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BC30C | シュメール人の粘土板の記録では、アヘンのほかに、マンドレーク↓、ヒヨスなども、鎮痛薬として使われていた。 |
BC23C | 古代バビロニアでは、歯痛が起きた時には、Anuアヌ神に「worm tooth歯虫祓」のincantation呪文を三度唱え、その後、ヒヨスの実と乳香を混ぜたものを虫歯の穴に詰めて、歯痛を治療していた。
The sky had created [the earth], The earth had created the rivers. The rivers had created canals, The canals had created the marsh, The marsh created the worm. The worm went forth weeping, before Shamash, Before Ea in tears (saying), "What will you give me to eat? What will you give me to suck on?" "I will give you ripe figs, armannu fruit, and apples." "Of what use to me are ripe figs, armannu fruit, apples? (instead), raise me up and let me live between the teeth and the jaw! I will suck the blood from the teeth! I will chew upon the food in the jaw!" "Because you have spoken thus, O worm, May Ea strike you with all the strength of his hand!" (メソポタミア神話で、Anuは最高の天の神、Eaは知恵の神) |
エジプト人は、マンドレーク↑を、太陽神ラーからの贈り物と信仰していた。 | |
旧約聖書の創世記にも、マンドレーク↑の記載があり、ヘブライ人も使っていたと思われる。「ルベンは小麦の収穫の頃、出て行ってのにマンドレークを見つけ、それを母レアのところに持っていった。ラケルがレアに言うには、「あなたのこのマンドレークを私に下さい。」レアはラケルに答えて、「私の夫を奪っただけで足りずに、私のこのマンドレークまでもあなたはとろうとするのか。」 | |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)は、人間の身体は、「血液、黒胆汁、黄胆汁、粘液」の4種類でできているという「四体液説」を唱えた。片頭痛についても記述していた。マンドレーク↑の効果については、「意気消沈を軽減する」と記述していた。 |
AD30年 | Aulus Cornelius Celsus(P BC25頃 -AD 50頃, 古代ローマの貴族で、著述家、医師)は、その著書「De Medicina」に、アヘンのほか、マンドレーク↑も鎮痛に使っていた。 |
AD1C | Gaius Plinius Secundus(P Pliny the Elder: 大プリニウス, 23〜79, ローマ帝国海外領土総督)は、「博物誌」を著し、マンドレーク↑の使用を記載していた。 |
AD77年 | Pedanius Dioscorides(P AD40〜90, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は、マンドレーク↑から鎮痛薬のマンドラゴラを作っていた。ワインにマンドレークの根を3分の1加えて煮詰め、えられた液を保存する。マンドレークの根をワインで煮込んだ煮汁をローマ軍の遠征に従軍する時にも持っていった。患者の足を切断する時や焼灼する前に、マンドレークワインカップ一杯分(kyathos=about 4.6cc)を与えると、よく眠り、無痛で手術ができた。[参考 Canadian Journal of Anesthesia 47:367-374 (2000)1/2] |
AD200年頃 | 古代ローマで名をなした医師の多くはギリシャ人であったが、彼らは手術の前にワインや眠り薬を飲ませていた。Lucius Apuleius(アプレイウス 123年頃〜180, アフリカ生まれのローマの弁論作家)が、AD200年に書いた記録:「四肢切断、焼灼、縫合するとき、患者にマンドレーク↑半オンスにワインを混ぜて飲ませて、眠らせ、痛みがないようにせよ。“If anyone is to have a member mutilated, burned or sawed let him drink half an ounce with wine, and let him sleep till the member is cut away without any pain or sensation.” (K. Walker, The Story of Medicine)」(Apuleiusの著書:「黄金のロバ Golden Ass, Metamorphoses」巻10では、劇薬の調合を依頼された医師が、犯罪のにおいを感じ、代わりに仮死状態になるだけのマンドラゴラを与える。それを誤って飲んだ男児が倒れ、彼の義兄が無実の罪に問われて、死を宣告される。法廷にあらわれた医師が事情を説明し墓地へ赴いて、息をふきかえした男児を皆に示す。)(10世紀に書かれた「アプレイウス本草書」や「バルドの医療書」には、マンドラゴラは人間の首から数本の大きな葉が放射状に生えた形で描かれているが、もちろんApuleius画家板ものではない。) |
AD2C | 「三国志」華佗伝には、華陀 Hua Tuo(P 110〜207, 後漢末の医師)の行った数々の治療や診断の例が記録されている。華陀は、世界で最初に、麻酔をして、開胸手術や頭蓋切開を行っていたと言われている。麻沸散を酒と一緒に飲ませて、麻酔をしていた。麻沸散の詳細は不明であるが、インド大麻あるいは、曼荼羅華から作られたとされている。また術後は傷口を縫い合わせて神膏を塗り、4、5日で傷が治り、1ヶ月で完治したという記録が「後漢書」に残っている。 歌川 国芳が描いた錦絵にも、「痛みを忘れるために碁に熱中する武将関羽の腕を医師華陀が手術するの図」がある。「三国志演義」では、華陀は、無麻酔で関羽の手術をしたことになっている。トリカブトの毒矢を受けた関羽の右腕を切り開き、骨を削る手術をする。関羽は麻酔をしていないのに、手術中に、馬良を相手に平然と碁をさしていたことになっている。その手術の凄惨さに名医華陀でさえ額に脂汗を浮かべ、それを見ている侍臣のほうが真っ青になって顔をそむけてしまったという。「三国志演義」はフィクションであり、正史「三国志」にはそのような記述はない。 ⇒詳細 許昌に華陀の墓がある。青洲は、華陀のことを知って、麻酔に挑戦した。「後漢書」の方術列伝、「三国志」の華陀伝などに記載がある。華陀はペルシャ人であった可能性がある。“華陀”は中世ペルシャ語の“xwaday”の音訳で「先生」を意味しているからです。 |
6世紀 | Isidorus Hispalensis(560〜636、セヴィーリアの司教)は、術前にマンドレーク↑の根の樹皮を混ぜたワインを飲ませて寝かすと、痛みを感じないことを引用していた。 |
9世紀 | 中世には、手術の際の鎮痛薬として、アルコール蒸気の利用が試みられた。中世に書かれた多くの文献:イタリア、サルレノ近くのモンテカシノにあるベネディクト修道院にある文献に、、催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)に関する記載がある。 手術を受ける患者を眠らせて、切開の際の痛みを感じさせない眠り薬の処方。、アヘン↑半オンス、葉から搾ったマンドレーク↑の液8オンス、新鮮な毒ニンジン液、ヒヨス3オンスを充分な水に混ぜて溶液とし、きれいな乾燥海面に含ませて注意深く乾燥させる。手術前には、海綿を温水に浸し、患者の鼻の上に置いて、眠りにつくまで深呼吸させる。手術が終わると、海綿をはずして、覚醒させた。 |
12世紀 13世紀 | もともとアラブでは、吸入による麻酔についての記載があった。12C後半にSalerno school、13CにUgo Borgognoni(Ugone da Lucca, Hugh of Lucca 1160〜1252)が催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)を紹介した。Borgognoniで開業していたドミニコ修道会のTheodoric Cervia (Theodoric Borgognoni, 1205〜1298/12/24, Hughの息子、イタリアの内科医、司教)が用いた催眠海綿もSalernoの催眠海綿と同一の成分を含んでいた。Theodoricは、手術時の疼痛を取り除く方法を積極的に採用した最初の外科医の一人である。 |
AD16C | 手術の前に、マンドレーク↑1を飲ませる処方は、中世以降次第にすたれていくが、エリザベス女王治世の英国では、アヘン↑やマンドレークを眠り薬として使用していたと考えられる。William Shakespeare(1545〜1616)の「ロミオとジュリエット」、「アントニオとクレオパトラ」「オセロ」にも睡眠薬として服用していたことが暗示されている。 |
16C | AD16Cのフランスでは、マンドレーク↑の過量投与による事故が絶えなかったので、マンドレークによる全身麻酔はほとんど行われなかった。ニコラ・バイユリィという床屋外科医が強力な麻薬を使って裁判にかけられたという記録が残っている。フランスでは、アルコール飲料を飲ませて酔わせる方法、あるいは、頸動脈の圧迫↑が行われ、手術をできるだけ早くすませるのが最も良いとされていた。 |
1804年 (文化1) 10月13日 | 華岡青洲 P は、1760年=宝歴10年10.23〜1835年(天保12年)、紀伊国上那賀郡名手庄西野山村字平山(和歌山県那賀郡那賀町大字西野山字平山)の村医華岡直道の長男として生まれた。幼名は雲平(うんぺい)、名は震、字は伯行、随賢と号し、また居所の名をとって春林軒ともいう。大阪で南蛮流の医学を学んだ父直道から医学を学び、23歳の時には京都に医学を学びに行く。華岡家は経済的には裕福ではなく、彼を京都に送るために、妹のお勝と小陸が機を織ってその費用に充てた。吉益南涯からは漢方を学び、名医と謳われた大和見立のもとで、オランダのカスパル流外科術を学んだ。当時は、焼酎のような強い酒で患者を酔わせて手術を行っていた。25歳の時に父の診療所を継ぎ、その後一生この村で診療を続けた。青洲は、1804年(文化元年)10月全身麻酔下での乳癌摘出手術に世界で初めて成功した。「麻沸散」を飲ませて多くの外科手術を行っていた、中国三国時代の名医:華陀に心酔し、青洲は「日本の華陀になりたい」と考えるようになった。麻沸散の詳しい成分は明らかでなかったので、自ら山野を歩き回って薬草を集め、多数の犬や猫での動物実験、自分の母於継や妻加恵(後失明)、そして自分自身を使っての人体実験の末、経口全身麻酔薬の「通仙散(つうせんさん)」を開発した。通仙散は曼荼羅華(まんだらげ=チョウセンアサガオ Datura sp.)や、鳥頭 (うず=トリカブト)、川芎(せんきゅう、セリ科)、当帰(とうき、セリ科)、白芷(びゃくし、セリ科)、白芍(しゃくやく、はボタン科)等10種類の薬草を配合をしたものである。通仙散による麻酔は、曼荼羅華に含まれるスコポラミンなどによる作用だと考えられている。1796年(寛政8年)ごろ、通仙散はほぼ完成していたが、それから8年後に、最初の全身麻酔科の乳がん手術が行われた。乳がん摘出手術の患者は、大和国五條村の藍屋利兵衛の母勘(60歳)。以後、乳がん手術だけでも153例のほか、舌がん、膀胱結石、脱疽などの数多くの手術を行った。門人は千人を越え、数多くの名医を輩出した。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で発見した。 朝鮮アサガオの花は、和歌山県立医大の学章や、日本麻酔科学会のシンボルマークになっている。 |
1902年 | Steinbuche(ドイツ)はモルヒネとスコポラミンによる Twilightsleep 半麻酔状態による産科麻酔を開発した。 |
1905年 | Krawkow Nikolai(Pavlovich Kravkov)(1865〜1924, ロシアの薬理学者)が、hedonal(ウレタンの誘導体)を静脈内麻酔に使用した。 |
1927年 | Ockerblad NFとDillon TG(アメリカ)(アメリカ)が、脊椎麻酔時の低血圧にエフェドリンを使用した。 |
1940年 | William T. Lemmon(P 1896〜1974、フィラデルフィア)が、Continuous spinal anesthesia 持続脊椎麻酔を行った。(→くも膜下投与) |
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1864年 | Johann Friedrich Wilhelm Adolf von Baeyer (P 1835/10/31〜1917/8/20)が、マロン酸と尿素ureaからバルビツレート↓を抽出した。12月4日(守護聖人聖 Barbaraの祝日)にureaから合成したので、barbiturateと命名した(1905年のノーベル化学賞受賞者) |
1903年 | Hermann Emil Fischer (1852〜1949, ベルリンの化学者, von Baeyerの弟子)とJoseph von Mering(生理学者)が、5,5‐ジエチルバルビツール酸を合成して、Bayer社から催眠薬ベロナールVeronalとして売り出された。(1902年Fischerは、ペプチドの合成、フィッシャー投影式の発案、エステル合成法(フィッシャー合成)の発見などの功績で、ノーベル化学賞を受賞した。) |
1904年 | Hermann Emil Fischer(ドイツの化学者、ノーベル化学賞受容者)がフェノバルビタールを開発した。 |
1912年 | Alfred Hauptmannがフェノバルビタールの鎮静作用を期待して投与して、抗てんかん作用を認めた。最初の有機合成の抗てんかん薬として登場した。 |
1932年 | 最初の静脈麻酔として、Helmut Weese(1897〜1954)とScharpffがhexobarbital (Evipan、超ショートアクティングのバルビツレート↑) を麻酔の導入に用いた。 |
1932年 | Donalee TabernとErnest H. Volwiler(P 1900 〜1974, Abbott社の化学者)が、Thiopental (Pentothal®)とThiamylal (Surital®)を合成した。Abbottでは、バルビツレート核の酸素原子を硫黄原子に置換した硫化バルビツレートを数種類作成し、共同研究していたArthur Lawrie Tatum(Wisconsin大学の薬理学教授、長男はノーベル賞受賞者のEdward Lawrie Tatum)に送付したところ、Tatumはthiopental が有効であると判断したので、AbbottはPentothalとして売り出した。 |
1934年 | Ralph M. Waters(P 1883〜1979, Wisconsin大学の麻酔科教授)とJohn Silas Lundy(P 1894〜1973, Mayo Clinicの内科医)が静脈内麻酔として、pentothal sodium(thiopentone →ラボナール)を臨床応用した。(Watersは3月8日から使用し始めていたが、報告は翌年。Abbottの依頼により、Lundyの方が成果を先(6月)報告した。高名であるが謙虚な Watersは、Lundyの功績を認めた。) |
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BC | BC3000年頃から現在のイラク北部に住み着いて、BC612年に滅ぼされたアッシリア人は、頸動脈を圧迫して、意識を失わせてから手術を行っていた。頸動脈のラテン語は、arteria cartisであるが、これは深い眠りを意味するギリシャ語のκαροαυに由来している。この方法は、古代ギリシャでも行われていた。 |
1363年 | Guy de Chauliac(P 1300〜1368、フランスの外科医、内科医)は、神経幹圧迫による麻痺効果を利用して、手術を行っていた。「Chirurgia magna」は、16世紀までもっとも権威あるテキストとなった。 |
1545年 1564年 | Ambroise Pare(P 1510〜1590/12/20, ルネサンス期の外科医)は、四肢切断前には、ターニケットで循環をブロックするという神経圧迫による局所麻酔手術に成功していた。 ⇒詳細 |
16C | AD16Cのフランスでは、ニコラ・バイユリィという床屋外科医が強力な麻薬を使って裁判にかけられたという記録が残っている。フランスでは、アルコール飲料を飲ませて酔わせる方法、あるいは、頸動脈の圧迫↑が行われ、手術をできるだけ早くすませるのが最も良いとされていた。ナポレオンの軍隊がボロディノで帝政ロシアの軍隊と戦ったとき、ナポレオン軍の軍医であったラリイが、24時間に200例もの四肢切断術を施し、たいへんなスピードで手や足を切断していたことがうかがわれる。 |
1646年 | Marco Aureliano Severino(1580〜1656, ナポリの解剖学教授、外科医)の著書「De Novis Usa Medico(最初の外科病理学の教科書)」の中に、雪と氷を用いた冷却麻酔について記載してた。彼のデンマーク人の弟子の Thomas Bartholinは、「refrigeration anaesthesia」と記載していた。1/2/3/ |
1689年 | 琉球の御殿医高峰徳明は、黄会友(中国・清)を学んで、全身麻酔 (?) による口唇裂の手術を行った。 |
1784年 | James Carrick Moore(1763〜1834, グラスゴー生まれのロンドンの外科医)神経圧迫とアヘンを組み合わせて麻酔した。Mooreは術後痛に初めてアヘンを使用した。「A method of preventing or diminishing pain in several operations of surgery」で神経を圧迫する装置を紹介している。* |
18C末 1794年 | John Hunter(P 1728〜1793、英国の外科医、解剖学者)は、局所を冷却して、その部位の感覚を麻痺させてから、メスを加えることをすすめていた。Seven Years' War(1756〜1763)にも従軍し、彼の死後(1794)に「A Treatise on Blood, Inflammation and Gun-Shot Wounds」が出版された。 HunterはSt. Georges Hospitalにいた時、Moore↑の方法で坐骨神経やanterior crural nervesを圧迫して膝の下で下肢を切断していた。手術の1時間前に四肢の周囲に金属を巻き、スクリューで締め付けた。この方法では手術による強い痛みは軽減したが、圧迫による痛みが生じ、さらに循環を傷害するため、組織を傷つけ感染が起こりやすかった。 |
1808年 1812年 | Baron Dominique Jean Larrey(P 1766/7/8〜1842/7/25、ナポレオン軍の軍医)は、スペイン戦争(1808年)で多くの四肢切断の経験をしている。ナポレオンの軍隊がボロディノで帝政ロシアの軍隊と戦ったとき、凍った四肢は痛みを伴わずに切断できることを観察し、切断部を雪や氷で冷やした。Borodinoでは24時間に200例もの四肢切断術を施し、Berezina Riverでも300例もの四肢切断術を施した。 |
年 | Guillaume Dupuytren(P 1777/10/5〜1835/2/8、フランスHôtel-Dieuの外科主任、パリ大学医学部外科学教授、デュピュイトラン拘縮)はある女性をさんざん罵倒して失神させて、手術をしたことがある。 |
1844年 | Joseph Pancoast(P 1805〜1882、米国の外科医)は、「Textbook of surgery」を発行した。この教科書は、当時使われていた手術手技を広く網羅しているが、患者を楽にさせる方法については触れられていない。アルコールやアヘン、催眠術は用いられていたが、手術を成功裏に終えるには、素早く力づくで行うことが第1に要求された。 |
1845年 | James Esdaile(P 1818-〜1859、英国出身のインドの外科医、メスメリズムを最初に科学的に研究した医師、James Braid(P 1795〜1860、英国の医師)の友人)は、手術時の麻酔として催眠を利用した operations under hypnosis。インドのカルカッタに派遣されていた時、催眠の麻酔効果を外科手術に応用すると、手術中の死亡率が5%以下に低下したので、さらに催眠の麻酔技術に磨きをかけた。 |
1866年 | Sir Benjamin Ward Richardson(P 1828〜1896, Glasgowの医師)は、局所麻酔のために、凍った組織に、エーテル↑をスプレーした。 |
1884年 | Carl Koller(P 1857〜1944, ウィーン)がコカインを発見する以前、塩と氷を混ぜて、患部を冷却によって麻痺させていた↑。 |
1894年 | Carlson(スウェーデンの歯科医)が、エチルクロライド(クロールエチル)を口腔内にスプレーして、抜歯に成功した。 |
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1516年 | Peter Martyr d'Anghera (=Pedro Martir de Anghera1457/2/2〜1526/10, イタリア生まれのスペインの歴史家)が彼の著書「De Orbe Novo」に南アメリカの矢毒クラーレについて記載した。小動物にクラーレを注入しても、肺を膨らませておけば生かせることを観察した。 |
1595年 | Sir Walter Raleigh(ウォルター・ローリー 1552 (1554) 〜1618/10/29, イギリスの廷臣、探検家、作家、詩人)がGuyanaで矢毒にクラーレが使われているのを発見し、その毒性をヨーロッパに報告した。 |
1648年 | Marggravius Christianus(=Marggraf Christian, 1626〜1687) が初めてcurareと言う用語を使った。 |
1745年 | Charles Marie de La Condamine(シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ 1701/1/28〜1774/2/4, フランスの地理学者、数学者)軍人としての訓練を受けたが、科学や、地理的な探検に1731年に東部地中海沿岸のレバント地方の調査に参加し、1735年に緯度1度分に相当する子午線弧長を比較するために、ルイ・ゴダン、ピエール・ブーゲとともに赤道近くのペルーでの測量隊に参加した。この調査は困難を極め、最終的にコンダミーヌはペルーのキトからアマゾン川をくだり、カイエンヌに達した。これは最初のアマゾンの科学調査となり、 1744年フランスに戻った後、1745年に科学アカデミーの会報に測定結果と地図とともに旅行記を発表した。この中でアマゾン川とオリノコ川をつなぐ自然の運河であるカシキアレ川(Casiquiare)や、アマゾン原住民の使う矢の毒クラーレについて、最初にヨーロッパに紹介した。 * |
1780年 | Abbe Felix Fontana(1727〜1803, FlorenceのRoyal Cabinet of Natural Historyのディレクター)はクラーレは神経や心臓ではなく随意筋に作用することを発見した。 |
1800年 | Alexander von Humboldt(1769〜1859, ドイツの探検家フンボルト)が、オリノコ川一帯を調査したとき、アメリカ原住民に伝わる秘薬、筋を麻痺させる毒薬クラーレの製法を、原住民の呪い師から聞き出した。特定のつる植物の樹皮を搗き固めてから水を加えてろ過して煮詰め、別の植物の樹液で粘性を与える。 |
1812年 | Sir Benjamin Brodie(P 1783〜1862, 英国の外科医)がクラーレを命名した。人工呼吸器をつけていれば、動物はクラーレで死ぬことがないことを初めて報告した。 |
1825年 | Charles Waterton(P 1782〜1865, 英国の探検家)は著書「Wandering in South America」の中で、オリノコ川流域のインディアンが使用している矢毒は、蔓草の一種chondrodendron tomentosumの樹皮から抽出したものであることを記述した。突進してきたイノシシの顎に、クラーレを打ち込むと、約90m突進した後、倒れた。アカサルを射ろうとした矢がはずれて、人にあたると、矢毒に当たった人は死んだ。Watertonは、ロバにクラーレを注入すると、ロバは10分以内に死んだ。ロバの喉に穴を開けて、空気を入れて肺をふくらますと、ロバは死ななかった。2時間人工呼吸を続けると、クラーレの効果が消失した。クラーレは呼吸をコントロールする横隔膜を含めて、神経インパルスの筋への伝導をブロックすることが確認された。 |
1830年 | Karl Friedrich Philipp von Martius(1794/4/17〜1868/12/13, ドイツの植物学者) はブラジルのインディオRio Japura in がUnonopsis veneficiorumからのクラーレを使っていることを発見した。 |
1844年 | Claude Bernard↑(P 1813〜1878, フランスの生理学者、Magendieの弟子、1865年に「実験医学研究序説」を出版。)が初めてクラーレの実験をした。南米の友人から提供された原住民の矢毒をカエルの皮下に投与すると、筋肉は7分後に弛緩した。クラーレの神経筋接合部に対する抑制効果について1856年に報告した(Compt Rend Acad Sci)。 |
1857年 | Robert Hermann Schomburgk(1804/6/5〜1865/3/11, ドイツ人探検家、植物学者) がMucushi Indiansの使っていたクラーレの植物として、現在Strychnos toxiferaとして知られているマチン科(Strychnos)植物を同定した。 |
1906年 | George Harley (1829/2/12〜1896/10/27, スコットランドの内科医)はクラーレ (wourali) がテタヌスの治療とストリキニーネの毒に有効であることを報告した。 |
1906年 | Reid HuntとRene de M. Taveauがサクシニシニルコリンを開発した。 |
1912年 | Arthur La(e)wen(P 1876〜1958, ケーニヒスベルグ大外科)がクラーレを麻酔時の筋弛緩に利用した。 |
1914年 | Sir Henry Hallett Dale(P 1875/7/9〜1968/7/23、英国の神経科学者)がアセチルコリンを神経伝達物質であることを明らかにした。 →ノーベル賞受賞者(1936年) |
1935年 | Harold King(1887〜1956, ロンドンのMedical Research Councilの化学者)が竹筒クラーレの有効成分を単離し、d-tubocuranineと命名した。 |
1938年 | Richard C. Gill(米国Squibb研究所)がエクワドルから持ち帰ったchondrodendron tomentosumの樹皮からtubocurarineの精製に成功した。 |
1941年 | Richard Evans Schultes(1915/1/12〜2001/4/10, ハーバード大学の民族植物学)が初めてクラーレのソースを研究した。 |
1942年 | Thomas Cullenが純粋なアルカロイドとしてクラーレを紹介した。 |
1942年 1月23日 | Harold R. Griffith(P 1894〜1985, モントリオールの麻酔科医)とEnid Johnsonが1月23日the Homeopathic Hospital(モントリオール)でシクロプロパン麻酔下の虫垂切除術にクラーレを使用し、世界初の臨床麻酔における筋弛緩薬使用症例となった。合成クラーレ(Intracostin/ Intocostrin )を静注し、その作用は迅速で1分以内に現れ、10分から15分で消失し、手術は容易に行われた。(手術を受ける患者の身体は、意識がなく、痛みを感じないだけではなく、筋肉が柔らかく、弛緩した状態が必要だ。この状態を作るために、筋弛緩作用のあるクラーレが有効であった。クラーレの出現で、手術時間が短くなり出血量も少なくなった。)Haroldらはクラーレを使用した25人の患者の報告をした。参考1 |
1947年 | Daniel Bovet(1907/3/23〜1992/4/8, スイス生まれのイタリア人、パスツール研究所の薬学者、抗ヒスタミン薬の発見、ノーベル医学生理学賞)らがガラミンを開発した。 |
1950年 | Scurrがサクシニシニルコリンの使用を報告した。 |
1952年 | 本邦でアメリゾール®(クラーレ)の発売を開始。 |
1955年 | Wylieが気管内挿管の前にサクシニシニルコリンを使用した。 |
1955年 | 本邦でサクシン®(サクシニシニルコリン)の発売開始。 |
1964年 | David S. SavageとCollin Hewett(スコットランドのOrganon Labotaries)らがパンクロニウムを合成した。Baird and Reidが臨床応用した。 |
1967年 | 本邦でガラミンの発売開始。 |
1973年 | Roger Buckett(Organon Labotaries)らがベクロニウムを開発した。 |
1973年 | 本邦でミオブロック®(パンクロニウム)の発売開始。 |
1980年 | Agastonらがベクロニウムを臨床応用した。 |
1973年 | 本邦でミオブロック®(パンクロニウム)が発売開始。 |
1988年 | 本邦でマスキュラックス®(ベクロニウム)の発売開始。 |
1994年 | ロクロニウムが英国、オランダ、米国で発売開始。 |
2007年 | 本邦でエスラックス®(ロクロニウム)の発売開始。 |
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