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BC2750年 | BC2750に作られたエジプトの墓の壁に、Nile catfish, Malopterurus electricus (電気ナマズ) が刻まれている。 |
BC4C頃 | Plato(プラトン P BC427〜BC347)の書物「テイマイオス」には、琥珀が軽いものをひきつけることが書かれている。 プラトンの対話編「Meno メノン」ソクラテス(BC466-399)とメノンという若者が徳について問答の末、「----もし冗談めいたことをしも言わせてもらえるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対しても、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えたらよいのやら、さっぱりわからないのですから。"And if I may venture to make a jest upon you, you seem to me both in your appearance and in your power over others to be very like the flat torpedo fish, who torpifies those who come near him and touch him, as you have now torpified me, I think. For my soul and my tongue are really torpid, and I do not know how to answer you.----」徳が何であるかわかっていたつもりだったのに、頭がしびれてわからなくなった。ソクラテス−「---それから、このぼくのことだが、もしそのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというものなら、いかにも自分はシビレエイに似ているだろう。だが、As to my being a torpedo, if the torpedo is torpid as well as the cause of torpidity in others, then indeed I am a torpedo, but not otherwise---」(メノン プラトン著 藤沢令夫訳) |
BC4C頃 | Aristotle(アリストテレス P BC 384〜BC322/3/7, 古代ギリシャの哲学者、Platoの弟子)は、topedo シビレエイがヒトをもしびれさせると書いた。 |
BC2C頃 | Marcellus of Side(古代ギリシャ2世紀、トルコの内科医、長いmedical poemを書いている)もシビレエイによる感電で痛みが取れることを発見した? |
BC1C | Gaius Julius Caesar(BC100〜BC40)の時代には、痛風や頭痛に対する鎮痛法としてシビレエイ(電気)が利用されていた。 |
AD46年 | Scribonius Largus(1〜50, ローマの医師,Emperor Claudiusの軍医)が著した「De compositionibus medicamentorum」が16Cに発見され、1529年に出版された。その中に、電気魚による痛みの治療の最初の記録がある。「痛風の痛みが始まったら、生きた黒シビレエイ"Black Torpedo"を海岸の波打ち際において、その上に立ち、しびれが膝までおよぶのを待つ。慢性の耐え難い頭痛があるときには、痛みを感じる場所に生きた黒シビレエイをおき、痛みが消えるのを待つ。」 |
AD79年 以前 | AD79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれてしまった。Pompeiiの遺跡の中に、薬種商の店があって、そこにシビレエイ(電気魚)を描き込んだ美しいタイルがある。その当時、シビレエイによる治療法がかなり普及していて、治療用のシビレエイを提供していたとみられる。しかしローマ人はシビレエイの実用価値を知っていたが、それが電気を発生するとは考えなかったようである。 参考1/2/3/4 |
AD2C | Claudius Galen (Galenus)(P 131-201、ローマ時代の名医)は、頭痛、痛風や他の病気の鎮痛のために、電気魚のショックを利用していた。Galenは、生きた電気魚と死んだ電気魚を比較し、死んだシビレエイでは頭痛に効かないことを確かめた。 |
1663年 | Otto Von Guericke(P 1602〜1686、数学者、物理学者、市長)が摩擦起電器 electroricity generator, electrical generator の原型を発明した。琥珀が羽毛を吸い寄せることに興味を持ち、琥珀を強くこすって他の物体に近づけると、火花放電が生じた。琥珀の代わりに硫黄を用い、 直径25センチの硫黄球をつくり、これに軸をつけて焼き物のろくろのように回転させ、乾いた手を触れていくと強い電気が発生した。1/2/ |
1678年 | Stefano Lorenzini(1645(1652)〜1725, イタリアの科学者)は電気感覚器官であるロレンチーニ器官(Ampullae of Lorenzini)を発見した。サメが100万分の1ボルトという極わずかな電位差を感知することができる器官で、頭部に点々とあいている小さな穴の奥にはゼリー状の物質が詰まった筒状の構造。筋肉が発する微弱な電流を感知するなどして、食物を探すことなどに利用する。参考 1 シビレエイの皮をむいて、露出した筋肉に触れるとショックを感じること、そしてショックを感じるのは特別な筋肉が収縮したときだけであることも発見した。 |
1745年 | Christian Gottlieb Kratzenstein(1723〜1795) が電気治療を始めた。 |
1746年 | Petrus van Musschenbroek(P 1692/3/14〜 1761/9/19, オランダライデン大学)がライデン瓶 Leyden Jar*を発明し、放電実験を行った。ライデン瓶は、ガラス瓶の内側と外側を錫箔でコーティングしたもので、内側のコーティングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される。摩擦起電力をライデン瓶につないで電気を発生させた後、両者をつないでいた針金をヒトや動物に触れさせると、蓄えられていた電気が放電し、足の筋肉が動いた。 |
1747年 | Jean-Antoine Nollet(1700/11/19〜1770/4/25、フランスの神父、物理学者)は、「物体の電気の原因についての推察」で、電気流体による説明をした。電極を封入した真空管に手を触れると放電模様が千変万化することを示した。ライデン瓶を広め、宮廷でも実験を披露した。 |
1752年 | Benjamin Franklin(P 1706/1/6〜 1790/4/17, アメリカ合衆国の政治家)は、ライデン瓶の実験を知り、電気に興味を持った。1752年、雷の中で糸にライデン瓶をつけて凧をあげ、わざと落雷させるという実験を行った。このライデン瓶が帯電していたことから、雷が電気であることを証明した。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認した。 |
1769年 | Edward Bancroft(アメリカの科学者)が電気魚torpedo fishのショックがライデン瓶のショックと同じであることを示した。 |
1772年 | 6月 John Walsh(P 1725/3/9〜1795, イギリスの科学者)は海峡を渡り、フランスのラロシェル沖で生きたシビレエイから放電が起きていることを確認した。シビレエイの体の表面に当てた2本の針金を自分の身体に繋ぐと、1分半の間に50回以上のショックを感じ、ライデン瓶によるショックと違いがわからないことなどを書簡でフランクリンに送った。 |
1773年 | John Hunter(P 1728〜1793, イギリスの外科医、解剖学者)John Walsh ↑からシビレエイの標本をもらった。シビレエイの胸びれの表紙を剥がして、2個の発電器があることを発見した。そこにはきっちり積み重なった円盤の柱が何百とあり、発生する電気を溜めていた。ハンターはシビレエイの解剖学的観察所見を1773年7月1日に王立協会に提出し、会議の場で発電器官の構造を明らかにした雄雌のシビレエイの標本を回覧した |
1775年 | WalshとHunterはシビレエイの放電力は強くなかったので、デンキウナギ electric eel Electrophorus electricusの実験もした。デンキウナギの発電器官はシビレエイのものと似ているが、比べものにならないぐらい大きく、長い体一杯に並んでいた。ウォルシュは1775年の夏にギアナから生きたデンキウナギを取り寄せた。デンキウナギの体に当てた針金の他の端を錫箔に繋ぎ、錫箔に切れ目を入れると、「スパーク(火花)」が散ることを確認した。デンキウナギを水から出したらスパークを発生させないが、水中でスパークを発生させることを示した。ウォルシュは自宅に40人以上の王立協会会員を招き、実験に立ち会わせた。27人が手を繋いでできた輪にデンキウナギの電撃を通し、何とも言い難いスパークを散らせて見せて、本当に電気が放たれていることを証明した。放電は何度か繰り返され、輪になった70人以上がデンキウナギの電気を体感した。 |
1776年 | 平賀源内(P1728〜1779, 蘭学者・作家)が、「エレキテル」を作り治療に応用しようとした。初めは電気治療器としてよりも、好事家や庶民の好奇の対象として見世物にもなった。当時の電気治療は、今日の電位治療器とは違い、身体に直接電気を通した。 |
1782年 | Jean-Paul Marat(P 1743〜1793/7/13、フランス革命の指導的政治家)は、フランス革命が始まる前、イギリスやフランスで、ライデン瓶と摩擦起電器を使った痛みの電気治療を行っていた。1782年に、"Recherchs physique sur l'electricite"を出版し、1784年に"Mémoire sur l'Electricité Médicale"をパリ・アカディミーの賞を授賞した。ダントン ・ロベスピエールらとともにジャコバン左派のモンタニャール(山岳派)に属して活躍。マラーは皮膚病を患っていて、薬草の入った風呂に毎日何時間も患っていた。マラーは自宅で入浴中、ジロンド派の女性、シャルロット・コルデー Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont (1768〜1793)に刺殺された。以後、革命の殉教者として民衆の崇拝の対象となった。画家でもあり同志でもあるジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David(1748/8/30〜1825/12/29) によって描かれた「マラーの死」はベルギー王立美術館Musees Royaux des Beaux-Arts de Belgiqueとルーヴルにある。オリジナルはブリュッセルの王立美術館のもので、ルーヴルのものはダヴィッド本人による模写。 1/2 |
1786年 1791年 | Luigi Aloysius Galvani(P 1737〜1798, イタリアボローニア大学 Bolognaの生理学者、神経電気生理学の始祖)が、動物の神経の内部に動物電気が存在して いるという「動物電気 "animal electricity"↑説 galvanism」 を提唱した。 Galvaniは1780年末から、摩擦起電機とカエルを使った実験を行った。脊髄と坐骨神経を露出したカエルの下肢を、ガラス板を金属箔ではさんだコンデンサーの上に乗せ、摩擦によって電気を発生させる起電機で静電気を作り、その電気を導線を通して、脊髄や神経に接触させると、カエルの足が痙攣することを発見した。筋肉の痙攣する力は電気の強さと、電線を接触させる位置によって変化することに気づき、電気の強さに比例し、導線を接触している点から神経までの長さに反比例すると推測した。実験を繰り返すうちに、1786年9月20日に、電気のスパークを起こさなくても、カエルを鉄板の上におき、脊髄を貫いている金属の棒をその鉄板に押しつけると筋肉が収縮することを発見した。 これは空中電気によるものと考え、雷でも同様の現象が起るだろうと予測し、脊髄神経と避雷針を接続して、痙攣するかどうかを調べた。稲妻が光った時、カエルの足は痙攣した。ある時、カエルの神経に真鍮のフックを取り付けて、それを屋外の鉄柵にひっかけておくと、足が鉄柵に触れると、天気に関係なく痙攣が起こることを発見した。この現象は真鍮と鉄という2種の金属にあると考え、様々な組合せで実験し、金属の種類によって、収縮の強さが異なることを確認した。筋肉内部から電気が発生し、自分自身を動かすのではないかと考え、「動物電気 "animal electricity"↑説」を提唱した。Galvaniは、それまでの研究結果をまとめて、1791年に「筋肉運動による電気の力」(De viribus electricitatis in motu musculari)として発表した。 この説にVoltaは反論し、以後10年間の論争になった。GalvaniとVoltaの論争はGalvani側に甥のGiovanni Aldiniが加わり、金属を使わず,筋肉と神経だけの接触でも収縮が起こることを示して反論した.この両者の論争は,Voltaの電池の研究が有名となり,それとともにVolta側の勝利に終わる。1790年代半ば、GalvaniはNapoleon Bonaparte のイタリア支配に忠誠を誓うことを拒否したため、大学を追われ、彼の実験の解釈についてのVoltaとの論争で評判を落とした。しかしGalvaniの名は、ガルヴァノメータ、GSRに残っている。* |
1801年 | Alessandro Volta(P 1745〜1827)が「ボルタの電池」を発明した。その後Voltaは、Galvaniの「動物電気説」に反論し、以後10年間の論争になった。Galvaniは、動物の筋肉には電気が蓄えられていると考えたが、Voltaは電気は筋肉に由来するものではなく、金属に由来するものと考えた。1801年頃Voltaは、銀とスズの板を互い違いに何層にも重ね、そこに食塩水をかけると電流が発生することを発見した。Napoleon Bonaparte がオーストリア皇帝を名乗っていた1810年から1815年、NapoleonはVoltaに敬意を評し、Padua哲学教授の称号を贈った。 |
1828年 | Leopoldo Nobili(P 1784〜1835, フィレンツェの物理学者、発明家)は電流計を作り、Galvani風の実験を行い、「カエル電流」を検出した。ただし彼はボルタの説にとらわれ、この電流は神経筋の温度差からたまたま発生するものと考え、神経筋に本来あるものとは考えなかった。 |
1842年 | シビレエイが電気を発生させることを十分納得させる実験をしたのは、Carlo Matteucci(P 1811/6/20日〜1868/6/25, ボローニャの物理学者、神経生理学者)である。Matteucciは、Galvaniの生物電気の発見をうけて、1830年頃から生物と電気の実験を行った。Nobili発明した電流計やVoltaの電池を使って実験をおこなった。スパークを発生させてシビレエイが電気を出すことを証明した。1842年に、筋の表面に対し筋切断面は電気的に負である事を発見し、筋に電流が発生することを示しました。(しかし彼は神経には電流は流れないと考えていた。)二次収縮も観察していた。Matteucciは晩年は政治にも参加し、教育大臣になった。イタリア科学アカデミーは、Matteucciを記念して、基礎分野の優秀な科学の業績に対してマテウッチ・メダルを贈っている。 |
1848年 | Emil Heinrich du Bois-Reymond(P 1818/11/7〜1896/12/26, 父はスイスの時計屋、Johannes Petrus Mullerの弟子, ベルリン大解剖生理学教授)は20000回巻きのコイルからなるGalvanometer(高感度電流計)を制作し、筋の収縮時に筋の内外の電位差が消失する「陰性動揺」、つまり活動電流の存在を著書「動物電気の研究」(1848-1884)に発表した。「神経には電流が流れない」という考えを発表していたMatteuccの追試を行った。はじめ筋肉の縦断面や横断面を電流計で測定し、両者に電位差があることを見い出した。この見解をさらに神経にまで拡張し、神経でも両断面に電位差があると考えて、神経を伝わる興奮は、電流自体ではなく,電流の強さの変化によって生じる電気的緊張状態であると述べた。 |
1849年 | Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholz(P 1821/8/31〜1894/9/8、ドイツの生理学者、物理学者)は、Galvaniの研究にヒントを得て、カエルの神経の伝導速度を測定した。神経筋標本をつくり、神経の2か所を電気刺激し、筋収縮の潜時を測定すると、興奮の伝導速度が一定であることを見い出した。ヒトの正中神経の伝導速度も測定した。「特殊線維エネルギー説」 |
1861年 | 佐久間象山(文化8年=1811年〜)が、電気医療器を作った。源内、雲斎、観好のエレキテルは、摩擦電気の原理に基づくものであるが、象山のは誘導作用を応用したもので、鉄線の束に銅線を捲き、一次コイルの電流は電池から導き、これは鋸状の金属体の歯面を一本の金属機で摩擦することによって、誘導作用を起こす。ファラデ−が1931年に発見した電磁誘導の現象が既に我国に伝っていたのであろう。 |
1938年 | Ugo Cerletti(P 1877〜1963 ローマ)とLucino Bini (1908〜1964, ローマ)が統合失調症の治療のために電気痙攣療法を考案した。 |
1954年 | Karl-Erik Hagbarth(1926〜2005/5/17, スウェーデン)とKerrが脊髄腹外側部に誘発された反応が、網様体、小脳、大脳、皮質などの脳の様々な部位の刺激で抑制されることを観察した。 |
1961年 | Mazarsらが慢性疼痛に悩む患者の、VPL刺激で鎮痛を得ることができたが、世界の注目を集めるには至らなかった。 |
1965年 | Ronald MelzackとPatrich D Wall(P 1925〜2001)の「The gate-control theory of pain」がScience誌に掲載された。 |
1967年 | Patrich D Wall(P 1925〜2001)とWIlliam Sweet(ハーバードの脳外科医)が、眼窩下神経刺激あるいは後索のバイブレーションが慢性痛を緩和することを発見し、TENSを始めた。 |
1967年 | C. Norman Shealyら(アメリカ)が、末期がん患者の脊髄硬膜下腔電気刺激による慢性疼痛治療を行った。 |
1969年 | David V. Reynolds(オンタリオ州のウィンザー大学の心理学者)が、外科手術に使われる止血鉗子を改良した疼痛計を用いて、ラットの四肢先端部や尾を圧迫し、嫌悪反応を調べた。PAGの背外側を電気刺激すると、この嫌悪反応を誘発する圧刺激の閾値が上昇した。そこで麻酔薬を使わずに、PAGの電気刺激による、開腹手術に成功した。1 |
1971年 | John C Liebeskind(1935〜1997, UCLA心理学)のLabのDavid Mayerらは、中脳と間脳の種々の部位の電気刺激による鎮痛効果を調べ、PAGのほぼ全域と間脳の第3脳室周囲灰白質の電気刺激が鎮痛効果を持つことを示した。 Huda Akilらは、SPAはナロキソンで遮断されることを示し、Liebeskindは脳がオピエート様物質を脳が作ることを予測した。 |
1971年 | 下地恒毅先生が脊髄刺激 (経皮的硬膜外電極) による慢性疼痛の治療を行った。 |
1973年 | Yoshio Hosobuchiらは、中枢痛に対して、脳破壊術ではなく、視床中継核に埋め込んだ電極で、間欠的に電気刺激して、除痛をはかった。視床中継核刺激法が世界的に拡がった。 |
1974年 | John E Adams、Yoshio HosobuchiとFields HLは、脳出血後の視床症候群、前頭葉あるいは脊髄病変による神経因性疼痛患者の内包後脚の後ろ1/3(Vb complexからの上行路、Vbの外側)を電気刺激し、一部の患者で鎮痛効果を得ることができた。 |
1974年 | Charles V. BurtonらがTENSの有効性を報告した。 |
1977年 1979年 | Donald E. RichardsonとHuda Akilが、脳内刺激鎮痛法を始めた。痛みの治療のため、視床破壊手術を行おうと、中脳と間脳の移行部に電極を刺入し、試みに電気刺激したところ、痛みが軽減した。そこで、電極を固定し、患者がスイッチを押すと、脳に刺激電流が流れるようにした。 |
1991年 | 坪川孝志先生らが、感覚野ではなく、大脳皮質運動野刺激法で除痛に成功した。 |
1858年 | J.B. Francis(フィラデルフィアの内科医)は、ガルバニー電気 galvanismを利用して、抜歯を行った。一方の電極を患者の歯、他方の電極を手につけて電流を流し、164本の歯を抜いた。Francisは特許権を申請し、5月26日に取得した。Garrett (ボストンの内科医)も痛い部位のつけた電極に3〜5分耐えられる程度の電流を流し、 peripheral neuralgias, hyperalgesias, tic douloureux and jaw ache などの痛みの治療をした。1/3の患者は痛みを感じなかった。W.G. Oliver(バッファロー)も抜歯鉗子 dental forcepsに陰極電極をつけて抜歯した。彼も手足にも電極をつけて外科麻酔をした。電気麻酔による抜歯は、英国やフランスでも取り上げられたが、効果が不確実であまり普及しなかった。ベルボー(フランス)は、「麻酔されなかった。アメリカ人の歯にはフランス人の歯にない何かがある。」と結論した。ほぼ同じ頃に、薬物を用いた全身麻酔法や局所麻酔法が確立されたので、電気麻酔はあまり意味がないと考えられた。 |
1902年 | Stéphane Armand Nicolas Leduc (1853〜1939 フランスの生理学者)とPetersonが電気麻酔(electronarcosis=transcranial electrostimulation - TES)に成功した。Leduc は自分自身に電気麻酔をかけると、意識ははっきりしているが、会話と運動が抑制された。 |
1910年 | Robinovitch(Leducの弟子、女性の外科医)が適鎮痛効果は40V、40mA、1.0msec(長い持続時間)であることを発見し、HartfordのSt. Francis病院で、電気麻酔下に足の切断に成功した。 |
1943年 | Martiniらは脊髄に直接電気を流す麻酔を試みた。脊髄だけではなく、ネコの小脳や大脳皮質に電気刺激を与え、その生体電気現象の抑制を観察している。 |
1944年 | 高木健太郎(名古屋市立大学長)らが、イヌで電気麻酔の実験に成功した。 |
1974年 | Kano Tatsuhiko(加納 龍彦 久留米大学麻酔下名誉教授)らは頭皮上末梢神経遮断実験から、頭皮に分布する体性感覚神経を介した求心性インパルスによる間接的中枢刺激効果が、電気麻酔発生に重要な役割を果たしていることを示した。 |
BC5000年 | 上海中医学院(鍼灸大学)に、BC5000年頃の土中から発掘された古代の鍼↓1が展示されている。 |
BC3300年 | 1991年9月19日、オーストリアのチロリアン・アルプスに位置するエッツタール渓谷(オーストリアとスイスの国境付近、海抜約3200 m)で山歩きを楽しんでいたシモン夫妻が、氷河で覆われた小渓谷の溶けかけた氷水の中に、褐色に変色し骨や脊椎が浮き出た死体を発見した。約5300年前のミイラ(Tyrolean Iceman)であり、脱水処理をされていないウェット・ミイラ。発見場所にちなんで「エッツィ(Ozi)」と名付けられたが、イタリアでは、「ヒベルナトゥス」と再命名している。現在、イタリア北部のアルト・アディジェ州ボルツァーノ市にある南チロル考古学博物館Museo Archeologico dell'Alto Adigeに所蔵。アイスマンは身長159cm、生前の推定体重40kgの46歳程度の男性とみられ、CTスキャンによると、腰椎の関節炎を罹っていたことが明らかになった。鞭虫に寄生され、鼻骨が潰れ、治癒していない肋骨骨折が数ケ所見つかった。散髪した跡があり、刺青のような短い青い線が脊椎の下部、左足、右足首の皮膚に認められた。ヤギ、カモシカ、鹿の毛皮でできた着衣の断片、樹皮繊維で編んだ外套、毛皮の帽子、革製で草をつめた靴を身につけ、木製の柄のついた銅製の小さい斧と火打石の短剣、イチイ製の長弓、ガマズミ製の14本の矢を入れた毛皮の矢筒を装備していた。左肩に突き刺さった矢が死因であることが判明している。DNA鑑定で、現在も彼の遠い子孫がいることが判明している。 このアイスマンから、鍼治療の始まり↑は、古代中国ではなく、古代ヨーロッパであることが示唆されている。これらの刺青はいずれも線で構成された単純な幾何学模様で、その彫られている場所からみても、誇示する目的や装飾的な意味をもったものとは考えにくく、むしろ中国の鍼治療のツボを連想させた。刺青の位置を計測し、写真を撮ってそれを経穴図と重ねるなどの調査をするとともに、3人の信頼できる鍼師からも専門家としての意見を求めた結果、15か所の刺青のうち9か所はツボと重なるか、5mm以内のずれの範囲内にあったという。特に、背中に見られる5か所の刺青は膀胱経のツボに重なるか、ごく近傍にあった。また、左足くるぶし側面に見られる2つの刺青のうちの1つは崑崙穴に近い所にあった。 参考1/2/3/ |
BC26C頃 (伝説) | 伝説の皇帝である黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)によって「黄帝内経 Huangdi Neijing」が編纂され、「素問」(人体の生理や病理等)、「霊枢」(鍼灸等の医療技術等)に関して記載された。 |
BC2000年頃 | 神農(しんのうP)は中国神話に登場する王。三皇五帝という時代の「三皇」の一人で、農業と医学の創始者と伝えられている。人間の身体に牛の頭を持っていたとされる。鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれ、火徳(五行思想による5つの天性のひとつ)をもって王となったことから炎帝と呼ばれるという。百草を嘗め、川や泉の水を飲んで毒味をし、1日に70もの毒にあたったとされる。365の薬物を残した。 「淮南子」修務訓には、「神農は百種類もの草の効用や味、川や泉の水を味見して、避けるべきものと役に立つものとを人々に分かるようにしたが、一日のうちに七十もの毒に当たった。」とあり、神農の毒味と医薬の始まりについての伝説は、これが源となっている。 |
BC13〜11C 殷・周・春秋 | 殷嘘(中国・河南省安陽市の西北約2kmの小屯村の近く、殷(商)の時代の墓)から、「竜骨」が発見され、竜骨に漢字の原型とされる甲骨文字が書かれていた。司馬遷の史記に書かれていた商王朝は、伝説上の王朝と思われていたが、実在していたことが確認された。中国の古代の医術については、史記の扁鵲倉公伝に詳しい記述がある。殷周の時代は、巫医の時代であった。病気はたたりや邪気の致すところである。甲骨:動物の骨に文字を刻み、ヒビの入り方によって病の原因や治療法を占い、治療には祈祷・祭祀が頻繁に用いられていた。外科療法としては、メスとして膿などを去るために、石の先端を矢じりのように研いで鋭利にした「(石乏)石:(へんせき)」や、動物の骨を加工した「骨鍼(こきゅう)」が利用されていた。これは後に「鍼」となったと考えられている。 |
BC10C頃 | 中国で、銅鍼や鉄鍼が使われていた。それ以前に、骨鍼・竹鍼・石鍼などが先行していた。 |
BC8C-6C | 古代中国で『山海経』が編纂され、薬効を持つ草木・鉱物について記載された。 |
BC5C頃 | タイ古式マッサージの歴史は、仏教の成立にまでさかのぼると言われている。伝説では、仏教の開祖・ゴーダマ・シッタルダの主治医であったと言われる「タイ医学の父」、ジヴァカ・クマール・バッカがタイに伝えたとされている。 |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)は、マッサージ(Massage)についても記載している。「凡そ医たる者は、医学に関する学科とともに、マッサージの一科をも研究せねばならない」と効力と必要を述べた。マッサージ(Massage)はギリシャ語の「こねる」(sso)アラビア語の「押す」(mass)という言葉と、ラテン語の「手」(Manus)、ヘブライ語の「触る」などと同一語源であるといわれている。すなわちマッサージは「さすり」「押したり」「捏ねたり」する療法である。マッサージは、人類が生み出した最も古くから行なわれている自然療法といえる。人類が生まれてから本能的に手を触れて和らげていた行為、さする、押す、揉む、叩くなどがより効果的な方法に発展整理してきたものがマッサージなどの手技である。 |
BC2〜6年 元 | 朝鮮人参を薬として使った最古の記録がある。 |
BC4C頃 | 扁鵲(へんじゃく P 古代中国の半鳥半人の姿を持つと伝説上の人物)が脈学を創始した。黄帝内経を元に、鍼灸の診断法と治療法について著された『難経』を著した秦越人は、おそらく扁鵲であるとされている。 |
BC220年 | 中国の戦国末期から秦漢時代の医学をまとめたものと思われている「内経(だいけい)」は、黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)↑が岐伯と医学に関して行った問答を記載した形式がとられている。「素問」および「霊樞」の2部からなっている。「素問」は疾病の原因を陰陽二気の不調和によるものとし、木・火・土・金・水の五行説を取り入れ、肝心・脾・肺・腎の5臓器をそれぞれ配している。さらに体の表層に12経絡を想定し、この道を通って種々の病気が各臓腑に達するものと考えている。経路に沿う365の経穴を想定し、そこに針を刺して治療する。12経路に任脈(腹側正中線)と督脈(背側正中線)を加えて、14経路とすることもある。「内経」によると、痛みは外から火や風などの進入して経絡をふさいだときに起こる。痛みの原因は脈をとるとわかるという。霊樞の中には、癲癇および精神病を取り上げた「癲狂篇」があり,古代の精神医学書として特異的なものである。治療法としては、薬物利用とともに、鍼灸の法が述べられている。当時使われていた鍼を特徴で9つに分類した古代九鍼が紹介されている。 |
漢 BC202〜220 | 古代の中国で揚子江流域やその南方は、地質が豊かでさまざまな植物が茂った所ではその根・皮・木・草等を採集して煎じて飲む薬としての療法が発達した。一方、黄河流域は土地が痩せて植物の種類も少なく生育も悪いく、その地域ではヨモギ草を健康食やお灸材(艾)として利用するしかなく、経験的に鍼灸療法が発達したと言われている。この2つの医学は、中国の漢の時代にひとつに集大成されたので、今日では「漢方医学」と呼ばれている。 |
BC186年 前漢初期 | 湖南省長沙市の馬王堆 Mawangdui 三号漢墓利創の妻の墓(→1973年に出土)から出土した医書によると、経絡理論は鍼治療より前に、灸治療の経験から形成された可能性が示唆された。 |
AD2C | 華陀 Hua Tuo(P 110〜207, 後漢末の医師)は、五禽戯(ごきんぎ)といわれる導引法(養生術の一種)も考案している。内科、婦人科などのほかにも、鍼灸学における功績があり、今でも頚椎の両側にある24個のツボのことを「華陀挟頚穴」と命名されている。「三国志」の中の「華佗伝」では、魏の曹操の持病の頭痛を治療したが、曹操の侍医になるのを断り、母の病気のためと偽って故郷に帰った華陀は、曹操の怒りを買い、火あぶりの刑に処せられた。(あるいは、敵将関羽を治したと、曹操の怒りをかって殺された。) |
AD2C 後漢 | 張機(P 150〜219, 字・仲景)が一族の多数が傷寒で数多く病死したので、「傷寒雑病論」を編纂した。傷寒論(しょうかんろん)は、全10巻22篇からなる伝統中国医学書。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている。また病気の進行具合を太陽(たいよう)・陽明(ようめい)・小陽(ようめい)・太陰(たいいん)・小陰(しょういん)・厥陰(けっちん)の6つの時期にわけ、それぞれの病期に合った薬を処方することが特徴的である。 |
AD3C | 皇甫謐(こうほひつ、後漢、P 215〜282年)らによって、「鍼灸甲乙経」が編纂された。現存する古代最初の系統だった鍼灸の専門書である。人体の部位や経絡に従ってツボの主治症を記録し理論・適応・禁忌等を述べている。「鍼灸甲乙経」は562年に日本に渡る。 |
AD3C | あん摩は古代中国に起こり、日本に渡来した。年代は定かではないが、285年頃とも言う説がある。 |
414年 | 日本書紀によれば、大和朝廷の時代に、日本に鍼が渡来した。允恭天皇の病のため医師を新羅に求め、金波鎮漢紀武が来朝した。 「三年春正月辛酉朔、使いを遣わして良き医を新羅 に求む。秋八月、医、新羅より至でたり。則ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時も経ずして、病已に差えぬ。天皇歓びたまいて、厚く医に賞して国に帰したまふ。」 医師・金波鎮漢紀武が日本に滞在した期間はそれほど長いものではなく、医術の教授ではなくて天皇の病を治療するためであった。 |
459年 | 雄略天皇のため百済は高麗の医師徳来を遣わす。徳来は、日本に帰化して難波に住み、代々難波薬師の名で医業を続け、半島の医術を伝えた。 |
539年 | 百済より医博士・採薬師来朝した。 |
562年 欽明天皇 23年 | 大和朝廷は、大伴挟手彦に数万の兵を与えて高句麗に派遣し(日本書紀)、大伴挟手彦が帰国時に智聡(ちそう、帰化人、呉国主、照淵( せうえん )の孫)が渡来した。智聡は内外典楽書、薬ノ書、明堂図六十四巻、仏像一体、伎楽調度一具をもたらした。「明堂図」とは針灸のつぼを図解した人体経穴配置図。智聡は帰化し、息子の善那(ぜんな)は、孝徳天皇に牛乳をしぼって献上したのが、乳利用の最初とされている。「薬書」には、乳製品の効能が説かれていた。 |
隋・唐 581〜907 | 人体の穴位や経脈の研究が進み、「鍼灸甲乙経」が完成した。「病」と「(月兪)穴」(ツボ)の関係が本格的に研究され始め、「鍼灸」は学問として重視されるようになった。「千金要方」「外台秘要」などの医学全書が編纂された。「明堂孔穴」以来、「ツボ」を意味する最も伝統的な用語は「孔穴」であった。 |
701年 | 奈良朝時代、文武天皇の頃の大宝律令で、日本で最初の医療制度(一般医療科と鍼灸の専門科)が制定され、鍼灸が国家の医療として確立した。按摩博士、按摩師、按摩生(あんまのしょう)も置かれ、医療における一分科として「按摩」が正式に位置づけられました。その後、按摩導引、もみ療治などと言われ、現在に至っています。 |
791年 | 遣隋使などから、数々の医書が輸入され、奈良時代には「鍼博士」の職制が定められました。この頃から医療は鍼灸と湯液が主流になる。 |
808年 平安時代初期 大同3年 | 『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』-全100巻。(日本における唯一の古医方の医学書であるとともに、最古の国定薬局方でもある。)が編纂された。平城天皇は、漢方以外の流入による和方医学の崩壊の危機に瀕している事態を憂慮して、諸国の国造以下の有力な豪族・旧家や神社に対して伝承する古医方を提出させて、これを安倍真直・出雲広貞らによって類聚編纂させた。『日本後紀』によれば、大同3年5月3日に完成が天皇に上奏されたとされている。同年制定された「大同医式」によって、薬品の処方はこれに基づくように定められた。しかし残念なことに、この書物は現存しておらず、日本固有の医学がどのような医学・医術であったかは不明です。 |
宋 96O〜1127 | 穴位や経脈を、具体的に配列した「鍼灸銅人」が誕生した。これによれば「穴に按じ鍼を試しこむ。穴にあたらば鍼入りて水出づ。少しでも違えば鍼入らず…」とこの時期からかなり正確な「ツボ」が判明していたことがわかる。 |
984年 平安時代 永観2年 | 丹波康頼 (たんばやすより P 912〜995、医博士、鍼博士)が、中国医書の引用して、日本最古の医書である「医心方」全30巻を著し、医学の原型を作り上げた。1984年には医師会が、京都の今熊野の医聖堂というお堂がに、「医心方一千年の記念に」という顕彰碑を建てた。「医心方」では、「ツボ(孔穴)」とは異なる、経脈の概念が排除された単なる施灸部位として「灸穴」が示されている。 |
11C 明 | 明の時代には、400年を経て古くなって判別がしづらくなった「鍼灸銅人」を再鋳造させた。明代の「鍼灸銅人」は365箇所の経穴に実際に鍼を刺せるようになっていて、医者や鍼師の育成に大いに貢献した。王惟一(おういいつ 987〜1067年)が、「鍼灸銅人」の彫刻をした。現在、明代の「鍼灸銅人」は北京の三皇廟内に秘蔵されている。 |
1311年 | 病弱だった花園天皇の日記「花園院震記」には、歯痛のための鍼灸治療の記録がある。 室町時代、民間には、日本独自の「打鍼術」という本家中国には見られない技術が開発され、鍼灸の主流となっていた。小さなクイのような、鍼としては太い純金製または木製の鍼を、小さなツチで腹部に打ち込むという摩訶不思議な日本独特の鍼術。「打鍼術」の診断には、お腹を手でなで触って体の異常を診断する「腹診」がなされていた。 →参考 |
1330年 | 吉田兼好(1283〜1352)の随筆「徒然草」の第148段に、「四十以後の人、身に灸を加えて三里を焼かざれば、上気の事あり、必ず灸すべし」 |
1439年 | 「鍼灸大全」(明代)が編纂された。 |
1530年 | 「鍼灸問対」(明代)が編纂された。 |
1529年 | 「鍼灸聚英」「鍼灸節要」とともに、鍼灸の集大成ともいえる「鍼灸大成」(1601年)が編纂される。これらによって現代鍼灸の基礎が築かれた。 |
16C | 曲直瀬道三(まなせどうさん、1507〜1594)、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)らが、明医学を導入し、京都で医学舎「啓迪院」を創建し、医学教育活動に従事した。金元医学の影響が大きく、陰陽五行説を尊重した。 |
1600年前後 慶長年間 | 鍼灸諸流派と新興の鍼医が、「十四経発揮」などの影響から、経脈との関係に注目し始め、「経穴」という概念が、江戸中期になって、本格的に成立した。 |
御薗意斎(1557〜1616)が、打鍼法を考案した。金の鍼を使い、主に腹部の硬い部分に鍼を立てて木槌で鍼の頭を少しずつ叩いていく。天皇の牡丹を鍼で治したというので、「御薗」の名前を授かった。中国から最初に伝えられた撚鍼法(捻鍼)は、道具を使わずに、鍼体に挿入するので、下手な人がすると、切皮(鍼が皮膚に侵入する)時に大変な痛みを生じさせる。 | |
将軍綱吉に鍼灸医術の振興を命じられた杉山和一(1610〜1694)が、管鍼法を開発した。管鍼法とは、俗に言う日本鍼で、御薗意斎の打鍼法を盲人の使いやすいように改良したもの。細い管を使って、鍼のリードをさせ、木槌の代わりに指で鍼の頭を叩く。これにより刺すときの痛みが減少した。和一は、盲人に鍼・按摩の教育をし、盲人の職業として鍼・按摩を定着させた。この頃、オランダ医学が日本に入り始めりが、その蘭学医のシーボルトらは、日本で鍼灸を学び、帰国後ヨーロッパにおいてそれを伝えたとされている。お灸の材料にはモグサ(Moxa)と日本名で、広く欧州にもモグサを紹介している。 | |
1689年 | 松尾芭蕉(1644〜1694)の紀行文「奥の細道」に、三里の灸が出てくる。旧暦の元禄2年3月27日に、江戸・深川の庵を出て、奥羽・北陸を経て、3月27日に、美濃・大垣に至る約2400kmを踏破した時、「もゝ引きの破をつづり、笠の緒を付けかえて、三里に灸すゆるより松島の月」の一節を詠む。足三里は、健脚のツボ、胃腸の働きを調整する代表的な経穴。昔、旅人は旅先での食あたりや水あたりの予防にお灸をした。 |
17C | 安土桃山時代から江戸時代、宗教医学を改め、中国医学を日本化した実証医学の開祖、曲直瀬道三(李朱医学系の啓迪集八巻)は道三流鍼灸として、天皇や幕府に信任が厚かった。 |
1713年 正徳3年 | 貝原益軒(宝永7年=1630〜1714)が著した本に「養生訓」では、「毎日少しずつ労働するのがよい。長く座っていてはいけない。食後の散歩は必要で、庭の中を数百歩静かに歩くだけでよい。雨の日には、室内を幾度も歩くがよい。こうして日々朝晩運動すれば、鍼・灸を使わないでも、飲食はすすみ血気の滞りなく病なし。鍼・灸をして熱い思いや痛みに耐えるよりも、軽い運動をすれば、痛い思いをせずして楽に健康を保持することができる。」 |
1774年 | イエズス会の修道士が東洋医学の鍼治療をフランスに伝えた。「acupuncture」と言う用語が使用された。 |
18C末 | スウェーデンのバー・ヘンリック・リング が治療体操に没頭してマッサージはドイツ、フランス、オランダ等の諸国に普及するに至った。オランダのメツツゲルと門人のベルグマンが、マッサージの効果を医療技術として紹介し、手技を選定し理論を築いた。 |
1811年 | Louis-Joseph Berlioz(1776〜1848, フランスの医師、作曲家のベルリオーズの父)が鍼に電気(1〜1,000 Hz)を流す治療を始めた。若い女性の腹痛の治療に電気鍼を使用し、1816年に出版した著書「Memoirs on Chronic Complaints」で説明した。 |
1825年 | Jean-Baptiste Sarlandière (1787〜1838 フランスの解剖学者、François Magendieの友人)がBerlioz↑が開発した電気鍼の技術を痛風や神経疾患の治療に使用し、「electroacupuncture」と呼んだ。 |
1875年 | ドイツの医師モーゼンガイル氏は、マッサージの循環器系に及ぼす影響の実験的実験的証明を外科学会に発表した。 |
1885年 明治18年 | 日本にマッサージが導入されたのは明治時代。赤十字病院長軍医総監橋本綱常(乗晃)が欧米諸国に視察したときに、各国病院にてマッサージの外科応用の理論に親しく実見して帰国。部下であった長瀬時衡氏に紹介した。広島博愛病院院長であった長瀬時衡氏は、同病院に整形外科療法の一助として医療現場に採用したのが日本医療マッサージのはじめである。 |
1892年 | Sir William Osler(P 1849〜1919, アメリカ、内科医、医学教育者)の著書『医学の原理と実践 Principles and Practice of Medicine』の中で、「急性腰痛に対しては鍼灸が最も有効な治療法である」と記述している。Sir Oslerは同書の中で、Sydney Ringer(イギリスの医学者、リンゲル液の考案者)から学んだと述べている。(Sydney Ringerの弟のFrederick Ringerは、イギリス・ノーフォーク出身の貿易商で、1867年(慶応3年)上海から長崎のグラバー商会へ招かれ製茶事業の顧問となる。1868年(明治元年)に、グラバー商会番頭:ライル・ホームと共にホーム・リンガー商会を設立した。1897年(明治30年)英字新聞のナガサキ・エキスプレスを買収、自ら社長となりナガサキ・プレスと改称させ発行し、1904年(明治37年)には長崎ホテルを買収するなど、長崎における功績は絶大なもので、明治の長崎を支えた一人でもある。捕鯨業にも関わり、日本にトロール漁業を導入した人でもある。長崎の異人館の一つリンガーハットはFrederick Ringerの旧居を移築したもの。 ) |
19C 清代 | これまで盛んに研究されてきた鍼灸の廃止令:「鍼灸の一法、由来已に久し、然れども鍼を以って刺し火をもて灸とするのは、究むるところ奉君の宜しきところにあらず…永遠に停止と著す」が発せられたが、既にこの頃には大衆化していた鍼灸治療は衰えを見せる様子もなく、その後も総括や臨床に関する「鍼灸集成」(1874年)「神灸経論」(1853年)などの専門書が出され、現代鍼灸学に多大なる影響を与えた。 |
1918年 大正7年 | 玉井天碧が「指圧法」を出版するにおよび「指圧法」として体系化した。指圧は、日本において発達した独特の手技である。古代中国の導引・按矯(古法按摩)や柔道の活法を総合した経験療法として江戸時代まで民間療法として行われてきたものが、明治時代に欧米の整体療術の理論と手技を取り入れて独自の手技療法として発達した。 |
1945年 | 終戦後の一時期、米軍の占領下でGHQにより、鍼灸施術の禁止令が出されたが、石川日出鶴丸博士(P 1878/10/5〜1947/11/8, 京都帝国大学生理学教授、三重県立医学専門学校校長)が、鍼灸を科学的に説明した後実演し、禁止令が解かれた。 参考1 |
1948年 | 鍼灸師に関する法律ができ、医学の一分野として認められた。 |
1960年 | 金舒白が中国で初めて鍼麻酔を試みた。 |
1965年 | 東京において国際鍼灸学会が開かれた。 |
1970年 | 「按摩マッサージ指圧師、鍼師、灸師に関する法律」 |
1971年 | Nixon大統領が中国を訪問(1972年2月21日)する前年の夏、Henry Kissingerが極秘裏に中国を訪問していた時に訪中していたニューヨークタイムスの記者James Barrett Reston (1909/11/3〜1995/11/6, nicknamed "Scotty", Pulitzer Prizes受賞者)が現地で虫垂炎になり、周恩来の手配で手術を受けた。術後の疼痛緩和に鍼と漢方薬が用いられ、その効果に感銘を受けたRestonはその様子を記事にして本国に送った。
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1973年 | 湖南省長沙市Changsha の馬王堆 Mawangdui 三号漢墓(長沙丞相 、利創の妻の墓ーBC186年に埋葬)から、ミイラ以外に、15種類の医書が出土された。これらの医書のほとんどは絹に書かれた帛書 "Bo Shu"で、一部が竹簡と木簡である。馬王堆漢墓医書の著者は不明であり、各医書には序文も著者名も記されていないが、研究の便を考えて、各医書の内容に従って書名がつけられた。『足臂十一脈灸経』、『陰陽十一脈灸経』等、灸についての記載があり、戦国時代には灸 moxibustion はすでに用いられていて、経絡理論は鍼治療より前に、灸治療の経験から形成された可能性が示唆された。 |
1973年 4月 | Sven Andersson(P 1927〜2007, Göteborgの教授)のグループが西洋医学会で初めて鍼鎮痛の効果の定量的研究の論文を出した。四白 sibaiへの鍼刺激で徐々に歯痛に対する閾値を上昇させ、鍼刺激停止後も効果が残存した。上顎と下顎では効果の差はなく、鍼と銀板を用いた刺激でも効果に差が見られなかった。さらに合谷 Heguをプロカインで局所麻酔すると鍼刺激による痛覚上昇効果が消失することも示され、鍼の神経節を初めて科学的に示した。(Sven A. Andersson, Ericson T, Holmgren E, Lindqvist G 1973 Electro-acupuncture. Effect on pain threshold measured with electrical stimulation of teeth. Brain Research 63:393-396.[PubMed]) |
1974年 | David Mayerらは合谷 Hegu刺激で、歯痛を緩和でき、この作用はナロキソンで拮抗された。 |
1976年 | Bruce Pomeranz(Toronto大学神経生理学者)らは鍼鎮痛においてモルヒネ様物質の関与を発見 |
1978年 | Kumazawaらは、鍼鎮痛の機序をポリモーダル受容器を入力とするネガティブフィードバック系の賦活であるとする仮説を提唱した。 |
1997年 11月5日 | NIH の鍼に関する合意形成声明書 NIH Panel Issues Consensus Statement on Acupuncture |
BC27C | Imhotep (BC 2667〜2648, エジプトの医神)は、最初のピラミッドである階段ピラミッドを作った事で知られる建築家だが、政治家でもあり、神官でもあり、医師でもあった。Imhotep の医療場所と思われる遺跡からは、高度な治療を施された遺骨が発見されている。彼は患者の痛みを取り去ったという。 |
BC1700年頃 | 古代エジプトの古文 Edwin Smith Medical Papyrus:アメリカ人探検家エドウィン・スミスによって入手されたパピルス、ニューヨーク歴史協会所蔵、外科的記載が主で,人体の解剖に関する記載もある。古王国時代の賢者 Imhotepが著者とされる。外傷・骨折・脱臼など48の症例が取扱われ、骨折などは副木をあて、包帯で固定するなど、近代の治療法とほとんど同じ。治療の後には、湿布剤や蜂蜜を塗布する。頭蓋骨穿孔の症例も書き残されている。また頭部の右側を損傷すると左側の手足が利かなくなると記してある。しかしこの時代の多数の文書の中に脳や神経に関する記述は見られない。 |
1937年 | J Grafton Love(メイヨークリニック)らが硬膜外アプローチによる椎間板ヘルニアの髄核摘出を始めた(J Bone & Joint Surg)。 |
1950年 | James Hardy, Herber Wolff, Helen Goodellが、様々な強度の痛みに対する患者の反応に基づいて調べる鎮痛効果を比較する方法をデザインした。 |
1955年 | Henry Beecherがプラセボの効果を研究した。「The Powerful Placebo」(JAMA;159,1602,1955) |
1968年 | 1960年代に、Fordyce WEが痛みの行動的側面(疼痛行動)について明らかにしていた。行動療法(オペラント条件付け)の立場から、慢性疼痛患者の疼痛行動にも着目した。患者が執拗に痛みを訴え続けるのは、その行動により患者にとっての好ましい結果(例えば休息、補償金、家族からの介助、病院への通院などの心理学で「強化子」とよばれる諸要因)が得られるためだと考え、疼痛行動を無視した上で、身体活動量を漸増していくプログラムを編み出した。患者は自覚的な痛みの程度はどうであれ、可及的に医療から自立していく(=疼痛行動の減少)ことが期待される。 |
1975年 | 痛み強度に関する初めての測定法として、The McGill Pain Questionnaire[PubMed]*が発表された。 |
Pain Relief |