丸山昌朗先生 - 略歴 -
大正六年(一九一七)
二月十二日東京市本郷区根津八重垣町に父良策(弁護士)、母よのの長男(第四子)として生まれる。
大正十二年(一九二三)六歳
四月東京市下谷区中坂町八十五に居住、本郷小学校に入学。
昭和五年(一九三〇)十三歳
四月京華中学校に入学。
昭和十二年(一九三七)二十歳
四月昭和医専門学校に入学(現昭和大学医学部)。
昭和十六年(一九四一)二十四歳
三月同大学卒業、薬理教室に残る。
四月沢田健氏の高弟・城一格氏に入門。
昭和十七年(一九四二)二十五歳
八月応召、金沢陸軍病院に配属。
昭和十八年(一九四三)二十六歳
松本陸軍病院に転勤、同内科主任拝命。
昭和十九年(一九四四)二十七歳
三月軍医少尉に任官
昭和二十年(一九四五)二十八歳
六月松本陸軍病院浅間分院長兼任。
八月復員後、鎌倉市亀谷の自宅で医院を開設。鍼灸専門を標榜。
昭和二十四年(一九四九)三十二歳
三月龍野一雄、大塚敬節、矢数道明、藤平健氏らと「漢方集談会」を発足させ、翌年「日本東洋医学会」に改組、創立委員。
昭和三十三年(一九五八)四十一歳
十月東京都新宿区若葉町に移転、医院を開設。
昭和三十四年(一九五九)四十二歳
二月東洋鍼灸専門学校長。
同年医道の日本社主催の《経絡治療夏期講習会》(後に《夏期大学》と改称)講師として参加、以後第十六回まで担当。
昭和四十年(一九六五)四十八歳
日本民族医学研究所の設立に参加、同所主催の《東洋医学講習会》の講師を長沢元夫・石野信安・小野文恵氏らと担当。
昭和五十年(一九七五)
三月三十日、胃がんにて逝去。享年五十八歳。