|
→ |
| ←→痛みの伝導系 |
BC280年頃 | Herophilosor Herophilos(or Herophilus, BC335〜280 BC, ギリシャアレクサンドリア学派最初の重要な生物学の師、医師)は、人体解剖をはじめて公開で行い、脳が知能の座として、Aristotleの心臓説を退けた。脳は運動と感覚の仲介し、感覚神経と運動神経を区別した。各脳室について記載した。動脈と静脈を区別し,新たに乳糜管を発見し,脳静脈洞についても記載した。 |
BC250年頃 | Erasistratus(BC304〜BC250頃, ギリシャアレクサンドリア, エーゲ海のキオス島出身, 生理学の祖)は、大脳と小脳(ラテン語では CerebrumとCerebellum )とを識別した。人間が呼吸して吸い込んだ空気は、肺から心臓に運ばれ「生命精気」になりる。それが動脈によって脳に運ばれて「動物精気」に変わり、これが末梢神経を通じて手足の筋肉を動かすというのです。 「精気」という概念はGalen↓へ、さらにDescartes↓へと受け継がれた。 |
AD1C | Gaius Plinius Secundus(P Pliny the Elder: 大プリニウス, 23〜79, ローマ帝国海外領土総督)は、「博物誌」を著し、マンドレーク↑8の使用を記載していた。 |
AD2C | Aretaeus (Aretaios)(P AD130〜200, カッパドキア Cappadocia)は、ブラウンセカール症候群のような症状をすでに記載した。脳の障害ではその対側に麻痺が起こり、脊髄の障害では同側に麻痺が起こることをすでに記載していた。「病変が頭部以下たとえば脊髄膜のような部にはじまると、その病変と同じ側に連絡している部分が麻痺する。 ...しかし、もし主に頭部がその右側でおかされると、左半側の身体が麻痺する... なぜこんなことが起こるかといえば、神経の起始部から見て左右交叉があるからである。神経の経路は....その起始部からみてその反対側に移り、あたかも文字の "X" のように互いに交叉するからである。」 |
AD2C | Galenus(P 131〜201、ローマ時代の名医)は、牡牛の脳を観察し、脳を12箇所に分類し(脳室、四丘体、下垂体など)、脳神経を7対観察している。Galenusは末梢神経が運動と感覚の機能をもつことを知っていた。病気による痛みは末梢神経によって伝えられ、末梢神経が中等度に刺激されると快い感覚を生じ、それが強く刺激されると「痛み」が起こると説明した。皮膚では末梢神経に中等度の刺激が加わると触覚、強い刺激が加わると痛みをひき起こすと考えた。この考えは19世紀の「強度説」と同じである。 Galenusは(自律)神経節を"ganglion"と呼んでいた。脊椎動物の脊柱の内側に頸椎から尾骨まで伸び、ところどころに神経節と呼ばれるふらみを持つ2本の神経があり、神経節から分岐して内臓に達する神経線維を発見した。2本の神経は後に迷走神経として知られる大型の神経によって脳に繋がり、後に白色分岐と呼ばれる神経によって脊髄に繋がっていると考えた。Galenusは神経線維は「動物の魂」を通す中空管であると信じ、内臓は脳から直接「精妙な」感受性を、脊髄からは運動性を与えられると結論した。 最初に「視床 thalami」を名づけたのも Galenusだと言われる。しかし,Galenusがギリシャ語でthalami(thalamosの複数形)と名づけたのは視床より後方で、視神経の起始部と考えられた脳室の側方のようだ。彼は「精神の座は脳室にあり、そこに貯えられた精神精気 psychicon pneuma(ギリシャ語)=spiritus animalis(ラテン語)が視神経を通って眼に送られて視覚が生じる」と考えた。 |
1543年 | Andreas Vesalius(P 1523〜1562, 現代人体解剖の創始者、Padova大学外科学と解剖学の教授)が、それまでの神聖不可侵とされたガレノスの学説を修正し、近代系統解剖学の体系を樹立した。古代のローマで禁止されていたためガレノスの研究は動物解剖学に基づいていが、Vesaliusはバーバリーマカク猿や人体の解剖に基づくものであった。「De humani corporis fabrica」(人体の構造)にJan Stephen van Calcar(1499〜1546, ベネチアの画家、Tiziano Vecelliの弟子)の図版を入れてバーゼルのオポリウス書店から発行し、Kaiser Karl Vに捧げた。fabricaは全7巻で、1巻が骨、2巻が筋、3巻が脈管、4巻が神経、5巻が内臓、6巻が心臓、7巻が脳と感覚器からなる。『脳は脳硬膜の皺壁によって二部に分けられている。脳は二種の物質すなわち外側の灰白質及び内側の白質からなる。後者は神経を作る。脳表面には隆起及び陥溝があるが血管はこの溝を通る。大脳及び小脳は脊髄によって連絡される。』図で灰白質と白質の区別をし、内包、尾状核、レンズ核、被核、淡蒼球、視床などを描写したが、命名をしたわけではない。扁桃核はVesaliusが命名した。また頭蓋骨を支える第一頸椎を、天を支える巨人神にちなんでアトラスと名づけた。 |
1551年 | Gabriello Fallopio(Gabriel Fallopius)(P 1523〜1562, Vesaliusの2代後のパドワPadua大学の解剖学教授)が、ご遺体の解剖から「Observationes anatomicae」を著す。 Chorda Tympani, the semicircular canals, sphenoid sinus, 三叉神経などについて初めて記載した。ほかにfallopian tubes(子宮と膀胱の結合管)、 vagina、placenta、clitoris、palate、cochleaなどを命名した。 |
1552年 | Bartolomeo Eustachio(P 1520〜1574, ローマのサピエンザ大学の解剖学者)は、1562年から1564年までの論文で、耳管(Eustachian tube =エウスタキオ耳管)、鼓索神経、外転神経、副腎を発見した。初めて交感神経幹を発見したのもEustachioであるが、1552年に著した彼の著書「解剖図」は、1714年までローマ法王庁の書庫に眠っていたので、Thomas Willis↓が発見したことになっていた。 |
1664年 | Thomas Willis(P 1621〜1675, Oxford大学の自然哲学教授、ロンドンの開業医で、Charles I of Englandの侍医、解剖学者)が、「Anatomy of the brain, with adescription of the nerves and their function」を著し、視床・レンズ核・線条体などを命名した。「thalami」という用語はすでにGalenが使っていたが、視神経が終わる視覚路の重要な部位だとされてきた。Willisは、「Thalamus opticus(=視室)」という用語を使い、その後視床後部の外側膝状体以外は視覚路とは関係がないことがわかり、opticusが外されてthalamusだけになった。副神経や交感神経幹も発見したことになっていたが、交感神経幹はBartolomeo Eustachio↑が見つけていた。Willisの名は「ウィリアム動脈輪」に名が残っているが、これもすでにGabriello Fallopio↑が見つけていた。 |
1710年 | François Pourfour du Petit↓(フランシス・プルフール・ドウ・プチ P 1664/6/24〜1741/6/18, フランスの外科医、眼科医、解剖学者)は、「一医師の手紙」という論文の中で、1600年間忘れられていたローマ時代のAretaeus↑の論文を引用して、神経路の交叉説を改めて提唱した。スペイン王位継承戦争(1701〜1713)を含めて1693年〜 1713年の間Louis XIVが行った数々の対外戦争に従軍し、頭部外傷の患者はその反対側に麻痺を起こしやすいことに気づき、イヌの実験でも外傷の反対側に麻痺をおこすことを確認した。交叉部位は延髄と脊髄の境界部にある、錐体交叉で交叉があると結論した。 |
1727年 | Francois Pourfour du Petit↑がイヌの肋間神経を頸部で(実は頸部交感神経らしい)を切断すると縮瞳が生じることを観察していた。この症状はなぜか、頸部交感神経刺激症状として散瞳・眼球突出・眼瞼後退などが起こることを示した。Pourfour du Petit syndromeは、逆ホルネル症候群(the opposite of Horner syndrome)とも呼ばれる。←→ホルネル症候群 |
1732年 | Jacques Benigne Winslow(P 1669/4/17〜1760/3/3, デンマーク出身パリ Jardin du Royの解剖学者)が「交感神経」ではなく、「自律神経」に対して、内臓器官の間の相互作用に関わる神経という意味で、「nervus sympathicus」と命名した。交感神経幹とその枝をgrand sympathique(大交感神経)、脳神経に含まれる内臓枝(=副交感神経)をpetit sympathetique(小交感神経)、迷走神経をsympathique intermediaire(中間交感神経)と命名した。 →Langley |
1748年 | Johann Friedrich Meckel, the Elder(P 1724/7/31〜1774/11/18, ベルリンの解剖学者)がガッセル神経節は硬膜に覆われていることを記載した。(Meckelの名はMeckel's caveとして残っている。) |
1765年 | Antonius Hirshが三叉神経節を記載した。彼の恩師Johann Lorentz Gasser(1723〜1765, オーストリアの解剖学者)に敬意を表して、ガッセル神経節と命名した。 |
1766年 | Albrecht von Haller(P 1708〜1777, スイスの医学者、植物学者、ゲッチンゲン大学の自然科学の初代教授、近代生理学の大成者)は、生れ故郷ベルンで1757-1766年に「人体生理学要綱」8巻を執筆した。神経・筋は個体の死亡後もしばらく機能が維持されるので、生命力自体とは異なる、内在的な性質があると考えた。さまざまな実験を繰り返した末、与えられた刺激に運動によって反応する能力、すなわち「刺激反応性(興奮性)irritable」と、刺激を感覚する能力である「感受性 sensibility」とを身体に見出した。前者は筋肉に、後者は神経に備わった特性とされる。動物に対する刺激が明白な疼痛徴候や不穏を生じる場合、その部位には感受性がある。感受性のない組織は、「触刺激を受けても、疼痛徴候や痙攣を生じない。触刺激を受けて引っ込めるような場合、人体のその部位に刺激反応性がある。 |
1774年 安永3年 | 杉田玄白(P 1733 享保18年〜1817 文化14年、蘭学者)らが、オランダの医学書「ターヘル・ アナトミア:解体新書」を翻訳した。その中に、視床の記載もあり、「gezigt-zenuw-kamers(=thalamus nervosum opticum)」を「瞳神経室」と訳していた。 |
1778年 | Samuel Thomas von Soemmering(P 1755/1/28〜1880/3/2 、フランクフルトの解剖学者、生理学者)が脳神経を分類した。三叉神経を第V脳神経として分類した。 |
1809年 | Luigi Rolando(P 1773〜1831, イタリアの解剖学者)が「膠様質 substantia gelatinosa Rolandi」を記載した。 |
1809年 | Johann Christian Reil(P 1759-1813, オランダの精神病理学者、ロマン派精神医学者、ハレ大-ベルリン大学初代病院長)が後索核から視床への内側毛帯を記載した。←→薄束/楔状束。 Reilは初めて島皮質を学術的に取り上げ、これにより「ライルの島(insula)」と呼ばれている。 |
1811年 | Charles Bell(P 1744〜1842)は、気絶させたロバの脊髄の前根を刺激すると痙攣が起こるが、後根を傷害しても特に症状が認められないことを観察して、「前根は運動、知覚の中枢である大脳と末梢神経を結び、後根は植物機能を司る小脳と末梢神経をつなぐ」と推論し、1811年に学会発表し、論文を自費出版をした。Magendieが1822年に、「前根は運動性で、後根は知覚性である」ことを報告するが、これらの研究の優先権はどちらにあるかという論争が続いた結果、「Bell-Magendie law ベルーマジャンディーの法則」と呼ぶことに落ち着いた。 |
1821年 | Charles Bell↑(P 1774〜1842, エディンバラ出身、ロンドン王立大学生理学教授)が、顔面神経損傷によって、一側の顔面神経麻痺が起こることを記載した(「On the Nerves 神経について」で、Bell's palsy ベル麻痺:末梢性の顔面神経麻痺について記載した。*) |
1822年 | Francois Magendie(P 1783〜1855, フランスの実験生理学のパイオニア、バルザックの1831年の「あら皮」に登場するモーグルジー博士のモデル、動物実験をやりすぎて動物愛護運動の種となった、)は、1820年代になって、Bellの仕事を聞き及び、1822年に「前根は運動性で、後根は知覚性である」ことをイヌの前根、後根の切断実験によって明らかにした。ところがBellは1824年に彼の仕事をまとめた論文で、同様の見解をすでに得ていると主張した。どちらに優先権があるかという論争が続いたが、学会では、この理論をBellの記述とともに、「Bell-Magendie law ベルーマジャンディーの法則」と呼ぶことで妥協した。しかしいまだに、Bell's lawやMagendie's lawという呼称も未だ使われている。 |
1824年 | Benedikt Stilling(P1810〜1879, ドイツ・カッセルの解剖学者、外科医) ↓がミクロトームを考案した。 |
1826年 | Karl Friedrich Burdach(P 1776〜1847, ドイツの生理学者)が後索の楔状束 cuneate fasciculus:ブルダッハ束、上肢の識別性感覚伝導路)を記載した。(Burdachは淡蒼球、被核、帯状回の命名もしました。) ←→薄束/内側毛体 |
1839年 | Theodor Ambrose Hubert Schwann(P 1810〜1882, ドイツの生物学者, Mullerの弟子)が細胞説を提唱した。(シュワン細胞) |
1846年 1849年 | Charles Edouard Brown-Sequard(P 1817〜1894)は、1846年の学位論文で、動物の後索を切断しても痛覚が保たれることを発表した。引き続き1849年の論文では、動物の脊髄を反則切断すると、痛覚が消失するのは、脊髄側の「対側」であることを発表した。触覚や深部感覚などの障害を含め、人間の「ブラウン・セカール症候群」については、Joseph Jules Dejerine ↓が1914年の教科書で記載した。(しかし、このような症候群につては、AD2CにカッパドキアのAretaeus が記載していた。) |
1846年 | Benedict Stilling(P 1810〜1879, ドイツ、カッセルの開業医)が開発したミクロトーム ↑で脳の連続切片を初めて作り、顕微鏡を使って多くの脳幹の各種の核を同定していて、1846年の著作「橋の構造の研究」で、動眼・滑車・三叉神経核も同定し、さらに三叉神経核を運動核と感覚核に区別した。 |
1848年 9月13日 |
前頭眼窩回の破壊事故で、情動が傷害され、別人のようになったPhineas Gage(フィネアス・ゲージ 1823/7/9?〜1860/5/21, アメリカのダイナマイト職人, 当時25歳)は、Vermont州の小さな町 Cavendish の近くで鉄道敷設のための山岳開拓工事で不慮の事故に遭遇した。岩盤を爆破するために仕掛けたダイナマイトが爆発しないので、鉄棒でつついたその瞬間に爆発し、長さ 109cm、太さ3cm、重さ6kgの鉄棒は彼の下顎から頭を貫通し彼の後方へ30m近く飛んだ。奇跡的に一命を取りとめ、記憶や知性は以前のままであるにも関わらず、性格だけが著しく変化した。前頭葉の眼窩面(前頭眼窩回)と前頭葉の先端部(前頭極)が損傷したために、情動をコントロールができなくなった。事故以前は、生き生きとした働き者として周囲の信頼を得ていたが、事故後仕事に復帰した彼は、きまぐれで、非礼で、下品になり、彼の仲間に敬意をほとんど示さなかった。また、辛抱強さを失い、頑固になり、そのくせ、移り気で、優柔不断で、将来の行動のプランもきちんと決めることができなくなった。1860年5月21日に死亡し、 Gageの頭蓋骨と鉄の棒はHarlowの元に送られた後、ハーバード大学のWarren Anatomical Museumに保管されている。 →参考 1/2/3 |
1849年 | Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholz(P 1821/8/31〜1894/9/8、ドイツの生理学者、物理学者)は、Galvaniの研究にヒントを得て、カエルの神経の伝導速度を測定した。神経筋標本をつくり,神経の2か所を電気刺激し、筋収縮の潜時を測定すると、興奮の伝導速度が一定であることを見い出した。ヒトの正中神経の伝導速度も測定した。「特殊線維エネルギー説」 |
1850年 1852年 | Augustus Volney Waller(P 1817〜1894, ロンドンの開業医)が、ウォーラー変性↓1について記載した。1850年に、カエルの舌下神経切断後の末梢側の神経組織変性を報告した。さらに1952年に、脊髄後根を切断すると、断端より脊髄側が変性することを発見した。 |
1851年 1953年 | Claude Bernard(P 1813〜1878, フランスの生理学者、Magendieの弟子, 1865年に「実験医学研究序説」を出版。)がウサギの頸部交感神経を切断すると、耳が温かくなり、血管網が拡張するのを、1851〜1853年の生物学会で詳細な報告を行った。後にJohann Friedrich Horner↓が報告した「ホルネル症候群」であるが、フランスでは「クロード・ベルナール・ホルネル症候群」と呼ばれている。 |
1858年 | Moritz Schiff(P 1823〜1896, フランクフルト出身、Magendie の弟子)は、温痛覚は、脊髄に入ってすぐ交叉するのに対し、触圧覚は同側の後索を上行すると記載した。 |
1860年 | Friedrich Goll(P 1829/5/1〜1903/11/12, チューリヒ大学の解剖・生理学者、Claude Bernardの弟子)が後索の薄束(cuneate gracile:ゴル束、胸以下の識別性感覚伝導路)を記載した。 ←→楔状束/内側毛体 |
1867年 | Theodor von Meynert(P 1833〜1892, ウイーン大)が内側毛帯が感覚の伝導路であることを確認した。 |
1868年 | Jean Martin Charcot(P 1825〜1893)が、脊髄癆4例で「失調患者の関節症」---シャルコー関節を記載した(Arch Physiol Norm Pathol)。 |
1869年 | Johann Friedrich Horner(P 1831〜1886、チューリッヒの眼科医)が、40歳女性の症例から、「ホルネル症候群」を報告した。病巣は明らかにされていないが、それまで知られていた交感神経の機能から、交感神経障害によると推理した(Klin Monatsbl Augenheilk)。Claude Bernard↑(P 1813〜1878, フランスの生理学)も動物実験で報告していたので、フランスやイタリアでは「クロード・ベルナール・ホルネル症候群」と呼ばれている。←→SGB/逆ホルネル症候群 |
1872年 | Louis Antoine Ranvier(P 1835-1922、Claude Bernardの部下で、コレージュ・ド・フランスの解剖学教授)がランヴィエの絞輪を発見した。鍍銀法で末梢神経髄鞘の絞輪を観察、絞輪間にシュワン細胞核は1個だけあり、絞輪間のシュワン鞘は1つの細胞である事を発見した。 |
1874年 | Roberts Bartholow(P 1831〜1904, アメリカの神経学者)の患者は、開頭して電極を刺入しても、痛みを生じないと申告した。中心後回を感応電流で刺激すると、対側の手足の収縮と不快な異常感覚が生じることを報告した。"Experimental investigations into the functions of the human brain"(Mary Rafferty) |
1875年 | Richard Caton(P 1842〜1926,Liverpoolの生理学者)が、露出したウサギの大脳皮質表面に2本の電極を置き、その間につないだ電流計に電気が流れるのを観察しました。初めての脳波の記録 →ヒトの脳波記録 →参考 |
1876年 (1880) (1886) | Sir William Richard Gowers(P 1845〜1915, イギリスの神経学者、病理学者。ロンドン大学の教授。線維筋痛症候群に関連する記載もした。)Gowers徴候やヘモグロビン測定器の発明者でもある。)が脊髄前側索が痛みの伝導路であることを確認した。口の中にピストルを打ち込んで、触覚は保たれていたが、左上下肢の痛覚が消失していた学生の病理解剖をした。ガワーズは、「痛みのインパルスは、脊髄内で交叉した後、対側の脊髄を上行する」という考えに基づいてこの患者の神経症状を説明した。この患者の痛覚欠損は、脊髄前側索の損傷によるものであった。(しかし、「ガワーズ束」は、前脊髄小脳路を示す。) |
1878年 | Pierre-Paul Broca(P 1824〜1880, フランスの内科医)は、ほ乳類の脳に共通する脳幹を取り巻く皮質領域(:帯状回、海馬傍回、梁下回、海馬)を大脳辺縁葉 le grande lobe limbiqueと呼んだ。 |
1881年 | Charles Ernest Lasegue(P 1816〜1883)の弟子のForstが、坐骨神経痛を装う仮病の兵士を見分けるための疼痛誘発法として、「ラセーグ徴候」を紹介した。 |
1885年 | Heinrich Lissauer(1861〜1891年, ブレスラウ大学の神経学者)が後外側索 dorsolateral fasciculusを発見した。 →Lissauer's tract |
1885年 | Ludwig Edinger(P 1855〜1918, フランクフルト)が、Edinger-Westphal nucleusを記載した。 |
1886年 | Vittorio Marchi(1851〜1908年, ゴルジの弟子)が、ウォーラー変性部↑2をより明瞭にする染色法を開発した。ゴルジ染色の最後の段階の硝酸銀染色をしないでおくと、ウォーラー変性部の脂肪だけが黒く染まる。 |
1889年 | Ludwig Edinger↑(P 1855/4/13〜1918/1/26, フランクフルト大学の解剖学者、神経学者)は、Gowers↑が途中まで追跡していた脊髄視床路が視床に達する事を発見し、温痛覚の経路であると報告した(Anat Anz)。「交叉性求心路」と命名したが、厳密に言えば、非識別性触覚の伝導路である前脊髄視床路??? |
1891年 | Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz(P 1836/10/6〜1921/1/6, ドイツの解剖学者、ヘンレの弟子)が神経細胞とその突起を神経系の構造単位とし、ニューロンと命名 |
1891年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916)が三叉神経痛のために、外科的治療を行った。middle fossa approach(硬膜外アプローチ)で、三叉神経の第II枝と第III枝を部分的に切断した。それを1891年にFrank Hartley(ニューヨーク)、1892年にKrause(ドイツ)が1892年に一部改変した。 |
1891年 | Francis Gotch(*1853〜1913、ロンドンの生理学者、1899 年に神経インパルスの不応期を記載)とSir Victor Alexander Haden Horsley↑(P 1857〜1916)が初めて記載した後根反射を、1935年にBarron DHとMatthews BHCが詳細に研究した。* |
1891年 | Heinrich Irenaeus Quincke(P 1842〜1922、キール大内学科教授)が結核性髄膜炎の患者に対して、頭蓋内圧を下げるために、はじめて腰椎穿刺をしてはじめて髄液を採取した。 |
1892年 | Santiago Ramón y Cajal(P 1852/5/1〜1934/10/17、スペインの神経解剖学者)はゴルジの鍍銀法を用い、情報の流れを検索した。神経刺激は網状構造ではなく 神経細胞の接触により伝導すると主張した。また刺激が樹状突起により受け止められ、神経細胞を通過し、軸索により伝達されることを明らかにした。:ニューロン説 |
1892年 | Bregman BS が三叉神経脊髄路に求心性神経が含まれることを証明した。ウサギのガッセル神経節を切断すると、三叉神経脊髄路が変性することを見出して、橋の高さで脳幹に入った三叉神経求心性線維が三叉神経主感覚核に向かう枝と、三叉神経脊髄路核核に向かう枝に分かれることを明らかにした。 |
1893年 | Sir Charles Sherrington(P 1857〜1952, イギリスの生理学者)がサルの神経根を切断して、デルマトームをマップした。( →ノーベル生理学・医学賞(1932年)) |
1893年 | Sir Henry Head(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)は、彼の学位論文で、内臓疾患に伴う関連痛、いわゆる「ヘッド帯 Head's zone」を調べた。 |
1893年 | Sir James Mackenzie(P 1853-1925, 英国の内科医)が関連痛のメカニズムとして、Mackenzieの収束促通説を提唱した。 |
1894年 | Franz Nissl(P 1860/09/09〜19190811, ドイツの組織学者)が、神経をdahlia violetで染色した。 →Nissl染色 |
1895年 | Maximilian Ruppert Franz von Frey(P 1852/11/16〜1932/1/25, ビュルツブルグ, Carl Ludwig's physiological Institute in Leipzig)がvon Frey Hairを使って、皮膚の感覚点の温点、冷点、圧点、痛点を見つけた。それ以降「皮膚の痛みは、痛点を刺激したときにだけ起こる。」とされ、痛みは独立した感覚であることが認められた。 →Freyの特殊説 |
1895年 | Adolf Wallenberg(P 1862-1949、ドイツの神経学者)は、後下小脳動脈が閉塞して、延髄背外側部に軟化巣があると、病巣と同側の顔面の痛覚と温、冷覚が失われるが、触覚は残ることを報告した(=ワレンベルグ症候群)。彼はBregmannの研究を知っていて、この疾患に見られる感覚の乖離が三叉神経脊髄路の損傷によってもたらされたと考え、翌年ウサギの三叉神経脊髄路を延髄の高さで切断する実験を行って確認した。(外側延髄の梗塞障害については、Wallenbergよりも前に1810 年にGaspard Vieusseuxによって報告されていた。) |
1897年 | Henri Verger(1873〜1930年, ボルドーの神経学者*)が、剖検例から、中心溝周囲の病巣では、要素的な感覚が保たれていても、立体覚などの複雑な感覚障害が起こることを示した。 |
1897年 | von Solderは外側脊髄視床路(温痛覚の伝導路)と前脊髄視床路を区別した(Neurol Centralbl)。 |
1897年 | Karl Ferdinand Braun(P 1850〜1918, ドイツの物理学者)が陰極線オシロスコープ Braun-tube Oscilloscope(Cathode Ray Oscilloscope)を発明した。* |
1898年 | Arthur Van Gehuchten(P 1861〜1914、ベルギーの解剖学者)は、脊髄空洞症の症例から、痛覚と温度の線維は脊髄の前側索を、位置覚を伝える線維は後索を通ることを見つけた。 |
1898年 1905年 | John Newport Langley(P 1852-1925, イギリスの生理学者)が1898年に、Jacques Benigne Winslow(1732)が"nervus sympathicus"と命名していた「自律神経」に対して、"autonomic nervous system"という用語に改めた(auto=自分自身 + nomos=規則)。そして1905年にsympatheticとsparasympatheticに分類し直した。 |
1899年 | Vladimir Mikhailovich Bechterev(P 1857-1927、ロシアの神経学者)が前側索を上行する伝導路を「脊髄視床路」と命名した。(Ludwig Edinger↑は、前外側索を「交叉性求心路」と名づけていた。)内側毛帯は錐体交叉のすぐ後ろで交叉すること(毛帯交叉)も記載した。 |
1899年 | Magnus Blix(P 1832〜1904, ウプサラ)↑は、人や動物の毛やを使って、人の手掌の皮膚感覚をマップした。痛点は、モザイク状であり、触点は一致しないことを示した。それぞれの感覚点には、解剖学的に異なる構造を持つと示唆した。 |
1900年 | Eduard Hitzig(P 1838〜1907, 運動野の発見者の一人)は、痛みの中枢が皮質下にあって、大脳皮質は痛みに関与しないと考えた。 |
1900年 | Harvey Williams Cushing(P 1869〜1939, アメリカの脳外科医、Halsted↑の弟子、Horsley↑にも影響された)は三叉神経痛の治療のために、Gasserian ganglionectomyを行った。 |
1906年 | RusselとSir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916, イギリスの生理学者)は、深さ2mmに達する中心溝後壁の切除後、痛覚と温度感覚が消失した症例を経験したところから、大脳皮質の中心後回が痛みの発現に関与すると主張した。 |
1900年- 1906年 | Sir Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)は、2年間で450の症例と21の剖検をした。Henry HeadとAlfred Walter Campbell(1868〜1937, 英国の病理学者、神経学者 帯状疱疹のデルマトームをマップし、それぞれのデルマトームは単一のDRGに相当することを示した。 |
1905年 | William Gibson Spiller(P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)が、下肢の触覚が保たれているが、温冷覚、痛覚が消失している結核腫瘍の患者の剖検から、両側に一つずつ結核腫があって、脊髄の前側索が両側性に侵されていることを見出した。(→1909年, J Nerv Ment Dis)。 |
(1903) 1906年 | Sir Charies Scott Sherrington↑(P 1857〜1952, イギリスの生理学者)が"The integrative Action of the Nervous System"の中で侵害受容の概念を記述した。 →ノーベル生理学・医学賞(1932年) |
1906年 | Joseph Jules Dejerine (P 1849〜1918, パル大学教授)とGustave Roussy(P 1874〜1948, スイスーフランス、神経病理学者)が視床の傷害後の患者に軽度の麻痺、知覚傷害、片側性の運動失調、耐え難い神経性あるいは発作性の疼痛が共通してみられることを報告して、この疾患を「視床症候群」と命名した。 |
1906年 1908年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916, イギリスの生理学者、脊髄腫瘍、下垂体腫瘍、三叉神経切除)とRobert Henry Clarke(1850〜1926, 英セント・ジョージ病院の技術者)が1906年に、サル・ネコの深部脳刺激のために、固定装置を開発した。動物の頭蓋表面構造ー外耳孔、眼窩下縁ー外耳孔、眼窩下縁ー外耳孔を結ぶ線をランドマークとしたもの。 Horsleyは1908年に、小脳の生理実験の中で、「stereotaxis」という用語を初めて使用している。その後Clarkeはヒト用の定位脳手術装置を開発したが、臨床応用には至らなかった。(↓ヒト用定位脳手術)*/* |
1907年 | James Ramsay Hunt(P 1872〜1937, アメリカ、コロンビア大学神経科教授)が過去30年の文献56例と自験4例からラムゼイハント症候群を報告した(J Nerv Ment Dis)。 |
1909年 | Korbinian Brodmann(P 1868〜1937, ドイツの神経学者)が解剖学・細胞構築学的に大脳新皮質を52の異なる領域に区分した。 |
1909年 | Harvey Williams Cushing (P 1869〜1939, アメリカの脳外科医)は、局所麻酔薬で開頭した患者の頭頂葉を電気刺激して、どのような感覚体験が起こるかを系統的調べた。 |
1911年 | Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)とGordon Morgan Holmes↑(P 1876〜1966年, ロンドン)が、中心後回病巣患者の剖検報告をし、体性感覚は基本的に保たれているが、その強さ、部位、大きさ、空間的関係、立体感覚がわからなくなることを発表した。 大脳皮質が損傷された患者のすべてが痛覚鈍麻や消失を示さなかったという臨床体験から、すべての体性感覚情報はいったん視床の外側部に達した後、二手に分かれると考えた。位置感覚と弁別的な皮膚感覚は直接大脳皮質に送られるが、痛覚、温覚、冷覚および粗大な触覚は視床内の外側部に達し、ここから視床の内側部に送られた後、そこから意識に上る。←大脳皮質は痛みに関与しない。 |
1914年 | Charles Harrison Frazier(P 1870-1936, フィラデルフィアの脳外科医)は1914年に前側索切截術を改良し、1920年には、上位胸髄が最適部位であると報告した。 |
1914年 | Sir Henry Hallett Dale(P 1875/7/9〜1968/7/23、英国の神経科学者)がアセチルコリンを単離した。 →ノーベル賞受賞者(1936年) |
1924年 1929年 | Hans Berger(P 1873〜1941, イエナ大学精神科教授)が1924年に初めて人の脳波の記録した。1929年に論文として発表したが、その当時はあまり注目されなかった。Edgar Douglas Adrian↓(P 1889〜1977)が1933年に追試し、ベルガーの脳波記録をBerger Rhythmして紹介した1年後にやっと脳波学会からも注目された。 ←動物の脳波記録 |
1926年 | Edgar Douglas Adrian(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)とZottermanが皮膚神経から電気生理的記録を行った。(「全か無かの法則 all-or-none principle」は、H.P. Bowditch (1871)がカエルの心臓で最初に観察し、提唱した概念であり、Adrianは神経線維にも当てはまることを証明した。)→ノーベル賞受賞者(1932年) |
1927年 | Chester William Darrow(1893〜1967, アメリカの心理生理学者)が、galvanic skin reflexの研究をした。 |
1926年 | Edgar Douglas Adrian(1st Baron Adrian of Cambridge )(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)とYngve Zotterman (1898〜1982)が初めて紡錘を神経支配している感覚神経の活動電位の単一神経線維から電気生理的記録を行った。活動電位は感覚神経の終末で発生することを記録した。(「全か無かの法則 all-or-none principle」は、H.P. Bowditch (1871)がカエルの心臓で最初に観察し、提唱した概念であり、Adrianは神経線維にも当てはまることを証明した。)→ノーベル賞受賞者(1932年) |
1929年 | Herbert Spencer Gasser(P 1888〜1963, アメリカの生理学者)とJoseph Erlanger(P 1874〜1965)が、加圧とコカイン麻酔↑16による神経線維の伝導ブロックを報告した。これらの実験によって、末梢神経軸索の各々に対する特異的適合刺激を決めることができた。 →ノーベル賞受賞者(1944年) |
1930年 | Sir John Carew Ecclesが、屈曲反射の抑制を示した。 →ノーベル生理学・医学賞(1963年) |
1931年 | Ulf S von Euler(P オイラー 1905/2/7〜1983/3/10, Stockholmの生理学者)がDale's laboratoryでポスドクをしていた時、John Henry Gaddum(P 1900/3/31〜1965/6/30, 英国の薬理学者)との研究で、腸管収縮、血圧上昇物質を発見し、substance Pと名づけた。 →ノーベル生理学・医学賞(1970年) |
1932年 | Jan Friedrich Tonniesがペン書きの脳波計を開発した。 |
1933年 | Ralph Waldo Gerard(P 1900〜1974, 米国の生理学者)が初めて実験的誘発電位を記録した。 |
1933年 | Otfrid Foerster(P 1873/09/09〜1941/07/15, ドイツの脳外科医)は、痙性麻痺のためのリゾトミーや、疼痛治療のための前外側コルドトミーを考案して、デルマトームも研究した。参考 |
1937年 | Wilder Graves Penfield(P 1891〜1976)とEdwin Boldrey(P 1906〜1988)は163人の脳手術患者(主としててんかん患者)の中心前回と中心後回に電気刺激を加えると、のべ800回以上の感覚応答を引き出すことができたが、そのうち痛みが報告されたのはわずか11回であり、大脳皮質が痛覚の発現に本質的な役割を演じないと結論した。postcentral gyrus (SI)を刺激しても痛みの申告はなかった。 |
1937年 | 「Papezの情動回路 Papez circuit」:James W. Papez(P 1883〜1958, アメリカの神経解剖学者)は、辺縁葉 le grande lobe limbiqueは、情動に関する解剖的基盤となる神経回路を形成すると報告した。 ⇒詳細 |
1938年 | Olof Sjöqvist(P 1901〜1954, スウェーデンの脳外科医)が、動物実験で行われていた三叉神経脊髄路切断術を、三叉神経痛の治療に応用した。 |
1941年 | 精力的に三叉神経脊髄路切断術を行っていたFrancis Clark Grant(1891〜1967)が、誤って閂の後側8mmの高さでを切断した(1941年)ところ、幸いにもその患者は三叉神経痛の苦しみから免れた。Sjoqvistの原法より安全であったため、一般化した。このような臨床経験から、三叉神経系の温痛覚を第一次中継核が閂よりも後ろにある部分であると考えられるようになった。 |
1941年 | Edgar Douglas Adrian(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)は、ネコ頭部の体性感覚野の後方に第2の体性感覚野(somatic sensory area II, SII)があることも確認した。 |
1946年 | Ulf S von Euler↑(P オイラー 1905〜1083, Stockholmの生理学者)が交感神経節後線維から放出される伝達物質として、ノルアドレナリンを同定した。 |
1946年 | Kenneth Stewart Cole(P 1900/7/10〜1984/4/18, 米国の生理学者)がvoltage clampを開発した。 |
1947年 | Ernest Spiegel(フィラデルフィアTempel大学の生理学者)とHenry Wycis(脳神経外科医)は、Horsleyの装置を改良して、初めて定位脳手術stereotactic surgery (stereo-encephalotomy, dorsomedial thalamotomy) が行われた。Dandy↑による脳室造影の開発とともに、彼らはランドマークを頭蓋ではなく、脳室内の前交連と松果体を結ぶ線にしたことが画期的であった。彼らは、精神外科手術からはじめ、除痛術、不随運動への手術へと発展させた。(Horsley↑動物用脳定位刺激装置、動物用には「stereotaxic」が使われていたが、スペルが「stereotactic」に変わった。)* |
1948年 | Maurrio Oscar da Rocha e Silva(P 1910/9/19〜1983/12/19, ブラジルの生理学者、薬理学者)、Wilson Teixeira BeraldoとGastao Rosenfeldが、ブラジキニンを発見した。血清に南アメリカに生息する毒ヘビ Bothrops jaroaracaの毒を注射したイヌの血清に、腸管収縮と血圧下降作用があることを報告した。 * |
1948年 | Lars Leksell(P 1907〜1986、カロリンスカの脳外科医)が、定位脳手術のために仮想枠を要しないark-centeredの装置を開発した。その後、1949年Talairach、1950年Narabayashi、1951年Riechert & Wolffらが続き、1960年までに約40のここの施設独自の装置が開発され、脳室撮影化の手術が施行された。 |
1949年 | Paul Donald MacLean(P 1913〜2007, 米国の生理学者)は、Broca↑の辺縁皮質およびそれと神経結合している皮質下組織を辺縁系 limbic systemと呼び、情動および内臓機能に関与する1つの機能系とする概念を提唱した。 ⇒詳細 |
1949年 | Giuseppe Moruzzi(P 1910〜1986)とHorace Winchell Magoun(P 1907〜1991)が上行性網様体賦活系の概念を提唱した。 |
1951年 | Rita Levi-Montalcini(ローマ・セントルイスの細胞生物学者)らの最初の神経成長因子の論文が出た。 →ノーベル生理学・医学賞(1986年) |
1952年 1954年 | Bror Rexed(P 1914〜2002, スウェーデンの神経科学者)がネコの脊髄の層構造を記載した。[1/2] |
1954年 | Jim Olds(P 1922〜1976, ハーバードの心理学者)とPeter Milner(アメリカの心理学者)は、ラットがレバーを押すと一瞬弱い電流が流れ、脳が刺激される研究法(自己刺激実験)を考案した。側坐核や腹側被蓋野が快情動を司る中枢(脳内報酬系)であることが明らかにした。 |
1954年 | Wilder Penfield(P 1891〜1976)とHerbert Henri Jasperはてんかん患者のprecentral gyrusを刺激すると感覚が生じることを報告し、さらに切除すると灼熱痛が緩和されることを報告した。 |
1957年 | Wilder Penfield(P 1891〜1976)とT. Rasmussenが運動系と感覚系のhumunculusを記載した。 |
1959年 | Ainsley Iggoが皮膚のC線維から記録を行った。 |
1963年 | Martin Brännström(スウェーデンカロリンスカの歯科組織学者)が象牙質の痛みメカニズムとして「動水力学説」を提唱した。 |
1964年 | Annica Dahlstrom(Goteborg Universityの神経科学者)とKjell Fuxe(Karolinskaの神経科学者)がラットの脳幹内に、モノアミンの神経系を明らかにした。[PubMed1/2] |
1965年 | Ronald Melzack and Patrich Wall の「The gate-control theory of pain」がScience誌に掲載された。 |
1969年 | Bessouと Edward R. Perlが初めてpolymodal nociceptorについて記載した。 |
1973年 | Paul Donald MacLean↑が、三位一体脳説 a hierarchy of three brains in one—a triune brain」(1973年):恒温動物の脳に3型のシステムから構成される階層性があると考えた。 ⇒詳細 |
1979年 | Allan BasbaumとHoward Fieldsが下行性疼痛抑制系を発見した。[PubMed, J Comp Neurol. 1979 Oct 1;187(3):513-31.] |
1979年 | Daniel Le Bars (INSERMの生理学者)らがDNICを発見した。 |
1982年 | Bardeらがブタの脳からBDNFを生成した。 |
1983年 | Woolf CJが脊髄後角ニューロンの中枢性の過敏化が痛みの感受性亢進に寄与することを示した。[PubMed, Nature. 1983 Dec 15-21;306(5944):686-8.] |
1988年 | 柳沢正史先生(テキサス大学)が筑波大大学院当時に、血管収縮因子としてのエンドセリンとエンドセリン受容体を同定した。 |
1996年 | John Woodのグループらはテトロドトキシン抵抗性の特異的に発現するTTX非感受性Na+チャネルをクローニングし、SNS(Sensory Neuron Specific)と名づけ、Sangameswaran L.らが同じ遺伝子をPN3と名づけた。[PubMed, Nature. 1996 Jan 18;379(6562):257-62.] |
1997年 | Michael Caterinaらにより、ラットDRGのmRNAからカプサイシン受容体(=TRPV1 (VR1))遺伝子をクローニングした。[PubMed, Nature. 1997 Oct 23;389(6653):816-24.] |
1977年 | 神戸大学名誉教授の西塚泰美先生らが、牛の脳細胞からPKCの抽出に成功した。 |
Pain Relief |