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2 | NSAIDs |
→シロヤナギ、サリシン、アスピリン、NSAIDsの年表 | |
→NSAIDs以外の解熱鎮痛剤 |
BC5〜4C頃 | Hippocrates(P BC460〜BC377, 「古代ギリシアの医聖」)は、セイヨウシロヤナギ Salix albaの樹皮を発熱やリウマチの痛みの治療に使用していた。葉の煎じ薬を陣痛の緩和に推奨していた。 |
BC | 中国でも歯痛には、ヤナギの小枝で歯間をこすって治療していたらしい。 |
AD77年 | Pedanius Dioscorides(P AD40〜90, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は、ローマ軍の遠征に従軍し、中近東・フランス・スペイン・ドイツ・イタリアなど、各地における薬草とその薬効を、自らの観察によって集積した。彼はローマ軍の遠征に従軍し、中近東・フランス・スペイン・ドイツ・イタリアなど、各地に於ける薬草とその薬効を、自らの観察によって集積した。250種にも達するヤナギの中から、活性成分を持つ2,3種を選別した。「セイヨウシロヤナギの葉の煎じ薬は痛風に効果がある」と述べている。シロヤナギは、ユーラシア大陸に分布し、欧州では川岸などの水辺に普通にみられる柳である。 |
中世には薬草売りの女性たちが、ヤナギの樹液を煮て、その苦い煎じ湯を痛みを訴える人々に分け与えていたが、籠を作るためにヤナギの木が緊急に必要とされるようになり、ヤナギを摘むことが罰せられるようになったので、この自然の特効薬は忘れられていった。 | |
1763年 | Edmund Stone(1702〜1768, イギリスCipping Nortonの田舎牧師)は、その当時マラリアや発熱にはキナ皮が使われていたが、高価だったので、代用薬としてヤナギの樹皮を使ったところ解熱作用があることがわかったので、ロンドンの王立協会に書き送った。 |
1828年 | Johann Andreas Buchner(1783〜1852, ミュンヘンの薬学教授)は、柳の樹皮から苦くて黄色い針状結晶を抽出し、サリシンと呼んだ? |
1830年 | Henri Leroux(アンリ・ルルー、フランスの薬学者)が、柳Salix albaから活性物質を分離し、salicin(サリシン)命名した。しかしサリシンは実際に純薬として使われることはなかった。サリシンは内服できないほどひどく苦かったからである。サリシンを含むヤナギの樹皮の煎液も苦く、欧州人は何世紀もの間その鎮痛作用を求めてひたすら苦さに耐えてきたのであった。 |
1838年 | Raffaele Piria(P 1814〜1865, イタリアの化学者)は、パリのソルボンヌ大学で、サリシンから無色の針状でない結晶を分精製し、サリチル酸と命名した。 |
1853年 | Charles Frederick Von Gerhardt(シャルル・ジェラール 1816〜1856、モントペリエ大学の化学の教授)が、アセチルサリチル酸を合成したが、精度が悪く、分子構造を決定できなかった。 |
1857年 | サリシンの話は江戸時代の日本にも伝わった。堀内適斎(米沢藩の医師)が自書の『医家必携』でヤナギの皮の効用にふれ、「この薬、苦味・収斂・解熱の効あり。近世、柳皮塩あり、撤里失涅(さりしん)といふ」と記した。 |
1859年 | Adolph Wilhelm Hermann Kolbe(P 1818/9/27〜1884/11/25, マールブルグの教授)は、セイヨウナツユキソウ Spiraea plantから、スピール酸=サリチル酸を分離した。 Kolbeはサリチル酸の構造を解明し、コールタールからその合成法を確立した。フェノレールのナトリウム塩に高温、高圧(100気圧,125℃)で二酸化炭素を反応させるとサリチル酸ナトリウムが合成される。サリチル酸ナトリウムに強酸を作用させるとサリチル酸が遊離する。これをKolbe synthesis (aka Kolbe-Schmitt reaction)という。 しかし胃の粘膜に対する刺激性が強く、無味のサリチル酸も内用できる代物ではなかった。 |
1870年 | Marcellus von Necki(スイスBasle)が、salicinは体内でsalicylate acidに変換されることを発見した。 |
1876年 | Thomas John Maclagan(1838〜1903, スコットランドのDundeeの内科医)が、アセチルサリチル酸でリウマチ熱の治療を始め、成果をLancetで報告した。(Maclaganは湿潤な気候がリウマチ性疾患の温床となると考え、湿潤な気候で育つ柳のような植物には関節炎を治す作用があるに違いないと考えた。) |
1883年 | Ludwig Knorr(P 1859/12/2〜1921/6/4, ドイツの化学者)が解熱薬キニーネ↓の代用薬を探索として、ピリン系薬解熱薬(アンチピリン)を開発した。 |
1897年 8月10日 | Felix Hoffmann(P ドイツバイエル社)は、Gerhardt↑の方法を学んで、アセチルサリチル酸の合成に成功し、はじめての動物を使ったテストとして、金魚でアセチルサリチル酸の効果をテストした。 Hoffmannの父はリウマチを患っていた。当時のリウマチの治療薬には、サリチル酸が用いられていた。サリチル酸には強い苦みとの苦味や胃障害など重大な副作用があったので、Hoffmannは、サリチル酸に変わる副作用の少ない新しい抗リウマチ薬の開発に没頭した。Hoffmannは29才で、サリチル酸をアセチル化して副作用の少ないアセチルサリチル酸の合成に成功した。 |
1899年 | Heinrich Dreser(P 1860〜1924, ドイツの化学者)がアスピリンと命名し、ドイツバイエル社がアスピリンを発売した。アスピリンは1899年3月6日にバイエル社によって商標登録されたが、第一次世界大戦のドイツの敗戦で(大日本帝国を含む)連合国に商標は取り上げられた。 |
1917年 | 1914年に第一次世界大戦が勃発して、英国はアスピリンの供給先のドイツから隔絶された。英国政府は、アスピリンの代替合成法を見つけた人に2万ポンドの賞金を出すと発表した。George Nicholas(メルボルンの若き化学者)がこの賞金を獲得し、彼の錠剤をAsproの名で市販した。 |
1933年 | (1930年にRaphael KurzrokとCharles Lieb(米国の産科医師 )がヒトの精液中にある子宮筋収縮作用,血圧降下作用を持つ物質として発見していた。) M. W. Goldblatt(イギリスの薬理学者)とUlf S von Euler↑(P オイラー 1905/2/7〜1983/3/10, Stockholmの生理学者)は、ヒトの精液中に血圧降下作用と平滑筋の収縮作用があることを確認した。Ulf von Eulerは,前立腺(prostate grant)で合成されていると思い,prostaglandinと命名したが、後で様々な臓器で合成されることがわかった。 |
1948年 | Lawrence L. Craven(P 1883〜1957/8/18, カルフォルニアの開業医、耳鼻科医)が心筋梗塞のリスク低下にアスピリンが有効であることを発表した。 |
1961年 | Stewart Adams、John Nicholson、 Colin Burrows(英国)らがアスピリンよりも安全な薬として1950代にイブプロフェンを合成し、1961年にパテントがとられた。関節リウマチ治療薬として、英国では1969年から処方薬として許可され、米国では1974年から使用可能となった。 |
1962年 | Sune K. Bergstom(スウェーデカロリンスカ研究所)とその弟子のBengt I. Samuelssonはヒツジの精嚢腺抽出物からPGE1, PGF1α, PGF2αの構造を決定し、不飽和脂肪酸であることが証明された。 →ノーベル生理学・医学賞(1982年) |
1963年 | Ralph Douglas Kenneth Reye(P 1912〜1978, オーストラリアの病理学者)らが、原因不明の小児の疾患に関する論文を科学誌「Lancet」に発表。 →ライ症候群 |
1963年 | Tsung-Ying Shen がインドメタシンをアメリカで開発した(Br Med J 5363: 965-70)。 |
1969年 | ニール・アームストロング宇宙飛行士が人類で初めて月面に立つ。この時、宇宙船アポロ11号の救急用品にバイエルの「アスピリン」が装備された。 |
1971年 | John R. Vane(P 1927〜2004/11/14, 英国の薬理学者)が、アスピリンによるPGの合成阻害機序を明らかにした。 →ノーベル生理学・医学賞(1982年) |
1973年 | Ciba-Geigy (現在 Novartis) がジクロフェナックを開発し、1979年に英国で発売された。 |
1978年 | 大規模臨床試験「Canadian Cooperative Study」の結果が報告された。脳卒中既往の男性患者に対するアスピリン投与が、脳卒中再発と死亡の抑制に有効であることが示唆されました。 |
1985年 | 米国食品医薬品局(FDA)が「心筋梗塞や不安定狭心症の既往症患者に対して、アセチルサリチル酸を毎日投与することで、その再発のリスクを心筋梗塞の場合で約20%、不安定狭心症に対しては50%以上の低減が可能」と発表。 |
1989年 | Daniel L. Simmons(Brigham Young University)がCOX-2を発見した。 |
2000年 | 厚生省がアスピリンを抗血小板薬として承認した。 |
2005年 | 厚生省がアスピリンを川崎病治療薬として承認した。 |
1852年 | Charles Gerhardt↑(フランスの化学者)がアセトアニリドを発見したが、作用などはわかっていなかった。 |
1873年 (1878?) | Harmon Northrop Morse(1848/10/15〜1920/9/20, 米国の化学者 Amherst College→University of Göttingen→Johns Hopkins University)がアセトアミノフェンとフェナセチンを初めて合成した。 |
1886年 | Arnold CahnとPaul Hepp(フランスの内科医)が、febrile disease(熱病)で、腸の寄生虫に苦しむ患者に向け、ナフタリンnaphthalene を処方使用としようとしたが、地方の製薬会社が配合を間違っていて、アセトアニリドを処方したところ、併発していた熱まで下げ、アセトアニリドに鎮静作用があることがわかった。アセトアニリドは、アンチフェブリンantifebrinという名前で販売された(「ノーシン」の主成分)。 |
1887年 | Joseph Freiherr von Mering(1849/2/28〜1908/1/5, ドイツの内科医)がアセトアミノフェンを初めて臨床に使用し、1893年に論文にまとめた。しかしアセトアミノフェンがアセトアニリドおよびフェナセチンの活性代謝物であることは、1948年↓になってやっとわかった。 |
1887年 | アセトアニリドは毒性が強いことが確認されたのでそれに変わるパラアミノフェノールの誘導体の探索が始まり、フェナセチンに解熱作用のあることが見いだされた。 |
1889年 | Karl Mornerがアセトアニリドとアセトアミノフェンの関係を研究した。アセトアニリドは生体内でパラアミノフェノールに酸化されることがわかった。 |
1948年 | Bernard BrodieとJulius Axelrod(1912/5/30〜2004/12/29 P アメリカの生化学者)がアセトアミノフェンはフェナセチンとアセトアニリドの両方の主要代謝物であることを報告した。 |
1953年 1955年 | Pennsylvaniaの製薬会社のMcNeil がアスピリンよりも胃にやさしい鎮痛薬として、Tylenol(アセトアミノフェン)を発売し、1955年に小児用のTylenolを発売した。 * |
2001年 4月19日 | 厚生労働省は解熱鎮痛剤フェナセチンの乱用に対する対策として全ての供給停止を通達した。 |
1926年 | フェンサイクリジン(PCP)が合成され、1950年にParke, Davisは特許をとり、Sernylという商品名をつけて、外科手術用の麻酔薬として研究を始めた。 |
1957年 | PCPの人を対象とした検査が始まったが、副作用として幻覚・妄想などの精神症状が報告され、1965年に人を対象とした臨床応用を断念した。その後獣医用の麻酔薬Sernylanに転用された。 |
1978年 | PCPが全面使用禁止となった。 |
1962年 | Calvin Stevens(Parke Davis Labs、デトロイトのWayne州立大学の化学者)が、PCPに代わる麻酔薬としてketamine1を合成し、「CI581」と命名した。 |
1963年 | ベルギーでketamine↑の特許がとられた。 |
1964年 | ミシガンの刑務所のボランティアでketamine↑の麻酔効果が確認された。 |
1965年 | Edward Domino(Michigan大学薬理学教授)がketamine↑の有用な麻酔効果を発見した。 |
1965年 | ケタミンの最初の娯楽使用が報告された。Edward Domino↑がketamine↑を強力な幻覚剤と記述し、「dissociative anaesthetic」と示唆した。 |
1966年 | Parke-Davisはヒトと動物の麻酔薬としてketamine↑4の特許をとり、ラセミ混合物として量産した。 |
ベトナム戦争(1960〜1975)でketamine↑は負傷兵の治療に使用された。(手術中に並外れた幻覚体験をしたという話が広まったという。) | |
2000- | ketamine↑は粉末で不正に密輸入され、「スペシャルK」や「カット」の通称で流通し、麻薬のMDMAにも混入し、乱用されていた。 |
2004年 3-6月 | 六本木で、薬物中毒で4人が死亡、7人が意識不明になった人の体内からヘロインやコカインのほかketamine↑も検出されたことから、法律で所持や使用が規制されることとなった。 |
2005年 12/13 | 厚生労働省は乱用が問題となっている全身麻酔薬ketamine↑を、麻薬及び向精神薬取締法に基づく「麻薬」に指定することを決めた。 |
2006年 3/23 | 「ケタミン」の麻薬及び向精神薬取締法に基づく「麻薬」指定の改正政令を公布 |
2007年 1/1 | 「ケタミン」の麻薬及び向精神薬取締法に基づく「麻薬」指定が施行された。* |
BC600年頃 | アッシリアの粘土板 Assyrian tablet に、麦角は「穀物の耳(角)の有毒な小結節 noxious pustule in the ear of grain」であると記載されていた。 |
BC350年頃 | Parsees パルシー教徒(Zoroaster ゾロアスター教の一派)の聖典には、麦角は「邪悪な穀物 mad grain」とたとえ、「妊娠した女に流産を引き起こしてお産で死なせてしまう有毒な草」と伝えていた。 |
St. Anthony of Egypt (AD251〜356) | |
古代ギリシャ人は「トラキアとマケドニアの悪臭を放つ黒い穀物」として決して手をつけようとはしなかったので、ギリシャに「聖アントニウスの火」の害が広まることはなかった。 | |
4C頃 | 中世になるとヨーロッパ南西部でもライ麦の栽培が行われるようになり,貧しい人々の食卓に上るようになり「聖アントニウスの火」が流行した。 |
561年 | 聖アントニウスの死後約200年たったAD561年に、聖アントニウスの墓が紅海のそばで発見された。聖遺骨はまずアレクサンドリアなどを経由して、1070年に時の十字軍によってコンスタンチノープルに運ばれ、さらに1000年ころになってフランスはリヨンの近くのベネディクト会修道分院へ、1491年に同じくフランスのランス近郊のサン・ジュリアン教会へ埋葬された。その後ドーフィネへ |
857年 | 「ザンテンの修道院年代記 Annales (Annals) Xantenses」に、壊疽性の麦角病(聖アントニウスの火)としての最初の記録として、Rhine Valleyに流行したことが記載された。 |
944年 | 「聖アントニウスの火」の最初の大流行があって、フランス南部で一回の流行で4万人が死んだ。 |
11世紀 12世紀 | 「聖アントニウスの火」の最盛期は11世紀と12世紀で、年代記記録者のGeoffroy du Breuil of Vigeoisがフランス西部のアキテーヌ盆地、リムザーン Limousin 地方で大流行したことを記録している。大流行すると、四肢を切断された患者達が、奇跡による治療を求めて、聖アントニウスの聖遺物を納めた大聖堂に巡礼する光景があちこちで見られた。 |
1093年 | 聖アントニウスの聖遺骨は最終的に、ウィーンに近いフランスのDouphineドーフィネ州に落ちつき、1093年にSaint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会ができた。 |
1095年 | Dauphineドーフィネ州(ウィーンに近いフランス)の領主であるGaston de la Valloireは、聖アントニウスの聖遺骨に祈ると、「聖アントニウスの火」にかかった息子のGerinの病気が治ったので、Saint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会の近くに病院を建てた。 |
1247年 | 教皇インノケンチウス4世が、修道会の規約を与えた。それ以降、人々はこの病に冒されると、霊験あらたかな世アントニウスの巡礼に旅立った。アントニウス修道会の参事会員達は、巡礼者を修道院に収容して、いくつかの薬草の効能、経験を積んだ四肢切断の技術、それにこの病気を防ぐ守護神とみられていた世アントニウスに対する信心にも続く手厚い治療を施した、聖アントニウス修道院は、単なる僧院ではなく、正真正銘の病因であった。 |
Matthias Grunewald (1470/80-1528, ドイツの画家)が「イーゼンハイム祭壇画Isenheim Altarpiece」の3面の「聖アントニウスの誘惑」を描いている。「聖アントニウスの火」に関連した絵を描いている。 | |
1517年 | Hans von Gersdorff(1489〜1540, ストラスブルグの外科医)が外科教科書:「Feldbuch der Wundarzney」を著した。著書には、その当時恐れられていた「聖アントニウスの火」に侵されて壊疽に陥った下肢を切断する手順が記述されている。挿絵としてJohann Grüninger(1480〜1526, ストラスブルグの画家・木版下絵作家)の木版画が使われた。四肢切断術は古くは壊疽の部分で四肢を切断していたが、ゲェルスブルグの頃は壊疽部よりも近位で切断し、煮沸した油あるいは焼きごてを使って断端を止血し、化膿を予防する手術が行われていた。ゲェルスブルグは、断端の皮膚を縫合せずに、動物の膀胱で包んでいた。術前にはアヘンで眠らせていた。 |
1582年 | Adam Lonicerが麦角が子宮収縮を起こすことを記載された。 |
1670年 | Thuillier(フランスの内科医)が「聖アントニウスの火」について研究した。病気は都市部よりも農村で、しかも弱い子供などに多いことがわかった。家族全員がかかるのではないので、感染症でない。都市部では牛肉、七面鳥、トリフや白いパンを食べ、病気がはやっている地域では、豚肉と豆とライ麦パン rye breadを食べている。農民はライ麦の先に雄鳥の蹴爪のような麦角を含めた小麦粉からライ麦パンを作っているが、Thuillierは錬金術師が分娩促進剤に麦角を使っていることを知っていた。しかも麦角がたくさんついている年に、病気が大流行することもわかった。それで、Thuillierは病気の原因は大気や水に原因があるのではなく、ライ麦パンにあると結論したが、農民はそれを信じなかった。 |
1676 年 | Denis Dodartがライ麦パンの毒と麦角に侵されたライ麦との関係を記録し、「聖アントニウスの火」が麦角によることを同定し、French Royal Academy of Sciencesに報告し、翌年John Rayが英国で紹介した。 |
1692年 | 米国東海岸マサチューセッツ州のセーラムで、壊疽、麻痺、痙攣を症状とする原因不明の疫病が拡がった↑。その当時は原因不明であったため、魔女の呪いと考え、疑心暗鬼となってお互いを告発し、広い範囲で魔女狩りが行われた。1692年の魔女裁判(The Salem Witch Trials)では死刑判決により多くの犠牲者を出した。魔女裁判は無知による不幸な事件として欧米人に記憶され、戯曲、映画、博物館などのテーマとなっている。1/2 |
1722年 | Peter the Great(ロシア帝国のピョートル大帝(1世))はコンスタンティノープルの港を支配しようとするが、ライ麦を食べるコザックの兵士もウマも中毒のため、ボルガの河口から進むことができなかった。 |
1808年 | Stearns(アメリカの内科医)が医学雑誌に麦角について報告した。 |
1816年 | Vauquelin(フランスの薬剤師)が麦角の薬理作用を研究し、報告した。 |
1853年 | Louis Rone Tulanseが「聖アントニウスの火」がライ麦ではなく、ライ麦に寄生する Clavices purpureaなどの菌が原因であることを解明した。Clavices(=かにの頭) + purpura(=紫) |
1862年 | ergotがイタリアで片頭痛の治療に使われた(Italian journal)。 |
1868年 | Edward Woakes(1837〜1912, 英国の耳鼻科医)がBritish Meclical Journalに「神経痛(片頭痛も含まれる)の治療におけるライ麦のエルゴット(麦角)について」という論文を発表。血管拡張に関連する片頭痛と他の神経疾患に血管収縮剤剤として麦角を推薦した。 |
1875年 | Charles Tanret(フランスの薬学者)が麦角を結晶化し、「ergotine cristallisee(ergotinine)」を分離した。 |
1875年 (1883) | Albert Eulenburg (オイレンブルグP 1840〜1917, ドイツの神経学者)が麦角を片頭痛の治療薬として使用した。 |
1889年 | Sir William Richard Gowers↑(P 1845〜1915, イギリスの神経学者)が書いた教科書の中で片頭痛↑の治療にやエルゴタミンや紅茶、コーヒー↑が有効であると書いている。 |
1918年 | Arthur Stoll↓(P 1887〜1971, スイス・サンドSandoz製薬の化学者)がエルゴタミンの単離に成功した。 |
1925年 | Ernst Rothlin(Sandozの薬理学教授)が酒石酸エルゴタミンの皮下注射が片頭痛発作に有効であることが発見した。 |
1926年 1927年 | 「聖アントニウスの火」の原因が麦角アルカロイドであることがわかった後も、ロシアでは麦角中毒が発生し、約1万人の罹病し93人が死亡した。同年、英国で200件の報告があった。 |
1928年 | Tzanck MA(フランス)はエルゴタミンを片頭痛の治療に応用して、その成績を「酒石酸エルゴタミンによる片頭痛の治療 Le traitement des migraines par le tartrate d'ergotamine, Bull. et mdm. Soc. mdd. ci hOp. de Paris 1928;52:1057-1061.」という論文に発表した。 |
1935年 | Harold Ward Dudley(1887〜1935, ロンドンの国立医学研究所:NIMR)とJohn Chassar Moir(P 1900〜1977, オックスフォードの産科教授)らが麦角から「エルゴメトリン ergometine」または「エルゴノビン ergonovine」の分離に成功した。 |
1935年 | Walter Abraham Jacobs(1883/12/24〜1967/7/12, Rockefeller Institute(ニューヨーク)の化学者、Hermann Emil Fischer↑ Pの下で学位取得)が麦角アルカロイドの有効成分にレゼルグ酸(lysergic acid)とイソレゼルグ酸(isolysergic acid)が含まれることを報告した。 |
1938年 | Albert Hofmann(P 1906/1/11〜2008/4/29 スイスバーゼルのSandoz研究所のArthur Stoll↑の研究室-現 Novartis研究所)が麦角に含まれる物質としてLSD-25を合成した。1943年に、自分で試してみて、強い幻覚作用があることを発見した。この試薬は第二次世界大戦中にCIAが「洗脳剤」として使用するに至り、戦後には大麻、コカインと並ぶ世界で最も有名な麻薬の一つになった。 |
1938年 | John Ruskin Graham(P1909〜1990 )とHarold G Wolff(P 1898〜1962, USA)がエルゴタミンを注射すると、浅側頭動脈の拍動の振幅が減少し、拍動性片頭痛が軽快するのを観察した。 →頭痛の血管説 |
1943年 | Arthur Stoll↑(P 1887〜1971, スイス・サンドSandoz製薬の化学者)とAlbert Hofmann↑(P 1906/1/11〜2008/4/29 スイスバーゼルのSandoz研究所、現 Novartis研究所)はdihydroergotamine(DHE-45, Sandoz): DHEを合成し、Horon, Peters and Blumnthal(Mayo Clinic)が片頭痛の治療に使った。 |
1948年 | Sandoz(スイス、現ノバルティスファーマ社)がカフェルゴットを開発した。エルゴタミンの経口投与は注射に比べて薬効が充分に得られなかったが、カフェインを配合することにより、エルゴタミン注射に匹敵する効果が得られた。カフェルゴットは日本では1964年に発売された。 |
1951年 | Albert Hofmann↑がエルゴタミンの構造を明らかにし、10年後に全合成を完成した。 |
1951年 | 最も最近の「聖アントニウスの火」の流行は、フランスのPont-St. Espritで起きた。200人が羅患し、4人亡くなった。 |
1985年 | Pramod R. Saxena(Rotterdam)らはエルゴタミンは選択的にarteriovenous anastomoses (動静脈吻合)の血管を収縮させることをネコの頭部で発見した。 |
BC 1200年〜 | インカ帝国時代では、解熱剤としてキナの樹皮をとして用いたり、多種の植物により治療を行っていた。プレインカのケラップでは、キナやコカの葉などの薬草で麻酔をしていた。もともと南米にマラリアや天然痘はなく、スペイン人が南米に侵略したときに持ち込んだと言われている。 |
15C後半 | リウマチの治療に、キナの樹皮から得られるキニーネが用いられ始めた。 |
1632年 | 17世紀初頭に、南米のイエズス会宣教師(Spanish Jesuits、スペイン、カトリック)はマラリアの治療において、キナ皮の効力を原住民から学んでいた。医薬業界の猛反対にもかかわらず、多量のキナの樹皮をマラリアが流行するヨーロッパに船積みし、「Jesuit's Powder(イエズス会の粉末)」としてヨーロッパに多大な恩恵をもたらした。 |
1638年 | Doña Francisca Henriquez de Ribera(Countess Anna del Cinchon, wife of the Spanish Viceroy of Peru ペルー駐在スペイン総督Chinchon伯爵夫人のフランチェスカ・リベラ 1576〜1639)がかかったマラリアがキナの樹皮を服用して治癒した。キンコン伯爵夫人はキナの樹皮の効能を高く評価し、マラリアにかかった一般の人々の治療に死傷し、帰国するときには持ち帰った。以後キナの樹皮は「キンコーネ」と呼ばれるようになった。(デンマークの植物学者の Martin Vahlは1790年キナの木をCinchonaと命名した。Carl von Linné(Carolus Linnaeus、1707/5/23〜1778/1/10、スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者)はCharles Marie de La Condamine(1701/1/28〜1774/2/4、フランスの探検家)が集めたキナの木のスケッチと記述をみて、18世紀にキナの学名をCinchona Succirubra L.と命名した。) |
1672年 | イギリスでは(プロテスタント)ではJesuit's Powderに偏見を持っていた。しかし薬剤師見習いのRobert Talborは、Jesuit's Powderを自分のオリジナルだと称して、ロンドンでも大流行したマラリアを治療した。梅毒に冒されていたCharles II(チャールズ2世、プロテスタント)には効果がなかったが、Charles IIはTalborの功績を認め、Talborに爵位を授けた。同じ頃パリでもマラリアは猛威を奮い、Charles IIはSir Robert Talborを遣わせ、Louis XIV(ルイ14世、太陽王)の息子のマラリアを治した。Louis XIVからはChevalier Talbotのタイトルが授けられた。 |
1737年 | Charles Marie de La Condamine(1701/11/28〜1774/2/4, フランスの探検家、地理学者、数学者)がマラリアの治療のためにキニーネが最も有効であることを発見した。 |
1749年 | Jean Baptiste Senac(1693〜1770, フランスの医師)は、少量の大黄と混ぜたキニーネが難治性の心悸亢進に有効であることを報告したが、この発見は150年以上注目されなかった。大黄の健胃、解熱効果を観察しているうちに、心臓に対する効果を認めた。副作用として、下痢が起こることも報告している。 |
1773年 | John Fothergill(P 1733〜1804, 英国)は三叉神経痛の治療に、キナの樹皮(cinchona tree, Peruvian bark) を使っていた。 |
Georg Ernst Stahl(1660〜1734, ドイツの化学者)がキナ皮に心臓に対する副作用があることを発見した。 | |
1790年 | フランスのAntoine François Fourcroyがキナ皮をアルコールや酸、アルカリなどで抽出する試みを行っている。このとき彼はキナ皮を抽出した水相がアルカリ性になることに気が付いていた。 しかし、それ以上の研究を行わなかった。 |
1811年 | Bernardino António Gomes(ポルトガルの外科医)がキナ皮をエタノールで抽出し、そこに水と少量の水酸化カリウムを添加すると微量の結晶が生じることに気がつき、これにcinchoninと命名した。 |
1820年 | Joseph Bienaime Caventou↑(P 1795〜1878 フランスの化学者、Ecole de Pharmacieの教授)とPierre-Joseph Pelletier(P 1788〜1842、パリの化学者、薬剤師)が、南米産のCinchona(red quinquina キナの木属アカキナノキ)の樹皮から30以上のアルカロイドを単離し、マラリアに効く成分を見つけた。ゴメス↑ が単離した結晶が単一物質ではなく、2つの物質quinine(キニーネ)とシンコニンからなることを発見し、これらの分離に成功した。この2つの物質のうち、キニーネのみが抗マラリア活性を持つことがわかった。The name was derived from the original Quechua (Inca) word for the cinchona tree bark, "quina" or "quina-quina", which roughly means "bark of bark" or "holy bark". |
1833年 | Etienne O HenryとAuguste Delondreらがキナの木(C. calisayaとC. succirubraの根の樹皮)から新しいアルカロイド(cinchona alkaloids)のquinidineを単離した。樹皮に微量(0.5%以下)しか含まれていなかった。 |
1836年 | ヨーロッパの国々は南米からキナの種子を持ち帰り、自国で栽培を試みたが、栽培は困難であった。Charles Ledge(1818/4/4〜1905、初めてペルーからヨーロッパにアルパカ alpacas の毛を輸入したイギリス人貿易会社社員、チチカカ湖の沿岸に長く住んでいた。)が見つけたCinchona Calisaya Ledgerianaの種子には、キニーネを多量に含むことが判明したが、英国は評価しなかった。オランダはこの種子に期待をかけ、1865年に植民地であるジャワ島に持ち込み、バンドン南部高地に大規模に栽培した。この木なの樹皮は淡黄褐色で、Ledger barkと呼ばれた。以後オランダはキニーネの独占国となり、他国は高値で購入することとなった。 |
1848年 | Van Heymingen(1884〜1972)がキニジンについて記述、Pasteurが1853年にキニジンと命名した。 |
キニーネの需要は高まり、1850年代には「キニーネの人工合成に成功した者には4000フラン」という懸賞がかけられた。 | |
1854年 | キニーネの正しい分子式Adolph Friedrich Ludwig Strecker(1822/10/21〜1871/11/7、はドイツの化学者)によって提出された。 これを出発点としてキニーネの構造決定がスタートした。 キニーネの構造決定は主に分解反応の生成物を同定し、それらを組み合わせることで行われた。 |
1857年 安政4年 〜 | Pompe van Meerdervoort(P 1829〜1908, オランダ海軍軍医、1857年9月に来日)は、コレラにはウンデルリッヒの「コレラ治療法」をもとに、アヘンとキニーネを推奨した。 |
1883年 | Ludwig Knorr(P 1859/12/2〜1921/6/4, ドイツの化学者)が解熱薬キニーネの代用薬を探索として、ピリン系薬解熱薬(アンチピリン↑)を開発した。 |
19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、オランダ領のジャワ島でのキニーネ専売は繁栄を極め莫大な富が築かれた。1942年、日本軍のジャワ島占領でキナ皮の世界への供給は大部分停止し、これに代わる合成抗マラリヤ薬の開発に拍車がかかった。 | |
イギリス人がインド経営に成功したのは、彼らが毎日ジントニックを飲んでいたからだという話があるです。トニックウオーターのは苦味成分にはキニーネが使われている。 | |
1908年 | Paul RabeとKarl Kindler(ドイツ)がキニーネの構造が解明した。quinotoxineからキニーネを合成した。 |
1918年 | Walter Frey(1884/10/1〜1972/2/9, キールの内科医、スイス人)がキニジンが心房性不整脈に有効であるという報告をし、キニジンは抗不整脈薬と認知されるようになった。 |
1925 | キニーネの代用薬を研究していたKarl Meischer(Carl Miescher、Cibaの化学者)が1925年に合成した。 |
1944年 | Robert Burns Woodward(P ロバート・バーンズ・ウッドワード 1917/4/10〜1979/7/8 アメリカの有機化学者、1965年にノーベル化学賞受賞)とWilliam Doering(ウィリアム・デーリング)は1942年からキニーネの全合成に取り組み始め、1944年に完成させた。この際に用いた「余分な環を作ることにより立体化学を制御する」という手法は、以降天然物全合成におけるスタンダードとなった。 |
1934年 | ドイツでキニーネの構造を元にクロロキン(抗マラリア薬)が開発されたが、毒性の強さから実用化を断念した。 |
1943年 | 米国が独自にクロロキンを開発し、発売した。 |
1955年 | 日本でクロロキンの輸入販売が始まり、61年以降は、腎炎やぜんそくなどにも適応症が拡大された。 |
1959年 | 英国医学誌にクロロキン網膜症の症例報告が発表され、翌年には米国の製薬会社がクロロキン網膜症を注意書きに記載した。厚生省は67年に劇薬・要指示薬に指定。69年に使用上の注意事項記載を通知した。製薬会社は74年までに製造を中止した。 |
2000年 | Gilbert Storkが、初のキニーネ不斉合成を果たした。 |
1809年 | François Magendie(P 1783〜1855, フランスの実験生理学のパイオニアおよび実験薬理学、バルザックの1831年の「あら皮」に登場するモーグルジー博士のモデル、動物実験をやりすぎて動物愛護運動の種となった)は、植物アルカロイドにも興味を持ち、最初にストリキニーネについて研究した。イヌにヌックス・ホミカを投与し、痙攣作用に脊髄が関与していることを確認した。モルヒネ、キニーネ、コデインに関してもフランスの医学実験に紹介した。 |
1818年 | Joseph Bienaime Caventou↑ PとPierre-Joseph Pelletier(P 1788〜1842、パリの化学者、薬剤師)は、Strychnos Nux Vomica(マチン科馬銭=マチン、つる性植物)からstrychnineを単離した。 |
1946年 | Sir Robert Robinson↑(P 1886〜1975, マンチェスター大学→オックスフォード大学の化学者, ノーベル賞受賞)strychnineの構造を決定した。 |
1906年 | George Harley (1829/2/12〜1896/10/27, スコットランドの内科医)はクラーレ (wourali) がテタヌスの治療とストリキニーネの毒に有効であることを報告した。 |
1954年 | Robert Burns Woodward(P 1917/4/10〜1979/7/8 アメリカの有機化学者)が、strychnineの全合成を完成した。 |
BC16C | 古代エジプトの人々は、ヒマの皮に水を加えてすりつぶし、痛む頭に塗という治療も記載されている。 |
1949年 | Philip Showalter Hench(P 1896〜1965 アメリカの内科医)らが、コルチゾンを治療目的で関節リウマチ患者に投与した。 |
1950年 | コルチコステロイドの同定により、Hench, Kendal, Reichsteinがノーベル賞を受賞した。 →ノーベル生理学・医学賞(1950年)/ステロイド性抗炎症薬 |
年 | Robert Burns WoodwardPが、コルチゾンの全合成を完成した。 |
1949年 | Frederick Joseph Cadeが(1912/1/18日〜1980/11/16日, オーストラリアの軍医、精神科医)が、動物に対する炭酸リチウムの抗躁効果を 偶然発見した。 |
1952年 | Ivan SelikoffとJean Delay(P 1907/11/4〜1987/5/29, パリSaint-Anne’s hospital の精神科医)らは抗結核薬のイプロニアジドで治療された患者の気分を高揚する興奮作用があることを報告した。1955年には抗結核剤からはずされたが、MAO阻害効果があることが判明した。 |
1957年 | Roland Kuhn(P 1912〜2005、スイスの精神科医)がイミプラミンの抗うつ作用を発見した。 |
1957年 | Nathan S. Kline(P 1916〜1982, ニューヨークの精神科医、精神薬理学薬研究のパイオニア)はイプロニアジドをうつ病患者に投与して著しい効果を挙げ、イプロニアジドはうつ病の最初の薬になった。Klineはイプロニアジトの抗うつ作用を解明しようとしたが、黄疸の副作用のあることがわかり、メーカーが市場から回収した。 |
1958年 | Brodie, B. B.(アメリカ)はイプロニアジドの興奮作用は動物にレセルピンを投与した症例に特に著しいことを示した。 |
1961年 | デンマークのLundbeck社が三環系抗うつ剤のノルトリプチリンを開発した。 |
1980年 | アモキサピンが第二世代抗うつ薬として発売された |
1983年 | 1963年に開発されていた三環系抗うつ薬のアミトリプリチンに、抗うつ作用と独立して、鎮痛効果があることが確認された。 |
1983年 | 世界で最初のSSRIのフルボキサミンが開発された。 |
1999年 | フルボキサミンが日本で最初のSSRIとして発売された |
2000年 | パロキセチンが国内2番目のSSRIとして発売された |
1952年 | Leo Sternbach(P 1908/05/07〜2005/09/28, ポーランド 系ユダヤ人 の化学者→Roche社)がジアゼパムを開発し、1953年に認可された。 |
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