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痛み1 | →概念 |
→痛風/リウマチ/筋痛・ヘルニア | |
→三叉神経痛/帯状疱疹痛/幻肢痛とCRPS/その他の神経障害性疼痛・中枢痛 | |
痛み2 | →頭痛/歯痛と治療/その他 |
鎮痛2│聖アントニウスの火 |
BC27C | Imhotep(P BC 2667〜2648, エジプト第3王朝の医神、古王国時代の賢者)は、最初のピラミッドである階段ピラミッドを作った事で知られる建築家だが、政治家でもあり、神官でもあり、医師でもあった。人身鳥首の神トートから医学を授かったとされる。200種の病気の診断と治療に関する教科書を著した。 Imhotep の医療場所と思われる遺跡からは、高度な治療を施された遺骨が発見されている。彼は患者の痛みを取り去ったという。 |
古代エジプト人は「死人の悪霊が神から送られて体の開口部、とくに鼻孔から体内に入ると痛みを生じる」と考えていた。← | |
BC18C | Code of Hammurapi, Code of Hammurabi ハンムラピ法典(世界最古の成文法、バビロン王朝遺跡から発掘された)にも医療行為の報酬、医療過誤の罰則などの規定が明記されている。バビロニア人は、「痛みを伴う病気はすべて罪の報いで、悪魔あるいは、魔神の呪い」と見なしていた。 →「pain」の語源 |
BC5C頃 | Democritus(デモクリトス P BC 460〜BC370、分子論をはじめて唱えた)は、体の孔や血管に元素の粒子が進入して、心が目覚めると感覚がおこると考え、粒子の大きさ、形、運動が感覚の性質を決めると考えた。「痛み」は鋭い鍵をもった粒子が体に進入して激しく動き、心の分子の静けさをかき乱したときに起こると説明した。 |
BC 520年頃 | Alcmaeon(クロトンのアルクマイオン、アルケメノン、ピタゴラス派の哲学者、解剖学者)は、脳を感覚を集めて記憶する気管であると推測した。エウスタキオ管も発見している。 |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)は、人間の身体は、「血液、黒胆汁、黄胆汁、粘液」の4種類でできているという「四体液説」を唱えた。 ヒポクラテスは、痛みを取り除く仕事を聖なる仕事と呼んだ。医術とは、病気による痛みや苦痛を取り除き、病気の勢いを鎮め、病気に負けた人を救うこと。そして、医師とは、医療者としてふさわしい資質を備えたうえで実地の経験を積み、医術の知識を自分のものとするために、さらに厳しい修行を積んだ者にのみ与えられる資格である。「ヒポクラテスの誓い」は現在でも医の倫理となっている。 |
BC4C頃 | Plato(プラトン P BC427〜BC347は、外から入り込んだ4元素すなわち、土、空気、火および水が不調和に運動して精神に作用すると「痛み」が起こり、それを心臓が感じとると考えた。 神々は魂に対して死すべき肉体を与えたが、その時、別種の「死すべき魂」を形づくった。これは「恐るべきそして避けることのできない情念」を備えていた。苦痛は、快楽・大胆・恐怖・欲望・希望とならんでこの情念の一種をなしている。古代ギリシャでは、「痛み」は人間の情念(パテーマータ)のひとつと考えられていた。 |
BC4C頃 | Aristotle(アリストテレス P BC 384〜BC322/3/7, 古代ギリシャの哲学者、Platoの弟子)は、「痛み」を五感に含めなかった。彼の著書「動物部分論」では、「感覚」の起源は心臓にある。知覚の波が血管に沿って心臓に伝わるが、それが激しいとき「痛いという情緒」が生じると説明した。また、心臓が柔らかくて熱をもち、そこに多量の血液がたまると、痛みが発生するとも説明している。「霊魂論」に述べている「五感」は「視覚」・「聴覚」・「嗅覚」・「味覚」・「触覚」であった。「痛み」は、感覚ではなく、生理的な反応によってひきおこされる不快や苦しみである情動としてとらえていた。* 疾病に関してはヒポクラテス派の考えを採用し、血液、粘液、黄胆汁および黒胆汁の4体液の不均衡がその原因になるとみなした。 |
BC3C頃 | Epicurus(P BC 341〜270, ストア派の哲学者、デモクリトスの流れをくむ。)は、「恐怖と苦痛を除く術」について述べた。われわれ自身の存在に内在する心理を充分に生き抜くには、恐怖と情念を意志によって征服する道しかない。痛みは恐怖の最も一般的な厳選の一つである。ヒトの意志の力によって痛みを完全に征服しなければならない。彼はローマの進歩を当てにしてなかった。自らの精神力によって痛みを克服したのである。 |
BC 220年 | 中国の戦国末期から秦漢時代の医学をまとめたものと思われている「内経(だいけい)」は、黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)が岐伯と医学に関して行った問答を記載した形式がとられている。素問および霊樞の2部からなっている。素問は疾病の原因を陰陽二気の不調和によるものとし、木・火・土・金・水の五行説を取り入れ、肝心・脾・肺・腎の5臓器をそれぞれ配している。さらに体の表層に12経絡を想定し、この道を通って種々の病気が各臓腑に達するものと考えている。経路に沿う365の経穴を想定し、そこに針を刺して治療する。12経路に任脈(腹側正中線)と督脈(背側正中線)を加えて、14経路とすることもある。「内経」によると、痛みは外から火や風などの進入して経絡をふさいだときに起こる。痛みの原因は脈をとるとわかるという。霊樞の中には、癲癇および精神病を取り上げた「癲狂篇」があり,古代の精神医学書として特異的なものである。治療法としては、薬物利用とともに、鍼灸の法が述べられている。 |
AD30年 | Aulus Cornelius Celsus(P BC25頃 -AD 50頃, 古代ローマの貴族で、著述家、医師)は、医学を含めあらゆる学問に造詣が深く、当時得られた知識を集約して百科全書「De Medicina」(当時の科学書としては珍しく、ギリシャ語ではなくラテン語で書かれたいた。)を編纂した。その第3巻で炎症の特徴を「color(熱)とdolor(痛み)を伴ったrubor(発赤)とtumor(腫脹)」と記載した。これは「ケルススの4主徴 Celsus' quadrilateral」呼ばれていたが、Galenus(P 131〜201, ローマ時代の名医)が「機能喪失」を加え、5主徴となった。 | ||
AD2C | Galenus(P 131-201、ローマ時代の名医)は、牡牛の脳を観察し、脳を12箇所に分類し(脳室、四丘体、下垂体など)、脳神経を7対観察している。Galenusは末梢神経が運動と感覚の機能をもつことを知っていた。病気による痛みは末梢神経によって伝えられ、末梢神経が中等度に刺激されると快い感覚を生じ、それが強く刺激されると「痛み」が起こると説明した。皮膚では末梢神経に中等度の刺激が加わると触覚、強い刺激が加わると痛みをひき起こすと考えた。この考えは19世紀の「強度説」と同じである。 | ||
1641年 1662年 | Rene Descartes (P 1596〜1650, フランスの哲学者)
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1675年 | Baruch (Benedict) De Spinoza スピノザ(1632/11/24〜1677/2/21年, オランダのユダヤ系哲学者、神学者)は、「エチカ Ethica ordine geometrico demonstrata」の中で、痛みは身体の一部に限局した苦しみである」と述べた。 デカルトとは異なり、スピノザは、情緒としての痛みをとらえ、悲嘆と憂鬱を痛みがもつある種の特性としてとらえている。 スピノザは一元論的な人間理解を主張していて、「精神」と「身体」は、人間というひとつのものをそれぞれ別の側面から見た場合にすぎない。痛いと思う気持ちと、痛みという感覚とは、どちらも身体が傷ついたという同じ現象に対する反応の、別の現れ方なのである。 | ||
1794年 | Erasmus Darwin(P 1731/12/12〜1802/4/18, Charles Darwinの祖父, 医師、博物学者、詩人、ロンドンの「ルナ・ソサエティー Lunar Society」の創設者)は、生物進化について考えをまとめ「ゾーノミア Zoonomia」の中で、過度の刺激によって温覚、触覚、視覚、味覚あるいは嗅覚が誇張されると痛みが起こるという考えを発表した。 →強度説 | ||
1826年 | Johannes Petrus Müller(P 1801〜1858, ベルリン)が、「特殊エネルギーの法則 Code of specific nerve energies」という概念を考案した。個々の感覚器官は、どのような刺激を与えても特有の感覚を生じ、他の感覚を生じさせることはない。視神経に対する電気的あるいは機械的な刺激は、光に対する感覚だけが生じる。←→特殊説 | ||
1864年 | Martynが、初めて関連痛について記載した。 | ||
1882年 1883年 | Magnus Blix(P 1832〜1904, ウプサラ)が1882-83年に、皮膚を電気刺激して、暖かく感じる部位や冷たく感じる部位を見つけた。さらに、冷刺激、温刺激、触刺激装置を作成し、冷点、温点,触点を見つけた。 →感覚点/特殊説 | ||
1894年 | Alfred Goldscheider(P 1958〜1935, von Frey↑の弟子)もvon Freyと同じような器具を使って、人の生理心理学的実験を行った。皮膚に加える機械的刺激の強度を強めていくと、感覚は触覚から痛覚に変わったので、「パターン説」を提唱した。触覚と痛覚情報は、同一神経に起因することを示唆した。 | ||
1894年 | Henry Rutgers Marshallは、痛みは情動であり、感覚ではないと述べた。 | ||
1895年 | Maximilian Ruppert Franz von Frey(P 1852/11/16〜1932/1/25, ビュルツブルグ, Carl Ludwig's physiological Institute in Leipzig)を使って痛点を見つけた。それ以降「皮膚の痛みは、痛点を刺激したときにだけ起こる。」とされ、痛みは独立した感覚であることが認められた。 →Freyの特殊説 | ||
(1903) 1906年 | Sir Charies Scott Sherrington(P 1857〜1952, イギリスの生理学者)が"The integrative Action of the Nervous System"の中で「侵害刺激、侵害受容器、侵害受容性反射」の概念を記述した。 →ノーベル生理学・医学賞(1932年) | ||
20世紀を代表する哲学者の一人として高い評価を受けているLudwig Wittgenstein(P 1889〜1951)は、晩年になると、多くの局面で彼の試作を痛みに集中させていった。 「痛みは自然な表出とその延長された圏域である言葉によって確認できる。他の人と共有している振る舞いや言葉のやりとりによって、確かなものとして公に流通する。しかし他人の痛みは知り得ない。自分の痛みは端的に確実に知っている。他人の痛みは観察が大きく作用するのに対して、自分の痛みは観察以前に確実に体験される。従って、他人の痛みは、自分の痛きとは全く次元が違う。われわれが知ることのできる痛みは自分の痛みだけなのだ。」 Wittgensteinは痛みが感覚であると同時に情動であると捉えていた。 | |||
1924年 | Sir Thomas Lewis(P 1881〜1945, University College Hospital in London)が3重反応を発表した。 | ||
1950年 | James Hardy, Herber Wolff, Helen Goodellが、様々な強度の痛みに対する患者の反応に基づいて調べる鎮痛効果を比較する方法をデザインした。 | ||
1958年 | Fahrniは初めてback educationの概念を提噌し、腰痛が体操と合理的なボディメカニクス(身のこなし方)の教育でコントロール可能であることを強調した。その後この立場は1960年代に主にスウェーデンでlow back schoolとして発達した。 | ||
1959年 | George Engel(P 1913〜1999, ロチェスター大学の精神科医)は器質的原因に乏しい痛みの訴えを心因性疼痛 psychogenic pain)と名づけた。 | ||
Albert Schweitzer(1875年1月14日〜1965年9月4日):「痛みは、死そのものより恐ろしい暴君である。」 "Pain relief, we can do much better. We all must die but if I can save him from days of torture, that is what I feel is my great and ever new privilege. Pain is a more terrible load on to mankind than death itself". * | |||
1965年 | Ronald Melzack and Patrich Wall の「The gate-control theory of pain」がScience誌に掲載された。 | ||
1968年 | Wilbert E. Fordyceが痛みの行動的側面(疼痛行動)について明らかにしていた。行動療法(オペラント条件付け)の立場から、慢性疼痛患者の疼痛行動に着目した。患者が執拗に痛みを訴え続けるのは、その行動により患者にとっての好ましい結果(例えば休息、補償金、家族からの介助、病院への通院などの心理学で「強化子」とよばれる諸要因)が得られるためだと考え、疼痛行動を無視した上で、身体活動量を漸増していくプログラムを編み出した。患者は自覚的な痛みの程度はどうであれ、可及的に医療から自立していく(=疼痛行動の減少)ことが期待される。 | ||
1975年 | 痛み強度に関する初めての測定法として、Dr MelzackがMcGill Pain Questionnaire[PubMed]*を発表した。 | ||
1979年 | IASPの用語委員会(chairman: Harold Merskey)が痛みを定義した。[PubMed] | ||
1982年 | WHOがん疼痛救済プログラムの起案 参考* | ||
1990年 | WHOが、がん医療などのための「Cancer Pain Relief and Palliative Care」を発行した。終末期医療を含む新しいケアの考え方を「緩和ケア」と呼ぶように提言した。←→ホスピス | ||
1991年 | Mac Cafferyが簡易型McGill Pain Questionnaireを発表した。 | ||
1994年 | Harold MerskeyとNikolai BogdukがIASPのClassification of Chronic Painを出版した。 IASPは慢性疼痛の分類で、名称に「sympathetic」という用語を含まないCRPSという新しい名称を作って、RSDとカウザルギーがCRPSにまとめた。RSDをCRPS type I、カウザルギーをCRPS type IIとした。 | ||
1995年 | 痛みは、体温、脈拍、呼吸状態、血圧の次の第5のバイタルサインとされた。←APS1/2 | ||
1998年 | WHOが「小児がん性疼痛治療針」を発表。 | ||
2000年 | 6月に、日本緩和治療学会がWHO方式をもとに、新しく「がん疼痛治療ガイドライン」をまとめた。 |
BC | エジプトで発掘されたミイラの関節の中に尿酸塩を見つけたという報告がある。 |
BC5C | Hippocrates(BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」)は、痛風を歩行が困難になる病として記載していた。 ヒポクラテスの所見
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BC1C | Gaius Julius Caesar(BC100〜BC40)の時代には、痛風や頭痛に対する鎮痛法としてシビレエイ(電気↑2)が利用されていた。Caesar自身は関節炎にかかっていたと考えられている。 |
AD46年 | Scribonius Largus(1〜50, ローマの医師,Emperor Claudiusの軍医)が著した「De compositionibus medicamentorum」が16Cに発見され、1529年に出版された。その中に、電気↑2魚による痛みの治療の最初の記録がある。「痛風の痛みが始まったら、生きた黒シビレエイ"Black Torpedo"を海岸の波打ち際において、その上に立ち、しびれが膝までおよぶのを待つ。慢性の耐え難い頭痛があるときには、痛みを感じる場所に生きた黒シビレエイをおき、痛みが消えるのを待つ。」 |
AD77年 | Pedanius Dioscorides(P AD40〜90, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は「De Materia Medica 薬物誌」の中で、セイヨウシロヤナギやイヌサフランが痛風に効くと記載した。←→コルヒチン |
AD2C | Galenus(P 131-201、ローマ時代の名医)は、頭痛、痛風や他の病気の鎮痛のために、電気魚のショックを利用していた。Galenusは、生きた電気魚と死んだ電気魚を比較し、死んだシビレエイでは頭痛に効かないことを確かめた。 |
1683年 | 痛風を一つの疾患単位として確立したThomas Sydenham(P 1624〜1689, 英国での医学の先駆者であり、English Hippocratesと呼ばれていた。)自身も、痛風を患っていた。痛風は古来、他の関節炎と分けて語られることはなかったが、Sydenhamが初めて、痛風とリウマチ熱とをわけて記載した。さらには慢性化するリウマチ熱があると述べており、これは現在の関節リウマチに相当すると考えられている。 |
1732年 | Thomas Dover(1660〜1742, Sydenham↑の弟子)は、痛風の薬として「Dover's powder:ドーフル散(=アヘン・トコン散)、発汗散」を作り、1788年にはイギリスの薬局方に採用された。 ドーフル散の中身は「アヘン↑221オンス、硝石と酒石酸カリウムを4オンス、カンゾウを1オンス、トコンを1オンス取り、硝石と酒石酸カリウムを灼熱した容器で焼却し、粉砕し、アヘンをスライスして粉末として混合」したものでして、これを白ワインのミルク酒に40〜60ないし70グレイン(1グレイン=約65mg)を加えて処方していた。ドーヴァーの死後、ドーフル散は一時期忘れ去られるが、後にジョージ二世の加護を受けた医師ジョシュア・ウォードにより再発見され、一躍有名になった。ドーヴァーは、世界探検旅行もしていて、1709年にたまたま彼の乗った船がJuan Fernandez islandsで、Robinson CrusoeのモデルとなったAlexander Selkirkを救出している。 |
18C | Immanuel Kant(1724/4/22〜1804/2/12. ドイツの思想家)は晩年、急性痛風発作の激痛に襲われた。彼はこの激痛を何とかしようとして、痛みと無関係な一つのことに精神を集中した。例えば、ローマの雄弁家キケロという名前に関係すると思われるものなら何でも思い出したりした。翌朝には痛みがなくなっていて、痛いと想像していただけではないかと、不思議に思ったほどであった。彼はこの経験に基づいて、論文「Von der Macht des Gemuths durch den blossen Vorsaz seiner krankhaften Gefuhle Meister zu zein」を書いた。 →注意転換 |
1776年 | Carl W. Scheele(1742/12/9〜1786/5/21, スウェーデンの薬剤師、化学者)が尿路結石から尿酸を確認した。 |
1797年 | William Hyde Wollaston(1766/8/6〜1828/12/22, 英国の化学者)が痛風結石から尿酸を確認した。 |
1847年 | Alfred Baring Garrod ↓(P 1819 〜1907, 英国の内科医)は、痛風患者から尿酸を検出していた。 |
1876年 明治9年 | Erwin von Baelz(P ベルツ 1849〜1913 ドイツ人、東京医学校の教師、宮内庁の御用掛)は、日本には痛風がないと結論を下していた。 |
BC 4500年 | アメリカ・テネシー川近くから、関節リウマチにかかっていたと考えられるインディアンの人骨が発掘された。 |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)の文献には、関節疾患の記載があるが、当時のヨーロッパには「関節リウマチ」はなく、コロンブス以後にヨーロッパにもとらされたとされている。Hippocratesは、「rheuma(流れ)」という用語を使ったが、関節をおかす疾患の総称として使わっていた。セイヨウシロヤナギ Salix albaの樹皮を「発熱」や「リウマチの痛み」の治療に使用していた。葉の煎じ薬を陣痛の緩和に推奨していた。 |
15C後半 | リウマチの治療に、キナの皮から得られるキニーネが用いられ始めた(現在の欧米でのヒドロキシクロロキンの使用につながる)。 |
1592年 | Guillaume de Baillou(1558〜1616, フランスの内科医)は初めてリウマチが全身の筋・骨格の症候であると述べた。 |
1683年 | homas Sydenham↑(P 1624〜1689, 英国での医学の先駆者であり、English Hippocratesと呼ばれていた。)は、痛風とリウマチ熱とをわけて記載した。さらには慢性化するリウマチ熱があると述べており、これは現在の関節リウマチに相当すると考えられている。 |
1763年 | Edmund Stone(イギリスCipping Nortonの牧師)が、ヤナギの抽出物がリウマチや発熱に有効であると、ロンドンの王立協会に書き送った。 |
1800年 | Augustin-Jacob Landre-Beauvais(1772/4/4〜1840, フランスサルペトリエール病院)が学位論文でリウマチと痛風を明確に区別した。[PubMed] |
1808年 | David Dundasが初めてリウマチ熱 Rheumatic feverの用語を用いた。 |
1840年 | Jean Baptiste Bouillaud(ブイヨー、 P 1796〜1891, パリのシャリテ病院の臨床教授)がrheumatic feverとmuscular rheumatismを明確に区別した。 |
1845年 | Ferdinand von Hebraが初めて全身性エリテマトーデスによると思われる皮疹を記載した。 |
1858年 | Alfred Baring Garrod↑(P 1819 〜1907, 英国の内科医)がRheumatoid arthritis(RA: 関節リウマチ)という用語を最初に用い、1892年にはリウマチと痛風を区別した。。* |
1862年 | Maurice Raynaud(P 1834/8/10〜1881/6/29, フランスの医師)が、レイノー現象を報告した。 |
1897年 8月10日 | Felix Hoffmann(P 1868〜1946, ドイツバイエル社)は、Gerhardtの方法を学んで、アセチルサリチル酸↑12の合成に成功し、はじめての動物を使ったテストとして、金魚でアセチルサリチル酸の効果をテストした。 Hoffmannの父は、リウマチを患っていた。当時のリウマチの治療薬には、サリチル酸が用いられていた。サリチル酸には強い苦みとの苦味や胃障害など重大な副作用があったので、Hoffmannは、サリチル酸に変わる副作用の少ない新しい抗リウマチ薬の開発に没頭した。Hoffmannは29才で、サリチル酸をアセチル化して副作用の少ないアセチルサリチル酸の合成に成功した。 |
1951年 | Gubner Rらは乾癬(Psoriasis)やリウマチにメトトレキサートが有効であることを初めて報告した。その後免疫抑制剤がdisease-modifying antirhumatic drugs (DMARDs)として導入された。 |
1940年 | Bernard Comroeが「リウマチ専門医」(Rheumatologist) という用語を考案した。 |
1949年 | Joseph L. Hollanderが「リウマチ学」(Rheumatology) という用語を彼の書いた教科書「Arthritis and allied conditions」の中で初めて用いた。 |
1961年 | Stewart Adams、John Nicholson、Colin Burrows(英国)らがアスピリンよりも安全な薬として1950代にイブプロフェンを合成し、1961年にパテントがとられた。関節リウマチ治療薬として、英国では1969年から処方薬として許可され、米国では1974年から使用可能となった。 |
1997年 | William N. KelleyらによるKelley's Textbook of Rheumatology表紙は、ルノワール(印象派の画家)が野外帽子をかぶった肖像画であった。 |
1816年 | William Balfour(Edinburgh大学の外科医)が身体の広範囲に及ぶ筋肉痛を「pain fibrosistitis」として記載した。1824年に圧痛点について記載した。 |
1843年 | Robert Froriep(P 1804〜1861, ベルリンの内科医)が、初めてfibromyalgiaの症状を記載した(彼はmuskelschwiele or muscle callusesと呼んでいた)。 |
1864年 | Martynが、関連痛について初めて記載した。痛みは、損傷領域に限局せず、その近傍や離れた部位にも現れる。(Martyn, S. (1864) On the physiological meaning of inframammary pain. British Medical Journal 2:296-298.) |
1904年 | Ralph Stockman(P 1861〜1946, Glasgow大学の病理学者)は、繊維状の筋内の膜(fibrous, intra-muscular septa)の生検から筋内の結節に炎症による変化を見つけた。(fibromyalgia関連) |
1904年 | Sir William Richard Gowers↑(P 1845〜1915, イギリスの神経学者)が局所の圧痛と触診で触れるしこりのある「muscular rheumatism」を記載し、「結合組織炎 fibrositis」という用語を使った。過敏点=トリガーポイントが存在することを発表した。→線維筋痛症候群 |
1933年 | William Jason Mixter(P 1880〜1958, マサチューセッツ総合病院の神経外科医)とJoseph S Bar(整形外科医)が1933年に、19例の臨床病理所見から、椎間板ヘルニアは変性した椎間板の突出であり、髄節に応じた神経症状を起こすことを確立した。 |
1937年 | J Grafton Love(P 1903〜1987, メイヨークリニック)らが硬膜外アプローチによる椎間板ヘルニアの髄核摘出を始めた(J Bone & Joint Surg)。 |
1938年 | Jonas Henrik Kellgren(P 1911〜2002, Manchester大学のリウマチ学の教授)がSir Thomas Lewis(P 1881〜1945, University College Hospital in London)のラボにいた頃に、筋肉痛における圧痛と関連痛の関係を記載した。高張食塩水(6%食塩水)を腱に微量注入しても局所にしか痛みを引き起こさないが、筋内に注入すると、注入局所以外の遠隔部位に痛みを引き起こす。しかもそれぞれの筋特有の関連痛バターンが現れることを報告した。食塩水を三頭筋に注入すると指に痛みを感じ、僧帽筋に注入すると頭痛を起こし、これらの部位に局所麻酔薬を入れると、痛みがおさまることを報告した。このような特定パターンを示す関連痛は、筋に限らず、腱、靭帯、骨膜およぴ皮膚の刺激によっても生じる。さらにKellgrenは、このような関連痛を発生させる過敏なスポットがあり、そのスポットへ局所麻酔薬を注入することによって除痛できることを報告した。 |
1948年 | Keegan & Garrettは、ヘルニアによって脊髄根の圧迫されている患者に、神経根をブロックして、デルマトームを調べた。体幹部では各デルマトームがほぼ環状の帯状野をなして順次配列しているが、四肢ではゆがめられていることが明らかとなった。 参考 |
1976年 | Philip Kahler Hench(1930/9/19〜 Phillip Henchの息子)らが「fibromyalgia」 ("-algia" meaning pain in fibrous tissue) という用語を初めて使った。 [1/2] |
1983年 | Muhammad B. Yunus(P バングラディッシュ、Ilinois大学リウマチ学の教授)が統一した分類を作ることを提唱し、初めて診断基準を作った。 |
1983年 | Janet Graeme Travell(P 1901〜1997 Kennedy大統領の主治医)とDavid Simons(P 1922〜2010/4/5)が、「The Trigger Point Manual (Lippincott Williams & Wilkins)」の中でトリガーポイントの特徴を記載した。 |
1990年 | アメリカリウマチ学会が線維筋痛症候群の分類基準を作成した。 |
Tic douloureuxについては、多分古代ローマ時代から記載されていた。 | |
16C | 英国Wellsの大聖堂の南の通路にBishop Button(〜1274, 教会法学者)の墓がある。殉教者や歯痛に苦しむ人が、三叉神経の発作を生々しく刻んだ16世紀の彫刻を拝むために訪れる。この彫刻は三叉神経痛の最古の確実な記録の一つとされている。1848年から石棺が公開され、その当時う歯は珍しかったので、Wilfred Harris(P 1869〜1960, ロンドンの神経科医)は三叉神経痛と指摘した。 参考1 |
1551年 | Gabriello Fallopio(Gabriel Fallopius)(P 1523〜1562, Vesalius↑の2代後のPadova大学の解剖学教授)が、ご遺体の解剖から「Observationes anatomicae」を著す。 Chorda Tympani, the semicircular canals, sphenoid sinus, 三叉神経などについて初めて記載した。ほかにfallopian tubes(子宮と膀胱の結合管)、vagina、 placenta、 clitoris、palate、cochleaなどを命名した。 |
1671年 (1688) | Johannes Michael FehrとElias Schmidtが、Johannes Laurentius Bausch(ドイツ医学アカデミーの創始者、内科医)の追悼文で三叉神経痛について記述している。左顔面の痛みに苦しみ、話すことも食べることもできず、栄養不良に陥っていた。 |
1677年 | John Locke(P 1632〜1704, 英国の哲学者、内科医、Sydenhamの友人)はDr John Mapletoftに多くの書簡を送っていて、駐仏英国大使ノーザンバランド婦人 Countess of Northumberland, wife of the Ambassador to Franceの三叉神経痛についても、書簡の中で書いていた。 |
1685年 | Raymond De Vieussens(ビューサン P 1641〜1715, フランスモンペリエ大学の神経解剖学者、内科医)が、後にガッセル神経節と呼ばれる神経節が三叉神経上にあることを記載した。 |
1748年 | Johann Friedrich Meckel, the Elder(P 1724/7/31〜1774/11/18, ベルリンの解剖学者)が三叉神経の神経節は硬膜に覆われていることを記載した。(Meckelの名はMeckel's caveとして残っている。) |
1750年 | Maréchal(Louis XIVの外科医)が、三叉神経痛の治療のためには、眼窩下神経の部分切除を行うと痛みを軽減するだろうと試みたが、成功しなかった。 |
1756年 | Nicolas André(P 1704〜 , フランスの外科医)が、食事、咳、喀出、顔面の接触などで、発作性に誘発されることが特徴である疾患を報告した。彼が診た患者のすべてが顔をゆがめたことから、Tic douloureuxと命名し、著書「Observations pratiques sur les maladies de l’urethre et sur plusiers faits convulsifs」に記載した。これが三叉神経痛についての医学的な最初の記載かもしれない。 |
1765年 | Antonius Hirshが三叉神経節を記載した。彼の恩師Johann Lorentz Gasserに敬意を表して、ガッセル神経節と命名した。 |
1773年 | John Fothergill(P 1733〜1804, 英国の内科医、植物学者)が三叉神経痛の14例の患者の臨床症状を詳細に記録し、「まなじりの急激な激痛、涙が出るほどで、ほんの数秒だが、数分もしないうちに同じ事が起こる。」と描写していた。それらの集大成を甥のSamuel Fothergillが後年単行本として刊行し、医学の古典となった。以後英国では、三叉神経痛はFothergill disease ファザジル病と呼ばれていた。Fothergillは三叉神経痛の治療に、キナの樹皮(cinchona tree, Peruvian bark) を使っていた。 |
1778年 | Samuel Thomas von Soemmering(P 1755/1/28〜1880/3/2, フランクフルトの解剖学者、生理学者)が脳神経を分類し、三叉神経が第V脳神経であると同定した。 |
1821年 | Charles Bell(P 1774〜11842, エディンバラ出身、ロンドン王立大学生理学教授)が、顔面神経損傷によって、一側の顔面神経麻痺が起こることを記載した(ベル麻痺)。ベルとマジャンディによって、顔面に分布する三叉神経と顔面神経の機能が異なることが明らかになったてから、これらの疾患が、三叉神経の病気であることが広く認識された。 |
1846年 | Benedict Stilling(P 1810〜1879, ドイツ、カッセルの開業医)は脳の連続切片を初めて作り、顕微鏡を使って多くの脳幹の各種の核を同定していて、1846年の著作「橋の構造の研究」で、動眼・滑車・三叉神経核も同定し、さらに三叉神経核を運動核と感覚核に区別した。(ただし顔面神経核も三叉神経運動核と考えていた。←→Meynert |
1853年 | Armand Trousseau(アルマン・トルソー P 1801/10/14〜1867/6/27, Trousseau signで知られるフランスの内科医)は三叉神経痛を発作性の痛みを伴う顔面痙攣とみなし、「neuralgia epileptiform」と記載した。 |
1872年 | Theodor von Meynert(P 1833〜1892, ウイーン大のKarl von Rokitansky (1804〜1878)の弟子)が三叉神経運動核を正確に記載した。←→Stilling |
1891年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916)が三叉神経痛のために、外科的治療を行った。middle fossa approach(硬膜外アプローチ)で、三叉神経の第II枝と第III枝を部分的に切断した。それを1891年にFrank Hartley(ニューヨーク)、1892年にFedor Krause(ドイツ)が1892年に一部改変した。 |
1892年 | Bregmann が三叉神経脊髄路に求心性神経が含まれることを証明した。ウサギのガッセル神経節を切断すると、三叉神経脊髄路が変性することを見出して、橋の高さで脳幹に入った三叉神経求心性線維が三叉神経主感覚核に向かう枝と、三叉神経脊髄路核に向かう枝に分かれることを明らかにした。 |
1895年 | Adolf Wallenberg(P 1862〜1949、ドイツの神経学者)は、後下小脳動脈が閉塞して、延髄背外側部に軟化巣があると、病巣と同側の顔面の痛覚と温、冷覚が失われるが、触覚は残ることを報告した(=ワレンベルグ症候群)。彼はBregmannの研究を知っていて、この疾患に見られる感覚の乖離が三叉神経脊髄路の損傷によってもたらされたと考え、翌年ウサギの三叉神経脊髄路を延髄の高さで切断する実験を行って確認した。(外側延髄の梗塞障害については、Wallenbergよりも前に1810 年にGaspard Vieusseuxによって報告されていた。) |
1900年 | Harvey Williams Cushing (P 1869〜1939, アメリカの脳外科医、Halsted↑の弟子、Horsley↑にも影響された)は三叉神経痛の治療のために、Gasserian ganglionectomyを行った。 |
1901年 | Charles Harrison Frazier(↑P 1870-1936, フィラデルフィアの脳外科医)とWilliam Gibson Spiller(↑P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)は、三叉神経の治療のためのHarvey Cushing↑ (P 1869〜1939, アメリカの脳外科医)のganglionectomyは、困難でかつ危険を伴うので、Sir Victor Alexander Haden Horsley↑>の方法を広め、三叉神経痛の治療として、Hartley-Krause approachで、三叉神経を部分的に切断した。 |
1934年 | Walter E. Dandy(P 1886〜1946、アメリカの脳外科医, Cushingの最初の弟子、ジョンホプキンス)が三叉神経痛に対する新しい術式を創案した。Frazieらの術式よりも安全な方法として、posterior fossa approach後頭蓋窩経由で三叉神経の一部を切断した。200例以上の術中の観察から、神経血管圧迫説を提唱したが、その仮説の真偽は、30年以上検証されなかった。 |
1938年 | Olof Sjöqvist(P 1901〜1954, スウェーデンの脳外科医)が、三叉神経痛の治療に三叉神経脊髄路切断術を行った。 |
1941年 | 精力的に三叉神経脊髄路切断術を行っていたGrantが、誤って閂の後側8mmの高さでを切断した(1941年)ところ、幸いにもその患者は三叉神経痛の苦しみから免れた。Sjoqvistの原法より安全であったため、一般化した。このような臨床経験から、三叉神経系の温痛覚を第一次中継核が閂よりも後ろにある部分であると考えられるようになった。 |
1942年 | Bergouignan M(フランスの咽喉科医)が顔面神経痛や三叉神経痛の治療にフェニトインを使った。* |
1946年 | 布施現之助(P 1880〜1964, 東北帝国大学医科大学解剖学教室初代教授)が三叉神経脊髄路核を髄鞘構築学的な区分した。 |
1950年 | Jerzy Olszewski(P 1913〜1964, カナダの神経病理学者)は、人やサルの三叉神経脊髄路核を細胞構築学的に研究し、3部に区分した。この区分は、かつて布施現之助↑が1946年に髄鞘構築学的な研究に基づいて行った区分とほとんど同じであった。 |
1952年 | Taarnhojは、錐体の上縁を通過する部位で、三叉神経が圧迫されて屈曲するのが三叉神経の原因であると考え、三叉神経節後部および三叉神経根の減圧術を試みた。 |
1953年 | James W. Gardner (P 1898〜1987, 米国の脳外科医) が、三叉神経痛患者の頭蓋骨のX線写真を調べて、錐体骨上縁の高い側に三叉神経の圧迫がある例が多いことを確かめた。 |
1962年 | Blom S(スウェーデン、オランダの神経学者)らが、三叉神経痛にcarbamazepineが有効であることを報告した。1/2 |
1967年 | Peter J. Jannetta(ピッツバーグの脳外科医)は、三叉神経痛に対して微小血管減圧術 Microvascular decompression: MVDを精力的に行い、Dandyの説を復活させた。 |
1990年 代後半 | 三叉神経痛の治療として、radiosurgery(放射線外科:定位的放射線治療)が発展した。 |
年 | Giovanni Filippo(1510〜1580, イタリアPalermoの内科医、中耳のあぶみ骨の発見者)が初めて水痘を記載した。 |
1831年 | Richard Bright(P 1789〜1858, ロンドン, ネフローゼの発見者)が初めて、帯状疱疹の分節性の神経症状を確認した。 |
1862年 | Friedrich Wilhelm Felix von Barensprung(1822〜1864, ベルリンの皮膚科医)が帯状疱疹の剖検例から、分節性の症状と脊髄後根神経節の病理学的な相関を記載した。 |
1900年 1906年 | Sir Henry Head↑HeadとAlfred Walter Campbell(P 1868/1/18〜1937/11/04, オーストラリア最初の神経学者)は、2年間で450の症例と21の剖検を行い、帯状疱疹患者では皮疹部分に分布する感覚神経に神経節に炎症、出血、壊死などの病理学的変化を認めることを報告した。彼らは剖検所見と皮膚所見から感覚神経のデルマトームを作成し、現在用いられている脊髄神経・三叉神経など感覚神経の皮膚への分布を明らかにした。 |
1907年 | James Ramsay Hunt(P 1872〜1937, アメリカ、コロンビア大学神経科教授)が過去30年の文献56例と自験4例からラムゼイハント症候群を報告した(J Nerv Ment Dis)。 |
1953年 | John Bonica(P 1917〜1994)が、「Management of Pain」の中で、カウザルギー・幻肢痛・中枢性疼痛などをmajor reflex sympathetic dystrophiesに、Sudeckの骨萎縮症、肩腕症候群・帯状疱疹後神経痛などをminor reflex sympathetic dystrophiesに分類し、これら疼痛疾患全体をRSDの範疇に入れた。 |
1954年 | Thomas Huckle Weller(1915〜2008, ハーバード大のウイルス学者、ノーベル生理学・医学賞受賞者)とAlbert Hewett Coons(P 1912〜1978、ハーバードの免疫学者、蛍光抗体法の発見者)が帯状疱疹ウイルスと水痘ウイルスが同じであると同定した。 |
2004年 | 日本では50歳以上を対象として小児用の水痘ワクチンを帯状疱疹予防目的で接種を承認した。 |
1964年 | Zacks, Langfitt & Elliotは、PHNではWaller変性があるにもかかわらず、神経線維炎との相関が見られないので、中枢痛のメカニズムが示唆された。 |
2004年 | 日本では50歳以上を対象として小児用の水痘ワクチンを帯状疱疹予防目的で接種を承認した。 |
1497年 | Hieronymus Brunschwig(ヒエロニムス・ブルンシュヴィヒ 1450〜1512, ストラスブールの外科医)は、ドイツで印刷された初めての外科のマニュアル「Das Buch der Cirurgia」を出版された。版画に手書きで彩色した美しい本。銃創には毒があると考えられていて、「傷口にクサビをおしこんで開かせ、沸騰したニワトコの油を流しこむと、傷口の肉が油におおわれて外気にふれないようになる」と記述されている*。Brunschwigが1507年に出版した「真正蒸留法」も版画が彩色された本で、薬草・鉱物のリストなどが収録されていて、薬局で買うような「大衆薬」の元になっている。* |
1517年 | Hans von Gersdorff(1489〜1540, ストラスブルグの外科医)が外科教科書:「Feldbuch der Wundarzney」を著した。著書には、その当時恐れられていた「聖アントニウスの火」に侵されて壊疽に陥った下肢を切断する手順が記述されている。挿絵としてJohann Grüninger(1480〜1526, ストラスブルグの画家・木版下絵作家)の木版画が使われた。四肢切断術は古くは壊疽の部分で四肢を切断していたが、ゲェルスブルグの頃は壊疽部よりも近位で切断し、煮沸した油あるいは焼きごてを使って断端を止血し、化膿を予防する手術が行われていた。ゲェルスブルグは、断端の皮膚を縫合せずに、動物の膀胱で包んでいた。術前にはアヘンで眠らせていた。 |
1545年 1564年 | Ambroise Pare(P 1510〜1590/12/20, ルネサンス期の外科医 "Physician to the Kings of France")は、いわゆる「床屋外科医 barber-surgeon」だったが、後にフランス王 Charles IXとその母親のQueen Mother Catherine de Mediciに認められ、王室外科医に抜擢された。彼の業績は、現在も汎用されている止血法、縫合法、義肢の発明等々、多岐にわたっている。 床屋外科医に弟子入りし、19歳でパリのオテル・デュ病院 Hotel Dieuで働いた。1536〜1545年イタリアの野戦に従軍、戦傷の治療経験をつんだ。当時は戦争に銃が使われるようになった時代である。1537年、パレは軍医として従軍したフランス軍のトリノ遠征で兵士の治療にあたっていた。当時銃創の治療には煮えたぎった油を傷口に注ぐという焼灼法(Brunschwig↑、Gersdorff↑)が一般的であった。Giovanni da Vigo(1460~1520, ローマ法王Julius II世の主治医)が「銃創には火薬の毒が入っているので、焼灼しないと毒がまわって死ぬ」と言う説を出したからである。しかしPareが戦地に臨んだとき、ニワトコ油が切れたので、やむなく、卵黄とバラの香油とテレビン油などで作った軟膏を布に塗り、傷に当てた。 従来と違う治療を行なったパレは一晩中神に祈っていたとも、不安で眠れなかったとも伝えられる。しかし、翌朝朝早く、彼は負傷者たちが火薬の毒によって死んでいるのではないかと心配になって、病室に行くと、驚いたことに、Pareの軟膏で治療をうけた負傷者たちはほとんど傷の痛みを訴えず、炎症は軽かった。一方、煮えたぎった古い油で処置された負傷者達は、高熱を発し、傷口は炎症を起こして腫れ、激しい痛みを訴えていた。1545年に「銃創の治療法 The Method of Treating Wounds Made by Arquebuses」を出版し、軟膏療法を広めた。彼は正規の教育を受けていなかったので、ラテン語でなく、フランス語で書いた。Pareはそれまで行われていた傷口の残酷な処置法を止めさせ、苦痛が少ない治療法を普及させた。 1552年、再び戦争に従軍した時、四肢の切断においては、焼灼法よりも結紮法のほうが止血に良好な結果がでることを経験し、彼は忘れられていた結紮法を復活させたのである。手術前後の鎮痛が炎症や発熱などのリスクを減少することも観察していた。四肢切断前には、ターニケットで循環をブロックするという神経圧迫による局所麻酔手術に成功していた。1564年に、"Dix livtres de la chirurgie (Ten books of surgery)"を出版し、トラウマに対する新しい治療法を記載した。300年後にMitchellが幻肢痛と名づけた四肢切断後の痛みについて、最初に記載していた。 彼の有名な言葉:「私が包帯し、神が癒したまう Je le pansay, et Dieu le guarit (I dressed him; God healed him」 「To cure sometimes. To relieve often. To give comfort always.」「時に医師は治すことができる。しかし、しばしば症状を和めることができる。でも、いつもできるのは心を支えること」(傾聴や共感も重要である。) |
1641年 1662年 | Rene Decartes(P 1596〜1650, フランスの哲学者)は1641年に「省察」の中で、「なぜかといって、痛み以上に切実な感覚がありうるであろうか?しかも、ある時私は、脚や腕を切断した人々から、いまなおときとして、そのなくした部分に、痛みを感じるような気がするという話を聞いたことがあった。したがって、私が自分の身体のある部分に、痛みを覚えたとしても、その部分が私に痛みを与えたのだと確信するわけにはいかないように思われたのである。」と書いている。Decartesは幻肢痛を知っていたし、関連痛の現象をある程度理解していたことがわかる。 ある講釈が、足を切断した男が失った足を非常に詳しく感じる現象を、Decartesの体系にどう組み入れるか説明してもらいたいと挑んだ。→「(省察六) 神の広大無辺なる善意にもかかわらず、精神と身体とから合成せられたものとしての人間の本性が、時には欺くものであらざるを得ないことは、まったく明白である。というのは、もし或る原因が、足においてではなく、神経が足からそこを経て脳髄へ拡がっている部分のうちのどこかにおいて、あるいは脳髄そのものにおいてさえも、足が傷を受けたときに惹き起されるのを常とするのとまったく同じ運動(=興奮)を惹き起すならば、苦痛はあたかも足にあるもののごとくに感覚せられ、かくして感覚は自然的に欺かれるから。なぜなら、この脳髄における同じ運動はつねに同じ感覚をしか精神にもたらすことができず、そしてこの運動(=興奮)は他のところに存在する他の原因によってよりも足を傷つける原因によって遥かにしばしば惹き起されるのをつねとするゆえに、この運動が他の部分の苦痛よりもむしろ足の苦痛を精神につねに示すということは、理に適ったことであるからである。」 * |
Aaron Lemos (1774-?)は、"On the continuing pain off an amputated limb"を表し、その中で、Rene Decartes が「幻肢」について詳細に記述していると書いている。 | |
1797年 | Horatio Nelson提督(1758/9/29日〜1805/10/21、イギリス海軍提督、トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死)は、1797年、カナリア諸島のテネリフェ島の攻略に失敗する。マスケット銃で右肘上部の動脈を傷つけられ、上腕骨を粉砕されたので、右上肢切断術が船上で行われた。Nelsonはメスが冷たかったという不平を述べ、温かいメスはほとんど不快感を生じなかったという個人的経験から、戦闘に入る前に船内のすべてのメスを暖めておくように命じたという。片眼隻腕の提督となったが、その後もひるまず戦い続けた。しかし、耐え難い幻肢痛が右手の指に現れた。右腕切断後に幻の手に指が食い込むような感覚を経験したが、「この幽霊は魂が存在する直接の証である」と割り切って克服した。 |
1851年 | Herman Melville(1819/8/1〜1891/9/28, アメリカの作家、小説家)が「白鯨 Moby-Dick」を発表した。 白鯨に片足をかみ取られ、義足となった船長エイハブ船長と捕鯨船ピークォド号に乗った様々なメンバーがモビーディックとの3日間にわたって戦った様子を主人公のイシュメルが語る。(一等航海士スターバックがコーヒー好きだったことから、・・・) |
1864年 1866年 1872年 | Silas Weir Mitchell(P 1829/2/15〜914/1/4, 米, 内科医)は南北戦争 Civil War(1861〜1865)の北軍の軍医で、カウザルギーと幻肢痛という用語は初めて使っている。
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1877年 | James Paget(P 1814/1/11〜1899/12/30, 英国Royal Collegeの外科医、病理学者)が骨Paget病を報告した。44歳の男性例をosteitis deformans(変形性骨炎)として報告したが、本態は非炎症性疾患である。 |
1900年 | Paul Hermann Martin Sudek(Sudeck)(P 1866〜1945, ハンブルグの外科学教授)が関節、特に手関節や足関節の捻挫、またはその他の軽度な外傷の後で現れる骨の斑点状骨塩脱落と軟組織の痛みを伴う萎縮を報告した。この病態はSudeck萎縮(Sudeck dystrophy, Sudeck's atrophy)または外傷後骨粗鬆症 (post-traumatic osteoporosisi)と呼ばれている。これは大きな末梢神経の損傷がないのに起こるカウザルギー様疾患である。 |
1915年 | René Leriche(P1879/10/12〜1955/12/28, フランスの外科医)は、第一次世界大戦(1914〜1919)の負傷兵の神経損傷後の激しい疼痛(カウザルギー)に対して、その原因は交感神経の過剰活動によるものと考え、動脈周囲の末梢交感神経遮断 periarterial sympathectomyを行った。 |
1920年 | Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)とSir Gordon Morgan Holmes(P 1876〜1966年, ロンドン)が1920年に著した「Studies in Neurology」で最初に、「身体図式 body schem」の概念が記載された。 |
1943年 | William Livingston(P 1892〜1966, 外科医)が「Pain Mechanisms」を出版した。「痛みの悪循環説」を提唱した。(EvansやBonicaは、この説に深く影響され、1980年代中頃までは、RSDは交感神経の過興奮によって生じる症候群と理解されていたが、この仮説はRSDの発現メカニズムを説明する汎用的理論にはならなかった。)William Livingstonも、ペインクリニックのパイオニアの一人であり、Oregon大学にPain centerを作った。痛みの発現における心理的要因の重要性について示唆していた。* |
1946年 | James A Evans(ボストンの内科医)は、Sudeck萎縮および類似の病態を反射性交感神経性ジストロフィー:reflex sympathetic dystrophy: RSDと名付けた。この疾患の特異的な症状は、疼痛よりも発赤・腫脹・発汗異常・萎縮等の交感神経の関与が大きいと考えたからである。 |
1947年 | Otto Steinbrocker(1898〜1987/1/11, ウィーン生まれのアメリカのリウマチ研究のパイオニア)は肩の有痛性運動障害を持った患者の中に、同側の手の腫脹を伴う者がいたことに注目し、肩手症候群(shoulder-hand syndrome=Steinbrocker's syndrome) と名づけた。 |
1953年 | John Bonica(P 1917〜1994)が、「Management of Pain」の中で、カウザルギー・幻肢痛・中枢性疼痛などをmajor reflex sympathetic dystrophiesに、Sudeckの骨萎縮症、肩腕症候群・帯状疱疹後神経痛などをminor reflex sympathetic dystrophiesに分類し、これら疼痛疾患全体をRSDの範疇に入れた。 |
1954年 | 幻肢痛が正式に医学用語としてIndex Meicusに記載された。 |
1977年 | Lankfordは、Bonicaが分類したRSDの分類では疾患名が多すぎ、症状と分類の不一致などの問題点があることから、RSD を causalgia (major, minor)、traumatic dystrophy (major, minor)、shoulder-hand syndrome の5つに分類した。 |
1986年 | IASP用語委員会は、causalgia と RSD とを明確に区別した。RSDを「外傷後に交感神経の過剰緊張を伴って主に四肢に起こる持続性の疼痛」と定義した。 |
1986年 | RobertsはRSDに対して自律神経系の薬やブロックが奏効するものとそうであるものがあることを報告した。疼痛が改善するものを sympathetically maintained pain :SMP 交感神経依存性疼痛とし、効果がないか、症状が増強するものを sympathetically independent pain :SIP 交感神経非依存性痛とした。 |
1994年 | IASPは慢性疼痛の分類で、名称に「sympathetic」という用語を含まないCRPSという新しい名称を作って、RSDとカウザルギーがCRPSにまとめた。RSDをCRPS type I、カウザルギーをCRPS type IIとした。 |
1546年 | Charles Estienne(1504〜1564, パリ)が、脊髄内に空洞形成を示す疾患の病理所見を報告した。 |
1764年 | Domenico Felice Antonio Cotugno(コトゥーニョ P 1736/1/29〜1822/10/6, ナポリ大の内科医)が著書に坐骨神経痛(Cotugno's disease)の記載(坐骨神経の走行と一致する痛みの記載)をした。 |
1824年 | Charles Prosper Ollivier d'Angers (1796〜1845)が「syringomyelia(脊髄空洞症)」と命名した。 |
1841年 | François Louis Isidore Valleix(1807〜1855, フランスの内科医)が神経痛の圧痛点を報告した。 |
1853年 | James Paget(P 1814/1/11〜1899/12/30, 英国Royal Collegeの外科医、病理学者)が「Lectures on Surgical Pathology」で、骨折の後に発症した手根管症候群を報告した。 |
1875年 | Simonが中心管とは無関係に形成された空洞を「syringomyelia」と呼び、中心管が拡大して形成された空洞を「hydromyelia(水髄症)」と呼ぶよう提案した。 |
1892年 | Abbe & Coleyが脊髄空洞症の治療として、syrinx shunt短絡術をおこなった。 |
1865年 | Gardnerが脊髄空洞症の治療として、大後頭孔減圧術を行った。 |
1881年 | Charles Ernest Lasegue(P 1816〜1883)の弟子のForstが、坐骨神経痛を装う仮病の兵士を見分けるための疼痛誘発法として、「ラセーグ徴候」を紹介した。 |
1898年 | Arthur Van Gehuchten(P 1861〜1914、ベルギーの解剖学者)は、脊髄空洞症の症例から、痛覚と温度の線維は脊髄の前側索を、位置覚を伝える線維は後索を通ることを見つけた。 |
1906年 | Joseph Jules Dejerine (P 1849〜1918, パル大学教授)とGustave Roussy(P 1974〜1948, スイスーフランス、神経病理学者)が視床の傷害後の患者に軽度の麻痺、知覚傷害、片側性の運動失調、耐え難い神経性あるいは発作性の疼痛が共通してみられることを報告して、この疾患を「視床症候群」と命名した。 |
1923年 | William Gibson Spiller(↑P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)が、脊髄空洞症とアロディニアについて初めて記載した。 |
1938年 | George Riddoch*(1888〜1947、ロンドンの神経学者、Headの共同研究者)が、中枢痛を「spontaneous pain and painful overreaction to objective stimulation, resulting from lesions confined to the substance of the central nervous system, including dysesthesia of a disagreeable kind.」と定義した。 |
1947年 | Otto Steinbrocker(1898〜1987/1/11, ウィーン生まれのアメリカのリウマチ研究のパイオニア)は肩の有痛性運動障害を持った患者の中に、同側の手の腫脹を伴う者がいたことに注目し、肩手症候群(shoulder-hand syndrome) と名づけた。 |
1986年 | Jose L. OchoaがABC 症候群を定義した。 |
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