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1772年 | Joseph Priestley(P 1733-1804, 英の化学者、非国教会派の牧師)が笑気↓1(亜酸化窒素 N2O)を発見した。 |
1799年 | Sir Humphry Davy(P 1778/12/17〜1829/5/29, イギリスの化学者、Thomas Beddoes↑の助手)が、笑気ガスの麻酔作用を発見した。Beddoesの研究所では、当時次々と発見されていた各種気体の臨床応用の可能性を追求していて、Davyは笑気の研究中に、たまたま酩酊効果を自ら体験した。ガスを吸った後に顔筋麻痺により笑顔を呈することから、「Laughing gas」と命名した。その麻酔効果を、研究所を訪ねてきた友人にガスを吸入してもらい、その成果を披露した。彼自身の智歯を抜いた後の激痛を笑気ガスの吸入で抑制されたことから、外科手術の時の苦痛を軽減できる可能性示唆した。---全身麻酔の始まり!1800年に論文「Researches, Chemical and Philosophical」として発表したが、医学の用途は限られており、今日のシンナー遊びに似た笑気ガス遊びが若者の間に流行するきっかけになってしまった。 |
1823年 | Henry Hill Hickman(P 1800〜1830, 英国の内科医)は、動物実験で、笑気ガス↑と二酸化炭素の両方で、無痛で手術ができることを確認した。 |
1834年 | Samuel Colt(1814/7/19〜1862/1/10, コルト拳銃の発明者、リボルバーの特許)は少年時代、父の織物工場で化学主任と一緒に、笑気ガス遊びに耽っていたので、笑気ガスを吸入すると、奇妙な振る舞いをすることを知っていた。Coltは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかったので、笑気ガスの興業で企業の設立資金を集めた。1834年〜1836年の3年間、「Dr. Coult of London, New York and Calcutta」 「Dr. Coult's gas」「Professor Coult」と名のり、笑気ガスを荷馬車に積んで、カナダおよび全米各地を巡業した。「笑気を吸うと、笑って、歌って、踊って、しゃべって、そしてけんかなどして陽気になる、さあさ、皆さん笑気ガスを吸ってみませんか?」彼は卓越したエンターテイナーであり、聴衆は25セントを払い、笑気ガス吸入によるパフォーマンスを楽しんだ。後にColtは大富豪となったが、子供の死の悲しみから立ち直れず、又痛風とリウマチ性疾患で、47歳の短い生涯を遂げた。 「笑気ガスパーティ」の興業はColt↑以外の化学者達によっても各地で巡業された。Gardner Quincy Colton↓(P 1814/2/17〜1898/8/9, 米国歯科医)は、ニューヨークのCrosby Street College of Physicians and Surgeonsで医学を2年間学び、在学中に硫酸アンモニウムの加熱による亜酸化窒素製造法を完成させた。2年間の研究の後、Coltonは「化学教授」と自称して、ブロードウェー・タバーナクルで笑気ガスの大展示会を開催し、大当たりを取り、その勢いで各地を巡業し、大きな利益を上げていた。 当時の米国にはほとんど娯楽がなく、野外で行われた「笑気ガスパーティ」や「エーテルパーティ」のような化学実験で、吸入者の酩酊ぶりを見て、多くの聴衆は、腹を抱えて大笑いし、楽しんだ。あまり勧められる娯楽のようではないかもしれないが、このような興行師のおかげで、開国間もない米国で吸入麻酔の発見がなされ、今日外科手術が発展し、患者を苦しめた手術による痛みからの解放につながった。 |
1844年 | Horace Wells(P 1815〜1848, アメリカConnecticutの歯科医)は、12月10日の夜に、ハートフォードのユニオン・ホールに巡回してきたColton↑による「笑気ガス実演会」に参加した。友人のSamuel Cooleyが笑気ガスを吸入し、ふらついて向こう脛を椅子にぶつけて血を流しているにもかかわらずケロリとしているのを見て、笑気ガスによる鎮痛を思いついた。翌朝Coltonを自分の医院に招き、笑気ガス吸入による抜歯を試みた。Wellsは笑気を吸入し、十分効果が現れた後、友人のJohn Riggs(1810〜1885, 歯槽膿漏の発見者)に虫歯になっていた臼歯を抜いてもらうと、無痛で抜歯に成功した。その後、同僚達を相手に実験を行い、笑気ガスの有用性を確信した。* |
1845年 | Horace WellsP↑は、ボストン時代の弟子のMorton↓と化学者のJackson↓に相談し、マサチューセッツ総合病院の高名な外科医John Collins Warren(P 1778〜1856)に、公開手術のチャンスを得た。1月15日マサチューセッツ総合病院臨床講堂で、「鎮痛のための笑気の使用について」と題して講議、および、抜歯の公開手術手術したが、失敗した。笑気麻酔を受ける予定になっていた患者は、麻酔を受けることを拒否したため、代わりに若い男子学生が、智歯の抜歯に笑気を吸入することに同意した。被検者は抜歯を行っている間ずっと身体をよじってうめき続けた。後になって実際にはほとんど痛みを感じなかったことを告白したが、Wellsは信用を失った。
公開手術の失敗から、歯科医を廃業し、名画の複製品の販売などで生計を立てるようになる。Wellsは、クロロホルム中毒となり、額の仕入れのために行ったニューヨークで、クロロホルムを吸入した後、客をさがす娼婦に硫酸をかけ、逮捕された。留置場で密かに持参したクロロホルムを大量に吸い、自己麻酔下に股動脈を切断して、自ら命を絶った。1848年、享年33歳。 1878年Paul Bert(フランスの生理学者)の研究は、Wellsの業績を庇護した。 |
1863年 | Gardner Quincy Colton↑(P 1814/2/17〜1898/8/9, 米国歯科医)が、抜歯への笑気使用を普及させた。 |
1867年 | S. S. White 社(歯科機械店)が、鼻と口を覆う笑気ガス吸入器を製作した。 |
1868年 | Edmund Andrews(1824〜1904 シカゴの外科医)が、20%酸素と笑気を共に投与することで、麻酔の安全性を高めました。 |
1872年 | Johnston 兄弟が、笑気を鉄筒に詰める事に成功し、笑気吸入器を製作した。 |
1877年 | Joseph Thomas Clover↑(P 1825〜1882, 英国)は、笑気ーエーテル麻酔を始めた。そして、1877年に、エーテルの濃度を調節できる携帯式麻酔器製作した。 |
1887年 | Sir Frederic William Hewitt(1857〜1916, 英国)が、一定濃度に調節可能の笑気>ガスと酸素の混合麻酔器(吸入器)を製作した。 |
1889年 | G. H. Hurd(米国)笑気↑・クロロホルム麻酔器を開発した。 |
1891年 | 片山敦彦が、米国から笑気の吸入器を持ち帰り抜歯に用いた。 |
1895年 | 神翁金斉が、笑気ガス麻酔器を米国から輸入した。 |
1896年 | 伊沢信平が、神翁の麻酔器を使い、笑気吸入で初めて歯科治療を施行した。 |
1921年 | 日本で初めて笑気を用いて口腔外科の麻酔が施行された。 |
1924年 | Jay Albion Heidbrink (1875〜1957, Minneapolisの麻酔科医)が、麻酔バッグの圧による作動開閉弁と笑気、エチレン、炭酸ガス、酸素にそれぞれ2基の hanger yoke とエーテル気化器を備えた Lundy-Heidbrink 型麻酔器を開発した。 |
1955年 | 別府化学社が、本邦で始めて、笑気の製造を開始した |
1972年 | 久保田康耶教授(東京医科歯科大学)が笑気吸入鎮静法を日本に紹介した。 |
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1831年 | Samuel Guthrie(1782〜1848, アメリカの内科医)がクロロホルムを発見した。それとは独立して、数ヶ月後に、Freiherr Justus von Liebig(1803〜1873, ドイツの化学者)、Eugene Soubeiran(1797〜1859, フランスの化学者)もクロロホルムを発見した。 |
1834年 | Jean-Baptiste-Andre Dumas(P 1800〜1884)が、クロロホルムを命名し、組成を明らかにした。 |
1847年 | Marie-Jean-Pierre Flourens(P 1794〜1867, フランスの生物学者)とRobert James Fegle(1790〜1843)が、クロロホルムの麻酔作用を記載した。 |
1847年 | Sir James Simpson (P 1811〜1870, エディンバラの産婦人科医) は、エーテルで分娩を行ったが、必ずしも満足すべきものではなかった。クロロホルム>を初めて吸入麻酔薬として使用し、外科手術に新紀元を開いた。クロロホルムはエーテルよりも速やかに麻酔がかかり、不快なにおいがしない。しかし、教会は無痛分娩に対し、「痛みは神の教えである」と批判されたので、Simpsonは「神がアダムを眠らせ、その肋骨を1本取り、イヴを誕生させた」と反論した。 |
1853年 4月7日 | John Snow↑(P 1813〜1858 イギリス人医師)が、Prince Leopoldの出産に際し、Queen Victoriaにクロロホルム麻酔を施行し、無痛分娩を行った。その後全身麻酔が急速に欧米に普及した。 |
1857年 安政4年 | Pompe van Meerdervoort(P ポンペ・ファン・メールデルフォールト 1829〜1908, オランダ海軍軍医、1857年9月に来日)が、日本にクロロホルムの麻酔を紹介した。 |
1861年 文久元年 | 伊東玄朴(寛政12年(1800)〜明治4年(1871) シーボルトPの弟子)はPompe↑がオランダから取り寄せたクロロホルムを使用して桜井由次郎の脱疽の右足を切断した。本邦初のクロロホルムの麻酔である。 |
1862年 | Joseph Thomas Clover(P 1825〜1882, 英国)が、クロロホルムと空気のパーセンテージを調節できる新しいクロロホルム吸入器を開発した。 |
1867年 | James Curtis Hepburn(P ヘボン、1815/3/13〜1911/7/11、ヘボン式でも知られるアメリカの宣教師で医師)は、閉塞性血栓血管炎の歌舞伎の役者、三代目澤村田之助の右膝関節をクロロホルム麻酔下に切断した。 |
1881年 1月29日 | Theodor von Billroth↑(P 1829〜1894、ウイーン大学の外科医)はクロロホルム麻酔で、胃癌に罹った43歳の女性の手術を執刀した。このときの残胃と十二指腸の吻合法を改良したものが、現在「ビルロートI法」で、さらに、十二指腸の断端は閉鎖して、残胃と空腸を吻合する「ビルロートII法」も案出した。 |
1881年 | Alexander Crombil(インド)が、クロロホルム麻酔に先立ち、モルヒネによる前投薬を行った。 |
1882年 | Samuel J. Hayes(1833/6/22〜 Pennsylvaniaの歯科医)が、エーテル ークロロホルム用の気化器を開発した。参考1 |
1894年 | Leonard G. Guthrie(1858〜1918)が、遅延性のクロホルム肝毒性が見られた小に症例の数例を報告し、クロロホルム麻酔麻酔が衰退し始めた。 |
1909年 | Burkhardtが、クロロホルムとエーテル↑を静脈内麻酔に使用した。 |
1911年 | Alfred Goodman Levy(1866〜1954)が、浅いクロロホルム麻酔とアドレナリンの組み合わせた致死性の心室細動を引き起こすことを動物実験で示し、これによってクロロホルム麻酔をうけた健常患者で数例報告されていた原因不明の突然死が説明されたため、クロロホルム麻酔が将来にわたって用いられる可能性がなくなった。 |
20C | クロロホルム↑は、米国でもエーテルや笑気ガスを駆逐する勢いで広まった。しかし肝臓に対する副作用や、不整脈に続く突然死を引き起こすことが判明した。新たにシクロプロパン、ハロセンが開発されて以後、クロロホルムは外科の領域から消えた。 |
77年 Pedanius Dioscorides(P AD40?〜90?, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は、感覚の喪失として、"anaesthesia"という用語を使っていた。 1835年 奥田万里(漢方と蘭方の折衷医、各務文献に整骨術を学んだ)は骨折治療書「釣玄四科全書整骨篇」の中で、「麻睡湯」という用語を使用した。 1846年 Sir Oliver Wendell Holmes(P 1809〜1894, ハ−ヴァ−ド大学の医学部教授、作家、Mortonの友人、Warren↑の同僚)は、Mortonの実験を見て、その偉業を称え、エーテル吸入で起きる状態を「Anesthesia」(ギリシャ語、an-aisthesia, 無ー感覚)と提案した。 1850年
嘉永3年「麻酔」という用語は、杉田成郷(せいけい、1817/12/18〜1859/3/23、玄白の孫、蘭学者)が初めて使った。成郷が翻訳した「済生備考」「亜的耳吸法試説」は、もともとドイツ語で書かれたJ. Schlesingerの「ether anesthesia 」のオランダ語版を訳したもので、鎮痛状態と意識消失を「麻酔」と表現した。
「麻」:analgesia or loss of regional sensation
「酔」: loss of consciousness
Most people consider that "Ma" is originated from " (Hemp, Asa)" or "(Marihuana, Taima)", however, this is definitely incorrect and "Ma " of "Ma-sui" has no direct relation with the pharmacological effect of hemp.*1905年 Heinrich Braun↑(P 1862〜1934, ドイツの外科医)が、「局所麻酔」に関する教科書を出版した。 1922年 Louis Gaston Labat(P 1876〜1934, アメリカ)が「Text Regional Anesthesia 区域麻酔学」を著した頃には、ほとんどの局所麻酔法は確立されていた。局所麻酔、伝達麻酔、脊椎麻酔について記載した。
1846年 William Thomas Green Morton(1819〜1868, アメリカの歯科医、Wellsの弟子の)とJohn Collins Warren(マサチューセッツ総合病院の高名な外科医)は、新しくデザインしたエーテル麻酔器にLetheonと名づけて、アメリカ合衆国の特許を取得しようとしたが、うまくいかなかった。Letheonは、ギリシャ神話で、その水を飲むと、生前の痛みの記憶を忘れるという忘却の川River Letheに因んでつけた。 1869年 Friedrich Trendelenburg(P 1844〜1924)が気管内挿管(経気管切開下)を始めた。 1867年 Ferdinand Adalbert Junker von Langegg↓ (ユンケル フォン ランゲック P1828〜1902, 英国籍ウィーン大学出身、普仏戦争に従軍、槇村知事らが京都活性化のために招聘した外科医の一人で、Leipzig大学推薦による。日本名:永克、万次郎格)は、ロンドンで「ユンカーの麻酔器 Junker's Inhaler」を発明した。吸入法 insufflation methodeにより、2連球で、空気を送って、ガラス瓶の中のクロロホルムあるいはクロロメチルを気化し、金属マスクで吸入させる。軽便な携帯型で、明治の初めからわが国にも輸入され国産改良型も作られた。 1872年 Ferdinand Adalbert Junker von Langegg↑は、京都府立医科大学の前身の療病院に招かれ、Yunkerの麻酔器を日本に紹介した。 1882年 Samuel J. Hayes(1833/6/22〜 Pennsylvaniaの歯科医)が、エーテル ークロロホルム用の気化器を開発した。参考1 1887年 F. W. Hewitt(英国)が、一定濃度に調節可能の笑気ガスと酸素の混合麻酔器(吸入器)を製作した。 1889年 G. H. Hurd(米国)笑気・クロロホルム麻酔器を開発した。 1895年 神翁金斉が、笑気ガス麻酔器を米国から輸入した。 1921年 中川小四郎(東北帝国大学杉村外科)が、「アルコールによる経静脈的点滴麻酔法」(独文)を発表した。 1923年 Richard von Foregger(P 1872/6/27〜1960 ウィーン→米国の化学者、Foregger Companyの創設者)が、4基の hanger yoke (ボンベ装着装置)とエーテル↑気化器を備えた Seattle 型麻酔器を開発した。 1924年 Jay Albion Heidbrink (1875〜1957, Minneapolisの麻酔科医)が、麻酔バッグの圧による作動開閉弁と笑気、エチレン、炭酸ガス、酸素にそれぞれ2基の hanger yoke とエーテル↑気化器を備えた Lundy-Heidbrink 型麻酔器を開発した。 1941年 Miller型喉頭鏡の発明 1943年 Macintosh型喉頭鏡の発明 1954年 Foregger Company↑ の麻酔器が日本に輸入された。 1976年 Evansらによって,最初のPCA専用機器が開発・市販された。
参考
Pain Relief