丸山昌朗先生 - 紹介文 -
恩師 丸山昌朗先生のこと:島田隆司
丸山昌朗先生の親友に荒井憲太郎さんという方がいる。折口信夫の晩期の愛弟子である。池田彌三郎に言わせれば、当代随一の歌人であるという。小生が丸山先生に押しかけ弟子入りした日、昭和四十一年の正月にも、荒井さんは信濃町の傾きかけた家にいた。この丸山の弟子になろうなどという奴はどんな野郎かと、酔眼を据えてみていられたのだろうと思う。
先生が麻布の家を借りられてからも、不思議に月に二、三回見える荒井さんと、週一回位伺う小生とは、行く度に逢うというほどであった。「島田さんとは、よくこの家でお逢いする縁ですね」と、シラフの荒井さんは情が細い。
にも拘らず、先生が診療を終えられると酒を汲み交わし、談論風発、遂には「この家は気に喰わない」といって、玄関のタタキに小水をまき散らして帰ることもあった。奇人である。安斉安周先生亡きあと、日本には奇人が少なくなったと嘆かれていた丸山先生でしたが、荒井さんはその数少ない奇人の生き残りなのでしょう。ただ言の葉のはしはしに生命をそそぎ込むことしかできない方です。
国分寺まで歩いて帰ろうとしている荒井さんに、一緒に先生宅を辞してから、百円玉のいくつかを「電車でお帰り下さい」と渡したこともありました。その荒井さんが、何回も、先生の没後、小生に問いかける。「なあ島田さん。師弟の縁は悪縁だね」……と。折口信夫師の円熟期の師愛を受けた荒井さんの、さまざまな思いをこめたことばだと思う。
師弟の縁は悪縁なのでしょう。
師弟の縁は悪縁、という程に、どうしようもない深いものなのです。
たった一回、丸山先生が小生のボロ宅に見えられたことがある。自宅に治療室を開いた時である。兄弟子の豊田白詩学兄や小生を励ましてくれる患者さん、御近所の方たちを招いてのささやかな会でした。先生は集った人達に何と言われたと思います?
「皆さん、この島田君にあまり患者を紹介しないで下さい。島田君は貧乏しなければいけない。貧乏ほど尊いものはありませんよ」と。
そして愚妻に、おそらく彼女にとっては生まれて初めてと思われる温かい心で、「どうです奥さん。太初の人はみんな一様に、あかい心で、やさしい言葉で挨拶を交わしていたのでしょうね」と。
この日、硯も筆もなく、乾いたマジックペンに目前の醤油をつけて、色紙に書かれる。

雪山の 襞めがけ行く 光かな

ちょうど十年間、丸山昌朗先生の生きざまに触れることができたのが、幸せなのかどうか知らない。ただ、先生の童子のようなひとみの輝きに魅せられて、自分の人生を決めてしまった。
鍼灸の世界は、理論でも実践でもない、と思う。ただ一途に鍼灸を愛する人が、次々と出てくれればいいのだと思う。
昭和五十六年五月三十日
『いぶき』(東洋鍼灸専門学校一部学生自治会発行、一九八一)