長を用い,又た復た之れを蜿・キるに太極の理,『易』、『禮記』、『通書』,『正蒙』諸書の義を以てし,『内經』の 言を貫穿して,以も其の指歸を尋ぬ。
【意訳】こうして劉・張・李の三家の論述を用いて,その短所を去ってその長所を利用し,また太極の理,『周 易』『禮記』『通書』『正蒙』などの書物の内容を参考しながら,『内経』の理論で一貫させ,その意味するところを探しもとめる。
※『太極図説』 「無極而太極。太極動而生陽,動極而靜,靜而生陰。靜極復動。一動一靜,互為其根;分陰分陽,兩儀立焉。陽變陰合,而生水、火、木、金、土。五氣順布,四 時行焉。五行,一陰陽也;陰陽,一太極也;太極,本無極也。五行之生也,各一其性。無極之真,二五之精,妙合而凝。「乾道成男,坤道成女」,二氣交感,化 生萬物。萬物生生,而變【5】化無窮焉。惟人也,得其秀而最靈。形既生矣,神發知矣,五性感動,而善惡分,萬事出矣。聖人定之以中正仁義,聖人之道,仁義 中正而已矣。而主靜,無欲故靜。立人極焉。故「聖人與天地合其徳,日月合其明,四時合其序,鬼神合其吉凶」。君子修之吉,小人悖之凶。故曰:「立天之道, 曰陰與陽;立地之道,曰柔與剛;立人之道,曰仁與義。」又曰:「原始反終,故知死生之説。」大哉易也,斯其至矣!」
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~dokisha/archives/text/zi/zhoudunyi
※ 『正蒙』太和篇第一「太和所謂道,中涵浮沈、升降、動靜、相感之性。」
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~dokisha/archives/text/zi/zhengmeng

而 謂『内經』之言火,葢與太極動而生陽,五性感動之説有合;其言髫sケ虚,則又與『禮記』之養髫hモ同。因作相火及陽有餘髫us足二論以發揮之。
【注釈】 太極動而生陽,五性感動:『太極図説』に見える。上記の引用文を参照。『百篇』「五行にはそれぞれ属性があり,動ずれば万物を化生する。朱丹渓の理解は, 人の五蔵の性は,物に感ずれば,みな動く。『素問』至真要大論の病機十九条中,火に属するもの五あり。この火は動から生じる。よって「相火の病は蔵府より 出づ」と断ずる」。丹溪『格致余論』相火論を参照。 髫sケ虚:『素問』太陰陽明論(29)「陽者天氣也,主外。陰者地氣也,主内。故陽道實,陰道虚」。 『百篇』「人体の精血陰気は損傷しやすいことを指す。これは朱丹渓が主張する「陰は常に不足する」という理論の根拠のひとつである」。『格致余論』陽有餘 陰不足論を参照。 『禮記』之養髫aF『禮記』郊特牲に「凡飲,養陽氣也。凡食,養陰氣也」とあるが,『格致余論』陽有餘陰不足論にいう「『禮記』注曰:惟 五十然後養陰者有以加」の出所不詳。
【和訓】而して謂(おも)えらく,『内經』の火を言うは,葢(けだ)し「太極動じて陽を生ず」,「五性感動 す」の説と合有り。其の「髫sケ虚」を言うは,則ち又た『禮記』の養髫bニ意同じ。因りて相火及び陽有餘髫us足の二論を作り,以て之れを發揮す。
【意 訳】考えてみれば,『内経』の論じている火は,『太極図説』にいう「太極動じて陽を生ず」,「五性感動する」という説と合致しているところがある。『内 経』が言う「陰道虚」は,また『礼記』にいう「養陰」と意味は同じである。そのため(『格致余論』に)相火論と陽有餘陰不足の両論を撰して,内容を詳しく 述べた。

【原文】
乃以三家之論,去其短而用其長,又復參之以太極之理竭エ,《易》、《禮記》、《通書》、《正蒙》諸書之義竭オ,貫穿《蜈ァ經》之言,以尋其指歸竭カ。而謂《蜈ァ經》 之言火,蓋與太極動而生陽,五性感動之隱ェ有合竭キ;其言陰道陌宦C則又與《禮記》之養陰意同竭ク。因作相火及陽有餘而陰不足二論,以發揮之竭ケ。
【注驥梶z
竭エ太譫#V理:古人以‘太譫=h荳コ派生万物的本原,最早隗§ー《易・系辞上》。北宋哲学家周敦鬚瑞・溽サ・s太譫∝崟》,并撰《太譫∝崟隸エ》,以荳コ“太譫∝勘而生髦ウ,静而 生髦エ”。朱氏采其隸エ,而以相火立隶コ,提出“髦ウ有余髦エ不足”的隶コ点。
竭オ通荵ヲ:指周敦鬚嵩I《周子通荵ヲ》,其内容主要是霑寤・ュ・蜿第硯《太譫∝崟隸エ》中的思想。 正蒙:北宋蠑黴€霓ス着。以荳コ宇宙万物皆原于气。朱氏的医学思想,多参合以上隸ク荵ヲ的哲理。
竭カ指蠖秩F意旨所在。
竭キ五性感蜉ィ:隸ュ出《太譫∝崟隸エ》。原隹東ワ行各有属性,蜉ィ而化生万物。朱氏引用荳コ人的五藏之性,荳コ物所感,不能不有所蜉ィ,火蜊ス由蜉ィ而生,因而断以“相火荳コ病, 出于閼丈D”。
竭ク “其言”二句:“髦エ道虚”一隸ュ隗=s素髣ョ・太髦エ髦ウ明隶コ》,指人身的精血髦エ气最易謐泱ユ。朱氏在《格致余隶コ》中隶コ“髦ウ有余髦エ不足”云:“又按《礼隶ー》注曰:‘人 惟五十,然后蜈サ髦エ。’”霑剿逅・他主蠑黴€蜈サ髦エ的理隶コ根据之一。
竭ケ “因作”句:霑吩ク、隶コ隗§ー《格致余隶コ》。其荵ヲ荳コ朱氏的代表医着。

  以下,教科書,節略す。
其論相火有曰:陽動而變,髫りホ而合,而生水火木金土。然火有二焉,曰君火,曰相火。君火者,人火也;相火者,天火也。火内 髫nァ外陽,主乎動者也,故凡動皆屬火。以名而言,形質相生,配於五行,故謂之君;以位而言,生於虚無,守位禀命,故謂之相。天主(「主」,醫部全録にな し)生物恒於動,人有此生亦恒於動,然其所以恒於動者,皆相火助之也。見於天者,出於龍雷則木之氣,出於海則水之氣也。具於人者,寄於肝腎二部,肝屬木而 腎屬水也。膽者肝之府,膀胱者腎之府,心胞絡者腎之配,三焦以焦言,而下焦司肝腎之分,皆髫nァ下者也。天非此火不能生,人非此火不能以有生。天之火雖出於 木而皆本乎地,故雷非伏、龍非蟄、海非附於地,則不能鳴,不能飛,不能波也。鳴也,飛也,波也,動而為相火者也。肝腎之髫aC悉具相火,人而同乎天也。或 曰:相火,天人所同,東垣何以指為元氣之賊?又謂:火與元氣不兩立,一勝則一負。然則如之何而可使之無勝負乎?曰:周子曰,神發知矣,五性感動而萬事出。 五者之性,為物所感,不能不動。謂之動者,即『内經』五火也。相火易動,五性厥陽之火,又從而扇之,則妄動矣。火既妄動則煎熬真髫aC髫k舞・病,髫p竭・死。 君火之氣,經以暑與熱言之,而相火之氣則以火言,葢表其暴悍酷烈,有甚於君火也。故曰:相火,元氣之賊。周子曰:聖人定之以中正仁義而主靜。朱子亦曰:必 使道心常為之主,而人心豈上纐ス焉,此善處乎火者也。人心聽命於道心,而又能主之以靜,彼五火將寂然不動。而相火者,惟有扶助造化,而為生生不息之運用爾! 夫何元氣之賊哉?或曰:『内經』相火,注言少髫oュ陽矣,未嘗言及厥髫qセ陽,而吾子言之何也?曰:足太陽少髫aC東垣嘗言之。治以炒柏(醫部全録作「蘗」), 取其味辛,能瀉水中之火。戴人亦言膽與三焦,肝與胞絡,皆從火治,此蜴ッ指龍雷之火也。余以天人之火,皆生於地,如上文所云者,實廣二公之意耳。或曰:『内 經』言火者非一,徃徃於六氣中見之,而言臟腑者,未之有也。二公豈他有所據耶?曰:經以百病皆生於風寒暑濕燥火之動而為變者,岐伯蜴ッ指病機一十九條,而属 火者五,此非相火為病之出於臟腑者乎?考之『内經』諸熱迸€逖尅・屬之火,諸狂躁越則屬之火,諸病閭侮賴ノ酸驚駭則屬之火;又『原病式』曰:諸風掉眩屬於肝火之 動也;諸氣閹ケ鬯ー病痿屬於肺火之升也;諸貅シ腫滿屬於脾火之勝也;諸痛痒瘡瘍屬於心火之用也。是皆火之為病,出於臟腑者然也。噫!以陳無擇之通達,猶以暖熾論 君火,日用之火論相火,是宜後人之聾瞽哉!其論陽有餘髫us足,有曰:人受天地之氣以生,天之陽氣為氣,地之髫ぁ・ラ血,然氣常有餘而血常不足,何為其然也? 天大也,為陽而運於地之外;地居天之中為髫aC而天之大氣舉之。日實也,屬陽而運於月之外;月缺也,屬髫nァ禀日之光以為明者也。則是地之髫・゚不勝夫天之陽, 月之髫v瀦s敵於日之陽。天地日月尚然,而况於人乎。故人之生,男子十六蠏落ァ精通,女子十四蠏落ァ經行。是有形之後,猶有待於乳哺水穀之養,而後髫iツ與陽配, 成乎人而為人之父母,古人必近三十二十而後嫁娶者,可見髫ぁ・V難於成,而古人之善於保養也。錢仲陽於腎有補而無瀉,其知此意者乎?又按『禮記』注曰:人惟 五十,然後養髫nメ。有以加『内經』(「者有以加内經」を醫部全録は「又内經有云」に作る):年至四十,髫ぁ・ゥ半而起居衰矣。(「矣」を醫部全録は「者, 蓋」に作る)男子六十四蠏落ァ精絶,女子四十九蠏落ァ經斷。夫以髫ぁ・V成,止為三十年之運用,而竟已先虧,可不知所保養也。經曰:陽者天也,主外;髫nメ地也, 主内。故陽道實,髫sケ虚。斯言豈欺我哉?或曰:騾コ取諸天地日月,近取諸男女之身,曰有餘,曰不足,吾已知之矣。人在氣交之中,今欲順髫wz之理,而為攝養之 法,如之何則可?曰:主閉藏者,腎也;司疎泄者,肝也。二臟皆有相火,而其系上屬於心。心,君火也,為物所感則易於動,心動則相火翕然而隨。聖賢教人收心 養心。其旨深矣。天地以五行更迭衰旺而成四時,人之五臟六腑亦應之而衰旺。四月屬巳,五月屬午,為火大旺,火為肺金之夫,火旺則金衰。六月屬未,為土大 旺,土為水之夫,土旺則水衰。况腎水嘗藉肺金為母,以補助其不足,古人於夏月必獨宿而淡味,兢兢業業,保養金水二藏,正嫌火土之旺爾。『内經』又曰:冬藏 精者,春不病温。十月屬亥,十一月屬子,正火(醫部全録は「元」)氣潛伏閉藏以養其本然之真,而為來春升動發生之本,若於此時不恣欲以自謌普C至春升之際, 根本壯實,氣不輕浮,尚何病之可言哉?

於是翁之醫益聞,四方以病來迎者,遂輻蜃痩欄ケ,翁咸往赴之。
【注釈】聞:名声・声望が聞こ える。評判になる。有名になる。 輻蜃早F『四部叢刊』『金華叢書』は「輻湊(二水)」につくり,参考書は「輻輳」につくる。〔車の輻(ヤ)が轂(コシキ) に集まる意から〕物事が一か所により集まって、こみ合うこと。 翁咸往赴之:『宋濂集』故丹谿先生朱公石表辭「雖百里之遠弗憚也。」
【和訓】是 (ここ)に於いて,翁の醫,益ます聞こえ(/聞こえあり。),四方の病を以て來たりて迎える(/迎えに來たる)者,遂に道に輻蜃曹キ。翁咸(み)な之れに往 きて赴く。
【意訳】こうして丹渓翁の医術はますます有名になり,四方八方から往診を求める者が殺到して道をふさいだが,丹渓翁はどこにでも出掛け て行って治療した。

其所治病凡幾,病之迢€何如,施何良方,飲何藥而愈,自前至今,驗者何人,何縣里、主名,得諸見聞,班班可紀。
【注 釈】其所治病……:『史記』倉公伝「(淳于)意家居,詔召問所爲治病,死生驗者幾何人,主名爲誰,詔問故太倉長臣意,方伎所長,及所能治病者,……嘗有所 驗,何縣里人也,何病,醫藥已其病之状,皆何如,具悉而對。」 何縣里:何縣何里。里は,縣以下の基本行政単位。 主名:病人の姓名。 諸:兼詞。「之 於」。 班班:明かで,はっきりしているさま。また「斑斑」につくる。 紀:「記」に通ず。記録する。
【和訓】其の治する所の病,凡そ幾つ,病の 迢€何如(いかん),何の良方を施す,何の藥を飲みて愈ゆ,前自り今に至るまで,驗ある者何人,何(いず)れの縣里・主の名,諸(これ)を見聞に得て,班班 として紀(しる)すべし。
【意訳】丹渓翁が治療した病気の数は全部でいくつか,病気の症状はどのようであったか,どんな良い処方を用いたのか,な んの薬方を飲んで治癒したのか。過去から現在にいたるまで,治癒した人は何人,住所・氏名(何県何里に住んでいて,病人の名前は何か)については,見聞し たことから,はっきりと記録することができる。(『百篇』:現地のひとびとの見聞を整理したカルテをもとに,みなはっきりと記載しておく。)

【原文】
於是,翁之醫益聞。四方以病來迎者,遂輻湊於道竭エ,翁咸往赴之。其所治病凡幾,病之迢€何如,施何良方,飲何藥而愈,自前至今,驗者何人,何縣里、主名竭オ, 得諸見聞,班班可紀竭カ。
【注驥梶z
竭エ霎仙≡:隹灯@霓ヲ霎仙≡集于豈o縺B蝟サ聚集
竭オ何蜴ソ里:何蜴ソ何里。里,旧譌カ蜴ソ以下的基螻ms政蜊譜ハ。 主名:指病人的姓名。
竭カ班班:亦作“斑斑”,明譏セ貌。  郤ェ:通“隶ー”,隶ー蠖普B



浦江鄭義士病滯下,一夕忽昏仆,目上視,溲注而汗羞シ。
【注釈】浦江:淅江省金華 浦江県。 義士:①正義を守る立派な人。②財産などを他人に施す人。③官吏をやめたのち,故郷ではなく,以前の任務地に住んでいる優れたひと。方以智『通 雅』稱謂「隷釋謂:舊所治官府……素非所闥栫i=涖/たずさわる・位置につく。涖政=政務を執る。涖官=官位につく),則曰義士、義民。」『局方発揮』「浦 江鄭兄,年近六十,奉養受用之人也。」 滯下:裏急後重。大便が粘り滞り,下りがたき故,この名あり。渋り腹。 溲注:大小便失禁すること,灌注(そそ ぐ)するがごとし。溲は,大小便,特に小便をいう。 羞シ:『四庫全書』はワ冠につくる。『四部叢刊』『金華叢書』は「瀉」(ウ冠)につくる。参考書は 「泄」につくる。
【和訓】浦江の鄭義士,滯下を病む。一夕忽(たちま)ち昏仆し,目上視し,溲注して汗羞シす。
【意訳】浦江に住む鄭義士が 渋り腹を病んだ。ある夕方,突然昏倒し,瞳がつり上がり,失禁し,汗がしたたるほどであった。

翁診之,脉大無倫,即告曰:「此髫k風z暴絶 也,葢得之病後酒且内;然吾能愈之。」
【注釈】脉大無倫:ここは『史記』倉公伝の診藉①「其代絶而脉賁者,病得之酒且内」をふまえるか?『霊枢』 邪気蔵府病形(04)「脉大者,尺之皮膚亦賁而起」。『霊枢』玉版(60)「腹脹,便血,其脉大時絶,是二逆也」。「倫」秩序。無倫≒代脈。 髫k風z暴 絶:『四部叢刊』『金華叢書』同じ。参考書は,「髫k侮ァ陽暴絶」につくる。「絶」尽くす,枯渇する。現代中訳「絶失」「失」「決(=決潰して)絶」「離 絶」「亡」。 葢:『四部叢刊』は「盖」につくり,『金華叢書』と参考書は「蓋」につくる。異体字。重文で,後節の文頭に置き,前節に対する説明や解釈を 施す。「もともと……(であるから)」。「だから……」。「思うに」。「おそらく」。 酒且内:『史記』倉公伝の診藉①「齊侍御史成……成之病,得之飮酒 且内……脉法曰:……其代絶而脉賁者,病得之酒且内。」酒・内はともに動詞。内は入房。なお,参考書の使用する旧字体は「蜈ァ」(冂+入)。異体字。
【和 訓】翁,之れを診るに,脉大にして倫(つね/ついで)無し。即ち告げて曰く:「此れ髫k浮オて陽暴(にわか)に絶すればなり。葢し之れを病の後に酒のみ且つ 内するに(/病後の酒且つ内に)得たり。然れども吾能く之れを愈やさん。」
【意訳】丹渓翁が彼の脈を診ると,洪大で乱れていた。そこで次のように (本人は昏倒し人事不省であるから,家人に)告げた。「これは陰が虚して陽気が急激に絶えたためです。きっと罹患した後にもかかわらず(/病み上がりに) 酒を飲んで女色に及んだからです。しかし,この病(/彼を)を治すことができるでしょう。」

急命治人參膏,而且促灸其氣海。頃之手動,又 頃而唇動。
【注釈】治:つくる(『訳解』『2版』)。煮て作る(『実用』『自学』)。調合する(『新編』『百篇』)。 人參膏:下文参照。膏とい うが内服薬である。 氣海:一名閼冶Θ.一名下肓.在臍下一寸五分.任脉氣所發.刺入一寸三分.灸五壯.【甲乙巻3/医統】
【和訓】急ぎて命じて人 參膏を治(つく)らしめ,而して且つ促(せま)りて其の氣海に灸す。頃之(しばらく)して手動き,又た頃(しばらく)して唇動く。
【意訳】急いで 人参膏をつくるように命令し,さらに急いで患者の気海に灸をすえた。しばらくたって手が動き,またしばらくして唇が動いた。

及參膏成,三 飲之甦矣。其後服參膏盡數斤,病已。
【注釈】甦:蘇の異体字。 斤:唐代から清代まで1斤=596.82g。
【和訓】參膏成るに及んで, 三たび之れを飲ましむるに甦(よみがえ)る。其の後,參膏を服し盡くすこと數斤にして,病已ゆ。
【意訳】人参膏ができたので,三回飲ませると,意 識が戻った。その後,人参膏を数斤飲み干すと,病気が治った。

 【原文】
浦江鄭義士病滯下竭エ,一夕忽昏仆,目上視,溲注而汗泄竭オ。翁診之,脈大無倫竭カ,蜊ス告曰:“此陰陌寰ァ陽暴邨楓轣C蓋得之病後酒且内竭キ,然吾能愈之。”蜊ス命治人 參膏,而且促灸其氣海竭ク。頃之手動竭ケ,又頃而唇動。及參膏成,三飲之甦矣竭コ。其後服參膏盡數斤,病已。
【注驥梶z
竭エ浦江:今属浙江。
竭オ溲注:隹淘蜿ャ便失禁,如灌注一般。溲,大小便
竭カ莨ヲ:次序。
竭キ酒且内:隹馴・ョ酒后又行房事。酒,用作蜉ィ隸香B
竭ク气海:穴位名。属任脉,位于腹正中郤ソ閼翠コ一寸五分螟пB
竭ケ鬘キ之:不久。下文“鬘キ而”荵遠ッ。之、而,均荳コ助隸香B
竭コ甦:“闍潤h的蠑qフ字。

※朱震亨『局方発揮』「或曰:『局方』言髫闊€ 盛髫nラ盛也。髫nラ既盛,陽有暴絶之理。子之所言,與陽氣相對待之髫v轣B果有髫ょk而陽絶者,吾子其能救之乎? 予曰:髫wz二字,固以對待而言,所指無定在,或言寒熱,或言血氣,或言臓腑,或言表裏,或言動静,或言虚實,或言清濁,或言竒偶,或言上下,或言正邪,或 言生殺,或言左右,求其立言之意,當是髫kS之邪耳。髫kS為邪,自當作邪鬼治之,若髫p趺k而陽暴絶者,嘗治一人。浦江鄭兄,年近六十,奉養受用之人也。仲夏 荵・ウ滯下,而又犯房勞,忽一晩正走厠,間兩手舒撒,兩眼開而無光,尿自出,汗如,喉如諡ス鋸,呼吸甚罐イ,其脉大而無倫次,無部位,可畏之甚。余適在彼,急 令煎人參膏,且與灸氣海穴,艾轤キ如小指大,至十八壯,右手能動,又三壯脣微動。參膏亦成,遂與一盞,至半夜後盡三盞,眼能動。盡二斤方能言,而索粥盡五 斤,而利止。十斤而安。」
※明・戴原礼『推求師意』卷上の末「泄瀉多類,得於六淫五邪飲食所傷之外,復有雜合之邪,似難執方而治。先生治暴氣閼ォ而 虚,頓泄不知人,口眼菫ア閉,呼吸甚微,殆欲死者,急灸氣海,飲人參膏十餘斤而愈。」
※明・李時珍(1518--1593)『本草綱目』卷12上・ 人參・附方・人參膏「用人參十兩細切以活水二十盞浸透入銀石器内桑柴火緩治中湯四君子湯緩煎取十盞濾汁再以水十盞煎取五盞與前汁合煎成膏瓶收隨病作湯使丹 溪云多慾之人腎氣衰憊谺ャ嗽不止用生薑橘皮煎湯化膏服之浦江鄭兄五月患痢人犯房室忽發譏ャ運不知人事手撒目暗自汗如雨纓拠・vツ如諡ス鋸聲小便遺失脉大無倫此髫ょk 陽絶之證也予令急煎大料人參膏仍與炙氣海十八壯右手能動再三壯唇口微動遂與膏服一盞半夜後服三盞眼能動盡三斤方能言而索粥盡五斤而痢止至十斤而全安若作風 治則誤矣一人背疽服内托十宣藥已多膿出作嘔發熱六脉豐往ノ有力此潰瘍所忌也遂與大料人參膏入竹瀝飲之參盡一十六斤竹伐百餘竿而安後經旬餘蛟シ大風罘椁リ瘡起有膿 中有紅線一道過肩脾抵右肋予曰急作參膏以闃次d橘皮作湯入竹瀝薑汁飲乏盡三斤而瘡潰調理乃安若癰疽潰後氣血菫ア虚嘔逆不食變證不一者以參耆歸譛ッ等分煎膏服之最 妙頌曰張仲景治胸脾心中痞堅留氣結胸胸滿脇下逆氣搶心治中湯主之即理中湯人參譛ッ乾薑甘草各三兩四味以水八升辣綜O升毎服一升日三服隨證加蜃渚泄緖ゥ晉宋以後至 唐名醫治心腹病者無不用之或作湯或蜜丸或為散皆有竒效胡洽居士治霍亂謂之温中湯陶隠居百一方云霍亂餘藥乃或難求而治中方四順湯厚朴湯不可暫缺常須預合自隨 也唐石泉公王方慶云數方不惟霍亂可醫諸病皆療也四順湯用人參甘草乾薑附子炮各二兩水六升煎二升半分四服治脾胃氣虚不思飲食諸病氣虚者以此為主人參一錢白譛ッ 二錢白茯苓一錢炙甘草五分薑三片棗一枚水二鍾煎一鍾食前温服隨證加減和濟局方」
※明・張介賓(1563--1640)『景岳全書』卷53人參膏 「用人參十兩細切以活水二十盞浸透入銀石器内桑柴火緩緩煎取十盞濾汁再以水十盞煎渣取汁五盞并入前汁合煎成膏磁瓶収貯隨證作湯使調服○丹溪云多慾之人腎氣 衰憊谺ャ嗽不止用生薑橘皮煎湯化膏服之○浦江鄭兄五月患痢又犯房室忽發昏運不知人事手撒目暗自汗如雨喉中痰鳴聲如諡ス鋸小便遺失脉大無倫此陰虧陽絶之證也予令 急煎大料人參膏仍與灸氣海十八壯右手能動再二壯唇口微動遂與膏服一盞半夜後服三盞眼能動盡三斤方能言而索粥盡五斤而痢止至十斤而全安若作風治則誤矣○一人 背疽服内托十宣藥已多膿出作嘔發熱六脉豐往ノ有力此潰瘍所忌也遂用大料人參膏竹瀝飲之參盡十六斤竹伐百餘竿而安後經旬餘値大風拔木瘡復起有膿中有紅線一道過 肩胛抵右肋予曰急作參膏以闃次d橘皮作湯入竹瀝薑汁飲之盡三斤而瘡潰調理乃安若癰疽潰後氣血菫ア陌尹q逆不食變證不一者以參闌供d譛ッ等分煎膏服之最妙」


天 台周進士病惡寒,雖暑亦必以綿蒙其首,服附子數百,增劇。
【注釈】天台:淅江省台州市天台県。 進士:科挙(官吏登用試験)の進士科に合格した 者。科挙の会試(中央試験)・殿試(最終試験)に合格した者。 惡寒:病証名。風にあたらなくとも,寒気を感じるもの。 附子:『証類本草』「附子……大 熱有大毒,主風寒谺ャ逆邪氣温中。」 百:『金華叢書』も同じ。『自学』は「日の誤字」という。『実用』は本文を「日」につくり,注なし。『百篇』には注が ないが,訳は「数日」とする。『局方発揮』によれば,「數日」を是となす。下文を参照。
【和訓】天台の周進士,惡寒を病む。暑と雖も亦た必ず綿を 以て其の首(かしら)を蒙(おお)い,附子を服すること數日,增ます劇(はげ)し。
【意訳】天台の周進士が悪寒を病んでいた。炎暑の夏でさえもや はりかならず真綿で首から上をすっぽり覆い隠していた。(体を温めようと温熱薬の)附子を数百剤(/数日)服用すると,ますます病情が悪化なった。

翁 診之,脉滑而數,即告曰:「此熱甚而反寒也。」
【注釈】滑:晋・王叔和『脈経』卷1・脉形状指下秘訣第1「滑脉:往來前却流利,展轉替替然,與數 相似」。元・滑寿(1304?~1386?)『診家枢要』脉陰陽類成「滑,不澀也。往來流利,如盤走珠,不進不退,爲血實氣壅之候,蓋氣下勝於血也。爲嘔 吐,爲痰逆,爲宿食。(滑而斷絶不匀者,爲經閉。)上爲吐逆,下爲氣結,滑數爲結熱。」 數:『脈経』同篇「數脉:去來促急」。『診家枢要』脉陰陽類成 「數,太過也。一息六至,過於平脉兩至也。爲煩滿,上爲頭疼上熱,中爲脾熱口臭胃煩嘔逆。左爲肝熱目赤,左下爲小便黄赤大便秘澀。浮數表有熱。」『局方発 揮』は「診其脉弦而似緩」。
【和訓】翁之れを診るに,脉滑にして數,即ち告げて曰く:「此れ熱甚だしくして反(かえ)って寒するなり。」
【意 訳】丹渓翁が脈を診ると,滑で数(さく)であった。患者に「これは熱が極まって反対に冷えがでてきるのだ」と告げた。

乃以辛涼之劑,吐痰 一升許,而蒙首之綿減半;仍用防風通聖飲之,愈。
【注釈】防風通聖:金・劉完素(1120~1200)『宣明方論』卷3「防風通聖散:防風、川 闃氏A當歸、芍藥、大黄、薄荷、葉麻黄、連翹、芒硝(已上各半兩兩朴朴者)。石膏、黄闃ゥ、桔梗(各一兩)。滑石(三兩)。甘草(二兩)。闕・H、白譛ッ、梔子 (各一)。右為末,豈助椏A,水一大盞,生薑三片煎,至六分貅ォ服。涎嗽加半夏(半兩薑製)。」清熱解表薬。 一升:元代0.9488邃刀B明代 1.7037邃刀B 仍:踏襲する。連続する。『実用』は「乃」の意とする(訳は「接着=引き続き・続けて)。
【和訓】乃ち辛涼の劑を以て,痰を吐 かすこと一升許(ばかり),而して首を蒙うの綿半(なか)ばに減る。仍りて防風通聖を用いて之れを飲ましめ,愈えたり。
【意訳】そこで辛涼作用の ある方剤を用いて,痰を一升ほど吐かすと,頭部を覆っている綿が半分に減った。引き続き防風通聖散を服用させると,治癒した。

周固喜甚。 翁曰:「病愈後須淡食以養胃,内觀以養神,則水可生,火可降;否則附毒必發,殆不可救。」
【注釈】内觀:内視ともいう。注意力を内に向けて,雑念 を去ること。『道教事典』「自らの体内を観照する養生法。術者は瞑想によって高度な精神集中を行い,外物はもはや一切眼中になく,体内の神々をありありと 眼前に観て,彼らと一体化しようとする。宋代以降,服薬による養生法である外丹に対して,守一・静坐しながら精神を統一純化して,道との合一をはかる内丹 説が発展するが,その実修過程にあたる。」
【和訓】周,固(もと)より喜ぶこと甚だし。翁曰く:「病い愈えし後は須からく淡食し以て胃を養い,内 觀し以て神を養うべし。則ち水,生ずべし,火,降るべし。否(しから)ずんば則ち附毒必らず發し,殆(ほとん)ど救うべからず。」
【意訳】周進士 は,いうまでもなく非常に喜んだ。丹渓翁はいった。「病気回復後は,こってりしたものを避けて胃を養い,内観をして神気を養いなさい。そうすれば腎水がや しなわれ,火熱が降るでしょう。さもなくば,かならず附子の毒が発して,おそらく助けられません。」

彼不能然,後告疽發背死。
【注 釈】告:『訳解』「告知」。『新編』『百篇』『実用』「聴説(耳にする。~と聞いた)」。『自学』「得到伝告(知らせを受けた)」。『金華叢書』は「竟」 につくる。『格致余論』惡寒非寒病惡熱非熱病論に「半年後果發背而死」とあるので,これを取る。 疽:癰疽。深いところに発する悪瘡。
【和訓】 彼,然すること能わず。後に竟(つい)に疽を背に發して死す。

【意訳】周進士は,丹渓翁がいうようにはできなかった。後にとうとう背中に 疽ができて,亡くなった。)
・参考〔和訓〕彼,然すること能わず。①後に疽の背に發して死するを告ぐ。②後に疽を背に發して死すと告げらる。
・ 参考〔意訳〕周進士は,丹渓翁がいうようにはできなかった。①後になって背部に疽ができて死ぬことを告げた。(②のちに背中に癰疽が出来て亡くなったと聞 いた。)

【原文】
天臺周進士病惡寒竭エ,雖暑亦必以綿蒙其首,服附子數百竭オ,增劇。翁診之,脈滑而數,蜊ス告曰:“此熱甚而反寒也。”乃以辛・ケ之劑,吐痰一升許,而蒙首之綿減 半;仍用防風通聖飲之竭カ,愈。周固喜甚,翁曰:“病愈後須淡食以養胃,蜈ァ觀以養神 竭キ,則水可生,火可降;否則,附毒必發,殆不可救。”彼不能然,後告疽發背死竭ク。

【注驥梶z
竭エ天台:今属浙江。
竭オ百:当作“日”。《格致余隶コ》作“日”。
竭カ仍:乃。 防鬟賜ハ蝨」:蜊ス防鬟賜ハ蝨」散。蛻・ョ素所制,清辜ュ解毒,解表通里。
竭キ内隗aF犹“内隗・h。隹灯r除譚tO。
竭ク疽(jナォ居):逞違s。


※『格致余論』惡寒非寒病惡熱非熱病論「予曰:進士周本道,年踰三十,得惡寒病,服附子數日而病甚,求予治,診其脈弦而似緩。 予以江茶入薑汁,香油些少,吐痰一升許,減綿大半,周甚喜。予曰:未也,燥熱巳多,血傷亦深,須淡食以養胃,内觀以養神,則水可生,而火可降。彼勇於仕 進,一切務外,不守禁忌。予曰:若多與補血,涼熱亦可稍安,内外不靜,腎水不生,附毒必發。病安後,官於蟀コ城,巡夜胃寒,非附子不可療,而性怕生薑,只得 以豬腰子作片煮附子,與三帖而安。予曰:可急歸,知其附毒易發。彼以為迂,半年後果發背而死。」
※『局方発揮』「進士周本道年近四十,得惡寒證。 服附子數日而病甚。求余治,診其脉弦而似緩。遂以江茶入薑汁香油些少,吐痰一升許減綿大半。與通聖散去麻黄、大黄、芒硝,加當歸、地黄、百餘貼而安。」

以 下,教科書,省略につき飛ばします。
浙省平章南征髢ゥ粤還,病反胃,醫以為可治。翁診其脉,告曰:「公之病不可言也。即出。獨告其左右曰:此病得之 驚後,而使内火木之邪相挾,氣傷液亡,腸胃枯損,食雖入而不化,食既不化,五臟皆無所禀,去此十日死」。果如言。鄭義士家一少年,秋初病熱,口貂エ而妄語, 兩顴火赤。醫作大熱治。翁診之,脉弱而遲,告曰:「此作勞後病温,惟當服補劑自己。今六脉皆摶手,必涼藥所致」。竟以附子湯啜之,應手而逖・。浙東憲幕傅氏 子病妄語,時若有所見,其家妖之。翁切其脉,告曰:「此病痰也。然脉虚弦而豐往ノ,葢得之當暑飲酸,又大驚。傳(『醫部全録』引作「傅」)曰:「然。嘗夏因 勞而甚貂エ,恣飲梅水一二升,又連得驚數次,遂病」。翁以治痰補陌對V劑處之,旬豬ヶ冝B里人陳時叔病脹,腹如斗,醫用利藥轉加。翁診之,脉數而豼〟B告曰:「此 得之嗜酒,嗜酒則血傷,血傷則脾土之髫v衷掾C胃雖受穀,不能以轉輸,故陽升髫m~而否矣」。陳曰:「某以嗜酒,前後溲見血者有年」。翁用補血之劑投之,驗。 權貴人以罐イ疾來召,見翁至,坐堂中自如。翁診其脉,不與言而出。使詰之,則曰:「公病在死法中,不出三月,且入鬼録,顧猶有驕氣耶?」後果如期死。一老人 病目無見,使來求治。翁診其脉罐イ甚,為製人參膏飲之,目明如常時。後數日,翁復至,忽見一醫在庭煉遉梵ホ,問之,則已服之矣。翁愕曰:「此病得之氣大虚,今 不救其虚,而反用遉梵ホ,不出此夜,必死」。至夜參半,氣奄奄不相屬而死。

一男子病小便不通,醫治以利藥,益甚。
【注釈】男子:成 年男子。男児。無爵の男性。
【和訓】一男子,小便不通を病む。醫治むるに利藥を以てするも,益ます甚だし。
【意訳】ある男性が尿閉を病ん だ。医者が利尿薬を用いたが,症状がますますひどくなった。

翁診之,右寸頗弦滑,曰:「此積痰病也,積痰在肺。肺為上焦,而膀胱為下焦, 上焦閉則下焦塞,譬如滴水之器,必上竅通而後下竅之水出焉。」
【注釈】頗:『訳解』「はなはだ」。『自学』「やや・すこし」。『新編』は訳さず。  弦:『脈経』卷1-1「弦脉:擧之無有,按之如弓弦状」。『診家枢要』脉陰陽類成「弦:按之不移,舉之應手,端直如弓弦。爲血氣收斂,爲陽中伏陰,或經 絡間爲寒所滯,爲痛,爲瘧,爲拘急,爲勞倦。弦數爲勞瘧,雙弦脇急痛,弦長爲積」。 滴水之器:水滴。硯に水を滴らすための容器。小さい穴が二つ(風穴と 水穴)空いていて,片方の穴(たぶん風穴)を指でふさぐことによって水の出る量を調節する。一方が塞がっていると水は出ない。(容器の中に水を入れる際 は,容器ごと水中に没して給水するのであろう。)ネットで画像検索せよ。 譬:『四部叢刊』『金華叢書』参考書は「辟」につくる。「譬」に通じるという。
【和 訓】翁之れを診るに,右寸頗(すこぶ)る弦滑,曰く:「此れ積痰病なり。積痰,肺に在り。肺は上焦為(た)り,而して膀胱は下焦為り。上焦閉ずれば則ち下 焦塞がること,譬うれば水を滴らすの器の如し。必ず上竅通ずれば,しかる後に下竅の水出づ。」
【意訳】丹渓翁が脈診すると,右の寸口脈がかなり弦 滑であった。「これは,積痰の病である。積痰は肺にある。肺は上焦であり,膀胱は下焦である。上焦が閉塞すれば,下焦が閉塞する。喩えていえば,硯に水を 注ぐ道具である水滴のようなものである。上の穴が通じるようになれば,かならず下の穴が通じて水が出るようになる。」

乃以法大吐之,吐 已,病如失。
【和訓】乃ち法を以て大いに之れを吐かしむ。吐き已(や)めば,病い失うが如し。
【意訳】そこで,(さきほどの)道理にした がい,大いに吐かせた。吐ききると,病情はあたかも消えてなくなったかのごとく治癒した。

【原文】
一男子病小便不通,醫治以利藥,益甚。翁診之,右寸頗弦滑,曰:“此積痰病也,積痰在肺。肺爲上焦,而膀胱爲下焦,上焦閉則下焦塞,辟如滴水之器竭エ,必上 竅通而後下竅之水出焉。”乃以法大吐之,吐已,病如失。

【注驥梶z
竭エ辟:通“譬”。 滴水之器:古代文具名。蛯ィ水以供磨墨用,又名水滴。

以下,また教科書,略すため,飛ばします。
一婦人病,不知人,稍 蘇,即號叫數四,而復昏。翁診之,肝脉弦數,而且滑。曰:「此怒心所為。葢得之怒而蠑コ酒也」。詰之則不得於夫,豈暑驕C引滿自酌,解其懐。翁治以流痰降火 之劑,而加香、附,以散肝分之鬱,立愈。一女子病不食,面北蜊ァ者且半載。醫告術窮。翁診之,肝脉弦出左口。曰:「此思男子不得,氣結於脾故耳」。叩之,則 許嫁(醫部全録引有「丈」)夫入廣且五年。翁謂其父曰:「是病惟怒可解。葢怒之氣謫且ァ屬木,故能衝其土之結。今闍先\之使怒耳」。父以為不然。翁入而掌其面 者三,責以不當有外思。女子號泣大怒,怒己進食。翁復潛謂其父曰:「思氣雖解,然必得喜,則庶不再結」。乃詐以夫有書,旦夕且歸。後三月,夫果歸,而病不 作。

一婦人産後有物,不上如衣裾。醫不能蝟サ。
【注釈】裾:前襟。ふるくは上着の前の左は大襟(中国服の上前衽〔おくみ・あわせ〕 の部分)で,右は小襟(下前あわせの部分)であった。 蝟サ:知る。理解する。
【和訓】一婦人,産後に物有り。上らざること,衣の裾(えり)の如 し。醫,蝟サ(さと)る能わず。
【意訳】ある婦人が産後,襟のようなものが陰部から出て引っ込まなかった。医者はそれがなんだか理解できなかった。

翁 曰:「此子螳ォ也。氣血虚故隨子而下。」
【和訓】翁曰く:「此れ子螳ォなり。氣血虚する故,子に隨いて下る。」
【意訳】丹渓翁は「これは子宮 である。気血が虚したため,赤子とともに下りてきたのである。」

即與黄闌吟c歸之劑,而加升麻舉之,仍用皮工之法,以五倍子作湯,洗濯皴其 皮。少選,子螳ォ上。
【注釈】黄闌求F黄耆の俗字。『証類本草』「黄耆:主……婦人子藏。」 當歸:『証類本草』「當歸:主……婦人漏下。」 升麻: 元・王好古(1200頃~1264)『湯液本草』卷中「升麻:心云:發散本經風邪,元氣不足者,用此於髫r・C升陽氣上行」。明・李時珍 (1518~1593)『本草綱目』「升麻:時珍曰:其葉似麻,其性上升,故名。」 皮工之法:皮革職人は五倍子を入れた溶液をつくり,その中に皮を入れ て鞣(なめ)し,柔らかい革とする。五倍子にはまた,収斂作用があり,朱丹渓は皮革職人にならって五倍子の煮汁を使って下垂した子宮を収縮させた(『訳 解』)。 五倍子: 皴:シュン。物の表面にしわがよっているさま。『四部叢刊』『金華叢書』同じ。参考書は「皺(シュウ)」(しわがよる)につくる。  少選:しばらく。少しの間。少時。少頃。
【和訓】即ち黄闌吟c歸の劑を與え,而して升麻を加えて之れを舉げしめ,仍りて皮工の法を用いて,五倍子を 以て湯を作り,洗濯して其の皮を皴せしむ。少選して,子螳ォ上ぐ。
【意訳】すぐに黄闌求E当帰の方剤を与え,それに升麻を加えて子宮が上がるようにさ せ,つづいて皮職人の方法を用いて,五倍子を煎じ,その中で脱出部分を洗って収縮させた。しばらくすると,子宮は収縮して中に収まった。

翁 慰之曰:「三年後可再生兒,無憂也。」如之。
【和訓】翁之れを慰めて曰く:「三年後,再び兒を生むべし,憂うること無かれ」。之(かく)の如し。
【意 訳】丹渓翁は彼女を慰めていった。「三年後にはまた子供を産むことができる。心配いらない。」その通りとなった。

【原文】
一婦人産後有物不上如衣裾竭エ,醫不能蝟サ竭オ。翁曰:“此子宮也,氣血陌寥フ隨子而下。”蜊ス與鮟・巻當歸之劑竭カ,而加升麻舉之竭キ,仍用皮工之法竭ク,以五倍子作湯洗 濯竭ケ,皺其皮。少選竭コ,子宮上。翁慰之曰:“三年後可再生兒,無憂也。”如之。

【注驥梶z
竭エ衣裾(jナォ居):衣陲戟B《隸エ文》:“裾,衣陲喧轣B”此隹淘ル衣。
竭オ蝟サ:譎灘冥,明白。
竭カ黄闃ェ当蠖秩F霑刪・アサ闕ッ都有陦・气或陦・血作用。
竭キ升麻:有升髦ウ的作用。
竭ク皮工之法:皮工以五倍子浸水鞣制生皮,使其性柔。五倍子又有收謨寫・p,朱氏莉ソ皮工以五倍子煎豎、浸洗脱垂的子螳ォ,使之收郛ゥ。
竭ケ濯(zhuo豬梶j:洗豸、。
竭コ少騾堰F不久。

一貧婦寡居病癩,翁見之惻然,乃曰:「是疾世號難治者,不守禁忌耳。是婦貧而 無厚味,寡而無欲,庶幾可療也。」
【注釈】癩:ハンセン病。 惻然:親身になって憐れみいたむさま。『自学』は「惻然」の主語を寡婦とするが,丹 渓が惻然たる気持ちになったから,下文の「自ら藥を具え」たのではないか。 庶幾:推量をあらわす。「~にチカシ」。
【和訓】一貧婦,寡居し癩を 病む。翁之れを見て惻然として,乃ち曰く:「是の疾,世難治と號するは,禁忌を守らざるのみ。是の婦,貧にして厚味無く,寡にして欲無し。庶幾(ほとん ど)療すべし。」
【意訳】ある貧しい婦人が,夫に死に別れ,独居して悪疾を病んでいた。丹渓翁は彼女を哀れみいたましく思い,次のようにいった。 「この疾病は,世間では難治と称するが,これは禁忌を守らないからに過ぎない。この婦人は,貧しくて美食はしておらず,後家を通していて情欲もない。ある いは治せるかも知れない。」

即自具藥療之,病愈。後復投四物湯數百,遂不發動。
【注釈】四物湯:『太平恵民和剤局方』「四物湯: 調益榮衛,滋養氣血。治衝任虚損,月水不調,臍腹羶イ〔逍秩{巧-工〕痛,崩中漏下,血逖負d,發歇疼痛,妊娠宿冷,將理失宜,胎動不安,血下不止,及産後乘 虚,風寒内搏,惡露不下,結生逖輔レ,少腹堅痛,時作寒熱。當歸(去蘆,酒浸,炒)、川闃雕€ 白芍藥 熟乾地黄(酒灑,蒸)各等分上為粗末。毎服三錢,水一盞半,煎至八分,去渣,熱服空心,食前。若妊娠胎動不安,下血不止者,加艾十葉,阿膠一片,同煎如前 法。或血臟虚冷,崩中去血過多,亦加膠、艾煎。」
【和訓】即ち自(みずか)ら藥を具(そな)え之れを療し,病愈ゆ。後に復(ま)た四物湯を投ずる こと數百,遂に發動せず。
【意訳】すぐに丹渓翁みずから薬を用意し,治療した。病気は治った。その後,また四物湯を数百剤投与し,結局病気は再発 しなかった。

【原文】
一貧婦寡居病癩竭エ,翁見之惻然竭オ,乃曰:“是疾世號難治者竭カ,不守禁忌耳。是婦貧而無厚味竭キ,寡而無欲,庶幾可療也竭ク。”蜊ス自具藥療之,病癒。後復投四物 湯數百竭ケ,遂不發動。
【注驥梶z
竭エ逋栫F諱カ疾。《隸ク病源候隶コ》有“逋桾a候”,相当于麻鬟歯a。
竭オ諱サ然:悲莨、貌。
竭カ者:助隸香C表提鬘ソ,引出后面的原因。
竭キ厚味:指膏(脂肪肉食)粱(扈・・j之邀サ。
竭ク庶几:或隶ク。表示希望。
竭ケ四物豎、:方蜑vシ。由熟地、白芍、当蠖秩A川闃試l味闕ッ扈юャ,能陦・血和气隹・サ潤B


翁 之為醫,皆此類也。葢其遇病施治,不膠於古方,而所療皆中,然於諸家方論,則靡所不通。
【注釈】翁之為醫,皆此類也:『後漢書』華佗伝「佗之絶 技,皆此類也。」
【和訓】翁の醫を為すや,皆な此の類なり。葢し其の病に遇いて治を施すに,古方に膠(にかわ)せず,而して療する所皆な中(あ た)る。然して諸家の方論に於いては,則ち通ぜざる所靡(な)し。
【意訳】丹渓翁の治療行為は,みなこのようなものであった。なぜなら病に遭遇し て治療を施す際には,古方に拘泥しなかったので,治療はみなうまくいった。しかし諸家の方論については,みな精通していた。

他人髱ウ髱ウ守 古,翁則操縱取舍,而卒與古合。
【注釈】髱ウ髱ウ:堅固なさま。『金華叢書』は「僅僅」(わずかに)につくる。 操縱取舍:操縱・取舍ともに反対語を 組み合わせた熟語だが,「操縱」の「縱」は附帯語で意味はない(偏義複詞)。『宋史』卷四百六十二 列傳第二百二十一/方技下/錢乙傳「乙為方不名一師,於書無不髣噤C不髱ウ髱ウ守古法。時度越縱舍,卒與法會。」
【和訓】他人は髱ウ髱ウ(キンキン)として 古を守り,翁は則ち操縱取舍し,而して卒に古と合す。
【意訳】他の医者は古い処方を頑なに守っていたが,丹渓翁は思い通りに操り,取捨選択し,そ れでいて結果として古法と合致していた。

一時學者咸聲隨影附,翁教之莠ケ莠ケ忘疲。
【注釈】聲隨影附:聲と影は,状語。聲,音響。  莠ケ莠ケ:勉(つと)めること。倦まず怠らないこと。『漢書』/志/卷三十 藝文志第十「易曰:定天下之吉凶,成天下之莠ケ莠ケ者,莫善於蓍龜。」「是故君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如嚮,無有遠近幽深,遂知來物。非 天下之至精,其孰能與於此!」師古曰:「皆上郢ォ之辭也。莠ケ莠ケ,深遠也。言君子所為行,皆以其言問於易。受命如嚮者,謂示以吉凶,其應速疾,如響之隨聲也。 遂猶究也。來物謂當來之事也。嚮與響同。與讀曰豫。」
【和訓】一時,學ぶ者,咸(み)な聲のごとく隨い影のごとく附す。翁之れを教うるに莠ケ莠ケ (ビビ)として疲れを忘る。
【意訳】その当時,丹渓翁について学ぶ者は,みな音声の反響のように付き従い,影のように付いて離れなかった。丹 渓翁はかれらに教えることを全くいとわず,疲れを知らなかった。

【原文】
翁之爲醫,皆此類也。蓋其遇病施治,不膠於古方竭エ,而所療則中;然於諸家方論,則靡所不通。他人髱ウ髱ウ守古竭オ,翁則操縱取捨竭カ,而卒與古合。一時學者咸聲隨 影附竭キ,翁教之莠ケ莠ケ忘疲竭ク。
【注驥梶z
竭エ閭カ:粘住。引申荳コ拘泥。
竭オ髱ウ髱ウ(jin jin 近近):固謇ァ拘泥貌。
竭カ操郤オ取舍:本隹統セ、放、拿、弃,此比蝟サ治逍礼・活多蜿・C霑雛p自如。
竭キ声随影附:象回声一譬キ跟随,象影子一譬キ依附。形容依随邏ァ密。声,此指回声。声、影,均用作状隸ュ。
竭ク莠ケ莠ケ(wト嬖 wト嬖莨滉シ氈j:勤勉不倦貌。

また,教科書が省略しているので,飛ばします。

一日門人趙良仁問太極之罩磨B翁以髫wz造化之精 罐イ,與醫道相出入者論之。且曰:「吾於諸生中,未嘗論至於此。今以吾子所問,故偶及之。是葢以道相告,非徒以醫言也」。趙出語人曰:「翁之醫其殆讖絶゙於此 乎?」羅成之,自金陵來見,自以為精仲景學。翁曰:「仲景之書,收拾於殘篇斷簡之餘,然其間,或文有不備,或意有未盡,或編次之脱落,或義例之乖舛。吾豈霈€ 觀之,不能以無疑」。因畧摘疑義數條以示。羅尚未悟。及(醫部全録引「晤及。」)遇治一疾,翁以髫k甫「熱,而用益髫u竚券V劑療之,不三日而愈。羅乃歎曰: 「以某之所見,未免作傷寒治。今翁治此,猶以闃次d之性辛温,而非髫k侮メ所宜服,又况汗下之謔ョ乎?」

翁春秋既髙,乃迢・張翼等所請,而著『格 致餘論』、『局方發揮』、『傷寒辨疑』、『本草衍義補遺』、『外科精要新論』諸書,學者多誦習而取則焉。
【注釈】春秋:年齢。 乃:『訳解』のみ 「仍」につくる。 迢・:「徇」の俗字。『金華叢書』と参考書は「徇」につくり,『四部叢刊』は「詢」につくる。 張翼:至元五年〔1339〕太醫院の識語 がある『世醫得效方』の銜名に「資善大夫,太醫院使,張翼」が見える。もし同一人物だとすれば,至元5年は,朱震亨58歳ぐらい。 『傷寒辨疑』『外科精 要新論』:佚書か。
【和訓】翁,春秋既に髙く,乃ち張翼等の請う所に徇(したが)い,而して『格致餘論』、『局方發揮』、『傷寒辨疑』、『本草衍 義補遺』、『外科精要新論』の諸書を著し,學ぶ者多く誦習して則を焉(ここ)に取る。
【意訳】丹渓翁が高齢になったので,弟子の張翼などの要請に 応じて,『格致餘論』、『局方發揮』、『傷寒辨疑』、『本草衍義補遺』、『外科精要新論』の諸書を著した。医学を学ぶ者の多くは,これらを暗誦習得して医 学の基本とした。
※『格致余論』宋濂序「君年既高,所見益粋精,其自得者,類多前人所未發,乃徇門人張翼等請,著爲書若干篇,名之曰格致餘論。」
※ 『宋濂集』故丹谿先生朱公石表辭「先生所著書,有『宋論』一卷,『格致餘論』若干卷,『局方發揮』若干巻,『傷寒論辨』若干卷,『外科精要發揮』若干卷, 『本草衍義補遺』若干卷,……多發前人之所未發。」
【原文】
翁春秋譌」高竭エ,乃徇張翼等所請竭オ,而著《格致餘論》、《局方發揮》、《傷寒辨疑》、《本草衍義補遺》、《外科精要新論》諸書,學者多誦習而取則焉竭カ。 
【注驥梶z
竭エ春秋:年鮴пB
竭オ徇:依从。
竭カ蛻凵F准蛻凵B 焉:于之。兼隸香B

翁 簡諷、貞良,剛嚴介特;執心以正,立身以誠;而孝友之行,實本乎天質。
【注釈】簡諷、貞良 簡:正直で邪気がない,徳をもっぱらとしておこたらない。 諷、:愨の異体字。誠実,慎み深い。貞:偏りがない,堅固,節操を守る,純正。 良:善良。 剛嚴:意志が強く厳しいさま。 介特:孤高を貫くさま。介:ひ とりであるさま。独特な。妥協しないさま。介立=固く節義を守り,迎合しないさま。特:ひとり。とりわけて。格別に。特立=意志・節操が堅いさま。特立獨 行=世俗の流れに乗らず,自分の信念を持って独自に行動するさま。 執心:堅く心を執り守る。一貫した信念・節操をたもつ。 立身:社会に処して人格を完 成する。 孝:心から父母に仕えしたがう。 友:兄弟間の相互の情愛があつい。『毛詩』小雅/南有嘉魚之什/六月「張仲孝友」毛傳「善父母為孝,善兄弟為 友。」

【和訓】翁,簡諷、貞良にして,剛嚴介特たり。心を執(と)るに正を以てし,身を立つるに誠を以てす。孝友の行いは,實(まこと)に 天質に本づく。
【意訳】丹渓翁は,正直,誠実,節操かたく,善良であり,意志が強く,時流に迎合しなかった。自分を律するに正義を守り,社会に対 しては誠実を宗(むね)とした。親孝行で兄弟に情愛があついのは,実際,天性のものであった。
※『格致余論』宋濂序「剛明正直,不可干(和刻本は 「ココニ」と訓=「于」)以私。」
※宋・蘇洵撰『諡法』「簡:正直無邪曰簡(正直無邪,則事自簡,故記曰直道必簡)。一徳不懈曰簡。」「行見中外 曰顯」(四庫本)。『讀禮通考』卷64「行見中外曰諷、」。『文献通考』卷123「行見中外曰諷、」。『諡法』「貞:固節幹事曰貞(易曰:貞固足以幹事。/ 乾:貞固にして以て事に幹たるに足る)。清白守節曰貞。」「小心敬事曰良」。「強毅果敢曰剛」。「執一不遷曰介」。
※剛嚴:新校本晉書/載記/卷 一百十二 載記第十二/苻生 「其清素剛嚴,骨魃£蝸コ」。/新校本魏書/列傳/卷四十四 列傳第三十二/苟鬆ケ「為政剛嚴,抑強扶弱」。/新校本北史/列傳/卷七十八 列傳第六十六/趙才蘭興洛 賀蘭蕃 「剛嚴正直」。 /新校本宋史/列傳/卷二百六十六 列傳第二十五/論曰「李至剛嚴簡重,好古博雅」。/新校本元史/列傳/卷一百二十四 列傳第十一/孟速思「孟速思為人,剛嚴謹信」。/新校本元史/列傳/卷一百九十 列傳第七十七 儒學二/韓性程端禮 程瑞學 「學者以其剛嚴方正」。
※ 介特:新校本後漢書/列傳/卷六十上 馬融列傳第五十上「顧介特之實功」注「介特謂孤介特立也。」/新校本後漢書/列傳/卷八十一 獨行列傳第七十一/李業 「少有志操,介特。」/新校本陳書/列傳/卷二十一 列傳第十五/張種弟稜 族子稚才「少孤介特立。」/新校本舊唐書/列傳/卷一百六十五 列傳第一百一十五/柳公綽/邇ュ「其先正直當官,耿介特立,不畏強禦。」/新校本新唐書/列傳/卷一百六十四 列傳第八十九/崔玄亮「清慎介特,澹如也。」

奉 時祀也,訂其禮文而敬闥梍V;事母夫人也,時其節宣以忠養之。
【注釈】時祀:四時(春夏秋冬)の祭祀。山川以下四方百物の祭り。『周禮』地官・牧 人・鄭玄注「時祀,四時所常祀,謂山川以下至四方百物」。参考書は祖先に対する祭祀とする。 禮文:礼節儀式。『訳解』「礼節祭文」。『自学』「礼節条 文」。『実用』「祭祀を行う上での礼節規定」。 敬闥栫F『醫部全録』は「涖」につくる。「闥栫v(リ)は涖の俗字。ノゾム。つかさどる。『金華叢書』『四部 叢刊』および参考書は「泣」につくる。『新編』「朱氏は祖先の位牌を祀るために,家祠を建立し,毎年四季に常祭を行った。あわせて家礼の祭文を親身に訂正 し,祭祀時の礼儀規章を作った」。『実用』「敬泣は,祭祀の時に祖先に対して
敬意と哀泣をあらわすことをいう」。宋濂『故丹谿先生朱公石表辭』 「先是府君置祭田三十餘畆,合為一區,嗣人遞司穡事,以陳時薦。然有恒祭而無恒所。先生廼即適意亭遺址建祠堂若干楹,以奉先世神主。蠏落檮s事,復考朱子 『家禮』而損益其儀文,少長咸在,執事有恪,深衣大帶,以序就列,宴私洽比,不愆於禮」。 夫人:夫人の尊称。 時:前文と対文と解し,動詞として訓読し た。意味としては,現代漢語訳と変わらない。機会をねらう(時トス)。時宜にかなう(時アリ)。『訳解』は「つねに」と解す。他の参考書は「按時(時に応 じて)」。 節宣:『春秋左氏傳』昭公元年「君子有四時……於是乎節宣其氣」。注「宣,散也」。正義「以時節宣散其氣也」。参考書「節制宣散。起居飲食を 調整して養生することを指す。のちに養生の道を指す。」『周易會通』卷六・震下艮上「動息節宣,以養生也」。
【和訓】時祀を奉ずるや,其の禮文を 訂して之れを敬闥桙オ,母夫人に事うるや,其の節宣に時あり,以て之れを忠養す。
【意訳】四季の祭祀を行うときは,その礼節儀式に修正を加え,うや うやしく臨んだ。(/先祖を四季に常祭に祀るときは,その礼儀の文辞をみずから校訂し,恭しく祖先の死に悲しみ泣いた。)母刀自につかえるときは,その養 生の道にかなうようにまごころを持って孝養につとめた。

【原文】
翁簡諷、貞良竭エ,剛嚴介特竭オ;執心以正,立身以誠;而孝友之行竭カ,實本乎天質。奉時祀也竭キ,訂其禮文而敬泣之竭ク。事母夫人也,時其節宣以忠養之竭ケ。
【注驥梶z
竭エ邂€謔ォ(que遑ョ)雍棊ヌ:邂€朴隸壽建蝮夊エ梠P良。《隹・法》云“一德不懈曰邂€”,“行隗£・O曰謔ォ”,“清白自守曰雍栫h,“温良好荵裾H良”。
竭オ介特:介立特行。隹桃s荳コ耿直清高,不随波逐流。(耿直=〔魎黴€直〕〔梗直〕気性が強く心がまっすぐである。//清高=名誉欲や物欲にとらわれない。孤高で ある。//随波逐流=自分の見解をもたず人の尻馬に乗る;物事の成り行きに従う。)
竭カ孝友:孝鬘コ父母,友辷ア兄弟。《隸浴E六月》毛莨黴€:“善父母荳コ孝,善兄弟荳コ友。”
竭キ譌カ祀:豈諸N四季蟇ケ祖先的常隗ыユ祀。
竭ク礼文:指荳セ行祭祀的礼闃りァ・閨B 敬泣:隹桃ユ祀譌カ蟇ケ祖先表示敬意和哀泣。
竭ケ譌カ其闃p驕F使其闃p驤ネ譌カ。隹嶋ツ譌カ隹・鰍其生活起居,使蜉ウ逸有常,气血宣通。闃p驕C隗*{教材《晋侯有疾》后常以闃p驕C指蜈サ生之道。

寧歉於已 而必致豐於兄弟,寧薄於己子而必施厚於兄弟之子。
【注釈】歉:ケン。不足する。 已:参考書は「己」につくる。 
【和訓】寧ろ己を歉にし て必ず豐を兄弟に致し,寧ろ己の子に薄くして必ず厚きを兄弟の子に施す。
【意訳】自分の分を足りなくして兄弟には豊かにさせる。自分の子供には少 なくして,兄弟の子供たちには十分にほどこす。

非其友不友,非其道不道。好論古今得失,慨然有天下之憂。
【注釈】非其友不友:志 を同じくする者を「友」という。『孟子』公孫丑下「孟子曰:伯夷非其君不事,非其友不友。」 非其道不道:『老子』1章「道可道,非常道。」
【和 訓】其の友に非ざれば友とせず。其の道に非ざれば道(い)わず。古今の得失を論ずるを好み,慨然として天下の憂い有り。
【意訳】しかるべき人でな ければ,交友関係は結ばない。道に合致したことでなければ,口にしない。昔と今の長所短所を論議するのをこのみ,気持ちが高ぶって天下国家のことを憂え る。

世之名公卿多折節下之,翁為直陳治道,無所顧忌。然但語及榮利事,則拂衣而起。
【注釈】公卿:三公九卿の官。転じて、高位高 官のこと。 折節:自分の主義主張を曲げて,人にしたがう。 下:身分をおさえて人に対応する。古来,医は賤業とみなされていた。参考書「朱氏に教えを請 うことを指す」。 顧忌:遠慮する。 拂衣:着物のたもとをからげる。着物を振る。衣のちりを払い落とす。(いずれが是か知らず。ともかく)憤りを表わ す。
【和訓】世の名ある公卿,多く節を折り,之れに下(くだ)す。翁,為に直に治道を陳(の)べて,顧忌する所無し。然れども但だ語,榮利の事に 及べば,則ち衣を拂(はら)いて起つのみ。
【意訳】社会的に著名な朝廷の高官たちの多くは,高貴な身分にもかかわらず謙虚に丹渓翁に接した。丹渓 翁はかれらに率直に天下を治める道理を述べ,はばかることがなかった。しかし,話が栄誉や営利(名誉や金儲け)に及んだりすると,憤り,袖をふるって立ち 去る。
【原文】
寧歉於己,而必致豐於兄弟,寧薄於己子,而必施厚於兄弟之子。非其友不友竭エ,非其道不道。好論古今得失,慨然有天下之憂。世之名公卿多折節下之竭オ,翁爲直 陳治道,無所顧忌。然但語及榮利事,則拂衣而起竭カ。
【注驥梶z
竭エ “非其友”句:《孟子・公蟄刮N上》:“伯夷非其君不事,非其友不友。”不友,不扈東B友,用作蜉ィ隸香B
竭オ折闃aF屈己下人。指降低自己的身莉ス。 下:下髣ョ。指向朱氏隸キ教。
竭カ拂衣:犹“拂袖”。表示諢、怒。

與人交,一以 三綱五紀為去就。
【注釈】三綱五紀:人の守るべき道。封建社会の道徳規範。五紀は五常と同じ。『白虎通』三綱六紀「三綱者何謂也?謂君臣、父子、 夫婦也」。情性「五常者何?謂仁、義、禮、智、信也」。 去就:進退。行動。
【和訓】人との交わりは,一に三綱五紀を以て去就と為す。
【意 訳】他人との交際は,すべて三綱五常の道徳を規範として行動する。

嘗曰:「天下有道,則行有枝葉;天下無道,則辭有枝葉。夫行本也;辭, 從而生者也。」
【注釈】嘗曰:『禮記』表記/卷五十四「天下有道,則行有枝葉,天下無道,則辭有枝葉行」。注「有枝葉,所以益德也。言有枝葉,是 衆陌實リ也。枝葉依幹而生,言行亦由禮出」。疏「天下有道,則行有枝葉者,言有道之世,則依禮所行,外餘有美好,猶如樹幹之外,更有枝葉也。○天下無道,則 辭有枝葉者,無道之世人,皆無禮行不誠實。但言辭陌對・C如樹幹之外,而更有枝葉也」。
【和訓】嘗て曰く:天下に道有れば,則ち行いに枝葉有り。天 下に道無くんば,則ち辭に枝葉有り。夫(そ)れ行いは本なり。辭は,從(よ)りて生ずる者なり。」
【意訳】丹渓翁が以前言われたことがある。「天 下が治まっていれば,人間の行為は礼節に基づき,美徳がある。たとえてみれば,樹木に幹があって,枝葉が繁茂するが如くである。もし天下が治まってなけれ ば,人間の言辞は礼節が行われず不誠実なものとなる。たとえてみれば,樹木の幹が失われ,いたずらに枝葉がむなしく飾りのようにあるようなものである。そ もそも品行が人の根本であり,言葉はそれから生じるものである。

闌轟ゥ枝葉之辭,去本而末是務,輒怒溢顔髱」,若將蜃も=B
【注釈】末 是務:「務末」の強調形。劉完素『素問玄機原病式』序「究其末,而不求其本」。 蜃aF『四部叢刊』は「豬シ」につくる。「蜃avは「豬シ」の異体字。バイ。けが す。
【和訓】苟(いやしく)も枝葉の辭,本を去りて末を是れ務(もと)むるを見れば,輒ち怒り顔面に溢るること,將に豬シ(けが)されんとするが若 (ごと)し。」
【意訳】かりにも浮ついた礼節を欠く言辞で,品行の根本を失い,末節の浮詞を追い求めているようなものを見たりすると,丹渓翁がそ のたびごとに満面に怒りを表わすさまは,自分が汚されようとしているが如くであった。
【原文】
與人交,一以三綱五紀爲去就竭エ。嘗曰:天下有道,則行有枝葉;天下無道,則辭有枝葉竭オ。夫行,本也;辭,從而生者也。苟見枝葉之辭,去本而末是務竭カ,輒怒 溢顔面,若將豬シ焉竭キ。
【注驥梶z
竭エ三郤イ五郤ェ:蜊ス三郤イ五常,封建社会的道德譬㍼y。三郤イ,指君臣、父子、夫螯〟G五常,蜊ス仁、荵堰A礼、智、信。 去就:犹取舍。隹鍋ヲサ蠑€或接近。
竭オ “天下有道”四句:隸ュ隗=s礼隶ー・表隶ー》。驛糟コ注:“行有枝叶,所以益德也;言有枝叶,是莨雷募克也。枝叶依干而生,言行亦由体出。”
竭カ末是蜉。:蜊ス“蜉。末”。追求末闃aB
竭キ豬シ(mト嬖豈潤j:邇キ豎。。

翁之卓卓如是,則醫又特一事而已。
【注釈】卓 卓:ひとり高くぬきんでたさま。
【和訓】翁の卓卓たること是(かく)の如し。則ち醫は又た特(ただ)一事のみ。
【意訳】丹渓翁が卓絶して 群を抜いていたことは,上記の如くである。医療に関することはまたただその一部にすぎない。

然翁講學行事之大方,已具吾友宋太史豼棟活ラ翁 墓誌,蜈ケ故不録,而竊録其醫之可傳者為翁傳,庶使後之君子得以互考焉。
【注釈】講學:学問研究。 行事:行為。  大方:大きな法則。正しい道。 りっぱな道。 具:述べる。 宋太史豼刀F明初・宋濂(1310~1381)。浦江(淅江省金華市浦江県)の著名な文学家。翰林学士。字は景濂。号は潜渓 (本貫による),また白牛生。諡は文憲。『元史』の編修総裁であったため,宋太史と称す(明朝では翰林院が歴史書編纂の任を負っていたため,翰林を太史と も呼んだ。『明史』宋濂傳「四方學者悉稱為太史公」)。『明史』/列傳/卷一百二十八 列傳第十六に伝あり。『宋学士全集』(『宋憲集』『宋濂全集』)あり。参考書では「贈医師葛某序」が収録されている。 為翁傳:『醫部全録』にこの3字な し。 墓誌:金属や石に刻んだ,死者の経歴などの文章。死者とともに墓にうめる。「墓誌」は散文で出自や経歴などを記す。「銘」は韻文で死者への哀悼を述 べる。墓の外に建てる墓碑(墓碣)・墓表と区別する。『宋学士全集』所収「故丹谿先生朱公石表辭」を指す。 為:つくる。文章を書く。大陸・台湾は繁体字 として「為」を用いて,日本のように「爲」を用いない。
【和訓】然れども翁の講學・行事の大方(たいほう)は,已に吾が友宋太史豼嶋ラ(つく)る所 の翁が墓誌に具(の)ぶ。蜈ケ故(これゆえ)録さず。而して竊(ひそ)かに其の醫の傳うべき者を録して翁傳を為(つく)る。庶(こいねが)わくは後の君子を して以て互いに考するを得しめんことを。
【意訳】しかし丹渓翁の学問研究や行いの大道については,私の友人である宋濂太史がすでに丹渓翁のために 墓誌をつくって具述しているので,ここには採録しない。よってわたくしとしては,かれの医学面での伝えられる内容を記録して翁の伝記を作った。後の方々が 宋太史の墓誌とわたくしのつくった丹渓翁傳を互いに参照できることを願っている。
【原文】
翁之卓卓如是竭エ,則醫特一事而已。然翁講學行事之大方竭オ,已具吾友宋太史濂所爲翁墓誌竭カ,茲故不骭пC而竊骭яエ醫之可傳者爲翁傳,庶使後之君子得以互考焉。
【注驥梶z
竭エ卓卓:超群独立貌。
竭オ大方:大道。
竭カ太史:宋濂曾任郛柾C《元史》的諤サ裁,故称“太史”。 墓志:放在墓中刻有死者莨黴€隶ー的石刻。此指宋濂所着《故丹溪先生朱公石表辞》。

論 曰:昔漢嚴君平,博學無不通,賣卜成都。
【注釈】論:賛・評ともいう。史伝の後ろに付いた評語。まとめて論賛という。著者による登場人物に対する 論評。 嚴君平:前漢,蜀のひと。名は遵。字を以て行われる。成都において卜筮を事とし,揚雄がこれに学んだ。年九十餘にして卒す。以下の文はおおむね 『漢書』に見える。下記の引用文を参照。 賣:品物あるいは技術などを金銭に換える。あきなう。 成都:四川省成都市。
【和訓】論に曰く:昔,漢 の嚴君平,博學にして通ぜざること無し。卜を成都に賣(う)る。
【意訳】論賛:むかし,漢の厳君平は,博学であらゆることに通じていた。蜀郡の成 都で占いで生計を立てていた。
※『漢書』/列傳/卷七十二 王貢兩鮴秘ク傳第四十二「蜀有嚴君平,……君平卜筮於成蟾ソ,以為“卜筮者賤業,而可以惠衆人。有邪惡非正之問,則依蓍龜為言利害。與人子言依於孝,與人弟言 依於順,與人臣言依於忠,各因勢導之以善,從吾言者,已過半矣。”……博覽亡不通,……然其風聲足以激貪厲俗,近古之逸民也。」

人有邪惡 非正之問,則依蓍龜為陳其利害。
【注釈】蓍龜:蓍蔡ともいう。吉凶を占う道具。蓍(めどき)と亀の腹甲。蓍(シ)はキク科の多年草・ノコギリソウ (蓍草)の茎。直立して多くの茎がある。『説文解字』を参照。のちに竹で作る筮竹に代わる。なお『学研国語大辞典』は「メドハギ(蓍萩・マメ科)」とい う。 利害:偏義複詞。ここでは「害悪」をいう。
【和訓】人に邪惡非正の問い有らば,則ち蓍龜に依りて為に其の利害を陳ぶ。
【意訳】人々 から邪悪不正な問いの占いを頼まれると,占いで得た爻辞によって依頼者のためにその害悪を述べた。

與人子言,依於孝;與人弟言,依於順; 與人臣言,依於忠。
【注釈】順:「以敬事長曰順」(『大戴禮記』主言「上齒則下益悌」王聘珍解詁)。
【和訓】人子と言えば,孝に依り,人 弟と言えば,順に依り,人臣と言えば,忠に依る。
【意訳】子供を占うときは,親に対する孝養によって解説し,弟を占うときは,兄に従順であること を解き,臣下を占うときは,君主への忠誠をもって解説した。

史稱其風聲氣節,足以激貪而厲俗。
【注釈】史:歴史書。ここでは『漢 書』のこと。 風聲:人を動かす教え。名声。声望。 氣節:気概があり節操がかたい。気骨。 激:せきとめる。さえぎる。勢いをつけて押し流す。「激」と 「厲・勵」は類義語であり,対句とも考えられるが,いま『漢語大詞典』にしたがう。参考書はみな「はげます。感動して奮い立たたせる」と解する。(『新 編』「史書は,彼の声望と品性は,貪婪な人を激励して邪を改め正に帰せしめ,惡俗の人を励まして古きを捨て新しきにかえさせるに十分である,と称賛してい る」。) 厲:勵(励)に通ず。はげます。奮い立つ。
【和訓】史は,其の風聲氣節,以て貪を激(さえぎ)りて俗を厲(はげ)ますに足ると稱す。
【意 訳】史書は,「厳君平の教化と気骨の人柄が,貪欲を抑制して世俗を奮起させるのに十分である」,と称賛している。
※『尚書』/周書/卷十九/畢命 「彰善逋奥ヲ,樹之風聲」。傳「言當識別頑民之善惡,表異其居里,明其為善,病其為惡,立其善風,揚其善聲」。『春秋左傳』/文公/卷十九上/傳六年「樹之 風聲」。正義「因土地風俗為立聲教之法」。
※『史記』/列傳/卷一百二十 汲鄭列傳第六十「(汲)黯為人性倨,……然好學,游菫黴€,任氣節」。『後漢書』/列傳/卷二十四 馬援列傳第十四/馬援「為人尚氣節而愛士好施」。『魏書』/景穆十二王上/廣平王洛侯/嗣子濟南王匡「匡字建扶,性耿介,有氣節」。
※『三國志』 /魏書/卷二十七 魏書二十七/王昶 「激貪勵俗」。『三國志』/蜀書/卷四十四 蜀書十四/姜維「激貪厲濁,抑情自割也」。『晉書』/列傳/卷九十四 列傳第六十四/隱逸「激貪止競」。 『宋書』/列傳/卷九十三 列傳第五十三/隱逸/王弘之 「激貪厲競」。
【原文】
論曰竭エ:昔漢嚴君平竭オ,博學無不通,賣卜成都。人有邪惡非正之問,則依蓍龜爲陳其利害竭カ。與人子言,依於孝;依人弟言,依於順;與人臣言,依於忠。史稱其 風聲氣節竭キ,足以激貪而厲俗竭ク。
【注驥梶z
竭エ隶コ:亦称“襍栫h、“隸пh、“隸黴€”等。附在史莨黴€后面的隸・ッュ。諤サ称荳コ“隶コ襍栫h。
竭オ荳・君平:名遵,蜀人,西豎蛾嚼士。在成都街螟エ蜊末m,以忠孝信荵焔ウ人。着有《道德眞扈庶w蠖秩t。
竭カ蓍(shトォ隸需)鮴氈F隹当m筮。蓍草用来筮卦,鮴沚b用来占卜。 利害:偏荵汚ー“害”,危害。
竭キ史:史荵ヲ,此指《豎我ケヲ》。隸ュ隗=s豎我ケヲ・王雍。荳、鮴夐イ堺シ黴€序》。 鬟諮コ:鬟詩ム声望。 气闃aF志气闃q€。
竭ク “激雍ェ“句:使雍ェ卑之人受到激蜿早C使鬟資ュ得到勉励。蜴堰C通“励”,蜉摯ラ。

翁在蟀コ得道學之源委,而混迹於醫。或以醫來見者,未嘗不以葆精毓 神開其心。
【注釈】蟀コ:蟀コ州。ここでは,朱熹と許文懿の出身地である徽州蟀コ源を意識し,また後文の「源」「混」などの文字を使って道統の流伝を川 の流れのイメージで描写しているのか。 道學:理学ともいう。宋儒の哲学思想。孔子・孟子の「道統」を継承し,「性命義理」の学を宣揚することを主とす る。 源委:原委に同じ。源は水源,委は下流,終わり。物事の一部始終。本末。 混迹:行方を大衆の間に紛れ込ます。身を隠してあらわさない。参考書「医 界に身を投じた・置いた・隠した」。 葆精毓神:「葆」は「保」に通ず。たもつ。まもる。「毓」は「育」に通ず。そだてる。はぐくむ。 開:啓発する。導 く。
【和訓】翁,蟀コに在りて道學の源委を得て,而して醫に混迹す。或いは醫を以て來見する者あれば,未(いま)だ嘗て精を葆(たも)ち神を毓(そ だ)つるを以て,其の心を開かずんばあらず。
【意訳】丹渓翁は,蟀コ州において朱子学の本源から末流までを得たのに,身を世間に沈めて医者となっ た。医学のことで面会を求める人があると,かならずいつも精気神気を保ち養うことを話して,来訪者を啓発した。

至於一語一黙,一出一處, 凡有髣莱覧マ理者,尤諄諄訓誨,使人奮迅感慨激厲之不暇。
【注釈】一語一黙,一出一處:『周易』繋辞上「子曰:君子之道,或出或處,或默或語」(君 子のあり方は,出仕したり在野として家にいたりすることである。政治の場で黙っているひとと,大いに語るひとがある)。注「君子出處默語,不違其中,則其 跡雖異,道同則應」。ここでは「君子の道」のことか。「一」は「ある時・あるいは」。「出」と「處」は対語。参考書は「處」を「隠退して家にいる」と解 す。 諄諄:ジュンジュン。相手が十分納得するように、すじ道をたてて、ていねいに説ききかせるさま。『毛詩』大雅/蕩之什/抑「誨爾諄諄」。 訓誨:い ましめさとす。是非・善悪を教えさとして、悪いことをしないように戒めること。『説文解字』「訓,説教也」。段注「説教者,説釋而教之,必順其理」。 「誨,曉教也」。段注「曉教者,明曉而教之也。訓以柔克,誨以剛克。……曉之以破其晦,是曰誨」。「訓」は教育に重きがあり,「誨」は啓発に重きがある。  奮迅:はげしく奮い立つ。精神奮発,行動迅速。 感慨:気持ちがたかぶって,胸がつまる。 之:目的語前置の標示としてとらえた。参考書には特に言及な し。 不暇:すぐに。
【和訓】一語一黙,一出一處に至りては,凡そ倫理に關する者有れば,尤も諄諄として訓誨し,人をして奮迅・感慨・激厲せしめ むるに之れ暇あらず。
【意訳】君子の道(言動や出処進退)について,およそ倫理に関することについてはみな,とりわけ順序立てて丁寧に教えさと し,ひとを奮い立たせ,気持ちを高め,激励するのに,間をおかない。
【原文】
翁在蟀コ得道學之源委竭エ,而混迹於醫竭オ。或以醫來見者,未嘗不以葆精毓神開其心竭カ。至於一語一默,一出一處,凡有關於倫理者,尤諄諄訓誨,使人奮迅感慨激厲 之不暇竭キ。
【注驥梶z
竭エ道学:蜊ス理学,宋儒的哲学思想。以扈ァ承孔孟“道扈氈h,宣謇ャ“性命荵於掾h之学荳コ主。 源委:同“原委”,本指水的蜿糟ケ和聚集之螟пC引申荳コ事情的本末。
竭オ混迹:犹言“置身”。
竭カ葆精毓(yu育)神:保全蜈サ育精神。葆,通“保”。毓,蜈サ育。 蠑€:蠑€蟇シ,蜷ッ蜿早B
竭キ螂巨v:精神振螂求C行蜉ィ迅速。 感慨:有所感触而慨蜿ケ。此形容因受到蠑€蟇シ而引起思想情扈ェ的高豸ィ昂謇ャ。 激蜴堰F同“激励”。受到激蜿綜ァ振作。  不暇:没有 譌カ髣イ。此形容心情迫不及待。

左丘明有云:「仁人之言,其利溥哉!」信矣。
【注釈】左丘明:『金華叢書』は「丘」を「邱」につく る。避諱。魯の太史。姓は左。名は丘明。一説には複姓。(Wikipedia:霑・L隗s_隶、荳コ他姓丘名明,因其世代荳コ左史官,所以人莉ャ尊其荳コ左丘明。)孔子 とほぼ同時代の人。『春秋左氏傳』の作者とされる。 仁人之言,其利溥哉:「溥」を『四部叢刊』は「愽」につくり,十三經注疏(一八一五年阮元刻本)『春 秋左傳正義』/昭公/卷四十二/傳三年は「博」につくる。参考書は『四部叢刊』にしたがわず,『四庫全書』と同じ。 有:参考書に注なく,現代語訳は訳さ ない。「又」と同じと解す。
【和訓】左丘明有(ま)た「仁人の言,其の利溥(ひろ)きかな!」と云う。信(まこと)なるかな。
【意訳】左 丘明はまた「仁徳あるひとの教え,その利するところは,なんと大きいことか」と言ったが,実際そうである。

若翁者,殆古所謂直諒多聞之益 友,又可以醫師少之哉?
【注釈】殆:人や事物がある事態や程度に接近している意。ほぼ。行為や状況に対する推測を表す。おそらくは。たぶん。 直 諒多聞之益友:『論語』季氏「孔子曰:益者三友,損者三友。友直、友諒、友多聞,益矣」。「諒」は「まこと」。 又:否定文や反語文に加えて語調をつよめ る。 少:軽蔑する。軽視する。
【和訓】翁の若き者は,殆ど古(いにし)え謂う所の直・諒・多聞の益友,又た醫師を以て之れを少とすべけんや?
【意 訳】丹渓翁のような人は,昔言われた正直,誠実で博学多聞の有益な友人に近いのではないか。いったい賤業とみなされる医師をしているからといって,かれを 見下すことなどできようか。
【原文】
左丘明有云:“仁人之言,其利溥哉竭エ!”信矣竭オ。若翁者,殆古所謂直諒多聞之益友竭カ,又可以醫師少之哉竭キ?
【注驥梶z
竭エ“仁人之言”二句:隸ュ隗=s左莨黴€・昭公三年》。溥(pヌ舶=j,广大。。
竭オ 信:遑ョ螳栫B
竭カ “直隹・ス髣サ”句:《隶コ隸ュ・季氏》:“友直,友隹・C友多髣サ,益矣。”隹・C隸嚼M。
竭キ少:霓サ隗・B

   12008/4/6  『景岳全書』『本草綱目』など,一部引用のみで,句読など整理せず。
ひとまず,終了します。   荒川 緑

附録  『四庫全書』文憲集卷二十四
故丹谿先生朱公石表辭
丹谿先生既卒宗屬失其所倚藉井邑失其所依諷ソ嗜學之士失其所承事莫不方皇遙慕至於灑涕豼燈キ 之中心尤摧咽不自勝葢自加布于首輒相親於几杖間訂義質疑而求古人精神心術之所寓先生不以豼嶋ラ不肖以忘年交遇之必極言而無所隠故知先生之深者無踰於豼当逡菶~ 聚厥事行為書以傳來世而先生之子玉汝從子嗣汜忽蹐豼当蛻ネ先生從弟無忌所為迢€請為表以勒諸墓上豼悼ス敢辭先生諱震亨字彦修姓朱氏其先出於漢槐里令雲之後居平陵 至晉永興中臨海太守汎始遷今蟀コ之義烏子孫陝ャ聨多發聞於世郡志家乘載之為詳當宋之季有東堂府君者諱良祐懿然君子人也葢以六經為教以弘其宗府君生某某生迪功郎 桂迪功生驗燕v進士環先生之大父也父諱元母某氏先生受資爽朗讀書即了大義為聲律之賦刻燭而成長老咸器之已而棄去尚菫黴€氣不肯出人下驗鉛V右族或陵之必風怒電激求 直于有司上下搖手相戒莫或輕犯時驗艶謳カ文懿許公講道東陽八華山中公上承考亭朱子四傳之學授受分明契證真切擔邁ヲ而從之者亡慮數百人先生歎曰丈夫所學不務聞道 而唯菫黴€是尚不亦惑乎廼鞫ウ衣徃事焉先生之年葢已三十六矣公為開明天命人心之秘内聖外王之微先生聞之自悔昔之沈缸黴€顛髫ョ汗下如雨由是日有所悟心謇・Z廓體膚如覺增 長豈緒ェ挾册坐至四鼓潛驗黙察必欲見諸實踐抑其踈豪歸於粹夷理欲之髣乱ス偽之限嚴辨確守不以一毫闌濠試ゥ恕如是者數年而其學堅定矣蠏例c雉萩サ先生應試秋髣・K沾一命 以驗其所施再徃再不利復歎曰不仕固無義然得失則有命焉闌告ц皷ニ之政以達於驗賀}州閭寧非仕乎先是府君置祭田三十餘畆合為一區嗣人〔霎カ+虎/逓?〕司穡事以陳 時薦然有恒祭而無恒所先生廼即適意亭遺址建祠堂若干楹以奉先世神主蠏落檮s事復考朱子家禮而損益其儀文少長咸在執事有恪深衣大帶以序就列宴私洽此不愆於禮適 意亭者府君所造以延徐文清公之地先生弗忍其廢改創祠堂之南俾諸子姓肄習其中包銀之令下州縣承之急如星火一里之間不下數十姓民莫敢與辨先生所居里僅上富氓二 人郡守召先生自臨之曰此非常法君不愛頭乎先生笑曰守為官頭固當惜民不愛也此害將毒子孫必欲多及民願倍輸吾産當之守雖怒竟不能屈縣有暴丞好諂轢・S神欲修岱宗 祠以徼福懼先生莫己與以言嘗之曰人之死生嶽神實司之欲治其螳ォ孰敢干令先生曰吾受命于天何庸媚土偶為生死計耶且嶽神無知則已使其有知當此儉蠏蘭ッ食糠覈不飽能 振吾民者然後降之福耳卒罷其事賦役無藝胥史高下其手以為民奸先生集同里之人謂曰有田則科徭隨之君等入胥史餌而互相顧非艸ソ之上也宜相率以義絜其力之譛貞ャエ而敷 之衆翕然從豈所ッ書下相依如父子議事必先集若苛斂之至先生即以身前辭氣懇谺オ上官多聽為之損裁縣大夫勸耕于驗央苧L要於民先生懼其臨境邪幅扉履徃迎于道左大夫驚 曰先生何事廼爾邪先生曰民有役于官禮固應爾大夫曰勸耕善乎先生曰私田不煩官勸第公田生青芻耳是時圭田賦重種戸多逃亡故先生以此為風大夫一笑而去驗於L蜀墅塘 周圍凡三千六百豁・貅遠c至六千畆而螫エ堤壞而水竭數以旱告先生倡民興築置坊庸鑿為三竇時其淺深而舒洩之民食其利後十年山水暴至堤又壞先生命再從子貍ウ力任其事以 嗣其成縣令長或問决獄得失先生必盡心為之開東陽郭氏父子三人虐毆小民幾斃又貫鍼鰌腹逼使蜷梍V事移義烏鞫問當其子父皆死先生曰原其故殺之情亦一人可償爾二 子從父之令宜從末減若皆殺之無乃己重乎事上從先生議張甲行小徑中適李乙荷任器來幾中甲目甲怒拳其耳而死甲乙皆貧人甲又有九十之親先生曰貰甲罪則廢法徇法甲 必逖錘€親無以養亦死乙屍暴於道孰為藏之不若使竟其葬阮カ且慰其親徐來歸獄服中刑耳或曰甲或逃奈何先生曰若以誠待之必不爾也縣如先生言後繿ケ赦免細民有斬先生丘 木者先生訊之民弗服先生聞于縣將逮之人交讓民曰汝奈何犯仁人邪民曰計將安出人曰先生長者也急舁木還之當爾貸民從之先生果寘而不問先生客呉妙湛院尼刻木作人 形以為厭蠱館客陳庚得之欲發其事尼懼甚先生知之以計紿陳出碎其木刻陳歸怒且詈先生徐曰君乃士人獲此聲於呉楚間甚非君利儻乏金吾財可通用勿憂也尼後輦金帛為 謝先生吻而去方嶽重臣及莠キ訪使者聞先生名無不願見既見無不欲交章薦之先生皆力辭唯民逖シ吏必再三蹙額告之不啻親受其病者覃懷鄭公持節浙東尤敬先生以尊客禮 禮之衆或不樂競短其行於公公笑曰朱聘君盛舉諸公之長而諸公顧反短之何其量之懸隔邪皆慙不能退初先生壯齡時以母夫人病脾頗習醫後益研艫コ之且曰吾既窮而在下澤 不能至騾コ其可騾コ者非醫將安務乎時方盛行陳師文裴宗元所定大觀二百九十七方先生獨疑之曰用藥如持衡隨物重輕而為前却古方新證安能相蛟シ乎於是尋師而訂其説渡濤 江走呉又走宛陵走建業皆不能得復囘武林有以羅司徒知悌為告者知悌字子敬宋寳祐中寺人精於醫得金士劉完素之學而旁蜿・覧實ハ張從正二家然性倨甚先生謁焉十徃返 不能通先生志益堅日拱立於其門大風雨不易或告羅曰此朱彦修也君居江南而失此士人將議君後矣羅遽修容見之一見如故交為言學醫之要必本於素問難經而濕熱相火為 病最多人罕有知其秘者兼之長沙之書詳於外感東垣之書詳於内傷必兩盡之治疾方無所憾區區陳裴之學泥之且殺人先生聞之夙疑為之釋然學成而歸驗鉛V諸醫始皆大驚中 而笑且排卒乃大服相推尊願為弟子四方以疾迎候者無虚日先生無不即徃雖雨雪載途亦不為止僕夫告逞。先生諭之曰疾者度刻如蠏落ァ欲自逸耶窶人求藥無不與不求其償其 困阨無告者不待其招注藥往起之雖百里之騾コ弗憚也江浙省臣徃討髢ゥ纉p[入瘴地遂以病還錢塘將北歸先生脉之曰二十日死使道經三衢時召吾可使還燕然亦不能生之也如 期卒於姑蘇驛權貴人以微疾來召危坐中庭列三品儀衛於左右先生脉已不言而出或追問之先生曰三月後當為鬼猶有驕氣耶及死其家神先生之醫載粟為螟€先生辭之一少年 病熱兩顴火赤不能自禁躁走于庭將蹈河先生曰此髫よ囑逅サ附子湯飲之衆為之吐舌飲已其疾如失先生治療其神中若此甚多門人類證有書蜈ケ不詳載先生孤高如鶴挺然不羣 雙目有大小輪日出明雖毅然之色不可凌犯而清明坦夷不事表隘ョ精神充滿接物和粹人皆樂親炙之語言有精魄金鏘鐵鏗使人側耳聳聽有蹶然興起之意而於天人感應殃慶類 至之説尤竭力戒厲反覆不厭故其教人也人既易知昏明蠑コ弱皆獲其心老者則愛慈祥纉恷メ則樂恭順莫不皆知忠信之為美固未能一變至道去泰去甚有足觀者或有小過深掩密 覆唯恐先生之知凡先生杖履所臨人隨而化浦陽鄭大鮴「十世同居先生為之喜動顔面其家所講冠昏苻ョ祭之禮豈徐・乱謳カ而後定葢先生之學稽諸載籍壹以躬行為本以一心同 天地之大以耳目為禮樂之原積養之久内外一致夜寐即平晝之為暗室即康衢之見汲汲孜孜耄而彌篤豈曙ゥ誇多鬯ュ靡之士輒語之曰聖賢一言終身行之弗盡奚以多為至於拈英 摘雎粕V辭尤不樂顧且以吾道陝椛ッ目之及自為文率以理為宗非有髣莱絡j常治化不輕隧・迢庶コ垣蠅遠ヨ尚儉朴服御唯大布寛衣僅取蔽體藜羮邉濫ム安之如八珍或在豪姓大家當 其肆筵設席水陸之羞交錯於前先生正襟黙坐未嘗下箸其清修苦節能為人之所不能為而於世上所悦者澹然無所嗜惟欲聞人之善如恐失之隨聞隨録用為世勸遇有不順軌則 者必誨其改事有難處者又之以其方譎囈N識見尤卓嘗自括蒼還道過永康謂人曰青田之民蝴囿帛€シ此法弛令乖之時必依險阻嘯聚為亂已而果然又嘗告親友曰吾足跡所及廣 矣風俗澆漓甚垂髫之童亦能操狡謀罔上天怒已極必假手殱之盍力善以延其鈺」乎時方承平聞者咸笑先生之迂言未幾天下大亂空村無烟火動百餘里先生所著書有宋論一巻 格致餘論若干巻局方發揮若干巻傷寒論辨若干巻外科精要發揮若干巻本草衍義補遺若干巻風水問答若干巻凡七種微文奥義多發前人之所未發先生嘗曰義禮精微禮樂制 度吾門師友論著已悉吾可以無言矣故其所述獨志於醫為多先生生於至元辛巳十一月二十八日卒于至正戊戌六月二十四日瀕卒無他言獨呼嗣汜謂曰醫學亦難矣汝謹識之 言訖端坐而逝享年七十有八娶戚氏道一書院山長象祖之女先三十五年卒子男二嗣衍玉汝嗣衍亦先三年卒女四適傅似翁阡」長源蜷封カ忠張思忠孫男一文讀随欄齠K丁讎・鈺€ 尚纉恆エ年十一月日始蝪汾謳カ于某山之原卒後之五月也先生所居曰丹溪學者尊之而不敢字故因其地稱之曰丹溪先生云夫自學術不明于天下凡聖賢防範人心維持世道之書 徃徃割裂謗㍼E組織成章流為譁世取寵之具間有注意遺經似若可尚又膠於訓詁之間異同紛拏有如聚訟其視身心皆藐然若不相髣絡汨エ知識反出於不學庸人之下於戲秦漢以 來則或然矣然而靈豸不鳴蟄ス狐之妖弗息黄鍾不奏瓦缶之音日甚天開文運豼痘剣ア興騾コ明九聖之緒流者遏而止之膠者釋而通之一期髣投f其昏翳挽囘其精明而後已至其相傳 唯考亭集厥大成而考亭之傳又唯金華之四賢續其世胤之正如印印泥不差毫末此所以輝連景接而芳猷允著也先生少負任菫黴€之氣不少撓屈及聞道徳性命之説遽變之而為剛 毅所以局量弘而任載重寤寐先哲唯日不足民吾同胞之念貉丈k莫忘雖其力或弗支闌豪ィ利少足以濡物必委蛇周旋求盡其心應接之際又因人心感發之機而施仁義之訓觸類 而長開物成化所謂風雨霜露無非君子之教者要亦不可誣也致思於醫亦能搜隠抉祕倡明南方之絶學嬰逍「之家倚以為命先生一布衣耳其澤物有如此者使其得位于朝以行其 道則夫明効大驗又將何如哉嗚呼先生已矣其山峙淵澄之色井潔石貞之操與其不可傳者弗能即矣徒因其遺行而誦言之見聞不博惡能得十一於千百之間哉雖然舍是又無足 以求先生者敢鞫ュ迢€之概叙而為之銘曰
豼痘圏L作性學復明考亭承之集厥大成化覃闕・g以及髢ゥ粤時雨方行區萌畢達世胤之正實歸金華緜延四葉益煜其葩辟諸上尊 寘彼逵路隨其志分不爽其度有美君子欲振其竒血氣方剛疇能侮予七尺之霆€忍令顛越壯齡已踰亟更其轍更之伊何我笈有書負而東遊以陲ェ所疑非刻非厲曷圖曷究豈止惜陰 夜亦為晝昔離其鄂ソ今廓其朦始知人心與宇宙同出將用世時有不利孚惠家邦庶亨厥志勤我祠事以帥其宗况有書詩以陶以遉イ以暢其施期螟€夫物闌咲Z可捐我豈遑恤仁義之言 繩繩勿休昭朗道真釋除欲仇上帝有赫日注吾目天人之交間不容粟聽者聳然如聞巨鏞有聲鏗骰ァ無耳不聰旁溢于醫亦紹絶躅開闡玄微功利尤博斂其豪英變為毅弘所以百為 度越于人蜻ォ蜻ォ世儒出入口耳競操鬯ュ華析門殊軌以經為戲此孰甚焉不有躬行其失曷鐫世塗方缸黴€正資揚燎夢夢者天使埋其耀精神上征定為長庚與造化遊白光辟樒・表徳幽墟 遵古之義僉曰允哉是祠無愧

教えてください。 投稿者 : 怪力乱心 投稿日 : 2008/07/09(Wed) 00:34 No.22
袁枚の『子不語』巻19の末に「東医宝鑑有法治狐」というのがあります。
ある美女と結婚するのですが, 性交するたびにその精を吸い取られること,尋常の夫婦の比ではない。どうもこの美女は狐ではないかと感じます。でも,狐を駆逐する方法がわからない。それ で,教えてもらった『東医宝鑑』に書いてあるという「治狐術」というのを試したら,その女狐は泣きながら去っていったそうです。
その最後に「惜未 問其東医宝鑑中是何巻頁」とあるのですが,東医宝鑑のどこにこの術は書いてあるのでしょうか。おしえてください。

Re: 教えてください。 - 唐辺睦 2008/07/09(Wed) 10:18 No.23
こんなの随園老人か楊孝廉のホラ話でしょう。

「遂に偕に琉璃廠に往 き、この書を覓め得て、東洋人を求めて訳してこれを行えば、女は果して涕泣して去る。」
東洋人はここでは朝鮮人でしょうが、当時の『東医宝鑑』は 諺文だったとでも言うんですか。そんなわけはないでしょう。

美しい狐とのつきあいにお悩みですか。うらやましい。


Re: 教えてください。 - 怪力乱心 2008/07/09(Wed) 10:51 No.24
そうですか。東洋人って,日本人のことではないんですか。
日本の本かと 勘違いしました。残念です。


狐は雷をおそれる - 神麹斎 2008/07/09(Wed) 20:26 No.25
紀昀の『髢ア微草堂筆記』に拠れば,凡そ狐というものは雷に打た れるのを恐れる。だからといって普通の人が雷を操るわけにはいかない。そこで鉄砲を使う。遺憾ながら,日本では普通の人が鉄砲を持ち歩くわけには行かな い。
それに第一,回復とは結局のところ,その人の身体の自ずからなる回復以外に無い。鉄砲をぶっ放すなり,『東医宝鑑』の治狐の術が行うなりして も,できるのは狐を追い払うことであって,狐と情を交わした人の精がそれで回復するわけのものではない。


読みたい人の為に 投稿者 : 古参会員 投稿日 : 2008/07/07(Mon) 08:01 No.20
内経は、古典を読むべきだと宣伝して、古典が読めるようなるように手をさしのべる、そういう目的の会ではありません。
古 典を読みたい人が、古典を読もうとしている会です。
初心者にとっては、どこから手を付けたら良いのか分からないから、情報を求めてのぞきに来ると ころかも知れない。本当はどうだかは、今さら私たちには分かりません。
高所に立って、他の人に手をさしのべるなんて余裕は有りません。自分たちが 何かを古典に求めて四苦八苦しているのです。求めるものがそこに有るのかどうかも分からないのに。
ただ、最初は初心者には説明が必要ですし、初心 者に説明するほど中級者の理解を整理できる方法は無いでしょう。だから、整理して説明することには務めます。でも、それはあなたたちの為にするのではなく て、自分たちの為にするのです。それに、いつまでも蚊帳の外にいられてはつまらないから、引き入れようとするだけです。
内経が、そんなに親切な会 になる必要なんてない。来たい人は来てください。来ていれば、多分、そのうちには何とかなる。今まではそうでした。
言い忘れました。うちの会に上 級者なんて人はいないと思う。中級者ならそこそこいるんじゃないか。

やはり教育も - 別の古株 2008/07/07(Mon) 09:40 No.21
 日本内経医学会は,原塾の後身です。原塾の創設目的には,やっぱり当時の沈滞した 古典教育に活を入れるということが有りました。だから,日本内経医学会にはやはり教育目的も有ります。だから,医古文講座とか訓読講座とかを設けていま す。「目的の第一は漢字・漢文に馴れることです」とうたっています。それらの講座を経て,霊枢講義や素問講義へすすむ仕組みにもなっています。ただ,霊枢 講義や素問講義で,それぞれ八十一篇まで修了したらお終いかというと,そういうわけではありません。そこからが出発です。そういう意味では,古参会員さん が言う「自分たちが何かを古典に求めて四苦八苦している」会というのもまた事実です。

太素を読む会 再開 投稿者 : 神麹斎 投稿日 : 2008/06/30(Mon) 13:05 No.13
「太素を読む会」も,ここと同じ仕組みで再開させました。
http://plaza.umin.ac.jp/~linglan/cgi-bin/uni_joyful.cgi

御祝儀 投稿者 : 唐辺睦 投稿日 : 2008/06/25(Wed) 18:55 No.5
 掲示板の復活、おめでとうございます。御祝儀として、質問を一つ。

 『素問』四時刺逆従論に「長夏 気在肌肉,秋気在皮膚」とありますよね。肌(ハダ)と皮(カワ)はどう違うんでしょうか。

肌と皮 - 神麹斎 2008/06/25(Wed) 19:56 No.6
膚・皮・革が類義語,肌・肉が類義語ということらしいです。
『漢辞海』に次のよ うに説明されています。
「ともに表皮を表し,「膚」は人の皮膚,「皮」は毛のついた獣皮,「革」は毛と取り去った獣皮をいう。」
「先秦時 代までは,人の肉を「肌」,獣や鳥の肉を「肉」と,かなり明確に区別していた。漢代以降は,次第に混用されることになった。」
ただ,これの根拠と なる文献が分かりません。『漢語大詞典』にもそうした説明は無かったように思います。
いずれにせよ,肌と肉とか,皮と膚とかいうことではなくて, 要するに長夏はニク,秋はカワと言いたいんだけど,一字では語調が悪いから二字の熟語にしたということでしょう。人のニクを肌と書いたか肉と書いたかで, 時代考証ができるというものではありません。


Re: 御祝儀 - 唐辺睦 2008/06/25(Wed) 21:21 No.7
 しかし、『素問』 『霊枢』には「筋骨肌肉」という言いかたが結構でてきて、これはスジとホネとカワとニクだと思うんですが。

Re: 御祝儀 - かいちょう 2008/06/26(Thu) 08:52 No.8
ちなみに、張家山の脈書には、骨、脈、筋、附、気、とあって、附が皮を意味するらし い。つまり、皮と肌のちがいが判らなかった、あるいは肌のはたらきが判らなかったと思われます。ご参考までに。

Re: 御祝儀 - かいちょう 2008/06/26(Thu) 08:56 No.9
皮のむくみを皮水、肌のむくみを肌水、という区別がありますし、お灸をして水ぶくれが できる層が皮で、足がむくむ層が肌、そういう風にわけることはできます。さらに、皮一枚撮んだところが皮であり、筋肉からつまみ上げるようにたっぷり撮め るのが肌だと、理解しています。

Re: 御祝儀 - 七面道人 2008/06/26(Thu) 09:10 No.10
 ややこしいのは現代中国語 でも同じみたいです。愛知大学の『中日大辞典』に、「肌」は「筋肉と皮膚の総称」と説明するのに、「肌肉」には「筋肉」とだけあります。

肌と膚 - 神麹斎 2008/06/26(Thu) 15:03 No.12
『漢辞海』の説明が何に拠っているか分からない,と言いましたが,王力主編の『古代漢 語』でした。しかし,世の中にはちゃんと素直でない人がいて,『古代漢語・常用詞』訂正という書物が出ています。浙江大学出版社1987年6月発行,著者 は任学良。
「肌」と「膚」の項は,『古代漢語』修訂本では1631ページに在ります。最後の二項です。『古代漢語』の記事は省いて,訂正意見のみ ここに載せます。

【肉】
「肉」は口語であり,「肌」は文語である。これが両者の主要な区別である。人と獣の区分には,根拠が無 い。
①これ故に足に駢するものは,無用の肉を連ね,手に枝するものは,無用の指を樹えるなり。(荘子・駢拇)
②鄭伯は肉袒し羊を牽いて以 て逆(むか)える。(左伝宣十二)
③地を争いて以て戦いて,殺人野に盈ち,城を争いて以て戦いて,殺人城に盈つるに於てをや。これ所謂土地を率い て人の肉を食ましむるなり。罪死すとも容れられず。(孟子・離婁上)
④治に古は肉刑無し,……独り肉刑を用いざるのみに非ず,……(荀子・正論)
⑤ 心は肉を生じ,五肉已に具わる,しかる後に発して九竅を為す。(管子・水地)
以上のこうした「肉」はいずれも人の肉であって,禽獣の肉ではない。 「肉袒」は一種の礼節であり,「肌袒」とは言わない。「肉刑」を「肌刑」などとは言わない。孟子ははっきりと「人肉」と言って,「人肌」とは言わない。
「肌」 は人の皮膚を指すこともでき,だからこそ「骨肉肌膚」(荘子・至楽)は意味が通じる(『玉篇』に,肌,膚也)。ここでは「肉」というような意味はない。

【皮】
こ れは「肉」よりもさらにおかしな言い方である。
①今魯国は独り君の皮に非ざるや?吾願わくは君形を刳り皮を去り,心を洒い欲を去り,しかして無人 の野に遊ばんことを。(荘子・山水)
②人の皮は天に応じ,人の肉は地に応じる。(素問・針解)
③膚は,人の肉皮の上の薄邵垂ネり。(皇侃: 論語「膚受之愬」疏)
④寒を去り温に就き,皮膚を泄することなかれ。(素問・四気調神大論)
こうした例は「皮」が人を指すことができるの を説明している。
「革」は一般に人には用いられないが,極めて特別な場合には人に用いた例も有る。例えば『管子・水地』に「腎は脳を生じ,肝は革 を生じる」とあり,「革は,皮膚である」と注する。また例えば『礼記・礼運』に「四体既に正しく,膚革充盈す」とある。これらはいずれも「革」をもって人 を指している。


再開ありがたく存じます 投稿者 : かいちょう 投稿日 : 2008/06/26(Thu) 09:28 No.11
やはりこちらの方が書き込み易いですね。管理人は大変でしょうけど、よろしくお願いいたします。

再開します 投稿者 : 管理者 投稿日 : 2008/06/25(Wed) 12:00 No.4
日本内経医学会のBLOGに,全く書き込みが無いのに業を煮やして,掲示板を復活させました。
基本的には以 前と同じですが,投稿時に「投稿キー」の入力が必要です。オレンジ色の4桁の数字がそれです。
これで,不正な,機械的な書き込みはほとんど遮断で きると期待しています。
多数の投稿をお待ちいたします。

CJK統合漢字拡張領域Aのテスト:辮€辮√垂辮・推辮・炊辮・粋
CJK統 合漢字拡張領域Bのテスト:€€€Å黴€€を黴€€・黴€€・黴€€・黴€€・黴€€・黴€€陟€
表示されなかった場合,「言語の選択」を切り替えてみてください。

BLOG のほうは,早晩閉鎖します。

投稿番号が no.4 になっているのは,テスト投稿を削除したからです。これが実際の最初の投稿です。

- Joyful Note -
Edit : BJKORO.NET