井上雅文先生 - 追悼文 -
『季刊内經』二〇〇七年冬号
井上雅文先生追悼特集
五十音順
井上雅文先生追悼特集
五十音順
- 個人的な先生との思い出:加藤二郎
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井上先生から鍼灸は勿論であるが、むしろ人生全般にわたって多くのことを教わってきたことが、僕の鍼灸師としての生き方に大きく係わっている。先生の鍼灸や人生に対する妥協のない厳しさと、人に対しての優しさが、最も強く印象に残っているので、今日は先生の偉大な業績である脉状診の研究には触れず、井上先生との個人的な思い出を書こうと思う。多少失礼なところがあっても先生は笑って許して下さるでしょう。
二十数年前も前のこと「加藤さんはもっともっと優しい鍼灸師になりなさい。それが加藤さんに一番似合う生き方です」と言われたことがある。その頃、自分でもそうなりたいと思っていたので、この言葉を率直に受け容れた。それ以降、自分はどこまで優しくなれるだろうか、本当の優しさはどういうことなのだろうかを追求することが僕のテーマの一つになっている。
約二十五年間、先生のそばに置いて頂き、井上先生の厳しさも優しさも理解しているつもりではいたが、時に意地が悪いのではないかと思うこともあった。先生の生き方が好きだったので厳しさには耐えることはできるが、意地悪さに対しては先生といえども腹が立って、何度か先生から離れようとしたことがある。僕の未熟さ故でもある。「加藤さん何してるの、出て来なさい」と、先生は僕を引き止めて下さった。長期にわたりお世話になれたことが不思議に思えるくらいである。
数年前、酒を飲みながら今まで話せなかった不満を先生に話したら先生は目を潤ませて「僕、気が付かなかった」と言われ、すまなかったという表情をされた。後で、言わなければよかったと反省もしたが、あの時、話して良かったと思う。先生へのわだかまりは、僕のこころの中から消えたのだから…。
今年の八月四日、五日で、僕の妻の治療をする為に「米子に行く」と先生から連絡を頂いた。こちらから上京しますので宜しくお願い致しますと、お断わりしたら、先生はおしかりになった。しかし、その言葉の中に先生の優しさを感じ妻と二人でこころから感謝した。後日、瀬川先生の話で、その時点で既に先生は、微熱が続いており体調が良くなかったそうであった。
九月下旬「井上先生の具合が悪い」と天満先生から連絡があり、早速、お見舞いに上京した。既に歩行も難しく、発声も弱々しく集中しなければ言葉を聞きとれないくらい衰弱しておられたが、先生は喜んで下さった。「先生、お元気になって米子に遊びに来て下さい。一緒に隠岐島に行きましょう」と言ったら、先生は「僕、行くからね。絶対行くから」と力を込めて言われた。
お別れの際「鍼灸は難しいね。加藤さんは元気で頑張ってね」と優しく言われたが、その言葉の中に一抹の寂しさを感じた。それが先生と僕との最後の会話になってしまった。
東京で先生のそばに居る時はわからなかったが、僕が山陰に帰ってからは、井上先生はよき師であり、よき先輩であり、よき親友であり、又、父親であるかのように僕を見守り、心配していて下さったように感ずる。最後の最後まで人間としての優しさを教えて頂き、先生への感謝の思いは忘れることはない。もう、先生とお会いすることができず寂しい限りであるが、こころで井上先生とご相談しながら、鍼灸人生を歩んでいこうと思っている。
- 井上先生への思い:小林健二
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先生の名前を初めて耳にしたのは鍼灸学校三年生の鍼実技の授業でした。実技の先生は古典派の鍼灸の先生で、井上恵理氏を尊敬し、治療院にその写真を飾ってある先生でした。
授業の「鼻の疾患」のところで「井上恵理先生は鼻疾患が得意で日にちを決めてその日までに治す。またご子息の雅文先生は神経痛なども得意」と話されました。「井上恵理、井上雅文」という名前を、ある意味で「あこがれ」「憧憬」にも似た気持ちを持ち始めたはじまりでした。それは私が、当時尊敬していた実技の先生が、井上恵理氏を尊敬している、そしてご子息が井上雅文氏であるという単純な構図でありました。
はたしてどんな人なのか、それからというもの古典系の鍼灸というものに興味がわき、柳谷素霊、本間祥白……と本や雑誌を買い集め、名前だけで見たことのない〝井上〟というイメージをふくらませていた時代でした。
直接、本人の姿を拝見したのは、昭和五十七年の日本経絡学会学術大会で「『類経』張注の研究」の話をされた時がはじめてでした。大変難しい話で何もわかりませんでした。ただ先生が発表された時、会場から他の会員の発表時より、多くの拍手があり、それを恥ずかしそうにしていた姿を憶えています。
鍼灸の臨床経験のないまま、卒業後、帯津病院の鍼灸治療室を任され、日々勉強と実践のなかで、貧弱ながら自己流鍼灸治療スタイルをつくりあげながら、何とか真に実力ある鍼灸へと脱皮したい気持ちがあり、悶々とした日々を過ごしていました。ちょうどその時に「原塾」のパンフレットを友人・小泉稔氏に見せられ、そこに「霊枢講座・井上雅文」とあるのを見て、入学を決意。気持ちを一新し、これから学生時代の「井上雅文」というまだ見ぬ「あこがれ」の人に会えるのか、という気持ちでわくわくした気持ちになりました。ところが講座申し込みの時に友人と協議の結果、小泉氏が「霊枢講座」、小生は「素問講座」受講という結果。当時は二年で一講座終了という予定でしたので、その後に受講すればいいと思い、夢を先延ばししました。
昭和五十九年四月、原宿での開校式で、はじめて、間近に姿を見たときは、特に印象的でした。会場前列の講師陣がテーブルに並び、そこにいた井上先生は、一見おとなしそうでいながら、内に鍼灸に対する確固たる自信と信念を秘めた面持ち、それでいてユーモアがありそうな、他の講師陣とは違う何かがある、そんな印象でした。挨拶の中で「かねおくれたのむ」という話が今も思い出されます。「金おくれ!たのむ」「金遅れた、飲む」の話です。古典は句読ひとつでいかようにも読めるし、解釈される。いきなりの井上先生の話は、新鮮でした。
その後、原塾の三年目で「霊枢講座」を受講できると思っていたところ、急に講座は今回募集しないということになり、また受講の機会を失しました。以後、いろいろな会合、学会、講演会で何度かお会いすることはあっても、直接に講義を聴く機会もなく、話をすることもない時間が過ぎていきました。
この会えそうで会えない関係というのは結果として井上先生がお亡くなりになる最後まで続いていきました。
伝統鍼灸学会の会合、内経の合宿などで、その後井上先生と顔を会わす機会は何度もありましたが、必ず誰かの傍らで井上先生の話しを私は傍聴するというスタイルでありました。対面でじっくり話をすることはありませんでした。
もっぱら井上先生の学会誌や業界雑誌の原稿、座談会の発言を見ることが、すべてでありました。その書かれた一字一句、一言一言の視点に、ハッと驚かされることが多々ありました。古典鍼灸の深淵なところ、すばらしさを自得した人ならではの言葉の数々。今となっては、淡き初恋の人と恋愛を成就できなかったような寂しい心持ちが残っています。
ただ一目会いて言いたき一言の心残りを今も残しつ(和田正系の歌より)
- 黎明期の終わり:左合昌美
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井上先生に逝かれて、日暮れて道遠しの想いがつのる。
島田先生のときには、まだ井上先生がいるというのが一つの救いだったようだ。今、両師に逝かれて、つくづくと一つの時代の終わりを感じる。「自分たちの時代は終わってしまったのかも知れない」などと口走って、たしなめられたけれど、なかなか「いよいよ、自分たちの時代です」などとは思えない。なんだか気力が萎えている。
井上先生との最初の出会いは、多分、東方会の新人講習会だったろう。それも遠いこととて記憶が曖昧になっている。たしか島田先生が『素問』の、井上先生が『霊枢』の説明をなさったはずである。ところが記憶している内容は、井上先生が本を読むには先ず本を選ぶ必要が有るからと、顧従徳本『素問』の紹介をして、「うちに帰って、持っている『素問』が顧従徳本じゃなかったら、捨てなさい」と。そして一呼吸おいて「別に捨てなくても良いですけどね」とニヤリ。これは強烈でしたね。
で、東鍼三年の時の漢方概論の講師が島田先生だった縁で、島田先生を塾長にすえた原塾の企画にも参加させてもらいました。そのときの『素問』の講師は島田先生。で、『霊枢』の講師には井上先生を、と企んだのだけれど、案の定お断りのハガキが届きました。当時も井上先生は古典研以外の場には出ない、余程の義理のあるところでなければ講演もしない、という評判でしたからね。そこで、このハガキは届かなかったことにしようと談合して、相変わらず準備会の案内は出し続けることに。そのうち、観念なさったのか、気が変わったのか、準備会に出てきてもらえるようになった。確か、自分の講座の企画書を持ってきていただいたのは、井上先生だけだったように記憶している。
原塾の『霊枢』講座は、井上先生の企画にのっとって、一年目の半年は医古文、残りの一年半で『霊枢』中の重要なところを十篇くらい読もうという計画で始まった。最初の受講生は多かったんですよ、部屋は満杯、机が足りない、せめて倚子を補充というくらいに。それが夏休み前には半減していたのではなかろうか。あとから聞いたんだけど、先生も内心は気にしていたらしい。
そもそも講座の始まった当時から、終わると私や宮川さん東海林さんあたりを引き連れて飲みにいっていた。あるとき、そのときは喫茶店だったような気もするけれど、先生がトイレに立たれた際に、参考書のたぐいを入れて持ち歩いていた紙袋から、『医古文基礎』がのぞいてました。ああ、これが先生のタネ本なんだ、とね。先生だって当時格別に医古文の知識が有ったわけじゃない。勉強しながら講義していたわけである。私たちはタチが悪いですからね、早速中国系書店でひそかに購入して、先に読んでいって質問する。じきにタネ本がバレていることがバレて、講座の後の酒席は次回の講座の予行演習の様相を呈してくる。うければそのまま講義する。うけが悪いと別になにか考える。先生は大変だったでしょうが、私たちは楽しかった。これがやりたくて中国医学なんぞという世界に足を突っ込んだんだ、なんてね。
夏休みがあけて、このまま受講生が減り続けたらどうなることかと思ったけれど、それからはあまり減らない。島田先生の『素問』講座は徐々に減る。井上先生の『霊枢』講座はいきなり半減してあとは減らない。結局、どういう講座にしても同じなんですね。それで自信がついたのか、結局一年目は医古文で終わって、二年目は如何になんでもと『霊枢』を読み始めたのだけれど、読み終えたのは九針十二原篇だけ。でも、当時としては相当に突っ込んだ読み方をしていたと思う。例えば、補瀉の技法、徐刺速抜と速刺徐抜は、『素問』針解篇の「ゆっくり針を出してすばやく針痕を閉じる」のと「すばやく針を出してゆっくり針痕を閉じる」よりも、やっぱり『霊枢』小針解篇の「ゆっくり刺してはやく抜く」のと「はやく刺してゆっくり抜く」を取る。篇末には、熱に対しては熱湯を探るが如く、寒に対してはためらって進みたがらない人のようにと言っている。これはどうしたって「はやく刺してはやく抜く」と「ゆっくり刺してゆっくり抜く」であり、速刺速抜と除刺除抜である。これらと、徐刺速抜、速刺徐抜と合わせれば四法がそろう。それに、『霊枢』の小針解篇と『素問』の針解篇では、どちらがより古くからの解釈なのか。そもそも小針解というのはどういう意味なのか。「小さい針」の解であるか、それとも小さい「針の解」であるか。おそらくは小さい「針の解」だろう。新しく解釈を施した人が、前からある解釈を「小さい」と貶めた可能性のほうが高い。そうした話がぼんぼん出てくるわけですから、それはおもしろいですよ。実際の臨床との関わりについても、そもそも井上先生自身は、補瀉は開闔の補瀉しかしないと公言なさっていたけれど、九針十二原篇を解釈している段階では、徐刺速抜と速刺徐抜を試みておられたはずです。そして、ついには講習会で重要な治療の原則として、焼山火と透天涼を教えるところまで行った。
当時、私は島田先生の治療室に出入りしてましたから、臨床の合間にそうした話をベラベラやって、これも後から聞いた話だけれど、島田先生をかなり悩ませていたらしい。島田先生だって当時は医古文のことなんてご存じなかった。講義の後の酒が入っての、私や宮川さんや東海林さんの侃々諤々を、井上先生から「隔世の感がある」と言われましたからね。つまり、この頃までは古典針灸界の大立て者と目される先生たちも知らなかったようなことを、(かなり薹は立っているけれど)青二才が酒の肴にしている。
天津や上海へも何度かご一緒している。原塾が四年で発展的解消をとげた後、私はしばらく上海で遊んでいたけれど、そのとき少し話をした縁で、上海の段逸山先生からお誘いが有って、上海へも井上先生に無理を言って参加してもらった。今にして思えば、よくまあつきあってもらえたと思う。井上先生には、躁鬱的傾向が有ると人から聞きました。そうすると私たちは、その躁的な時期に運良くめぐりあったということらしい。
井上先生のもう一つの面は、言わずと知れた臨床家、人迎気口診を復活させ実用化した人である。ただ、私にとって人迎気口診は魔物で、魅力的には違いないけれど、手に負えないとも思う。さらにときに、所詮は五行説的なこじつけじゃないかと悪態をつきたくなる。それで、実は古典研には出たり入ったりを繰り返している。そんな我が儘を許してもらったのは、私くらいのものじゃなかろうか。島田先生には思いっきり言いたい放題だったけれど、井上先生には若干遠慮するところも有る、などと言ってました。どうしてどうして、実際のところ井上先生にも随分と寛大に接してもらっていたことになる。
私ごとながら、私には迷信拒否症的なところが有る。テレビのモーニングショーの占いコーナー、「今日の幸運な貴方は、○○座の貴方」なんてのをうっかり耳にしてしまうと、その日いちにち気分が悪いというくらいに。だから陰陽五行説的な針灸にも抵抗感は有る。古典的な針灸を目指しながら、この感覚は結構苦しい。そこに井上先生への期待が有った。原塾の初めの頃の酒席で、経絡治療(あるいはそもそも針灸医学)はフィクションかノンフィクションかと話題になって、その時はよく分からなかったんだと思うけれど、記憶していたんだから、気にはなっていたんだろうが、しばらくして「虚構としての蔵府経絡説、方便としての陰陽五行説」と思い至って、確かめたら、当然フィクション派でした。だから「五行の色体表が無かったら、治療はできない」という発言の真意も、よく考えなければならない。原塾以後の内経医学会草創の頃、『脈状診の研究』を陰陽五行説をなるべく使わずに解析するという試みをして、『外経』という個人誌に書いていた。勿論、井上先生にも進呈していた。私のイチャモンめいた疑問にはすべて明快に答えられると、笑って言われた。遺憾ながら、実際には答えてもらえなかった。ここらへんが、井上先生の困ったところ。
強力なマニュアルが存在する会派では、古典を標榜していても、現実には古典を読むことを勧めてないことが多い。会員も大抵それに甘んじている。古典なんか読んだって、がっちりしたマニュアルは変えようがない。だったら、読んでも仕方がない。古典研のマニュアルもがっちりしている。ところが、井上先生は自分でそれを破壊にかかる。そこに古典を読む理由が存在する。『脈状診の研究』が出版された直後には、あまりにも細部まで決めごとが多すぎるという批判も有ったらしい。でも、井上先生は「そこが良いところ」と平然としていた。初心者が臨床を見学させてもらって、「本と違いますね」と言ったのに対して、曰く、「俺は良いんだ!」と。基準を定めた上での融通無碍である。
変えられるという背景には、理論はフィクションであるという立場がある。興味のありかも寒湿、風熱、傷寒と移ってきて、いまや膨張してパンクする恐れがあるのか、停滞して凝固してしまう恐れがあるのか、というところまで行き着きそうな勢いがある。井上式脈状診はもともとは極めて比較脈診的なものだったけれど、現状は出版当時よりは左右差への関心がうすれているのではないかと思う。こちらもそのうち全き脈状診にたどりつくかも知れない。昨今の古典研の月例会は、かの『脈状診の研究』からはかなり変化してきている。今、師匠を失って、でも実は、「俺は良いんだ!」と言い得る高足が少なくとも数人はいそうである。今後も期待はできるだろう。
島田先生が亡くなって、井上先生も亡くなって、今、黎明期の終焉に際して、私は一体、何をしようとしているのだろうか、何ができるのだろうか。陰陽五行説を蹴っ飛ばしても、宗教や精神修養あるいはさらに伝統文化的教養なんぞは無視しても、「古典的な立場に居る」ということは可能である、とまでは考え至った。でも、そこから先に道はどのように開けているのだろう。『霊枢』は一応読めたと思っている。そろそろ『素問』にも取りかかろうかと思う。けれども、黎明と言おうよりはむしろ、茫洋として朦朧として、日暮れて道遠しの感がある。
- 井上雅文先生の想い出─先生を偲んで─:天満博
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井上雅文先生を失い、私の礎が無く成りました。
人生の生き様、死にざまを、目の当たりに見せられ、私の人生観も大きく変わりました。
雅文先生の教え、鍼灸家としての日常、患者とどう接するか。現代医学の矛盾と対抗して、鍼灸で治せる病気の多さを知り、(現代医学では治せない)鍼灸で身を立て、業を成す事の意味と意義を教えられ、師自身その事を実践して来られました。
死を前に、身を持って、私達数人の弟子達に教え与えた姿勢には心から感謝するもので有ります。
内熱、傷寒、脳溢血、脳梗塞、脳軟化症、目眩、顔面麻痺、突発性難聴、リウマチ、アトピー、ヘルペス等々を始め多くの病を治す定義を、脉状診(人迎気口診)を元に、実践を通じ確立した事は世界の医学界にとって驚嘆にあたいする事です。
「誰だ電気を消したのは!」「点けろ」、誰かの機転で二時間も続いた座布団一人合戦(井上雅文先生が一人で座布団を投げつづけた)は終了した。左合さん以下、何人もの頭上を襲った座布団の弾丸は収まった。「電気をつけろ!」「電気をつけなさい!」「天満さん電気つけてヨ!」と雅文先生は言ったけど、誰もが黙って息をころし、静かに布団に入った。雅文先生も仕方なく、「皆、冷たいねえ~」とぼやきながら寝息をたて始めた。
内経医学会の合宿、静岡県の民宿「琴ヶ浜」での夜のことである。以後、この民宿(島田隆司先生の患者さんの民宿)は出入り差し止めに成った。あまりの騒ぎだったから、当然の事であるが。その騒ぎの中、一番奥の部屋には石田秀実先生が寝ていて、その隣に島田先生が寝ていたのだが、二人とも夜の座布団合戦の事は知らなかった(知らないふりだったのかもしれないが)。
座布団一人合戦の事の始まりは、誰かが戦争と平和の話を始め、当時の大人は何故もっと戦争反対を訴えて戦争を阻止できなかったのか、当時の人々がしっかりしていないから戦争が起ったのだなどいい、それに対して雅文先生が、当時の軍政下で誰がそんな事を言えるものか、お前たちは現実をしらない、と、そこから座布団一人合戦が始まったのである。雅文先生は両手で座布団を振り上げ、左合さんや嵯峨さんに、次から次ぎへ、出てくる輩の頭へ力いっぱいの座布団弾丸を炸裂させたのである。避ける人は誰もいず、むしろ、そうされたい様にさえ感じた。二時間位もの間、雅文先生は両手に振り上げた座布団を力いっぱい振り下ろすのだから、よほどの腕力と背筋があったのだろうと、今更ながら感心する。あのときの先生の心境には、何かあったのだろうが、私の知るところではない。
次の日、「先生、昨夜は大奮闘でしたネ」と言うと、テレ笑いをしていたのが又印象的だった。雅文先生の想い出はたくさんあるが、内経医学会の琴ヶ浜での合宿は、すごくインパクトのある想い出である。
井上雅文先生と出会うきっかけはなかなか無かったが、何故かというと、私と雅文先生が出会えば戦いが始まるだろうという事だったらしい。二人共、場を仕切るタイプだからとか、特に島田隆司先生は真剣にそう思っていたらしく、左合さんをはじめ、宮川さん等にも、二人をできるだけ会わせない様にして、お互いごく冷静な機会に会わせた方が良いというような作戦も有ったようだ。
雅文先生に初めて出会えたのは、やはり内経医学会の箱根の合宿である。先生の長女の阿希ちゃん(三~四歳)を連れて来られ、私も二人の男の子を連れて行ったので、子供同士が仲良しに成り、先生とも自然とつき合えたようだ。その時の、阿希ちゃんは幼いながらすごく弁が立ち、大人の私たちを仕切って独り舞台だったことを今もよく覚えている。私はこの子が将来の雅文先生の後を継ぐのだろうと期待していた。残念ながら今のところ、まだ継いではいない。
私も雅文先生も大食漢で、大酒飲み。原塾の帰りの「明の花」での飲み会では、私と雅文先生がいると(私は後からの参加だったから特に)、「天満さんが入ると会費が千円以上高く成るからもう少し注文を少なくしてヨ!」と高橋葉子さんや津曲さんによく言われたが、当の本人達も負けじと飲み食いしているのだから、「お前たちも食べてるじゃん」というと、「そうだけれど天満さんが来ると取られそうで慌ててたべちゃうのよ」と、想い出はつきない。
名人といわれた井上恵理先生の息子として生まれ育った雅文先生は、父親の鍼灸術を見ながら、多くの影響を受けている。雅文先生は、ある会の講演を頼まれ、終わったあと「名人は二代続かないといいますが、先生はどう思われますか」と質問され(イヤなことを質問をする奴がいるもんだネ)、「井上恵理一代、井上雅文一代」と応えたとの話は感動した。
親が有名で名人なら、後を継ぐ子供は、親の名を借りて、あまり学ばず、旧体制を維持し、患者さんを診ていけば、それなりに何とかなるようだが(多少の減少はあるにせよ)、雅文先生は旧体制を守るより、自ら精力的に古典を学び、学と術の両面に秀で、『脈状診の研究』の著を書き上げた。脈状に対する情熱は亡くなる直前まで、私たちに脈を診せてくれた事でも、察せられる。また『素問紹識』の研究に尽力をつくされてもいる。雅文先生のような鍼灸の大家は、この先、一世紀、二世紀は現れない気がする。
私は鍼灸の道に進み、雅文先生と出会えたことを神に感謝する。雅文先生は、天国で私たちを見守っていてくれるだろう。
- いつも周りに誰かがいた:林孝信
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一九九一年の春、内経医学会の毎月の日曜講座に出席しはじめたころ、左合さんから声をかけられた。「内経医学会に入会するのだったら、週に一回島田先生と井上先生の治療院で勉強会を開いているので、どちらかに参加しなさい」と。
たしか水曜日の夜だったと記憶するが、見学するため西池袋のビルにある井上先生の治療院にお邪魔した。待合室に五~六人ぐらいが集まり、津曲さんを中心として『素問紹識』を読みはじめて、しばらくすると仕事を終えた井上先生が席に着かれた。どういう勉強をしていたのか内容はあまり覚えていないが、以前は字数を数えるなどの地道でたいへんな作業をすることもあったことを聞かされた。勉強を終えると、いつのまにか小さなテーブルの上にはビールの注がれたグラスが並んでいた。井上先生は、古典について話される時は気難しい顔で、ビールを飲む時はニコニコしながら軽口を挟まれていたことが印象的だった。
翌年の真鶴での夏合宿では、夜を徹しての豪快な飲みっぷりに圧倒されてしまい私は早々に床に就いてしまったが、今でも語り草となっている厨房の冷蔵庫のビールを飲み干したことや枕(座布団?)投げ合戦を指導したのは、どうも井上先生だったらしい。
井上先生が独りでおられた姿を想いだせない。先生の周りにはいつも誰かがいた。多くの人を惹き付けて慕われていた先生。古典に向き合うときの真摯な表情と、人に対しては親しみのあるにこやかな顔が、私の目に焼きついている。
- 知性のダンディズム:松田博公(鍼灸ジャーナリスト古典鍼灸研究会会員)
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井上雅文先生は、鍼灸界きっての知性のひとであった。昭和鍼灸の名人と謳われた父、井上恵理氏の密かな計らいで幼児期からお手玉、おはじきで手指を鍛え、父とその元に集う経絡治療の領袖たちの臨床を間近に見て育った先生は、そのまま素直に成人したなら二代目名人の職人的わざ師として名を馳せたことだろう。だが、いかなる運命の狡知からか、恐らく青春の懊悩のうちに、先生はキリスト教神学やキェルケゴール哲学に傾倒し、ふたたび鍼灸界に戻ったときには、その知性はいやが上にも鋭く磨かれていた。
わたしたちは、先生の精神がつくりだした井上鍼灸学の宇宙に魅了されてきた。天才的なひらめきによる幾何学思考で復活させた人迎気口診の現代的システム、原塾における日本初の中国医古文学に基づく霊枢講義および島田隆司先生との内経医学会の設立、多紀元堅著『素問紹識』をはじめとする日中原典の文献研究、『中国医学思想史』の著者で思想家の石田秀実先生との交流、英語による脈状診ホームページの開設…。これが、二度と現れることはないだろう、鍼灸界の全体を見渡せる視野を持ち、鍼灸を思想として語れる臨床家であり最高の知識人であったひとの七十年の軌跡の一端である。
一九八九年から、池袋の治療所で行われていた水曜会にまぎれこみ、先生の指示で、深夜まで『素問紹識』の経文や双行注の字数を数えるのに飽きて、いつ逃げだそうかと考えていたわたしも、あるときから先生の呪文の虜となった。そのころ、中野区で行われていた脈学会の講習後の宴席で、隣に座られた先生はこう言われたのである。「松田さん、ぼくは自分にカルチャーショックを与えてくれるひとが好きなんですよ」先生との十八年に及ぶ断続的なお付き合いは、臨床家の枠を超えた知性のダンディズムを感じさせるこの言葉に捕まったことから始まったといっていい。
知性のひとは、世間におもねらず自己の基準にのみ従う自由なひとであった。たしか一九九四年だったか、奥様が亡くなられたときの先生の振る舞いを忘れることができない。葬儀は清瀬の小さなチャペルで行われた。少し時間より遅れて入場し、参列者の前に立った先生は、左右の手で二人の子どもたちの手を握りしめながら、「これからも残されたわたしたちを見守ってください」と挨拶された。ノーネクタイで、よれよれになった普段着の白いワイシャツから、何日も徹夜で看病されたであろうことがうかがえた。
先生は葬儀には喪服を着なければならないというような、世俗の価値観とは無縁だった。感情に忠実で、ただ悲しみに染まったままの純粋な個人がそこにいた。それが、井上雅文というひとのわたしにとっての原型である。以後、学会や古典研の運営など、儀礼や義務が押しつけられる場面で、振り切るように立ち現れる先生の原型を幾度もわたしは見る。
自由なひとは、人間の孤独さを知り、他者の気持ちにも敏感で、優しかった。二〇〇三年にわたしが古典研内でスキャンダルを引き起こし、進退窮まった時のことである。先生はそれ以前から、「鍼灸は滅びる」と語るようになっていた。鍼灸が世界大に広まり、西洋医学と接触するのと比例して起きている古典鍼灸の危機と伝統鍼灸界の無能さが、いち早く先生の意識に写っていた。二〇〇〇年に同志、島田先生が逝ったことも影響していただろう。先生の思考は内向きになり、従来からの引退への願望が募っておられたのだと思う。例会や合宿への関わりが消極的に見え、わたしは不満だった。身勝手なもので、例会に欠席しがちなわたしだからこそ、たまにお会いする先生には、溌剌としていてほしかったのである。
わたしは、恋人に対する愚痴を漏らすように、先生への批評を親しい某会員に私信として綴った。それが、一瞬のミスで、古典研のメーリングリストに乗り、先生を含む全会員に配布されたのである。先生は動じず、「このことで一番傷ついているのは松田さんだ。会を辞めるようなことにはならないでほしい」とおっしゃったそうである。金曜会にお詫びに参上したとき、「自分が陰でなんて言われているかよく分かりましたよ。(メールに書かれているように)自閉症だったことはないけれど、(優柔不断だという)松田さんの感想は当たってますよ」とお得意の軽口を言われた。そして、そのあと、会員の天満博さんの仲立ちで治療所があるビルの地下のバーに降りたとき、いつになく強い口調でわたしを励まされたのである。
「日本の古典研究は、臨床と結びついていない。それをやってください。古典研の鍼灸だけが優れているわけではない。何某にも何某にも、いいところはある。それらさまざまな鍼を見て歩いて、古典鍼灸総体の素晴らしさを、世に知らせるのが、松田さんの仕事ですよ」
二〇〇五年五月、病後をおして主宰を引き受けてくださったわたしの鍼灸界ルポ集『鍼灸の挑戦』の出版記念会でも、先生は次のような祝辞を述べてくださった。「全国をまわり、何十人もの鍼灸師に会う旅を続けた松田さんは、どれだけ孤独だったかと思うのです」しばらくぶりに例会に顏を出したわたしに、「来るか来ないかは、友情の問題ですよ」とおっしゃったことのある先生の、これがわたしに対する友情の示し方だったのだと思う。先生が亡くなる六日前、天満さんの配慮で中野区野方のホスピスを訪ねることができた。痩せた体をベッドから起こし、椅子に移った先生は、部屋にいた嵯峨康則さん、天満さんも誘ってビールで乾杯をした後、端座してわたしを見つめ、「八月に酒をやめたら、食事ができなくなった。そこで死に方を考えた。自分はずっと鍼灸をしてきたのだから、西洋医学に頼らずに、鍼灸だけで死のうと思った」とおっしゃった。細くかすかな声だった。最期まで古典鍼灸への愛を、生き方として貫こうとした誇り高い先生がそこにいた。
古典研は、もともと素人を手取り足取りして養成する会ではなかった。先生の理想は、すでに一定の技量と思想を備えた鍼灸家が結集し議論し合う梁山泊のような集団だっただろう。だから、医古文基礎や原典講読も、経脈論、経穴論、医学史も、刺鍼技術の伝授も、入門者向けの親切な形で調っていたとはいえない。その欠如を補ってあまりあるのが、それらを一身に人格として体現した先生の存在であった。しかし、先生にとって古典研会長の役割を演じ続けることは、喜びでありながらもどれほどか負担だったことだろう。まさに、「人在江湖、身不由己(ひと江湖に在りては、身おのれによらず)」の思いを、噛みしめられていたに違いない。
そうした負担のすべてから解放され、先生はいま、「ぼくのように、いや、ぼくよりも自由に生きなさいよ」と言っている気がする。
- 医古文の父:宮川浩也
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井上先生に初めてお目にかかったのは、原塾の打ち合わせに島田治療院においでになった、昭和五八年の冬。その時、井上先生四六歳、島田先生五一歳、僕は二七歳。打ち合わせが終わり、池袋西口の居酒屋に移動し、井上先生にお誘いいただいて同席したが、『脈状診の研究』で名が高くて雲の上の人が目の前にいて、それで舞い上がってしまって、結局、両先生の話の内容は何も覚えていない。僕は、島田先生の弟子ということもあって、井上先生は「向こう側に居る雲の上の人」という印象が強くて、なかなか懐に飛び込むことはできなかった。それは今でも変わっていない。ゆえに、井上先生と近しく話ができたような記憶がない。
原塾が始まって、毎週講義をうけ、授業が終わって居酒屋で親しく教えを受けたけれども、やはり「向こう側にいる雲の上の人」であったし、島田先生を離れるわけには行かないという自制がはたらいて、いつも井上先生の前では他人行儀だったと思う。天満さんからは、井上先生が待ってるよと何度も促されたが、ついぞ近づくことができず、一定の距離を保ってしまった。
このようなわけで、比較的近くに居たわりには、井上先生のことは余りよく知らない。
もっとも印象的だったのは、井上先生が原塾に持ち込んだ『医古文的基礎』(人民衛生出版社)で、中国語で書かれた古典の読み方の本である。前年に島田先生のところで中医書を読むための勉強会が開かれていたので、中国語には少し慣れていたけど、本物の中国本だったので特に印象に深い。完読せねばならないと思っていて、長い間、この本は僕の課題になっていた。本書を翻訳して『医古文の基礎』が出版したのは(東洋学術出版社)、僕なりの執念である。これを卒業しないと次のステップにあがれないと思っていた。十九年もかかってしまった。この出版を井上先生はどう思ったか、少しは気になったが、うかがうことはなかった。
井上先生は、脈状診の大家として聞こえているが、ぼくにとっては医古文の父である。『医古文的基礎』が果たした役割は、旧弊の打破である。今までの古典の読み方の殻をやぶる、最先端の古典の読み方が示されていた(中身は清朝の流れであるから新しいものではないが)。現実的には、医古文という学問だけでは古典は読めないのだが、ワンランクアップさせるという意味では画期的な学問である。そのところに最初に気がついたという意味では慧眼と言うほかない。井上先生のその時から、日本での古典の読み方がガラッと変わったのであるから、投じた一石の大きさは計り知れない。
井上先生は四三歳で『脈状診の研究』を書きあげ、常人ならその地点で満足してしまうところだが、次なる課題を見つけ出して歩み始めたところに、井上先生の学究さを見いだすことができる。今、僕は、その井上先生の年齢を超えているが、同じようなことができないで、今までの延長線上にいるだけで、急転回するようなことを何も見いだしてはいない。亡くなって気がついたが、仰げばいよいよ高く、鑽ればいよいよ堅し。僕にとっても偉大な人だった。
「向こう側にいる雲の上の人」が、本当に向こうにいってしまった。三年の喪とはよく言ったもので、しばらくはこの沈重なる気持ちは霽れないだろう。
- 清濁併せ呑むか否か:望月義弘
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今からふた昔も前のことになるが、私は鍼灸学校を卒業した後、三年次に漢方概論を教えて貰った島田(隆司)先生の池袋の治療院での勉強会に参加させて頂いた。そこで井上先生の話は時折耳にしていたが、初めて井上先生にお目に掛かったのは、或る年の年末の浅草橋あたりであったと思われる。両先生の勉強会の何かの合同の飲み会の末席に参加した時であった。隅の方で聴いていたその時の井上先生が批判的に発した言葉の一つに、「【清濁併せ呑む】ということは限りなく濁の方に近づいていくことだ」というのがあったのを今でも強烈な印象として覚えている。これは井上雅文という初めてお目に掛かる先生の学術や鍼灸界に対するスタンスであり矜恃の表れであるとその時思い、濁のど真ん中に当時どっぷり浸かっていた私としては、色白の先生の容貌と共に圧倒的に近寄りがたい潔癖さを感じた。この言葉はその後も濁にまみれ続けた私に、井上先生にはとても近寄れないという印象を与え続けたので、実際に井上先生に学び始めたのは随分と後になってからであった。即ち島田先生が亡くなった後、古典鍼灸研究会の第十六期の長期講習会に参加させて頂いてからであった。有り難いことに、まだ講習生で受講中の身分で、井上先生の(これもまた)池袋の治療院での勉強会に参加を許された。古典研入会後も私は自分なりのスタンスで自由に、時にはいろいろと物議を醸すような言動もしてきたが、先生は(加齢に伴う丸味が出てきた頃だったのであろうか)優しく見守るような姿勢で私を扱ってくれたように思われる。今私の自宅の治療院の隅に置いてある現代仏壇の中には、こちらを向いて微笑んでいる先生の近影が飾ってあるが、患者さん達の治療中にその写真に目を向けると、いろいろと話しかけて来て指導してくれるような印象を持つ。学術共に超一流であり、私がとりわけ重要視している治療家の資質としての三性(知性・感性・品性)を余すところ無く持ち合わせていた最後の鍼灸師がいなくなったようで残念至極に思われる。井上先生は一方でとても考えられない「若さ」を持っていて、所謂RPGの歴代のドラゴンクエストもご自分で最後までクリヤしていた。井上先生のことだから存命ならば、任天堂のDS版のドラクエⅨが今冬か来春にも発売されたら必ずやっていることだと思われる。終わりに敢えて言えば、先生は最後まで【清濁併せ呑まなかった】が、アルコールは少々飲み過ぎのかもしれない。私が『内経』誌で現在連載している「養生半分」(今回は休載)がそのまま皮肉になってしまったことが非常に遺憾である。微笑みかける先生の遺影に今後も応えながら更なる自分の学術の向上と養生の重要性を肝に銘じてこれからの日々を過ごしたいと思う。