島田隆司先生 - 追悼文 -
みなさまのご好意により、「内経」誌に掲載された追悼文をご提供いただきましたので、転載させていただきます。
島田隆司先生を追悼する:井上雅文
未だ石原明先生や丸山昌郎先生が矍鑠として活躍していた昭和三十年代後半に今は都立近代美術館の前身であった東京文化会館の一室で経絡治療研究会の関東支部の例会で二人で受け付けを受け持ったのが最初の出会いであった。既にその時島田先生は丸山先生に私淑していたのだと思う。当時からもそして今でも先生は終始兄であった。私がわがままだったり、無茶な言動をしても不思議と不愉快な態度を見せたことがなかった。私の方がずーっと甘えてきたように思う。様々な人間関係や状況の変化から私は経絡治療研究会や夏期大学との縁が薄くなり、先生とも疎遠になっていた時期があり突然ある日、古典の原典講座を開講するから『霊枢』を担当するように要請された。「原塾」の開講であった。この事件は『素問』丸山学統に属していた先生に多大な影響をもたらしていったと思う。後になって我々も知るところとなるのだが、古籍としての医学書である『内経』は明治以後の日本の漢籍学の研究方法では本質的な調査・研究は適わないのであった。丸山学統を超えて森立之や渋江抽斎の立場に立つ考証学派の研究方法に依拠しなければならないことに気が付いたのである。この点では先生も脱皮しなければならない時期を迎えていたのである。そして見事にそれを乗り越えて講座はある程度の成果をもたらした。
先生が持っていたもののうち、人を見る眼、そして人を全体の中で配置する能力、それは一方では鍼灸界では滅多に存在しない政治的能力に優れていた人物ではないのだろうか。又何らかの将来を見据える視座と問題点を見いだす能力も有り、先生の発案でいろいろなイベントを経験できた。もう一つ、先生の才の中で文章力とちょっとした挨拶のなかに発揮される才気は余人の追随を許さないところがあった。それ故、日本経絡学会の会長に就任するとは誰の予想も及ばない出来事であった。我々経験的な鍼灸を標榜するものにとって、経絡学会から伝統鍼灸学会への転換は先生なしにはなし得ない歴史的事件でありました。まだまだ将来展望を持ちつづけ、これからの伝統鍼灸の立場と発言力が強化されなければならない時期、われわれは他の人物ではなく、大変な人材の喪失に立ち会ったのかもしれない。私事ではあるが、島田先生の学会長就任に際し、先生が会長であるかぎり、補佐すると約束した通り、今は私も先生と共に公的な活動から身を引きたいと思う。やはり先生なしには何の活力も生み出せない自分を情けなくもあり、いとおしくも思うのである。そして、殆どの鍼灸師の死は向こう傷だらけの戦死に思えて仕方がない。先生の死も例外ではなかった。
戦場に遺髪震わす秋の風虚舟
平成十二年九月二十一日記
父の病状、経過などについて:島田力
私が父の身体の異常を聞いたのは、弟健二の結婚式を翌日に控えた昨年の十月三十日のことでした。母からの電話で黄疸がでているらしいことを聞き、翌朝父の治療のために実家に向かいました。その時の父はもう全身が真っ黄色で、明らかに黄疸と判断できましたが、多少の倦怠感以外は他に自覚症状もないため、結婚式には予定どおり出席し、翌日病院へ行くことにしました。
翌日の検査ではビリルビンの数値が二十以上と高く、即入院という診断で、翌々日に板橋の小豆沢病院に入院しました。その後の詳細な検査の結果、肝門部の胆管癌であることがわかったのですが、診断結果と余命が六ヶ月であることを初めに聞いていたのはなんと父でした。家族が呼ばれ父の病状説明を受けたとき、父にどう伝えるべきか悩んだのですが、父は父で私たち家族にどう伝えるかを悩んでいたことがあとになってわかりました。本人がいちばんショックであるはずなのに、父の強さに驚かされたと同時に、この精神力をもってすれば癌に勝てるのではないかと儚い希望を持ちました。
入院当初は黄疸の治療が最優先されました。癌の浸潤によって胆管が狭窄され、胆汁が溢れることによって黄疸症状を呈していたらしく、経皮的ドレナージという方法によって胆汁を体外へ流す処置が行われました。それよってビリルビンもやっと正常値まで低下し、黄疸は徐々に解消されていきました。
その後癌病巣部についての検査が続けられた結果、癌が思ったより小さいので、もしかすると切除できるかもしれないという知らせを十二月の初めに担当医から受け、父も私たち家族も希望を膨らませていきました。担当医は「もしかすると鍼灸治療の影響で小さくなったのではないかと思う」と父に話したそうです。その時の父の嬉しそうな顔が今でも目に浮かびます。入院当初から医師の理解を得て、病室での鍼灸治療をずっと続けていたのです。
更に詳しい検査と手術に備えるため大塚の癌研病院への転院が決まり、ベットが空くのを待つあいだ池袋の要町病院から検査のために癌研病院へ通うことになりました。十二月の中旬には癌研病院へ転院しましたが、その後の詳しい検査の結果は父の希望を打ち砕くものでした。癌が門脈に近接しているために、切除は危険が大きすぎてできないという診断でした。初めに余命六ヶ月を宣告されたものの、そのあとに病巣切除の可能性を聞かされて喜んでいた父にとっては、この結果はかなりショックだったようです。医師からは放射線療法と抗ガン剤による治療を勧められたのですが、効果はやってみなければわからないという説明を聞き、父は退院して東洋医学だけで治療していく決心をしました。ただし退院するには、体外に排泄していた胆汁を体内で胆管から小腸に流すように管を通す必要があるようで、そのための処置がしばらく続きました。
入院してからあっという間の二ヶ月が過ぎ、大晦日には一泊の一時帰宅を許可されました。思いがけず自宅で正月を迎えることができ、久しぶりのお酒を嘗めるようにして楽しんでいた姿が印象に残っています。家族と一緒に自宅で過ごした一日で、父は見違えるように元気になり、「やはり自宅に早く帰りたい」、「絶対に癌に勝つんだ」という気持ちを強くしているよう見えました。帰宅するときは車椅子だったのが、病院へ戻るときは杖だけででスタスタと病室へ向かっていきました。
退院のために必要な胆汁を内泄するための管は、一度に太いものにすることができないため、体調を見ながら少しずつ太いものへ替えていくわけです。僅か何ミリか太くするだけで数日間発熱し、しかも管を替えるときに痛みを伴うようでした。さすがの父も少し弱音を吐いていましたから、かなり辛かったのだと思います。やっと体内での胆汁の流れが確保され、緊急のために体外へ胆汁をだす管の出口を確保したままで、二月四日に退院することになりました。約四ヶ月の入院生活でした。
いよいよ東洋医学だけで癌と闘う(父自身は「癌と共生するんだ」と言っていました)日々が始まったわけです。長沢先生の処方で石原先生から届く漢方薬を服用し、火曜に井上先生、木曜は金古先生、金・土曜は水田先生、そして月・水・日曜は私が鍼灸の治療を続けました。癌研には二週間に一度の通院だけで、管の出口にシートを貼れば入浴も可能です。自宅に帰って家族に囲まれ、しかも自分の信じる鍼灸の治療を自由に受けられる環境は、やはり精神的にもかなり余裕を生み出すようで、入院しているときとは見違えるほど元気になっていきました。三月の下旬には二泊三日で箱根の温泉に旅行に行かれるまでになりました。本当に久しぶりの温泉は気持ちが良かったらしく、夜もぐっすりと眠っていました。朝風呂を浴びたあと、以前の温泉旅行では恒例だった缶ビールを二人で空けたりもしました。食欲もかなりでてきて、血色も良くなり、四月までしか生きられないという宣告を受けた人とは思えない生活を送っていました。その後、月に一度は温泉旅行に行き、病院への通院も自分で車を運転していくなど、癌との共生を実現しかけているようにさえ見えました。
そんな平穏な時を過ごしていた五月の末に、突然大量の吐血と下血によって小豆沢病院へ緊急入院することになりました。食道静脈瘤の破裂です。一時血圧もかなり低下し、危険な状態に陥りましたが、輸血と静脈瘤の結搾の処置がとられ、なんとかことなきを得ました。十六日間の入院でした。食道静脈瘤についてはその後も定期的に小豆沢病院で検査をすることになり、その後の経過も特に問題なく退院したものの、六月の半ばくらいから徐々に腹水が見られるようになってきました。初めのうちはお灸である程度対応できていましたが、そのうち起きあがるのも辛いほどになり、二、三日入院しては腹水を抜くということをしないと食事も入りにくい状態です。漢方薬を替えたり、いろいろな方法を試みたのですが、どうにもならないのです。病院で抜いても一、二日でまたたまる。だんだん間隔が短くなっていきました。
最後の入院は再度の食道静脈瘤からの出血が原因でした。出血自体はたいしたことがなくすぐに止まったのですが、どうも父の様子が普段と違うのです。意識が朦朧としていて、こちらの言っていることがわからない様子です。多分腹部だと思うのですが非常に痛がります。このまま意識がなくなるのではないと心配しましたが、翌日には冗談を言って笑わせたりします。なにか変だとは思いつつも、またすぐに退院できると思っていました。何日かそんな日が続き、八月七日も午前中は私が病院に付き添い、午後からは母や兄弟達が病室へ見舞いに行きました。夜の八時が消灯時間なのですが、父は笑って手を振ってみんなを見送ったそうです。その翌日の午前二時に母から電話があり、すぐに病院に駆けつけたのですが、そのとき父はすでに呼吸を止め、意識もありませんでした。看護婦さんが見つけたときはベッドから落ちて、呼吸をしていなかったそうです。すぐに人工呼吸器がつながれ、心臓は動き始めましたが、そのまま意識が戻ることなく八月十日の午後五時三三分永眠しました。享年六八歳でした。戒名は「鍼光徳隆居士」になりました。
菩提寺についても知っていることを少し書いておきます。菩提寺は埼玉県の高坂にある大渓山高済寺です。東武東上線の高坂駅から徒歩で五~六分のところにあります。竹林に囲まれた静かな小さい寺です。この寺と父のつながりは少し変わっています。父は日本橋の浜町の生まれなのですが、戦時中疎開したのが高坂だったそうです。いろいろと複雑な事情で、一時期この寺の庫裡に住まわせてもらったこともあるそうです。ですからこの地は父の第二の故郷といってもいいところです。この寺の前の住職(早くに亡くなられているのですが)が父の高校の同級生で、父の弟が昭和三十六年に八ヶ岳で遭難死したときに葬ったのが縁で、島田家の菩提寺として今日に至っているということです。

この文章は父が残したメモを参考に書きました。のメモ用紙に一二〇枚以上もあります。その他に療養日記というものも残っています。とても几帳面な性格だったので、その日にあった出来事、思いついたこと、夢で見たことなどをきちんとメモしてありました。ほとんど毎日書いていたようです。体調がつらい時期のものは字の乱れもかなりありました。そのときどきの正直な父の気持ちが書かれていて、読み進められなくなることが何度もありました。最後にこの場を借りて、心から父の冥福を祈りたいと思います。合掌
島田先生をしのんで:石田秀実
島田先生と最初にお目にかかったのは何時のことなのか、記憶に無い。これは多分脳梗塞で入院した際に、ずいぶんいろいろなことを忘れてしまったからなのかもしれない。だが、もっと大きな理由は、おそらく島田先生とお会いした初対面のときから、まるでずっと以前から知り尽くしている人であるかのような印象を持ってしまったからであるような気がする。不思議な人だった。鋭さが表に出てしまっているのでもない。権威の中で収まってしまっているのでもない。とらえどころのない感じなのに妙に温かい空気が流れているのだ。こんな人は初めてだった。何を話したかも覚えていないのに、その温かさだけは私の記憶に染み付いている。
その後ずいぶんいろいろなことがあった。内経学会の合宿にも招いていただいて、下手くそな話にお付き合いもいただいた。素問の翻訳では強引に訳注を減らして(紙幅上どうしようもなかった)ご迷惑をおかけした。なんだかいつも迷惑ばかり掛けていたような気がする。それでもいつも島田先生だけはわかってくれていると思っていた。今思えば完全な甘えである。何時までも甘え続けられるような気がしていた。突然亡くなられてしまうなんて思ってもいなかった。だから天満さんから突然の訃報を受け取ったときは、本当にショックだった。何かの間違いではないかと思った。実際私のなかではまだ島田先生がいないという実感がない。ひさしぶりに東京に行けば、どこかでふとお顔をお出しになるような気がしてならない。
人が本当に死ぬのは、その人を知る人々の心の中から、その人の思い出が薄れていくときだという。ならば島田先生はとうぶん死んだりすることはないだろう。私について言えば、島田先生と交わした約束の数々を果たさぬうちは、島田先生に死んでもらうことも、私が死ぬこともできない。
島田隆司先生とのこと:温知会幹事長・刺絡学会理事大貫進
あれはたしか昭和四十五年のことだったと記憶している。東鍼校の一年のとき、金古さんたちに誘われて民族医研の勉強会に新宿の鬼王神社について行った。それが島田先生との出会いだった。薬科大学を出ただけではなにも実践には役立たないことを痛切に感じていたころであったから、島田先生が往診に行った際に百会への指圧によって患者を軽快させた臨床経験にびっくりしたことを覚えている。(この症例は「経絡治療」誌第三十六号に掲載されている)。
当時はまだ鍼灸よりも湯液のほうに興味があったので、この出会いはこのあとの民族医研での丸山昌朗、長沢元夫、工藤訓正、石野信安先生からの影響へと続いた。
四十七年に矢数道明先生主宰の温知会に入会し、その後五十一年に工藤訓正先生に弟子入りして刺絡を教わり、刺絡研究会を結成した。この時、工藤先生から丸山先生のお弟子さんに島田、豊田、藤木と言う三羽がらすがいることを何度となくお聞きした。藤木先生とは康平本傷寒論や難経を、また豊田先生には霊枢を教わった懐かしい思い出がある。
温知会の事務局をおおせつかり、もっぱら漢方界の用事が増えたため、鍼灸界のほうには対外的にすすんで出ていなかったので、島田先生とは原塾での工藤先生の『刺絡聞見録』の講義のお手伝いまであまり親しくお目にかかることはなかった。原塾での第一回目の講義の後、工藤先生と島田先生のお宅にお邪魔したが、このときのことは「温知会会報・工藤訓正先生追悼号」に島田先生が述べている。
工藤先生が逝去された後、刺絡問題懇話会が発足した。丸山―島田、工藤―大貫というラインで奥平氏によって(仕方なく!)刺絡学会にまで発展した。
毎月一回(こちらはさぼることが多かった)池袋の島田先生の診療所で運営委員会が開かれ、刺絡についてのさまざまな問題点が討議されたが、小生が湯液関係に深く関与していることもあって島田先生とは刺絡以外の鍼灸界のことや東洋医学界のことを話し合った。

昨年の九月、刺絡学会の運営委員会を神保町の寄金さんの源草社で終えたあと、一杯飲みながら以前から再開しようと考えていた「鍼灸祭」の具体案を話し合い、酒の勢いも手伝ってついには十一月の第一木曜日に世話人会をひらくことになってしまった。
十一月のその前の月曜日の夕方、「大貫さん、申し訳ない。体調が悪くて明日検査入院をするので世話人会は欠席する」と言う電話があった。以前のはり灸祭りはどちらかと言うと経絡治療家の集まりであったが、今回は鍼灸業界、学校関係、全日本鍼灸学会までとかなり広範囲にまで声をかけているため、湯液界にいた小生には初対面の方が多く島田先生にまとめ役をお願いしようと思っていたところであったのでかなり困惑した。幸い、岡部素明先生がうまくまとめてくださり、多少のもめごとはあったが無事に当日を迎えることができた。(残念なことにその岡部先生までも幽冥の地に入られてしまったが‥‥)
世話人会の一部始終は島田先生に連絡したが、常に適切なアドバイスをいただき、復活第一回目の鍼灸祭は予想以上の盛会で終えることが出来た。(この裏方を務めていただいた源草社の寄金氏の尽力には感謝する次第であるが!)

これから刺絡に関する古文献の発掘、鍼灸祭の運営等々、島田先生とはいろいろ相談することがあったのだが今はそれも出来ない。
今後はこれらのことを若い世代の方達とおし進めて行きたいと思う。
どうぞ島田先生、お導きください。
合掌
日本伝統鍼灸の行方:小川卓良
追悼:島田隆司先生早過ぎます!
ここは、「俺の秘密の場所なんだ」という場所に連れて行かれたのが、何年前だったろうか、JR池袋駅西口の路地裏にあるカウンターだけの小さな小料理屋だった。そこは「本当の友人しか連れていかない店」ということで、私もとうとう島田隆司の友人になったかと密かに喜んだ。その頃からだいたい三ヶ月に一度くらい、二人だけで飲みに行って今後の鍼灸界や伝統鍼灸の行く末について語り合ったが、いつも先生の方から「そろそろどうだ?」とお誘いがあった。
先生は、故丸山昌朗先生の弟子で故豊田白詩、故藤木俊郎先生と三羽烏であった。豊田先生は七十歳くらい、丸山先生は五十八歳位、藤木先生は四四歳のいう若さで亡くなったために、古典を一生懸命勉強すると早死にする(癌になる)と周りでは良く陰口をたたいていた。その時、島田先生も顔色が良くなく、きっと癌だと皆思っていたようであった。実は先生は当時痔瘻を患っていて確かに病気であったが、その後一日八百壮の多壮灸で完治されたということであった。
私は、藤木先生には鍼灸学校で漢方概論を習い、豊田先生と丸山先生には夏期大学で講義を聴いたが、島田先生には習った記憶が全くなかった。日本経絡学会(日本伝統鍼灸学会の前身)で先生がシンポジウムの司会とシンポジストをされたとき、私はびっくりしてしまった。シンポジウムが終わるや否や直ちに、今後先生はシンポジウムの司会はしないで下さい、講演は「自分の話しを聞け」でなく、聴衆にわかるようにはっきりと話してください、そしてスライドはもっと文字を大きくして聴衆が見られるようにするべきだ、と意見をした。さぞや気分を害されたと思うが、実は豊田、藤木両先生も全く同様で古典派の人たちは、自分だけわかっていればよいというか、馬鹿には話してもしょうがないというような雰囲気があったから、ここぞとばかりにぶつけた次第であった(実際は皆さん共にシャイだっただけなのだが)。一時的には気分を害されたかも知れないけれど、先生は私のいっていることを素直に聞いてくれて、それからは大分変身して、平成九年の全日本鍼灸学会と経絡学会の共催大会のシンポジウムでは、非常に見やすいスライドで、口調ははっきりと噛んで聞かせるように話され、それは見事なものであった。
この柔軟性と是は是、非は非を自分に課せられるという謙虚さが先生の大きな持ち味であったと思う。とかく、古典派というか鍼灸治療で一派をなしている人たちは、己の主義主張を拡げ普及することには熱心であるが、自分に向けられた批判には耳を貸さず無視する人が多い中で、先生だけは違っていた。そのことは、一派の長たる人達も気付いていて、島田先生の言うことならば聞いてみようという人たちは何人かいた。島田先生が経絡学会会長になられてから、藤本蓮風、池田政一、井上雅文、岡部素明、首藤傳明という古典派のビックネームを集めて懇談会を企画したことがあった。古典の基づく日本伝統鍼灸の学問的レベルをあげようということで、具体的には、用語や概念の統一をすることが可能かということを話し合った。しかし、その難かしさは古典鍼灸に関わる人なら想像がつくだろうが、島田先生ならばできるのではないかという期待はあった。
先生は、第十六回日本経絡学会学術大会の時から学術部長になられ、『鍼灸治療の証について』を五年間の統一テーマとして掲げ、先ず用語の統一、概念の統一を目指して、作業を進めてきた。第十六回には、それまでタブーであった六部定位脉診や難経六十九難の批判が少しで出てき始め、第十七回にはシンポジウムに公然と六部定位脉診などへの批判が出、討論の末、それぞれ一定の見解が了承された(日本経絡学会誌第十六巻第十七号)。
それまでの経絡治療は、「六部定位脉診で診断した経絡の虚実(実際には陰経の虚)を、難経六九難に基づいた選穴で補瀉の治療を施せば全ての病気が治る」ということであり、発展性のないものであったから、この殻を打ち破ったことは大きな成果であった。第二十回大会では、『鍼灸治療の証について』を総括し、学術部長としてその成果をまとめられた(日本経絡学会誌十九巻二号一九九三年)。①経絡治療をクローズからオープンへ、②(学術大会を)お祭り行事学会から研究を集積し将来に役立てる場へ、③(学会を)継続的研究を組織化するためのセンターへという三つの提案をされた。
二十一回大会からは、学会副会長として『病証学の確立のために』を共通テーマとして学会をリードし、先の三つの提案を具体化する作業を進められ、平成八年からは会長として、少しずつその成果が上がってきたところで先生は倒られた。
以前より、先生とのお付き合いは酒だけでなくテニスもあった。先生は上手な方ではないが、女優をしているという長女君にはお目にかかれなかったが、他の三人の子供達とはテニスでのお付き合いがあった。三人ともテニスは上手で何回か一緒にしたが、そのうちの二人が鍼灸界に入ってきてなおかつ当院のスタッフになるとは当時は夢にも思わなかった。
女優といえば、島田先生は鍼灸師になる前は銀行員で銀行の演劇部の演出家で、演劇部のマドンナが奥さんであったそうである。経絡学会のある学術大会が終わり、会計処理を島田先生と一緒に行ったことがあった。その時お金の数え方が異常に速いので前職が判明した次第である。そして、ある学術大会の開会前の準備をしている時に楽屋に入ろうとしている美人がいた。部外者が来るところではないのでどちらの方か尋ねたところ「何を言っているのか」という顔をされて、「島田の家内でございます」と言われてしまった。その前に島田家で何度かお会いしているのに関わらずである。さすがに元マドンナである。素が良いと化け方もすごいと、非常に感心した思いがある。
さて、私は古典派といっても、古典は現代訳しか読んでないし、漢方概論の教師を数年やってはいたが、種本は島田藤木両先生が作ったものを使っていたし、治療に関しても標治法に関しては極力現代医学的な知見を応用していたので、古典派とはとても言えた鍼灸師ではない。では現代派かというとそんなつもりは更々ないので折衷派にでもしていただきましょうかというくらいである。島田先生は経絡治療家の枠をはみ出て古典の様々な知見を応用していたので、経絡治療家というより古典派でしょう。そんな彼が父ではなく私にご子息二人を委ねられた。
私としては、私に何をしろというのか先生の意図がわからなくて正直と惑った。古典派でも無い私にご子息を委ねられたのは、多分私が想像するように、私も先生も、鍼灸をそして鍼灸師の向上を願う気持ちが強かったから、その想いをご子息に伝えるように私に託したのではないだろうかと思っている。
その先生の想いであるが、道半ばで逝かれてどれだけ無念であったろうかと思うと本当にやるせない思いで一杯になる。少しずつ成果を上げていた矢先のことで、まだまだやり遂げなければ行けない事が山積みであった。先の三つの提案は少しづつであるが成果が出ている。その他、学会の統一も考えておられた。日本伝統鍼灸学会に参加する研究会は二十近くあり、ただ参加するというだけでなく、それらの統合を視野に入れておられ、ひいては、唯一の法人格を持つ(社)全日本鍼灸学会へ日本伝統鍼灸学会を分科会として参入し、鍼灸学の古典研究及び古典に基づく鍼灸臨床研究の殿堂とし、其処での成果を持って、その次は古典とか西洋医学的とかという枠を超えた鍼灸学・鍼灸臨床学の構築まで視野に入れられていた。初めから、古典と科学の統合ではなく、古典は古典で成果をあげてからその上での統合という考え方であった。古典と科学の統合というと、言葉は非常にかっこいいが、その実は故竹山晋一郎先生曰く「竹で木を継ぐ」式の全く実も無く、発展性も無いものになるのは確実である。しかし後段の部分まで先生が関与できるとは、時間的問題で私も思ってなく、あくまでも前段の、日本伝統鍼灸学会というより日本伝統鍼灸学分野の統合(具体的には用語と概念の統一を手始めにして)と(社)全日本鍼灸学会への参入まで先生は実行可能と考えていらしたと思う。私が日本伝統鍼灸学会で渉外部長という傍目にも役目のはっきりしない(二人の間でははっきりしていた)役職に何年もついていること、(社)全日本鍼灸学会の役員に就任したこと等は、これらの方針と全く無縁ではない。
日本伝統鍼灸学の統合という問題は島田隆司先生だけでは無論できないことで、そのキーマンの一人であった岡部素明先生が三月に突然亡くなられたことは、先生にとっても、夢が遠ざかったという想いを持たれたと思う。
藤本蓮風氏が本年一月頃であったろうか、電話で島田先生の病状を甚く気になされ、「絶対に島田先生を死なせるなよ。島田先生が亡くなったら日本の古典鍼灸界はまた昔みたいにバラバラになってしまうぞ。」と言われた。私そう思っていたので、その時は絶対に助けると言った覚えがある。事実、半分以上大丈夫と思っていたが、転院先の病院で病室での灸治療を二ヶ月ほど拒否され、その間にどんどん悪くなっていった。それまでは順調で、当初手術不能といわれた癌が、灸治療のため(と私は思っているが)小さくなって手術が可能なレベルまでになり、手術を前提として最も優秀な専門医のところに転院したのであるが、それが結果的にはアダになった。治療は島田先生の先輩の井上雅文氏、直弟子の金古英毅氏、ご子息の島田力氏、私の元弟子の水田さんなどを中心としてその他多くの人がチームを組んで毎日のように行っていたのだが、病院を転院してから治療チームの元気もだんだんなくなっていったのである。
さて、藤本氏の言は的を得ていると思う。先生が亡くなった日に井上雅文氏と会っていた。先生の遺志を先生が居なくても出来得るだろうかということを話し合い、それは多分できないだろう、しかし、後に続く人たちが島田先生の数倍の努力すればできるかも知れないという結論になった。では、誰がそれを成し得るのだろうか。日本伝統鍼灸学会の次期会長を決めるだけならば、首藤傳明先生が会長が入院したときから会長代行に就任されているし、他に井上先生を初め副会長が三人もいらっしゃるので全く心配してない。しかし、島田先生の遺志を継ぐとなると話しは全く別になる。より良い鍼灸学の構築のために、日本伝統鍼灸学会の枠を超えて、日本伝統鍼灸学のまとめ役たらんとする人材の登場が必須である。先生、早過ぎます。我々は何をすればよいのでしょうか。エントロピー増大の理論及びカオスの理論に基づいて、いったんバラバラにする方が良いのかも知れません、と思う今日この頃です。先生のご冥福をお祈りします。当分お会いする気はありませんので親父の相手でもしてしばらく待っていて下さい。
(この追悼文は『医道の日本』のご好意により転載いたしました)
島田隆司先生を偲んで:北辰会学術部長奥村裕一
島田先生は古典に真摯な取り組みをする人たちの共働の場を設けたいとの願いから、昭和五十九年原塾を創設されました。そうした中から現代中医学の医古文研究との邂逅があり、さらに百年間埋もれていた我が国幕末考証学派の業績を正しく評価し、あらたなる古典研究の扉を開かれることとなりました。その後原塾を発展的解消におさめ、日本内経医学会として更なる展開をはかられた先生の功績に対し敬意を表したく思います。

『中医臨床』通巻二十七号で島田先生は「鍼灸臨床における古典の意義について」の中で、「中国で文献系を育成しようとしているのは、実は古典といわれている素問も霊枢も、或いは甲乙経、脈経、その他の重要な文献も、まだ現代的な研究が始まったばかりであることに由来している。その中には重要な発明でありながら時代に適合せずに否定されたり、いつの間にか埋没したり、或いは方向を変えさせられたりしたものもあろう。一定の解釈が定着していながら新しい語法研究の成果によって正しい解釈をえて新たな方法がうまれる可能性もある。古典とは幾多の歴史的変遷の中で一貫して尊重され、継承され、絶えずそこに戻ることによって新たな発展の原動力をうみだしてきたものである。そこに根ざすべきこと論をまたない。」と述べられています。

現代中国の中医学教育の動向に目配りし、臨床系と文献系の教育カリキュラムを例に文献研究の重要性を指摘されていました。いまでは日本内経医学会が日本を代表する文献研究の拠点となり、多くの優秀な人材を育成されすばらしい業績を残されてきました。
その一方で臨床および臨床家との対話も重視され、よりよい文献研究と臨床との橋渡しを考えられていたのではないでしょうか。先年北辰会代表藤本蓮風が「臨床古典学提唱」という古典研究を臨床家の立場からとして、より実用の学を意識した研究方法論の問題提起を行いました。島田先生にもご一読いただいたところ、それに対し評価してくださりご理解を示されていました。今後も北辰会としては、日本内経医学会を中心とした文献研究の成果を踏まえながら臨床古典学を確立していきたいものと考えています。どうかお見守りいただきたく思っております。
島田隆司先生のご冥福をお祈りいたします。
合掌
島田隆司先生との三十二年間、幾つかの追想:金古英毅
私は先生の最初にして最後の不肖の弟子である。三十二年前、私が鍼灸学生の時、ある会の夏期勉強会の講師としてみえたのが先生との初めての出逢いだった。当時、先生は経絡治療夏期大学講師、『経絡治療』誌編集主幹、新日本医師協会東京支部鍼灸部会会長、新日本医師協会会長の故久保全雄先生が主宰した民族医学研究所講師として、八面六臂のご活躍をされていた。
先生のお宅に初めて伺った時に『経絡治療』誌の竹山晋一郎先生追悼号(第二十一号)を頂き、先生の巻頭言「流れを変えるもの」は鍼灸学生だった私の脳裏に強烈なインパクトとして焼き付いた。「先生、これ何回くらい書き直しました?」、「うん、三回くらいかな」。先生は寡黙な人である。あまり多くを語らず、言葉に出さなくとも気持ちが通じ合うことを大切にされていた。この巻頭言の冒頭に「人間とは運命に争(あらが)うものである」とある。先生は病を得て鍼灸の道に入られたように、決して上部とはいえない肉体を持つことを運命づけられていたのであろうか。丸山先生との出逢いから、大病を患ってもその身体に争うように魂の向上を常に求めて、峻険な伝統的鍼灸の道を買いたくされていった。
以後三十二年間、兄弟のいない私にとって、一回り違う(先生も私も申年)尊敬する一番上の兄貴のような存在の思いが強く、精神的な人生の師でもあった。この気持ちは現在でも変わらない。
以下、思い起こすことを幾つか。
出逢いから五年、一九七三年の十二月から正月にかけて、先生の企画により日本民族医学研究所の先生方(久保全雄・長沢元夫・幡井勉)と当時の鍼灸仲間と一緒に「インド伝承医学研修旅行」でインドへ行ったことがある。私は訳も分からず、でもインドに惹かれて行った。私が「先生、なぜインドに惹かれる?」、「うん、混沌とした生臭さかな、人を含めて日本のように画一的でないから‥‥。ベナレス─ラクノウ間のバス旅行(八時間くらい)が一番良かった。途中の茶屋で休憩して、立ち小便したときの伸び伸びとした気持ちの良さ」。私、「あの時のチャーイ(インドのスパイス・ミルクティー)、あれは美味かった。日本では想像もできない汚いコップで出されたけど、二、三杯お代わりしましたね」。先生、「気のあった数人と何度でも行きたいなあ」。以後、インドに対する思いは募る一方でインド音楽に、カレーに、チャーイにのめり込んでいき、有名なインド音楽家が来日する度に聴きに行ったものである。
この翌年、多忙の極にあった先生がご体調を極度に崩されたことがあった。この時、先生の人生観を一変させた恩師の丸山昌朗先生に私は言われた。「金古君、島田の弟子だよな、島田頼むよ」。この時、丸山先生のご友人であり歌人の荒井憲太郎先生がいらっしゃっていて、「僕は島田さん好きなんだ、電話したい」。即座に丸山先生が「だめだ、止せよ。散歩しているかもしれないし、余計な気を使わせるな、そうだよな金古‥‥」、私はうなずいた。この時、丸山先生の愛弟子に対する御情愛の思いの一端を垣間見ることが出来たのである。
私は自分や家族の治療と臨床を含め、先生が発見された足底穴(「足底穴について─厥との関連を考えながら」『日本経絡学会誌』第六号)に助けられたこともしばしばであるが、その偉功に確信を持ったのは先生を治療してからだった。ある年の夏、先生から「ちょっと調子が悪いんだ、診てもらえる?」。行ってみると、ある会の合宿で冷酒を飲み過ぎと睡眠不足による厥逆証であり、背腰部の痛みと吐き気を伴う急性膵臓炎のような症状だった。型どおりの治療後、足底穴の少陰点に百壮を施灸。翌日、「熱かったけど、あの灸は効いたなあ。夕べは良く眠れたよ、ありがとう」。
腰痛持ちの私は先生の治療を何度か受けた。鍼灸の手ほどきは一度もなく治療をみせて頂いたのも学生の時に一回。喘息の患者さんだったが、復溜穴へ刺鍼するときの集中力のすごさが鍼灸のことを皆目分からなかった私の心に焼き付いており、今でも眼前に浮かんでくる。先生の治療を、「気合いの治療」と評した人がいた。あの穏やかな目の奥に潜む、『内経』に裏付けられた学識をしのぐ烈々たる気迫と集中力が、多くの患者さんの邪気を駆遂していたのだと思う。
人を愛し、鍼灸を愛し、酒を愛された先生。最初の頃は全く呑めなかった私も、酒だけは先生に肩を並べられるようになった。丸山先生亡き後、二人で良く酌み交わしたが丸山先生の話になると目が潤むこともしばしばだった。ある時も呑みながら、私が「丸山門下生の三人(豊田・島田・藤木)の特長を一言でいえば、島田先生は育(はぐくむ)、藤木さんは学、豊田先生はなんだろう」。しばやくして先生が「豊田さんは智、藤木は理、僕は摂(やしなう)だと思う。この三人の能力以上を合わせ持ち、神気を抱いた丸山先生に僕達は見出されたからこそ一つにまとまってお互いの能力を発揮できた。丸山先生にお会いして真の教育とは何かに触れることが出来た。それを少しでもいいから伝えて行きたい。な、ネコさん」。私の愛称を呼びながら、ニコっと笑うと目が象の目のように細く小さくなる。
「私心なく、鍼灸を愛する能力のある人間が五人集まったら日本の鍼灸界は変えられる。身体が弱いから鍼灸のありがたさが分かる。な、ネコさん」、口癖のようにおっしゃっていた。
まさしく鍼灸界を変えるべき人を求め、「摂」の思いを以て常に次の人材を育てるべく邁進された。素問の会、原塾、日本内経医学会、日本伝統鍼灸学会の会長として、「年齢の差を超えてその人の持つ能力に敬意を払い、言いたいことを言い合おう。いいものは皆の共通財産に出来る会にしよう。これが出来なくなったら人は育たないしその組織は死ぬ」と初めてお会いした頃からいつも言われ、このことに常に心を砕き、人を枠にはめるということは一切やらなかった。これに甘えて私などは一番言いたいことを言い、相当先生を傷つけたのではないかと思っている。ご容赦下さい。
近代における『素問』『霊枢』研究の嚆矢として、丸山先生がたったお一人で始められて半世紀が経とうとしている。丸山、豊田、藤木、島田と受け継がれ、先生に育まれた丸山学統を受け継ぐ、『内経』学徒の裾野は広がっており、非力な私達は束になって先生を乗り越えていかなければならない。
島田先生、私のつたない治療でしたが二日酔いの予防にはなろうかと思います。天国で丸山先生と思い切り呑み明かしてください。公私ともに長い間ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

(本稿は『医道の日本』十月号「島田隆司先生との三十二年間、思い起こすこと幾つか」に加筆し訂正を加えたものである。)
「学ぶ」ということ:小林健二
「学ぶ」ということは、ある対象に対して目的意識をもって、その構造を究明・把握し自得する作業である。常識でいう「学ぶ」という行為は、学校で教師に教えられて物事を「学ぶ」という行為を指す。しかしこれは表面的・現象的な面を言い、真の「学ぶ」ということではない。自ら能動的に対象に取り組んで創造的にその真理をつかみ取る。学校の教科書、教師の言葉を鵜呑みにしないで、健康的な懐疑心を持ち、疑いない真理と思われる対象にも再検討を加え、新たな発見をし、さらに進んで独自の見解・理論の創造へと進んでいく。そういう姿が真の「学ぶ」という行為である。
数年前、島田先生がご自分の半生を「私の学生時代」(『医道の日本』一九八八年八月号)というタイトルで書かれたものがある。二十代最後に慢性肝炎に罹患。断食と鍼灸で命を救われ、意を決し、銀行マンから鍼灸師へと転換。この自家体験は言葉で表せない強烈な「衝撃」であったと思う。不幸から幸せ、苦痛から壮快、「人の幸せとは何か」を自らの体を通して教えられた現実。「なぜだ、なぜだ、なぜ常識的世界の西洋医学で治らなかった病気が、このような治療で治るのか」と、その疑問は脳裏を離れずにいたに違いない。この純粋な懐疑精神が後に「学」として展開していく。
鍼灸の昭和史の中で、「病」の直接的克服体験から鍼灸への道を歩んだ人は数知れない。「昔結核、今肝炎」という言葉があるが、戦前「亡国病」と恐れられた結核の病から「命」を救われた人に、井上恵理、岡部素道、代田文誌、深谷伊三郎、丸山昌朗、小川晴通その他多くの人達がいる。この先生達もやはり、純粋な懐疑精神をお持ちになっていたのであろう。
以前、先生との会話の中で聞いた若い頃のエピソードがある。高校生の時に戦争で家を焼かれ埼玉の東松山のお寺に疎開に来ていた時、画家の丸木位里さん(数年前ノーベル平和賞の候補に挙がった画家)の「原爆の図」を見て感銘し、このパンフレットを駅前を通る人達に「これを見て下さい、これを見て下さい。」と、一生懸命この絵、この自らの感動を説明し配っていた。その行動が問題になり高校で処分(停学?)されたことがあった。すでにこの頃から青春の熱き情熱をもって「人とは」「幸せとは」「戦争とは」と社会に行動し、自問自答していたのである。
この肝炎克服を機に「人の幸せ」を手助けする仕事に一生を懸けてみたい。メラメラと燃える、この精神は終生変わらず持ち続けていた。しかし高い理想だけでは人は生きられない。鍼灸の世界への転機は、そうは簡単に理想への世界への入り口にはなり得なかった。生みの苦しみ、運命の神様はさらなる試練と絶望を与えてくれる。この鬱積した気持ちが、後の運命的な「経絡治療」講師陣、特に丸山昌朗先生との出会いで一気に晴れる。「始めある物に終わり有り」「表、大なれば、裏も大なり」希望と情熱と信念を持ち続ければ、不遇な世界はいつか終わり、抑圧された精神が大きいほど開放された時、急激に膨膨し花開く。陰陽・易の世界である。
ご存じと思うが「学校」は文部省の指導があり、教師、生徒の人数から授業のカリキュラムに至るまで管理が入り、講習会のような自由な講座は作れない。結局、自分が求めていた東洋的な伝統的な鍼灸術は学校教育には微塵もなかった。「求めよ、されば与えられん」。強い強い信念はいつしか魔術を与える。二学年の時に偶然「経絡治療夏期大学」の講習会のことを知り受講。そこでの丸山昌朗、岡部素道、井上恵理、竹山晋一郎との宿命とも言える出会い。数ヶ月後の丸山昌朗先生への弟子入り。ここでモヤモヤした気持ちが一気に晴れ、あたかも『霊枢』九鍼十二原第一「若風之吹雲。明乎若見蒼天。刺之道畢矣」のような気持ちであったと思う。
あとは「学ぶ」ことが「楽しくて、楽しくて」しようがない毎日ではなかったか。唯一最高の世界観を学び、それをもって臨床のみならず生活のすべて、社会に対しても当てはめてみる。自分の人生の決断に誤りはなかったと確信したとき、それは恐れも不安も迷いもない自由な精神が出来上がった時である。
これ以降、『素問』の研究にあたっても『馬王堆』医書発見、森立之『素問攷注』から始まり世界的に貴重な文献の出版が相次ぎ、ますます没頭し、鍼灸の理論に欠けているもの、誤った認識、正当な評価をすべく研究活動が続く。これは学問をする楽しみの真っ最中であったと同時に苦しさと困難な時代でもあったといえる。当然、生活の困窮という現実にぶつからないわけはいかないが、理解ある良き伴侶を得たのも幸運であった。
参考までに若干、著述の業績を眺めてみたい。
先生は、もとより学閥も派閥も無い独学の自由な立場ゆえ、自己の研究成果を基に各種論文に批判・反論を加えている。「高橋晄正著『漢方の認識』についての批判」(一九七一)、「『黄帝内経の成立』をめぐって」(一九八〇)、等々
鍼灸臨床の面でも「足底の穴について」(一九七八)のような新しい発見を発表している。また「刺絡治療の復権を目指して」(一九九〇)、「刺絡鍼法の歴史」(一九九六)に見られる刺絡の社会的正当な評価に尽力した。
鍼灸理論においては「鍼灸医学において古典研究は如何にあるべきか」(一九七七)、「陰陽五行学説と鍼灸医学」(一九八一)のような基礎理論を究明した。
特に「内経関係」においては、「原塾」開校に始まり、中国との学術交流へと、広い視野に立った活動を起こしている。『霊枢』経脈篇、九鍼十二原篇をテーマにした研究では、臨床家ならではの研究発表をしている。その他、「全元起本について」(一九九六)、「『霊枢』の成立を巡って」(一九八六)、「難経と内経との関連について」(一九八九)、「『難経』経言考」(一九八八)、「『難経』の成立」(一九九〇)等々『難経』についても『素問』同様に生涯のテーマであった。日本における内経研究史としてまとめた「『内経』研究概観」は中国の『黄帝内経研究大成』(一九九・北京出版社)に収められている。
最後に、先生は夢を持ち、実現した人であると締めくくりたい。また様々な鍼灸に関する問題提起をし学会等で発表し続けた。未完成・不十分な点がある故、終わりが無く、永遠に続く仕事を後生に託した。「陽極まれば陰」。完成は終わりの始まりである。この終わりのない永遠の「学」に、「先生、乾杯!」。
追悼文なんて書けない:左合昌美
追悼文なんて書けない。
なんだか未だに本当のような気がしない。去年の八月末の合宿には、島田先生の発表も有って、そりゃあまあ今更「驚天動地」「刮目して見る」なんて論文じゃなかったけど、当日聴くに堪えた数少ない発表の一つではあった。
次いで十月の末に、伝統鍼灸の学会で会長講演をやったけど、私はさぼったから聴いてない。
その後、誰からのEメールだったか、そう言えばという感じで、先生が入院したよ、とニュースが入って、お見舞いに行かなきゃね、でもわざわざ駆けつけたんじゃ、先生にいらん気を回されて困るから、というようなことで忘年会にかこつけて上京、お見舞い。
「こんなざまになりました」てなことを言いながら、病院へ案内してくれた宮川さんには、今年の伝統鍼灸東京大会について指示を細々と。忘年会は去年と同じ河豚ヤだよというと、くやしそうにするから、まあまあ雑炊くらいは後からとどけるからと。
なんだか未だに本当のような気がしない。
今年になってからは、連絡がぼつぼつと入って一喜一憂したけど、どうしてもいい方の連絡ばかりを記憶に留めて、悪いニュースからは無意識に逃げていたんだろうね。今年の八月末の合宿には、島田先生の発表はさすがに無理だろうな。いや、去年の湯島聖堂まで出てくるのはきついらしいから、ご自宅近くの施設を借りよう。いや、ご自宅近くの施設でも出てくるのは無理みたいだから、みんなで見舞いに行こう。そしてついに、合宿は中止せざると得ないだろうと連絡が入って、それでもなお此の夏くらいは何とか……。東京にいて、たびたび見舞っていた人たちには申し訳ないけど、あくまでのんきに構えていた。

なんだか未だに本当のような気がしない。もともと最近は、夏の合宿と暮れの忘年会、たまに伝統鍼灸の学会、くらいしか顔を合わせる機会は無かったから、半年くらい声を聞かなくても何ともない。東京にいて、たびたび見舞って一喜一憂していた人たちには申し訳ないけど、なんだかもうひとつ本当のことのような気がしない。
島田先生とのつきあいは、もともと偶然で、鍼灸学校の漢方概論担当の先生の、急病に伴うピンチヒッターであった。それが治療院にも出入りするようになり、原塾から内経医学会へと、結構長いあいだ、よく腹も立てずにつきあってもらったものだ。
いつのころからだろう、島田先生には何を言っても大丈夫と思っていた。先生のことを話すとき、多くの人が「温厚」と評する。そんなことは無い。古い「経絡治療」誌をみると、論戦の主役はたいてい島田先生である。けっこう喧嘩っ早い。温厚にみえていたとしたら、それは努力して作った性格である。それを何を言っても大丈夫だと決め込んでいた。曰く、センセイと言うのは黄帝、岐伯の類であって、現に目前のいろいろ教えてくれている人のことはセンパイと言うべきものである。まあ、師匠にむかって言うべき言葉ではない。曰く、愚兄賢弟。(賢弟とは誰のことか、それは言わない。分かる人には分かるでしょう。)これにはさすがにぎょっとした顔をされたが、本意は「愚」のほうには無く、「兄」のほうに在る。弟はどうがんばっても兄にはなれない。内経医学会も、ここ数年は宮川さんが実質的に取り仕切っていて、島田先生はべつにいてもいなくてもいい感じだったけど、いざいなくなられてみると、宮川さんも会長はしんどいだろうな。宮川さんの能力云々じゃない。梁山泊の荒くれどものことを言っている。島田先生なら、平気な顔をして首領の座にいたけど……。現実的には不肖の弟子どもで運営していく他ないから、何人かで(五月蝿そうなのは取り込んで)運営委員会でも作って、宮川さんに委員長を受けてもらう以外ないけど、宮川さんもしんどいことだろうな……とためいき。
先生の葬儀。正式な通夜の儀式のあと、不埒な弟子どもが酒を買い込んできて、朝まで酒盛りである。「どうも先生は、自分が死んだことを自覚してないんじゃないか。俺の分は、って出てこられても困るから、杯は供えておけよ」「それでも何だ、去年倒れてずっと禁酒で、そのまま……と言うんじゃいくら何でもかわいそ過ぎる、と思ったけど、少しは飲めたみたいだね、よかったよかった」
考えてみると葬儀というのは、一番の当事者が出席しない唯一の儀式である。通夜、葬儀で殊勝な顔をしたり、飲んだくれたりしているのは、結局はそういう役割の人である。本当に悔しがっている人は、どこかで一人で飲んでいるのかも知れない。(遺族は別、いやでも出なきゃならない。本当はそっとしてもらいたいのかも。騒いですみませんでした。)
島田先生の鍼灸医学における業績は言うまでも無い。古くからの原稿を整理中だから、まとまったらなおさらはっきりするだろう。それでもなお、先生の本質は、教育者、アジテーターあるいは「首領」であったと思う。先生程度の学者は、今後うちの会からも出てくるだろう。出てこなきゃ逆に申し訳ない。だけど、先生のような「首領」はなかなか難しいだろうねえ。当分の間、「いますがごとく」で行きますか。先生が亡くなった?なんだか未だに本当のような気がしない。追悼文なんて書けない。
もう少し生きていただけたら:高橋清治
今から四、五年ほど前、東洋学術出版社から翻訳のお手伝いをさせていただけることになった。それは刺絡の本で、私としてはそれまで培ってきた中国語や中医学の力を少しでも発揮できると、うれしい思いであった。しかしその一方で医古文はおろか、普通の漢文さえ読めない自分にはがゆさを憶えていた。そこで内経学会にお世話になることになったが、これが私と島田先生との関係の始まりである。ところが翻訳の作業を進める過程でその刺絡の翻訳の関係者の中に島田先生もおられることがわかった。日頃、刺絡の意義を理解しつつも、その実践の場もたない私にとっては、少しでも自分の思いを生かせると考え、翻訳を進めていたのだが、同時に、今の医療情勢、特に刺絡がおかれている状況を見るとき、刺絡の本を出版しようとする人々の勇気や革新性に頭が下がる思いももっていた。私にとって島田先生や刺絡学会の人々はそのような人達だったのである。
その後、内経学会や刺絡の本を出版する過程でお会いする機会もあったが、それほど多くもなく、深い交流ももてず、私と島田先生との関係はすべてこれからと思っているところだった。島田先生が内に鍼灸に対する情熱がほとばしっている先生であることは感じとっていたが、先生の講義や実技には接する機会はなく、いつかそのうちにと期待し続けていた。しかしこれも実現できないまま終わってしまった。本当に残念なことである。先生が日本の鍼灸史上に果たした役割の大きさについては、私から述べるようなことでもないであろう。むしろ私のような鍼灸世界に未熟な人間が先生への想い述べるとしたら、それは、一方で学を究め続け、もう一方で鍼灸の伝統を伝えるために、そのすそ野を広げようと、いつも温かい気持ちをもって多くの人間に接してきた先生の人柄であり、それに対する感謝の念である。
全くもって残念なことだ。安らかに眠り就くことをお祈り申し上げたい。
やる気を引き出すのがうまい島田先生との出会い:津曲奈穂子
真に願っていることはかなえられるものだ。
鍼灸の道を志して、東洋鍼灸専門学校に入学したばかりの頃、学校帰りに立ち寄った書店の東洋医学書の棚に『鍼灸医学と古典の研究』という箱入りのかなりハードそうな本をみつけた。著者の丸山昌朗と言う人がどんな人かも知らなかったが、躊躇する事なく購入して、「陰陽五行」とか、「三陰三陽」とか、これまで聞いたことのない言葉の並ぶ文章をむさぼり読んだ。中でも圧巻は「素問・陰陽應象大論の訓注とその研究」であった。鍼灸にこのような深淵で壮大な世界観があったのだ。入学したばかりの私は鍼灸の何たるか、何をどう学んだら良いのか、全く知らなかった。この書物はそんな自分にハッキリと進むべき方向を指し示してくれたのだ。
だが、その時既に丸山昌朗という人は、この世の人ではないということを此の本の「あとがき」で知る。それならばその「編者あとがき」を書いている島田隆司という人に会いたいと思うようになって行った。しかし住所も所属団体も分からず、探す手立てもなかった。二年生になって、学園祭の委員を買って出て、島田先生に東鍼祭で講演してもらうという企画を出した。こうして秋の東鍼祭で島田先生の話を聞けることになった。その時の司会を務めた私が「シマダリュウジ先生をご紹介します。」と言うと、「ただ今、ご紹介にあずかりました島田タカシです。」とまず訂正して、「気について」の話をしてくださった。今から思えば、その講演の後に先生の連絡先や研究会について、おたずねすればよかったものを、まだ若かった私は、気後れして「ありがとうございました。」というのがやっとだった。
せっかく島田先生にお目にかかれたのに、そのチャンスを生かせぬまま、三年生の春を迎えた。だが、三年生のカリキュラムを見て、小躍りした。なんと「漢方概論・島田隆司」とあるではないか。あぁ、真に願っていることは、適えられるものなのだ。毎週土曜日のその時間が楽しみであった。先生はいつも私に向かって語っておられるような気がしていたのだが、ある時、他のクラスメートが「先生は私の目をじっと見て講義なさるのよ。」と、言うのを聞いて、この先生はどういう目線をしているのかと不思議に思った。それほど皆が熱心に先生の講義を聴いていたのだ。先生も学校で教えるのはこの時が初めてだったのだそうで、新鮮な情熱あふれる授業であった。
先生は『素問の会』を主宰しておられたので、私も入会したいと申し出たのだが、女は入れないと云うことなので、反発して自分たちで会を作った。『素問の会』の向こうを張って、『霊枢の会』とした。先生には顧問となっていただき、新宿の猪鍋の店で発足の杯を交わした。ところがこの『霊枢の会』に先生が顔を見せたのはこの時の宴会が最初で最後であった。『霊枢』を読むにあたって、どういう順序で、どのように学習したらよいか、指導を仰いだが「予定概念を持たずに、とにかく読め。」と云って、参考書として『霊枢識』があると、云ってくださっただけであった。『霊枢』は勿論のこと、頼みの参考書である『霊枢識』も句読点一つ無い白文であったから、大変な苦労であった。人名か書名かも分からないままに、毎週水曜日に私の家に集まって、一年半をかけて読了した。
こうして、とにもかくにも『霊枢』を読み終えて、次は『素問』を読みたいと思うようになったころ、もっと幅広く東洋医学の原典を学ぶ「場」を(ちなみに先生はこの「場」と云う言葉が口癖であった。)持とうという気運が高まっていた。それが「原塾」である。岡田明三先生のマンションを借りて、そこが原宿の竹下通りの入り口にあったことから、もじって「原塾」と名付けた。一週間毎日、素問・霊枢はもとより、傷寒論や金匱要略、医古文基礎などが講義され、教室に入り切れないほど大勢の人がつめかけた。マイナーな東洋医学の古典の学習の為に此のような、おおがかりな会がよくまあ、生まれたものだ。東洋医学原典を探求するという同じ志を持つ多くの人々が交流し、研鑽を積む「場」を作りたいという先生の思いが
<原塾>を誕生させたのだ。この「原塾」が今日の「内経医学会」となったのである。私は丸山先生の著書によって方向づけられた鍼灸医学の、今度はその基礎を<原塾>で学ぶことができた。
島田先生を介して、故丸山先生の弟子のつもりになっていた私は、春の彼岸前後の休日に島田先生のお供をして鎌倉の丸山先生のお墓へお参りしたものだ。酒好きの丸山先生のお墓にワンカップのお酒を振りかけた。『塾報』を創刊したときは、うすっぺらい『塾報』をお線香と共にお供えした。その帰り道、丸山先生の旧居にお邪魔したこともある。かつては哲学者西田幾多郎の住まいであったという、その窓からは鎌倉の海が見下ろせた。住むのにはすばらしい所だが、治療院としては、切り通しの上まで足腰の悪い患者さんが登ってくるのは、きついものがある。患者が来ない方が勉強ができていいのだと島田先生はおっしゃっていた。丸山先生と違う点は、島田先生の治療院は池袋の繁華街にあって、多くの患者さんがつめかけていたことである。丸山先生と同じ点は酒好きなことで、良く皆と一緒に日本酒を酌み交わしたものである。晩年の先生は、あれほど好きだったお酒も控えて、健康に気をつけておられただけに、入院の知らせを受けたときには、びっくりした。病院にお見舞いに行くと、ご自分の病状を詳しく話してくださった。病気が病気なだけに、淡々と話される先生の前で、私のほうが何をどう言っていいのか、東鍼祭で初めてお目にかかったときのように、適切な言葉が出て来なかった。
人の死に接する度に、「人間いつかは死ぬものなのだ。」という思いを新たにするのだが、島田先生の死に顔を拝んだときには、実の父の時や他の人の時とは違う感覚に包まれた。私にも残された時間はそう長くは無いのだ。先生の思いを継いで、古典鍼灸医学の道を誠実に歩んで行こう。先生は死に際しても、私に、やる気を奮い立たせてくれた。私にとっての真の恩師であった。
(平成十二年八月二十六日)
島田隆司先生との思いで:天滿博
島田先生との出会いは昭和四十六年頃に成ります。当時は丸山昌朗先生、藤木先生、豊田先生等、多くの先生方が元気に活躍されて居た時代です。
私は民族医研に参加し、長沢元夫先生の康治本傷寒論、丸山先生の素問・霊枢の講義、久保全雄先生の話等々を受け、東洋医学の深さを知りました。
初めに逢った時から顏色が悪くくすんでいて、余り長生きは出来ないのではと思い、藤木先生ともその事で話しした事が有ります。「島田先生が亡くなったら、奥さんの心配はぼくがするから」と、藤木先生に冗談を云われていた様です。島田先生の奥方は美人で才女だったので(今は太めに成って…)、ファンが多かったみたいです。そう云っていた藤木先生の方が四十四歳の若さで亡くなって仕舞いました。
その前年に丸山昌朗先生が亡くなり、次に藤木先生を失い、島田先生の心痛は並では無かった筈です。
「君たちは素問に申し訳け無いと思わないのか。先人達に申し訳けないと思わないのか!」とどなられた事が有ります。先生に頼んで数人で素問を読む会をつくり、集まって居た時、私たちが悪ふざけをし身が入らなかったので、先生の堪忍袋の緒が切れたのでしょう。誠に不肖の弟子で申し訳け無いです。
先生は、古典に対する考え方、観方が丸山先生ゆずりだったので、真剣に学んで居ました。不肖な弟子で無い弟子を求めて!やっと弟子らしい弟子を得る機会にめぐり会える「原塾」の創設によって。多くの新しい芽が現れ、次から次へと古典の観方が深まった様です。その中でも、井上雅文先生との出会いは特に大きかったのでしょう。石田秀実先生の講演で、又一層勉強に成ったと話されていました。
常に学びつづけ、謙虚で偉ぶらず、後輩を育て、温かい思いやりの一生でした。どこかの会長に成らず、内経の会長だけで居れば最っと長生き出来たのでは…。残念ですが、これも天命なのでしょうか。最後迄、鍼灸で全うした先生。先生が後輩に伝えたい事、素問・霊枢…、古典に感謝し、善く学べ、先人達に負けない様に。左合、宮川、岩井、皆々様との事です。

美酒に酔い天まで隆れ秋の風

追悼:長沢元夫
島田隆司さんは昨年晩秋に黄疸になり、精密検査により胆管と門脉に癌があることがわかり、今年の八月十日に亡くなられた。やりたい仕事がもっとあった筈であるのに六十八歳で亡くなったのは大変残念である。
私が島田さんにはじめて会ったのは一九六六年に久保全雄先生を中心として民族医学研究所を設立しようと計画した時である。現代医学で治すことの出来ない多くの病気に対して、解決の方策をもち、実際に効果をあげてきた湯液治療と鍼灸治療という日本民族が伝承してきた固有の医学を復興させることを目標として、まずこの二つの治療法を勉強しようということになり、毎週講習会をひらいた。私は湯液関係として参加したが、鍼灸部門では、小野文恵、石野信安、岡部素道、工藤訓正、神戸源蔵、豊田白詩、島田隆司、中川節、間中喜雄、竹山晋一郎、丸山昌朗、藤木俊郎の諸先生が世話人として参加された。
しかしこの会は研究所をつくる見込みもなくなり、解散したが、研究会だけでも続けようと日本民族医学研究所と改称して川瀬清氏が会長となり一九八一年に再開され、さらに日本伝統医学協会と改称して今に到っている。
はじめの世話人も次々と亡くなり、今また島田さんも亡くなり、もう二~三人しか残っていない。
島田さんは日本伝統鍼灸学会(旧日本経絡学会)の会長として鍼灸学会を指導していただけでなく、一九八四年に原塾という勉強会の塾長として、またそれを受け継いだ日本内経医学会を一九八九年につくり、会長として若い鍼灸研究者を育てる仕事もされていた。
鍼灸治療が世界的に再評価されてきたこの時代にもう少し仕事をしていただきたかったと思わずにおれない。
追悼島田隆司先生:林孝信
最初にお会いしたのは、湯島聖堂で内経医学会に参加して三回目ぐらいのときだったと記憶する。あこがれの先生から素問の講義を受けることができる期待に胸をふくらませるような、ミーハー的心境であった。講義内容を明確に覚えている訳ではないが、そこで内経研究の本道を示していただいたと感じたのが最初の出会いである。
しばらくして、分科会である九箴会に誘われ、池袋の鍼灸院での勉強会に参加するようになり、直接お会いすることができた。まず先生の人に対する優しさを感じたのだが、それは教育する立場の者として心掛けておられたものではなく、もともと備わっていた包容力だったのだろう。たぶん、患者としてみた治療家である先生にも、同じような包み込まれるような暖かさを感じていたのだろう。
反面、研究活動に関しては厳しくおられた。正すべき論文に対して、するどい反論を提出されていたことでも、その真摯な態度が窺える。その根底にあるのは鍼灸に対する愛だったのだろうと思うし、アカデミズム的権威に対抗するような気概があったのかも知れない。
先生の優しさと反骨精神を受け継いでゆきたいと思います。
人を愛し、鍼灸を愛し、酒を愛された島田隆司先生に御冥福を祈ります。
島田隆司先生の御逝去を悼む:皆川寛
先生の体調のご不振は耳にはして居りましたが、御訃報には驚愕致しました。日々の多忙な臨床、そして鍼灸界の枢要な会のトップリーダーとしての御活躍、また他の追随をゆるさぬ『素問』の御研究等々、御自身の体力の限界は、ご自覚の上だったのでしょうが、誠に残念でなりません。謹みて御冥福をお祈り申し上げます。
追悼:宮川浩也
丸山先生の『校勘和訓黄帝素問』の成立は昭和三十八年(一九六三)、『校勘和訓黄帝鍼経』は昭和四十年(一九六五)である。四十六から四十八歳にかけてのことである。
島田先生は、井上・岡田両先生と古典塾「原塾」を創設した。島田先生は『素問』を担当し、そのためのテキストを作り、ほぼ三年間で完成した。その後、民族医研の研究会でも『素問』を講義し、原塾のテキストの校訂をすすめた。その『素問』の講義は昨年終了した。小生の知るところ、都合二回、『素問』を講じ終わっている。今年から、湯島聖堂で『霊枢』の講義を始めようと企画していたところ、昨十一月来の闘病にてとりやめとなってしまった。

多紀元簡の『扁鵲倉公列伝彙攷』は、元簡が講義してから元堅が上梓するまで、約七十年を要している。まことに息の長い研究といえる。じっくり時間をかけて作り上げた観がある。
①医学館の講義の為に『史記評林』に自説を書き入れる(一七八六ころ)
②『史記評林』から自説を抜き出し『扁鵲倉公列伝彙攷』とする(一七九三)
③『史記評林』から移抄し重訂を加える(一八一〇)=この年元簡没す
④多紀元胤が元簡の業を継ぐも没す(一八二七)
⑤多紀元堅が元胤の業を継ぎ、元胤・元堅注を付加した原稿成る(一八四六)
⑥元堅跋文・海保漁村注の補追を成し上梓(一八五五)

同じことは、浅井図南(尾張浅井第二代)の『扁倉伝割解』にもいえる。実に五代九十年にわたる扁倉伝の研究がある。先師の業績をそのまま継承するだけでなく、批判し、より高い水準に達しようと積み重ねる、このような姿勢は大いに学ばなければならない。
①尾張医学館で扁倉伝を講義する(一七六六)の図南序文
②浅井正路(尾張浅井第三代)跋文(一七六九)
③上梓(一七七〇)
④浅井正封(尾張浅井第四代)書き入れ本(一八〇三)
⑤浅井正翼(尾張浅井第五代)書き入れ本(一八四五)
⑥浅井正贇(尾張浅井第六代)書き入れ本(一八五四)

この二つの事例に鑑みれば、わたしたちの為すべき事は明白である。丸山学統として『素問』『霊枢』を受け継ぐことであり、それを継続することである。何も急ぐことはない。五十年、百年を要してでも、後世に遺る仕事をすればよい。そのモデルを、多紀氏と浅井氏に見ることが出来る。天下の英才が、百年にもなろうとする長い時間をかけて学問を作り上げてゆく、その姿勢はわたしたちの範とすべきであろう。

当面のわたしたちの成すべきことは、①『医古文基礎』の邦訳出版、②島田先生の論文集の出版、③島田先生の講義録のまとめ、である。『医古文基礎』は島田先生の宿願であり、東洋学術出版社から刊行の予定である。論文集と講義録は、一、二年のうちには是非ともまとめたいところである。論文集については、少しずつ編集を進めているところである。

〔すでに「医道の日本」十月号に追悼文を書いたので、ここではそれ以上は書けませんでした。ただ、わたしたちが為すべきことを明らかにすることで追悼文に替えさせていただきました。〕
「天之在我者徳也地之在我者気也」:森川恭行
前略島田先生
「ご無沙汰しておりますが、先生その後お元気でしょうか。私の方は仕事も順調で、何かと忙しい日々を‥‥」という内容で開業して三年目くらいの時にハガキでお便りしたところ、約一ヶ月して島田先生から便りが届いた。ハガキを見ると最初の部分は随分前に書かれたような感じで、三行目からの文と少し日があいたように見受けられた。
「お元気そうで何よりです。お子様も随分大きくなられたことでしょう。仕事も順調だそうですが、順調な時にほど順調でない人の事を考えてください」という内容であった。
平成三年三月三日に島原で開業して、来年で十年目になりますが、島田先生の治療室で教わったように頑張っています。開業当初から知人、友人の紹介による患者さん達で、忙しい日々に忘れていた初心を、島田先生の言葉で気付かせていただき、また井上先生が原塾の講義中に「忙しいという字は心を亡くすと書くんですねー」と言われたことも思いだし、それから肝に銘じて仕事をしています。
高校生の時、バイクに夢中になり三年生の夏休み前に交通事故に遭い、約一年の入院生活で高校を留年。リハビリと将来の為に大学へ進学、学生時代は車に夢中になりレストランのウエイターのバイトで明け暮れ、卒業の年は自動車業界の不況により就職困難な時、父より鍼灸の話を聞き、生まれて初めての上京、東洋鍼灸専門学校へお世話になりました。入学してから、人の体をわかるにはマッサージが良いと勧められ、六年間サウナでマッサージを続けました。いよいよ卒業を迎えた三年生の時、漢方概論の授業で初めて島田先生にお会いしました。第一印象は、父親みたいな温かい人だなー。その後、先生の時間の都合が良いときは、同学の北田さん達と学校近くの喫茶店で、いろいろと鍼灸の話を聞くことができて、さらに鍼灸の道に興味が湧いてきました。
鍼灸学校の卒業間近となり、進路を悩んでいる頃、北田さんのアドバイスもあり、夜はサウナでバイトしながら、なんとか島田先生の治療室で修行ができないものかと考えはじめ、自分の気持ちを正直に話したところ、卒後一ヶ月過ぎた頃、最初は週に一回だけど来て下さい、という返事をいただき、私は飛び上がるほどの嬉しさででかけていった。第一日目の帰りに、池袋の治療室の近くにあるお店でご馳走になった。「森川君、ここのお酒は美味しいんだ」といわれ、なるほど熱くもなくぬるくもなく、とても美味しかった。緊張の中でその日が終わった。それから暫くは、治療の見学と掃除、鍼の手入れなどをしっかり教えてもらい、少し慣れた頃から患者さんの脈を診せてもらえるようになった。
その様な修行の中で、島田先生からお誘いいただいたことが沢山ある。
*森川君、日曜日に時間がとれたら池袋で「素問の会」で勉強しているから出てきませんか。
*森川君、今度原宿に原塾という古典を勉強する会を作るんだけど参加して勉強してみませんか。
*森川君、原塾が中国の天津中医学院と内経学術交流会を開催することになったけど、一緒に中国へいきませんか。
他にもいっぱいありますが、特に天津中医学院へ皆さんと行ったことは、その後、私が中国留学を決意するきっかけとなりました。あのゆったりした大地で、おおらかな人達と共に生活し、兵頭先生のような流暢な中国語を話せるようになり、天津中医付属病院見学の際に見た中風の治療など、中医の鍼灸を長期にかけて見たくなり、日本の鍼灸とどこが異なるのかを体験してみたくなった。また顔は似ているけど生活様式など異なる中国から日本という国はどのような国なのかを知りたかった。
その当時、林さん(吉田さん)が北京中医学院へ、池内さんが、中山さんが、左合さんは上海中医学院へ、私は南京大学から広州中医学院へ、留学ラッシュだったような気がする。南京大学で語学研修中に、南京中医学院へ留学中の三浦於菟先生を見かけたが、ついに会話の機会を持つことができませんでしたが、八月十三日島田先生のお通夜の時に、三浦先生を見かけ、会話することができました。島田先生と出会ってから、沢山の方と知り合うことができたのは私にとって何事にも変えられない財産であります。先生有り難う御座います。
三年の留学を終え、平成三年三月の開業前に上京し島田先生を訪ね、開業挨拶に行ったところ、「森川君、へたな字でなんだけど、これは僕が気に入っている霊枢の本神篇第八の中にある文で、開業のお祝いに書いてみたんだけど、どうかな」「天之在我者徳也地之在我者気也」であった。
「天の我を在らしむる者は、徳なり。地の我を在らしめる者は、気なり。」どんな意味だろう?と、その後、東洋鍼灸医学雑誌「経絡治療」第三三号の丸山先生の通釈を見たら、このように書いてあった。「我々、人間が生を受け、生育しているのは天地自然の恵みから生じた物です。この天地自然の恩恵の力は、天の陽気、地の陰気に分けられます。この徳と名づけられる天の陽気と、気と名づけられる陰気が合体して、はじめて生み出されたのです」
今も治療室に入る待合室の所に掛けて、この意味をかみしめています。
開業して翌年の平成四年五月十七日には、いよいよ結婚することになり、島田先生に祝辞をお願いしたところ、宮川さんと一緒に島原まで来ていただきました。祝辞の中で、中国の湖北省の曽侯乙墓から出土された世界最大の編鐘という楽器の紹介と内経の話をされて、今後鍼灸も中国との交流を盛んにして更なる研究が進むことが鍼灸界には大切である。ということを言われ、中国の編鐘の音に合わせて日本の唄「さくら」を歌われました。
先生と最後にお会いしたのは、平成十年十月の大分での伝統鍼灸学会の時で、その後奥様と一緒に島原まで足をのばされ、結婚式のあったホテルで一緒に食事をしたときでした。その時も先生は今までの自分の経験談を私の家内と鍼灸院を手伝ってもらっている姉にあつく語っておられました。「先生、ここのお酒は美味しいんです。」と私がすすめたお酒を美味しそうに飲まれた。
先生からの最後の便りは、平成十一年十月十二日消印で「お便り嬉しく拝見しました。いよいよ油がのってくる年を迎えたようですね。ついに子供さんの数でも追いつかれてしまいました。おめでとうございます。十月二十三・四日の四国学会にはこられませんか。九月末にエジプト展をみました。二千年の彼の地の文明には感嘆しました。又」というお誘いだったが、その時は丁度用事が重なり、四国には行けなくて残念でした。四国の大会の事や、その後体調をくずされ自宅療養されていた事や経過については、葬儀の時に金古さんから聞きました。
先生との出会いが無ければ、今の自分は無いと思っています。先生と出会って十七年間、先生の治療室でお世話になった三年間、本当にありがとうございました。
「天之在我者徳也。地之在我者気也。」ご先祖様より脈々と続き、両親より授かった大切な限りある命を、最後の脈が途切れるまで、完全燃焼できるように先生から教わったひとつひとつを大切にして、私はこの島原の地でこれからも頑張ります。
天国より見守っていて下さい。
追悼 島田先生と出会ったこと:寄金丈嗣
島田隆司先生が逝ってしまった。
人は死ぬものだし、いまさらそれに驚くほど若くもないが、どこかでまた元気になって、姿を現してくれるものだと思っていた。
島田先生と初めて言葉を交わした日の事は何故かよく覚えている。平成五年の第十二回日本経絡学会学術大会が四国で行われたとき、ホテルのエレベーターの中で、「君は面白い顔をしているなあ」と言われたのである。面と向かって話をしたのはその時が初めてであったが、それまでにも取材であちこちうろうろしていた小生と何かと顔を合わせてはいたのを覚えてくれていたのだろう。今度お話を聞かせて欲しいのですがと言った小生に、何時でも来て下さいと快諾してくれた。
以来、何度となく、池袋の島田鍼灸院に、打ち合わせ等で伺い、先生の人となりに触れることが出来た。『刺絡鍼法マニュアル』を作る時も、『TAO鍼灸療法』立ち上げの時も、大変お世話になった。いつか機会があったら、ファーストコンタクトの時の「面白い」というのがどういう意味だったのかを聞いてみたいと思っていたが、それも叶わぬ事となってしまった。
小生は、鍼灸師ではあるが、同業者や、弟子・学生という立場ではなく、編集者として島田先生と接点を持てたので、例えば学会運営についても、身内だったら聞けないような質問もぶつけてみたことがある。例えば、「六十九難と六部定位にこだわるだけで経絡治療を語るのはおかしくないですか」、とか、「経絡学会(現伝統鍼灸学会)で、本治・標治ということがテーマになった議論を聞いていて思ったのですが『標本病伝論』も読んだことがないような話し合いは無意味なのではないですか」、とか、今思えばかなり失礼だったかもしれないそうした質問に対しても、島田先生は、長期的なビジョンに立った上での御自分の考えを話してくれた。
「現状はなかなか厳しい」「今やっていることの成果がでるのは、あと、十年、…いや二十年はかかる作業だと思う」と……。
柳谷素霊が「見切り発進」と称した戦後の経絡治療(と呼ばれる)先達達と直に触れ合い、中国との学術交流も重ね、理想を追いつつも現実から乖離することなく、足を地に着け一歩づつ進もうとしていた先生のような人がいたからこそ、伝統鍼灸の今日はあるのだろう。その島田先生が亡くなってしまったのは、斯界にとっても大変な損失であることは言うまでもない。
また、島田先生は「鍼灸祭」の世話人もされていた。もともと、島田先生のもとに「はり灸まつり」を復活したいと多くの方たちから声が寄せられていたようで、その声を受けた先生は、温知会の大貫先生と共に世話人会を立ち上げ、再開の為に多くの団体に協賛の呼びかけをされた。
その甲斐あって、昭和四十年から二十年間浅草で開催され、昭和五十九年に閉じられ十五年を経過していた「はり灸まつり」は史跡「湯島聖堂」で無事、二〇〇〇年の五月十四日に第二十一回鍼灸祭として再開することが出来たのである。発起人の一人である先生の出席を是非と、当日は期待していたが、果たしていただけなかったのも残念で忍びない。(鍼灸祭の再開話が持ち上がった時にたまたま同席していた小生は、何故か事務局を引き受けることになった。世話人の一人であった岡部素明先生も本年、不帰の客となり、露命の儚さを禁じ得ない)
また、ある時、島田先生は、真剣な表情で小生にこう話してくれたことがあった。
「僕は十年後に、[日本伝統鍼灸大学]を作るのが夢だ。いや、夢ではなく、作るつもりだ。日本には伝統的な鍼灸の学術を専門に教える機関がどうしても必要なんだ」
そう力強く話してくれた島田先生の顔を忘れることは出来ない。
……日暮れて道遠し。人生はいつもそのようなものなのだろう。だが見よ、厳しく勾配に根を支え、ふとした流れの窪みから、雑草の陰から、幾つもの道は始まっているのだ。先生の意思は多くの人達の手で受け継がれていくのであろう。
「政治的な配慮」と揶揄する意見も聞いたことはあるが、いつも大局を見つめ、大道を歩もうとした先生であった。
それでいて、一人一人の個人を大切にすることも忘れない先生であった。培った学術をひけらかすこともなく、飾らず、真摯な先生であった。
時たま、子供のような笑顔を見せてくれる先生であった。還暦を過ぎてあのように笑える人生は幸せだったろう。先生の御冥福を祈ってやまない。
さてどうしたものか:左合昌美
近頃そろそろと寂寞となる。たとえば、山田さんあたりの論文を読んで、ちょっと首をかしげて、あの先生なら何か言いそうだ、今度きいてみよう、……ああもういなかったんだ。
何も、意見を聞いてそれに従おうと言うんじゃない。うちの会にそんな素直な人は珍しい。「デモセンセイ」「ダカラァ」臨床技術じゃ難しいけど、古典のはなしだったらそんな生意気も、まぁ不可能ではない。
むかし、原塾の霊枢講座、例の二年がかりで九針十二原しか読めなかった伝説的な講座、井上先生の解釈にみんな興奮していた。でもね、今からみればかなり独断と偏見に満ちてましたよね。講座で聞いたことを、とくとくと話されて、島田先生もかなり悩まされたんじゃあるまいか。「ダカラァ」「ダケドォ」当時の私のあだ名はどっちだったんだっけ。
あの興奮に満ちた講座、あるいは講義の後の酒宴での侃々諤々、またやりたいねぇ。
インターネットで出来ないものかしら。ホームページに誰かが、講師役で先ず、独断に満ちた(?)校訂と解釈を示す。「掲示板」に、とうぜん誰かが文句を言う。
「デモセンセイ」「ダカラァ」「ダケドォ」
侃々諤々になっても大丈夫、拳骨は届かない。でも、あっちの世界からの助言も届かないはなぁ。寂寞…
島田先生との出会い:稲村美貴子
島田先生とお会いしたのは、平成四年、ちょうど友人の加藤ゆたかさんが治療所を開き、そのお祝いに九箴会の方々がお集まりになったのが、初めてでした。私はその年の六月に死ぬか生きるかという大病を患った後で、生涯で最低の体力の時でした。その時先生をはじめ皆さんがとても優しく接して下さったので、心身ともに「癒し」というものを味わい、さすが治療者の方々だと深く感謝いたしました。今思い返しても、先生との出会いというのは、全く専門分野も異なり年齢から何からことごとく違い、本当に出会う可能性の無い奇縁といっていいものだったと思います。
その後、石田氏も参加なさった白河での夏の合宿にも参加させて頂き、さらに広い方々と出会え、私の「人生」というものが広く深くなれたように思います。さらに病んで傷ついた後に、それまでともすればないがしろにしがちだった「身体という自然」と付き合うということを先生を通じて学んだと思います。先生はとても幅の広い方で、ご自宅でのお正月会に二度ほど伺い「国際的」な輪と、そのカラオケの選曲の新しさに少々驚きました。
さらに研究会で何か話をして下さいと呼んで頂き、拙い話をしたのですが、その後もおりにつけお会いすると何か話をとおっしゃられていました。宮川先生の新築祝いにご一緒したときも、「何かまた話をしてくれないか」とおっしゃたので、「機会があれば」とお答えしたのですが、その後、凄まじい忙しさにかまけて「機会」を見つけそこなってしまいました。
お病気のことは、かねがね加藤さんから聞いていたのですが、今夏、合宿をなさるとうかがい、少しは回復に向っていらしゃるのではと思っておりましたので、亡くなられたときは突然のような感じがしました。「何か話を…」というのが追悼文を書くことになってしまうとは本当に残念です。
アッサラーム・アライクム(あなたに平安がありますように!)
誄曰:岩井祐泉
先師が仙化されたまいし八月十日は気は立秋、候は涼風至に当たり、『素問』四気調神大論に「收斂神氣」とされる季節の到来と時を同じうする訃報であった。天界に收斂されたまいし先師の神霊は鍼光徳隆居士と成らせたまい、九月十七日はご遺族友人門下の儕等、東松山高濟禅寺において相集い、折からの小雨霏霏と濡れそぼつ祠廟に「應無所住、而生其心」、「深入禅定、見十方佛」の二基の卒塔婆も清浄寂静と立ち並び、七七日供養せしをみそなわしたもうらん。嗚呼哀哉!願わくば丸山大師を始めとする多くの諸先師に列して遥か九天より我等後進に学風の御加護を下さりたまわんことを!
合掌
岩井祐泉鞠躬
先生の思い出:大家美津江
「鍼灸師にならない?」とお薦め戴きながら、私には鍼灸師は無理と思っていた。鍼灸師になろうと決意した要因は先生の治療で丈夫にして戴いたことである。
二十四年前、先生に初めて治療して戴いた日のことを鮮明に記憶している。問診、脈診、この日はお灸はなさらなかった。特に強く感じたのが復溜、百会に鍼なさった時、感電した時のあのビリビリする感覚が身体を流れた。何も知らない私は驚いた。二回目からは、この感覚の流れと身体の変化をおもしろく味わうというのが、先生との対話でもあったような気がする。急病以外は、問診なし、主訴なし。治療中、先生からお話しされることは稀であったが、その内容は、山のこと、鳥のこと、野草のことのみ。このことによって、私の感性を育てて下さっていたことや、経絡を鍼によって認識し、実感させて戴いたことに気付いたのは、私が鍼灸学校に入学してからのことであった。
卒業と同時に入門させて戴いた。これがまた、数日間だけは施灸指示は言語であったが、以来言語なし。全て目で指示なさった。言語表現しなくても私にとって先生との意志疎通は十分できたし、必要な時だけ言語表現すればいい、実に快い時間であった。しかし、先生とよくおしゃべりした記憶も残っていて思い返したら鍼研きタイムにであった。治療後の後かたづけをしている私に、先生は茶碗に五勺ほど入ったお酒を飲まれ、鍼を研かれながらよく話しかけられた。谷川岳を見に行ってこられたことから、鍼灸の展望まで。私が小言幸兵衛になるのもこの鍼研きタイムであった。
「きのうは夜十一時過ぎてしまって、今朝四時に目が覚めたから、またワープロやっちゃったよ」
「ワープロばかりやっていたらだめですよ。睡眠時間が短いときは、何分でもいいから昼間横にならないと」
何のためらいもなく、自分の意見のみならず、苦言をも言うことができる先生であった。いつもにこやかに頷かれていた。唯一、『素問』の継続講義を引き受けることについて、先生を前に兄弟子の一人と私とで、きっと先生の命を縮めるからと猛然と反対した時だけは頷いて下さらなかった。
「『素問』を書きたいんだ。講義をするという課題がないと、『素問』を書くのは後まわしになってなかなか書けないから」
月一回の継続講義を引き受けられた所以であった。また最も心に残っているお言葉は、「我を取り除かなければほんとうのものが観えないんだよ」である。このことを、最後に先生はまたもや言語表現なしで、ご自身の身体を通して教えてくださった。記憶は明らかではないが、黄疸発症より一年以上前からだろうか、脈状、胸椎上に変化が現れていた。今思えばあの時にである。
例の如く、先生との言語なき約束の一つである『素問』を書きたいという先生の思いを、何としても実現へ向けて、年が明けたら『素問』の講義のテープ起こしを始めたいと思っている。多くの方のご協力をお願いいたします。
先生、丸山先生がたと酒杯を交え、気長にお待ち下さい。『素問の栞』を書き写している時に、そちらにいらっしゃるはずの丸山先生が私にしてくださった治療のこと、先生にお話ししたことがありましたが、今度はこちらにいる私に、丸山先生のように先生が治療して下さる時を楽しみにしています。

「鍼灸師にならない?」とお薦めいただいた時、私には鍼灸師は無理だと思った。それが決意して鍼灸師になろうとしたのは、先生の治療で丈夫にしていただいたからである。
二十四年前、先生に初めて治療していただいた日のことを鮮明に記憶している。問診も脈診もお灸もなさらなかった。鍼を復溜、百会になさったのが特に強く感じた。子供の時に誤って感電したあのビリビリする感覚が身体を流れたようだった。何も知らない私は驚いた。そして二回目からは、この流れの感覚と身体の変化をおもしろく味わうのが、先生との対話であった気がする。急病でなければ問診をしないし主訴も聞かない。治療中は先生からお話しされることは稀であった。内容といえば、山のことや、鳥のこと、野草のことだけ。これらのことによって、私の感性を育てて下さり、鍼によって経絡を認識し実感させていただいたことに気付いたのは、私が鍼灸学校に入学してからのことであった。
卒業と同時に治療院に入門させて戴いた。最初の数日間だけは、言語で施灸指示をされたが、それからは言語なし。全て目で指示なさった。先生が言語表現しなくても、私には意志疎通が十分できた。必要な時にだけ言語表現すればよい、実に快い時間であった。
しかし、先生とよくおしゃべりをした記憶も残っている。鍼研ぎタイムがそうであった。治療後の後かたづけをしている私に、先生は茶碗に五勺ほど入ったお酒を飲み、鍼を研がれながらよく話しかけられた。谷川岳を見に行ってこられたことや、これからの鍼灸の展望のことなどまでいろいろと。そして私が小言幸兵衛になるのもこの鍼研ぎタイムであった。「きのうは夜十一時過ぎてしまって‥‥。今朝四時に目が覚めたから、またワープロやっちゃったよ」「ワープロばかりやっていたらだめですよ。睡眠時間が短いときは、何分でもいいから昼間横にならないと」
何のためらいもなく、自分の意見のみならず、苦言をも言うことができる先生であった。それを、いつもにこやかに頷かれていた。唯一、頷いて下さらなかったのは、先生が『素問』の継続講義を引き受けることになり、兄弟子の一人と私が、命を縮めるからと、猛然と反対した時だけだった。
「『素問』を書きたいんだ。講義をするという課題がないと、『素問』を書くのは後まわしになってしまって、なかなか書けないから」
月一回の継続講義を引き受けられた所以であった。
また最も心に残っているお言葉は、「我を取り除かなければほんとうのものが観えないんだよ」と言われていたことである。最後、このことを先生はまたもや言語表現なしで、ご自身の身体を通して教えてくださった。黄疸発症より一年以上前からだろうと記憶する。先生の脈状、胸椎上に変化が現れていた。今思えば、あの時である。
『素問』を書きたいという先生の思いを、何としても実現したい。例の如く、先生との言語なき約束の一つである『素問』の講義のテープ起こしを、年が明けたら始めたいと思っている。多くの方のご協力をお願いいたします。
先生、丸山先生がたと酒杯を交え、気長にお待ち下さい。『素問の栞』を書き写している時、そちらにいらっしゃるはずの丸山先生が私に治療してくださったことを、先生にお話ししたことがありました。今こちらにいる私に、今度丸山先生のように先生が治療して下さる時を楽しみにしています。
島田先生の思い出:加藤ゆたか
私が島田先生に初めてお目にかかったのは、平成元年五月二日、日本内経医学会の水曜会(現在の九箴会)に入った日でした。その日、私は自己紹介か何かしたと思いますが全く覚えていません。しかし、先生のお顔の色は強く印象に残っています。先生が、それまでどのような病気をなさったか詳しいことは知りませんでしたが、だんだんとお元気になられ、還暦の頃は大分良くなられたと思っていました。
会の日、先生の治療室のドアを開けると、特有の艾とお線香の香りがしました。ちょっと狭い場所の机の前で鍼の手入れをしたり、宮川さんと話し込んでいる先生の姿がありました。あるいは大家さんや宮川さんに治療を受けている日もありました。日本伝統鍼灸学会の会長をお引き受けになられてからは先生もお身体には随分と気を付けていらして、最近の九箴会では先にお帰りになることが多くなっていました。
私はお酒に弱いものですから夜遅くなる会食はめったに参加しておりませんでしたが、あの狭い「ふる里」での会や、最近の「よこた」での会、そして最も思い出に残るぎりぎり一杯やっと座れた待合室での会食、どれもくつろいだ雰囲気の中で始まりました。
皆が好き勝手な事を話し、その内なんとなく先生の話に自然に聞き入ってしまうという流れでした。決して強い言葉ではなくどちらかというとちょっと聞きずらいぐらいの声でしたが、次第に座がまとまっていくという、不思議な魅力がありました。この会は私を含めて一風変わった、癖のある人が多く、かなり気ままに自由にマイペースでやっているところがあり、いつも先生はそれを楽しむように話を聞いていらっしゃるようでした。そしていろいろ尋ね、意見をし、将来を心配して下さり、先を歩む者として今後の道を示して下さったと思います。
皆が一緒に帰るときはいつも池袋駅中央口の混雑する中、必ず一人一人と握手をして別れました。何度そうやって先生と握手したことでしょう。
昨年の夏、本郷での合宿のおり、一人一人の自己紹介をじっと聞いていらした先生。まさか次の夏、お別れになってしまうとは。先生、握手。
島田隆司先生を想う:小曽戸洋
島田隆司先生のお名前はそれ以前から存じていたが、印象を鮮烈にしたのは、昭和五十五年四月から三回にわたって自然社の隔月刊誌『東洋医学』に分載された「黄帝内経の成立をめぐって─山田慶児氏の論を批判しながら」によってであった。この論文は前年八月に岩波書店の『思想』誌に載った山田氏の「『黄帝内経』の成立」に対するものであるが、当時私は仁和寺本国宝『黄帝内経太素』の影印出版を企てていたこともあって、両論文は私の興味を惹いた。当時京大人文研の科学史研究班に属していたA氏から「島田氏とはどういう人か」という内偵質問があり、私はそれに答えた記憶がある。島田先生はその論の中で、江戸時代以来の日本の『黄帝内経』研究の数々が等閑視されていることに不満を顕わにされているが、私も同感であった。ときに私はいまだ世に出ていない森立之の『素問攷注』の存在を知っていたから、その気持ちはなおさらであった。
島田先生とはその後はからずも懇意にしていただく仲になった。先生ははじめ当該論文を岩波の『思想』誌に投稿されたが、その対応は消極的であったという。お酒の席で先生と私の会話はしばしばこの件に及び、先生はそのときの心情をよく語られたものである。先生は常に温厚であられたが、内に秘めた気概が人並みでないことを私はこれによって知ったのである。
島田先生は愛弟子の金古英毅・宮川浩也両氏を伴い、北里東医研の私の医史学研究室を訪れられたのは、たしか今から十二年ばかり前の平成元年四月八日の夜八時のことだったと想う。真柳誠氏を交え、研究室で懇話し、盃を重ねたものだった。以来、先生、および先生の主宰される日本内経医学会の諸氏とは緊密な仲になり、同学会でも講話させていただくことになった。拙論「日本における『内経』受容の経緯」を曲がりなりにもものすることができたのはそのお蔭である。
その後、宮川氏、さらには小林健二氏には北里医史研の客員研究員になっていただき、大いに研究の進展をはかってもらっている。平成四年の『素問・霊枢』最善本の刊行(日本経絡学会)、平成八年の『扁鵲倉公伝幻雲注の翻字と研究』の刊行(北里医史研)、平成十年の『素問攷注』の刊行(日本内経医学会・北里医史研)、そして平成十一年の『黄帝内経明堂』の刊行(日本内経医学会・北里医史研)……などの輝かしい業績(自分も参画しているので僭越であるが、あえてこういわせていただく)は、ひとえに島田先生の人徳・学徳の賜である。よもや二十年前の情況と同じではあるまい。
先生の播かれた種は、将来さらに多方面で開花し、実を結ぶに違いないと確信する。
荘子の魂は宇宙から地球をみていたんだよ:佐藤隆哉
私が奈良の藤本先生の所に内弟子に行く話を聞いて頂いている時だった。東武デパートの何階だったか、先生の行きつけの店で一献かたむけながら、「そうか、お前さんがいつ鍼灸に本気になるのか、ずっと待っていたんだよ」と喜んでくれた。この頃九箴会で鍼灸の臨床を本格的にやっていないのは私だけであり、「古典は臨床をやっていないと、なかなか難しいよ」とは言われていたが、一度として早く臨床に本腰を入れなさいとは言われなかった。ただし、「鍼は毎日手にしなさい」先生は眼下に東京ドームを見ながら、「荘子はこの地球が蒼い事を知っていたんだ」。そして「荘子の魂はもの凄く気高くて、宇宙からこの地球を見ていたんだよ」と続けられた。
(天之蒼蒼。其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也。亦若是則巳矣。『荘子』逍遥遊篇の事だとは後日わかった)
そして「佐藤くんも荘子の様にどんどん魂を高めていきなさい」と言われた。

先生との時間は決して長くは無かったが、思い出の数々は今も新鮮に私の脳裏に深く焼き付いている。学生時代、東洋医学のかけらも無い学校にどうにかして風穴をあけたかった。日本経絡学会誌の別冊の中にある先生の論文『現代日本鍼灸の特徴』を読み、「こんなに偏り無く物事を見ている人がいるのか」と感動し、面識は全く無かったが治療院に押し掛け学園祭の講演をお願いした。題名は『氣・陰陽・經絡』だったと思う。
「先日、学会でこの題目で四時間喋りまして、その後他の所に呼ばれて同じ内容を三時間で喋ったんですが、今日の司会者はそれを二時間で喋れと言う」
とそこには茶目っ気たっぷりの笑顔があった。もちろん会場は超満員。入りきれない人も出た。校長も挨拶に出てきて、以後卒業まで学校では私は島田先生の弟子という事になっていたのである(その後卒業まで一回しか会っていないのに)。

またこんな事もあった。「佐藤くん、人はどうして病気になると思う?」「それは身体の中で氣が偏り、滞るからなんだよ。だから鍼灸でそれを調整してやればいいんだ」そして「治療者として最高なのは、その人の事を思い浮かべるだけで、病気が治っちゃう事、その次がその治療者を見るだけで治っちゃう、その次が按摩みたいに病人に触れて治す、その次が鍼灸、その次が湯液、そして一番くだらない治療は人を傷つける鍼〈刺絡〉だ!」
びっくりした。先生は常々刺絡治療の有用性を強調されており、その当時は刺絡学会を発足されたばかりだったからである。そう言えば初めて治療院にうかがった時も「この世界、自分がやっている事しか目に入らない人間が多いが、自分の目線を一段上にして広くこの世界を見ていろんな勉強会に出なさい」って言ってたっけなぁ。客観性をふまえての主観性。先生から学んだ大切な事の一つである。

そのほか、思いつくままに。
「俺はね、左合や宮川が俺を追い抜いてくれて本当に(力強く)嬉しいんだ」
勉強会での宮川先生の発言に対して
「さすが丸山先生の孫弟子!」説明は不要であろう。
「丸山先生が言っていたんだけどね~」
「ゆうべの夢でまた丸山先生に会えてね~」
いつもついさっき会って来たかの様な口調で、丸山先生の事を話されていた先生。人が生きるって、こんなに素晴らしいんや!先生にとって丸山先生はずっと生き続けておられた。そして先生との時間が重なるにつれ、私にとっての人生観・生命観も除々に変わっていったのである。

学生時代に『鍼灸医学と古典の研究』を手にし、丸山先生に憧れた。しかしある時、本文よりも「編者あとがき」ばかり読んでいる自分に気が付いた。本当に憧れていたのは島田先生だった(丸山先生ごめんなさい)。・・・・・・先生、初めて言いますけどね。

「死とは氣が散開する事であり、そしてその氣は母なる宇宙にかえっていく」
福永光司先生の言葉である。日の光も風も雨も闇も、私達はずっと宇宙に包まれて生きている。昔も今もこれからも、私はずっと先生に包まれて生きていく。
島田先生への感謝:重岡惠
つらつら思うに、先生と初めてお会いしたのは、原塾の二年目の素問の会に入ってからでした。
先生にお会いしての第一印象は、顔色が浅黒く、とても健康な顔色では無かった印象をもっています。私自身、原塾に入った時は、とんでもない所に来たなと思いました。いきなり、漢文ですから、正直いってやめようかと思いました。そう思いながら、あれから十五年も経ったということは、はやり先生の、あの人なつっこい笑顔に導かれて来た気がします。
今思えば、先生はよく酒を飲まれましたね。合宿の時や、勉強会の後の酒席で、丸山先生やその他の先生方の話しをされて、それを聞くのが楽しみでした。先生の話の中心は、やはり鍼灸のことでした。もう、先生の話が聞けないのが淋しい事です。先生は鍼灸を愛し、鍼灸の発展をこころから願っていたと思います。後に続く者は先生の心情をくんで、鍼灸の発展の為に努力するのが、先生の御霊の御供養ではないかと思います。私は、私の能力で、精一杯の鍼灸の事をやっていきたいと思います。先生、有り難うございました。暫しの別れです。
島田会長の思い出:林克
これまでに四回、島田会長とお話しした事がある。初めてお目にかかったのは十年ほど前、北里の小曽戸洋先生のご紹介で内経学会の講演をお引き受けした時である。講演の後、料理を頂きながらお話しした記憶があるが、おいしい酒と料理の記憶が勝って会長とお話しした内容については残念ながら思い出さない。二度目にお会いしたのは、私が内経医学会の『素問・霊枢総索引』の書評をしたことに関して、お礼をして下さるということでご招待を受けた時である。東上線の下赤塚駅近くのイタリアンレストランで宮川浩也・小林健二両氏も参加され、これまたご馳走に預かったのである。その時、私のある話に妙に感心されて頷かれていた事が強く印象に残っている。その話とは「徳と気は対応する」という概念が古代には存在したが、それを針灸治療に当てはめると「手技的能力だけでなく、人格的能力を含め、ある個人が身につけた能力の総体が徳であり、その徳が治療する際に気に影響を与えることになる」というような内容だったと記憶している。三度目はその十二年後、お茶の水の斯文会の神農祭の時である。その少し前に勤務先の若い教員から勤務先近辺で信頼できる針灸治療院があれば紹介して欲しいとの話を聞いていた。そこで名刺を頂戴してその教員が治療に伺う時には宜しくとお願いした。数分間の立ち話だった。四度目は今年の三月である。宮川浩也氏が手持ちの中国古典関係の書籍を勤務先の大学院生に分けて下さるという話があり、その書籍を宮川氏宅から勤務先まで運んだ時である。島田会長のお住まいは勤務先の近くにあり、ご病気なので宮川氏が書籍運搬の後にお見舞いに伺うとの事だった。それに私もご一緒した次第である。癌の告知を受け、入院生活を送っていたが、それ以上病院に居てもとりわけ有効な治療手段が無いという段階で退院されたとの事であった。これまで針灸古典の解読に当たってご自分が歩まれた道、現在の癌との針灸による闘病、癌が治ったらご自分の針灸治験例をとりまとめてみたい、などのことを話された。病人とはいえ、全体として活気が感じられるお話しぶりであった。宮川氏を残して私は一時間ほどでお暇した。帰り際にワザワザ玄関まで出られて見送っていただいた。その時の会長の眼差しには優しさ・芯の強さ・希望・寂しさなどが複雑に入り交じっていたように感じられ、とても印象的だった。これが最後になった。ご冥福を心からお祈りしたい。
グランドセオリーのひと:松田博公(古典鍼灸研究会、共同通信編集委員)
棺を覆いて事定まる、と言われる。島田隆司さんの場合は、既に活動の意気盛んなころから、その業績の価値は定まっていたと思う。丸山昌朗の弟子を自認されておられたことそのものが、昭和初期に始まる鍼灸理論のグランドセオリー形成の潮流に身を置いていることを物語っていた。
西洋医学と中国医学の両者を見据えながら、日本の民族性に根ざした伝統鍼灸理論の大きな構図を描くこと。それがこの潮流が自らに課した課題だった。
経絡学会から伝統鍼灸学会への移行期や内経医学会における島田さんの講演を聴くたびに、私はいつも昭和の彼方から吹いてくる潮の残り香をかぐような気持ちがしていた。それは、この信念と力強さにはかなわないという畏敬の念を伴うものだった。
越えて行くべき対象の把握の仕方、越えていく方法も知っているという信念。そこから生まれる力強さが人を引きつけ組織する世代のひととして島田さんは生きたと思う。それは、鍼灸の科学的研究ばかりでなく、アジアの多くの伝統医療、欧米の心理療法の理論に至るグローバルな情報に吹きさらされ、方向性を見失いがちな私たちがもはや持っていない姿勢だった。
島田さんしか牽引できない理論と組織の領域があったのではないだろうか。急速に変容する日本の鍼灸界の風景の中で、私たちは島田さんの損失の意味をこれからも何度も噛みしめることだろう。
長年温めてきた「新はり・きゅう物語」の新聞連載にあたり、私は昨年六月、島田さんに会見を強要した。披瀝してくださったのは、自らの鍼灸師への道を切り開いてくれたセキセイインコとの不思議な出会いの逸話だった(後掲)。
聴きながら、島田さんが自然や身の回りの生き物への優しくきめ細かなまなざしをもって臨床にあたってきたひとであることを感じた。来年、私は続編の連載を計画している。もはや語ってくれるべき島田さんはいない。
(二〇〇〇年十一月七日)

「扁鵲伝説のなぞ」(新はり・きゅう物語④)
京大名誉教授の山田慶児さんが『中国医学はいかにつくられたか』と『中国医学の起源』(いずれも岩波書店)を出版した。二冊の本は、はりより灸(きゅう)療法の方が先、はりは戦国時代から秦の始皇帝までの時期に出現したなど、永年の研さんの結論が大胆かつ、ち密に展開されている。
お会いして、話しが灸の起源に及んだとき、山田さんはこう言った。
「灸療法では香草のヨモギから作ったもぐさを体の特定のツボで燃やします。それはヨモギをくすべて体内の疫鬼をはらう宗教的なじゅ術に由来していると思います」
それで思い出したのが米国サンフランシスコの先住民シャーマン、レスリー・グレイさんに会ったときのこと。彼女は「魂を浄化してあげましょう」と言い、スイートグラスという草に火を付け、体を煙でいぶしてくれた。心身をいやすためにハーブを燃やすのは、世界中の古代シャーマニズムの伝統なのだ。
はりもまたシャーマニズムのはるかな記憶をとどめている。前漢の司馬遷が著した『史記』に登場する元祖はり医・扁鵲(へんじゃく)のことである。記述に従えば、紀元前八世紀末からなんと四百年間も生きていたことになるこの医師は、透視力を持ち、病人の内臓の腫瘍(しゅよう)なども見えたという。
山田さんは『夜鳴く鳥』(岩波書店)に収めた論文『扁鵲伝説』でこの不思議な説話を分析し、扁鵲は春秋から戦国時代に遍歴した医師集団のシンボルとしての名前だろうと書いている。
それにしても、なぜ鵲(カカサギ)なのだろう。同じくこの伝説を調べた茨城大教授の加納喜光さんは『中国医学の誕生』(東京大学出版会)で、カササギは未来を予知する鳥であり、患者の予後の判定に秀でた名医のニックネームにぴったりと述べている。
疑問は残る。なぜ、鳥とはりが結びつくかだ。日本伝統鍼灸(しんきゅう)学会会長の島田隆司さんは、とっておきの解釈を披露してくれた。
島田さんがまだ鍼灸師になりたての三十数年前のある日。奥さんが家の前でセキセイインコを捕まえてきた。偶然、島田家では飼っていたセキセイインコが病気でぐったりしていた。新参のインコはかごに入ると、倒れている仲間のくちばしの上、人間ならみけんの印堂というツボ辺りを盛んにつついた。すると、つつかれたインコはえさを食べ始め元気になったという。
「それを見て、動物や鳥と交流し、観察していた古代シャーマニズム世界の人々が、はりの名人を鳥の名で呼んだ理由が分かった気がしました。そして、自分も良い鍼灸師になろうと思ったんです」
医療を通して遠い古代の世界に遊べるのも、はり・きゅうの魅力だろう。
(中国新聞一九九九年八月十五日)
追悼:松木きか
追悼とは、結局のところ『文選』所収の〈挽歌〉三種のうち二種がそうであるように、〈自祭文〉にならざるを得ないのかも知れない。自分が次に島田先生にお目にかかる時のことを考える。例の経脈篇ですけどこんなことがわかったんですが、と少しでも申し挙げられるようになりたい、そのためにはどう課題を遂行していこうかと思案する。
島田先生に初めてお目にかかったのは、日本内経医学会の夏期合宿にご招待頂いた時のことで、以後何度か、謦咳に接する機会を与えられた。先生は私に「丸山先生に会わせたかった」「よくわからないけど、何かは持っている、と思う」とよく、おっしゃった。先生は私が研究を始めた頃にはもう並びの無いビックネームであったから、その先生の私の将来に対する信頼こそが何より有り難かった。しかし、駆け出しの私は、先生の、古典と経験とがつながっている、その核心に切り込む力がなく、質問する機会を失ってしまった。うかがうべきことがたくさんあった、今になってそう思うし、その全てが私のこれからの課題となる。
唐突だが、田村正和演じる風変わりな刑事のドラマがあった。詳しい筋は忘れたが、主人公のマジシャンが、娘の服のボタンをとめてやるところが刑事の推理のきっかけになるという物語があった。ある時先生と経絡治療の夏期大学でお目にかかった。私は少しく襟刳りの大きな服を着ていた。先生は「嫁入り前の娘がそんなに首筋をだすもんじゃない、第一寒いだろう。もっと衿の詰まった服を持って来ていたら着替えなさい」と何度もおっしゃった。その時そのドラマを思い出した。厚かましい料簡であるが、先生は私を娘のように思ってくださっておられるのかも知れないと思った。お目にかかるたびに「どんな人のところへお嫁にゆくのかなあ」とおっしゃったが、そんな時も、五つか六つの小さな娘に問い掛ける父親のような口振りだった。
娘というにはあまりに不肖な私に出来ることと言えば、身体髪膚を敢えて毀傷せず、細々とでもやめずに、先生の信頼を形にしようと頑張ってみることぐらいだと思う。そういえばこうもおっしゃった。「コーヒーがそんなに好きだと、藤木君みたいに早死にするぞ?」、でも私の机上には今現在もコーヒーがある。…『内経』についておうかがいしたいことがいっぱいです。以後も、どうぞよろしくご教示ください。…追悼文ということがわかっているのに、今もどうしても、そう先生に申し上げざるを得ないのだ。
島田先生の想い出:真柳誠
先生が亡くなられたとの連絡を台北で受け取ってもう三ヶ月近く。その夜は月を仰いで先生を想った。しかしご葬儀に出席もできず、今も台湾にいて御遺影に手を合わせることすらできない。そのせいか、先生のご印象は私の中でまだ生き生きとしている。
私が先生の謦咳に接したのはそんなに古いことではない。ただお名前を知ったのは大学四年の時だったように思う。丸山昌朗先生の門下に藤木・島田のお二人がおられ、藤木先生も亡くなられたので、島田先生お一人で頑張っておられる、という話をうかがったのが最初だったと記憶している。もうふた昔前のことなる。その後も先生のお名前は針灸古典の研究者として、色々な機会で仄聞していた。
最初にお目にかかったのは私が北京留学から帰国し、北里医史研に無給で通っていた一九八四年か八五年のたぶん夏の日のこと。矢数道明先生に呼ばれて所長室に行くと、こちらが島田先生と紹介された。そのとき島田先生は、同伴された中国からの留学者が北里で研修できないかと相談にみえており、道明先生はそれへの意見を後で私に求められたのだが、どう答えたかは覚えていない。かの島田先生に会えたほうが私の記憶に鮮明で、どうしてあんなに地黒なんだろうとか、ニコニコ笑う先生だなー、などと考えていた。
のち内経学会の研究会(たぶん湯島聖堂)に招かれ、「内経と本草」について話をさせていただき、後でしこたま飲ませていただいたこともある。しかしひどいことに、酒ボケの記憶にはそれしか残っていない。
先生とゆっくりお話しすることができたのはかなり最近で、たぶん一九九五年四月の下旬に西安で開催された、第八回中医文献及医古文学術研討会の発表でご一緒させていただいた時が最初だったかと思う。人民解放軍の幹部が西安観光で泊まる奇妙な施設が会議の宿泊兼会場だったが、もとより学術とは無縁の場所。先生は持参されたスライドを投影するプロジェクターがなく、ご講演に苦労され、いささか無念そうにされていたことを思い出す。このとき何度か酒席を一緒にさせていただいたが、しかしニコニコ笑う先生だった。
その次も中国旅行で、翌九六年八月の中旬に安徽省黄山市での第一回海峡両岸中医薬文献医古文及中医薬文化学術研討会だった。私はその五月一日より北里から茨大に移ったばかりで、単身赴任の不養生がたたり、旅行直前にギックリ腰をおこし、松葉杖をついて上海に着いた。運の良いことに上海のホテルは島田先生のグループも一緒で、「なんとか治してくださーい」とお願いしたところ、こころよく徳地氏と二人がかりで治療して下さった。おかげで相当良くなり、翌日は黄山行きの飛行機に楽に乗れるまで回復した。
それまで私は年一回のペースでギックリ腰を起こしていた。この治療時に受けたアドバイスが、私の腰は睡眠不足で悪くなっているので、毎日よく寝るようにということ。これなら私にも簡単で、以後実行して今まで一度も起きていない。なんて適切なアドバイスだったんだろう、と今も思う。
黄山では多くの場で先生と親しく話をさせていただき、ようやくニコニコだけではない側面も少しは知ることができた。帰国後は写真を送っていただいたり、先生が研究されていた「癌」という文字の初出文献について何度か手紙をやりとりしたりしていた。その後お会いした年は、いま台湾にいるため確認できないが、九八年の暮れだったかと思う。わざわざ水戸まで来られたのだった。
もともとは、その夏ころに小林氏に来ていただき、大学の私の新しいパソコンを調整していただいたのが話の始まりだった。その後も幾度か小林氏に質問やお願いの電話をしていたが、その内に宮川氏とうかがう、さらに島田先生も来られるという話になった。
なかなか相互の都合が合わず幾度か逡巡したが、ようやく日程が決まり土曜の夕方に皆さんで茨城大学まで来られた。私の研究室にはとくに見ていただくような資料もなく、ともかくは酒ということで、何度か利用したことがある近くの古部茶屋というアンコウ鍋の店にご案内した。
その夜は皆でしたたかに痛飲したのを覚えている。先生はご子息の力さんの運転する車で来られていたが、彼が私の院生を希望している旨の話もあった。力さんは東京衛生学園の卒業論文作成のとき、小曽戸氏や私に相談に来られたことがある。また卒後は衛生学園で私の旧友の兵頭氏の下にいたので、衛生学園の訪中団に同行されていた時、たまたま私も北京にいて彼と兵頭氏と一緒に飲み歩いたこともある。
その後、しばしば力さんとは院受験条件などのメールを交わしていたが、九九年の神農祭で島田先生がご入院されたことを宮川氏から伝えられた。早速、力さんに先生のご様子をうかがい、また国立大の規則改正で力さんが私の院生を受験できるようになったことを伝えるメールを出した。しかし彼からの返事は、島田先生の病状が予断を許さず、進学も諦めざるを得ないというものだった。
それから一年もたたない今、私は先生の想い出をこうして綴っている。あんなにいつも朗らかで、楽しく内経などの話を交わさせていただいた先生はもういない。
いままで親族や友人の死は幾度もあった。しかしそれとはやはり違う。また師匠筋の先生方が亡くなられた時とも違う。この気持ちは自分でもよく理解できないが、なにか不思議にサッパリしている。あるいは先生が日本内経学会をこれだけ発展させられ、多くの素晴らしい研究者を育成されたからだろうか。先生は悔いのない人生を送られたと想われてならない。なんとか私も先生にあやかりたいと考えている。
あらためて島田先生のご冥福を心より祈念申し上げる。合掌
島田先生のもう一つの思いで:小林健二
島田隆司先生がワープロを始めたのは昭和六十一年五十四歳の時からである。原塾創設が昭和五十九年であるから、天津との第一回学術交流(昭和六十年)の翌年である。『内経』誌掲載の先生ご自身の名前(隷書体風オリジナル「島田隆司」の名前)が「外字」であるのをご存じあろうか。ここまで凝るのは相当の「マニア」である。若い頃から車に始まって機械いじりは好きな性格であるので、すぐ自得していったと思う。昭和六十四年(平成元年)のお正月に会合でお会いしたとき「暮れに電気店店頭でおもわず二台目ワープロ(シャープWD580)を衝動買いしてしまった」と、ニコニコしながら自慢していたのを想い出す。
三十代から『経絡治療』誌の編集、四十代からは『日本経絡学会誌』編集と「編集人」をしてきた関係で実務としてのワープロには相当興味があったと思う。
以前『扁鵲倉公伝』の話しが出たときに、先生はご自分ですでに全文ワープロ入力済みとのこと、さっそくフロッピーディスクをいただきパソコン用に変換したことがあった。私がCD-ROM「東洋医学原典総覧」を作った時の『扁鵲倉公伝』元のデータは島田先生が入力したものを使っている。私自身どれほど入力の作業が減り助けられたか、当時を想い出す。
日常の診療業務をこなし、各関係団体の会合、付き合い、日曜には趣味の野菜栽培(枝豆、大根は得意)、テニス、その他家族サービス等をすべて行い、なおかつライフワークであった『素問』『霊枢』の口語訳、訳注、解説等々。また刺絡の荻野元凱『刺絡篇』和訓、語釈、通釈等の基礎作業も黙々と行っていた。一昨年は錢超塵編集『太素研究大成』掲載の論文「日本における『太素』の受容と研究」を書き上げている。その内容もさることながら、膨大な量である。いつこれらの仕事をされているのか。
人に頼っていてはいけない。我々も更なる努力をしなければいけない。
島田先生へ:佐々木はるな
貧血で倒れそうな
あなたに。
ひとりぼっちで
苦しんでいるあなたに。
届けたい。
届けたい。
悩んでいるのは
あなただけじゃないよって。
あなたは
ひとりぼっちじゃないよって。

沢山の落葉の上を
しあわせに
ふみしめにいこうよ。

ほのかな
梅の香りを
かぎにいこう。

あなたのその足で
ふみしめて。
あなたのその手で
ふれてみて。

貧血で倒れそうなあなたは
むかしそこにいたわたし。
誰にもわかってもらえないと
眠れぬ夜を
すごしていた。

あなたの立っている
この地球を
いっぽずつ
ぐるっと回ってみよう。
ぐるっと回って
戻ってくる頃
きっとりんごの花が咲いている。

この詩は、一九九九年三月三日、池袋の島田先生の治療室からの帰り道、プラットホームで貧血で倒れそうになり、駅員さんに助けられている女の子と出会った時にうまれました。私はその前年より先生の治療をうけさせて頂き、だるくてだるくてたまらなく苦しい時を、なんとか乗り超えられそうになっていた頃でした。先生の所へいくと、全てだいじょうぶ…という安心感に包まれ、、どれだけ精神的にも支えていただいたかとても私の稚い文では、表しきれません。そんな先生が、夏には大変疲れたお顔をなさっていたので、内心心配しておりましたが、まさか…。
先生への感謝の想いを、生きることの喜びを再びみつけた時の詩で少しでもお伝えできればと思います。本当にありがとうございました。
追悼:嵯峨康則
原塾島田クラスは毎週原宿で『素問』の講義があった。そして毎週竹下通入口の居酒屋「花や」でゼミとなった。必然的にお開きは終電近くとなった。「花や」というくらいで花屋さんも兼業していた。毎週花をかかえていそいそと御自宅へ帰ってゆかれた。
人は皆、素で死んでゆく。金や物はあの世へ持ってゆけぬ。しかし、身についたものは持ってゆける。閻魔様に業を問われたら、激務で疲れた体に手当てして、極楽へ行こう。
島田隆司先生への思い:吉田和裕
平成十二年八月十日の夜、島田隆司先生が逝去されたのを知りました。
昨年から体調を崩され、入院されていると聞き、実際こんなに早く訃報を耳にするとは思ってもいませんでした。言葉にならない寂しさを覚えます。
先生と始めてお会いしたのは、今から八年前、私が鍼灸師免許を取得後、臨床をして五年目の時でした。私は学生時代から脈診に魅了され、ある会に所属、その会が変革期を迎え、それと同時期に支部長代行を任され、更には研究発表の内容が今後の会の方向性を示すものだったため学会で症例報告を行う事になり、色々助言を戴いた時のことでした。先生は、丸山昌朗先生の遺志を受け内経の第一人者と聞いていましたので、さぞかし立派な診療室を構え治療に専念しておられるのだろうと心に抱きながら訪ねました。四方には本棚があり、書籍が隙間無く並べられ、それでも置ききれないものはベットの下までぎっしりと押し込められている状況で、想像していたものとずいぶんかけ離れていました。
当時の私は、若さゆえ、ある意味自信ありげに学会での発表を提示すると、先生は一言「自己満足」との言葉を発せられ、私は一瞬肝気が鬱血しました。しかし、それを機にどうにか自分なりに奮起し直す事ができました。
先生は、常に鍼灸業界のために幅広く活躍されました。一九八四年、先生が中心となり原塾を旗揚げされてから、四年後の一九八八年には日本内経医学会と名称変更、活動内容を中国伝統医学の真の古典普及と、その古典を基礎とする知識の習得という目的で行ってきました。今では、国内外の中心的存在となり、殊に近年では鍼灸業界に貢献できるように成長しました。これらも先生のお力だと思います。
臨床面では、丸山先生の後継者として、刺絡を日本伝統医学の枠組みに組み込み、一九九五年日本刺絡学会を設立され、副会長に就任。日本経絡学会の副会長の時、国際的に通用する名称にと苦慮され、一九九六年八月、日本伝統鍼灸学会に改称。のちに会長就任、数々の仕事を手がけられました。
先生は、鍼灸界にとって貴重な方で、われわれの憧れでした。今後もご指導賜りたかったのですが、今となっては叶うことができません。あまりにも人生の老年期を足早に通りすぎていかれたような気がします。
しかし、『現代語訳黄帝内経素問』『素問・霊枢』『素問・霊枢総索引』『(翻字版)素問攷注』『現代語訳黄帝内経霊枢』などの多くの業績を残されました。このことを見ても、決してわれわれに進むべき道への不安を与えません。
二〇〇〇年五月には、十六年間中止になっていた「鍼灸祭」を再開させるために、発起人の一人として病と闘いながら尽力され、その無理もたたったのか、当日は会場にお姿は見えませんでした。
日頃の先生は、多くを語らず、いつも温厚な方で、まるで蔭のご苦労など微塵も見せませんでした。
このように眼に見えないさまざまなご苦労が、あるいは先生の命を縮めてしまったのかも知れません。これから更にご活躍されようという時に、この世を去らなければならない先生の胸の内を思うと痛恨の念にかられます。
私は、島田先生との出会いをきっかけに内経医学会に所属し、大学進学のため九箴会を四年間離れている間に自分の無力さを改めて感じながらも、お蔭様で無事に卒業できた旨を報告しなければならないと思っていた折り、最も残念な形で再会することになってしまいました。
先生は、鍼灸という一種独特な世界の中で、古典を通し、真の鍼灸医学を体系化するため取り組まれました。その姿勢は、今もなおわれわれの胸に深く刻み込まれています。
今後は、先生と一緒に共有できた時間を大切にし、二十一世紀にむけて先生のご期待に応えるべく粒粒辛苦したいと思います。
こころより島田隆司先生のご冥福をお祈り申し上げます。