金古英毅先生 - 追悼文 -
みなさまのご好意により、「内経」誌に掲載された追悼文をご提供いただきましたので、転載させていただきます。
- 金古さんを振り返る:会長 宮川浩也
-
金古さんは、昭和十九年(一九四四)、中国の開封市の生まれ。一昨年の八月に開封に行って、父親の骨を黄河に散骨しましたが、振り返れば、その時から亡くなる準備が始まったのかも知れません。読経も不要、戒名も不要、お別れの会はこの告別式で最後。じつに、金古さんらしい幕引きで、無の世界へ帰りました。
金古さんとは三十年のおつきあいでした。島田隆司先生と、金古さんと、僕と、三人がさる申年ということもあってか、金古さんにはとくに心を掛けていただきました。
『明堂経』の復元
島田先生には、金古さんは藤木俊郎先生の『明堂経』の復元を継いでいる、と紹介されました。金古さんは、藤木先生が亡くなるまでの三~四年くらい、接触していた期間があって、藤木先生は『明堂経』の復元が成らずに他界されたので、そのときに復原作業を継続することに決めたのだと思います。復元作業を継続すると決心した人に桑原陽二さんという人もいて、先に『経穴学の古代体系』(績文堂)にまとめています。『明堂経』と藤木先生をめぐる話題は、『黄帝内経明堂経』の島田先生の序文に書いてありました。
鍼灸の原点はツボ体験である。その原典が、ほかならない――この『明堂経』である。その『明堂経』で故藤木俊郎氏のことを想う。『内経』研究で新たな視点を樹てられた故丸山昌朗先生が、二十七年前に、当時新進の優れた古典研究者であった故藤木俊郎氏に、「『甲乙経』の経穴部分を整理して『明堂経』を復元したいものだ」と示唆された。藤木氏はそれから亡くなるまでの数年間、『甲乙経』『千金方』『外台秘要方』『医心方』などから丹念に経穴の位置、主治症、ドーゼなどを抜き書きして整理し、比較して取捨し、毎月の丸山昌朗先生の『霊枢』講義の後の時間を割いて発表していた。
藤木氏が亡くなられた後、この作業を受け継ぐと決意した青年が二人いた。一人は現在東京医療専門学校で講師をしている桑原陽二氏で、もう一人は日本伝統鍼灸学会の学会誌『伝統鍼灸』編集長をしている金古英毅氏である。桑原氏は数年前に『経穴学の古代体系』として『明堂経』の復元作業の一端をまとめた。金古氏は拙速を避けて、未だにこつこつと経穴の整理をしている。この間に中国では黄龍祥氏が『黄帝明堂経輯校』を出版して、『明堂経』を復元した。いずれも『明堂経』の復元が経穴研究にとって極めて重要な仕事であると認識しているからである。(『黄帝内経明堂経』、北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部・日本内経医学会共編、一九九九)
金古さんの復元作業がどこまで進んでいたのかは、お話を聞く機会が無かったので未詳です。もう復元作業は忘れてください、という気持ちをこめて、棺の中に『甲乙経』を入れました。ねばり強い性格なので、もしかしたら、あの世で、こつこつ続けるのかも知れません。
臨床の師匠
また、豊田白詩先生の弟子だよ、とも紹介されました。昭和四十三年(一九六八)に、北区神谷病院に鍼灸科が設置され、豊田先生が着任して、金古さんがお手伝いに入ったようです。鍼灸学校に入る前のことのようです。免許取得後は、民医連・代々木病院につとめていたようです。その時、豊田先生から手ほどきを受けたようです。豊田先生の次は根本敏雄先生という人で、金古さんが晩年には、「ぼくは鍼を根本さんに教わった」と言ってました。根本先生は、古典鍼灸研究会に所属していた先生で、雑誌『砭石』第三号(昭和四十八年)に「経穴異名及甲乙経に於ける交会穴について」、同じく第四号(昭和四十八年)に「難経講解七十三難」を執筆なさっています。金古さんは、井上式知熱灸の発明者が根本先生で、普及者が井上先生だとしきりに言ってました。
学生時代から新医協鍼灸部会に入ってましたから、基本スタイルは新医協の先生方と同じだと思います。それに豊田先生と根本先生の味付けが加わったのかも知れません。
民医連の代々木病院のほかは、足立区の柳原病院、早稲田診療所というところに勤務していたようです。早稲田診療所は平成十四年まで務められていたらしく、所長の田辺先生をとても尊敬していました。
編集の仕事
昭和四十四年(一九六九)に『経絡治療』初代編集長の竹山晋一郎が病亡されて、翌年から島田先生が編集長になり、金古さんは昭和四十八年に鍼灸学校を卒業し、その編集部に所属して島田先生のお手伝いをしています。テープ起こししたり、レポートを書いたり、蔭となって編集を支えていたようです。島田先生は、丸山先生、藤木先生が相次いでなくなったので、昭和五十二年に編集長を降板しました。本来なら金古さんが第三代編集長になるのでしょうけど、島田先生に従って一緒に降りたのだと思います。
島田先生は、昭和五十九年(一九八四)に『日本経絡学会誌』の編集長に就きますが、このときも島田先生の蔭になって、編集のお手伝いを初めています。島田先生が平成七年(一九九五)から日本経絡学会会長になったので、金古さんは編集長を嗣ぎ、前年の平成六年(一九九四)から平成十八年(二〇〇六)まで、永きにわたって雑誌の編集にたずさわり、学会の学問的な基礎固めに身を粉にし骨を砕きました。
昭和六十三年(一九八八)、丸山昌朗先生の『素問』の講義の原稿(テープ起稿)が完成。がしかし、平成二年(一九九〇)に、出版社がそれを紛失してしまったという事件がありました。講義のテープ起こし、編集は相当大変だったろうと思います。その落胆心は秘めて、口外することはありませんでした。
振り返ってみれば、金古さんは、島田先生の最良の弟子としか言いようがありません。
東洋鍼灸専門学校
平成十二年(二〇〇〇)に島田先生が他界された後、跡を継いで数年は東京医療専門学校の教員養成科で教鞭をとりました。この時の講義はずいぶん苦労したようです。金古さんは東洋鍼灸専門学校の出身で、東京医療とは肌が合わなかったのかも知れません。その時、僕は東洋鍼灸専門学校の教務科課長していましたので、平成十六年(二〇〇四)に東洋鍼灸専門学校に来ていただき、最初は東洋医学概論、のちに鍼灸実技を担当してもらいました。水が合ったのでしょう。亡くなるまでの七、八年、特に実技を担当するようになったよりのちは、水を得た魚のようでした。金古さんがやりたかったことに目ざめたようです。その成果は、『鍼灸ジャーナル』の連載として結実しました。ぼくが、金古さんのお役に立てたとすれば、東洋鍼灸に招いたことくらいかも知れません。
道具へのこだわり
遺品である鍼の道具を拝見させていただきました。鍼を自分で造っているのは知っていましたが、これほど執着していたとは。驚きました。自分で造るには、根気と時間、執念がもとめられます。かつて銀の丸い鍼管を八角に削ったことがあるのでよく分かりますが、それを延々と続けられてきたのですから、「楽しい」という心持ちがなければなし得ない作業です。生徒に鍼製作ブームが起こり、それを仕事にする教え子も現れていました。これほど鍼にこだわった人は、金古さん以外知りません。自分で造ってしまうのですから。「これを好きな者は、これを楽しむ者にしかず」といいますが、まさに金古さんの鍼造りを指しています。
最後に
惜しいとか、悔やまれるとか、冥福を祈りますとかということばは、すがすがしく散って、無の世界に帰った金古さんには、無用のことばでしょう。島田先生が亡くなったときは喪失感がありましたが、金古さんはすうーっと消えていったようで、なんとも爽快感があります。島田先生の、金古さんのそばにいて、ほとんどお役に立てなかったと思うけれども、次の世代の架け橋になるのも報恩かと思っています。 - 金古さんの思い出:島田美智子
-
金古さんが我が家に来られる様になってから何年位になるだろう。
独身時代から、家に来る度に大きな〔片原まんじゅう〕の箱をもって「健坊いるか」等と大きな声で入ってくる。この〔片原まんじゅう〕は前橋の名物で、家中がいつも待ちのぞんでいた代物だ。
又、インドカレーを作った鍋を持って来たりした。それは豆入りだったり、肉入りだったりするが、カレー粉に何種類かのスパイスを入れた本格的なものだった。私も教わって家でも作る様になったが、金古さんのとは一味も二味も違っていた。
縁があって、鍼灸界で始めて仲人をさせていただいたが、夫は奥さんのことを、「飛鳥時代の美人だ」と評していた。とても仲がよく、三人のお子さんをもうけられ、前橋にいられたご両親の面倒をみられ、自他共に大活躍の日々だったと思う。
夫が亡くなってからは、なかなかお目にかかることもなかったが、昨年、夫の十三回忌の顔合せを発案して下さり、浅草のうなぎ屋で、話に花をさかせたのが、最后になってしまった。その時、息子と「少しやせたんじゃない?」と話したが、又断食でもしたのかしらと、あまり気にも留めなかった。
まだまだ、ご家族にとっても、鍼灸界にとっても、なくてはならない人だったのに、残念でなりません。
彼岸で、丸山先生始め諸先生方や島田とお酒をくみかわしているのでしょうか。
ご冥福をお祈り致します。 - 片原饅頭のおじさん:島田力
-
「つとむ君!」と呼ぶ金古先生の声がいまにも聞こえてきそうな気がします。
ずっとそう呼ばれてきました。鍼灸学校の教員になって会議でお会いしても、学生が一緒の飲み会でも、学会会場でも、この「つとむ君」は変わりませんでした。
僕自身、金古先生に初めてお会いしたのがいつだったのか思い出せないほど、島田家と金古先生とのお付き合いは長いことになります。父が丸山昌朗先生に師事しはじめた少し後に金古先生と会って以来の仲と聞き及んでいますので、計算してみると僕がまだ小学生の頃からですから四十年以上ということになります。そんなお付き合いをさせていただいていたので、鍼灸の臨床や学術、教育のことは他の方に任せて、僕しか語れない先生との思い出を少しだけ書かせていただきます。
我が家では(というか僕ら兄弟の間だけですが)金古先生のことを密かに「片原饅頭のおじさん」と呼んでいました。もちろんその理由は、金古先生がよく持ってきてくれるおみやげが「片原饅頭」だったからです。
杉の経木に貼り付けられた白い饅頭は、皮のもっちりとした食感に独特の風味と微かな酸味が加わって何とも言えない素朴な味わいを醸し出し、さらに甘すぎないサラッとした濾し餡がとてもよく合っていて、温め直すと美味さがさらに引き立ち、いくつでも食べられた記憶があります。いまでもその味わいがリアルに思い出されるということは、よほど好きだったのだと我ながら感心しています。いま考えるとあれは酒饅頭で、麹を使って発酵させて作っていたものでしょう。発酵食に嵌ってかなり勉強したいま思うのは、食にこだわりのある金古先生らしいおみやげだったということです。ちなみに、これを読んで是非食べたいという方がいるのではないかと思うので書き足しておきますが、一八三二(天保三)年創業のこの前橋を代表する銘菓は後継者不足などから一九九六年に廃業してしまい、残念ながらいまでは食べることができなくなってしまいました。金古先生もそのことをとても残念がっておられました。
父との付き合いが非常に長かった金古先生は、鍼灸関係の方が我が家で飲むときにはほとんど参加されていたという記憶があります。酒好きは父も同様でしたから、毎回夜遅くまで鍼灸について熱く語りながら(たぶん今思い返すとそうだったはずです)酒を酌み交わしていました。「なぜか鍼灸師には酒好きが多いなあ」と当時の僕は思っていました。そういえば父が亡くなる直前に、大分で関サバを食べて飲み過ぎて飛行機に乗り遅れたときがありましたが、そのときも確か金古先生は一緒だったはずです。
父は金古先生のことを「ねこさん」と呼んでいました。ただ、家族としては鍼灸関係の議論の中身にはまったく興味がありませんから、ねこさんの持ってきてくれる片原饅頭のみに注目していました。まさか自分がその鍼灸師になるとは…、いま考えると可笑しくなります。
父の師匠でもある丸山先生の墓参を父から引き継いでいたのも金古先生でした。現在、私が住んでいる鎌倉にある浄智寺に丸山家のお墓があるのですが、父と一緒に参っていた時から、墓の前で蕎麦がきを作ってそれを肴に飲むというのが恒例になっていました。数人で一升瓶が何本か空くこともあるほど、お寺の墓地で盛り上がってしまうというのは、本当に変な墓参です。でもそれを欠かすことなく続けていた金古先生に、義理堅さというようなものを感じていた気がします。ある時などは、墓参の後に鎌倉の我が家で金古先生の手作りカレーを食べる会をしようということになりました。金古先生のカレーはかなりのこだわりカレーで、スパイスのブレンドを繰り返した揚句に完成したかなりの一品です。父も「カレーはねこさんのがいちばんだなぁ」とよく言っていました。家内に玉葱を十個みじん切りにしておくように指示して、皆が飲んでいるにも関わらず厨房に籠ってカレーを作ってくれました。あのカレーが食べられなくなったのは、とても残念なことです。
僕のような者が言うのは憚られますが、口はあまり上手とは言えないけれど正直で義理堅い先生だったのだと、この追悼文を書きながらしみじみと思いました。「好きなことに思い切りのめり込む」という先生の姿勢にいまはとても共感できる気がしています。
先生のご冥福をお祈りいたします。
合掌 - 昭和鍼灸の残響を生きた金古さん:松田博公
-
金古さんの言葉には、字余りとも言うべき力があった。想いは深く、語るべきことは多く、語り切れないもどかしさが、言葉を支える語気の強さとなっていた。金古さんは、昭和鍼灸の残響を生きたひとである。二十代で出逢った丸山昌朗を生涯、師と仰ぎ、一九七〇年代初めには、経絡治療誌に寄稿し始め、七六年、陰陽五行論の成立史を聴くため、島田隆司等とともに碩学、島邦男を訪ねた弘前への旅によって、方向性を決められる。不世出の経絡研究家、藤木俊郎とは同時代人であり、「誰が名人かというと豊田白詩だよ」と何度も聞かされたことがある。
こんな金古さんが、昭和鍼灸の学術と人脈の継承にこだわったのは当然である。日本経絡学会および日本伝統鍼灸学会が八七年から十数年にわたり追究した証の検討作業に加わり、八木素萌を助けつつ執筆に心血を注いだ「病証学の確立に向けて」の総括書が、店ざらしになったことへの憤りは隠すべくもなかった。ある時、私は金古さんに、自分の小さな発見として、「『黄帝内経』を理解するには天人合一論を軸にしなければならないし、『呂氏春秋』や『淮南子』『春秋繁露』と比較しなければならない」と話したことがある。金古さんは「『呂氏春秋』『淮南子』を読むべきだ、とは島田隆司が言っていたことだよ」と応じた。俺たちは先人の学術の到達点を大事にしていないと、語りたかったのである。そうしたことを強く悔しいと思う人も、金古さん亡き後、いないのかもしれない。
私は、金古さんの言葉に、二人の共通の出発点である敗戦後日本の焼け跡の臭いをいつも感じていた。貧しく何もなかったが、その分だけ今よりも自由な時代に私たちは少年だった。数年前のことである。ある鍼灸学校で紛争が起きた。私は、その学校を理想の教育機関に近づけるカリキュラム改革をすることで、紛争も収束できるのではないかと思いながらも、関わりを迷っていた。火中の栗を拾うことであり、展望も乏しかったから。そして、親しい三人の鍼灸家に助言を求めた。一人は大いに賛成し、一人は、徒労に終わり病気になるだけだと反対した。金古さんも同じ理由で反対したが、こう付け加えた。「反対だけど、君がやるなら全面的に支援するよ」
私はその言葉に押されて前に進み、予想通り敗退した。しばらくして、金古さんは大久保駅の側の小さな目立たない居酒屋に招いてくれた。時間が止まったような静かな空間だった。「ここは、気に入った仲間としか来ない店なんだ」と言いながら、酒をついでくれた。金古さんは、私への友情というよりも、生きてきた時代への友情を示したのだと思う。学生たちを誘ってカレーの会を主宰し、毎月の愛飲酒多飲(アインシュタイン)の会を持続し、都師会が企画した東京都委託施術者講習会の第一回に馳せ参じてくれたのも、丸山、藤木、豊田、島田の面影を抱きながらであったに違いない。
「天はひとを憩わせるに、死をもってす」(『荘子』)といわれる。金古さんの幽魂は安らいでいるだろうか。ひとは生きてきたようにしか死なない。そして、死んだ後も生きてきたままである。 - 心残りの金古さんを偲んで:天満博
-
夏休みの本郷での合宿の時、久し振りに金古さんは私に治療してくれるかと言い、浴衣を肌けてお腹を出した。お腹の力も弱く、脈はお酒を飲んだにもかかわらず力が無い、背中の兪穴は力が無いだけでなく、凹んで気力を感じない嫌な感じだったので、
「金古さんヤバイよ、続けて治療をしないと」と言うと、
金古さんも、
「そうなんだよ」と
分かっているかの様に力無さげに言うのが非常に印象的だった。
金古さんとは、東洋鍼灸の学生時代からの旧友で、私たちは、久保全雄先生、丸山昌朗先生、藤木俊郎先生、島田隆司先生に信奉し、金古さんは特別に豊田白詩先生を信奉していた様だった。当時、民俗医学研究所で丸山昌朗先生の『素問』と『霊枢』の講義を五年か六年くらいかけて学んだ事を思い出す。長沢元夫先生の『傷寒論』の講義も一緒に学んだ事も思い出す。
藤木俊郎先生も島田隆司先生も若い時代で、鍼灸の理論で喧嘩っ早い論争を繰り広げていた、正に黎明期の様な時代だった。その藤木俊郎先生や島田隆司先生の影響か、金古さんも意外と理論について喧嘩っぱやい処があったように感じられる。丸山昌朗先生が亡くなり、ついで藤木俊郎先生が亡くなり、島田隆司先生はかなり落胆した筈だと思う。金古さんもその様な時代の中、島田隆司先生に就き、ひるむ事なく淡々と鍼灸の道を進んで行ったようだ。私は丸山昌朗先生と藤木俊郎先生が亡くなった時から、鍼灸界ももうお終いだと感じ、殆んど勉強会や研究会に出ず、遠ざかっていた。
私から見た金古さんは頑張り屋さんで、縁の下の力持ちと言う感じだったが、直ぐに突っかかるところもあり、私とはよくぶつかった。金古さんはいい加減な性格だと思っていたが、今さら思うに意外と生真面目な性格だったのだろうと思う。
金古さんが入院中にお見舞いに顔を出すと、いつもの様に金古式鍉鍼の使い方を盛んに教えてくれた。あまりにも鍉鍼の事を熱く語るので、私はそれなりに話を合わせていると、何が嬉しいのか青木実意商店に作る様に連絡までしてくれて、結局、金と銀の特注の鍉鍼を作るはめになった。金古式鍉鍼については、何故鍼の先に米粒みたいな丸みがあるのか語ってくれた。丸みにより、より気を集められるから、ということらしい。確かにそう言われると、そうなのかも知れない。金古さんの推奨する鍉鍼を使い、患者さんの病気をより早く的確に治せれば、金古さんも本望だと思うしだいである。
【追筆】
丸山昌朗先生、藤木俊郎先生、島田隆司先生も美食家で、金古さんもその影響を受けて、美味しい食べ物をこよなく愛していたのでしょう。私に天然ウナギを食べさせたいと(割り勘でですが)息巻いてたことが、昨日の様に思い出されます。丸山昌朗先生、藤木俊郎先生、島田隆司先生のような鍼灸家が、金古さんに、
「良い料理を食べなければ良い治療家には成れない」
と言ってましたから、金古さんの美食癖もそのあたりの影響があったように思われます。
金古さんは特別に日本蕎麦が好きだったようです。私も日本蕎麦と日本酒は大好物で、金古さんが「ここの蕎麦が一番だ」とか、「この日本酒が一番だ」と言われると私も日本蕎麦と日本酒がうるさい方なので、金古さんの言う一番だと言う美味さについて、「違うね、何処何処の蕎麦の方が美味いし、日本酒も人それぞれ違うから一概には言えないよ」、と逆らっていた時代も思い出します。
内経の新年会(信濃町の河豚料理「大漁」)では金古さんと私は、俺こそが旨い酒を持って来たとか競っていたのはお互い笑える仕草の様でした。今年の忘年会も来年の新年会も、これからズーット貴方に会えないと思うと哀しみと言うより、張り合いの無さを感じます。もっとユックリ話したからどうだと言う訳でも無いのだろうけれど、金古さんが死んだと言う事実が存在し、実際金古さんのお骨を拾わせてもらったにもかかわらず、未だ貴方は私の心に存在しています。
私の心の他に、貴方を知る全ての多くの人の胸中に貴方はいき続けています。 - 金古さんへの返信メール:小林健二
-
金古さんとの最後のメールは、二〇一一年八月十一日。ちょうど八月十五~十九日に開封へ行く直前でしたね。何度も開封行きを誘ってくれてありがとうございます。『内経』誌の旅行記を読んでうれしかったです。次のメールが最後のやり取りでした。
「開封行きの件」KANEKOEIKI
「僕は個人的なことで父親の遺言による散骨(黄河のほとりで)が主目的ですが、両親が開封で知り合い結婚したことで一九四四年八月十二日に僕が生まれました」
「校正医書局跡地のことは黄さん判らないようですね。君が中国に行けない理由は伝えます。腧穴データは渡さなくていいの?『鍼灸腧穴通考』は黄さんが手配してくれました。僕の助手二人(嵯峨野、米谷)もかなりのレベルでしょ、原塾時代のアナログ作業が懐かしいね。無駄な工具書も自前で買って取り組んだけど、彼らは東鍼の図書館で整理された工具書(荒川君が整理したから)を見ることができるから、やる気さえあれば速い」
「藤木墓参と合宿は出るの?僕の教え子達がいい発表をするようになってきました、聞いてやって下さい。僕は藤木先生の諸々の人となりの話をします。データベース作りの基礎作業の重要性は殆どの人は理解できないでしょう」(金古英毅)
***
「金古さん、良い教え子を作りましたね。あの二人はなかなかすごいですよ。金古さんの鍼灸への思いはちゃんと彼ら二人だけでなく、鍼灸を愛するみんなの胸に響いていますよ。金古さんの「鍼灸、愛してるか!」の声がみんなの心に残ってますよ。
金古さんが亡くなっても、まだそういう気持ちになれないんです。ひょっこり電話がかかってきて「ちょっといいかな~」と長話ができそうな感じなんです。島田先生の墓参で会えるような、そんな気持ちです。いつも美味しいカレーありがとうございました。旨かったです。
金古さん、思い返せばいろいろ金古さんに教えられました。小生も三年くらい前から体調不良でなかなか金古さんと会えなくなり、メールのやり取りと高坂の島田先生の墓参り、あとは運営委員会くらいしか会っていなかったですね。今は体調も良くなり、また経穴のデータベース作っています。今年から経絡のデータベースに着手しています。金古さんのこだわりは『明堂経』と経絡ですから良いもの作っておきます。いつも体調を気にしてくれてありがとうございます。もう大丈夫ですよ」(小林健二)
***
金古さんとはじめて会ったのは一九八六年、金古さんが四十二歳、小生が三十歳の時でした。原塾の開講三年目。篠原孝市先生の医古文基礎の講座でした。藤木先生の『明堂経』復元の意志を受け継いで、これからまた一から勉強し直しするという強い意気込みでした。お互い中国の資料を慣れない中国語辞典で翻訳して勉強したのが懐かしいです。「四十の手習い、あと十年若ければな~、この年でやるのはしんどいよ」などと言っていましたが、養生のため断食をよくやっていました。あの時、すでに『経絡治療』誌の編集の手伝いをして、鍼灸の世界では名の知れた人であったが、そういう雰囲気はまったく感じさせなかった。一生徒として医古文を基礎から学ぶんだ、そういう気持ちが無いとだめなんだ、自分に足りないところを学ぶんだと、自分自身を律していました。
伝統鍼灸学会の編集長を島田先生からバトンタッチされたとき(一九九四年・五十歳)、どの学会よりも早くデジタルデータでの編集を実行したのは金古さんの功績でした。
これからはパソコンができなければ研究や事務はだめだというので、いち早く導入し使いこなしていました。それでも昔のパソコンですからよく壊れて「これはどうするんだ~、動かない!ファイルが壊れた~、どうすればいい?」など、よく深夜に電話のやり取りをしました。今は原稿の入稿などはメールでやり取りができますが、当時はフロッピーディスクの郵送でした。段ボールいっぱいのフロッピーディスク。ファイルを見ると何も無いディスクがあったり、初期はけっこう大変でした。おかげで学会の費用は相当削減されたはずです。
金古さんの治療院に行き、ファイルの整理の手伝いをするのは楽しみでした。山のような本と雑誌、インド音楽のテープやヒマラヤの写真、大きなステレオのスピーカー、オーディオ機器が所狭しと並んでいました。なかでも丸山先生が使っていた特注の温熱器付のベッドがあり、現役で使われていました。行く度に手作りの料理(酒のつまみ)をいただき、よもやま話。楽しい時代でした。
手伝いをしながら「ここは見出しを付けないと読んでいる人が飽きるから付けること」など編集の徹底さ、厳しさを大いに学びました。
一九九七年の全日本鍼灸学会と日本経絡学会の共同で開催したときの編集はすさまじいものがありました。校正作業の最終日、印刷所(彩成社)での最終校正は夕方からはじまり、夜明けまでかかりました。臨床と同じく編集にも妥協はしない人でした。
日本経絡学会から現在の日本伝統鍼灸学会に至る一九九四年から二〇〇六年までの十二年の編集部長の時代は一番、あぶらが乗っている時代でした。「証」の討論のまとめは金古さんがいたからこそできた代物だと思います。
以前、岡部素道著『鍼灸治療の真髄』(績文堂・一九八三)のあとがきに金古さんの名前を発見しました。聞いたところ岡部先生の講演の口述を書き留め編集したとのこと。『経絡治療』誌の編集の手伝いをしていた(一九七六年・三十二歳頃)時代から数えると三十年以上も学会関係の編集にたずさわっていました。また丸山先生の素問
の出版も何年も掛けて編集していました。金古さんでしかできない仕事でしたが、出版間際、何が原因か分かりませんが出版できなくなりました。くやしい気持ちでいっぱいだったと思います。
また一緒にいろいろ会合や学会に行きましたが、いつも高名な先生の前で小生のことを紹介してくれました。心強い兄のような存在でした。
いつも、ことあるごとに「君の仕事を抜きにして、これからの鍼灸の世界の発展は無いよ」「君のやってる基礎的な仕事はまだ理解されていないようだね。でも君の努力に感謝だよ」などと褒めてくれたのが心底うれしかったです。
島田先生の治療院にはじめて連れて行ってくれたのも金古さんでした。『難経』の研究会を発足させるので来ないかと誘ってくれました。おかげで小生もこの世界にとっぷり浸かってしまいました。
金古さんは「魂の気高さ」をよく言われました。気概のある魂、それでいて品のある、そんな生き様でした。東洋鍼灸の学生(二年生)のとき、一九七一年(二十七歳)島田先生を通じて丸山先生とお会いしたとき、魂を打たれたと言っていました。響きを感じる感性があるのは人としての清い心を持ち合わせているからでしょう。
島田先生にもズバッと物言う方でした。島田先生が伝統鍼灸学会の会長になり、さまざまな講演や会議を受けていたころ「これ以上いろいろな学会の仕事を受けると倒れるからやめないとだめだ」と。他が言えない、言わないことを言える人でした。金古さんが会議に出席すると会が締まりました。人格の成せるところだったと思います。誰とでも分け隔てなく付き合い、良いのものは良い、悪いものは悪い、繊細で緻密でありながら豪放磊落。日本内経医学会の夏合宿先の本郷・鳳明館の風呂場でひとり大きな声で歌を歌っていたのを思い出します。そんな人は当分、鍼灸界に出ないかもしれません。金古さんの生前の波長は今もなお小生の体と心に響いています。惜しんでも惜しんでも、なお惜しい人でした。 - 思い出の魚尾山(マチャプチャレ):岩井祐泉
-
カトマンズ空港の滑走路は煉瓦敷きである。首都の空港で、煉瓦敷きというのは他に知らない。宿に着いてぐっすり眠る。「チリンチリン」という遠い微かな鈴の音が頻りに聞こえて目が覚める。まだ薄暗いのだが、外の街頭に設けられた仏塔(チョルテン)が回転式になっており、早起きの善男善女たちが手をかけて回転させている。付属の鈴が鳴る仕掛けである。
回転した回数、経文を唱えたことになるという省エネ式の読経法である。経文は「オンマニペメフム」という。「マニ」は宝珠、「ペメ」は紅蓮華、「オン」と「フン」は祈祷用語で、「紅蓮華の中なる聖なる宝珠よ」という意味になる。サンスクリット語では紅蓮華はパドマ、白蓮華はプンダリカという。
国王の別荘があるポカラに小型飛行機で飛ぶ。滑走路は草地で、馬が草を食べている。琵琶湖よりも大きなペワタル湖があり、ゴンドラがある。ちょうど雨期の終わり頃で、その日は曇っていたのだが、ゴンドラで沖に出ると、にわかに雲が晴れて雪山が見えた。双耳峰であるマチャプチャレ(魚の尾)であった。イヌワシやカワセミも飛んでいた。
その後、治療院を開業したとき、金古さんからご自身で撮影されたそのマチャプチャレの美しい写真を頂いた。
回転塔(チョルテン)の鈴の音
すゞしき朝まだきを
偲びて手向けし
オンマニペメフム - 金古先生へ:宇佐美和美
-
私が金古先生に初めてお会いしたのは、平成十七年の春、専門学校の二年生だったと思います。二年生では一年間、三年生の時には半年間、東洋医学概論の授業を教えていただいた中で、心に残っていることがあります。
ひとつは、はじめの自己紹介で先生の小柄な身体から発された、まっすぐな言葉。「私は、鍼灸を愛しています!」(好きでは足りない!と仰っていたような…)衝撃的な自己紹介でした。
もうひとつは、先生が、いつも笑顔の生徒たちに囲まれていたこと。私はその様子を見ているだけで、なぜかとても幸せな気持ちでした。
それから、実技の前には必ず古典を訓読してくださっていましたね。先生の伝えたかった古典を自分で読むことの大切さ、今は当時よりも感じられるようになってきました。
私はいつも余裕がなくて、金古先生との飲み会や本格カレーを作る会には参加できなかったので、先生と関われた時間はほとんど授業だけでしたが、卒業してから内経医学会や学校でお目に掛かれた際に、片手を挙げて笑顔と明るい声で挨拶を返してくださいましたね。
先生を思い出すと、その時感じた、山を吹き抜ける爽やかな風のような先生の姿が私の中に広がります。
たくさんの人を大事に、楽しく強く愛をもって鍼灸道や人生を生き抜いた先生。いつか私も天国で先生に会える日がきたら、生前は深くて理解できなかった鍼灸やその他のお話しを聞かせてください。それまで、鍼灸と患者さんと古典にふれて、先生のお話しが少しでも理解できる自分になれるよう努力します。
金古先生、いつも変わらない熱い思いと真剣な眼差し、優しい笑顔を、本当にありがとうございました。 - 鍼灸師の手:大八木麗子
-
金古英毅先生に初めてお会いし、お話をしたのは、北鎌倉浄智寺の丸山昌朗先生の墓参の後、旧宅のお庭でした。当時は、二月十一日で、寒い時でした。鍼灸師ではないこと、何の為に「内経医学会」に入れて頂いているかなどを話しましたら、急に握手され「これが鍼灸師の手ですよ」と強く握って下さいました。あの時の「ひびき」「気の流れ」、いまだ経験したことのない感覚が走りました。それからは、あちこちで開かれる学会でお会いし、お話を伺い、ずい分親しくお付き合いさせて頂きました。その時の情景が走馬灯のように浮かんできます。
一番強烈な場面、長野仁先生が主宰された多賀大社フォーラムの実技供覧の時でした。新城三六先生の巨鍼のモデル患者になられた時のこと、五十センチもあろうかと思われる巨鍼を腰部から脚部にかけて刺入れたのです。そして、金古先生の治療が終わり、次の方の治療の時、まわりで見学していた女性の鍼灸師が失神して倒れたのです。すると、金古先生が素早く治療具を取り出され、一、二本でしょうか刺緘されると、その女性先生は覚醒され立ち上がられたのです。ベッドの周りには大勢の鍼灸師の方がいたのですが、今、あの、長い鍼の治療を受けベッドから降りたばかりの金古先生の素早さ、その治療の見事さ、将に神業の様でした。
郡上八幡での合宿の時、二人でゆっくりとお話ししながら上がった坂道、そして盆おどりの会場で、先生は踊りの輪には入られませんでしたが、私に、「踊ってこい」と背中を押して下さった時の手のぬくもりが肌に残り、今現在の私の闘病生活を勇気付けて下さっているように思えるのです。
嘗ては丸山先生の墓前で行われていた金古先生の「墓前蕎麦掻き」を、私が参加出来なくなる前に再現してほしいとおねだりをし、復活させて下さり、先生の気の入った「蕎麦掻き」を三、四回ご馳走になり、最後にお会い出来た去年の墓参の時には、「よい蕎麦粉が手に入らなくなったので」と、頂くことが出来ず、今年三月の墓参の時、先生がご病気だと聞かされ、早く癒ゆされますよう祈っておりましたのに、私より先に逝かれてしまわれるとは、あまりにも早く、悲しいです。
まだまだ大勢の「鍼灸師の手」を世に残していって頂きたかったのに。きっとあの世、天なのでしょうか、極楽なのでしょうか、から、跡を継ぐ方達に気を灌いで下さっていることでしょう。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。 - 自得:加畑聡子
-
金古先生の訃報に接したのは、先生がお亡くなりになった明朝の九月八日であった。
私はちょうど大学のゼミ合宿の伊豆から次の調査先である岐阜県恵那市岩村町へ移動中の車中にあり、幕末の儒学者・佐藤一斎の『言志四録』の抜粋を読んでいるときに、米谷さんからのメールで知ったのである。
合宿中、偶然にも金古先生のことを思い出すようなことが何度かあり、帰ったらお見舞いにいこうと思っていた矢先のことだった。驚きとともに、「しまった」という後悔の念が私を襲った。
先生のご生前、日本内経医学会ではもちろん、日本伝統鍼灸学会や当時勤務していた東洋鍼灸専門学校などを通して、たくさんお世話になった。それにも関わらず、自分はご恩を返すことすらできていないという負い目もあり、お通夜と告別式に参列し、お礼とお詫びを伝えなくてはならない、という思いがあった。しかし東京に帰るのは二日後の九月十日…はたして間に合うだろうか。急きょ調査を中止して帰ることも考えたが、それでは金古先生にお叱りを受ける気がした。
「大学院、がんばってな」
それが、先生から頂いた最期のお言葉であったからだ。
落ち着かぬ心持ちの中、宮川先生からお通夜と告別式の日程の知らせを受けた。「九月十一、十二日」…金古先生が、最後のご配慮をくださったように思えた。
「手の原穴のうち、なんで合谷だけ手首に無いか知っているか?」
初めてお会いして間もない頃、よく金古先生からぶつけられていた質問である。
当時の私は、教員養成科に入りたてで、どちらかといえば東洋医学より現代医学のほうを得意としていたので、鞍關節である母指手根中手関節の特殊性を述べるなどをして答えていたと思う。試行錯誤して答えた後、何か正答を下さるのかと思えば、金古先生は「自分で考えな」といったふうな口ぶりで、正答をお持ちだったのか、そうでなかったのか、結局わからずじまいだった。
慌ただしく東京に帰った翌日に行われたお通夜と告別式では、受付をお手伝いさせていただき、火葬場までご一緒させて頂くことができた。
重々しい雰囲気であった火葬場からの帰りのバスの中で、天満先生のお言葉が非常に印象的だった。
「井上先生の時もそうだった。いつでも訊けるだろうと思っているうちに、突然居なくなってしまうんだよ。生きているうちに訊くべきことは訊かなくてはいけないよ。」
本当にそのとおりだと思った。あの時、金古先生に訊こうと思っていたことが、もう訊けない。
先生は、鍉鍼をどのように使い分けたのだろう。
ゴルフボール以外の手のつくり方、あったんだろうなあ。
先生にとって、「伝統鍼灸」とは、何だったんだろうか。
カレーの作り方、きちんと訊いておけばよかった。
結局、合谷は―――どうして手首に無いんだろう?
すべて、答えはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
今となっては、先生は安易に答えを与えることを、避けていたようにも思える。
自分で考えて行動して得たものこそが、真の答えになり得るのだと、言いたかったように感じられる。
金古先生の訃報を受けた伊豆の電車の中で見た、佐藤一斎の言葉を思い出した。
志学之士、當自頼己。(学に志すの士は、当に自ら己を頼むべし。)《言志耊録十七条抜粋》
学びは一方的に与えられることを期待すべきではなく、自分で獲得するものである、そんな先生のお気持ちと、この言葉が重なる気がした。
勉強会で先生方に学びを頂ける毎日に感謝はするが、当然として受け身になってはいけない。先生方から学び得たことを、自分自身で咀嚼し、経験をもって答えを得ることが肝要である。この自得こそが、伝統を語り継ぐことなのだと、金古先生は身をもって教えてくださったように思えてならない。
金古先生のメッセージを受け止めて、日々悔いの無いように、精進していきたい。そうすれば、いつか合谷の謎についても、自分なりの答えを出すことができ、墓前にご報告できるかもしれない。
そのことが、きっと、先生から頂いたご生前のご厚情に報いることになると願って。
最後になりましたが、金古先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 - 金古先生のこと:桐木優
-
先生と初めてお会いしたのは、東洋鍼灸専門学校1年生のとき、毎月第三水曜日に大久保駅前の「としちゃん」にて金古先生主催で行われている「愛飲酒多飲」の会でした。
卒業後修行に行く余裕のなかった私は学生生活を終えると同時に開業しなくてはならなかったのでそれこそ必死になって勉強しており、学校でもことあるごとに先生方へ質問をぶつけていたのですが、どうにも納得できる説明を得ることができずじまいで、そのうちにとある先生には「そんな質問するのは素質がない証拠だから学校をやめたほうがよい」と言われる始末。時間とお金を考えたら、これは本気で学校やめたほうがいいかもしれないな、などと考えていた時期でした。
金古先生のことは全く知らなかったのですが、誘ってくれた級友によると何やらすごい先生とのこと。ならばと、日ごろ抱えていた疑問を聞いてみたところ、金古先生の答えは「俺もわかんね」
いや、この先生、勉強してないのかな。でも、一学生の質問にわからないって答えられるのって、結構すごいことだよな。なんなんだろう、この先生は。
お酒も飲めることだしと次の月にも参加してみると、今度は金古先生から声をかけられました。
きりきー、この間の質問だけどな、俺はこうじゃないかと思うんだよな。これが俺なりの答え。お前の答えは?
いや、先生、飲み会の場で一学生が聞いたくだらない質問をちゃんと覚えていて、回答まで準備していたんですか。しかも、答え出しているのに、一学生の意見まで聞きたがりますか。
しかも、金古先生の答えとは少し違う僕の答えを聞いた先生は、「なるほどなー、きりきー、お前おもしれーな。俺の答えは俺の答えだけど、きりきの言う通りかもしれないなー。まあ、答えが二つあってもいいか。」
いや、先生、意味が分かりません。そんなに答えがあっちゃ、鍼灸師は困ってしまうでしょう。現代の学生がいまだに素問霊枢から読まなきゃいけないなんて、効率悪すぎませんか。
そうだよなー、だから、俺、教科書作る。
その後、僕もそれなりにお酒が飲めるからか(金古先生の弟子たちはお酒があまり飲めない方が多い)くだらない質問が楽しかったのか、何かと目をかけてもらえるようになり、いろんなところに飲みに連れて行ってもらい、弟子認定(何の弟子かわかりませんが)されて日本酒たっぷり巨大盃を渡されたり、気が付いたら学校やめるどころか鍼灸の世界にどっぷり引きずり込まれていました。
いつしか先生は病気がちになり、いるべきところにいらっしゃらないことが長く続き、教科書の話もできず、質問することもできず、お見舞いに行くこともなく、たまに電話で近況報告するくらいでした。
赤羽に鯉を食べに行ったとき、肝(苦玉?)を日本酒に入れて飲みましたね。「これは飲み込むんだ。噛むなよ、苦いぞ」そんなこと言われたら、噛んでみるしかないじゃないですか。
先生、噛むとやっぱり苦いです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌 - ふざけんなよ!:佐藤隆哉
-
金古さんの逝去の知らせを宮川先生から頂いた。
悲しみの感情が生まれる前に、天に向かって話した。
「島田先生、金古さん、そこにいるんでしょ。なにかの間違いなんで、追い返してもらえますか。」と。
十数年前に島田先生を連れて行かれ、今度はよりによって金古さんか?ふざけんなよ。金古さんがいなくなったら、日本の鍼灸どうなるんだよ!俺は今後、誰と話をすればいいんだよ。
これでまた一つ、鍼灸界から青白い炎が消えるのか。
誰に当たってよいのか分からない感情が、ずっとループを始めた。
私が九鍼会の勉強会に行っていた期間は数年で、金古さんとは年に何度か顏を会わせる程度だったが、たぶん初めて会った時から親近感を覚えて、親しくさせてもらった。金古さんは関東の出身だけど、性格はきわめて九州人だと思う。思ったことは、ずばずばいうが後にはひきずらない。そんな所が馬があったのかもしれない。
日本鍼灸の今後を考え、煮詰まってくると金古さんに電話した。金古さんからもたまに連絡を頂いた。そういう時、二時間は覚悟しないといけない。でも、いつも心地よい疲労感に包まれ、その後はおいしい酒が飲めた。
以前、伝統鍼灸学会の仙台大会で私は発表した。症例は脱落例。学会に出席しても、みんな成功例ばかりで、言葉は悪いが、自分の会の宣伝ばかり。
「学会って、お互いに学び会う場ではないんですか?この現状で日本鍼灸の再構築なんてありえるんですか?」
「私は学会を変えたい。お互いに学びあう場に変えたい。だから金古さん、私の発表の時に司会をしてください。」
そういって、無理矢理に司会をお願いした。
「金古さん、私の症例でおかしな所があれば、ガンガン指摘してくださいよ。予定調和はなしですよね。」
「当然だろ。」
亡くなる二年前も、いろいろと文句をいった。
「そもそも内経医学会も悪いですよ。」
「なんでだよ。」
「難しい事を言い過ぎですよ。馬王堆から始めなきゃダメだとか。内経医学会の認識を一般鍼灸師に言うのは、いじめと同じですよ。」
こんな生意気な意見に対しても、常に対等な目線で接してくれた。
金古さんへ。
「金古さん、いつか二人で学会で司会をやりたいってお願いしてましたよね。」
「金古さん、北九州市民球場ってのがあるんですけどね。そこは平和台球場と同じ作りをしているらしいですよ。それは西鉄ライオンズの選手が試合をしやすいようにという計らいなんですって。」
「金古さん、この前ぶらりと入った天神にある喫茶店のマスターが、西鉄ライオンズの選手と知り合いらしく、いろいろな話を聞かせてもらいましたよ。」
「金古さん、そろそろ関鯵、関鯖、そしてあのフグがおいしい季節になって来ましたよ。」
「金古さん、うちの近くに香椎花園という遊園地があるんですけど、そこは以前西鉄ライオンズの二軍宿舎と練習場だったらしく、園内にはその跡が今でも残っているらしいですよ。」
「金古さん、金が水を生む学説の解明は終わったんですか。」
「金古さん。たまには夢の中でもいいんで、出てきてくださいよ。」
「金古さん、さみしいです。」 - 金古英毅先生追悼:澤口博
-
金古先生には東洋鍼灸や内経医学会でお世話になったというよりも、伝統鍼灸の場で色々と教えていただきました。
講演やシンポジウムの際、あの強面で演者に厳しい質問や討論をぶつける金古先生の姿に、鍼灸への真剣さ、学びの深さを感じ、自分の演題発表の時に来られたらどうしようといつも冷や冷やしていました。しかし、実際の金古先生は優しく言葉をかけてくださり、駆け出しの私は伝統鍼灸学会の場で先生に会えることを楽しみにしていました。
そして、私が伝統鍼灸学会編集部をお手伝いさせていただくことになったとき、「私も長い間編集で頑張った、為になるから頑張れ」とお言葉をいただいたのですが、実際に手伝うとなると開業鍼灸師の忙しさに殆ど何も出来ず、先生たちはどうやって忙しい臨床と、この業務を両立させていたのだろうと疑問でした。きっと鍼灸への愛情と、先達への責任感、全てを捧げてらっしゃったのだと思います。
私の師である重岡恵先生も二年前に倒れられ、未だ病床にあります。金古先生や他にも多くのこの時代の先生方が、病に倒れるのは、如何に苛烈な鍼灸人生を送られたのかと想像すると身も震えてまいりますが、先生方の意志を少しでも繋いでいけるよう、捧げる人生を歩んでいきたいと思います。金古先生、本当にありがとうございました。 - 金古先生の思い出:鈴木幸次郎
-
告別式の時に天野先生と金古先生との出会いについて話し合っていたが、いまだに金古先生との出会いが思い出せない。おそらく内経医学会の合宿か大漁での新年会であろう。金古先生とはお酒の席でお話しすることが多かった気がする。特に合宿の酒席での浴衣姿の天満先生との絡みがお約束だった。ずいぶんと鍼灸が好きで熱意のある先生だなあという印象だった。
東洋鍼灸専門学校で金古先生が東洋医学概論の授業を受け持ったときに聴講に入ったことがある。金古先生は一番最初の授業で学生に向かって「私はカミさんより鍼灸を愛してる」と豪語していたのがとても印象に残っている。また鍼の臨床スタイルは刺さないことありきで、鍉鍼での治療をよくされていた。特に陽虚(金古陽虚)の患者への鍼治療にはこだわっていた。先生と鍼の話になるとこれまた恒例だが、少し離れた所から相手の手のひらに向かって鍉鍼を向けて「何か感じるか?」と言われると「いいえ」とは言えなかった。
学校の教務室にいると時々金古先生から学校に電話がかかってくることがあった。電話に出ると「ちょっといいですか?」と言ってお話になる。わかる人はわかると思いますが、金古先生の「ちょっと」はちょっとではないのである。忙しい時には困ったこともあったが、裏を返せばそれだけ熱い先生なのだ。
また、島田先生のお墓参りには必ず手作りカレーを持ってきてくれてお墓の前でみんなでご馳走になるのが恒例だった。このカレーも東鍼校の学生に好評でカレー教室も何回か開催されていた。ある日、私が何を入れたらおいしくなるか聞いたところ、「なんでもいいんだ」とおっしゃっていた。あまりこだわらないのがこだわりなのかとその時は思った。そんな先生は今頃天国ではカレーをつまみに丸山・島田・藤木・豊田先生達と鍼灸談義三昧の日々ですかね。ゆっくりと休んで下さい。
「ちょっといいですか!金古先生!早すぎますよ!」
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 - 金古先生の思い出:長谷川聡
-
最初に金古先生にお会いしたのはいつだったのか考えてみると、「鍼灸祭」かどこかの学会だったかと思います。そのときの印象は、ひょこひょこと歩いていらしたので、足がお悪いのだなという印象しかなかったのですが、その後いろいろな集まりでよくお見かけしました。
最初に話をしたのがどこだったのか、もう忘れてしまいましたが、話すようになってからは、こちらから声をおかけすることもありましたが、金古先生の方から声をかけて頂いたりして、仕事や治療はどうか?ということを尋ねて頂き、いろいろと相談に乗って頂いたり、励まして頂きました。
金古先生との思い出は、優しく楽しい先生という印象でした。定期的にお会いするのは、五月の鍼灸祭と一月の内経医学会の新年会でしたが、いつも楽しそうにしておられ、いつもと同じように優しく声をかけて頂き、ありがたく思っておりました。鍼灸祭でも内経の新年会でも金古先生はお酒をよく好まれる印象でしたが、私が感じた印象は間違ってなかったことも後々分かっていきました。
丸山先生の墓参りでは、蕎麦掻を作りながら日本酒を飲みましたが、春先にもかかわらずあまり寒さを感じずに、談笑することができました。その後、島田力先生のお宅で、金古先生腕自慢のカレーパーティーとなりましたが、手の込んだカレーは非常に美味しかったです。お酒を飲みながらのカレー談義になったのですが、酔いのまわった私はすっかり忘れてしまい、今から思えばちゃんと覚えておけばよかったと後悔しております。
二〇十一年九月二十三日には、遊山会主催の大菩薩峠に登山に行ったのもいい思い出です。金古先生は断食を行った後ということで、食事は普通に戻していらしたのですが、あれだけお酒を好きな金古先生が「断食後は、しばらくお酒を飲みたいとも思わない」と話をされていたことが印象的でした。登山は高低差もあまりなく歩き易かったのですが、金古先生にとっては足の障害のために大変そうでした。自然の中をいろいろ話をしながら登り、途中から雨に降られましたが、野生の鹿と出会ったりしながら下山し、楽しい時間を過ごしました。帰りの電車の中では、美味しそうにビールを飲まれていました。
私自身は了徳寺学園の教員をしており、金古先生には学生向けのセミナーを行って頂いていたのですが、金古先生が来られる日と私の勤務日が重ならなかったために、学校でお会いしたのは一度だけだったのですが、その時はカレーの話を楽しくしたのが非常にいい思い出です。
金古先生のセミナーが、今年は体調不良でいつも行っている夏前だと難しいという話があり、年度の後半か来年にということで、学校としてもご回復をお祈りしておりましたが、金古先生の御永眠の悲報に接し残念な限りでした。
学生達も今年の金古先生のセミナーを楽しみにしており、セミナー開催が難しくなったと聞いたときには、昨年度にセミナーを受講した学生達が今年は昨年よりは理解できるかもしれないという意気込みもあったところなので、私だけではなく当校の学生達も非常に残念にしておりました。
金古先生の御冥福をお祈り申し上げます。 - また山に行きましょう:林孝信
-
古くからの会員の重岡さんが長期入院していたので、金古さんとお見舞いに行きましょうということになり、一緒に山梨に出掛けた。帰りに立ち寄った石和温泉で、金古さんは障害のある股関節を指して
「中国から引揚げた子供のときに栄養不良だったんだ」
と、続けて
「今度の山登りは標高二千メートルの大菩薩嶺のようだが、自分でも行けるかな?」
私は一瞬ことばに詰まりかけたが
「行けるところまで行ってみましょう」
と返しながら、頂上手前の大菩薩峠までを目標にすれば満足してもらえるだろうなと思っていた。
数年前から遊山会と称して当会の有志で関東周辺の山歩きを企画するなか、金古さんもコースによってはケーブルカーを利用しながら参加していたので、脚力がどの程度なのかはある程度判っていたからである。
当日、六~七名で小雨の中を歩き始めて数回の小休止を繰り返したが、峠の手前で金古さんの脛がつって動けなくなった。鍼などの手当てをして、ようやく峠まで登り、冷たい風に吹かれながらの昼食を済ませてから、
「どうでしょう。まだ歩けそうですか?」
と訊ねると
「まだまだ行けるよ!」
と言うことで、そこからは足場の不安定な岩稜をさらに登り、やっとの思いの標高二千メートル地点の標識を背に、みんなで満足げに写真を撮った。私としてはここまでゆっくり時間をかけて歩いていたので、暗くならないうちに下山しなければとの思いでいっぱいであった。樹林帯の急斜面を降りてタクシーの入れる道路にある小屋に着くと、もうヘッドライトが必要になっていた。
この金古さんの頑張る力強さには同行の仲間達も驚かされた。今年の十月に追悼登山ということで、同じルートを登った際にもみんなで
「ここを金古先生が登ったことが信じられないです。仙人のように宙を浮いていたのかも知れないですね」
今振り返ってみると、金古さんはいつも自分の信念とするところは正面から取り組んでいたように思う。そのため彼の言葉には重みがありパワフルだった。内経医学会においてはご意見番として、または、人を育てる師であり、道具にこだわる職人であり、気を操作する名人であり、庶民派グルメであり、オーディオマニアでもあった。
「林君と一緒じゃなければ、あの山には行けなかったなぁ」
と言われたことが今でも嬉しい。 - メッセージ:米谷和輝
-
「皆さんの熱気で活気ある合宿にしてください」
八月三日、十七時三十分。これが、金古先生からの最後のメールでした。
日本内経医学会の夏合宿に際し、レジュメを人づてにお届けする旨をお伝えし、合宿参加者に対して何かメッセージを、とお願いしたことへの返事でした。亡くなる一か月ほど前、入院中体調のすぐれない中でのメッセージでした。
私が金古先生と出会ったのは、鍼灸学校二年生だった二〇〇五年、卒業直後の二〇〇七年四月から、入院された二〇一四年三月まで、鍼灸学校の授業で助手を務めさせていただきました。その中で、金古先生は私たち助手や学生さんたちに、さまざまな言葉を投げかけてくださいました。今、金古先生が皆さんに伝えたいことは何か?そんなことを考えながら、いくつかの言葉を綴ってみたいと思います。
「講師にぶら下がってたらダメだよ」
いわゆる勉強会のあり方についてです。金古先生は、本当は「双方向」の授業を行いたい、と常々おっしゃっていました。できることならば、朝から夜まで一つのテーマを取り上げてぶっ通しでディスカッションしたい、講師と学生の真剣勝負がしたい、と欧米の大学ゼミでの様子を引き合いに出して夢を語っておられました。
ですから学生さんには、どんどん質問しなさい、と呼びかけていました。しかも、基本的な質問ほどよい、と。実は、基本的な質問ほど難しく、しかも大切なのです。「くだらない質問なんてない」ということを、金古先生と意気投合したこともありました。
「皆さんに考えてほしいんです」
金古先生は、自分で考えることも求めていました。よく引き合いに出されたのが、先生が好きだった西鉄ライオンズです。西鉄はかなり自由な球団で、酒を飲みながら試合をした、という伝説もあります。プレイスタイルもかなり自由で、水原監督は選手にあれこれ指示することはなく、選手個々人がグラウンドレベルで、自分で考えながらプレイしたのだそうです。また新人選手が先輩選手に教えを請おうとすると、「お前、いくら出す?」。先輩にとっての企業秘密なのだから、簡単には教えられないよ、
ということで、新人選手は先輩のやり方を見て、自分で考えて育つしかなかったのだそうです。
ですから金古先生は、始めから全部、手取り足取り、ということは絶対されませんでした。先生が授業でおっしゃったことは、すべて考えるためのヒントでしかない、ということです。学生さんからの質問は歓迎されましたが、もっと考えた方がいい質問に関しては「もうちょっと自分で考えてみて」と再考を促していました。一方で私がいろいろ学生さんに説明してしまうと、「教えすぎだ」と注意されたこともありました。ここで教えてしまうことは簡単だけど、それは学生さんが自分で考えるチャンスを奪ってしまうことだから、結果的には相手のためにならないことなのです。
これは、何も金古先生に始まったことではなく、丸山昌朗先生、島田隆司先生もそうだったそうで、「丸山先生から直接教わったのは、食い物の味のことだけだった」と懐かしんでおられたこともありました。「自分で考える」という教育方針は、先達から受け継いだものであったようです。
「正答なんてない」
学生さんにアンケートを取ると、よく「金古先生の治療システムが知りたい」という要望がありました。そのとき、金古先生はいつも「そんなんないもん」とおっしゃっておられました。システムなどというのは、完成した瞬間滅びていく、と教えられました。
そもそも、普遍的に正しいものなどない、というのが金古先生の持論でした。毎年の授業で必ず学生さんにお薦めしていたのが、『99・9%は仮説』(竹内薫、光文社)という本です。この本では科学の定義として、カール・ポパーの「科学は常に反証できる」という仮説を紹介しています。つまり、一例でもその仮説に反する事例があった時点で、すべての仮説は覆される、ということです。現在正しいと考えられていることは、全てこの仮説の域を脱することはできないのです。金古先生は、鍼灸医学も現代医学も、科学である限り、すべては仮説であり、その点において平等である、との考えをお持ちでした。
実は、私たちに考えることを促した理由は、この点にもあったのです。質問に対する金古先生の答えも、仮説にすぎないのです。ですから、ある権威ある人物の出した答えを、鵜呑みにしてはいけないし、必ず自分で考えなければならないし、しかもその答えも仮説にすぎない、ということなのです。
こういった金古先生の思いを知った上で、もう一度冒頭の、最後のメールのメッセージを見てみると、また違ったものになるのではないでしょうか。自ら考えた上での質問がドンドン出れば、おのずと熱気と活気のある勉強会になることでしょう。それが金古先生の願いであったのです。私はいまこのメッセージを見ると、この一回の合宿のみならず、日本内経医学会や鍼灸業界全体への願いでもあるように思えるのです。
金古先生とのおつきあいは、学生時代も含めれば九年、助手としては七年。長い人生からいえば、非常に短く感じます。ですがこの年月は、私の人生にとっての宝となりました。私はあくまで助手であり、弟子ではありませんでしたが、一生のうちに「師」と呼べる人がいたことは、とても幸福なことです。たぶん今後の人生の中で、今の段階では予想もつかぬくらいに、そう感じることでしょう。私はしばらく、たくさんの金古先生の思い出とおつきあいしながら、生きてゆくのだと思います。
もう一つ、金古先生から皆様への願いがあると確信しています。たまには金古先生のことを思い出しながら、杯を傾けてほしい、ということです。ただ、辛気臭いのはお嫌いでしたから、陽気に明るく、飲んであげていただきたいと思います。 - 金古先生追悼文:渡辺幸子
-
島田隆司先生七回忌記念号(季刊内経二〇〇六年秋号)にある、佐藤隆哉先生の追悼文で金古先生のことも触れられています。
金古先生が大分での公演後、お二人が別れる際でのやり取りです。
乗船時間になり、ああ、寂しいなぁと思った瞬間、金古さんがくるっと振り向いて「じゃあ、また」と言いながら握手の手が差し出された。その瞬間、九箴会の後の呑み会の場面がフラッシュバックした。
島田先生とお酒を呑んだ事のある人ならわかると思うのだが、呑んで解散する時に島田先生は必ず握手をしてくれた。これは毎週そうだった。
金古さんと握手した時、島田先生が降臨してきたのか、金古さんの笑顔に島田先生を見たのか、手のぬくもりに島田先生の教えや考え方が金古さんに脈々と流れているのか、どんな理由でそう感じたのかはわからない。しかし金古さんと握手した時、池袋の夜のあの空間と島田先生がフラッシュバックし、島田先生に包まれていると感じた。
この話を読んだとき、なるほど。あれは島田先生からの流れだったのか、と感銘を受けました。そういえば確かに、お酒の席などで金古先生がお帰りになるとき、しっかりと握手をして下さった印象があります。
別れ際の一抹の寂しさを、ぬくもりがそっと和らげてくれる。掌に先生の余韻が残り、さり気なく心地よかったことを思い出します。
嬉しかったので、私も同じように人と別れる際は、握手なりハグで親愛をあらわそうと思っています。思ってはいるのですが、なかなかどうしてこれが難しいのです。照れくさい、遠慮がある、相手が避けたら…、などと躊躇をすると、あっという間にタイミングを逃してしまいます。
包容力というのでしょうか。受け入れながら、踏みこんでくる力強さ。父性の愛。相手と自分の間合いを、ふっと、ぐっと。詰めてくる。
金古先生は、物事をはっきりとおっしゃるので、ときに近寄りがたさも感じておりました。けれども、その振る舞いを真似てみて気づいたのです。先生の掌が温かかったのは、懐の温かさが滲み出ていたのだと。そのぬくもりは、とても真似して得られるようなものではありませんでした。
あぁ、今ならもっと、お話しを伺いたいのに。先生とまた、お会いできるものと思っていたのに。 - 十年目の年に:嵯峨野智夏
-
私が先生のご病気のことを最初に知らされましたのは、昨年の九月のことです。八月に嚥下に違和感があって最寄りの総合病院を受診され、食道癌との診断で、心膜への浸潤が始まっているとのことでした。そして手術をする意志がないこと、すべてのお仕事や役職を継続すること、ご病気の事を旧知の方々に言いたくないということを、同時に伺いました。
九月の末には、抗癌剤投与と放射線照射のための入院がまずは二クール、十月上旬から年内までと決まりました。私は手術の可能性も残して大きな病院に相談されることを何度か勧めていましたが、この時点で治療方針、生活全般について先生のご意志に沿うことを決め、ご相談の上、入院までの一週間は毎日、入院中は週末の外泊時に、往診にお邪魔することになりました。
入院後は食欲不振を訴えられたものの、懸念された悪心、嘔吐などは出ず、週に一日は東鍼校の講義のため病院から外出もされ、十二月に予定通り投与が終了しました。この時先生からは、腫瘍が無くなったと医師に言われたので、今後の投薬の予定は無いと伺いました。私はまだ気を緩めることができませんでしたが、先生のご意向を汲み、当面はご自身で施灸を行いながら、副作用による食道炎の経過と体力の回復を待つこととして、ひとまず私の往診も終了となりました。
その後、食道炎と咳を薬で抑えつつ、努めて今まで通りの生活を送り、食事の質、量も戻そうとされていましたが、徐々に嚥下が困難になって体重も低下し、三月に胸水貯留のため緊急入院を余儀なくされ、ご病気のことが皆様の知るところとなりました。九月以来、先生は会合や飲み会に欠席を続けておられ、年が明ける頃には多くの方から、お姿を見かけないことをご心配される声を聞いていました。皆様のお気遣いはできる限り先生にお伝えしていましたが、結局この時まで、「持病の腰痛悪化につき断酒、節食中」という嘘でご心配の言葉に応え続けてきたことを、私はお詫びしなくてはなりません。
お通夜の夜、少しばかりお酒の熱気に包まれた、お見送りの方々で溢れんばかりの会場を見て、私は悲しみよりも、深い安堵を覚えずにはいられませんでした。温かい人の輪の中で、ご病気を打ち明けず隠れるように過ごされた半年間の先生の孤独が、少しでも癒されたことを願うばかりです。
二〇〇四年、東鍼校二年生の時に初めてお会いしてからずっと、先生は「最初の十年間は半人前。どんなに貧乏してもいい、黙って勉強して経験を積め」と仰っていました。この一年間、先生からはただ一度も治療を頼まれたことはなく、治療の内容についても、話し合うことはありませんでした。四月、胸水を抜くドレーンをつけたままの外泊許可が降りて、往診を再開することになり、前日の夜、先生の最期にふさわしい鍼灸について考え、最初のひと鍼を労宮に一センチばかり刺入した時も、眉ひとつ動かさず、黙ったまま天井を見ておられました。私の心を支えていたのは、ある時一度だけ突き刺すような口調で言われた、「自分の物でもない患者の身体を術者の思い通りにしようとするな」という言葉でした。最後の一年間の私の一挙手一投足が、先生の目に適うものだったのか、尋ねることはできなくなってしまいました。けれども、先生に課された十年という時間が終わる時が来たのは、確かなことです。
先生、ありがとうございました。 - 金古英毅先生を偲んで:山口秀敏
-
話し方は明るく、鍼灸への想いは熱く、「鍉鍼は太さや先端の形状で気の流れが~云々」等と語りだせば止めどなく、声も大きくなっていく。それが先ず浮かぶ、金古先生の面影です。
懐古すれば大型中中辞典『漢語大詞典』(全12巻、上海辞書出版社'94)が出始めた頃、先生が希望数を纏めて一括購入して下さったので、新しい巻が届くと受け取りにお伺いしたのですが、ちょっと茶飲み話の積もりがつい長居してしまう事が屡々。世話好きで、後進と話す事がお好きでした。
美食家でもあり、内経医学会での御講義のあとに、「良い魚が手に入ったので食べに来なさい」とのお言葉に甘え、宮川先生、岩井先生、嵯峨さん、吉田さん達と共に浦和の御宅で刺身と酒を御馳走になり、新鮮な鰯を先生が自らたたいて酢飯にまぶした「我が家のイワシメシ」と頂いた事もありました。
美味しい物を楽しむのは、能く「○○を食べる会」と称して島田先生、八木先生とも集まっていた様で、「新蕎麦だ!」何だ!と言って八木先生も待ち遠しい様子でいたのを覚えております。
最近印象に残ったのは、漢方医学研究所主催「伝統鍼灸学講座」(平成24年1月29日、シーサイドホテル芝弥生)にて金古先生も「『医心方』に見る諸書の背兪」を発表された日の事です。同講座の「『診家枢要』の諸版本について」で、「岡部素道が推奨した『診家枢要』は書誌学的に劣悪な版本で経絡治療の脈診学には再考の余地がある」と纏めた浦山久嗣氏の発表に対して、金古先生は「岡部素道は北京で見学した置鍼法を『診家枢要』と共に経絡治療に持ち込んだ。それまでは全て捻鍼法だった」と会場から発言されました。
私は、経絡治療の置鍼に関連する論争を『経絡治療』誌上で過去に経験しましたので気になり、休憩時に廊下にて聞き直した時には、小さな勉強会で福島弘道が「そんな事をして良いのか!」と身を震わせて怒り岡部に噛み付いた噂も聞いた、との事でした。また、六部定位脈診の根拠が『診家枢要』にあるとはとても思えない事を質すと、「その通りで誰かがその様に読み換えたとしか考え様がない」と明言されました。
その言に、義を見て為すべき事をする時の恩師とも重なる姿勢を私は感じました。かつて八木先生は「学会は純粋に学術的で在るべきだ!」と公言し、勇を示すべき時には直截だった事への畏敬は忘れられません。
金古先生は丸山昌朗先生、藤木俊郎先生、豊田白詩先生、島田隆司先生の系譜に列なり、八木素萌先生とも深交して昭和鍼灸の学術継承に尽力された方で、この生き証人の情報をもっと聞き出して収集記録して置くべきだったのですが、時を無為に過ごしてしまいました。
後から知ったのですが闘病中、先生は鍼灸を受けている嵯峨野さんより森立之研究会にて岩井先生や私と共に学んでいる事を聞かされて、「山口君の案内で長野の温泉巡りに行きたいなー」と言って下さっていたそうです。
金古先生、安らかにお休み下さい。これからは温泉には面影を忘れずに入らせて頂きます。